真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

五戒~活仏師尊慈訓

2023-05-22 18:07:06 | 五戒~活仏師尊慈訓

Ray:人類は、しばらく「道徳」から離れていましたので、如何に堕落した生活を押し付けらていたか、判断基準がありません。本来の本性が望んでいた自己に戻すため、日常生活の指針としてお勧めいたします。

前言

一、壬申年、済公活佛は慈恩壇に御降臨なされて五戒をのべられました。毎月一回で話終われましたが、殺、盗、淫、妄、酒、五戒の意味を詳細に明らかにしています。

他にもたくさんの修道の正確な理念に言及し、人々に深い反省をうながし、実に白陽修士の修行の模範となし、すべての我々道親が知らなくてはならない法則であります。

二、原来五戒訓文の摘要の印刷は、まちがいや脱字がかなり多く又、語意もあまりはっきりしていなかったので、今回録音に基づいて再び整理し、五戒に関わる全ての体系を整理して別に一章の「五戒総論』とし、この章を始めにおきました。

その他は各戒その要義を選び、順序によって箇条に分けて並べ、テープを聞くことのできない人々が検閲できるようにしました。その他五戒と関わりないところに至っては記録しませんでしたので、詳しく知りたいと思う読者はテープを聞いて下さい。

三、訓中に「求道只是結善縁、自戒才是行善断悪的根本』(求道は善縁を結ぶだけであって、持戒してこそ善を行い悪を断つ基本となります。)とあります。

願わくば我々道親は外功を努力して行う以外、更に訓文によって持戒をしなければなりません。そうでなければ「布施供養福無辺、心中三悪元来造」(布施、供養の福は無辺であるけれども、心の中は依然として三悪をなしています。)となっています。

漏れている福は結局無上菩薩にとっては無益です。

目録

一、五戒総論

二、殺 戒

三、盗 戒

四、淫 戒

五、妄語戒

六、酒 戒

続く


離苦求樂(苦を離れ楽を求める)その二

2023-05-22 18:05:37 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

惑には、見惑・思惑・困惑・迷惑の四つがございます。

見惑とは、見たものに対してはっきりと見解が定まらず迷うことです。

思惑とは、一つの例をとって考えて見ましょう。

今百歳の人がいたとします。

その人は百歳ではまだ足りないから、千歳まで生きたいと考えたとします。

人の寿命は、百歳位が限界ですから、このように考えることは、既にその考えが間違っているわけです。

間違って考えることを思惑と申します。

困惑とは、困(こん)とはくくられることです。

くくられるとは、道を受け、道のよいことを知っていながら修養しようとしない境地です。

もう一つは、この世のすべてのものが仮のものであることが、道の話を聞いて解ります。

しかし、仮物に執着する、これが即ち困惑です。

迷惑とは、“人に迷惑をかけた”という迷惑ではありません。

字は同じですけれど、意味は違います。

人間世界の声色貨利によって人は迷うわけです。

そして、これに迷うことは非常に悪いことであることを知りながら、あくまでも執着して離れない、その為に道を進むことが出来ない。これを迷惑と申します。

人間にはこの四惑のとりこになっているのです。

我々は牢屋に閉じ込められた囚人ではないけれど、目に見えない四惑によって牢屋に閉じ込められた囚人と同様にとらわれの身となっているのです。

起惑、造業、受苦。(惑を起こし、業を造り、苦を受ける。)

四惑を起こせば、必ず業が造られます。

業には十の悪行がございます。

この十悪業は、身で造る業、口で造る業、意で造る業の三つに分けられます。

意に貪(どん)・嗔(しん)・痴(ち)。

口に悪口(あくこう)、両舌(りょうぜつ)・綺語(きご)・妄語(もうご)。

身に殺(さつ)・盗(とう)・淫(いん)があります。

これを合わせますと十悪業となるわけです。

人は、身(しん)・口(く)・意(い)の三業が不浄の為に非常に苦しみを受けています。

私達は、その苦しみを免れるために修道しているわけですが、修道することにより、だんだん三業が清浄になるわけです。

続く


性理題釋~七十三、空身・空心・空性・空法

2023-05-22 18:02:54 | 性理題釋

七十三、空身・空心・空性・空法

身体は本来父母が生んで下さったのであるから、亦父母の気質を具(そな)えていて、九空(きゅうくう:九穴)に長流し、種々の不浄が四大(筋骨皮肉)に仮合(かごう)しておりますが、終(つい)には必ず敗壊(はいかい)するものであります。

故に智慧ある者は、身は幻(まぼろし)である事を悟り、未だ死ぬ前より当(まさ)に死んだものと看做(みな)すのであります。

然し、この玄身(げんしん)を借りて道を学び修行する事に過ぎません。

これを身の空なるを悟ると申すのであります。

自心を見ればこれ又生ずるに非ず、減ずるに非ず、最も神聖(しんせい)で霊明(れいめい)であり、境に遇えば有るに似て、境が滅すれば即ち無くなるのであります。

真心を悟ることが出来れば、常に覚(さと)って迷わず、妄想(もうそう)の流転(るてん)に随う事なく、ただ真性(しんせい)に依って主行(しゅぎょう)するのであるから、これを心の空を悟るというのであります。

自性を見れば、これも亦寂然(じゃくぜん)として動かず、感ずれば遂に通ず、窮(きわ)まりなく変化し、慰霊(いれい)は測り知る事なく、明々了々(めいめいりょうりょう)として自ら知覚(ちかく)し、霊明(れいめい)にして静寂(せいじゃく)であり、無為(むい)は常に変わらぬ故に、これを性の空なるを悟ると申すのであります。

如来(にょらい)を見れば、談ずる所の経法(きょうほう)は皆方便(ほうべん)であり、引導(いんどう)の法門(ほうもん)であって、水で塵(ちり)を洗う如く、病に薬を与えるに似ております。

恰(あたか)も、心に法の空なるを証(あか)し得(う)る事は、病が去れば則ち薬を除く可きであると同様で、これを法の空なるを悟ると言うのであります。

総括(そうかつ)して見れば、正法(しょうほう)とは外でもなく、ただ心源(しんげん)を悟る事であります。

貪慾(どんよく)を絶たねば均しく意に牽(ひ)かれるのであるが、心は本より清寂(せいじゃく)で、忽(たちまち)にして定まったりするのであります。

心は本より無であるけれども、忽ちにして想をもち、あらゆる智慧(ちえ)を具足(ぐそく)し、平常心(へいじょうしん)を清浄(せいじょう)にすれば、思わずして則ち有り、念が動けば則ち遮(さえ)ぎられ、法を知っても用をなさず、清浄にして自如(じにょ)なれば、善悪を思わず、愚拙(ぐせつ)に似ておりますが、このように行うを仏を修めると名づけるのであります。

故に、『一念も生ぜぬを静と言い、覚ってこれを滅するを法と申し、法に依って為すを修という』と説かれました。

人世(じんせ)の果(か)を修める者は、徳を積み理に従う外はなく、仏道の果を修める者は、必ず無人無我(むじんむが)の境を体得(たいとく)する事であります。

故に聖凡(せいぼん)に二つの途は、人が各々自ら為す所にあるだけであります。

続く