(②からのつづき)
§ 流れる時間・積み重なる時間 §
戦場で行方知れずとなったサクは、青龍領の離島群の一つにいた。白虎軍の魔導兵器による強大な風魔法で竜巻に巻き込まれて姿を消し、ミチルとスバル隊の活躍により戦争が終結したことも、仲間たちが生死不明となったサクを懸命に捜索していたことも知らず、身元不明の患者として診療所の寝台の上で、昏睡状態のまま5年間眠り続けていた。海上を漂流していたのか、その島の海岸に流れ着いたところを島民に救助され、診療所へ担ぎ込まれたが、戦場で負った傷は命に係わるほどではなく、朱雀の民の驚異的な回復力も手伝って既に完治していたが、昏睡状態に陥った原因が不明で、治療の方法もわからず、戦争の影響で大陸の医者も不足しており、離島の診療所への応援など望めない状態のまま、薬師を兼ねた島の魔術師が手探りで治療を続けていた。ただ目を覚まさないだけで、静かに眠っているような状態が続き、それ以外には異状のないまま時間だけが過ぎて行った。
(知らない天井だ…。ここは何処だ?オレ、どうなったんだ?)
うっすらと目を開けたサクはぼんやりとした意識の中でそう思った。どんよりと濁ったまだはっきりしない意識の中で、視線を動かしてみると、ぼやけてはいるが周囲の様子も見ることができた。それは今までに見た覚えのない場所だった。
「目が覚めたかい?」
声の主は老女だった。
「あんた戦争に行ってたんだろ。朱雀の民なのに、白虎の魔導武器ではなく、青龍の魔法刀を持っていて、気を失っていても魔法刀だけはしっかりと握りしめたままで海岸に打ち上げられていたのを、漁師が見つけてここに担ぎ込んだんだ。それからずっと眠り続けていたのは、やはりその碧眼の所為だったのかもしれないね。」
「オレ、どれくらい眠ってた?戦争は、どうなった?」
サクはまだくらくらする頭を持ち上げて上半身を起こした。
「あんたは5年間眠ってたんだよ。戦争はとっくに終わった。あんたが流されて来た後すぐにね。西の国境での激戦に青龍の国が勝ったんだよ。」
「オレ、帰らなくちゃ…。」
老女の言葉を聞いて、サクは呟くように言った。
「何処へ帰るか知らないが、いくらあんたが碧眼持ちの朱雀の民でもすぐに動くのは無理だろう。まずは滋養のあるものを食べて栄養を補って、回復訓練で体を鍛えないと、四肢が枯れ枝のように細くなって力も衰えているのがわからんか。旅ができるほどに回復するまでは、この島からは出られんよ。」
サクは『島』という言葉に反応した。
「オレ、ツキ島に行く。オレに魔法刀をくれたのが、ツキ島の魔術師・マユなんだ。」
「ツキ島なら、この島のすぐ隣島だが…。」
偶然にもサクが居たのはツキ島に近い離島の一つだった。サクは数日間回復訓練を行ったが、またしても朱雀の民の驚異的な回復力で、常人ではありえない程早く日常生活に戻れるほどに回復した。
「ツキ島に戻るなら、朝早く島の港に行けば漁船が出る。漁師に頼んで船に乗せてもらうと良い。」
「本当か?ありがとう。明日行ってみるよ。」
「無理するんじゃないよ。マユによろしくな。」
老女から教えてもらった通り、早朝に港に居た若い漁師に頼んで、漁のついでにツキ島へ送ってもらえることになったサクは、期待と不安を胸に船に乗り込んだ。ツキ島へ到着し、記憶を辿りマユの家を目指したが、そこにマユの姿はなかった。
「あなた、ミチルと一緒に大陸へ渡った…。」
マユの母が驚いた顔で迎えた。
「あの、マユは?」
ミチルのことが訊きたかったが、何故かそれを口にすることは出来なかった。
「マユは戦争の後に結婚して、子供も生まれたの。今は別の家に住んでいるわ。」
マユの母はそう言って、現在マユが暮らしている家を教えてくれたが、ミチルのことは口にしなかった。サクは、もしや自分が行方不明になった後、ミチルが死んでしまったのではないかと思うと怖くて自分からは訊けなかった。
「ありがとうございました。」
サクはマユの母にそう言うと、教えられたマユの家を目指した。その家に近づくと子供の泣き声が聞こえ、家の外で幼い女児を抱いてあやしているマユの姿があった。華奢だった体は少し肉付きが良くなり、鋭かった眼つきは優しい母の眼になっていた。
「マユ…。」
恐る恐る声を掛けたサクを見て、マユは少し驚いた顔をした。朱雀の民は不老長命の特異体質を持っていると知ってはいたが、サクは5年前に出会った時のまま、少しも変わっていなかった。
「サク…なのね?」
そう言うとマユはかつてのような凛とした表情に戻り、
「入って。話は家の中で聴くわ。」
とサクを誘った。マユの娘は見たことのない姿のサクに驚いたのか、泣き止んで顔を強張らせていた。
「ナギ、ごめん、この子のお守、ちょっと交代してくれない?」
「あ、ああ。」
マユが家の中に居た夫に娘を委ねると、夫は状況を察したのか、黙って娘を抱いたまま外へ出て行った。サクはマユの夫には見覚えがあった。マユの夫は、レンとマユの幼馴染・ナギに違いなかった。5年前、短い間だったがツキ島に滞在している時にナギに会ったことをサクは漠然と覚えていた。ナギはかつてレンと一緒に自警団に入ったレンの親友で、三人は子供の頃からずっと仲が良かったと聞いていた。ただ、今のナギは左眼に眼帯をし、左腕に義手、左脚には義足が装着されていた。悪意なくナギを見つめていたサクの視線を感じ取ってマユが言った。
