真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

性理題釋~一、道の真象

2022-06-10 19:15:06 | 性理題釋

1、道の真象

天地の創造される以前には、宇宙は渾然としたエネルギーで、混沌として、一つとして形のあるものはなく、音もせず、臭いもなく、極めて空虚であって、至って玄妙なものです。

道祖曰く、天地の創造される以前は名称がなく、即ち◯・円(えん)の様なものとしました。

名のある物は万物の母であって、即ち「一」の字のようなもの、道の偉大さは名状しがたいが、強いて名づけて「道」と言いました。

円は「一」の静止状態であり、一塊(かたまり)の玄理であって、これが道の全貌です。

一は円の動態です。

この一を根本とし、それが散ずると萬物が生成されました。

これが道の運用です。

円が動けば一を生じ、一が縮まれば「・点(てん)」となります。

・点が伸びれば一となります。

即ち、円、一、点、は動静・伸縮の像であって変化して窮まりありません。

これらのものが宇宙に充満して、一となり、これを巻いて固めると點となります。

即ちその偉大なこと際限がなく小さいこと内腔がない、宇宙に存在する物、貫通されないものはなく、包容(ほうよう)しないものはなく、これが宇宙に充満し、森羅万象包んで、しかも真に空虚で微妙なものであって、あらゆる霊の主宰であります。

これが天にあるものを「理」と称し、人にあるものを「性」と言います。

理は万物に共通の性であり、性は万物が具えている「理」であります。

人はそれを持っていますが、持っていることを自覚していません。

これを悟るものは神、聖人となり、これに迷うものは鬼の世界に墜ちて行きます。

故に曰く、千・万の経典を読破するよりも一点を知ることを良しとします。 

この一点は四方を統合して万善を兼ね持ちます。

人を思いやる心は仁の始めであり、悪を恥じる心は義の始まりです。

正邪をわきまえる心は智の始まりであり、人に譲る心は礼の始まりです。仁義礼智の中心に信があります。

すなわち、

   

    |

義  信 ― 仁

    |

    礼

 となります。

その深長な意義は味わって猶つきないものがあります。

故に老子曰く、大道は形がないが、天地を生成する。

大道は感情がないが、太陽や月を運行して分秒も違わない。

大道は名前がないが、万物を永久に養育する。

天地生成前、道がその体系を形造り、天地生成後に道はその効用を広げました。

続く


第二章 天人一貫の妙理 (八)人生同天

2022-06-10 19:13:09 | 天道の淵源

(八)人生同天

われわれの天性は無極の真、老〇様(ラウム)から給わったものであります。

陰陽二気かが交感して万物を化し、同時に秀麗なる霊と自在な形体を賦与されているのであります。

万物は一陰一陽によって生じます。

われわれ男女の交感によって生まれます。

男は乾(けん)で女は坤(こん)です。

また、われわれの性命も先天と後天とに分かれております。

懐胎十ヶ月に満ち、先天の性が後天の気に接したときに泣く一声で、霊が気に合して秘竅(ひきょう)より体内に性が宿ります。

この時、先天の気が隠れ、後天の気が口と鼻より入り、肉体が性に支配されることになります。

先天の性は後天の気と相対関係となり、身体(象)と深いつながりを持つことになります。

この性は純粋な霊理なる絶対的善であります。

父母が未だ生まれていない以前の真の面目であり、始まりもなく終わりもありません。

天真にして、独り露(あら)われた真常の本体には凡聖もなく賢愚もなく貴賤貧富(きせんひんぷ)の別もありません。

天地は仁義礼智死信の五常の徳を中心にして運行しており、人間もまた同じく五常の徳を中心に行動し生活しなければなりません。

孟子様は「万物皆我に備わる。」と申されておりますが、全宇宙にあるものは悉(ことごと)くこの小さい体にそなわっているのであります。

真の理天はわれわれの身体の霊にあたり、気天は気脈・体温・呼吸にあたり、象天は身体にあたります。

身体における一呼一吸は生存を保ち、神経の感、気脈の循環は一分一秒といえども、忽(ゆる)がせにできず、密接な関係によって体内珀骸(体内非薬害)・五臓六腑(ごぞうろっぷ)のことごとくを活かしております。

