真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

道の真象~すべては一点に帰す (霊の故郷に帰る7次元への道)

2022-06-03 21:12:34 | 道すなわち真理

5次元での統合によって、核(中心となる点)が明らかになります。それが陰陽界を統べる道すなわち真理です。

天地の始めは、これというなんら形のない混然としたもので、声もなく、臭いもない、極めて虚にして、神なる実に無一物の境地でした。

道教の祖、老子様は「無名にして天地の始め、有名にして万物の母」と申されましたが、これを表現しようがないので、天地の始めを「○」にかたどり、万物の生ずる状態を「一」にかたどりました。

ー万教帰一(すべての教えは「一」に帰る)ー

道は大にして無名であり、故に『強いて名づけて道という』と申しました。

又、道は大にして無形であります、故に『強いて圏「○」を以ってこれをかたどった』のであります。

では、圏「○」はなんであるかを追求しますと、一の静止した姿で、虚なる「一塊の真理であり、又道の全体であります。

一は圏の動いた姿であって、宇宙一切万物を生じる母体であり、万物はその実在の現れであります。

これを「一本は万殊に散る』と言い、又『道の達用』と申しております。

圏が動いて一が生じ、一が縮まれば点「・」となり、点「・」を伸ばせば一となります。

そこで実に圏と一と点は動静と伸縮の違いであり、変化して極まりないものであります。

これを放して拡大すれば六合「東西南北上下、すなわち天地宇宙」を満たし、無際限の状態で伸長するので「一」を以ってこれを表し、又、之を巻いて縮小すれば密(極めて微細なもの)にも蔵められるので点「・」で表現したのであります。

拡大すれば大にして外になく、縮小すれば小にして内にありません。

故にこの道は天地に行きわたり、一切の万物を含んでいるのであります。

実に不可思議な働きをするので『真空妙有』と申されましたが、あらゆる万物の生霊を支配する主宰者であります。

ー神道の真象も同じー

この主宰者は天にあれば「理」と呼び、人に宿れば「性」と名づけられます。

そこで理とは万物の本体を統一するところの性であり、性とはあらゆる物の各々が具有する所の理であります。

人々は各々その性をもちながら、その有ることを知りません。

若し、この性をお把握することが出来れば、大悟した神聖の境地になられます。

然し、これに反して理を迷い、性を把握することがなかったならば、鬼魂の世界に落ちなければなりません。

故に『千経万典は一点に如かず』と申しまして、如何に多くの経典を読んでも、「名師の一点」を欠いては、何もならぬと申されたので、「一点」が如何に大事であるかを知ることが出来ます。

この「一点」は、孟子様の四端 『惻隠の心即ち仁の端、羞悪の心即ち義の端・是非の心即ち智の端、辞譲の心即ち礼の端』を統一し、その中に万善を包含しているのであります。

これを図表すれば縦は智と礼になり、横は仁と義になりまして、四端の交差する中心に信があるわけであります。

孔子様は 『人にして信なければ、その可なるを知らず』と申され、人間にもし信がなければ、何事もあてになるものではないと申して、この重要性を説いた訳もここにあります。

ーキリスト教はじめ古来すべての十字架が示すのは十字の中心の「点」ー

又、その重要性を縦に書いて「|」となし、横に書いて「─」としたのは体と用(本体とその働き)とを十字の形に現して、その縦には経と理が、横には緯と数が入るのでありますが、この意味を深く玩味し、探究するならば、誠に極まりないものがあります。

故に老子様は清淨経に『大道は無形にして天地を生育し、大道は無情にして日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す』と申されました。

道は未だ天地が成立せぬ時、その本体を立てられ、既に天地が形づくられてからは、その運用を拡大して天地万有に及ぼしたのであります。

ー道の淵源ー


第二章 天人一貫の妙理 (二)無一物故に無尽蔵であり、真空にしてこそ妙有を生ずる

2022-06-03 21:10:32 | 天道の淵源

(二)無一物故に無尽蔵であり、真空にしてこそ妙有を生ずる

なぜなら、現象界(色)があって始めて受・識・行・識の四蘊(しうん)が生ずるものであります。

故に無色の気界であっても因果賞罰が繰り返えされている境界であり、毀誉袤貶(きよぼうへん:ほめたり、そしったりする世間の批判)の行われる天界であることが理解されます。

