梅木よしてる徒然日記

人生60歳代からが黄金の時代だとか、我が家は黄金の人生??悪戦苦闘の人生ですが、黄金の人生を目指しています。

家庭の絆を守る!

2012-10-03 22:24:16 | Weblog
子どものいない夫婦の相続、ご主人を亡くされ相続財産を登記したいとのこと。
相続人は、私だけですのでよろしくとのこと。

勘違い!!

戸籍を収集してみると、両親が亡くなっており兄弟が相続人になり、その兄弟の一人が亡くなって代襲相続が発生し10人以上の相続権者が・・・・。

日ごろ親戚付き合いをされていると割合簡単に遺産分割協議書等などに印鑑いただけますが、顔も見た事のない、会った事もない親族から印鑑を頂くのは、時間がかかります。

ご夫婦だけで、子どものいない方、私に何かあれば妻が、夫が簡単に相続できると勘違いされている方が多いようです。

夫婦で築いた財産を、長年苦労をともにした妻に、夫にと思われる方は是非遺言書を作成しておきましょう。

公正証書で作成しておく事が確かですが、費用を心配される方は自筆遺言書でも作成しておかれることおすすめします。

誰でも、ある程度の年になると、後顧の憂いなきように遺言書を書いておかれること「家庭の絆を守る」意味からも大事な事ではないでしょうか。




能力開発!!

2012-10-03 22:16:21 | Weblog

S氏の能力開発メルマガより

「人生とは重き荷物を背負って坂道を登るようなもの。
忙ぐべからず」との言葉を残したのは、徳川家康です。

  徳川家康は、幼くして母と生き別れになり、6歳からは
人質として過ごし、成長して武将になってからも、織田信長の
命令で、最愛の妻と長男を自害に追いやられ・・・・

 信長亡き後も、豊臣秀吉の屈辱的な家臣になり、当時、
辺ぴな関東に国替えを強いられ、59歳の時の天下分け目の
関が原の戦いで勝利して、3年後の62歳で、やっと念願の
征夷大将軍になれたのです。

 関が原の戦いの時に、僧侶の天海が参謀としてついており、
このころから彼の人生は好転しているのです。

 人生50年の時代に、平均寿命をはるかにオーバーした
晩年に天下をとっても・・・、という感はありますが、
現代の年齢だと、80歳になって天下が取れた?という
感じでしょうか。

 
 天海が歴史の表舞台に登場するのは1588年、無量寿寺
北院(現在の埼玉県川越市にある喜多院)に赴いたとされ、
翌1589年には徳川家康と会い、天台密教の教えを説いた
といわれています。

 1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際には、浅草寺の
住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとされています。

 その後は家康の厚い信頼を受け、1591年には江戸崎
不動院の住職、1599年には北院の住職となっています。

 1600年の関ヶ原の戦いにおいては、天海は家康の傍に
あり、参謀としての役割を果たしたといわれています。

 その後、天海は江戸幕府成立の枢機、江戸の街割りの
決定などに深く関わり「黒衣の将軍」と呼ばれるように
なります。

 1607年には比叡山延暦寺を再興し、1613年には家康より
日光山貫主を拝命し、本坊の光明院を再興しています。

  1616年に家康が亡くなると天海は金地院崇伝・本多正純
などを抑え葬儀を取り仕切り、家康を「東照大権現」として
祭祀しています。

 その後は二代将軍徳川秀忠・三代将軍徳川家光に仕え、
1643年に108歳でその生涯を終えています。


 ちなみに、織田信長も、豊臣秀吉も、僧侶を参謀につけては
おりません。政権が短期間なのは、現代の内閣総理大臣と同じ
ですね。

 徳川家康が僧侶である天海を参謀につけたことは、もう一人の
「本来の自分」の無限のパワーを引き出す方法を教えられた
ことになりますから、それまでの人生とは180度違って思い通りの
人生になっているのです。

  幼い頃から、苦労の多い人生だったけれども、それでも
徳川家康は、60歳を過ぎて征夷大将軍になり、天下の統一が
できたのですから、稀に見る大成功者となり歴史に名を残している
のです。

 彼の場合は、最愛の正妻や長男が、不本意ながらも信長の
命令で殺されたという、想像以上の過酷で苦しみの多い人生で
したが、長年の苦労が報われて、念願が成就したのです。

 つまり、彼の場合は、重き荷物を背負って坂道を登った先に
輝かしい未来があったのです。

 けれども、大多数の人は、重き荷物を背負って坂道を登るだ
けで、その先は何も約束されてはいないのです。

 もしも、家康が天下分け目の「関が原の戦い」で、負けていれば、
西軍の大将であった、石田三成が天下人になっていたのですから
苦労が報われなかった人生ということになったのです。

 
 このような報われないのに、苦労ばかりで、その荷がとても大きく
重くなることも、同時にいくつもの荷を背負わなくてはならないことも
あります。

 悲しみや苦しみが幾つも重なり、思うにまかせぬ状態と苦悩の
連続で、苦労が報われずに死んでしまう人がほとんどなのです。

 なぜ、ほとんどの人の人生に苦労が多くて、報われずに死んで
いくのか? 疑問を持ってくださいね。

  長い人生ですから、良い時も、輝いていた時もあると思います。
けれども、その良い時は長くは続かないのが人生なのです。

 特に現代社会では、重荷が幾つも重なり、生きては行かれなくなる
ほど深刻になり、精神的な病気になったり、自殺したりと、社会現象
にもなっています。

 もしも、この重荷を軽くしてくれて、しかも、その重荷がたくさん
あるのなら協力者が出現して、自分の代わりに背負ってくれる!
となったらどうでしょうか?

