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にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

春庭ことばのやちまた>略語の未来

2012-05-06 07:00:00 | 日本語教育
2012/05/06
春庭ことばのやちまた>略語の未来

略語の未来
haruniwa
日本語語彙論のなかで、省略語の問題、いろいろあっておもしろい。
2009-01-18 10:43:56 返信フォームへ 掲示板へ戻る
Re:略語の未来
haruniwa
DVDはデジタルビデオディスクだから略語としてはビデオでいい。DVDを借りるとき、「このビデオ一泊いくら」と聞くのは正しい。
むろん、AVがデジタル化したとしても、アダルトビデオという略語は生き残る。

V6はトニセン(twenty century20世紀)の3人とカミセン(カミングセンチュリーcoming century来る世紀)の3人にわかれていたはずだけれど、21世紀になっていらい、トニセンカミセンと言わなくなったのは、21世紀を「これからきたる世紀」と呼べなくなったからか。

沢田正二郎を「サワショー」嵐寛寿郎を「アラカン」と呼んだ映画ファン。
現代でも仮名四文字への省略は、そのスターへの親しみと愛好を表現する方法となっている。

木村拓哉キムタク。松たか子のたった一字を省略してマツタカにすることが、何の省略になるのやら、と経済学の徒は言うのだろうが、「自分だけの親しいスター」という気分を出すために、ファンは省略する。

20世紀後半からアルファベット省略語が増えてきて、AV、DVDのほか、なじみの略語が生活に入り込みました。

20世紀には日常生活ではあまり聞かなかったCEO (Chief Executive Officer)
最高経営責任者も、今や毎日新聞でお目にかかる略語。

電子メールが普及してからは、英語の通信用語が会社用語として入り込んだ。

ASAP (As soon as possible)
できるだけ早く
ってのは、以前は「出来早」なんて言っていたんじゃないかな。

POP (Proof of purchase)
購入の証明になるもの。通常パッケージのバーコードなど。
という略語は、セブンイレブンがPOPシステムを導入したというニュースで見たので、20世紀には日本に普及していた略語なのだろう。

RSVP by phone (Reservation requested by phone)
招待状などの末尾にある、予約は電話で行ってください」という意味。

コンピュータ関連用語は、あっというまに入り込み、日本語の略語を考える間もなく広まってしまった。
CPU、HTML、DB、RSSなど、もとの英語がどんなだったかなんて、だれも知らないうちにパソコン業界に入り込んだ。
CPUは中央演算処理装置Central Processing Unit」の略だとか知らないうちにCPUの大きさがデカイほど優秀なコンピュータだ、というイメージだけわかった。

わざわざアルファベット略語で言わなくても、もともとの日本語略語で言っていいんでないかい、という略語。
たとえばUN(United Nation国際連合)は、国連と言ったほうがわかりやすいと思うけれどな。

でも、EU(European Union)欧州連合を「欧連」と言う人はいないなあ。

というわけで、アルファベット省略語を駆使する女子高校生は、「KY=空気読めない」の流行以後、衰えを知らない。
ギャルことばは、大人にはわからない略語であることがミソだから、KYのように、大人も使うようになれば廃れる。
例外は「H」くらい。1980年代以後、「エッチする」は、日本語語彙として定着した。

女子高校生御用達アルファベット略語。

HKとは話題を変えるときに言う「話、変わるけど(Hanasi Kawarukedo)」の頭文字。いつまで使われるのか、それとも「H」のように定着するのか。

IKとは「イラッとくる(Iratto Kuru)」の頭文字をとったアルファベット略語で、苛立つさま、思い通りにならず、気が焦るさま

MIWとは「マジで意味わかんない(Majide Imi Wakannai)」の頭文字

「社会言語論」という授業を担当しているので、毎年学生に「キャンパスことばギャルことば」という若者語の採集レポートを課している。
このレポートを見ると、現在大学内ではやっていることばや、高校生の時使っていたことばのレポートを集めることができるのだが、大学生が集めた高校生用語が、すでに廃れている語として報告されることも多い。

アルファベット略語は、社会全体には定着しにくい語彙だと思うのだが、さて、あと50年後にも残っている略語は、どれとどれだろう。

天気予報のように、「日本語予報」をしたら面白いだろう。


にっぽにあにっぽん語教師日誌>教師役得の文化発表

2012-04-30 07:00:00 | 日本語教育
2012/04/30
にっぽにあにっぽん教師日誌>日本語教師のおたのしみ会

日本語教師役得
haruniwa
2008/11/09 07:47 yokochann おはよう!なんか・・役得って感じがしてきましたけど~

という足跡コメントへの返信
2008-11-09 09:19:44 返信フォームへ 掲示板へ戻る
Re:日本語教師役得
haruniwa
 非常勤講師には、授業時間分しか講師料はでないので、講義ノート1冊を使い回して20年間同じ講義をする、という方法をとっている人なら給与が労働分に見合うでしょう。
 しかし私の場合は、毎年学生の顔ぶれが異なれば、ちがう授業を工夫したくなるので、授業1コマ90分の準備と事後処理に、5時間はかかります。

 1週間の間に、日本人学生向けの、日本語学、日本語音声学、社会言語学、日本語教育学の4種類の授業、留学生向けの、日本語初級文法クラス、非漢字圏学生向けの漢字クラス。準備の手間暇考えると、効率の悪い仕事にはちがいありません。
 毎時間の日本人学生からの授業コメントに対し、ひとりひとりに返信を書き入れるなんていう、他の先生方から見たら「無駄な努力」というようなことをやっているので、時給計算すると学生アルバイトのほうが割がいい。

 と、愚痴をこぼしつつも、教師の仕事を続けていられるのは、日本との交流を望んで留学してきた学生たちの成長を見届ける楽しみもあるからです。

 別のクラスでは、ラテンアメリカのグァテマラの男性、アフリカのセネガルの男性など、今期の学生の国もさまざま。いろんな文化を知ることができると思います。私の漢字授業を受講しているグァテマラの男性は言語学者だそうです。ひらがなを書くより早いといって、漢字にハングルでふりがなをつけていました。
 「ハングルを漢字のふりがなに使うグアテマラの言語学者」に出会うというのも、日本語教師の役得のひとつ。

2008-11-09 09:20:46 ページのトップへ
Re:日本語教師役得その1、世界の文化を知る
haruniwa
給料もらいながら、世界の文化を留学生から教えてもらえる、日本語教師春庭。教わる前には、ちゃんと日本文化紹介もデモンストレーションしています。


 留学生クラスでは「自国の文化発表会Show&Tell」の前に、発表方法の説明を兼ねて、日本文化紹介をします。日本語教師志望者が、お手玉や盆踊りを紹介したこともありました。
 私からの紹介は、毎年3種類。

1,「算盤の使い方とルートとπの数字紹介」これで、発表の態度を教える。皆の前に出たら一礼をして、「教員研修生の○○です。これからインドネシアの染め物、バティックについて発表します」「医学部研究生の○○です。ネパールの山と植物について説明します」などの自己紹介の仕方。

 教員研修生は1年後に教育学部で日本語での発表をすることになっているので、その練習という意味も含む発表練習です。なるべく原稿を読まずに覚えるようにし、皆が興味をもってくれるように、図表や写真や絵などを駆使して説明する。最近は、パソコンのパワーポイント表示による発表が多いです。
 数学教育・科学教育などで使う教具の実物を、聴衆に発表することもあり、実物を示すこともありますから、その見本として、私は算盤を教室に持っていきます。

2、「折り紙」鶴をデモンストレーションで折って見せてから、兜を折ります。折り方を、「最初に、まず、次に、それから」などの手順を表す表現を教えながら、実際に折らせる。
 
3「いろはカルタと百人一首」紹介では、自国の独自の文化を翻訳できない場合の発表方法について。「いろは」と言っても通じないと思ったら、その説明を簡単な日本語でする。日本語で表現できないときは、英語で言えば、教師が助太刀することを伝える。

 1の算盤。私は足し算しか覚えていないのですが、学生に数字をいわせ、私がパチパチと玉をはじいて合計数字を言うと、算盤を見たことのない国から来た人はおもしろがってくれます。英語では「アバカス(abacus)=計算盤」という単語があるので、アバカスの一種です、と紹介します。中国から来た学生がいるときには、日本の算盤は中国から伝えられたものだけれど、中国と玉の数が異なっていることなどを伝えます。

 数字の暗記法。「ルート2は、1.41421356。ルート3は1,7320508。ルート5は2.23620679、です。日本中の人が、この数字を言えます」と紹介すると、皆びっくりします。日本の数学教育はすごい!って思うみたい。種明かしの「富士、山麓に鸚鵡鳴く」は、日本語初級者だと、「富士」は皆知っているけれど、「山嶺」や「オウム」という単語をまだ習っていないので説明がやいへん。

 πの3.141592653589793238462643383279、は、ときどきネタ元の「産医師異国に向こう、産後厄なく、産婦、御社(みやしろ)に、虫さんざん闇に鳴く」の唱え方を、私自身が一部分、まちがえたりすることがあるので、めったに披露しない。

 折り紙の兜は、小さい折り紙で練習したあと、大きな広告チラシ(マンションの広告が多い)を使って、実際にかぶれる兜を作ります。留学生たち、みな大喜びで兜を折り上げ、頭にかぶってケータイ写真を取り合う。楽しい授業のひとつです。
2008-11-09 09:23:37 ページのトップへ

お試し・日本語教育能力検定試験2006

2011-09-18 11:32:00 | 日本語教育
2006/11/16 木 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力検定試験2006(1)

 日本語を教えるために、二種類の資格があります。
 A)日本語教育能力検定試験 合格
 B)420時間の日本語教育専門講座を受講

 (A)は、英語や国語のような国の機関が発給する「教員免許」では、ありませんが、公的な資格と見なされています。

 (B)は、420時間分の「日本語教師養成講座」を受講し、単位取得したという認定資格。

 ルーさんが大学内で獲得したのは、この「420時間講習修了資格」に相当する資格です。
 この(B)の認定資格を得るために、二通りの方法があります。

B(1)日本語教員養成コースを持つ専門学校で、日本語教育専門課程420時間以上の講習を受講する。
 B(2)日本語教員養成コースを持つ大学で、日本語教育に関する40単位以上の単位を取得する。
 
 このどちらかのコースで得られる資格。簡単ではないけれど、こつこつ努力すれば、日本語教員の資格が取得できます。

 それぞれの学校独自に単位を出すので、学校によっても資格付与の方針が異なります。
 しっかり授業を行い、厳しい試験をクリアできた学生を厳選して単位を出す学校もあります。
 しかし、受講料稼ぎが目的の、かなりイージーな授業で単位を出す学校も、皆無とはいえません。

 420時間の講習を受けて資格を得た先生だというので、授業を任せてみたら、学生からの基本的な質問にも答えられなかった、などの声も聞いたことがあります。

 「大学へ行く」と「大学に行く」は、どう違うのですか、「その階段をノボッテ、二階へいってください、と、その階段をアガッテ、二階へいってくださいは、どちらの表現がいいのですか」、「お二階へご案内、は、いいのに、お三階へご案内、はダメっていうのは、理由がありますか」など、初級中級上級、それぞれに日本語への疑問質問が山のように出てきます。

 「教えてください。『やはり』と、『やっぱり』は、どちらがいいですか」「あ、そりゃ、ヤッパ、やはりだろうね」「え、ヤッパですか?」「だからぁ、ヤッパは違クテェ、やはりのほうがいいんだよ」
 なんてことになって、学習者は「やはり」か「やっぱり」か「やっぱ」か、ますますわからなくなった、なんてことにもなります。

 「ちがくて」は、若い世代の用法。「ちがう」という動詞を形容詞のように活用させているのです。

 文法説明をこむずかしくこね回すのではなく、日本語がわからない留学生にわかるように説明しなければなりません。

<つづく>
00:45 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2006年11月17日


ぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力検定試験2006(2)」
2006/11/17 金 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力検定試験2006(2)

 日本語教師の資格、420時間講習受講のほか、もうひとつ、「日本語教育能力検定試験」があります。
 この試験、昔は文部省(現在は文部科学省)の所管だったけれど、現在は「財団法人日本国際教育支援協会」主催の試験になっています。

 こちらの試験に合格するのは容易なことではありません。毎回、日本語教師志願者8000~10000人が受験して、合格率は10~15%。
 一回の試験で合格するのは至難の業で、たいてい2回3回と受験し、ようやく合格できます。

 春庭が1発勝負で合格できたのは、受験したのが1988年の第一回目の試験だったから。以前の出題は、文法や言語学関係の問題が多かった、ということや、最初の年というのは、試験を作るほうも試行錯誤だった、という事情もあり、1回目で合格できました。運がよかった。
 現在の試験は形式も変わり、出題内容もかなり変わっているので、今受験したら、一発合格は難しいかも。

 今年2006年度の試験は10月に実施されました。
 今期、日本語教授法の授業を受けている学生のひとりが、「お試し受験」をしてみました。
 実力はまだ不足していますが、お試ししてみることで、どれほど試験問題が難しいものなのか実感できるので、日本語教師志望者には、現在の実力とは関係なく、受験をすすめています。

 「日本語教育能力検定試験」
 第一部の日本語文法、日本語史、言語学などの基礎知識を問う問題。問題量がハンパでなく多いので、考えている時間はありません。パッパと答えていかなければ、最終問題までいけません。
 毎年30ページに100問前後の出題があり、これを90分で解答する。長文問題もあるので、一問につき30秒ほどで解答しなければならない。

 第二部は、音声問題。リスニング、これも出題形式に慣れていないとむずかしいです。約30問のリスニング問題を30分で解答する。CDによる出題、聞き逃したらアウト。
 第三部は教授法など。80問+記述問題に120分で解答する。
 朝から夕方まで、丸一日、知的格闘技ともいえる問題と格闘します。

 一番簡単な部分、過去問をちょこっとお試しでやってみましょう。

 リスニングの一番簡単な問題。アクセントについて。日本語の高低アクセントの問題です。日本語標準語では、「雨」と「飴」のアクセント、高い音か低い音か、音の高低で意味を聞き分けます。「ア」が高く、「メ」が低いアクセントが雨。逆が飴。

 2004年度の第一問の3番「今の住所は、わかやま市です」と4番「最寄り駅はわかやま市駅です。」

 録音されたアクセントを聞き分けて、正しいアクセントを選ぶ。
3番「わかやまし」 
a 低高高高高 b 高低低低低 c 低高高高低 d 低高低低低  

正解 c 「わ」が低いアクセント、「かやま」が高く、「し」が低くなる。

4番「わかやま市駅」 
a 低高高高高低低 b 低高高高高高低 c 低高高高低低低 d 低高高高低高低

 正解 a 「か」から「し」まで高く、「えき」が低いアクセント。

<つづく>
00:10 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2006年11月18日


ぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力検定試験2006(3)」
2006/11/18 土 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力検定試験2006(3)

 2004年度過去問の中から、教授法の問題、日本語教育理論に関する出題をひとつ紹介。

1)「(日本語のための)独創的な教育理論」を考えるうえで、ふさわしくないものはどれか選びなさい。

a)ジェンダーの視点 
b)言語規範主義の視点 
c)文化多元主義の視点 
d)メディアのもつ権力性への視点

 正解は(b)です。
 規範主義すなわち「正しい日本語というものが存在すると考え、正しい日本語を変えていくべきでない」というのが「規範主義的な言語観」
 規範主義言語観によって日本語教育理論を考える」というのは、これからの日本語教育にとって、ふさわしい考え方ではない、というのが正解。

 日本語の規範的表現について、日本語教師は、「現在のところ正しいとされている表現」を確認しつつ、常に「変わりゆく日本語」に敏感でなければいけません。たとえば、ラ抜き可能形。
 現在のところ規範的な日本語としては、「でれる」「みれる」は、認められていません。 第二グループ動詞の可能形は、教科書に「食べられる」「出られる」と書いてあります。「明日の会議、出席できますか」「はい出られます」