「ナギのこと、覚えてるでしょう。戦争末期にこのツキ島始め、離島群にも白虎軍の飛空艇がやって来て、魔導爆弾を投下したのよ。その時にナギはあたしを守って負傷した。命は助かったけど、ここでは高度な治療なんて出来る訳もなく、彼は左眼と左の手足を失った。あたしにできることは、回復治癒魔法で傷を治して痛みを取ることと、装具を作ってあげることくらいしかなかったわ。」
「でも、マユはレンの婚約者だったんだろ?マユはもう、レンのこと、忘れてしまったのかよ?」
サクは、マユがレンの親友だったナギを夫に選んだことに違和感を拭い去れなかった。死んでしまったレンのことを思い続けたままずっと一生一人で居ろというつもりはないけれど、マユがあれほど愛してやまなかったレンを忘れてしまったように思えてしまい、何だかレンが不憫な気がして、割り切れない思いだった。
「レンのことを忘れたことは一日だってなかったわよ。まるで自分の半身をもぎ取られたように辛くて苦しくて悲しくて、どうにも遣り切れなかった。でもね、戦争が激しくなって、ミチルとキミが大陸へ渡った後、離島群にまで白虎軍の攻撃が及んで、皆が自分が生きることに必死だったり、島を守ることに命を懸けているのに、もうそんなことは言ってられなかった。魔導爆弾が降り注ぎ、魔力が尽きかけて防御魔法も解除されて、『ああ、あたしはもう死ぬんだな』って思ったわ。『龍脈でまたレンに会えるならそれでも良いかもしれない』って。でもその時にナギは身を挺してあたしを守ってくれて、あたしの代わりに瀕死の重傷を負ったのよ。ナギは自分が死ぬかもしれないと覚悟した時に、『もし俺の命が助かったら、俺の嫁さんになってくれないか』ってあたしにプロポーズしたのよ。『こんな時に何言ってるの!』って叱ったら、『こんな時じゃないと言えないじゃないか』って笑ってた。あたしはその意気に感じて結婚を決めた。別に贖罪でも同情や憐憫でもないのよ。ナギは昔からいつも陰になり日向になりあたしを支えて来てくれた。レンと三人でいた時だってずっと。あたしがレンと婚約した時もナギは誰よりも応援してくれてた。レンが亡くなって、あたしがレンのことを忘れられないでいても、ナギはずっとあたしを支えてくれて、あたしのレンへの思いごと包み込んで愛してくれた。レンに対する気持ちとは違うけど、あたしはナギを愛しているわ。」
サクはマユの話を聴きながら、心の片隅でミチルのことを考えていた。幾ら深く強く愛していても、愛する人の傍に居られなければ、忘れられ、いつか愛情は冷めてしまうのだろうか。生死不明のサクのことを、もうミチルはすっかり忘れていて、既に他の誰かを好きになったりしてはいないだろうか。
「そんなことより、キミは何処で何してたの?戦場から行方不明になったって聞いたわ。」
マユは場の雰囲気を切り替えるようにサクに尋ねた。
「白虎の魔導兵器の魔法で、竜巻に巻き込まれて遠くへ飛ばされて、海で漂流してたらしくて、そこの記憶は全然ないんだけどさ、隣島に打ち上げられて、そのまま5年間ずっと眠ってたって、魔術師のばあちゃんが言ってた。最近突然目が覚めて、ツキ島へ帰りたいって、漁師の兄ちゃんに頼んで船に乗せてもらった。」
マユに訊かれても、サクにはそれ以上何も知らないし、わからなかった。
「ミチルは?ミチルは戻って来てないの?」
サクは勇気を振り絞ってマユに尋ねた。マユは少し沈黙して、意を決したように答えた。
「ミチルは今、首都ミヤツコの守羅院に居るわ。戦争が終わって、イザヨイ様や元スバル隊の仲間と一緒に復興の手伝いをするって言ったまま、ツキ島には戻って来なかった。ミチルは今『巫』になっているから、もう滅多にここへは帰って来られないの。」
「『巫』って何?」
サクはミチルが生きていて、守羅院に居ると聞いて安堵したが、聞き慣れない言葉に戸惑いを隠せなかった。
「この青龍の国を統べる者。戦争が終わって、朱雀の国は独立したし、魔導兵器開発や朱雀の民に対する非人道的な研究実験を抑止するため、青龍の国は白虎の国を監視する立場にもなった。今や青龍の国はこの世界の指導的立場にあるのよ。その青龍の国を象徴するのが『巫』。かつての救国の英雄・青龍の救世主夫婦の娘として、青龍の民の信頼と期待を担う者として、ミチルは選ばれた。もう手の届かない雲の上の人になったようなものだわ。5年前の、あの頃のあなたたち二人の気持ちはあたしにもわかっていたけど、ミチルにはもう会わない方がキミのためよ。今のミチルはあの頃とは違うから、きっと会えば後悔する。」
マユの言葉はサクには俄かに受け入れられないものだった。ミチルの両親の話は聞いていたし、ミチルと一緒に旅をしている間も、あちこちの集落でミチルに手を合わせて拝み、有難がる老人を何度も見た。ミチルの両親が青龍の民にとって神にも等しいような存在であるとしても、まだ若いミチルが国を、世界を統べる立場にある等と、サクにはどうしても想像がつかなかった。