つまり、相対性の陰陽の霊気が交流している所でありますから、現代語で表現するなら、世界の四次元性、時間空間の相対性、有限性の天界と申せます。

理天界は想念思索なく、陰陽の対立もなく、一のみをもって万有を貫き永遠に存在して尽きる所がありません。

善悪是非を超越し、天地・乾坤を包み、男女・陰陽に変じていない元の原理の姿なのです。

バリティ(光子)に例をとって申しても、偶と奇の二種類があり、電子を分析するとまた陽イオン・陰イオンがあります。

かくして人間頭脳の研究の限界は陰陽界を脱することはできません。

西遊記に、孫悟空は釈尊の前で大法螺(おおぼら)を吹き、筋斗雲(きんとうん)に乗って十万八千里を駆け走り五陰山に至り、そこに名前を記録して帰って見れば釈尊の掌中に自分が乗っており、書き留めたはずの自分の筆跡が中指にあったと記されています。

人間は傲慢な態度で無限の世界に挑戦して征服を試みようと力んでいますが、ちょうど反り返った孫悟空の姿が想い浮かべられます。

この妙玄甚深(みょうげんじんしん)なる大理天には、敬虔な信心と祈りをこめてこそ通ずるもので、猜疑心を抱いたり物理を探求するような心構えで知ろうとすると反って遠ざかるのみであります。

天道の秘宝を得て霊眼を開かれますと、その悟り得る範囲は天体図で画けない遠い星座の世界から、小は電子よりもっと緻密(ちみつ)な理に深く遠く達することができるのです。

無極は、天体日月から人間・五行・万有を絶対的慈愛をもって変則なく運行し続けています。

天地未判然の前、独り際限のない永遠の太古から存在し続けているのです。

世人は太極を始まりと知っても、主体である無極を知りません。

無極は無始無終で真常にして変わりなく、無限の空間性と無窮の時間性を有しています。

寂然たる純真体であって陰でも陽でもありません。

すなわち空であり、無であります。

しかし、無は無ではなく空は空ではありません。

清浄経(せいじょうきょう)の中に「空を観るに亦空、空も空の所無し。空の所すでに無なれば、無無もまた無なり。無無すでに無なれば湛然(たんぜん)、常に寂す。」とあります。

あらゆる有無の形体はこの無から生長されないものはなく、空の中に妙有る所以であります。

釈尊はこう申されました。「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ、空なり。空は即ち是色なり。」すなわち色象は妙空に由って造化されたものであり、この妙空を悟り透すには、自然の形象を推して真空の存在を証明できる訳であります。

この空はわれわれの観念にある滅び尽くされ、破壊された後の空虚の姿ではなく、また無味乾燥として、消失し終わった状態の空でもありません。

無尽無窮に造化の理が密蔵され、化育生成の正気が充満して、有為の形体を創造する妙理が溢れ盈(み)ちているのです。

宇宙森羅万象、生きとし生けるものを設計する全智の働きとそれを創造する全能の力を包含し、過去も現代も未来もその形体を現わされなっかたが、すべてのものの運行と生育に欠ける所がありません。

われわれは形あるものを珍重し、加工された製品を宝として保存していますが、すでに形象として生じたものはただ破壊と滅亡があるのみです。

ところが無極の真空は、万有を生み出す偉大な力を蔵(ひ)め、無限の創造性を含んでいる雄大なる絶対無なのです。

無にこそ真実があり、妙味があります。

老子様は「惚(こつ)たり恍(こう)たり。その中に象あり、恍たり惚たり。その中に象あり。窈(よう)たり、冥(めい)たり。その中に精あり。その精は甚(はなは)だ真なり。」また「吾は名を知らず、強いて名づけて大道と謂う。」そして「大道は無形にして天地を生育し、無情にして日月を運行し、無明にして万物を長養す。」と無の働きの窮(きわま)りなきを教えておられます。

孔子様は「四時(春夏秋冬)を行い。百物を生ずるもの天何をか言うや。」と、感嘆されました。

孔子様の説く「天」と老子様の言う「道」はすなわち天道の根本義を指しておられます。

真に無形・無情・無名の世界こそ絶対の世界であり、そこにこそ一切の象があります。

無一物なるが故に無尽蔵であります。

絶対無の懐の中にこそ一切の有は存在し得るのです。

あらゆる宇宙生物はその暗示や意思に基づいて働きます。

道も空も無も天も名称こそ異なっていますが、同じ無極であり理であり、老〇様(ラウム)のお慈悲深いお姿であります。

有形の物象はいかに剛(かた)くても終始があり、やがては破滅を免(まぬが)れません。

釈尊は「一切有為の法は夢幻泡影(むげんほうえい)の如し、また電の如く露の如し、応(まさ)にかくの如く観るべし。」と申されました。

物象はいかに貴くとも本末があり終始がありますが、それに執着して真諦を見失っているようです。

生者必滅の原理から考えても、人間界に真常を求める事態がまちがいであります。

御聖訓に「日月は光なりと言えども終いに尽くるあり。」とあります。

久遠に不易の法を求める人は、まずこの真偽を見極めて妙理に徹する必要が肝心であります。

続く


家人経(四)