 しかし、若い世代の人と話す機会の多い留学生には、「でれます」も、私は教えています。実際の会話では「でれます」の方を聞くからです。
 「若い人は、食べれます、みれます、でれます、と言います。若い人の可能形です」と、紹介しています。

 「正しい表現」とは、「現在のところ、多数の人が使っている」から、というのが、正しさの根拠になっているのにすぎません。
 「正しいことば」というのは、多数決です。多数の人がまちがって使えば、その間違いが「正しい日本語」になっていく。

 「読む」の可能形、江戸時代までは「読まれる」だったのに、現代語の可能形では「読める」になっています。これを「昔は、読まれるが正しい日本語だったのだから、私は英語の本が読める、じゃなくて、英語の本が読まれる、という正しい表現にしよう」と、言い出しても、だれも賛成しません。

 「室町中期までは、『じ』と『ぢ』、『ず』と『づ』の発音の区別はあったのに、現在は同じ発音になってしまってけしからん。正しい日本語として、発音をしっかりわけよう」と言っても、すでに同じになってしまった発音は、区別できなくなっています。

 そのうち、「ちがう」の「テ形」は「ちがって」「ちがっていて」だけれども、若い人は「ちがくて」といいます、と、教えなければならない日もくるでしょう。
 日本語は、太古から現代まで、歴史の流れのなかで、常に変化してきました。

 私たちが平安時代とは異なる日本語を話しているように、千年後の日本語は、現在と大きく違っていることでしょう。「せねン ぐぉ わぁ、オックィ ちがくてぇ、いんじゃあ。(千年後は大きくちがっているでしょう)」と、言っているかもしれません。

 では、次に、今年2006年度の「日本語教育能力検定試験」の問題の中から、第一部第一問の「仲間はずれをさがせ」という問題をいくつか紹介しましょう。

 日本語教育能力検定試験。
第一問は一番カンタンなクイズ形式。選択肢の中から、仲間はずれをひとつ選択すればいいのです。カンタンだと言ったけれど、日本語の基礎的知識が必要です。

 春庭からのヒントをつけておきますから、仲間はずれをさがしてみてね。
 30秒以内に答えてください。(実際の試験では、100問を90分で解答する。長文問題もあるので、一問に30秒以上はかけられない)

2)ふたつの語の組み合わせの内容が、他とちがっているものを選べ。

a 親・子 
b 夫・妻 
c 父・母 
d 先生・生徒 
e 先輩・後輩

ヒント:ペアの組み合わせ、語として成立するために、相手の存在が絶対に必要なのはどれ?必要でないのはどれ?

 答えは(d)です。当たった?語彙論の基礎です。解説は次回。

<つづく>
00:37 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2006年11月19日


ぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力検定試験2006(4)
2006/11/19 日 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力能力試験2006(4)

a 親・子 b 夫・妻 c 父・母 d 先生・生徒 e 先輩・後輩

 のうち、a、b、c、eは、一方が存在するなら、かならずもう一方の語が存在する、「必須ペア」の組み合わせです。

 「子」が存在するなら、必ずこの子の「親」がいる。「妻」を名乗るなら、法的であれ事実婚であれ「夫」が存在する。「先輩」と呼びかけることができるのは、その人の「後輩」にあたる人。子に母があるなら、生物学的に必ず子の父も存在する。

 しかし、「先生」は、別段「生徒」が存在しなくても「先生」と呼ばれる人が存在できる。
 たとえば、お医者さん。町の診療室で「先生」と呼ばれています。
 「先生」と呼びかけている人は、この先生のお弟子さんじゃなくてもいいわけです。「生徒」ではない患者さんたち、みんな「先生」と呼びかけます。

 生徒がいなくても、先生は存在できる。つまり、「先生」という語にとって、「生徒」の存在は必須ではありません。
 後輩がいなければ、先輩が存在できないのと比べると、ペアの内容が違います。


 文法、仲間はずれさがし、動詞活用形の基礎を問う問題。

3)活用形が、他とちがっているものを選べ(30秒で答えてください)

a 行く 
b 書く 
c 咲く 
d 炊く 
e 泣く

 活用形なんて、むか~し国語の時間に習った気がするけれど、完璧忘れていますよね。
 でも、ほんとは、日本語母語話者、この活用ルール、頭の中の言語野にきちんと整理されています。
 ちゃんと話せているのですから。

 でも、無意識に使い分けているルールを、意識化しておかないと、日本語学習者の誤用を指導できません。
 活用をしっかりたたきこんでおかなければ、日本語教育、最初につまずいてしまいます。

 現代日本語動詞の活用の型は全部で三種類あります。第一グループの動詞(五段活用)と、第二グループ(一段活用)と、第三グループ(カ変・サ変)です。

 出題されているa~eの動詞は、すべて第1グループ動詞(カ行五段活用)です。第1グループの動詞は、音便形が異なるものがあります。
ヒントは、「た」をつけた形「タ形」にしてみること。音便形のちがいがみつかります。

 正解は「a」です。

 「ます」をつけると、いきます、かきます、さきます、たきます、なきます、になる。カ行五段活用の動詞、「ます」の前は「き」になる。

 ところが、「た」をつけてみると、行った、書いた、咲いた、炊いた、泣いた。
 b~eは、イ音便(い・おんびん)の形になり、「た」の前は「い」です。でも、「行く」は「行った」になり、「た」の前は「促音の、っ」、促音便の形になります。

 「かく」「かきます」「かいた」、「さく」「さきます」「さいた」、他のカ行五段活用の動詞は、規則的に変化する。でも、「行く」は例外なのです。

 ルール通りに活用させていくと、「行く」「いきます」「いいた」になります。
 「行く」は、カ行五段活用の音便ルールの例外として指導します。
 
 「きのう、学校へいいた」と発話している日本語学習者がいたら、「あ、音便の規則が定着しているけれど、『行く』が例外だと教えたことを、忘れちゃったんだな」と、見当をつけて指導しなければなりません。

<つづく>
00:23 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2006年11月20日


ぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力検定試験2006(5)」
2006/11/20 月 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力検定試験2006(5)

 2006年度日本語教育能力検定試験。仲間はずれ探しの出題をつづけましょう。

4)助詞「の」を用いた文の性質が、他とちがっているものを選べ

a 今日会議があるのを知らなかった 
b 泥棒が侵入するのを目撃した 
c 急激に気温が下がるのを感じた 
d 運動会で走っているのを撮影した

ヒント:「こと」におきかえられるかどうか

 正解「a」 
 「a」の「の」は、「こと」に置き換えられる。「今日会議があることを知らなかった」は自然な表現です。しかし、他の「の」は、「こと」に置き換えると不自然な日本語になる。「泥棒が侵入することを目撃した」は、不自然です。

 日本語学習者が「私は、友だちがプールで泳いでいることを見ていました」という作文を書いたとき、日本語教師は、これでは不自然な日本語となると教え、「泳いでいるのを見ていました」と添削してやります。
 文法用語で説明をするのは、できる限りさけます。文法用語で説明すると、ますますわからなくなります。

 言語学や日本語学研究者になるつもりの日本語学習者には、文法用語をつかって説明してもいいでしょう。

 b、c、dの「~の」で名詞化されている文は、発話者の目の前で起きた「現象・事象」の出来事を描写した文です。「の」のうしろには、動詞述語がつづきます。

「~の」で表されている事象が起きているのと同時に、文末の動詞が行われています。
 「運動会で走っている」という事象が行われているのと同時に「撮影」という動作をおこなっています。この場合、「こと」に置き換えることができない。

 「~こと」は、一般化された事象を表現します。「a」の「会議がある」は、発話者が現在目の前でおこっている事象を描写しているのではない。「会議がこれから行われる」という一般的な内容を述べています。

 「11月19日の東京女子マラソン。土佐と高橋がせりあって走っているのを見ていた」
 この文で、「走っている」と「見ていた」は同時に行われているから、「こと」にはできない。

 しかし、「土佐と高橋がせりあって走っているのを報道した」
という文で、「報道する」は、生中継で見ながら報道する以外にも、夜のスポーツニュースで報道してもよい。同時に行わなくてもよいのです。
 すると「土佐と高橋がせりあって走っていることを報道した」と、「こと」に置き換えられる。

 この違いを、文法的に解説すると、一般の日本語学習者は、よけいにこんがらがって、わかりにくくなってしまうことが多い。ほとんどの日本語学習者は、「日本語学」を専門に学ぶのではないのです。

 「日本語をつかって仕事や生活をする」あるいは、「日本語をつかって、研究、学習する」のが目的ですから、「動詞を名詞化をするとき、助詞の『の』をつかうか、形式名詞『こと』を使うか、うんぬん、、、」と、説明すると、いっそう難しくなって、わからなくなります。

 それよりも、たくさん例文を示してやることによって、学習者が例文の用法から自分で察するようにしてあげる方法をとります。

 「こと」と「の」を使い分けている例文をたくさんあげてやらないと、まちがえてしまった学習者は、用法を察することができません。

 「私の趣味は、泳ぐことです」はよいが、「私の趣味は、泳ぐのです」はダメ。「友達が泳ぐのを見ていました」はOK。でも、「友達が泳ぐことを見ていました」は不自然な文になる。

 日本語母語話者(生まれてから日本語を自然に身につけた人)は、無意識にきちんと「の」と「こと」を使い分けています。
 頭のなかで、えっと、動詞を名詞化するときに、この場合は「こと」じゃなくて「の」が正解だよな、と、いちいち頭のなかで考えることもしないで、自然に使い分けができます。

 しかし、この使い分け、日本語学習者にはとてもむずかしいのです。
 日本語教師は「無意識に日本語を使っている」では、教えることができません。学習者の立場にたって、日本語を意識化する必要があるのです。

「どうして、友達が泳ぐことを見ていましたと書くと、ダメなの?」と、質問してくる学習者がいた場合、説明できるかどうか、日本語教師の技量が問われます。

 「ダメなもんは、ダメなんだ」「日本語では、こう言わないんだから、しょうがないじゃない」と、すませる日本語教師もたくさんいますが、、、、

<つづく>
09:02 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2006年11月22日


ぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力能力試験2006(6)」
2006/11/22 水 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力能力試験2006(6)

 2006年度、日本語教育能力検定試験より、次は動詞の「タ形」の内容を問う出題。

 学校で教えている現代国語文法では「過去の助動詞」として扱われている「タ」ですが、日本語教育では「動詞のタ形」として扱います。なぜ「過去形」とよばないのかというと、理由があります。次の問題をやってみましょう。

5)「た」の用法が、他とちがっているものを選べ

a バスはちょうど今出てしまった。
b よし、その事件、おれが引き受けた! 
c そういえば、明日は振り替え休日だった。 
d さあ、買った買った!買わなきゃ損だよ!

 ヒント:過去の「た」と、それ以外の「た」

 正解は「a」です。「a」だけが、すでに終わっている事象、過ぎた出来事を表現しています。

 「さあ、買った買った」と店員が声を張り上げているのは、お客さんに、過去の出来事を表現しているのではありません。「これから買いなさいよ」と、これから先の出来事をおすすめして表現しているのです。
 たった今、引き受けることを決意した「現在の気持ち」を「よし、引き受けた」と、表現します。

 「タ」が、過去のことだけを表現するのではないこと、わかっていただくための例文。
 冷蔵庫の中にビールが入っているかどうか、確かめようとドアをあけ、今、目の前にあるビールを見て、「あった、あった」と「タ」をつけて表現する。

 これは、「過去に、冷蔵庫の中にビールが存在していた」と言っているのではなく、今現在目の前に見つかったことを表しています。
 これを、日本語教育では「気づき、発見のタ」として扱います。古典日本語の「完了の助動詞タリ」の用法が変化したものです。

 冷蔵庫のぞいている人が「あ、ビール、あったよ」と表現したとき、それは「過去にビールがあったのであって、現在はないのだ」と、受け取る人はいません。

 日本語母語話者は、「あ、冷蔵庫にビールがあった!」「ほら、むこうから電車がきた!」「今日はサンマ安いよ、買った買った、大安売りだ」などの「タ」の意味内容をきちんと理解し、使い分けています。
 無意識に自然に意味のちがいを聞き分けているのです。

 母語として日常の会話で使うには無意識で十分ですが、教えるためには、「タ」の意味内容を意識化し、分析しておかなければなりません。そのうえで、「テンス(時制)」などの文法用語を使わずに、日本語がまだよくわかっていない学習者に、「さあ、買った、買った」は過去ではないことを、教えていきます。

<つづく>


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2006年11月23日


jぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力能力試験2006(7)」
2006/11/23 木 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力能力試験2006(7)

 「タ」がついた動詞は「過去形」と思いこんでしまった学習者、次のような表現が理解できなくなります。

 教師が「明日、最初に教室に来た人は、窓を開けてくださいね」と、クラスにいる日本語学習者に頼みました。
 「はい、わかりました」という返事が返ってこないので、どうしたのかと思っていると、日本語学習者たち、不思議そうな顔をしています。

 「先生、明日は、未来です。過去ではありません。明日教室に来た。過去形です。なぜ、明日なのに、過去形で言いますか」と、質問してきました。

 「開ける」は現在形、「開けた」は過去形ですよ、と、教えている先生に習ってきた学生もいるし、自分で「タ」は、英語の過去形と同じと思いこんでしまっている学習者もいます。
 「さあ、そこ、どいた、どいた、道あけとくれ!」と言われても、「どいた、どいた」は、過去のことを言っていると思ってしまいます。

 「明日最初に教室へ来た人は、窓あけて」という表現を理解できない学習者がいたとき、なぜ、明日の動作を「タ形」であらわすのか、指導者はわかっていなければなりません。

 「明日、最初に教室に来た人は、窓をあけてください」という文の指導。
 いろいろな指導法がありますが、私は、時計と日課表をつかいます。時間ごとの行動をかき、明日の予定表を学生に示します。

 明日、9時に教室へ来るとします。「教室へ来る」という動作が終了したあと、窓をあけます。
 9:10に「窓をあける」という動作をする前に、9:00「教室へ来る」という動作は、完了し、終了しているのです。

 窓を開ける前に、「来る」という動作は完了しているはずなので、「教室へ来た」と、完了の「タ」をつけて表現します。窓を開けるのは「教室に来るという動作が完了した人」です。この完了動作を「教室に来た人」と、表現しているのです。
 明日のことを述べる場合でも、「窓をあける」という動作の前に完了している動作をいうので、「明日、最初に教室に来た人」となります。

 連体修飾文の中の時制と、述部にくるときとでは、テンスの表現もかわってきます。
 「明日、最初に教室に来た人」は、OKですが、「明日、山田さんは、最初に教室に来た」とは、言えません。

 完了の表現を持っている言語の人には、完了と過去の意味の区別がわかりやすい。
 しかし、日本語は、「完了のタ」と「過去のタ」は、同じ「タ」なので、日本語母語話者は、完了と過去の区別を特別に意識せず、無意識に表現しています。

 母語の表現と同じものなら、学習しやすいし、まったく母語にないことは、学習したあとも使いにくい。

 世界中の国からやってくる日本語学習者にとって、どこがむずかしくて、どこがつまずきやすのか。
 学習者の母語によって、難しいと感じることが異なります。学習者の言語と日本語の異同を知ることも、日本語教師にとって、大切です。

<つづく>
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2006年11月24日


ぽかぽか春庭「日本語教育能力試験2006(8)」
2006/11/24 金 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力能力試験2006(8)

