真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

十大願~二、実心懺悔:常(つね)に懺悔(ざんげ)せんことを誓(ちか)い

2023-10-29 18:50:28 | 十大願

実行大徳以服人 実に大徳を行い以て人を服す

心當敬重聆聖者 心を當(まさ)に敬重(けいじゅう)して聖音(せいおん)を聆(き)く

懺悔修持天降福 懺悔して修持(しゅうじ)せば天は福を降(くだ)し

悔過能除希賢真 過(あやまち)を能(よ)く悔(く)い除けば賢真(けんしん)を希(のぞ)む

:本当に大徳を行っているならば、人々はこの徳に服(ふく)し心から尊敬して、天の聖音を聆(き)くのです。

今までの過失(あやまち)を悔いて修持(しゅうじ)するならば、上天は福をさずけて下さり、その過(あやま)ちが良く除けられるならば、賢人聖人ともなれます。

それ故に実心(まごころ)を以て過失(あやまち)を懺悔すれば、その罪も軽く、又消却できます。

菜根譚

世を蓋(おお)うの功労も一個(ひとつ)の衿(きょう)の字に当たり得ず

天に弥(わた)るの罪過(ざいか)も一個(ひとつ)の悔(かい)の字に当たり得ず

と言っているように、天を蓋(かぶ)すほどの大きな罪も、誠心(まごころ)を以て懺悔し、それを補うに功徳を積めば、上天も過去の罪を寛(ゆる)して下さいます。

それ故に実心(まごころ)で懺悔し、実心で修煉(しゅうれん)するには、

一.自分の過失(あやまち)を知って速く懺悔して改め、悪い癖をなおして修煉に務(つと)めれば、正邪は明らかになり、妄念は起こりません。そして静かな時は過失の検討をして見るのです。

曹子(そうし)は、吾(わ)れ日に三つの事を反省している。

『人の為に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか』

『友と交わりて信ならざるか』

『先生から伝(つた)わったのをおさらいしているか』

と反省しています。

まして私たち修道の志あるものは效(なら)うべきです。

二、懺悔して修煉する心が恒(つね)でないならば、

1.人を見る眼は明らかでも、自分を見る眼は暗い、自分の過ちを知らないで改める事をせず、口より出るのは人の是非ばかりで禍(わざわ)いを招き、また自分の悪事を隠そうとして、自分で自分の良心を欺(あざ)むいている。

2.修煉の心が恒(つね)でないと、今日改めたけれど明日は自分を慰(なぐさ)めてあさってに改めようと、一年に果たして幾つの明日があり、何時(いつ)になれば修行の模範となれるのでしょうか。

3・情慾に駆(か)けて修煉を知らず、縁起假合(えんぎかこう)のこの世を楽園(パラダイス)と認めるならば、四生六道の輪廻は脱(のが)れる事はできない。

故に心物の隠微(いんび)を慎(つつし)み、意悪(いあく)の動機を過(トド)めて、聖賢を希む。

三、懺悔する所あらば悟る所有り、善(よ)く改(あらた)めれば方(はじめ)て成就す。信心(しんじん)を抱いて速やかに決心し、立身修道に務め、不言の(ふげん)の教えに身を以て則(のり)と作(な)す。

四、上帝の聖訓曰く(一部)

道場漸々(どうじょうだんだん)と混乱す。人心危(あや)うきにして顕(あらわ)れ出る、屡々(しばしば)口を酸っぱく言伝(ことづ)けるも、爾(なじ)らは悟らずに一返(いっぺん)におく。

錯(あやま)ちて再び錯ち改める者稀(稀)なり。

見れども聞けども馬耳東風(ばじとうふう)、改め有れど皆虚偽(みなきょぎ)、己(おのれ)を欺(あざむ)き人を欺きて心も昧(くら)し、なんの天道を修めなんの行いや。

これを語れば怒りは天を冲(つ)く。訓(さとし)は此処(ここ)にて各々に悟れよ。

このように、上帝様は幾度も私たちに御慈悲してくださり、修心に養性(ようせい)にと、御教えを与えて下さっているのですが、衆生はこの世を迷いて己の行為を検(ただ)さず、過ちも懺悔しないで、霊の故郷である、極楽浄土に還れないのです。

続く

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