「マユ、オレ、ミチルに会いに行く。ミチルが無事だったのはすごく嬉しいし、元気なミチルの姿が見たい。ミチルがオレのこと忘れてしまってたら、って思ったら、ちょっと怖いけど、オレが生きてることも知って欲しい。どうしてもミチルに会わなきゃ、オレ、これからどうしたら良いか、何も考えられない。」
険しい顔つきのまま視線を落としじっと考えていたマユは、意を決したように顔を上げてサクを見つめた。
「そう、そうかも知れないわね。実際に自分の眼で見なきゃ、納得できないわよね。例えどんな結果になったとしても、人生にはそこを乗り越えないと先に進めないって時があるもの。なら、行ってらっしゃい。キミが失ってしまった、あたしたちと出会う以前の記憶を取り戻すには、そこから解きほぐさなければいけないのかもしれないわ。気持ちに区切りがついたら、朱雀の国に戻るのも良いかもしれない。でも、覚えておいて。ここツキ島は、キミの第二の故郷よ。いつでも戻ってらっしゃい。」
サクの決意を、マユは受け入れて背中を押してくれた。姉御肌のマユは、レンの愛刀を託したサクを、身内同様に思ってくれているようで、サクの大陸行きも、その後の自分探しも、応援してくれているのだとサクは嬉しかった。
「明朝の連絡船に乗るのなら、今日はうちに泊まんなさい。夫は鷹揚な人だから、文句は言わないわ。ちょっと子供が煩いかも知れないけど、我慢してね。」
母になり、少し雰囲気が優しくなったマユは親切に申し出てくれた。マユの言う通り、夫は寡黙で余計なことは一切言わず、サクを受け入れてくれた。最初は怯えていた様子のマユの娘も、陽気なサクに警戒心が薄れたのか、次第に慣れて、声を上げて笑ったり、ちょこんとサクの膝に座っていたりさえした。
翌朝の連絡船に乗り、サクは大陸を目指した。首都ミヤツコまでは、前回ミチルと共に旅した記憶をなぞるように進んで行った。戦争が終わったおかげで、前回のように頻繁にナマナリに襲われることもなく、穏やかな旅路だった。それでも護身用に漣は肌身離さず携えていた。最早それは単なる武器ではなく、マユやミチルとの絆の象徴のようにさえ思われた。自分でさえ何者かもわからないサクに漣を託してくれたマユと、そんな自分と共に戦ってくれたミチルと、漣がなければその縁が途絶えてしまうようで恐ろしかったから、きっとサクは意識不明となっても漣だけは手放さなかったのだろう。
首都ミヤツコは5年の間にすっかり変わっていた。壊れた建物は美しく再建され、街にはたくさんの人が行き交い活気に溢れていた。広い道路に面した商店街には数々の店が並び、どこも賑わっていた。すれ違う人々も皆笑顔で、楽しそうに買い物や散策を楽しんでいる。サクはミチルが居るという守羅院を目指した。
守羅院の門前に到着すると、警備員が二人立っていた。
「あのう、ミチル…さんに、会いたいんですけど。」
サクは何と言って彼らに来訪の用件を伝えたら良いのか迷ったが、結局思いついたままを素直に言葉にした。
「は?失礼ですがお約束はおありでしょうか?」
警備員は慇懃無礼に尋ねた。
「約束はしてないけど、オレ、ツキ島から来た元スバル隊のサクと言います。そう言ってもらえばわかります。」
警備員は不審そうにじろじろとサクを見たが、ミチルの出身地であるツキ島から来たことや、現在もミチルの側近の多くを占めるスバル隊の元隊員だということが事実なら、門前払いする訳にも行かないと思ったのか、
「暫くお待ちください。」
と一人が奥に消えた。その警備員からの報告は、今は巫の秘書を任されているイトのところに届けられた。
「わかりました。その者を通してください。まずはわたしが会ってみましょう。」
サクは守羅院の職員に案内されてイトと面会した。サクが本人であることを確認したイトはサクに告げた。
「お久しぶりですね。お元気な姿を見られて何よりです。ミチル様もお喜びになられるでしょう。ミチル様のご予定を管理しているのはわたしですから、あなたとお会いになれるよう、何とか調整します。すぐにお部屋を用意させますので、連絡があるまではそちらで旅の疲れを癒されては如何でしょう。身の回りのお世話をする係りの者もおつけしますので、何なりとお申し付けくださいね。」
イトの糸目はそのままだが、小柄だった彼女は少し身長が伸び、丸顔だった輪郭も少し縦に伸びて、切り揃えた前髪は伸ばして横に流し、二つに分けたおさげは下ろして肩までに短くなっていた。大人になってしまったイトに、サクは昔のような軽口を叩けそうにない雰囲気を感じて、ただ
「わかりました。」
とだけ答えた。
係りの者と言われた男女二人の使用人が、守羅院内で巫以下青龍新政府の執務に用いられている本館からは離れた、来客の宿泊・滞在用に設けられた別棟にサクを案内した。そこは宮殿の一室のように美しく、生活に必要な設備の全ては整っている様子だった。望めば食事も入浴も就寝もいつ何時でも好きな時に用意されたし、好きなだけ堪能することが出来た。本館との間は広い庭に隔てられ、手入れの行き届いた花壇があり、庭の池には噴水もあった。最初こそ無邪気な子供のようにはしゃいでいたサクだったが、厚遇されるのは有り難いとはいえ、イトからの連絡はなかなか来ず、次第に気持ちが沈んで行った。もしかしたらミチルはもう自分のことは忘れてしまったのか、覚えていたとしてももう自分のことなどどうでも良くなってしまったのか、等と悪い想像ばかりが浮かんでは消え、サクは、「もうミチルには会わない方が良い」と止めたマユに対して「どうしてもミチルに会いに行く」と決意を告げたにもかかわらず、ここへ来たことが本当に良かったのかと今になって迷い始めていた。