 2006年の日本語教育能力検定試験、次に、日本語動詞アスペクトのちがいを確認する出題。

6)「ている」の用法が、他とちがっているものを選べ

a 窓の外を見ている 
b 大声で叫んでいる 
c 道ばたに倒れている 
d 手をたたいている 
e グランドを走っている

 ヒント:動作継続か、結果存続状態か。

 正解は「c」です。

 「a、b、d、e」は、「~ている」が、動作が継続中であることを表現しています。
 見る→見ている→見た/叫ぶ→叫んでいる→叫んだ、というように、動作進行中(継続相)を行ってから「完了・過去」の表現「タ」がついた形となります。
 このアスペクトを示す動詞を「継続動詞」と呼びます。

 アスペクトとは、「動詞の相」をいいます。すなわち、動詞が実行される動きの順序、動作や出来事がどの段階まで実現したかを表現する文法的な表現です。

 日本語動詞は、「動作継続アスペクト」と、「結果存続アスペクト」をもつ動詞の二種類を区別することができます。
 動詞の「~ている」を教えるときに、学習者が混乱しないように、日本語教師は動作継続になる動詞と、結果の存続状態になる動詞を区別して指導する必要があります。

 結果存続状態の動詞は、ひとつの動作が終了・完了してから、その状態が続きます。「服を着る」という動作が終了して「服を着た」となります。そのあと、ずっと「服を着ている」という状態が続くのです。

 倒れる→倒れた→倒れている、結婚する→結婚した→結婚している、照明がつく→照明がついた→照明がついている、など動詞は、「結果存続動詞」といいます。

 日本語動詞のアスペクト研究の端緒をになった金田一春彦は「死ぬ」「(電気が)つく」などの動詞を「瞬間動詞」と名付けました。
 瞬間的に動作・作用が終了し、そのあとにその状態が続くからです。「死ぬ」という動詞を考えてみましょう。

 路上に猫の死骸を見つけた人が、「あ、猫が死んでいる」と叫びました。「死んでいる」という現在の発見以前に、「死んだ」となっており、「死ぬ」の動作は、息をひきとった瞬間に、終了しています。

 「死ぬ 死んだ 死んでいる」という順番で動詞の内容が推移し、発見者の目の前にあるのは「死んでいる」という「状態」です。
 「死ぬ」から「死んだ」の途中経過を表現したいなら、「死にかかっている」「死につつある」など、別の表現が必要です。

 「死ぬ」から、瞬間的に「死んだ」となり、そのあとずっと「死んでいる」という状態が続く、瞬間的におわった動作作用の結果が残存し、状態として続くので、現在の日本語学では「結果存続動詞」「結果状態動詞」と呼びます。

<つづく>
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2006年11月25日


ぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力能力試験2006(9)」
2006/11/25 土 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力能力試験2006(9)

 「~ている」は、英語の進行形と同じ。つまり「be~ing」と同じ、と思いこんでしまう学習者もいるので、日本語教師は気をつけて指導しなければなりません。
 継続動詞なら、「歩く 歩いている 歩いた」となり、「今、私は歩いている」は、動作継続の進行形「Now, I am walking」と、同義と考えてよい。
 しかし、結果動詞の「~ている」は要注意。

 「東京に住んでいます」をI am living in Tokyo.と、言ってはいけないと、英語の時間に教わったとおもいます。
 英語だといっしょうけんめい文法を理解しようとするのに、現代語の日本語文法については、考えたこともなかった、と日本人学生たちは言います。

 「死んでいる」の「~ている」と「歩いている」の「~ている」の内容は、ちがうのだ、ということを日本語教師志望者に気づかせるよう話をすると、「へぇ、今までそんなちがいがあるなんて、知らなかった」と、言います。
 考えなくても無意識に使い分けてきたのです。

 「私は半年前、2006年4月に、日本へ来ました。2006年5月から、東京に住みます。東京は、おもしろい町です」という作文を日本語学習者が書いたとき、「東京に住んでいます」と、添削してやることは、たいていの日本語母語話者は、できます。

 でも、「Now, I live in Tokyo、だから、『住みます』がいいです」と、主張する日本語学習者がいたとき、自信をもって「日本語には日本語独自の文法があり、日本語らしい表現があるのだ」という信念で指導するためには、日本語動詞アスペクトの理論を知っていたほうがいい。

 自分の母語にひきつけて外国語を理解しようとするのは、当然のことです。
 英語を習い始めた中学生のころの私は、なぜいちいち「ひとつのりんご」と「ふたつ以上のりんご」を分けて言わなければならないのか疑問に思いましたが、「英語は、そうなんだから、へりくつこねてないで、とにかく覚えろ」という答えしか返ってきませんでした。

 それで、英語が好きになれなかった思い出があるので、日本語学習者が抱くどんな疑問にも、いっしょになって考えていきたいと思っています。
(なぜ単数複数を区別するのか、については、このページに書いてあります)
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongo0603b.htm

 とにかく理屈はぬきに、丸暗記する、というのも、外国語学習のひとつの方法であることは確かです。しかし、納得しないと先へすすめない学習者がいるのも事実。

 日本語母語話者にとって、英語の関係代名詞や完了形などは、つかいにくいのと同じく、助数詞がない言語の人にとっては、たくさんある助数詞の表をみると、じつにたいへんだ、という気持ちになるし、授受表現(やりもらい)がない言語の人にとっては、やりもらいが「だれがだれに」しているのか、わからなくなってしまうのです。

<つづく>
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2006年11月26日


ぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力能力試験2006(10)」
2006/11/26 日 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力検定試験2006(10)

過去問題から、言語学、対照言語学の基礎の出題をみてみましょう。

7)助数詞(~個 ~冊 ~台 ~枚 など)に相当することばをを持っている言語とそうでない言語がある。助数詞にあたる言語がないものを選べ

a 中国語 
b 朝鮮韓国語 
c タイ語 
d ベトナム語 
e ヒンディ語(インド)

 正解は、e
助数詞を学ぶとき、a、b、c、dの言語の人たちにとって、自分の母語の単語を日本語におきかえればいいだけだから、学びやすい。完全にイコールではないものの、中国語では一个、日本語では一個と、覚えればよい。
 しかし、助数詞がない母語の人にとっては、ひとつひとつ覚えるのがたいへん。 

 「やりもらい」も、習得しにくい表現のひとつです。

8)やりもらい(動詞+あげる、動詞+くれる 動詞+もらう)などの表現がある言語とそうでない言語がある。つぎのなかから、やりもらいの表現がある言語を選べ。

a ペルシャ語(イラン) 
b マレー語(マレーシア) 
c シンハラ語(スリランカ) 
d 朝鮮韓国語  
e 中国語 

 正解は、c
 シンハラ語の母語話者にとって、「送ってあげましょうか」「宿題をおしえてもらいました」などは、母語にも同じ表現があり、すぐに理解することができます。

 しかし、授受表現がない学習者にとっては、だれが何をするのか、わからなくなってしまうのです。「貸してあげる」「借りてもらう」など、だれが、だれに貸したり借りたりするのか、なかなかピンとこないようです。

 「授受表現」がない言語の学習者が、知り合った日本人と話しています。
 「私の娘は日本語教師志望なんですよ。あなた、日本語勉強中なんでしょ。私の娘に、日本語を教えさせてください。あなた、日本語教えてもらってやっていただけませんか」と、頼まれました。

 「えっと、まだ日本語がわかりません。わたし、教えません」
 「ええ、だから、娘が教えてやれるようにしてもらいたいの。あなた、教えてもらってやってください」
 「えぇ?教えるのは、だれですか?」
 いったい、だれが、だれに何をするのか、混乱するのです。

 日本語教育能力検定試験、2004年度問題からの出題。

9)a~eの中から、屈折語ではない言語を選べ。

a トルコ語 
b アラビア語 
c スペイン語  
d デンマーク語 
e ポーランド語

 答え a 
 トルコ語は、日本語と同じ膠着語。すなわち、内容を表す語に機能をあらわす助詞などがくっつく。膠(にかわ)でくっつけるように、内容語と機能語がくっつくので膠着語という。

同じ膠着語である、モンゴル語、韓国朝鮮語、トルコ語などの母語話者にとって、語順が日本語と同じなので、日本語は、英語などよりずっと習いやすいことばです。

 インドヨーロッパ語は、語の形が変化することによって、機能のちがいをあらわす。このように語の形が変わることで、文法的な性質の違いを表す言語を屈折語といいます。

 日本語は「わたし」という内容を表す語に「が」「の」「を」など機能を表す部分がくっついて(膠着して)、「わたしは」」「わたしの」「わたしを」となって、文中の機能をあらわすが、英語は、語の形を変える。「 I 」「 my 」「 me 」

<つづく>
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2006年11月27日


ぽかぽか春庭「お試し・日本語教育能力能力試験2006(11)」
2006/11/27 月日 
ニッポニアニッポン語教師日誌>お試し・日本語教育能力能力試験2006(11)

10)中国語の特徴として、まちがっている説明を選べ。(2004年度の問題をアレンジ)

a 孤立語である 
b 声調言語である 
c SVO型言語である 
d 有声音・無声音のちがいで、異なる語になる
e 標準的中国語の場合、原則としてひとつの漢字に、ひとつの読み方しかない

 答え d

 中国語と日本語は、言語の系統が大きくちがいます。
 膠着語で、SOVの語順である日本語。一方、中国語は孤立語で、SVOの語順です。

 日本語母語話者にとって、中国語の声調(四声)の区別が聞き取れない。また、有気音・無気音の区別がたいへんです。
 一方、中国語母語話者にとって、日本語の有声音(清音)無声音(濁音)の区別がむずかしい。谷とダニ、缶と癌、虎と銅鑼、これらの聞き分けに苦労する。

 中国からきた学習者が、教室で、「てんき、いいですか」というので「えっと、ちょっと曇っていますが、まあ、降りはしないでしょう」と、答えたら、「(曇っていて、薄暗いので)電気つけてもいいですか」と、許可を求めているのだった、なんてこともあります。

 中国語は、同じ漢字文化圏なので、中国語母語話者が日本語を学ぶとき「漢字から意味を推測できるから簡単」と思っている学習者もいます。
 日本語母語話者も、「中国語を習うのは、英語よりは楽かも」と、思ってしまうようです。

 母語以外の言語を習うとき、どこが難しいかは、母語によってことなり、日本語の文法が難しいと思う学習者もいれば、「とにかく漢字がむずかしい」とネをあげる学習者もいます。

 学習者の母語の特徴を知っていると、つまずきの原因もわかることが多いです。3千から5千もある世界中の言語すべてに通暁すべきだというのではありません。
 5千ある言語も、大きくわければ3~5つのグループに大別できます。まず、大きなグループごとの特徴を知ること。

 世界中からさまざまな母語のさまざまな国から集まってくる日本語学習者。
 10月から後期の授業、今期も「教え子で世界一周」が、できました。

 今期、国立大学2校の日本語クラスで受け持つのは、中国、韓国、タイ、フィリピン、ベトナム、マレーシア、インドネシア、バングラディシュ、ミャンマー、イラン、ロシア、スエーデン、メキシコ、アルゼンチン、パラグアイ、オーストラリア、の16ヶ国。

 毎年20~30の国の留学生と出会い、毎年新しく知る国があります。でも、今期、「この国から来た留学生は初めて」という国がなかった。私の「教え子国めぐり」に新しい国を付け加えられないことは残念でしたが、異文化の話に花が咲く教室、楽しいですよ。

 日本語教育研究の日本人学生に、いろんな国の学生から教わった「世界こぼれ話」を披露しているうちに、日本語教師になってみよう、という気になる学生もでてきます。

 日本語教育能力検定試験の「仲間はずれをさがせ」問題をやってみて、「ふだん何気なくつかっている表現が、日本語学習者にとっては、理解しにくいものだったりすることがわかって、おもしろかった」と、興味を持ってくれます。

 日本語教育能力検定試験、なんとかなりそう、と思いましたか、なかなかたいへんだなって、感じましたか。
 「お試し」で、やってみたのは、第一部、第二部、第三部、全部で200問以上ある出題のうちの、10問です。問題はまだまだ190題ありますから、挑戦してみてください。

 「日本語文法には弱いけれど、読み書きおしゃべり、日本語でなんでもできる」と、いう方、おしゃべりできるなら、学習者の会話相手おしゃべり相手として、自分の日本語力を生かすことができますよ。
 ボランティアで、学習者とおしゃべりしてもらえるとありがたいです。

 ひとつひとつの文法まちがえていても、そんなの気にせず、どんどん話してみる「Try & challenge」の時間は有益ですが、なかなか留学生の話し相手をしてくださる方がいないので、「日本語会話」の時間も、「実際の会話」までいけないのが現状です。

 留学生、日本語学習者が日本語で話そうと奮闘するうちに、日本の文化と自国の文化の異同や、日本語と母語の違いや共通点に気づいていくことも多いです。

 ぜひ、地域のボランティア日本語教室などで、日本語学習者とお話してみてください。

<おわり>

英語教育、日本語教育2

2011-09-12 05:13:00 | 日本語教育


ぽかぽか春庭「岳君の英語教育」
2008/02/17
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(6) 岳君の英語教育

 英語ぺらぺらな人を見ると、「いいなあ、私、中学高校、英語さぼり抜いたしなあ」と、自分の「英語とことん苦手」を残念に思います。でも、生意気盛りの高校時代、まさか将来仕事で英語をつかわざるを得なくなるとは思ってもいませんでした。「日本文学か日本史を専攻する予定だから、一生英語使わないで生きていけるだろう」と、思って、英語の時間は校舎を抜け出し通学用自転車でサイクリングしていたのでした。

 今でも笑い話にしているのは、大学に合格して「入学前のガイダンス」が実施されるというので、私は「入学前にダンスパーティでもあるんだろうか。フォークダンスは踊れるけれど、ガイダンスはどうやって踊るのか」と、思ったことです。それくらい英語がわからなかった。

 今も苦手なまま英語を使う仕事をしています。私、ほんとに英語が苦手です。でも、英語ができない生徒だった私には、日本語でつまづく留学生の気持ちがよくわかる。何がわからないのかも推察できる。留学生がもつ「日本語の疑問点」について、きちんとわからせてやれる教師になれたのも、英語教授法を習った若林先生に「なぜan appleとapplesを区別するのか、という説明もできないような語学教師になるな」とたたき込まれたおかげと思います。

 自分が英語苦手だったから、子供にだけは小さいうちから英語塾に行かせようという親もいます。我が家の場合、塾のお金が出せないこともあって、私に輪をかけて娘も息子も英語が大の苦手に育った。

 英語塾に通わせようと思わなかったのは、お金がないってことのほか、ひとつの確信があったからです。英語を使う必要のある環境で仕事をする、生活する、ということになれば、いやがおうでも英語を使うようになります。必要がなければ、英語を無理に覚えることもない。

 この確信は、講演会できいた話がもとになっています。
 椎名誠の息子、渡辺岳くん。大の「英語苦手」でした。 中学高校と英語の通知票は「1」「2」でしたが、親は「勉強しろ」と言わずに、「カヌーに乗りたい」と言う息子を、友人に託しました。

 カヌーでカナダ・アメリカの川下りをしてから、岳くんは、アメリカの大学へ進学希望。
 以来、岳くんはカルフォルニア州に在住し、今では英語ぺらぺら、という話を、椎名誠の講演会でききました。渡辺岳は写真家となって2006年に、写真集『ONCE UPON A TIME』を出版。自分の道を歩いています。ほら、写真集のタイトルも英語だし、、、

 どんなに英語が苦手だという子でも、必要があって英語を使わなければならない環境の中にいて意欲があれば、必死で英語を覚えようとします。数年で日本の学校で中学高校大学10年間英語教育を受けるより短期間に英語習得ができます。要は本人の意欲の問題です。

 椎名誠の講演を聞いたのは、10年くらい前のこと。「東京シューレ」が行った「不登校生のための親の会」での講演会でした。
英語でも、他の勉強でも、子供がしたいと思ったときにすればいい。親は、「したい」という気持ちを呼び起こす環境をととのえてやればいい。
 以下、小学校英語教育について、疑問点不安点を述べます。

