真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第三章 天性の変化と修法 (二)理性は純善、気質性は判善半悪、習性は純悪である

2022-02-18 17:14:46 | 天道の淵源

(二)理性は純善、気質性は判善半悪、習性は純悪である

心は天性が主であり、その代わりに眼耳鼻舌身意に発令して行動させているので、その心が正しければ行動は正しくなり、歪めば間違った方向に転じてしまいます。

肉体そのものに意思はなく、天性を体した心の作用によって善とも悪とも変わっていきます。

心が強く天性を反映しておれば、その挙動は聖者にふさわしく、心が肉体の諸機能の官能の赴くまま、欲望に従って流れていくと、餓鬼にひとしい貪欲者になってしまいます。

肉体が常に血心の支配を受けていますと、出生から死亡に至るまで貪り続けて世を害し、社会を乱してしまいます。

若いころは生命組織が増殖し、肉体の発育が旺盛ですから、色欲に傾きやすく、それに従って心も色を求めていきます。

体の成長発育の頂点になる壮年になりますと、生理の細胞に闘争を求める欲望が湧いてきます。

すると心もそれにつれて競争が熾烈(しれつ)になってきます。

体の臓器および四肢や感覚の発育が下降する老年に至った時には、当然欲望も退化するのが順当ですが、一旦習性と変じた心はなかなか善良になれません。

今度は物を貪る欲求に転向してしまうのです。

始めは官能に従って動いた心は、老化現象をきたした体を置き去りにして、独走を続けて止まるところを知りません。

因業はすべて心から起こり、心から織りなすものであります。

やがて肉体は亡び、死を招きますが、霊は次の輪廻に転じて処罰を受けます。

ちょうど、汚れた水を濾過槽(ろかそう)に入れて浄化するのと同じです。

天性は道を重んじ、徳を貴ぶ性ですので、これを道心といい、心は人情に流れ、完成に溺れやすく、血の気に従って動揺をきたしますので人心といい、血心ともいいます。

道心は静を好み、真・善・美を愛し、憐れみに満ちていますが、人心はすぐ喜・怒・哀・楽・愛・欲の7情に走り易く、環境に染まりやすい性質です。

肉体に付着して欲するものを飽くことなく求める心です。これは半善半悪ですから「気稟性(きひんせい)」と名づけ、気質性ともいいます。

人の行為の善悪は、人間の理性・気質性・習性によって定まるものであります。

理性は本来、霊明玲瓏体(れいみょうれいろうたい)であり、純善にして悪的要素はありません。

気質性は清濁織り混ぜて善ともなり悪ともなる気質を持っています。

習性は、もっぱら物欲に曳かれてゆく性質で、悪のみに偏って善の破片(かけら)もありません。

理性をもって事に用いますと五常が常に現れて、一切の言動や思想はひとしく「中」に合することができます。

気質性をもって用いますと清濁を分けず、善悪の分別に欠ける所が生じてまいります。

習性をもって事に用いますと、物欲の衝動によって貪り続け、そして悪行に偏重してしまうものであります。

気質性・習性に変化していきますと、自然に行うことに悪の要素が多く、善の結果がすくなくなります。

孟子様画「人間の本性は本、善である。」といわれたのは、すなわち理天から賦与された本性を指しておられます。

告子(こくし)様が「人間の本性は悪である。」といわれたのは、物質・象天界に習い染められた本性を指しておられます。

理性を説き、理を重んじて気を重んじなかったため、孟子様は聖人と尊ばれました。

気性を説き、気を明らかにして理を明らかにできなかったので、告子様は賢人と称されました。

気質・習性を説き、ただ物欲のみを論じ、理も気も明らかにならなかったために、荀子(じゅんし)様は聖とも賢ともなり得なかった訳であります。

物質や感情にのみ重きを置いてすべてを計る尺度にすることは、天理に悖(もと)るところ大であります。

以上の三種の本性の善悪を論じた所から総合して、その人の悟道の深浅と執着の厚薄を知ることができます。その重んずる所の主観が違っている関係で、論点に差異が生じたわけであります。

天性はまた、霊魂ともいいます。

天性は無形・無象・無臭ですので見聞ができません。

身体が存在していることによって性と心を証明できるものですから、三者妙合の状態で結合しています。

天地は陰陽二気によってでき、陰陽二気によって運行されています。

肉体も同様に陰陽二気によって構成され、陰陽二気によって生かされています。

肉体は物質なるがゆえに物質をもって保護し、養育しなければならないのですが、現在、大方の人はこの身体と心しかないと信じ、霊魂の実在を知らなくなりました。

結局は一途に身体の欲望を貪り、肉体の快楽のみ求め、酒色や恩愛の巷(ちまた)におぼれて血心の喜びを喜びとし、悪循環が作用し、自暴自棄になって心身をする減らしてしまうだであります。

これがために逐次に天性を失い、気稟性(きひんせい)の支配をうけていくことになります。

一旦、気質性に傾いてしまうと、習性に変わりやすく、悪を行っても正当だと錯覚してしまいます。

気質性は物欲が強く、それに傾いてしまうと、無形無力の天性は埋もれて、その働きが鈍ってしまいます。

これがために本性が蔽(おお)われて発揮できなくなると、鏡の曇りと同じく明るい良心を見ることができなくなってしまいます。

続き

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