「失礼致します。サク様、イト様よりご連絡があり、今晩日付の変わる頃にミチル様が別棟にお越しになるとのことでございます。」
世話係の使用人が恭しくお辞儀をしてサクに報告した。
「そっか。やっとミチルが来てくれるんだな。」
サクはほっとしたように呟いた。その日は一人で豪華な夕食を食べ、入浴して身支度を整えて、ミチルの来訪の時刻が来るまで待機していた。
「失礼致します。サク様、ミチル様がお越しになりました。」
使用人がそう告げて、扉を開けると夢にまで見たミチルの姿がそこにあった。紅と翠のヘテロクロミアの瞳はそのままだが、踵の高い靴を履いて少し身長が高くなったように見えるミチルは、茶色の髪を長く伸ばして先を巻いており、元々美少女ではあったが、赤い口紅や整えた眉などの化粧のせいか更に顔立ちがきりりと美しく見えた。ミチルは後ろに控えていた警備員や職員たちを下がらせ、世話係の使用人にも「呼ぶまでは来ないで良い」と指示を与え、後ろの扉が閉められてサクと二人きりになると、駆け寄ってサクを抱き締めた。
「サク!生きてたんだね。良かった。随分探したんだよ。…おかえり。」
ミチルの声も言葉も昔のままで、その姿との落差に、サクは違和感を感じた。ただ、ミチルの体の温もりが伝わってやっと、ミチルが生きていて今自分の前に居ることを実感した。
「ただいま…。ごめん、心配かけたな。オレ、5年間眠ってたみたいで。ツキ島に戻って、マユと会って、ミチルに会いたいって言ったんだ。そしたらここに居るって聞いて。」
「そうなんだ。でも、生きてて、また会えて良かった。」
ミチルはサクの体に回した腕に更にぎゅっと力を込めた。
「もう何処にも行かないで。ずっと傍に居て欲しい。」
ミチルは声を震わせてそう言った。
「会いたかった。ずっと、サクに、会いたかった。」
「オレもだよ。ずっとミチルに会いたかった。もしかしたらミチルはもうオレが死んだと思って、オレのこと忘れてるんじゃないかって思って怖かったけど、でも、やっぱり、どうしてもミチルに会いたくて。」
サクの声も震えていた。二人は涙を流しながら抱き締め合い、唇を重ねた。5年前は、互いに相手を想いながらも、戦争で死ぬかもしれない極限状態の中で、愛を確かめ合うことは出来なかった。だが今なら想いのままに愛し合うことができる。5年の月日はミチルの容姿を少女から大人の女性に変えてはいたが、サクの姿同様に、二人の想いは5年前からずっと続いていて、微塵も変わることはなかった。
その夜、サクの部屋で二人は時を過ごした。朝までの短い時間を惜しむように、今はただ、互いに存在を確かめ合うように、求め合い、与え合うだけだった。
その後、ミチルの客人として守羅院の別棟に滞在することとなったサクだったが、多忙なミチルは正に分刻みの予定に追われ、自由な時間はほぼ無いに等しい状態で、睡眠時間を削ってでもサクとの時間を捻出してはくれたが、見た目も少年の姿のままで、心も5年前で時が止まっているようなサクと、既に巫という重責を担う立場の大人の女性となったミチルとは、たまに会えて言葉を交わしても、徐々に心がすれ違い、時には些細なことから口喧嘩をするようになっていた。
サクは、時に謎の頭痛に悩まされることもあり、5年間意識不明だった後遺症の可能性もあるからと、他のスバル隊の仲間たちのように新しい世界での役職や仕事を与えられるでもなく、療養という名の下に守羅院別棟に留め置かれ、定期的に守羅院専属の医療院から薬師が往診に来る以外には何の予定もなく、平和になった世界では手持無沙汰で、為す術もなく只管ミチルを待ち続ける日々を過ごすしかなかった。一方でミチルはあれほど深く愛し合い、恋しかったサクなのに、時にはまるで駄々っ子のような子供っぽい彼に苛立ちさえ感じてしまっては、後になって大人気なかったと後悔していた。いつの間にか二人が住む世界は、互いに相容れない全く違うものになっていた。
それでも床に就くとミチルはいつも5年前に目の前から消えて行ったサクの姿を夢に見た。あの時の光景が鮮明に蘇って来て、夢の中で伸ばした手は空を切り、何度も名を呼んで叫んでも、儚く寂しげに微笑むサクの面影が、どんどん遠ざかり薄れていく。あの時は『もしもう一度会えるなら今度こそ絶対に離さない、もう二度と失いたくない、ずっと傍に居たい』と思ったはずなのに…。そう思った瞬間に目が覚めた。そのサクが今自分の目の前に居ることにほっとして思わず涙が出てしまうことさえあったが、現実の世界ではまた、物理的にも精神的にもすれ違い続けてしまうのである。