<つづく>
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2009年02月18日


ぽかぽか春庭「死ぬにはいい日だ」
2008/02/18
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(7)死ぬにはいい日だ

 「こどもの脳は柔軟だから、幼いときから発音を学ばせたほうがいい。親にできない英語の発音がすらすらできるようになる」という人もいます。自分の「英語できない」コンプレックス解消を、子供に押しつけてはいけません。

 英語的発音に親しませる程度のことなら、母語の発達を完成させるべき貴重な小学校の授業時間をつかわなくてもよい。母語はおおよそ12~14歳ころにひとつの完成段階になることが発達心理学研究でわかっています。小学校5,6年生は、「母語による論理的な思考」という訓練をするのに適している年齢です。

 「週に1~2時間英語を必修にする」ということがもう決まったことで変えられないなら、この時間を「英語になじませる」ために使うほか「世界の言語」の多様性を知り、同時に言語学基礎のための時間にしてほしい。
 世界には、さまざまな発音や文法を持つ言語があります。日本語と同じ文法的しくみをもつ言語もあり、発音が似ている言語もある。違う発音の言語もある。自分たちと同じ発想をすることばもあり、異なる発想のことばもある。まずは、そのことに気づかせると、子どもたちは「言葉の不思議」に興味を持ちます。

 教師が「ネタを仕入れる」テキストは、池上嘉彦『ふしぎなことば ことばのふしぎ』(ちくまプリマーブックス)または大津由紀夫『探検ことばの世界』(ひつじ書房)などを使用する。子供にわかりやすく興味深く「ことば」とは何であるか書いてあり、どのような外国語を習う場合で、その基礎的な力となる本です。大人の方にもおすすめ。言語学の基礎を知っていると、どんな外国語に出会っても、母語との違いを納得しながら理解していくことができます。

 「修飾語-被修飾語」ということばの仕組みで「重い本」「青い空」と並べる言語もあるし、「被修飾語-修飾語」という仕組みで「空青い」と並べる言葉もある。
 目的語・述語「パン、食べる」という言葉のしくみを持つ言語もあるし、述語・目的語「食べる、パン」という並べ方もある。

 私たちの耳には「R」と「L」の音が同じに聞こえる。けれど、「R」と「L」の音を区別する言語もある。日本語は「R」と「N」の音は別の音に聞こえるから「リス」と「ニス」は別の言葉だけれど、「R」「N」が同じに聞こえる言語もあり「リス」「ニス」がまったく同じ音に聞こえる言語もある。これは私たちが「right」「light」を両方とも「ライト」と聞き取ることと同じ、そんなことがわかってくる。
 言語の仕組みを知ると、異なる言語を学ぶとき、何が一番重要なことかわかってきます。英語ひとつをとっても、世界に多様な英語があることもわかります。

 インド人はヒンディ語なまりの英語でまくし立てるし、オーストラリア人のナマリも、もはや世界周知のことになっている。
 「It's fine day today」と、オーストラリア人が言うと、todayがトゥダイとナマリます。It's fine day to die.と聞こえたとしても、「死ぬにはいい日だ」と解釈せずに、「今日はいい日だね」と、挨拶したのだと思えばいいだけのこと。

 日本人には日本語ナマリがあるのはあたりまえのことです。日本語なまりの英語を使えばいいだけです。
 「r」と「l」の発音聞き分けだの「th」の発音を、小学校の授業時間を使って繰り返して練習させうんざりさせるより、「日本人は、RとL、thとsの発音の区別ができないから、そう思って会話してください」と、世界に周知せしめれば、それでOK。

 何でもアメリカのやる通り、言う通りにしなければいけないと思いこむのは、「占領下の日本(オキュパイド・ジャパン)」的発想です。もっとも、アメリカの政治家のひとりは「日本は、1945年以来、60年以上、アメリカの占領下にある」と発言しているし、日本の政治家を見ていても、確かに我々の国は「オキュパイド・ジャパン」だなあ、と思えます。

 アメリカが「郵便局の民営化」を望んだとき、日本の政治家がそれを「構造改革」と称して実行したのは記憶に新しい。そして、かんぽの宿が郵政から不動産会社「レッドスロープ」(田島安希彦社長)に1万円で払い下げられ、半年後には6千万円で転売するおいしい商売となったとさ。私も1万円なら、かんぽの宿買いたかった。なんで私に入札させないっ!と、言っても、入札すら行わない随意契約だったそうですから、コネがすべて。

 このボロ儲けの「レッドスロープ」の田島安希彦社長は、1987年東京大学法学部卒業。1999年株式会社学育舎(現(株)ウィザス)取締役本部長就任。2002年株式会社スピードリーディングジャパン代表取締役社長。『右脳速読―本は読むな!見ろ!』などの著作を出版。外資系子会社を使った土地売買で稼いでいる。
 たとえば。「不動産の企画開発のリーテック(東京都千代田区、平松克敏社長)は2007年11月20日、子会社のリーテックUSA LLC(テキサス州ダラス、田島安希彦社長)がテキサス州オースティン市内中心部の土地を取得したと発表した。取得価格は発表していない」

 「いいなあ、英語ペラペラだと、こんなおいしい商売ができるのか」と、「やっぱり子供には英語を習わせよう」という気になってきましたか。あ、それとも「うちの子、漢字がぜんぜん読めないので、将来は日本の首相になれるかも」かな?「酔っぱらって会見しそうだから、閣僚にどうだろう」って、そりゃやめておいたほうがよさそうですが、あなたのお子さんお孫様の将来には無限の可能性が、、、、、

 第二言語習得理論(母語ではない言語の習得)には、さまざまな論文が出されていますが、スペイン語母語話者が英語をならったり、ドイツ語話者がフランス語習ったりする場合をケーススタディとして学習理論が出されてきたという経緯があります。
 第二言語習得理論の多くは、同系統の言語話者の学習について述べているのです。

<つづく>
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2009年02月19日


ぽかぽか春庭「悪魔のことばがいっぱい」
2009/02/19
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(8)悪魔のことばがいっぱい

 同系統の言語間における第二言語習得理論は、欧米系の言語を話す人が日本語を学習するときに、参考にならない部分が多いし、日本人が英語を習うにも参考にならない。
 英語話者がモンゴル語を習うという場合、フランス語話者がバスク語(フランシスコ・ザビエルのふるさと)を習うときの理論というなら参考になるかもしれません。

 系統の不明な言語バスク語は、習得が難しい「悪魔の言語」と言われました。ヨーロッパ人は、系統の異なる言語を習う難しさに立ち往生すると、そのことばを「悪魔の言語」と呼びます。バスク人のザビエルはバスク語もイスパニア語(スペイン語)もできましたが、日本語を称して「習うことが不可能な悪魔の言語」と言い、ザビエルはほとんど日本語を習得しませんでした。

 ヨーロッパ人にとって、バスク語が悪魔の言語、宣教師たちにとって日本語が悪魔の言語なら、日本人にとっての英語も、習得が簡単ではない「悪魔の言語」です。自分たちの言語と発音や文法のしくみがかけ離れているとそれを「悪魔の言語」と呼ぶのが、自己中心文化観言語観を持つ人の発想。

 日本の子供が外国語を習うなら、最初は、発音が近いイタリア語(母音が5つで開音節)とか、文法のしくみが近い韓国朝鮮語やモンゴル語から習うほうが、習得はたやすく抵抗が少ない。発音も文法も大きく日本語と異なる英語は、日本の子供が習うには負担が大きい言語です。英語の優位点をあげるなら、最近は子供もたくさんの英語由来の外来語を耳にして育っているので、なじみやすい単語が多いということです。(私にとって世界言語の「希望」であったエスペラント語は、経済に関わらなかったゆえついに世界的に普及することなく、英語グローバリズムにまけました)

 母語による思考ができ、言語表現が完成していないうちに、中途半端に英語を教えても、英語が上達するわけではない。中途半端に教えずに、しっかりと英語を小さいときからたたき込みたいというのなら、小学校から教える意義もあるけれど。その場合小学校の授業時間,1日の授業5時限のうち、4時限は英語にして、ネイティブ並の英語力を持つ先生が英語で算数や理科を指導する必要がある。そして国語の時間は週に1回くらいしかとれなくなる、というカリキュラムを組まなければならない。計算もできず漢字も覚えていない子供を育てたいなら、それでよいけれど。

 母語と文法のしくみがまったく異なる言語を習う子供にとって、「バイリンガル」というのも、大きな負担です。
 近年の言語習得理論研究で、ふたつの言語を同時に習得しているように見えて、どちらの言語も中途半端になっている「バイリンガル実はハーフリンガル」の子供の存在が明らかになってきました。

 言語は、伝達の道具であると同時に、思考の道具です。
 バイ/ハーフ・リンガルの子供は、ひとつの言語を駆使して「思考力」を高めていくことが難しいことがわかってきました。

 日常会話をふたつの言語でペラペラできたとしても、理論的に思考する力や論述する力がが備わらないと、高度な言語生活はおくれません。「思考」するとき、どちらかひとつを選んで脳が処理しています。
 発話はふたつのことばでできるとしても、思考はひとつを選ぶのです。
 スイッチ切り替えで、両方の言語で思考できる子もいますが、二つの言語のどっちつかずになって、で中語半端な思考しかできなくなるケースもあるのです。

<つづく>
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2009年02月20日


ぽかぽか春庭「子供生意気化のすすめ」
2009/02/20
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(9)子供生意気化のすすめ

 帰国子弟が帰国したあと、日本の学校文化になじめないので、アメリカンスクールに通っている、などの例もききます。日本の学校へ通ってみたけれど、合わなかった、というケース。
 親は「海外生活をしていても日本語を忘れないように、日本語補修校にも通わせたのに」と、言いますが、これは、言語の問題ではなく、言語文化の問題です。

 「整然とした理論をたてて自己主張すること」が「学校で学ぶということだ」と教わってきた子供にとって、日本の学校文化は異質です。
 日本の学校は、「空気読む」ことが、生き残り策であるような日本社会のミニチュアです。

 日本の学校で子供に英語を教えたいなら、まず、生意気な子を育てること。これ、鳥飼玖美子も同じこと言っています。
 生徒が先生に何かにつけて文句を言うようなとき、「ああ、けっこうなことだ、生意気な生徒こそ英語じょうずになれる」と喜ぶ教師を養成する必要があります。

 「素直なよい子」「先生が話すことを静かに聞いて言うことをきく子」を歓迎する教師がいる学校である限り、英語言語文化を身につけることはむずかしい。
 クラス全員が、「反対意見を臆せず出せる子」とならないかぎり、予定調和のようなディベートをしても意味がない。

 朝礼のとき。「前へならえ」と号令をかけたとき、「まっすぐ並ぶことにどんな意味があるのか。各自が自由な場所に立って聞いていたら、校長のお話が無駄になるのか」と、議論ふっかけてくる子がいたとします。彼は、「まっすぐ並ばなくても、校長の話をきちんと聞ける」と、主張します。
 「おお、これこそ英語教育が望んでいる子だ」と、喜べる教師校長がいるのでなければ、英語じょうずは育たない。

 「まっすぐ並ばなければ校長の話を聞いたことにならない」という、有効な理由を教師はことばで示さねばなりません。彼と論争すべきです。(私には論争の準備アリ)
 それをせず「なんでもいいから、朝礼のときはきちんと並べ」と言いたいなら、それは英語を教える教師の態度ではない。英語は「他者に対して自分の立場を鮮明にし、自己表現を行い、他者を動かそうとする」言語です。

 子供が、親にむかって口答えをしたとき「こんな素直じゃない子に育ったのは、英語教育のために喜ばしいことだ」と、喜べる親じゃなければ、英語塾に通わせても、お金をどぶにすてるようなものだ、と、思っていたら、鳥飼玖美子さんも同じようなこと言っていたので、日本語業界に身をおく私だけの主張ではなく、英語業界でも同様な意見がだされているのだとわかりました。

 発音のしくみや文法が違うだけでなく、英語文化と日本語文化は、言語文化の基礎がちがいます。
 「和をもって尊しとなす」「以心伝心」「沈黙は金」「物言えば唇寒し」「言わぬが花」という言語文化精神が残っている社会で、子供たちに「ことばは論議するためにあり、自分の意志をはっきり人に伝えて、人を自分のことばの通りに動かすことが肝要」と考える言語文化を仕込むことはきわめて難しい。

<つづく>
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2009年02月21日


ぽかぽか春庭「以心伝心言語文化」
2009/02/21
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(10)以心伝心言語文化

 「和をもって尊しとなす」「ツーと言えばカー」という社会の中に住んでいる私たち。
 社会は、多種多様な文化と異なる宗教、異なる価値観を持っている人たちが集まっている所だから、ことばの真偽を明らかにしつつ論議によって共通点を探っていこう」と思うようにならなければ、英語での表現はうわっつらだけになります。

 そんな上っ面の英語なら、下手な英語使わずに、同時翻訳機のほうがマシ。
 ケータイ電話での翻訳サービスがはじまりました。今はまだ翻訳性能がよくありませんが、そのうち、日常会話なら、翻訳サービスで十分に間に合うようになるでしょう。

 日本は、「そのくらい、言わなくてもわかってくれなきゃ、いっしょに仕事やってられないよ」と、「ツーカー」で分かり合える仲間と仕事をしたいという社会です。
 課の中の仕事を円滑に回していくには、仕事外での飲み会が大切、なんてことでは、「英語という言語を使う仕事」はできません。
 「ひとつひとつ自己表現し、自己主張していこう」と思わない限り、英語表現は成功しない。

 同じアジアの国でも、おとなり韓国は英語教育が成功していると言われています。
 韓国の言語文化を長年見つめてきて、彼らは実に自己主張が強く、自分たちの考え方をはっきり言う人々だと感じてきました。韓国語で自己主張することから英語で自己主張することへの平行移動が容易なのです。

 「ちょっと今日は暑くない?」と上司に言われたら、さっとエアコンのスイッチを入れたり、窓をあけたり対応できるようでなければ「気働きが足りない」と言われてしまうような社会。「今日の部長のご提議には賛成できかねます」と言っただけで、地方へとばされるような社会、「男は黙って○○ビール」なんか飲んでいる社会、に、生きている私たちが、「論議のために言語」を身につけるのは容易ではありません。

 ことばの習得とは、発音や文法の問題だけではありません。
 ことばの音(発音)、語彙(単語のさまざま)、単語の組み合わせ方、並べ方(文法・統語論)、実際のコミュニケーション(発話パロール・言語遂行論)など、言語の問題はさまざまにあるけれど、全体をなす「言語文化」というのは、一朝一夕で身につくものではない。

 英語を身につけた子供を育てたいなら、親は子供と年金問題少子化問題教育問題でも論じあい、子供に親への反論を言わせる訓練をしてください。
 こづかい値上げを子供が要求してきたら、毎月の必要経費を書面にして具体的に書かせ、どういう根拠で値上げが必要なのか、論述できなければ、こづかい値上げはしない、というのも、いい訓練かも。(実際にこういう家庭教育をしていたというエッセイを読んだことがあるのだけれど、だれのエッセイだったか忘れた)

 産業革命と帝国主義の覇者であったイギリスの言語、20世紀軍事産業国家(コンピュータ産業も軍事産業だった)の覇者となったアメリカの言語。英米語が「世界覇権言語」となり、事実上の世界共通語になったために、われわれも英語を習わねばなりません。日本のこどもにとって、気の毒なことです。

 もう一度確認。英語上手を育てたければ、まず「自己主張が強すぎて、周囲とは、『和をもって尊しとなす』を、やってられない子」を育てること。一般的な日本の学校社会では、確実に「浮く」のを覚悟で、英語教育をやるか、日本の社会全体を変えること。
 英語圏で「きちんとした自己主張ができる子」言われる子が、日本ではただ「生意気な子」と見なされる社会である限り、英語教育に効果をあげるのはむずかしいかもしれない。

