真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第三章 天性の変化と修法 (七)宿命と運命の改変

2022-06-18 22:29:53 | 天道の淵源

(七)宿命と運命の改変

宿命とは一応、輪廻に入っても転生した霊が債務を帯びて生まれてきた時の命を言います。

「命(めい)宿る」「宿っている命」とも解釈しますが、前世の功罪がどうなっているかはその人の生まれた状態によって判断すればわかります。

同じ時と場所に生まれ、同じ環境に育てられても人によって智能の程度と性質の強弱に違いが生じたり、平等の教育を施しても感度に利鈍の別があるのは、そのような理由があるからです。

宿とは、つもる、たまる、又はやどす、との意味ですから、前の物が積りたまってきた命のことをあらわしていいます。

年が変わっても昨年の借金は帳消しになりません。

年度換えになっても前年の残額(黒字赤字にかかわらず)は、今年度に繰り越してきます。

新しい車に乗り換えたからといって、違反した事項は取り消しできません。

死んで地獄で清算されても医(いや)されても霊魂に傷が残ります。

地獄はわれわれの魂の傷を浄め医やすことがあっても、滅し尽くすことはできません。

罪を滅ぼし得られるのは人間界で功徳を積むことによってこそ補えるのです。

つまり、人間界で犯した過ちは、人間界に生まれて償(つぐな)い贖(あがな)う必要があります。

そのような使命を受けてきたのが宿命であり、現在のわれわれを左右する運命となります。

今、述べたように宿命は出生と同時に一応定まって来た命ですが、運命は「命を運ぶ」意味から、われわれの意思によって善へも悪へも運べるのです。

正しい道に決意して進めば聖賢に達し、悪の誘惑に負けてしまえば、奈落の底へ沈んでしまいます。

仏典に八大地獄(はちだいじごく)・八大寒誘惑(はちだいかんゆうわく)と、その他数々の刑罰地獄があると載っているのは、例えば水の清濁分離機(清濁分離機)であり、浄化槽(ろかそう)・濾過槽(ろかそう)のような存在で、これも上天の特別の御配慮にあずかるところなのです。

われわれが敢(あ)えて地獄を否定するのはむしろ科学的であり、自然の摂理に逆(はん)しているといえます。

恐いから強く否定して己を慰めている愚論と見てよく、むしろ逆に地獄はもっと精密細密な装置で構成された、正邪清濁を分判する淘汰場であるといえます。

仙仏と凡俗はその理にかなわない行いに端を発するものであり、善悪の行為はその人の迷悟の観念の違いによって分かれてゆくものであることをしるべきです。

言い換えれば、今のわれわれの決意次第で、迷途(めいど)転じて明悟となり、賢者となり得る訳です。

道を求め、徳を積めば過去の歴世の罪業を消滅することができます。

そうなれば暗愚な人であっても心温かい賢明な人となり得るでしょう。

われわれの握る運命という舵(かじ)は切りようによっては過去の負債を帳消しにし、なお、大成果を証することができます。

六万年前の昔に返れば、過去に犯した数々の罪に悩まされることはありません。

世の中はもとより根っからの悪人はいません。

ところが厳として悪事を行っている事実があり、悪の結果として表われているのは一体どのようなわけでしょうか。それは愚盲な人があまりにも多いからです。

結果的に悪くなったり、また今、悪事を働いている人でも、悪を行っていると気づかない場合もあります。

なぜなら良い動機と思って行っても悪の結果にもなり得るからで、結果を見透す眼が開かれていないから判断力に乏しい訳で、もし心眼が点破されていたならば、いかにして過去の宿命を贖い、いかにして未来を切り開いてゆくか自ら判然となります。

その嗅ぎは速やかに明師に逢って指点を受けることです。

定まった命を背負って出生してきたのが宿命であるなら、勤勉奮発(勤勉奮発)や堕落退廃(だらくたいはい)によって変わってゆくのが運命です。

もって生まれ定まった宿命はなるほど避けられないでしょうが、過去により良く自分を勤修練磨(健修練磨)していたならば現在の境遇は、ずっと好転しているはずであり、違った運命の星の下にうまれていたわけです。

過去の世に散乱した心をもっと修養したり、収拾していたならば、今世の智能的働きはもっと冴え聡明であり、暗黒にとらわれて途惑うこともなかったはずです。

つまり前世においてすでに今世の原因を積んでいたことが分かれば、今生の心の持ち方が来世の良しあしを決める基礎であることも分かり、今に永遠の解脱法も得られることが理解できます。

昔、降生当時が第一天性であり、輪廻転生してきたのが第二天性であるから、第二先天性はわれわれの意思によって開拓できることが察せられます。

天道降生に遭(めぐ)り会えるのは、このような決意を容易にならしめ、直指人心(じきしじんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)に至らしめられることに等しいのです。

しかし、運命は開拓によってよりよく改められるといっても、可能な人と不可能な人と早晩の違いがあります。

素直と純真に一貫せる熱心さが備わっていれば、第二先天性のもたらした宿命をなお一層良い方へ導き、大好転を獲得できますが、怠惰・傲慢・卑屈の性格を兼ね備えてしまうと、向上が不可能だけはなく、悪の連鎖反応を起こして、いよいよ悲惨な末路を辿(たど)らねばなりません。

正しい法を得れば、すべての宿命や運命を素晴らし方向へ改変することができるのであります。

続く


家人経(五)

2022-06-18 22:21:20 | 家人経(家族経)

家人経(五)