サクもまた遣り切れない思いでいた。会いたくて恋しくて、やっとまた会えたミチルは自分の知っているミチルとは、同じであるようで同じではなかった。5年の間にミチルは外見もすっかり大人びたが、精神的にも、少年少女だったあの頃の自分たちとは違う大人の女性になっていた。大人になるともう恋愛感情だけでは生きていけないのだろうという理屈は、わかっているようで、よくわからない。世界の指導者となった今のミチルの仕事が大事なことも忙しいことも、それ故いつも疲れていることも、理屈としてはわかるが腑には落ちていない。二人だけになれる時間をどうしてもっと作ってくれないのか、二人きりでいる時は仕事のことや他のことは全部忘れて自分のことだけを見てくれないのか、ミチルもそれを望んでいてくれたのではなかったのか。あれほどお互いのことが好きで、大切で、自分が相手を思うのと同じか、もしかしたらそれ以上に思ってくれていると確信していた気持ちがぐらつく。『ミチルはもうオレのことは好きじゃなくなったんだろうか?いや、そんなはずはない!…ってどうして言い切れる?』とサクは自問を繰り返した。『悪いのは変わってしまったミチルなのか?それとも変われなかったオレなのか?』
そんなある日、またしても些細な言葉の行き違いからミチルとサクは感情的になり、言い争いを始めてしまった。
「サクのバカ!サクなんて戻って来なければ良かった!」
ミチルは思わず心にもない言葉を投げつけてしまった。背を向けて黙り込むサクにはっとしたが、ミチルはその背中にかける言葉が出てこないまま、部屋を後にしてしまった。ミチルはつい感情的になってしまったことを後悔しつつも、普段から澱の様に心に沈み込んで溜まって来ていたどす黒いものが突然噴出したような自分に動揺し、意地を張って、仕事が立て込んでいたのを自分への言い訳に、敢えてサクとは距離を置き、冷却期間を設けるつもりでいたが、サクはそんなミチルの心情を察することが出来ずに、『もう完全に嫌われたかもしれない、修復不可能だったらどうしよう』と落ち込んでいた。そんなサクの脳裏に浮かんだのは、ツキ島の風景と「いつでも戻ってらっしゃい」と言ってくれたマユの言葉だった。
サクは散歩にでも行くような素振りで守羅院を出て、大陸の南東部、連絡船の出る港を目指していた。ツキ島に着くとサクはその足でマユの家を訪ねた。そこでサクが目にしたのは、前に来たときは気持ちに余裕がなくて気づけなかったが、家のすぐ隣で小さな診療所を開き、薬師として働きながら、家庭を持ち育児にも奮闘しているマユの姿であった。訪ねて来たサクの異変に気付いたマユは診療が終わってから、娘を夫に委ね、かつてミチルが故郷のツキ島を出て鎮魂と戦闘の旅に出る覚悟を決めた時に、二人で海を眺めた思い出の高台へサクを誘った。
「最初に言ったでしょ。もうあの頃とは違うのよ。戦いの中で、いつ死ぬかわからない状況で、命を燃やして、それが本能なのか心理的効果なのかは知らないけど、多分そんな状況だったからこそ全身全霊で誰かを好きなった。世界に二人だけしか居ないような気になっていた。頭の中が好きな人のことでいっぱいで、他のことは何も考えられなかった。でも、世界が平和になり、歳を重ね、為すべき仕事が出来たり、家族を持ったりすると、『責任』というものがのしかかって来るし、考えなきゃいけないことも、やらなきゃならないことも待ったなしなのよ。相手のことが嫌いになった訳じゃない。ずっと好きなのは変わらなくても、それだけでは生きていられなくなるのよ。あたしだって、夫のことは一番好きで愛してるけど、娘が生まれたら、あたしが乳を与えて世話をしてやらないと娘は生きていられなかったし、まだまだ幼いからこれからも手がかかるわ。家のことだけじゃなくて、あたしには薬師としての仕事に対する責任もある。あたしが仕事で何かまずいことをしてしまったら、ことによると人の命にかかわることもあるんだから。他の人たちだって皆家族が居て家族のために一生懸命働いているのよ。まして、ミチルは今、この国を、この世界を、背負っているんだもの。全ての人たち、全ての家族のために、ミチルは働いているんだし、その全ての命や幸福に対する責任があるの。あなたのことが嫌いになったんじゃなくて、余裕がないんだわ。そのことはどうかわかってやって。」
マユはサクが何も言わなくても、サクとミチルの間に何があったかは察しがついたようだった。
「オレ、邪魔なのかな…。オレが居ると、ミチルに迷惑かけちゃうのかな…。」
サクは高台に設けられた柵を両手で握り、前屈みになって俯いたまま子供の様にぽろぽろ涙を零して言った。
「そうじゃないわ。ミチルに依存するんじゃなくあなたはあなたの人生を生きるのよ。そしてミチルに相応しい男になって、ミチルと共に歩めば良いの。」
サクはまだマユの言葉の意味が飲み込めていない様子だったが、マユはサクに家に戻ろうと声を掛け、次の連絡船が出るまでマユの家で泊まることにした。マユの言うように「自分の人生を生きて、ミチルに相応しい男になる」ということがどういうことなのか、サクには理解が出来なかった。