<つづく>
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2009年02月22日


ぽかぽか春庭「英語で格差拡大」
2009/02/22
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(11)英語で格差拡大

 今の英語教育体制であるならば、現状での日本の早期英語教育や「英語だけで英語を教える高校会話授業」は「百害あっての三利程度」です。
 しかし、現状の「受験英語」の社会状況もお寒い限り。塾へ行かせられる経済力のある親とない親、という社会格差により、「大学に合格できる英語力」の習得に差が広がっています。

 受験英語も、ヒアリング導入や「課題を与えて、英語文の産出力をみる」というふうにかわってきて、ますます英語力格差がひろがりました。受験英語の格差が、入学できる大学レベルの差に反映され、お金のある親の子は、上位大学へ。そうでない親の子は格下の大学へ。またはフリーター再生産へ。
 大学生協が毎年アンケートを実施した結果による「大学ごとの親の年収」を比較すると、日本で一番「親の年収が高い大学」は、東京大学です。
 今の体制での英語教育は、「格差再生産」が拡大するだけです。

 どのように言いつくろっても、大学間の格差は存在します。私は現在まで私立大学3校、国立大学3校での授業を経験してきました。偏差値でいうと50レベルから70レベルの大学まで、さまざま。講師室の同僚たちは、「偏差値50レベル以下の大学では、相手を大学生と考えると授業が成立せず、高校生中学生にわかるレベルの授業を準備しなければならない」と話しています。

 「授業中に化粧するな」とか、「菓子を食うな」というところからしつけをしていかなければならない大学で授業をしている、と語る同僚の話にうなずきながら、私も大教室に日本人学生200人詰め込まれた私立大学のクラスを受け持ったときだけは、マイクで授業せざるを得ず、思うような授業が展開できなかったことを思い返します。卒業単位に認定される授業に200人の学生が集まったら、必ずその中には単位がほしいだけの学生、授業内容にまったく興味を持とうとしない学生が含まれます。

 大教室の経験は半年だけでした。私はマイクを持って一方通行で講義する大教室スタイルは苦手です。現在私立大学で受け持っている4つの日本人クラスは、「日本語教師志望者対象」なので、高い意欲を持った学生が集まっており、双方向授業、学生の活動中心の授業が行えます。国立大学では留学生相手で、多くても10人前後のクラスで、思い通りの語学授業が行えます。
 英語の授業を40人30人を相手に行っている中学高校の先生方は、さまざまな工夫をこらしながら授業をしていることと思います。頭が下がります。

 どのような教育を公的に行うのか、という問題にはさまざまな要素が含まれますが、教育機会の平等は、最低限守らなければなりません。お金がないから学ぶ機会がない、という状態だけは防がなければ。授業料が払えないための退学が私立大学や高校で増えています。親の失業などの経済破綻が増えているためです。どんなにビンボウしても子供の教育だけはナントカしてやりたいと思うのが親心ですが、ある教育社会学の研究では「子供の学習意欲と親の年収には比例関係がある」というので、ああ、我が家の豚児たちが英語ぎらいなのも、私の年収が低いせいかと、、、、、

 さて、話かわって日本語のむずかしさについて。
 欧米人が「日本語はむずかしい」というのを聞いて、「ほんとうに日本語はむずかしい言語なのだろう」と思いこむ人もいます。そうではありません。日本語は、欧米人(インドヨーロッパ諸語=印欧語)と言語の系統が異なっています。欧米人にとって難しいというだけです。
 英米人にとって英語を話すのは難しくないのと同じように、日本語を母語として生活している人は、4、5歳になれば、自然に会話できるようになります。

 日本語は、日本語母語話者にとって、なんの苦労もなく話せるようになる言語ですし、日本語と系統を同じくしていて、文法が似ている韓国朝鮮語やモンゴル語母語話者にとっても、それほど覚えるのにむずかしくない言語です。モンゴル人力士は、すぐに日本語を覚えます。
 欧米人にとって日本語が難しいのは、日本語が印欧語と系統が異なる言語だから、という単純な理由です。系統が異なる言語は、覚えるのがむずかしい。
 日本人が英語を使えるようになるのも一苦労。当然です。

 では、母語の習得はどうか。母語はどの赤ちゃんも格差などなく、習得できるのか。
 赤ちゃんと養育者の間に交わされるジェスチャー(ベビーサイン)についての最新研究結果がアメリカの研究者によって発表されました。

 長年にわたって親子のようすをビデオ撮影した映像の分析と、子供の言語発達を長期観察した結果。
 子供が音声言語を獲得する以前から、親はジェスチャー(ベビーサイン)によって赤ちゃんにさまざまなことを伝えようとします。このベビーサインをたくさん受け止めた赤ちゃんは言語発達が著しい。

 アメリカの研究者らしいなあと思う分析のひとつ。先に述べた親の年収との関連について。子供の語彙発達は、親の年収が多く教育への関心が大きい親の子供ほど、多くの語彙数をもち、学力差につながっていく、という結果が書かれていました。

 わずか1歳4ヶ月の次点で差がつきます。収入が高く赤ちゃんに関わる時間的余裕が多い家庭では、ベビーサインを多く受ける結果、赤ちゃんが理解できるジェスチャー獲得数は24種類あります。一方、親が赤ちゃんと関わる余裕が少ない、低収入の家庭では、赤ちゃんにベビーサインをあまり与えられない結果、赤ちゃんの理解ジェスチャー数は13種類。1歳4ヶ月でついた差は、後年の獲得言語数に反映し、小学校での語彙数調査や学力調査に相関関係を持つことが確認できた、という研究報告でした。

 ひぇ~、格差がこんなところから始まっているのだとしたら、貧困にあえぐ中で子育てをしてきた我が家の愚息豚娘が今のありさまなのは当然のことと思わねばならないのか。いや、貧しくても言葉と愛情だけはたっぷり注いだつもりなので、これはやっぱり本人の問題なのか、、、

<つづく>
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2009年02月23日


ぽかぽか春庭「アグネスチャンの日本語発音」
2009/02/23
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(12)アグネスチャンの日本語発音

 英語が難しいからきらい、という人、モンゴル語やトルコ語に挑戦してみたらいかがでしょう。英語を習うよりずっと楽に、モンゴル語やトルコ語を習得できることがわかると思います。ことばの並べ順(統語文法=シンタックス)が同じだからです。

 日本人にとって、英語が文法も発音もスペリングもやっかいな言語であるのと同じように、欧米語の話者にとって、日本語は促音などの発音がわかりにくく、文法は異なる部分が多くて、文字数が多い、難しい言語に思われます。

 ある言語が難しいか、難しくないかという違いは、どれだけ自分の母語とかけ離れた部分が存在するか、のちがいです。
 ここで、外国人風日本語発音についてひとこと。
 テレビのギャグなどで、いかにも中国人という風貌の人が「そうじゃないのことあるよ」なんて言って笑いをとったり、たどたどしい「外人タレント」の日本語表現が受けたりしています。

 日本語の発音の難しさについてコメントをいただきました。
 若い大陸出身のタレントが流ちょうな日本語、正確な発音の日本語を話すのに、30年以上も日本で生活し、日本人と結婚したアグネス・チャンの日本語がいまだに中国語なまりが抜けないような発音の日本語なのはどうしてか、というコメントでした。

 アグネス・チャンは、日本語を習得し始めた当時、きちんとした発音教育を受けなかったのだろうと思います。そして、アグネス・チャンが日本でタレントデビューしたころは、舌足らずな外人ぽい話し方が「かわいい」とされ、アグネスもそれを「ウリ」にしていた、という事情があったのではないでしょうか。
 発音矯正のチャンスもあったでしょうに、タレントイメージのほうを優先したので、彼女は30年間、あの発音で日本語を話し続けています。

 自己流や独学で日本語を覚えた人は、どうしても母語の発音にひきずられます。
 そして最初に覚えた外国語発音が「化石化」して固まり、そのあとの教育では矯正されにくくなるのです。

 日本語教育は「化石化」に対処しながら発音指導を行っています。私の授業「日本語音声学」で、英語と日本語の「T」の音の舌の位置のちがいを説明すると、日本語教師志望者たちは、「英語の発音を練習するとき、このような指導はまったくなかったので、どこが英語とちがうのかわからなかった」と、感想が出ます。「team」という英語を「ティーム」と書くより「チーム」と書く方が原音に近い理由もわかります。

 中国語話者にとって、漢字の習得には非漢字圏学習者より苦労が少ないけれど、文法と発音には努力を要する。日本語の有声音(清音)と無声音(濁音)の区別を、中国語の有気音(息を強く出す音)と、無気音(息を出さない音)の区別に代用して発音している人が多いです。

 中国で日本語教育がさかんになって以来、徹底した発音指導が行われているので、若い世代の中国人の日本語発音は、たいへん向上しています。多くは、大学や高校から日本語を習い始めた人たちですが、子供の頃から発音を練習していなくても、適切な指導を得た学習者はすばらしい発音を身につけます。

 日本人が英語を習う場合も、「子供の頃に覚えれば、自然に発音が身につくだろう」という考え方は間違いです。何歳であろうと、適切な指導ができる教育者に出会えば、より原音に近い発音が可能です。

 多くの人に「ジャパングリッシュ」なまりがあるのは、英語の習い始めの時に適切な発音指導を受けないまま化石化してしまったからです。
 私は「なまりを認めよう」という方針ですけれど、適切な指導者が適切な指導を行えば、発音矯正は可能です。私は35歳すぎて大学に再入学し英語発音を基礎から学び直しました。指導者がよかったから、昔に比べればだいぶ発音がよくなりました。英語は、必要になったとき、やる気のある人が習得すれば十分に身につきます。

<つづく>
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2009年02月24日


ぽかぽか春庭「英語嫌いを増やす英語教育」
2009/02/24
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(13)英語嫌いを増やす英語教育

 広島で2月21日~24日に開催されている日教組教育研修大会に教員が3500人参加する全体会から始まったが、それに対して右翼団体が12000人集まって街宣活動をしているという。いつもながらの光景なのだろうけれど、東西冷戦が終わって以後の右翼は、攻撃対象が日教組くらいしかなくなって、「新聞や雑誌を送付して協賛金をせしめる」などの活動で得る資金なども減っているのだというので、まあ、日教組への攻撃くらいが見せ場なのでしょう。

 さて、日教組教研大会の小学校英語教育部会であきらかにされてきたこと。
 全国の5年生6年生への英語教育が始まるのは2011年からですが、すでに実験校ではさまざまな手段で英語教育が始まっています。実験校ですから、手厚い教育体制が敷かれていると思い、いろいろな成果も報告されているのだろうと思いきや。中学校入学時に「嫌いな教科」の調査をすると「英語」と答える生徒が多く、実験校で行われている英語教育で英語嫌いを増やしている、という結果が報告されている。

 5・6年生に興味をもたせる工夫された授業の公開では、「週ヒトコマの英語授業のために、4日以上の授業準備が必要であり、担任が行うには負担が大きすぎる」という報告も出された。それはそうです。新しい教科と取り組むとき、ヒトコマ45分の授業の準備に5時間や10時間の準備がかかるのは当然のことでしょう。
 ただし、この準備のための時間は教師の労働内容として保証されておらず、ほとんどが「ボランティア活動」。担任の仕事を終えたあとの時間、自分自身の生活時間を削って行われています。

 私が中学校国語教師をしていたとき、朝8時から夜9時まで学校内で仕事をしていましたが、学校にいる間は授業や校務分掌の図書室の仕事やクラブ活動指導、学級事務などの時間だけで精一杯。家に帰るとお風呂に入る時間もなく、翌日の授業準備、教材作り、学級新聞作り、作文の添削、、、、寝る時間を削って仕事に取り組み、1年目には体調を崩して入院。2年目からは校長によるパワハラとの闘いが始まり、3年目にはついに精神的にダウン。リタイアしました。私は「パワハラ負け組」になりましたが、負けずに小中学校の教師を続けてやっておられる方々には頭が下がります。

 英語教育を行うなら、児童英語の専任教師を雇うことを前提にすべきだろうと思いますが、現行の「担任による小学校での英語教育」が行われる場合、担任教師の英語への取り組み方の質によって各校各クラスの間に差ができてしまうのは、当然のことでしょう。家族とすごす時間を犠牲にして、お風呂に入る時間を無くしてまで「やらねばならぬ」と思わないほうが健全です。

 小学校教師は各教科の教科指導法を学んでいますが、英語はこれまでの「小学校課程」には含まれていなかったのですから、ほとんどの小学校教師免許を持つ先生は英語指導法を習っていません。各学校に、11年の実施に備えて英語教育研修を受けている先生がいるとは思いますが、、、

 今でも小中学校担任の労働負担が大きすぎると言われています。(真剣に授業や学級経営に取り組む先生と、上目づかいだけがじょうずな教師の差が大きいけれど)
 「ゆとり教育」の目玉だった「総合的な時間」教育は、各地で私の予想通り失敗しています。「総合的な時間」教育は理想的な教師が、十分に授業準備して取り組めばすばらしい成果を出せるのですが、忙しすぎる担任が片手間にやったのでは絶対に失敗すると思っていたら、その通りになり、再び「算数国語の基礎科目強化」が叫ばれるようになるなど、文科省の指導方針がぶれてきている状況です。

<つづく>
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2009年02月25日


ぽかぽか春庭「Departures(旅立ち)に向かって」
2009/02/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(14)Departures(旅立ち)に向かって

 小学校英語教育導入を目前に「担任主導の英語教育活動:必修化への準備」というような講習会や小学校英語特別セミナーも行われており、『小学校英語 学級担任のための活動アイディア集』などの本も売られています。児童英語教育は講習会にちょいと参加した、授業アイディア集を何冊か読んでみた、ということで簡単に行えるものではないとは思うものの、それぞれの先生が「楽しい英語教室」を工夫してくれることと思います。(希望をこめて)

 でもね、なかなかうまくはいかない。中学校入学時に「英語はきらい」という子供を育てているのだとしたら、残念な結果です。
 まず、楽しいこと、子供の好奇心を呼び起こすこと。興味をひかれたら、子供は食いついてきます。
 英語にはどんな楽しい工夫ができるでしょうか。その準備にはたいへんな時間がかかると思いますけれど。

 これから先、2011年の小学校英語授業の導入の前に、どうぞ先生方、授業準備は怠りなく。英語授業が始まったら、ヒトコマの授業に10時間は準備時間をあててください。教案を書いて教材を準備し、シュミレーションを同僚と行って意見交換し、創意工夫で英語授業が出来ますように。子どもたちが外国のことばって、いろいろあるんだな、その中に英語もあって、英語をつかってみるのって楽しいな、と感じる授業を準備してください。中学に上がる前に英語嫌いを増やすようなことにはならないように願っています。

 英語に対して臆せず構えず「世界の中のひとつの言語」として向かい、他の言語も尊重しながら英語を学んでいく、そんな英語教育を子どもたちが受けていけるといいと思います。
また、これからの世界で、日本語を「特殊な言語」と思わず、これまた世界のなかの言語のひとつとしてチャレンジしてくれる若者が増えるといいなあと、日本語教師のひとりとして望みます。

 『おくりびとDepartures(旅立ち)』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞しました。日本映画への興味が一部の「マニア」だけでなく、一般の人にも広がることを期待します。
 日本語を学習したい、と希望する人々の動機はさまざまです。2008年に受け持ったチュニジア人の留学生は母国では映画監督の卵でした。彼が好きだと言った映画作家はオヅ、クロサワなどオーソドックスなところですが、日本映画への興味から日本留学を決めたということでした。アカデミー賞映画「Departures(旅立ち)」も、これから若い人々が、新しい日本映画にも注目するきっかけを生んでくれるだろうと思います。

