「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
mikunenona@gmail.com

江ノ島と東尋坊の繋がり

2018-05-08 07:30:00 | 日記
ずっと忙しかったIさんと、久しぶりに5月4日にお会いすることが出来ました。

私がgooブログを本格的に始めたのは、4月1日からなのですが、初めは、またまた四苦八苦していました。
今回、IさんにはPC版のレイアウトをいろいろいじってもらえたので、分かりやすくなったと思います。
過去記事の「かつこ内親王」「かつこ内親王2」にも繋がるようになりました。

本当に、魂の弟は頼りになりますね。感謝🎶



さて、3月17日の江ノ島と東尋坊の話は、前回で終わりましたが、19日から神様達が話してきたことです。
始めに話してきたのは、ツネノネの神でした。
ツネノネは、別名「不惑の袖丸」と言っていて、ノナのお兄さんの1人なのだそうです。

一番始めに話してきた時は、そんなことは言っていませんでしたが、江戸時代に生きていた井原西鶴(いはらさいかく)に就いていたと言っていました。

そのところを抜粋してみます。

「かつこ内親王 2」の2016,11,18の記事にありました。
話してきたのは、11月3日で、出雲の神様達の会議が始まっていたところですね。


ふわくのそでまるだ。

今は、どこにいるのですか?

私は、今は三鷹にいる。
国立天文台の、古墳と言われているところだ。

と、いうことは星の神様ですか?

【中略】

そうだよ。

どの星のですか?

私は、ホツマツタエの神と同じで、タイゲタ星の神だよ。
今は、三鷹に降りているよ。
会議の来賓で、呼ばれたのだよ。
セミナーは、これからだからな。

あのー、聞いてもいいですか?
ふわくのそでまる様の、「ふわくのそでまる」とは、どういう意味ですか?

「ふわく」とは、思惑がないことだよ。
「そでまる」とは、袖が丸いのだよ。
江戸時代に、流行っただろう。元禄袖(げんろくそで)と、言われていたよ。

その頃に日本にいたのですか?

私は、日本のあら神に憑いていたよ。
M子と言うのか。神の会議に出ていたな。スサノオノミコトが、抱擁していたよ。
宝だと神達は、言っていた。

【中略】

私のことがわかるのは、つまり元禄時代からいなかったからな。
元禄時代の井原西鶴(いはらさいかく)に憑いていたよ。
物語を教えていたのだよ。星の話だな。
「不惑の袖丸」と、言われていたが、本当の名前は、つーーーーねーーーーのーーーーねーーーーと、言うよ。

ツネノネですか?

そうだ。よくわかったな。ツネノネと呼んでくれよ。
私も就いていいか?

はい。

星の神が、スゴくいるのだな。
ミキハウスもいるとは、思わなかったよ。
カービィもいるらしいな。
ホツマツタエの神は、カラと言うからな。元々はアークトゥルスだが、タイゲタ星に永いよ。

ツネノネ様のセミナーは、いつなのですか?

多分、明日だと思うよ。今日、出雲に行くのだ。

また、話してくださいね。

またね。

🐶いろいろな神様の話 その2

1年半前の記事になるのですが、やっぱり宇宙の神様の話は、変わっていないと感じました。


そのツネノネが、話してきたのですね。
これはまた流石なみゆきちゃんの📩から始まりました。


ツネノネの神が話したいそうです!よろしくお願いします🌟

Iさんも、「それ大事」とすぐに反応していました。


ツネノネだ。
スカイウェイが通ったよ。
和倉温泉の娘がいただろう。
せーーーーかーーーーいーーーーと、戦うことになるだろう。白山の仕事があるからな。
加賀百万石の家臣の先祖を持っているので、罪穢れを背負っていたよ。
アワが沢山ついていたから、東尋坊に行ったら大変だったと思う。
M子に来ていたのは、東尋坊で死んだ人達の寒さだったからな。
江ノ島で、酒を撒いただろう。
その後に、東尋坊に撒いたから繋がったのだよ。
繋がりがまた、出来たということだな。
東尋坊と真脇遺跡が繋がったよ。
三鷹、熱海、東尋坊、真脇になったのだ。
次は四国か。。。
Iは、大した人だな。


私は、Iさんのお友達のヒミコさんとは、一度金沢に行った時に、お会いしています。
その時に、詳しくいろいろ聞いた訳でもないのですが、後で、Iさんに聞いてみると、彼女のお母さんが和倉温泉に関係していたようで、なんだかとても驚いてしまいました。

本多忠勝の神が、なぜ東尋坊にいたのかも、少し関係しているのですが、加賀百万石の前田家を調べていて、私はまた「あっ!」と思ったことがあったのです。

なぜなら、加賀家の筆頭家老は、本多家だったからですね。

本多氏を調べてみました。


三河三奉行の一人とされる本多重次(作左衛門)、徳川四天王に数えられる本多忠勝、徳川家康の参謀となった本多正信の3人が有名。
宗家については忠勝の家系をこれにあてる説が一般的な通説であるが、正信の家系を宗家とする説もある。

江戸時代、三河本多氏一族の多くが大名・旗本として栄えた。
本多氏の大名は13家、旗本は45家あり、他家に例をみない。
江戸時代を通して徳川宗家と分家以外に使用できなかった葵紋を、唯一許されていた。



実際に、本多家の武将達は、戦国時代に三河から、動いているようで、前田家に使えたのは、本多正信の次男の本多政重(ほんだまさしげ)のようです。





続きます。






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