十三、求道後の行功
道に心が存すれば、これを徳性と言い、行いに現れて、これを綱常(こうじょう:三綱・五常)と申します。
道があっても徳を施すことが出来ない時には、必ず魔が現れるのであります。
孔子様は『まことに至徳がなければ、至道凝(こ)らず』と言って、“徳がなければ道は凝固しないのである”と申されました。
徳とは得であります。
又、功を行ずることは即ち徳を積むことであります。
例えば人を済(すく)い物を利する事をしたり、災難の世界を救済する心を持ち、三教聖人の教えに遵い(したが)い力を尽くして実践躬行(きゅうこう)したり、又およそ善書を書き抜いたり、仏堂を建立したり、多く勧化(かんげ)し、広く開道して道義を宣揚(せんよう)し、人の智慧を啓発して一人でも成道せしめたならば、その功徳は実に偉大なものであります。
外功が円満になれば、内功もこれに随って円満になるものであります。
又、凡情の世界においては急難を救済し、災害を救い、危機を匡正(きょうせい)することであり、小にしては独り出資してこれを処理し、大にしては集資してこれをさばいて行くことであります。
それには、場所・人・時・事情に応じて多くの地方に利するよう、これを導かなければなりません。
親に対しては慈愛を、子に対しては孝行を、兄に対しては友愛を、弟に対しては恭(つつし)みを、夫婦に対しては和睦を、朋友に対しては、信実を、官吏に対しては忠正を説いて、悪を化して善となし、愚を化して賢となす事は真の功徳となりますが、名誉を貪求したり、又悪言厲色(れいしょく)の表現をしてはなりません。
もし、名誉をむさぼれば、いわゆる功徳になりません。
又せっかちにして気をいらだたして人を勧化(かんげ)することは、修道する人の行いとは申されないのであります。
続く