 アジアの若者たちの多くは「日本語を使えると仕事の選択肢が増える」という経済上のモチベーションであることはやむを得ないことでしょう。インドネシアから「日本語を覚えて日本で介護の仕事をする」という人々もやってきています。
 また、日本文化に惹かれて日本語を学び始める人もいます。日本のアニメーション(ジャパニメージュ)に熱中した若者もいれば、空手や柔道を習った事から日本語学習を始めた人もいます。

 それぞれのDepartures(旅立ち)が実り多いものとなるように、、

<つづく>
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2009年02月26日


ぽかぽか春庭「インターナショナルコミュニケーションと日本語」
2009/02/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(15)インターナショナルコミュニケーションと日本語

 日本語を教えたいという日本の若者に私がよく注意すること。英語をペラペラ話せれば日本語を教えられるのではないか、と誤解している学生がいるけれど、それは違う。むしろ逆です。英語など他の言語表現は上手でないとしても、日本語がいかなる言語なのかしっかりと把握し、日本の文化社会について確実に日本語で語るべきことを持っていることが大切。

 きれいな発音でぺらぺらでも、語るべき内容を持っていない相手と話し合いたいと言う人はいません。とつとつとしたジャパングリッシュであっても、語るべき内容があるなら、どの国のどの言語をもつ人であれ、その語りの内容に耳を傾けます。
 もう一度繰り返すと、「ペラペラの英語発音米語発音ができるけれど、話すべき内容を持っていない」よりは、「発音は日本ナマリであっても、ブロークンな文法であっても、日本の歴史文化思想産業などについて、語るべき内容を持っている人」のほうが、英語圏の人々にも尊敬されると私は思っています。むろん、正確な英語が使えて、日本語もきちんとしていて、深い内容を話せる人が一番良いのだろうけれど。

 2008年のこと。ある留学生から「三島由紀夫の文学が好きで日本への留学を決めたのに、ほとんどの日本人は、三島について質問すると、答えてくれない。三島文学が日本人の間でタブーになっているのはなぜか」という質問を受けました。彼は、多磨霊園にある三島家の墓所へも出かけていて、ケータイでとったお墓の写真を見せてくれました。
(ちなみに、「掃苔趣味(有名人のお墓めぐり)」として、都内では、多磨霊園、青山霊園、染井霊園、谷中霊園、雑司ヶ谷墓地、の五カ所で、かなりの数の著名人の苔を掃うことができる)

 三島について日本人が語りにくいのは、日本人にとって、三島の「文学」がタブーなのではなく、三島という「文学者」について語るのは難しいから、というようなことを彼に話しました。三島夫人平岡瑶子は、三島がゲイであるということに言及した評論や伝記は片端から発禁処分にしました。
 三島が男色者であり、結婚後も多くの男性と性的に関わっていたことなどは、瑶子夫人の死後ようやくおおっぴらにされるようになりました。しかし、三島の娘と息子は、三島のかっての恋人だった男性が出版した本を絶版にさせるなど、現在もなおタブーとして語られない部分が大きい。

 また、三島の死は彼の「切腹M嗜好」や、与党政治家や軍事関係者に利用され翻弄されてしまった彼の思想と関連しており、外国人とそれらの話題について語りあうことは、「天皇制の問題などもからんでくるので難しい」と感じる日本人が多いだろう、ということなどを話しました。

 私は彼にわかる部分は日本語で、彼がまだ習得していない日本語になるときは、英語で説明しました。彼は、スペイン語を母語とするラテンアメリカ出身の学生ですが、英語もよくできます。私のへたな英語であっても、彼は真剣に聞いていました。流ちょうでない英語でも、彼にとって聞きたい内容を語ったからです。

 日本の英語教育はさまざまな問題点を含んでいますが、「英語を使わなくては仕事に差し障りが出る」という人、必死に英語を学ぶ必要があると思います。がんばってくださいね。
 私のように「英語も必要だけれど、英語以外の部分で勝負したい」と思っている人間にとって、日本で生活している限りは、英語に頼らなくてもなんとかなってしまうから、英語を媒介語とする学生相手に15年も大学で教えているのにさっぱり英語が上達しません。

 あはっ、このシリーズは、自分が英語できないことの言い訳エクスキューズ文でした。長々読んでくださった皆様、申し訳ございません。

 私自身の「英語できない言い訳話」はさておき、日本の英語教育これからどうなっていくのでしょうか。

<おわり>

英語教育、日本語教育1

2011-08-27 11:39:00 | 日本語教育

2006/12/09 土
ニッポアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(1)

 春庭コメント、コピー&ペーストの第3弾。

 今年の春、m*************さんから、英語教育について春庭の考え方を問うコメントがありました。
=========================
 四ヶ月間ですが、この秋に「母親のくせに」娘をおいて単身赴任する予定の私としては、ちょっと緊張しながら興味深く読まずにはいられませんでした。ところで、小学校に英語が導入されるのでしょうか、どう思われますか?
投稿者:m************ (2006 3/27 23:32)
==========================

 m*************さんのbbsに、春庭の回答を書き込みした文章をコピーペーストします。
==================-
(2006-03-28 21:42:26 )
(小学校英語教育導入への考えを述べよ、というコメントに対しての返信)

 春庭へのコメントありがとうございます。
 中学生への国語教育を3年、留学生への日本語教育を20年担当してきましたが、小学校教育については門外漢で、適切なことを述べることができませんが、以下、思いついたことをコメントします。

 小学校5年生6年生に英語教育を導入していくという方針が答申されましたが、私自身は、小学校英語教育については、慎重派です。(試験導入されている現行のままのカリキュラムであるならば、という範囲ですが)

 母語の習得について、現在の国語教育が十分に基礎を固めているとはいえない情勢であり、やみくもに英語教育を取り入れても、公教育で週に1時間か2時間程度の英語教育を行っても、それほどの成果はあがりません。
 週末に塾などに行ける層とそうでない層の格差をひろげるだけのような気がしています。

 「英語に親しむ」という程度の小学校教育であるならば、教科として位置づけるのではなく、国際交流プログラムなどの充実をはかり、英語だけでなく、中国語や韓国朝鮮語、またスペイン語ポルトガル語など、多様なことばとのふれあいを体験させることのほうが意味が大きいと思います。

 また、中学校の英語教育を現在のカリキュラム指導法のまま、受験のための英語教育を続けるのなら、小学校に英語を導入しても、今とそれほど変らないのではないかと思います。小学校に英語を導入する前に、中学校英語教育の授業をもっと充実させてほしいと思います。
 大学入試のヒアリング試験も拙速の感がありました。

 語学教育にはさまざまな意見があり、さまざまな教授法が試みられていますが、子どもは教育実験の道具ではないのです。
 英語ができない大人達が、英語コンプレックスの裏返しとして「早期英語教育導入」を言い出したような気がします。

<つづく>
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2006年12月10日


ぽかぽか春庭「小学校英語教育(2)」
2006/12/10 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(2)

 子どもたちに「もっと本を読め」という前に、家の中で、大人が本を読んでいる姿を見せていれば、子どもは自然に本好きになりますし、「英語をおぼえろ」と子どもに強制する前に、大人が英語覚えたらいいのに、と考える次第です。

 早期英語教育が一概にダメというのではないのですが、私には、子どもたちの母語能力衰弱のほうが、案じられてなりません。

 春庭「いろいろあらーな」2月3月の「言語学復習」に、語学教育についてのコメントもありますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
===================

 (m***********さんbbs書き込みにつづけて考えたことをメモしておきます。)

 現在、全国の小学校で何らかの形で英語教育を導入しているところは、90%にのぼっています。しかし、英語教育を行っている小学校の指導者たちのほとんどが「現行のカリキュラムでは、十分な英語教育が実施できるとは思えない」という懸念を表明しているのだそうです。

 ひとつには、「小学校英語教育」を担当する教員養成コースが整っておらず、小学生を対象とした英語教育を行える人材が不足していること。

 これでは、よい人材をそろえられる学校とそうでない学校の英語教育に差がつくばかり。
 なんら具体的な提案はないまま、小学校英語教育が見切り発車のかたちでスタートしようとしているのです。

 日本語を母語とする人々にとって、日本語は思考の源、文化の根元です。
 しかし、大学で日本語学を教えている教師のひとりとして、昨今の日本人大学生全般の日本語能力の衰弱化は、将来を憂えるに十分だと考えています。

 「英会話ができる」、以前に、社会に対して日本語で自分の意見が述べられるのか、日本の歴史について質問を受けたときに、歴史を解説し、なおかつ自分の歴史観をふまえて相手と意見を闘わせることができるのか、日本語言語文化をどれだけ受容してきたのか。
 日本語できちんと自分の意見が言えない学生を育てておいて、「英語でディベートしましょう」と言い出しても、コミュニケーション能力は伸びない。

 日本人は1億人が英会話コンプレックスになっているけれど、日常会話程度をペラペラできたくらいでは、コミュニケーションにとって、大きな意味はありません。

 「マクドナルドへ行きたいが、どこにあるのか」なんて、アメリカ式の発音ができなくたって、絵を描いたり、身振り手ぶりでコミュニケーションできるのです。
 ロンドンのおみやげ屋の店員と「あんたのおつりの計算の仕方はまちがっている」と、ケンカしたいときは、だまって、紙に計算を書いて見せたらいい。

 日本へ来た英語圏観光客に、「英語で道案内のひとつもしてやれたら、得意な顔ができるのに」、と思っている人もいます。
 英語だけじゃなく、せめて国連公用語の、中国語、アラビア語、スペイン語、フランス語、ロシア語プラス、お隣の朝鮮韓国語で、どの町にも案内表示を出してやったらいいじゃないですか。さらに私の希望を言えば、世界共通語をめざして発明されたエスペラント語の普及を。

<つづく>
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2006年12月11日


ぽかぽか春庭「小学校英語教育(3)」
2006/12/11 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(3)

 自分の子が、隣の机に座ったラテンアメリカ人クラスメートをいじめているのを、見てみぬふりする。近所にすむアジア人の一家に対して「ゴミ出しのルールを守らなくて困るわね」と、文句だけ言って、ルールを教えてやることもしない。
 それでいて、「うちのぼくちゃんは英語塾に通っているから、英語ペラペラの国際人になれる」と思っているような人がいることも確か。

 国際人として育てたいという時代の要請にとって、日本の小学生に一番必要なこと。
 2年間早めにABCを書けたり、「ハロー」と言えるようにしてやることじゃ、ありません。

 必要なのは。
 世界中に、たくさんの国があり、たくさんの文化があり、お互いの違いを知り合いつつそれぞれを尊重できる人間に育てること。

 小学校で英語教育を行うなら、まずは「世界中の人と仲良くするにはどうしたらいいのか」という教育からはじめてほしい。
 近所に韓国の人や中国、インドなどアジアや、他の外国から来た人が住んでいる地域であるなら、交流をふかめお互いに理解を深めるところから、外国語教育もはじまると思っている。

 外国人とビジネスにおいて、英語で渡り合いたいと願って、英語を学ぶと言う人へ。
 自国の文化について語ることもできないビジネスマンは、「経済的動物エコノミックアニマル」としか遇されず、他国から人としての尊敬を得ることはできない。
 人として信頼されず、対等に渡り合えないのなら、経済的動物として扱われ、経済活動の餌食になるだけです。

 英語教育は大切です。でも、大切な教育であるからこそ、目先のカリキュラムを追うだけでなく、国家百年の計をたてて、国の大切な予算を使ってください。

 現状のままの教育基本法で具体的な問題点は何もないのに、「憲法理念にもとづく教育基本法」を変えてしまおうとする政府。

 「自主的に行動できる人間を育てる」と、うたいあげていたはずの文部科学省が率先して「タウンミーティングでやらせ質問」を行った。
 教育基本法を変えるべきだ、という政府の方針に沿った質問をするよう、あらかじめ「サクラ」役の質問者を決めておき、文部科学省側が作成した質問を行わせ、謝礼金を支払ったそうです。

 つまり、文部科学省がみずから「ウソをついてでも、自分の主義主張が通るように細工をする」ことを、子供たちに教えたことになります。
 文部科学省がウソを率先して行う国で、これから育つ子供たちは、どんな子供に育っていくのでしょうか。

 「うん、英語は得意だよ。ぼくの英語力、ハウ マッチ」と、何でもお金に価値換算して、お金があることが善、相手より武力で勝れば正義、ウソをついても自分の方針を押しつけることが「よりよい教育」ということになっていくのではないかと、不安です。

<おわり>




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2009/02/12
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(1)英語教育について

 伝えていきたい日本語の豊かな表現力。しかし、若い人々の日本語能力の衰えについての懸念が広がり、さまざまな論議が為されています。
 水村美苗さんも2008年に出版された著作の中で日本語の将来について独自の論を展開しました。春庭は水村さんの論にうなずくところと「いやそれは違うんでないかい」と思うところもあり、英語教育について再考してみました。

 小学校英語教育についての現場教師アンケート結果が2種類あります。ひとつは教育委員会が調査した結果。もうひとつは民間の出版社が行ったもの。結果に大きな隔たりがあります。
 教育委員会の調査では、2011年からの小学校英語必修化の準備段階アンケートで「必修化に不安を感じている」と答えた小学校は20%にとどまっていました。ところが民間の調査では抽出された500校のうち、53%、半数以上の小学校で「2011年の必修化に不安がある」と答えたのです。(2009年2月09日朝日新聞の報道による
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200902080137.html  )
 
 なぜこれほど大きな差がでたのでしょうか。教育委員会のアンケートでは、委員会が期待している結果が最初から決まっており、結果に適合する回答が報告されるからです。
 民間の調査(旺文社の実施)のほうこそ、気兼ねのない本音が出たと言えるでしょう。小学校の現場では半数以上が現状での英語教育導入に不安を持っている、という結果を重く見るべきだと思います。
 現状では、小学校での教育に地域格差学校格差が広がるのみです。

 この二つの調査結果の乖離は、公教育の精神的荒廃を見事に示しています。最近の義務教育の場において、校長は教育委員会の目の色をうかがい、教師は校長の顔色を読むことに汲々として保身ひとすじに動いている、という元同僚らのことばを裏付ける調査です。
 私は公立中学校国語教師を3年でやめてしまいました。校長のパワハラに負けた結果で、今も悔いが残る人生の選択でした。でも、当時の同僚たちは、さまざまな試練を越えて、仕事をつづけ、今定年を迎えつつあります。

 教員室で息を潜めるようにしてなんとか定年まで勤め上げた元教師達が伝える、教育現場のなんという荒涼とした教員室風景。私をパワハラで追いつめたS校長のような人物ばかりが出世し、生徒のためにと教育に邁進し、保身・出世を望まないような教師は「教育委員会のお達しに素直に従わないから」という理由で煙たがれる。教員室での会議は、校長からの上意下達のみで、意見をたたかわせることなど皆無。放課後、教員同士で教育について話し合うなどという光景は、もはや天然記念物並という。

 そのような公教育現場の本音の声が「現状では小学校英語教育導入に不安がある」という声が半数ある、という結果となりました。高校で「英語授業を英語だけで行う」という文科省の指導要領改定案には、もっと多くの不安が出ています。

 日本の英語教育は、これからどうなるのでしょうか。
 英語教育についてのシリーズ10回連続です。10回続けて「ああつまらんことを10回も書き続けた」と思われないよう、最初から結論を書いておくので、つまらんと思うなら、時間の無駄だから、お読みにならぬよう。