もう一点、父母として小供のことを理解していますか。

人の祖父母として家人と付き合うことができますか。

その中にたくさんの問題が存在している。

お爺ちゃん・お婆ちゃん、中年、独身者など青少年、それぞれに対して長所・短所がある。

一点に停まって自分の事があまりわからない。

先ずいろいろな各層から意見を聞いて自分はもっと自分の考えを放下する。

人の立場で物事を考えるべき。

そうすると互いに理解することができる。

最近、道場(家庭)の中の教育は青少年に力を入れている。

但し、年配者の気持ちを疎かにしている。

年輩者の風範を道場に中からなくしてしまう。

まだわからないだろうが危険な状態にある。

三代道場の中で修道することは珍しくなる。

年輩者と一緒にいることが少なくなった。

大切にしなくてはならない。

年輩者がもう一つの面で発展している。

今、世の旅の終わりに向かって一つの結晶を生み出そうとしている。

たくさんの苦労をしてきて、色々な事で若い人には理解できない程たくさんの事がある。

年輩者の経験は、大きな社会環境に対してたくさん尽くしてきたことだ。

源の恩恵を忘れて何故修道することができるでしょうか。

ある言葉で、年寄りは人類第二の幼年老人です。

年を経ると本来の単純の心を回復する。天地万物を受け入れることができる。

たくさん見たり聞いたりするが、必ずしもすべてが正しいと言えない。

この時更に開発・学習して自分のできること(生命を継続してゆくこと)をやらなければならない。

再び生きるために準備する。霊性の再生の為に準備している。

もし、固執して頑固ならいかに霊性を再生できるでしょうか。

昔の父母はまるで小学校の先生です。

現代の父母は小供たちの独裁者になりました。

あなたの古い考え方が小供に理解できない部分があっても、小供に自由な空間を与えましょう。

子と親の分別は必要です。

上下、前後、道徳の規範として、例え自由空間を与えても道徳規範から離れたわけではない。

このようにして小供は健全な発達をすることができる。

もし、あなたが小供の尊重を得たいなら、交流して小供の話を聞いてあげて下さい。

自分の意志だけ与えて互いの接点がないならこのような交流は何の意義があるだろうか?

反発する小供に対し、自分自身に大きな欠点がることに気づいたら補充していかなければならない。

小供は成熟した考えがないかも知れない。

時にはあなたも成熟していない考えの時がある。

自分の小供と心の交流をして行きたいですか?

まず自分の青少年時代の思い出と態度を取り戻しましょう。

心霊は時空間によって疎外されない。

このようにして小供の時の心境を捜し出すことができる。

続き

 

 


性理題釋~八、人一を得れば聖

2022-06-18 22:19:48 | 性理題釋

八、人一を得れば聖

無極が動いて位置が生まれ、その一本が万殊に散って参りましたので『天がその一を得れば清となり、地がその一を得れば聖となる』と古聖が申されました。

故に、

仏教では『明心見性(めいしんけんしょう)と万法帰一(ばんぽうきいつ)』を説き、

道教では『修心煉性(しゅうしんれんせい)と抱元守一(ほうげんしゅいつ)』を説き、

儒教では『存心養性(ぞんしんようせい)と執中貫一(しっちゅうかんいつ)』を説かれました。その一とは真理であります。

人間は天の理を得て性となし、天の一を得て形をなしております。

故に先天においては、一である性が円満光明で渾然(こんぜん)とした天理であって、飲まず食わず、思わず考えず、母親の呼吸に随い、一気が流通されるのであります。

しかし生まれ落ちて、あーっという泣き声一声出してからは、陰気の二気が口と鼻から入り、理であった一は陰陽の二に分かれてしまうのであります。

先天では、ただ一つの性が、後天においては、もう一つの命を得て、性と命の二つに分かれて、各々その一を失ってしまいました。

性は一を失い、乾(けん)は変じて離(り)となりました。

離とは、はなれることでありますので、必ず分散するのであり、分散すれば又虚(むな)しくなります。

一点の霊性は舎利子(しやりし)の本位を離れてしまいますので、その本位は虚しくなる訳であります。

一点の霊性は、目に分散されて行って色を見分け、又分散して行って声を聞きわけ、鼻に分かれて行って臭いを嗅ぎ分け、口に分かれて行って飲食を味わい、言葉を話し、四肢(しし)に分散して行って動作をなし、皮膚に分かれて行っては痛さ・かゆさを知り、毛孔(けあな)に分散して行って寒暑の差を感覚し、臓腑に分かれて行って飢飽(きほう)を知り心に散じて行って六慾を産み、意に散じて七情をもちながら、東西にさすらい、酔うように生き、夢のように死んで朦朧(もうろう)とした、不安な世界へと落ちてゆくのであります。

命は又一を失い坤(こん)は変わって坎(かん)となります。

坎とは凹でありまして、凹があれば、必ず落ちるものであり、この一点の霊性は七情六慾に陥(落居)り、そして、酒色に溺れ(おぼ)れ、財気に埋(う)められて、四生六道(ししょうろくどう)の輪廻に陥って、本来の面目に立ち還ることが出来なくなります。

天が一を失えば、日月星辰(にちげつしんせい)が軌道から外れて乱れ、地が一を失えば、山は崩れ海は決潰(けっかい)し、人がその一を失えば、陰陽の虜(とりこ)となり、輪廻の陥ってしまうのであります。

性とは理でありまして、理が一を失えば埋められ、埋が一を得れば理となるのであります。

古言に『理あれば普く天下を渡り、理なければ寸歩も行き難し』と申され、理の貴い所を説かれました。

続く