人間の身体を構成している原子などは肉体であり、象天であります。

性霊は形体も声音も味覚も臭覚も無いからといって全然ないのではなく、霊的感覚は寸時も怠っていません。

たとえば頭を殴れば頭に痛みを感じます。

身体だけではなく、精神的にも痛みます。霊・気脈・身体、この三者は一体に組み合わされ、結合は全く天然的にできており、実に妙合だといえます。

もし、霊を欠けば、呼吸できず。ついには身体は亡んでしまいます。

気天・象天の瓦解は恰(あたか)も人間の老衰にたとえられ、年と共に漸次、視・聴・味・香・触感が薄れ、健康がすぐれず、五行中、何かが衝動を起こすとついに息を引き取り、肉体は亡んでしまいます。

ただ霊のみ勃然(ぼつぜん:突然起こる様)として残り、生前に造った功徳か罪業かに従ってそれぞれ、天堂・地獄へと別れてゆくのであります。

生前に成した因果は死後その霊が享(う)けるので快楽・苦痛の境界は結局、生前に成した業績如何(いかん)によって定まるゆえに、天人ともに一貫の理が含まれているのであります。

老〇様(ラウム)を大きな清泉に譬(たと)えれば、われわれの霊は一つの碗中の水にひとしく、この水を清浄に保たねばなりません。

また老〇様(らうむ)を発電所に譬(たと)えていえば、われわれは電燈であります。

電源がなければ電燈は点(とも)りません。

一寸(ちょっと)のまであっても連絡を切ることはできません。

電気の消費分量は正確に記録されるごとく、われわれの一挙一動はすべて、老〇様(ラウム)の許(もと)に逐一知らされています。

罪が多いか少ないか、重いか軽いかは糸毫(しごう)の差もなく報告されています。

不思議なことは、妄想、意の善悪、これらは一つの思想反応となって、われわれの態度に顕れてくるものです。

蔵(かく)しても蔵し通せるもではありません。

顔回(がんかい)様は己を克服するのに「礼に非ずば視ず、礼に非ずば聴かず、礼に非ずば言わず、礼に非ずば動(おこ)なわず。」と述べ、これを四勿(しぶつ)または四非(死火)と称しますが、曽子(そうし)様は「吾、日に三度(みたび)吾を省みる。」と述べ、心にゆるみを生ずるのをおそれ、「戦々恐々、深淵に臨むが如く、薄氷を履(ふ)むが如し。」 また「十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるかな。」と絶(た)ゆまない努力をされたのであります。

顔曽両聖は敬(うやうや)しく、これを心に抱き寸刻も良心を偽ることがなっかたのであります。

曽子様は心の意念一度うごけば十目十手から鑑視される如く慎めと戒めているのであります。

肉体は親が生んでくれたものに違いありませんが、もっと大事な霊魂を生んで下さったのは天地生育の神、老〇様(ラウム)であります。

われわれは父母に対する孝養を怠らないとともに、老〇様(ラウム)に対しても、ひたすら孝行の赤心を捧げねばなりません。

孝行も道とは神に求めるのではなく、老〇様(ラウム)の求めに忠実に応え、一人でもより多くの岐路に迷える同胞を人の世の苦海から輝かしい天道の恩典に浴せしめることであります。

済度の好機を誤らないように、少しでも多くの功徳を建てねばなりません。

孔子様曰く「身を立て道を行い、名を後世に掲げ、以て父母の名を顕わすはこれ孝の終わりなり。」と、心すべきお言葉を諭(さと)されました。

どうか一日でも早く天人一貫の理を悟り、更に勤行練達(ごんぎょうれんたつ)して原霊を回復させ、天人に一貫できる霊光を、ますます光り輝かせるよう望むしだいであります。


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