一方でサクが失踪したことを知ったミチルは喧嘩のことを後悔していたが、忙殺されてサクを探すこともままならずにいた。そして、心の何処かではサクが居なくなったことに安堵するような自分が居る事に気づき、慌てて否定した。5年の間ずっと思い続けてやっと会えて、その体を抱き締めて感じたサクの肌の温もり。忙しい毎日だからこそ、自分を見失わないようにその拠り所としてずっと思い続けたその人が、もう二度と会えないかもしれないと思っていたその人が、やっと戻って来たというのに、付きまとうどこか満たされない気持ちは何だろう。彼は何も変わらない。変わってしまったのは自分自身。それはわかっている。でも今の自分の生活を変えることは困難だし、うまく折り合いをつけるほどに器用でもないから、ついつい彼に八つ当たりしてしまっていた。彼にどうにかしてもらうことなど出来ないことはわかっていながら、思い通りにならない不満を彼にぶつけてしまっていた。
「ただいま。」
「おかえり。」
守羅院に戻ったサクを抱き締めてミチルは言った。
「心配したんだよ。もう黙って一人で何処にも行かないで。」
「うん、ごめん。」
いつもの元気もなく、言葉少ないサクに戸惑いながら、ミチルは尋ねた。
「どこに行ってたの?」
「ツキ島のマユんち。」
「マユは元気だった?」
「相変わらずだよ。母親になっても、マユはマユだった。」
いつも通りの他愛ない会話だが、あの太陽のような眩しい笑顔ではなく、サクの微笑みには何処か寂しげな影が差していた。
「オレ、疲れたから休むよ。ミチルも仕事で疲れたろ?また明日。おやすみ。」
「うん、そうだね。おやすみ。」
それ以降も二人の生活はすれ違い、サクは部屋に引きこもりがちになり、あまり元気がなくなった。ミチルに会えば浮かべる笑顔も何処か寂しげだった。
暫く超多忙な日々が続いた後、久しぶりに少しゆっくり時間が取れることになったミチルはサクと過ごすことにしたが、サクはやはり沈んだ様子だった。
「どうしたの?調子、悪いの?サクらしくないよ。」
「オレらしくない…か。ミチルは5年経ってすっかり変わってしまったのに?」
「変わってなんか…。」
「オレには家族は居ないけど、今はオレがミチルの弟になっちゃったみたいだ。マユに『ミチルに相応しい男になれ』って言われたよ。でもオレにはわからない。オレが眠っている5年の間、オレの時間だけが止まってて、ミチルもマユもみんな変わってしまって、オレだけが置いてきぼりだ。これから5年経ってもオレは変わらないのに、ミチルはまた5つ歳を重ねてる。オレはいつまでもこのままで、ミチルはオレを置いて一人でどんどん先へ行く。いつかミチルはミチルに相応しい別の男と出会って、オレを忘れ、その男と家庭を持って子供を産むんじゃないかって考えたら、オレは…。でも、仮に本当にそうなっても、オレはどうすることも出来ないんだ。…ずっとずっとミチルに会いたくて、もう一度声を聴きたくて、顔を見たくて、抱き締めたくて、会えた時は本当に嬉しかった。でも、こんなことになるなら、会えない方が良かったのかも知れないって、この頃オレは考えるんだよ。ミチルもそうじゃない?」
返す言葉が見つからなくて、俯き黙り込むミチルをぼんやりと見つめながら、サクはふとマユの家に泊まった時のことを思い出した。
無邪気な娘と、穏やかな夫に囲まれて、幸せそうなマユの家族の生活を改めて目の当たりにしたサクは、何となく、自分とミチルにはこんな未来が訪れることはないことを悟ってしまった。ミチルと共に歳を重ねることのない自分が、ミチルの両親のような家庭を築く未来が、どうにも想像できなかったし、今のミチルとの状況をどうやって克服して良いのかもわからなくて、きっと自分にはそんなことは不可能に違いないと自信が持てなかった。
その時サクは急激に頭を強く殴られたような衝撃を感じ、割れんばかりの頭痛に悶え苦しみ始め、ミチルが心配してサクの名を呼ぶ声が遠くで反響しているように聞こえた。サクは混濁する意識の中で古い記憶を取り戻した。
「どうしたの?」
ミチルの問いかけに、急に憑き物が落ちたように、まるで別人のような雰囲気を纏ったサクが口を開いた。
「遠い…古い…昔の記憶が戻って来た。」
§ 碧眼のカイ §
古来より敵対する青龍の国と白虎の国が冷戦状態から断続的な戦闘を繰り返す中で、かつて朱雀の国と呼ばれた白虎領朱雀自治区では、朱雀の民が白虎の軍部及び研究施設に依って半強制的かつ理不尽に拉致されていた。
不老長命の特異体質を生まれながらにして保有している朱雀の民を被験者として、その驚異的な回復力と耐久力の秘密を探るべく研究を重ねる一方で、一般的な白虎の民よりも魔法耐性に優れていると思われる朱雀の民の体に魔導の力を注入することで、魔法攻撃中心の青龍の魔術師や巫術師に対抗できる疑似魔導師を作り上げようともしていた。
捕らえられ被験者とされた朱雀の民の一部は、白虎の研究者によって、実験動物のように、龍脈から汲み上げて圧縮した高濃度の魔導流体を充填したカプセルに閉じ込められたり、霧状にした魔導ガスを吸い込ませられたり、直接魔導流体を液状化して注射されたり、飲ませられたりしていた。
「経皮吸収か、吸入か、点滴注入か、経口摂取か、それとも…。」
ありとあらゆる方法を用いて、朱雀の民から疑似魔導師を生み出す方法が模索されていた。
