
先日、筆触法(第5週)の記事にとても貴重なコメントを頂きました。
Unknownさんからのものです。
筆触法の考え方は要点だけまとめて書きますと、デッサンの対象を目で見るということ(外側)だけで描くのではなく、その対象の形を体感し心で感じ取るもの(内側)を自動的に描いて行くというものでした。
この方法をUnknownさんは中動態だと指摘してくれたのでした。
私はこの中動態という言葉を知りませんでした。
ネットで調べてようやく分かったことは、よく言う、能動態と受動態に対する言葉だということでした。
私はかねてより、能動的、受動的な態度にある表面的な浮薄さを感じておりまして、それを克服するための、瞑想であり、宇宙との一体感など、己の内面をいかにして豊かにするかの追及を進めてまいりました。
そしてデッサンにおいては、筆触法が、受動的能動的絵画から解放される心のデッサンとして有用だと思えるに至ったのです。
その筆触法が中動態というのは、まさにいい得て妙だということが分かったのです。
そもそも人は考える葦と言われるように、自分や社会を自分の思考で描き出しています。そしてそれ以外に世界を知る方法はないのですが、この思考そのものに文法があったという訳です。
考える筋道方法として、分かりやすく言えば思考には文法が存在した。
その文法の一つが、能動態・受動態だということを知った驚きと喜びはまるで、二十歳の青年に帰ったような感覚でした。
私は、知らぬうちに身に着けた思考の文法、能動態・受動態の中にいて、他に別の、正反対のような思考の文法があることにまったく気付くことがなかったのです。
それが中動態という文法だったのです。
私はUnknownさんに次のようなお返事を書きました。
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能動態と受動態による私たちの認識は表面的で、己を知らないまま突っ走っていく浅はかさを感じています。
筆触法は、受動態のように、ただ形を目でつかむのではなく、その真実(対象)を己の全心身と関係を持つことで、己自身をその対象と共に描き出すということですし、
他方能動態のように、自分の意志を完遂させるために描くというのではありません。
己という存在をよくは知りませんが、その思考がつくる目標に従うだけの絵は、浮薄であり、何度も私自身が失敗した実践を持っています。
筆触法は、能動態のようにつくり出した目標で動くのではなく、ものと自分と宇宙(光と闇)の関係からおのずと生まれてくる意志に従う描写法なのです。
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分かって頂けるでしょうか。
私は従来の能動態・受動態の文法を使って、様々に遠回りをしながら内面を描く大切さを考えてきました。
しかし実は、中動態という文法を使って思考すれば、筆触法はストレートに表現できる。というより、中動態の思考そのものだったということが驚きと共に理解出来たのです。
偶然かどうか、今日私は医者に抜くしかないと言われた奥歯をなんとかもう少しもたせたいと食い下がって、治療してもらう予定日でした。
子供時代から歯科は大の苦手で、触られるたびに身を固くする弱虫ですのに、あろうことか今日の治療は無理を言っての施術でしたので、今まで経験したことのない長時間に及び、歯の内側をほとんどくりぬくことになりました。しかもさるぐつわのような固定具を噛まされ、口の中はパリパリに乾燥するありさま。
この時私には願ってもない実践のチャンスに気付きました。
つまり、思考を中動態に切り替えたのです。
するとこういうことが起こりました。
能動態・受動態の思考では、痛みを待ち構え、耐えることに力を注ぐ自分でしたが、
中動態に切り替えると、私は今ある痛みの中にいるのでした。医者に身をまかせ、治療の内側に心の目を向けました。すると私は昼寝でもしているような気分になったのです。
苦悩から逃げずに受け入れる。
そう私は何度も自分に言い聞かせてきましたが、中動態の思考に切り替えると、それは思考ではなく実践そのものとなるのです・
驚くことにそれは提唱するナウイズムそのものでもあったのです。
能動態・受動態の思考が自我の思考を生み出す文法だと考えれば