(1)現状での小学校英語教育導入は、適切な指導者を確保できた学校とそうでない学校に、明白な格差が生まれる。

(2)英語だけで英語を教える高校のコミュニケーション授業は、一部高校だけが大学推薦枠を得るために、特別進学クラスを設置して成功するが、残りの大多数は、直接法による語学授業のなんたるかを理解もしないうちに失敗する。大学入学試験に取り入れることのないスピーキング能力向上をめざしても進学率は上がらないから、名目上は指導要領にしたがう授業を設置するが、実質は受験英語力強化に向かうであろう。 

<つづく>
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2009年02月13日


ぽかぽか春庭「日本語が滅亡するとき」
2009/02/13
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(2)日本語が滅亡するとき

 縄文語からの長い歴史をもつ日本語も、私たちが維持する努力を放棄したら、あっという間に「死語」になります。
 現在の「世界的英語優先社会」の中で、「英語を使う人のほうが社会で有利な立場につける」ということになった場合、3代で日本語は英語にとって代わります。

 若い父と母は、子のために「出来る限り、赤ちゃんのときから英語で話しかけ、私たちも英語で会話するようにしましょうね。学校はインターナショナルスクールにいれましょう」と、考えたとする。
 英語がよくできるその子供は英語を駆使する高年収の職業につける。この子が家庭を持ったら、完全に最初から英語だけで子を養育し、3代目にして「日本語はわからない」日本人が育ちます。

 『日本語が滅びるとき』の水村美苗さんの意見には賛成していない部分もありますが、彼女の杞憂はわかります。水村説が賛否両論ある部分は。
 「英語は一部分のエリートが習得すればよい。大多数の凡人子弟は、日本語力をつけるために、近代文学の秀作を読みなさい」という水村の主張する部分です。

 高校の英語教育について「英語で英語を教える」方法を採用する、と文部科学省が言い出しました。まったく、現場を知らない役人の考えそうなことです。
 「英語は英語で教えるべきだ」とする高校の学習指導要領改訂案(2013年度から段階的に実施)は、「直接法ダイレクトメソッド」による言語教育の方法論をしっかりと考慮しているかどうか疑問に思えます。
 文科省の役人は「会話を教えるとき、英語だけで教える」のを、どの程度の教授法として考えているのやら。「Let's talk about our family!」程度の指示をだしてやれば、話せるようになるとでも思っているのでしょうか。

 現在の高校英語教育で、「日本語で説明された英語の授業」についていける高校生は半数。日本語で教えても理解できない英語を、英語で説明指示されて、ますます英語嫌いが増えないかと案じています。
 現場の英語教師からは続々と「困った指導要領改革」という声があがっています。
 文部科学省が本気で英語教育を変えたいのなら、第一に大学入試を変えなければ、現場の改革はできない。

 なぜなら、「高校の英語をコミュニケーション力」を高めるものにしようと言っても、大学入試科目に「コミュニケーション能力・会話」がないなら、高校の授業は受験英語中心にならざるを得ないからです。
 多くの高校にとって「どこそこ大学に何名受かった」ということが地元での評判を高め、受験者数を増やすための一番の方法であり、合格するためには、入試にない科目は「一応やっています」という名目的な授業だけになる。コミュニケーション英語に力を注ぐわけにはいかないという事情があるのです。

 英検の会話試験程度の簡単なスピーキング能力のテストでも、ひとりひとりの点数を出そうとすると膨大な時間と人件費がかかる。まして、一生を左右する大事な試験になるかもしれない大学入試でスピーキングなどのコミュニケーション能力をテストするなら、その手間暇はたいへんな負担です。大学側は一般入試では「コミュニケーション能力」の試験は課さないでしょう。
 AO入試や推薦枠でコミュニケーション能力を売り込もうとする一部の高校以外では、「英語で英語を教える」という文科省の指導要領は「お題目」で終わることは目に見えています。

<つづく>
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2009年02月14日


ぽかぽか春庭「40人クラスの英語」
2009/02/14
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(3)40人クラスの英語

 コミュニケーション能力、表現力のつく「生きた英語」が必要だという意見は、すでに50年以上も英語教育界で叫び続けられており、中学高校でも心ある教師達は手弁当で英語教育研究を続けています。しかし、大多数の日本人は「実生活で役に立つ英語」とは無縁です。なぜなら、実生活で英語が必要ではないからです。日本は、大学院教育まで日本語だけで受けられる。修士論文博士論文を母語で書いて提出することができる世界でも数少ない国です。母語だけで社会生活全般が不自由なく進行できる。このような国は少ないです。

 2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英(ますかわとしひで1940~ )博士は、受賞記念講演や記者会見も「私は英語ができません」と断って堂々と日本語で講演しました。通訳がつき、何の問題もありませんでした。英語ができないからといって、彼の研究「場の量子論」の価値が下がることなどありません。

 中学高校でコミュニケーション能力を高める英語教育を行いたいなら、第一に大学受験から英語をはずすこと。これでだいぶ英語環境がよくなる。しかし、現実には「受験英語」が受験生を「偏差値で振り分ける」ための重要な道具となっており、文系理系双方で、英語を受験科目からはずすことは難しいでしょう。大学は今、世界的な評価システムに耐える内容を整えるべく、生き残りに必死です。論文引用数などで評価が行われています。世界的に価値の高い研究者によって価値の高い論文を生み出す必要があるのです。

 そうでないと、世界的な高等教育戦争に負けてランクが下がり、独立行政法人大学(国立大学)でも倒産するところもでてくる。弱小私立大学の倒産はすでに始まっているという現況です。少しでも「高い能力をもつ学生」を確保することが生き残り策となる。

 大学は偏差値の高い学生がほしい。高校は少しでもランクが上の大学に生徒を合格させたい。だから、受験英語はなくならない。コミュニケーション重視の英語教育を中学高校でやりたくても、大学受験が変わらない限り無理であり、大学は現在の受験体制を強化する方向へ進むことがあっても、自分たちの首を締めるような「うちの大学の受験者レベルが下がってもいいから、高校では実生活に役立つコミュニケーション能力を身につけてほしい」とはならないのです。

 ある大学英語教育の研究者は、「少々英会話ができるくらいの中レベル学生より、文法を確実に身につけてきた高レベル学生のほうが、大学でコミュニケーションスキルの向上が著しい」と言っており、その結果を覆す研究が出てこない限り、「少しでも優秀な学生にうちの大学に呼び込みたい」という大学の方針は変わらない。大学受験が変わらなければ、高校英語の内容は変わらない。いつまでたってもいたちごっこです。

 国内の日本語教師の多くは「直接法=ダイレクトメソッド」で日本語教育を行っています。私も基本はダイレクトメソッドですが、大学院留学生クラスなので、英語が媒介語として使えます。直接法に少々の媒介語を混ぜた「中間的ダイレクトメソッド」です。日本語だけで日本語を教えるのは難しいことなので、厳密な直接法よりはだいぶ楽ができます。

 全員にわかる媒介語があるとき、その媒介語を利用せずに教えるのは効率が悪い。全員が日本語という媒介語が使える教室で英語を教えるとき、日本語を利用せずに教えるのは無駄なことなのです。

 できる限り教師の英語をクラスの学生に聞かせることが必要な時代もありました。ビデオもインターネットもない環境での教室では生の英語は教師にたよるしかなかったから、教師が英語を生徒に聞かせることは必要なことでした。しかし21世紀の今、さまざまな語学教育機器が利用できます。「英語だけで英語を教える」というのは30年前20年前にこそ必要なことだったでしょう。

 英語教材の進化も著しく、パソコンを使った教材などを見ていると、すべての公教育現場に、これらの教材を配置して、生徒が自由にオーラル訓練を行えればいいのにと思います。

 しかし、そういう教育予算はだしてくれない。第一、英語を1クラス40人で行うような無謀なことをやっていて、「コミュニケーション能力を育てましょう」などというのも錯誤はなはだしい。
 コミュニケーション重視なら、語学教育は10人以内が理想的。人数がオーバーすることがあっても、せめて15人のクラスでおこなわなければなりません。英語教師を今の2倍3倍雇う気がないなら、「コミュニケーション能力を育てる英語」だの「英語で英語を教える」だの言うべきでない。

<つづく>
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2009年02月15日


ぽかぽか春庭「直接法ダイレクトメソッド」
2008/02/15
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(4)直接法ダイレクトメソッド

 直接法のむずかしいところは、「学習者が知っている範囲の単語をつかって、学習者が習った範囲の文法だけをつかって教える」という点です。中学1年生相手に教えるとしたら、まだ100~300語程度の語彙しか知らないですから、その範囲の語彙を越えて話すことはできません。進行形を習う前の学習者に「食べています」という表現は使えません。日本語も同じこと。受け身形を習う前に「電車の中で財布を取られた」と教師が学生に話すことはできません。

 「英語を英語で教える」という学習指導要領を考えた文部科学省官僚や指導要領を検討してきた識者たちは、ダイレクトメソッドをどのようにとらえているのでしょうか。教室のなかで日本語をつかわず、英語だけで教えるには、教授者に高い英語能力とティーチング技術が必要です。「英語だけで英語を教える」ということを有効に活用するためには、教師がダイレクトメソッドを十分に行える技量を持っていなければなりません。

 語彙コントロール文型コントロールを行いながら英語を英語だけで教えていく技術は、簡単に身につくものではありません。自分が教える生徒が、どのレベルの語彙をどれほどの数、獲得してきているのか、どの程度の表現力をもっているのか、把握しつつコミュニケーション能力や表現力を伸ばしていくには、教える側も相当な訓練が必要です。

 これまでは、日本の英語教師の多くが「英文学」専攻によって英語教員資格を得てきました。卒論修論を自分の力だけで英語で執筆できた英語教師はどれほどいるでしょうか。「英文学の卒論を日本語で書いた教師」だと、文学を語るには有能でしょうが、中高レベルの英語教育には文学的素養が生かされません。初級中級レベルの英語教育は、文学教育ではなく、基礎語学教育だからです。

 ある生徒には「この文学的な美しいリーディング教材を与えたら、興味を持ってどんどん英語を読むようになった」とか、ある生徒は英語の歌を覚えることがきっかけになって英語を学びだした、という個々の実例ではなく、全国300万人の高校生にとって有効な教授法でなければなりません。日本全体の高校教育での指針をあげるのが指導要領ですから。

 新指導要領がめざす高校授業で「英語で英語を教え、コミュニケーション能力を高める」なら、まず第一に、現在高校の英語教師のうち、英語でディベートができる教師はどれくらいいるのか、英語の映画を見て、字幕を見ないで完全にセリフが理解できる教師がどれくらいいるのか調査をする。それもできないで英語を直接法で教えようとするのは無謀です。

 直接法を行うには、教授者はネイティブスピーカーと同程度に当該言語に習熟している必要がある。教える者がその言語でディベートもできないのに、生徒に英語でコミュニケーション方法を教えようとするなど、笑止です。海外旅行の買い物や道案内に役立つ程度の英会話なら、ダイレクトメソッドでなくても教えることができる。
 「聞く話す」が完全にできる教師を集めて「直接法」の教授法をたたき込む。今年からこの訓練を高校の英語教師に必修として課し、2013年までに高校英語教師が直接法によって授業できるようにしなければなりません。

 大事業ですが、教師の研鑽にもなることです。予算は大がかりになるでしょうが、文科省は、言い出したからには実行してほしい。まさか、教師の直接法習得予算もなしに、「英語を英語で教えましょう」などと、言い出したわけではないでしょう。国民ひとりひとりに1万なにがしかのお金をばらまく余裕があるのですから、将来を担う子どもたちの教育のためには、財源をしっかり確保し、惜しみなく教育に予算を使ってほしいです。

 ATL(Assistant Language Teacher:外国語学習指導助手)の採用にもさまざまな問題があります。

<つづく>
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2009年02月16日


ぽかぽか春庭「日本に来たばかりなので」
2008/02/16
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(5)日本に来たばかりなので

 ATL(Assistant Language Teacher:外国語学習指導助手)の採用にも予算はたっぷりほしいです。
 高いスキルを持ったALTを各校に配置するのはこれまた大変です。現在日本にいるALTのうち、第二言語教育としての英語教授法を学んできた人は多くない。ネイティブで英語ができるから、というだけで採用されている英語話者もいます。しかも、ある地方では、英語が母語であったアフリカ系米国人ではなく、「西洋人っぽく見えるから」と、英語が母語でないイタリア人だったかスペイン人だったかが英語教師に採用された、という話を聞いたこともある。

 イタリア人の英語がまずいということを言いたいのではありません。英語が上手なイタリア人も大勢います。でも、ALTの採用について、これまでのような「とにかく数を間に合わせる」という方法では困る、と思います。国として「学習指導要領」にのっとって教育を行うなら、それなりの予算を組んで、全国どこの地域の生徒にとっても不利にならない教育を行うべきだ、と思うのです。

 ATLが、現在の「会話授業」などで補助的にクラスで教えるならともかく、文科省が学習指導要領に明記して「英語による英語会話」授業を行うなら、第二言語教授法を身につけた教師、直接法の指導に長けた教師、第二言語教育の指導法を知っているATLを雇う必要があります。 
 文部科学省の学習指導要領の「英語で英語を教える」という方針は、現状のまま移行しても、「絵に描いた餅」に終わるでしょう。

 現在の日本の日本語学校には、英語が得意な日本語教師、中国語ができる日本語教師も多い。しかし、さまざまな国から来ている日本語学習者を相手にするとき、何かひとつの言葉で日本語の説明をしてしまったら、その言葉がわかる者以外には教師が何を言っているのかまったくわからない、という事態になります。英語ができない日本語学習者も大勢いる。だから、日本語だけで日本語を教えていきます。この「ダイレクトメソッド」教授方法の習得にはいろいろな訓練が必要です。

 直接法の教え方について、課題に取り組んでみてください。
 私の受け持っている留学生の授業は大学院進学や研究者のためのクラスなので、全員英語ができる学生ばかりですが、今期ひとりまったく英語がわからない人が在籍しています。中国内蒙古の大学教師をしている方です。彼はモンゴル語と中国語のバイリンガルですが、英語はまったくできません。直接法で教えた後、学生が文法や単語の意味についての確認の質問を英語でしてきたとき、できる限りは彼らに理解できる範囲の日本語で、補助的には英語で答えていますが、そのあと、黒板に漢字で書いておくなどの工夫をしています。理解力が高いので、積極的に質問もしてきます。

 2月12日の授業での彼の質問。
 会話のなかに、「日本に来たばかりなので、まだ日本語がよくわかりません」「食べたばかりなのでおなかがいっぱいです」という文が出てきました。彼は疑問をぶつけてきました。「『食べたばかりなので』という部分、『食べたばかり』は、食べることが終わってすぐ、です。『ので』は理由や原因、「因為~」です。この意味はわかります。『ばかり』と『ので』の間にある『な』は、何ですか」という質問でした。

 さあ、直接法で、この『な』はどんな意味をもつのかと、彼に説明してみてください。直接法で教えるというのは、日本語だけで、日本語がまだよくわかっていない人に、きちんと日本語のしくみや会話の表現を理解させてやれるということです。英語もしかり。
 「なんでもいいから、出てきた文をまるごとセンテンスとして暗記しろ」という教授スタイルの先生もいます。それもひとつの教え方です。まるごと暗記で簡単な会話なら身につきますから。しかし、内蒙古の大学でモンゴル語母語話者の学生に中国文学を講じている彼にとって、この「な」は何なのか、という疑問にひっかかると、先に進めないのです。

 私も「一度疑問をもってしまうと先にすすめない生徒」でした。「なぜ、英語は1個の林檎はアップルで2個以上はアップルズになるのか?」ということにひっかかって先に進めないまま、英語オチこぼれになりました。なぜ英語に単数複数の区別があるのかわかったのは、2度目の大学生になったとき、英語教授法の先生に教わってから。単数複数については
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongo0603b.htm
をお読みください。