如何なる方法を用いても、成功例と言えるような結果を得られることはなく、むしろ、もし回復力に優れた朱雀の民でなかったら、その殆どが早々に死に絶えていたに違いなかった。朱雀の民は不老長命というだけで、不死ではない。稀に実験によって死に至る者もいたものの、大半は命は失わずに済んだが、副作用により様々な後遺症に苦しめられることとなった。それもまた研究者に取って、データ収集のためには貴重なサンプルであり、解放されて故郷へ戻ることなく、病棟とは名ばかりの牢獄に繋ぎ留められ続けるのであった。収容されている研究施設から命からがら脱出に成功する者も皆無ではなかったが、例え脱出できたとしても、発見されれば連れ戻されるか証拠隠滅のために殺害されその存在は抹消されてしまう。運良く追手から逃れられる可能性は限りなく零に近かったのである。
ヒューンヒューンと警報音が夜の静寂を切り裂くように響き亘る。
「被験者脱走!被験者脱走!」
警報音に混じって魔導警報器の人工音声が繰り返す。
赤色灯が回転し、赤い光が点滅を繰り返す。魔導兵器を応用して作られた警備機器が探索を開始する。夥しい数の魔導傀儡が放たれ、研究施設の内外をくまなく捜索するが、時間ばかりが虚しく過ぎて、脱走者は発見されなかった。多数の警備兵も出動するが、誰一人脱走者を見つけることは出来なかった。
研究施設は被験者の供給に便利だという理由で旧朱雀領の近くに建設されていたため、追手である白虎兵よりも土地勘のある脱走者が有利だった。警備の裏をかき、施設内で巧みに身を隠してやり過ごすと、捜索範囲が外に向かって拡大するに従い、時間差を利用して後から密かに施設を出て、捜査網を掻い潜り、旧朱雀領を突っ切って青龍との国境を越える。大胆かつ慎重に脱走に成功した奇跡的な被験者の一人、カイは既に青龍国内へ逃亡していたのである。
激戦の続く白虎と青龍の国境近くの最前線に比べれば、旧朱雀領と青龍の国境は比較的静かであった。定期的に白虎軍の警備兵が巡回に来るとはいえ、それさえ避けることができれば見つからずに済む。後はできるだけ遠くへ行って、人里離れた場所でひっそりと暮らして、戦争が終わったら朱雀へ戻ろう。カイはそう考えていた。
カイは日中は人目を避けて森などに身を隠し、人の少ない深夜や早朝を狙って大胆に移動した。南部は青龍の中でもどちらかと言えば田舎で、時折人を襲うナマナリを退治する以外は、国境線付近のような戦闘の喧騒もあまり聞こえてこない。
このまま北に向かい、旧玄武の国との国境近くに行けば、山に籠って一人静かに暮らせるかも知れない。
朱雀を出てから暫くは緊張し続けていたために、カイはもう疲労困憊で、とうの昔に限界を越えていたが、何とか気力を振り絞って耐えていた。
ある日、夜までの間に少しだけ仮眠を取るつもりで、カイは森の中の大きな木の洞を見つけて身を潜めると、あっという間に深い眠りに落ちてしまった。
カイがふと人の気配を感じて目を覚ますと、自分の顔を覗き込むようにしてじっと見つめている女と視線がぶつかった。
「わあっ。」
とカイが叫ぶと、女は腰を抜かしたように尻餅をついた。
「何ね~。あんたもびっくりしたやろけど、うちかてびっくりやわ。」
女は苦笑して暢気そうに言った。
カイは初めて聞いたが、青龍南部の方言だろうということは何となくわかった。
「森の中でものすごい声が聞こえたんで、獣かナマナリかと思うたけど、近くで見たらあんたがものすごい鼾かいて寝とるから、病気じゃないかと思うて心配したわ。」
女はからからと屈託なく笑い、同時に気の抜けたカイの腹がぐうぐう鳴った。
「何や、あんたお腹空いてるんやね。ものすごう疲れとったみたいやし、うちにおいで。」
女は手を伸ばしてカイの手を取ると引っ張って体を起こそうとした。
「取って食ったりはせんから大丈夫やって。」
気圧されるというのか、カイは女に誘われるまま、近くの集落に戻る女に付き従った。
女は道を歩きながら振り返り、
「うち、ミチル。あんたは?」
と尋ねた。
「カイ。」
カイが答えると、女は微笑んだ。
ミチルの家に着くと、室内に寝たきりの老婆が居た。
「ばあちゃん、ただいま。すぐご飯にするからね。」
「すまないねぇ。」
老婆に声をかけると、ミチルは小声でカイに囁いた。
「二階に上がっといて。後でご飯持っていくから、右側の部屋に入って横になっててええよ。」
言われるままにそっと二階へ上がり、右側の部屋に入ると、そこは暫く使われていなかったようだが、調度品などから部屋の主はおそらく青年だろうと思われた。ミチルに言われた通り横になって待っていると、暫くしてミチルが食事を運んで来てくれた。
「お待たせしてごめんな。大したものはないけど、どうぞ。」
「ありがとう。」
カイは久しぶりにまともな食事にありつけたことに感謝した。
「ここはな、うちの兄ちゃんの部屋やけど、戦争に行ってて、帰ってけえへんから、泊まってってええよ。ほんまはうちの部屋は隣やねんけど、殆ど一階のばあちゃんの部屋におるし、なんぼ鼾かいても、ばあちゃんは耳遠いから遠慮せんでええよ。」
悪戯っぽく笑ってミチルが言った。
「この集落に残ってるのも、うちらだけやし、近所に気ぃ遣うこともないしな。」
そう言うと、ミチルは立ち上がり、
