浜田聡議員がTSMCの環境問題に斬り込む!!
5次元での統合によって、核(中心となる点)が明らかになります。それが陰陽界を統べる道すなわち真理です。
天地の始めは、これというなんら形のない混然としたもので、声もなく、臭いもない、極めて虚にして、神なる実に無一物の境地でした。
道教の祖、老子様は「無名にして天地の始め、有名にして万物の母」と申されましたが、これを表現しようがないので、天地の始めを「○」にかたどり、万物の生ずる状態を「一」にかたどりました。
ー万教帰一(すべての教えは「一」に帰る)ー
道は大にして無名であり、故に『強いて名づけて道という』と申しました。
又、道は大にして無形であります、故に『強いて圏「○」を以ってこれをかたどった』のであります。
では、圏「○」はなんであるかを追求しますと、一の静止した姿で、虚なる「一塊の真理であり、又道の全体であります。
一は圏の動いた姿であって、宇宙一切万物を生じる母体であり、万物はその実在の現れであります。
これを「一本は万殊に散る』と言い、又『道の達用』と申しております。
圏が動いて一が生じ、一が縮まれば点「・」となり、点「・」を伸ばせば一となります。
そこで実に圏と一と点は動静と伸縮の違いであり、変化して極まりないものであります。
これを放して拡大すれば六合「東西南北上下、すなわち天地宇宙」を満たし、無際限の状態で伸長するので「一」を以ってこれを表し、又、之を巻いて縮小すれば密(極めて微細なもの)にも蔵められるので点「・」で表現したのであります。
拡大すれば大にして外になく、縮小すれば小にして内にありません。
故にこの道は天地に行きわたり、一切の万物を含んでいるのであります。
実に不可思議な働きをするので『真空妙有』と申されましたが、あらゆる万物の生霊を支配する主宰者であります。
ー神道の真象も同じー
この主宰者は天にあれば「理」と呼び、人に宿れば「性」と名づけられます。
そこで理とは万物の本体を統一するところの性であり、性とはあらゆる物の各々が具有する所の理であります。
人々は各々その性をもちながら、その有ることを知りません。
若し、この性をお把握することが出来れば、大悟した神聖の境地になられます。
然し、これに反して理を迷い、性を把握することがなかったならば、鬼魂の世界に落ちなければなりません。
故に『千経万典は一点に如かず』と申しまして、如何に多くの経典を読んでも、「名師の一点」を欠いては、何もならぬと申されたので、「一点」が如何に大事であるかを知ることが出来ます。
この「一点」は、孟子様の四端 『惻隠の心即ち仁の端、羞悪の心即ち義の端・是非の心即ち智の端、辞譲の心即ち礼の端』を統一し、その中に万善を包含しているのであります。
これを図表すれば縦は智と礼になり、横は仁と義になりまして、四端の交差する中心に信があるわけであります。
孔子様は 『人にして信なければ、その可なるを知らず』と申され、人間にもし信がなければ、何事もあてになるものではないと申して、この重要性を説いた訳もここにあります。
ーキリスト教はじめ古来すべての十字架が示すのは十字の中心の「点」ー
又、その重要性を縦に書いて「|」となし、横に書いて「─」としたのは体と用(本体とその働き)とを十字の形に現して、その縦には経と理が、横には緯と数が入るのでありますが、この意味を深く玩味し、探究するならば、誠に極まりないものがあります。
故に老子様は清淨経に『大道は無形にして天地を生育し、大道は無情にして日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す』と申されました。
道は未だ天地が成立せぬ時、その本体を立てられ、既に天地が形づくられてからは、その運用を拡大して天地万有に及ぼしたのであります。
ー道の淵源ー
殺戒(三)
二十一、釣りざおや釣り針などは売ってはいけません。