中動態は、宇宙思考を生み出す文法だと言えるのです。
ものの本によれば、中動態は古代ギリシャ時代には当然のごとくあった思考文法でしたたが、近代、自我の発達によって能動態・受動態にとってかわられ、現在はほとんど消えてしまっているそうです。(書評を読んだだけですが、うなずける説明です)
私たちはただ忘れただけであって、思い出せば己の天才と共に梵我一如となれるのかもしれません。
中動態、この思考文法を私なりに考えてみたいと思います。
此岸(しがん)から彼岸(ひがん)に飛翔する思考の可能性があるように思えてなりません。
能動と受動の対:外…正と負の中の0:またはさらに上の次元…そう感じました。確かにどっちが正解か間違いか…それに囚われていては見えてこない答えもありますね(最近の仕事で勝手に痛感しました。)
筆触法…まだ読みつつも、想いを重ねつつも…まだ筆を取るにいたらず※実はコップを書いたら…左側が高くなるという事故が笑
なかなか…まだ…練習するまでもいかず…。ただこの記事、この講義、この出会い…活かしたい…故に
これからも…見ていきたい…そう想っています。
故にこの場で改めてコメントを
「良い記事との出会いに…感謝を」
追伸 ちょいと実生活の方でドタバタし…軸のぶてつつなコメント申し訳ありません。ただ…興味と感謝を形にしたく…。
正解、不正解があるのは、思考上の問題であって、宇宙の摂理を視野に入れますと、それは「有る」という答えしか出てきませんね。
分かっていても、そこに思考の文法があると考えるのは目からウロコでした。
筆触法、読んで下さりありがとうございます。
実際に鉛筆を持って描かなくても、心が動けばそれは筆触法につながりますから、おのずと時機が来ればご自分のデッサンンと出逢う日が来ると思いますよ。
もうしばらくで、左肩上がりのコップだって「事故」ではないという境地にお誘いします^ね^
こんにちは!
中動態という言葉は
私も知りませんでした。
けれどもあってしかるべし言語
思考が無限大に広がる素晴らしい言語です^ね^
色即是空空即是色の
有ると同時に無く無いと同時に有る
有るか無きかのかけがえのない
一瞬無限大の同時性も中動態ではないでしょうか
古代ギリシャでは当然のごとくあった思考文法だそうですが、
まさに温故知新☆
シュメール文明から始まり、メソポタミア文明
古代オリエントの影響を享受している古代ギリシャ、納得です。
先日、洞窟壁画観賞時の感動を
お話させていただきましたが、
太古人類、古代人類は、
現代人類のように三次元意識三次元感覚にとらわれることなく、
自然と一体宇宙と一体の宇宙自然体
多次元感覚で暮らしておられたように感じています。
ところで古代ギリシャの竜といいましたら、
ご存知のように☆ウロボロス竜☆
古代ギリシャ語で「尾を飲み込む蛇」という意味♪
蛇が脱皮して成長、飢餓にも強い生命力など、
日本の神社でも災厄を祓う神事としまして、
『茅の輪くぐり』が行われますが、
わたしはこの『茅の輪くぐり』の由来は、
☆ウロボロス竜☆だと感じています。
いずれにしましても、
ウロボロス竜は
「宇宙頭の竜が素粒子の尾を飲む」
「宇宙頭の竜が素粒子を呼吸している」
無限の輪、円相と解釈していますが、
まさに円相となり瞑想している竜ですね。
のしてんてん龍もこのように瞑想なさるのでしょうか♪
きっと龍の活動動作も無限大
私たちの想像をはるかに超えているでしょう。
またまたお喋りごめんなさい(^.^)(-.-)(__)
いつものしてんてん心力をありがとうございます!
午後からも素敵な時をお過ごしくたさいませ☆
感謝感激♪
まかこ 拝
中動態という考え方は、私たちが受動態・能動態による思考から描いていた宇宙・自我一体という思いを、
そのまま土台にする思考という気がします。
A=c=d=e=B というように考えていたものが、
A=Bでいいと言われたようなものですね。
無次元を受け入れたらそれでいいのだと思います。
ただ、受動態・能動態で動く思考を否定するわけにはいきませんから、中動態の見せてくれる視界を発信し続けるしかないのでしょうね。
ウロボロス竜のように、自己撞着を永遠に変える力が思考にはあると信じたいです。
どうぞよい一日をお過ごしくださ^い^