「食べ終わったら、器は部屋の前に置いといてくれたらええわ。ばあちゃんは二階に居るんは兄ちゃんやと思うてんねん。あんまり目ぇはよぉないけど、家の中で知らん人と顔合わせたらびっくりするから、あんまり降りて来んといてくれた方が助かる。」
と言って部屋を出て、階段を降りて行った。
カイはそのまま老婆からは姿を隠してミチルの家に留まり、老婆に気づかれないように陰ながらミチルの手助けをして過ごした。
そうして暮らすうち、カイとミチルは心を通わせ、老婆がこの世を去ると、一人残されたミチルと結ばれて、二人以外には誰も居ない集落にそのまま留まることにした。
やがて二人の間に生まれた一人娘にノゾミと名付け、家族三人で慎ましくも幸せに暮らしていた。
それから数十年の時が流れ、ミチルはいつしか老いて、ノゾミは家族三人しか居ない人里離れた集落を出ることもなく歳を重ねたが、カイだけが初めてミチルと出会った時と全く同じ姿のままだった。
集落の中では他には誰も居ないけれど、もし誰か他人が彼ら家族の姿を見たとしたら、ミチルの見た目はカイの妻から母そして祖母、曾祖母のように見えたであろうし、ノゾミもまた、娘から妹、姉を経てミチル同様に母から祖母や曾祖母に見えたことだろう。
不老長命な朱雀の民であるカイの見た目がいつまでも少年のままであっても、ミチルはカイを深く愛していたが、自分だけが歳を重ね、醜く老いさらばえた姿になっても、カイが変わらずに自分のことを愛し続けてくれるのかと考えると、時折猛烈な不安に襲われることがあった。カイが共に居てくれるのは、同情や憐憫であって愛ではないのでは、という疑念に襲われては、必死になってそれを否定しようとすることの繰り返しで、徐々に自信を失って行く自分自身に恐怖した。
他の家族を知らないノゾミには、生まれてからずっと父の見た目が変わらないことは当たり前のことだったが、それは世間では異常なことなのだろうと知ってはいた。だから、この家を、この集落を出て外の世界へ行くことが怖かった。
友達や恋人が欲しい気持ちはあるが、その人たちが父を見たらどう思うのか。自分の家族が異常だと知ったら、彼らは悪意を持って自分を虐めるかも知れない、逆に誰も自分を相手にしてくれないかも知れない。そう考えると恐ろしくてたまらなかった。
それ故、ノゾミは学校へは通わず、家で伯父の残した本を読んで独学で勉強した。友達も作らず、疑似恋愛には憧れても、生身の人間と交際することはなかった。少女時代のノゾミにとっては、大好きな父が恋人同然の存在だったから、それで良かった。自分の中でそう納得させようとした。本当は運命の人が何処かに居るかも知れないけれど、自分には望むべくもない夢のまた夢で、憧れても永遠に手に入れることはできないと諦めていた。家族を守ることが自分の果たすべき使命だと信じていた。最愛の家族を裏切り棄てることだけは断じてできなかった。自分の思いは圧し殺して生きて行くしかないと思い込んでいた。
ただ一人、鈍感過ぎるカイだけがそんな妻子の葛藤に対して気づくことすらできぬまま、互いの気持ちがすれ違い、何処かでかけ違えてしまったボタンはもう修復不可能になってしまっていたことすら、カイには理解できぬまま時間だけが過ぎて行き、ミチルに残された僅かな寿命は日一日と削り取られて行くのだった。
ミチルは、自らも既に高齢となりつつある娘ノゾミが、日々老母の介護に明け暮れる姿を見るにつけ、若い頃、夫カイと初めて出会った頃の自分を重ね合わせては不憫に思っていた。
「ノゾミ、ごめんねぇ。ほんまに、ごめんねぇ。うちら夫婦のせいで、一人娘のノゾミの人生を無駄にさせてしもうて、ほんまに申し訳なかったわ。」
弱々しい声で途切れ途切れにミチルは呟いた。
「お母ちゃん、何を謝るん。うちが選んだ人生やねんから、何もお母ちゃんが謝ることあらへんよ。」
ノゾミは母の手を取り、穏やかな口調で言った。
「せやけど、この集落を出て、どこか賑やかな街へ行けば、ノゾミは結婚して家族を持てて、子供や孫が出来てたかもしれん。お父ちゃんとお母ちゃんの世話ばっかりさせてしもうて、今になって謝っても遅いけど、ごめんねぇ。」
ミチルはすすり泣いていた。
「お母ちゃんは何べんもうちにそう言うてくれたけど、出て行かなんだんは、うちがそうするって決めたからやて、うちもその都度言うてきたやん。誰のせいでもあらへんのよ。お母ちゃん、もう泣かんとって。」
ノゾミはそう訴えたが、ミチルはそれでも、「ごめんねぇ、ごめんねぇ」と繰り返していた。
カイは妻と娘が毎日繰り返すそんな会話を聞きながら、自責の念で押し潰されそうになっていた。白虎からの追手を恐れての自分の隠遁者のような生活に、妻子を巻き込んでしまったことは、償いようがなかった。
ミチルを愛しているのなら、いや、愛すればこそ、彼女の幸せのために別れるべきであったろうに、その機会を見失ったまま、娘のノゾミにまで同じ間違いを繰り返すことになってしまった。
娘を愛するあまり、ノゾミを手放したくなくて、目を背けて来たが、むしろ愛すればこそ独り立ちさせてやるべきであったのに、と今更後悔しても仕方がないことを悩みながらも、そんな自分の悩みが余計に妻子を追い詰め苦しめることになっては、と自らの苦悩を押し隠すしかなかったのである。
(④につづく)