 さらに、その協力者は神がかり的な力があって、登る坂道では
なく、平坦な道か、下る坂道にしてくれたら、さらに、さらに、
坂道のその先には、自分が長年望んでいる輝かしい未来で
あることが約束されていたら・・・・

 松下幸之助氏の参謀は、真言密教の高僧でした。松下さんは、
最愛の長男が生まれて、半年あまりの時に病気で亡くし、絶望の
果てに高野山に登り、高僧の加藤大観氏に相談されているのです。

 それ以来、松下幸之助氏は加藤大観氏を、会社に住まいを
建設してまで、相談役として招いているのです。

 加藤大観氏は20年間も、松下産業の相談役になっております。

 松下幸之助氏も、参謀として加藤大観氏が相談役になった
頃から、事業が大きくなり、世界的に有名な企業になっておりま
すから、「本来の自分」の協力者が出現して、有り得ない奇跡が
起っているのです。


 徳川家康も、松下幸之助氏も、歴史上の人物というか、名を
残した人物には、軍帥や名参謀がついていて、その人の
「本来の自分」のパワーを引き出す方法を教えているのです。

 徳川家康も、松下幸之助氏も、これだけ苦しんだのだから、
「本来の自分」が、それぞれ、天海や加藤大観氏を、引き合わせ
たのでしょう。

 「本来の自分」の仕事は、第一段階では、悲劇的な苦悩を
全力で与えることですから、それで、役目は十分果たしているの
ですが、彼らは自分達の境遇に疑問を感じ、どうしてこうなるのか?
と、神様に嘆願したのかも知れません。


 特に、僧侶は、各自の眠っている「仏性」を引き出すことが
最大の課題なのですから、当然の如く、その人の「本来の自分」の
無限のパワーを引き出すのです。

 田中角栄氏にも一時期までは、新潟県の西山町(現柏崎市)
在住のお坊さんが、相談役についていました。田舎の土建屋さんの
親父が、奇跡の快進撃を起こして内閣総理大臣になっているの
ですから、有り得ないことです。

 私達は、「本来の自分」に戻り、無限のパワーを引き出し、
無限の叡智と、無尽蔵の富の恩恵を授かるために、この世に
生まれてきているのです。

不協和音? 日本維新の会

2012-10-03 12:04:12 | Weblog

みんなの党を離党され、日本維新の会に入党された桜内文城参議院議員、愛媛県第4選挙区で立候補が噂されていますが、影響が出そうですね。


橋下氏に国会議員不満・反発…維新、主導権争い
2012年10月3日(水)08:02 YOMIURI ONLINE

新党「日本維新の会」で、代表の橋下徹大阪市長と、所属国会議員団の間で主導権争いが表面化した。

 次期衆院選に立候補せず、大阪を拠点に活動するとした橋下氏が外交など国政の重要課題に関する方針決定を担うとしたことに対し、国会議員側が反発したためだ。

 これに対し、橋下氏は一歩も引かない姿勢を崩さず、今後の火種になりそうだ。

 対立のきっかけは、橋下氏が、島根県・竹島や沖縄県・尖閣諸島について、国際司法裁判所(ICJ)に訴えて周辺国と共同管理するルールを設けるべきだとの考えを示したことだ。国会議員団は、領土問題が存在しない尖閣諸島と領有権問題のある竹島を同列に論じた橋下氏の共同管理案を「受け入れられない」と不満を抱いた。

 国会議員団の松浪健太衆院議員は9月29日、「橋下独裁にはしない」と題したブログで、「日本維新の会は分権の党だ。よほどのことがない限り、国政における決定は議員団ですべきことを橋下代表も認めた」と批判した。

 国会議員団には「自分たちが集まらなかったら、維新の会が国会議員5人以上という政党要件を満たせなかった」との思いがあり、強気の要因となっている。谷畑孝、今井雅人両衆院議員の入党が2日までに了承されたことで、国会議員団は9人に増える。

 だが、松浪氏らの主張に橋下氏は猛反発した。1日、大阪市役所で記者団に、「大きな方針、戦略は僕がきちんと出すべきだ。国会議員団の大きな方針や戦略で有権者がついてくるのであれば、自らの戦略でやればいい」と突き放した。