そうでなければ釣った魚によって仕返しされます。(釈迦族も池の魚を大量に釣ったため一族は仕返しで滅びました。)
二十二、卵を持った母魚を殺しますと普通の魚を殺したより罪業がさらに重いです。
一つの卵は一つの命です。
二十三、焼き肉はあまりやらないほうがいい。豚は最もしつこくて、肉がたべ終わるかあるいは腐るまで屍を守り、その後やっと転生します。
豚を殺す人はこう言います。
「豚や、豚や、恨むなよ。おまえは人間の一品料理なんだ。みんなが食べなければ私は屠殺しない。買った人にかたきを取ってくれ。」
これから見ますと人々はみんな殺生がよくないことを知っていますが、ただ戒めるのが難しいのです。
二十四、現在の医学は発達していますが、奇病はかえってだんだん多くなっています。
これはただ殺業の果報であると解釈する外ありません。
二十五、殺虫剤を撒くのは良くありません。
虫達も生きたいと思っています。
家の中をきれいに掃除すれば、虫はあまりよってきません。
たくさん殺せば殺す程虫たちは多くなります。
ちょうど、虎は人が食べないから多くはないけれど、鶏やアヒルや豚は食べる人が多いからだんだんと多くなるのと同じです。
二十六、殺業には軽い、重いがあります。
下の人が目上の人を殺すこと、例えば父母を殺したり、恩師を殺したりすることは逆罪であり、必ず三悪道に堕ちます。
精神錯乱しての殺人、聖賢を救う為、あるいはたくさんの人を救う為の殺人は、罪が比較的軽いです。
しかしやはり因果はあります。人は成佛までの距離が近いので、人を殺す罪は重くなります。
動物は成佛までの距離が比較的遠いので、動物を殺す罪は比較的軽いのです。
二十七、菩薩道を修めるなら、心の動きはいつも善心を維持し、又、万物は同体だという気持ちを維持しなければなりません。
ある人はこう言います。
鶏、アヒルは人に食べられるために生れてきたのだ。食べないと空中を飛び回っていることになるではないか。
しかも虎は人を食べ、蚊は人の血をすいますが、まさか虎に食べられるために、蚊に血を吸われるために生れてきたのでしょうか。
人は自分ならどうなるかを考えて相手の気持ちを思いやる必要があります。
そうしてこそ自己の生命を誤らないのです。
二十八、仏像は古くなって壊れたら、包んでちゃんとしまっておかななければなりません。
焼き捨てはいけません。
焼いて灰となりごみくずと一緒にすることは、仏に対して不敬となります。
仏は在世中「仏身の血を出してはいけない。」の戒律があります。現在仏はこの世にいなくなったので仏像はその代表です。
ゆえに悪心をもって仏像を壊してはいけません。
二十九、母親が鶏を殺そうとしたらできるだけ諫めなければいけません。
もし諫めを聞いてくれなかったら佛號を唱え、往生咒を念じなさい。
三十、清口愿を立てた後は、もともと飼っていた動物は、命が尽きるまで養い、死んだら埋葬して転生するようにと唱えます。
他の人に売ったり、他の人にあげたりして殺してはいけません。
続く
七十八、無極の真、二五の精 妙合して凝(こ)る
これは即ち人が生ずるところの造化(ぞうか)の理を説いたのであります。
易経に説かれたのを見ると、太極(たいきょく)に至るまでを説いてありますので、一般の世人は太極の上を知りません。
然しながら又無極のある事を知らねばならぬ訳であります。
この易経は数学の書であります。故に『一陰一陽これを道と謂う』と説かれました。
無極の真とは、即ち天が人に賦与(ふよ)された真理であり、二五の精とは父の精と母の血を頼って養い、血は精を頼って育成するのであります。
二人が一心になった際、黙々(もくもく)の中に無極の真理が投入されるのでありますが、これが『三五が妙合して凝る』の意味であります。
男女が結ばれた後に、男の気が円満であれば男の子が生まれ、女の気が円満であれば女の子が生まれるのであります。
故に乾(けん)の理が到れば男の子となり、坤(こん)の理が到れば女の子となると申したのであります。
続く