<つづく>
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春庭の漢字検定2

2011-05-29 15:00:00 | 日本語教育
2008/12/28
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>春庭の漢字検定(14)年の終わりに、1年間の失敗をかんがみる

 以下、私には、まったく読めませんでした。
 脳トレーニング用に掲載。今回は「ア行とカ行」、次回「サ行~ワ行」をご紹介します。

<ア行>
01藜(あかざ)
02慊りない(あきた・りない)
03誑く(あざむ・く)
04晨(あした)
05攢め(あつ・め)
06洽し(あまね・し)
07愆ち(あやま・ち)
08恤れみ(あわ・れみ)

09吩咐かった(いつ・かった)
10鎔(いがた)
11師(いくさ)
12屑し(いさぎよ・し)
13鄙しむ(いや・しむ)
14苟も(いやしくも)

15售れず(う・れず)
16菲い(うす・い)
17偸からず(うす・からず)
18愬えん(うった・えん)
19萼(うてな)
20簒う(うば・う)
21惆む(うら・む)
22恤える(うれ・える)

23簡ぶ (えら・ぶ)
24干す(おか・す)

25筬(おさ)
26扼える(おさ・える)
27韞める(おさ・める)
28誨えん(おし・えん)
29駭く(おどろ・く)

<カ行>
30騫けず(か・けず)
31贏ちえる(か・ちえる)
33芟る(か・る)
34馥る(かお・る)
35撥げる(かか・げる)
36鑒(かがみ)
37疆りなし(かぎ・りなし)
38喞つ(かこ・つ)
39文る(かざ・る)
40傅き(かしず・き)
41昃きて(かたむ・きて)
42諧う(かな・う)
43苟に(かりそめ・に)
44稽うる(かんが・うる)
45檋(かんじき)

46轢る(きし・る)
47蛬(きりぎりす)
48蹙まり(きわ・まり)

49啖う(く・う)
50絮い(くど・い)
51軛(くびき)
52晦まし(くら・まし)
53窘しむ(くる・しむ)
54緇まず(くろ・まず)

55刪る(けず・る)
56距(けずめ)
57罩める(こ・める)

58爰に(ここ・に)
59嘗みに(こころ・みに)
60咸く(ことごと・く)

<サ行>
61昌ゆ(さか・ゆ)
62忤うる(さから・うる)
63曩に(さき・に)
64摸り(さぐ・り)
65号び(さけ・び)
66麾く(さしまね・く)
67折む(さだ・む)
68偖(さて)

69誣いがたし(し・いがたし)
70兪り(しか・り)
71閾(しきい)
72錣(しころ)
73娜やか(しな・やか)
74霎し( しば・し)
74亟(しばしば)
76蠹(しみ)
77精げる(しら・げる)
78黜ぞけ(しり・ぞけ)

79拯い(すく・い)
80龕(ずし)
81菘(すずな)
82瘋(ずつう)
83輒ち(すなわ・ち)

84陋い(せま・い)
85偬しい(せわ・しい)

86賊ない(そこ・ない)
87誚り(そし・り)
88乖く(そむ・く)

<タ行>
89闌けて(た・けて)
90贍らざる(た・らざる)
91夷らなり(たい・らなり)
92蹶れず(たお・れず)
93鏨(たがね) 495彙い(たぐ・い)
95原ねる(たず・ねる)
96鬛(たてがみ)
97賚(たまもの)
98椽(たるき)
99謔れる(たわむ・れる)

100嵌める(ちりば・める)
101殄くす(つ・くす)
102竟に(つい・に)
103瘁る(つか・る)
104尸る(つかさど・る)
105矜まずんば(つつし・まずんば)
106虔む(つつし・む)
107恪む(つつし・む)

108闔じる(と・じる)
109俘る(と・る)
110遐きに(とお・きに)
111尤めず(とが・めず)

<ナ行>
112脩し(なが・し)
113轅(ながえ
114慷く(なげ・く)
115薺(なずな)
116蔑する(なみ・する)

117渾す(にご・す)
118猝かに(にわ・かに)
119暴に(にわか・に)
120攘み(ぬす・み)
121練(ねりぎぬ)
122貽す(のこ・す)
123莅んで(のぞ・んで)

<ハ行>
124騁する(は・する)
125籌(はかりごと)
126ます(はげ・ます)
127趨る(はし・る)
128荷(はす)
129機で(はずみ・で)
130将(はた)
131桴(ばち)
132絶だ(はなは・だ)
133滔って(はびこ・って)
134夐かに(はる・かに)

135掣く(ひ・く)
136齣(ひとこま)
137闡く(ひら・く)

138濬し(ふか・し)
139銜み(ふく・み)

140諂わず(へつら・わず)
141謙る(へりくだ・る)

142頌める(ほ・める)
143鐫る(ほ・る)

<マ行>
144候つ(ま・つ)
145須つ(ま・つ)
146俟つ(ま・つ)
147孚(まこと)
148寔に(まこと・に)
149允に(まこと・に)
150諒をなす(まこと・をなす)
151眥(まなじり)
152萁(まめがら)
153戍る(まも・る)
154罕に(まれ・に)
155蹼(みずかき)

156撓す(みだ・す)
157紊れ(みだ・れ)
158叨に(みだり・に)
159咸(みな)
160邏る(みまわ・る)

161邀う(むか・う)
162牟る(むさぼ・る)
163噎んだ(むせ・んだ)

164聘らしむ(めと・らしむ)

155艾(もぐさ)
156醇ら(もっぱ・ら)
157徼む(もと・む)
158需めに(もと・めに)
159覓める(もと・める)
160悖りて(もと・りて)
161懶く(ものう・く)
162慵し(ものう・し)
163醪(もろみ)

<ヤ行>
164烙く(や・く)
165頤わるる(やしな・わるる)
166恬らか(やす・らか)
167忰れる(やつ・れる)
168諧らぎ(やわ・らぎ)

169饒かな(ゆた・かな)

170羸き(よわ・き)

<ワ行>
171孼い(わざわ・い)
172纔かに(わず・かに)

 漢字検定、脳トレーニングに役立ちましたか?実生活には、まったく役立たない字ばかりだったと思います。一生のうち「醇ら藜を啖いて頤わるる」なんて文を読み書きすることもないでしょう。

 でもね、役には立たないけれど、1億人もいる日本語を読み書きする人のうち、漢字検定1級合格者は、まだ2000人ちょっと聞いて、挑戦してみようという人出てくるかな。今ならまだ希少価値がある。来年の試験目指してみるのもいいかもね。脳トレには最適です。

 この「読めない漢字シリーズ」は、水村美苗の『日本語が亡びるとき』を、1890円出して買うか、いや、これだけ売れたら(アマゾンでは一時品切れ状態になった)すぐにブックオフに出回るだろうから、100円になるまで待っていてもいいか考えながらブックオフの書棚をめぐって歩いたとき、『漢字検定1級準1級練習問題』、なんてのを百円で買ってしまった結果、書いているのです。
 
 『日本語が亡びるとき』は、発売されたときから「すぐに読むべきか、もうちょっと待つか」と、思案の本でした。だって、私、日本語教えてカツカツの生活費得ているのに、日本語ほろびちゃったら、おマンマ食い上げですから。ニホンゴ、マジ、ヤバイッスもんね。

 とりあえず、書評と要約だけネットであさった結果、「ブックオフ100円になったとしても読む時間の無駄」という評価に納得。ツーカ、私もともと英語圏で暮らしていたバイリンガルの人って、苦手なのよね。ダンナが東大教授の経済学者ってのも、う~ん。
 万年赤字会社のダンナ持っちゃって、英語もできず、漢字も読めない三重苦の私としては、ヒガミネタミソネミでいるしかなく、、、、、ココロザシ低くてごめん、、、、

 「英語は知的上層社会に属するエリートだけが学べばいい、一般ピープルは国語を身につけるべく近代文学を読め」という水村美苗の主張、そう言いたくなる気持ちもわかるような現在のニホンゴ環境ではあるのだけれど。ま、とりあえず、「英語からっきしできない一般ピープル」であるワタクシは、難読漢字クイズなんぞを続けます。

<つづく>
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2008/12/28
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>春庭の漢字検定(14)年の終わりに、1年間の失敗をかんがみる

 漢字画数問題、最後の出題。
 常用漢字の範囲でもっとも画数が多いのは、「鑑」23画。音読みは「カン」。「鑑」を使った熟語は、鑑賞、鑑札、図鑑など。
 クイズその6:「鑑」の訓読みは? これは、常用漢字ですから、送りがなをつけてお答え下さいマシ。

答え:「鑑」の訓読みは「かんが・みる」

 就活をめざす学生には、「漢字検定試験2級以上は、就職活動の履歴書に書けるよ」とすすめていますが、「漢検チャレンジは準1級まででいいよ」と、日本語教師志望者にも言っています。1級問題挑戦は、退職引退してからの趣味の脳トレで十分。

 脳トレーニングに漢字練習は最適です。
 屋内すす払いが済んだら脳内すす払いのために、ぜひ、漢字練習に挑戦を。年内は忙しいとおっしゃる方、冬休みや正月休み中の惚け防止にぴったり。年末年始の酒の肴がわりに、漢字検定問題をつまんでください。ただし、1級問題が読み書きできるようになったからといって、景気上昇するわけでもなし。

 以上、古本屋の100円駄本コーナーにあった「漢字検定1級準1級練習問題」という本などを参考にして出題しました。 たった百円でこんなに遊べるものはない。(出題した四字熟語の例文は春庭の作例です)

 ア行からワ行までの「漢字検定1級難読漢字訓読み」一覧表。
 ながめて「あれも読めないこれも読めない」と、情けない思いをするために出題したのではありません。読めないのは当然です。1級問題は常用漢字の範囲外から出題されているのですから。読めないのは当然だからよしとして、このような表からも日本語のさまざまな特徴がわかるなあ、と感慨深く百円本のありがたさをかみしめたゆえのご紹介でした。
 この1級訓読み一覧表からわかる日本語の特徴については、次回シリーズで。

 さて、年末にあたって、一年間の数々の失敗に鑑みて、来年への反省点とし、、、、、たとしても、来年はまた来年の失敗を重ねるのが我が一年の総決算。

<おわり>

春庭のあいうえおクイズ1

2011-05-22 00:00:00 | 日本語教育
2008/12/23
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>春庭の漢字検定(9)海海海海海アイウエオ

 カフェ友の皆様におかれましては、ニホンゴへの志も高く、以下のような質問をいただきました。お答えします。

t******(2008-12-17 11:35:06)さんからのご質問に回答しました。

質問その1:海海海海海をアイウエオと読むということですが>
回答 「海海海海海と書いてアイウエオと読む」言葉遊びのひとつです。
「海」音読みは「カイ」訓読みは「うみ」ですが、当て字に用いた場合、さまざまな読み方にあてられる。ただし、この当て字は熟字訓というもので、アマという言葉に「海女」を当てたからといって、海に「ア」という読み方があるわけではありません。あくまでも「海女」という二字の熟語の読み方が「あま」なのです。

あ─海女(アマ)、
い─海豚(イルカ)、
う─海胆(ウニ)、
え─海老(エビ)、
お─海髪(オゴ)または海藻(オゴノリ)をあわせたもの。

 「海松」と書いて「みる」と読む。海草の一首の「ミル」に当てた漢字です。こちらの場合、海を「み」と読むのは人名地名にも当てられていますね。青海の読みは「おうみ」「あおうみ」「せいかい」などあり。

 「海海海海海あいうえお」の言葉遊び、出典は「万葉集」という説もあるのですが、何巻の第何番の歌なのか、確認できておりません。

春庭の熟字訓クイズは、以下のURLにあります。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kanji1118a.htm

慣用読みについては、こちら
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponia0502.htm


春庭のあいうえおクイズ2

2011-05-17 07:09:00 | 日本語教育
2008/12/24
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>春庭の漢字検定(10)あいうえお五十音について

質問その2:四字熟語国産品は、新しくつくったものは別にして、全て禅語では無いかと>
回答 「和製四字熟語はすべて禅語であるかどうか、について。中国の故事成語は、出典がわかっている熟語が多い。中国故事成語・四字熟語のほか、和製四字熟語もありますが、すべてが禅語というわけではありません。
 和製四字熟語のうち、「夜目遠目」などは、漢字を訓読みしているので、和製だとすぐにわかります。音読みにしている「和魂漢才」「和魂洋才」なども和製ですが、別段仏教語や禅語であるというわけでもなし。

 ひとつひとつの熟語がいつどのように成立したかは、語彙論の本にでもあたれば、書いてあるかもしれません。
 今のところ、和製四字熟語語彙史にあたる時間がないので、お答えはここまでとさせていただきます。

 漢字を使って、日本語の音韻を表現しようと苦心を重ねた万葉古事記の時代。
 仮名と発音について、また五十音表の成立についてお話しておきます。

myth21hideさんのコメントより( 2008-12-23 09:36)
質問その3:「いろは」ができる前に「あいうえお」?、いろはがあるのに「あいうえお」、国語として完成したのは明治時代。

春庭回答: 「いろは」ができる前に「あいうえお」?というコメントの趣旨は、江戸時代は「いろは」で手習い、明治からは「あいうえお」で仮名を習ったということから「あいうえお仮名表」明治時代からのものだ、という「一般的な誤解」について注意を喚起しているものと思われます。

 myth21hideさんは、江戸時代の国学者谷川士清が「あいうえお」配列の辞書を編纂したことをカフェ日記に記述し、明治政府が「いろは仮名」ではなく、「あいうえお仮名表」を採用したことについて書いていらっしゃる。

 ただ、「あいうえお」が梵語(サンスクリット語)研究から出発し、早い時代にすでに和語研究に取り入れられていることを見逃していらっしゃるので、補足したいと思います。

 共通語として「現代標準語」が作られたのは、明治政府の「国家語」「国民語」を作りたいという要望によってであり、上田万年ら国語学者が寄り集まって「江戸山の手語」その他を混ぜ合わせて作り上げたことは、「近代日本語の成立研究」によって知られています。

 国語教育史の上では、小学校教育用の「仮名表」の採用事情が研究されています。
 明治の国語学者たちは、江戸時代の教育との差別化をはかるために、江戸の手習いで普及していた「いろは」を捨てて、奈良時代平安時代の梵語(仏教語・サンスクリット語)研究で使われていた「あいうえお」の表を採用しました。

 江戸時代までは「いろは」、明治時代からは「あいうえお」というのは、こどもの仮名教育用にはそうであるけれど、「あいうえお」の起源は古く、文献で残されている限りでは平安時代初期にさかのぼります。「あいうえお表の成立」は「いろは歌の成立」より早いのです。
 なお「いろは歌」については、下記の春庭コラムをお読み下さい。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongoiroha0603a.htm

 「あいうえお」の表は、サンスクリット語の発音研究によって和語の発音にあてはめて作られたものです。
  文献でたどれる「あいうえお五十音表」は平安初期ですが、仏教や梵語、漢語が入ってきたときから、母音の「あいうえお」は、文字を読み書きする人たちには知られていたことでしょう。

 万葉集を編纂した大伴家持ら、奈良時代の知識人もおそらく知っていたことと思われます。彼らは、和語に漢字をあてること日本語を中国の文字で書き表すことと、日夜真剣に取り組んでいたのですから。
 ただし、奈良時代の母音は、朝鮮語など大陸系の母音発音の影響を受けて、八つの母音が書き分けられています。甲類と乙類合わせて八種類の母音があったことを、江戸国学者石塚龍麿らが気付いていました。この論をまとめたのは橋本進吉『上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)』
 橋本の説に異議を唱えたのは、松本克己、森重敏ら。私は松本説を支持しています。

 日本語研究は、漢字と漢文、儒教仏教の導入を行った大和飛鳥時代から連綿と続けられております。江戸時代の、本居春庭、富士谷御杖、富士谷成章、鈴木朖、東条義門ら、すