[別の本。武者小路実篤の名などが見える]
久山康が昔、朝日新聞に記事を連載していたのを読んだ時、明治・大正時代の文学者とキリスト教について取り上げていて、大変興味を覚えたのを記憶している。以下、(1)と同様に引用させていただきたいと思う。
文学に対するキリスト教の影響 p. 146
亀井勝一郎 (明治40年生。東大文学部美学科中退、元日本浪漫派同人):
国木田独歩、島崎藤村、北村透谷はみな洗礼を受けています。ごく若い時なのですが、・・ほんとうに思想的な対決があって洗礼を受けたのではない。軽薄な面があったと思います。当時の流行とか、たまたま明治学院におったとか、そういう外的な理由があったと思う。けれどもその中で初めてヨーロッパ精神の核心に触れようとしたということはありますね。学問的にもむろん不完全きわまるものですが、青年固有の感情の動き、その精神革命の過程とみると意味深いと思います。
・・ここ(「信仰」の問題)で当然、宗教と文学という一大テーマが発生する筈です。その矛盾、そこでの対決が激しく起こって然るべきですが、それが殆ど見あたらないのです。伝統の欠如ということも大きな理由でしょうが、思想的対決力の貧困という一大空白が明治文学から今日まで続いています。何となく入信したり、離反したり、そういう推移はありますが、対決や矛盾の苦しみが作品化された例はないのです。
ただこの点で興味深いのは正宗白鳥です。白鳥もキリスト教の洗礼をうけた明治の文学者のひとりで、内村鑑三に心酔した時期があったのですが、この二人のあいだの対立感といったものが今日も白鳥にある。それを私は注目したいのです。p. 149
藤村における植村正久訳「新撰讃美歌」の恋愛詩への変移
亀井:
・・讃美歌は見事に恋愛詩に変えられています。この一篇は、賛美歌の換骨奪胎であることは明白です。しかしこの意識的な改変は、・・青年藤村の或る時期における精神史の一齣として興味深く思ったわけです。「いのり」は「ゆめ」となり、「かみ」は「きみ」となり、「めぐみ」は「こひ」となっています。この一篇は藤村の胸に湧き出た小さなしかし悲しい「ルネッサンス」であったといってよいでしょう。・・恋を「罪」として歌いつつ、表現は淡いが一種の背信がここに宿っています。神に身をまかすという帰依の情は、「なつかしき君とてをたずさへ」と変わって、キリスト教からみれば冒涜ともいえる異教美への陶酔がうかがわれます。これが藤村のこころみた第一の破戒だったのです。・・・p.153
藤村は後に「桜の実の熟する時」の中でこんな言葉を述べています。「お前はクリスチャンか、とある人に聞かれたら、捨吉は最早以前に浅見先生の教会で洗礼を受けた時分の自分だと答へられなかった・・では、お前は神を信じないか、とまたある人に聞かれたら自分は幼稚ながらも神を求めて居るものの一人だと答へたかった。あやまって自分は洗礼を受けた、もし真実に洗礼を受けるなら是からだと答へたかった。」・・バイロンの詩が奈何して斯う自分の心を魅するのだらう。あの魅力は何だらう。仮令彼の操行は牧師達の顔を渋めるほど汚れたものであるにせよ、あの芸術が美しくないと奈何して言えへよう。」藤村が青年時代に心に戦った宗教と芸術のささやかな相剋は、この小説の中の言葉にも明らかに見られると思います。p.154
告白文学の例
亀井: 北村透谷の論文の主要なものは全部告白といっていいと思います。それから藤村はむろん、自然主義作家の制作動機も告白であり、その後に告白の頂点ともいうべき文学としては武者小路実篤があげられると思います。しかし全体を通して宗教的意味は希薄であり、むしろ宗教の一歩手前といっていいと思いますし、告白内容も次第に狭い心境性を帯びてきました。p.155
[感想] 文学者や評論家の水準には程遠いけれども、この歳になって読むと昔よりずっとうなづきながら読めた気がする。著名な文学者が幾人もキリスト教に入信したけれども、その動機も理解度も実際どうであったかが説明されていて興味深く読むことができた。
「思想的対決力の貧困という一大空白が明治文学から今日まで続いています。何となく入信したり、離反したり、そういう推移はあります。」「対決」というような真剣な改宗は希少であり、「何となく入信したり、離反したり」という表現が耳に痛いlds教会の横顔ではないだろうか。
「宗教と文学という一大テーマ」を前にして、「対決や矛盾の苦しみが作品化された例はないのです。」これは遠藤周作を待つまではということになるでしょうか。
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日本の文学者が改宗するに際して、葛藤がさほどなかったのは、文学の道を志したとたんに、大概親から失望されて、勘当もしくはそれに近い扱いにされてしまう傾向があったので、キリスト教に触れて改めて
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:26、27)
などと言われても、彼らには捨てるしがらみが殆ど残っていなかったという事情と関係しているのでしょう。
>遠藤周作を待つまではということになるでしょうか。
おそらくはそうでしょうけれども、内村鑑三の無教会主義の出現もはずせないと思われます。
内村鑑三は教派間の争いや組織の弊害、不寛容に失望して無教会(いろいろなキリスト教というものは、正当主義一つとか、そういういろんな考え方に対しても疑問をもって、真理はいろいろあって、自分たちがわかる真理というのは、そのうちのほんの一端にしかすぎないという、そういう異端の思想)を提唱したそうです。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-610.htm
少年ジョセフスミスと出発地点は似たようなものっだったのかもしれません。
森鴎外 麦飯 https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96%20%E9%BA%A6%E9%A3%AF
螺鈿 漆器 メイソン https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E8%9E%BA%E9%88%BF%20%E6%BC%86%E5%99%A8%20%20%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3
白樺派 http://hogetest.exblog.jp/3981899/
明治期の文人たちも、何らかの、あるんですかねぇぇ??
仏留学あったりの島崎藤村とフルベッキの接点?
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_furubekkico.htm