2022-06-03 21:04:48 | 家人経(家族経)

家人経(四)

生活は一つの芸術です。

人間世界に来た生命は将に生活の芸術を学ぶために生れてきた。

芸術に必要なのは讃美ではなく、鑑賞する為にあり、鑑賞とは理解の体会である。

異性の異なりによって体験することが重要であり、この芸術について、あなたの身上の道になるまで続けることです。

一人の有名な音楽家にとって最初に音楽を学ぶ時、楽譜はまるで乱れた譜号であったり、乱れた曲に見えました。

指とピアノは互いに調和をとることはできません。

名と楽譜は一体として見ることができません。

但し段々と練習している内、くり返しの切磋琢磨の中で技術を習熟する内に人に感動をもたらすことのできる創作をすることができます。

その時、楽譜はただの記号ではなく指と鍵盤は融合することができる。

故に芸術の中に道があり道の中に芸術があります。

皆さんはまだ練習の中にあり、学習の中にあり、必ず不自然な中で勉強することがあります。

正に深く勉強した中に本当に道の化身になります。

その理由はあなたの身上に道があるからです。

そしてわざとらしい不自然さもなくなります。

しかもあなたはたくさんの人を成就させることができます。

 

孔子様が周遊列国の中、顔回が米を貰ってきた。

顔回は少しとって食べた。

そして孔子様にその粥をすすめた。

孔子は見なかったように装った。

そして夢を見た話をした。

夢の中で前輩者が食べた後に食べたことを伝えた。

顔回は粥の中に黒いもの(粥の焦げた部分)があったのでそれを取ったことを言った。

孔子は、自分の目で見た事でさえ間違いがある。

まして聖人でも過ちがある。(人はいつも自分の目を信じている。しかしこの目でさえすべて信じるべきではない。)

十分に検討して人と人と付き合う中で、もし理解していないたくさんの誤解がある。

誤解がある時はただちに誤ちを認めればそれは貴いことです。

もし一歩さがってよく理解しようとして見れば多くの争いを避けることができる。

自分の足りない部分をよく理解しなさい。

謙虚に学習しようと思えば、あなたは深い理解し対応できると思います。

自我意識の働きを避けることができます。

相手の存在を無視することなく、相手の存在を認めて口争いの発生を避けることもできる。

 

前回から見ると乾坤の長所と短所それほど大きな違いはない。

それは性別の異なりによってある部分を特別にあらわしている部分があるからです。

今現在婚外情は乾の特許ではない。

忠を果たさない妻も結好ある。

一生懸命仕事をして家族を養うのに必ずしも乾道がやるべき仕事ではない。

妻によって家族を養うそういう家族もある。

断言できることは坤道は乾道より勇気を持って決断することができ、思いやりについて論ずるならば乾道は坤道より細やかさを持つ事があります。

乾坤の長短は元々一定の原則がない。

私が好きか嫌いかという尺度で人を諮ってはいけない。

その理由は愛は相手を奪うことではない。

相手を征服することではない。

夫婦の間の付き合う道はただ相手に勝つために、ただ自分を強く見せるためにすることは絶対に円満を得ることはできない。

あなたが必要とすることは、競争する友が必要ではない。

ただ互いに扶け合う人が必要です。

しかもあなたが対面するのは人間です。

完備の神ではない。

ゆえに完備の枠をもって互いに束縛してはいけません。

妻は夫の付属品ではない。

夫は妻の列車の頭ではない。

夫婦はこの家人を支える二つの大きな柱(大黒柱)です。

どちらか片方が傾いても、弱勢となって家人の運命に影響を与えることになる。

今現在は誰が誰の話をきく時ではない。

むしろ誰が誰を尊重すべきである。

今後家人間について夫が妻を圧迫し過ぎては、あるいは妻が夫より強気でいるならば互いに反省すべきである。

私の能力が高いかも知れないとか、私の方が決断力を持っていると言えば、あなたは相手の事をよくよく考えているか、相手の感受を疎かにしてはいないか、あなたは感じていますか。

あなたはどれほどできるか、どれほどわかったのか、あなたは家人に自分のいい所を見せびらかす為に存在しているのではない。

家人を穏やかに安全にする為に存在しているのです。

道場の中で女性権力主義、男性権力主義は同じように持ってはいけない。

家人を持っている人は必ず自らはっきり理解するべきです。

今後家人に対する道は如何にするか大体わかりましたか?

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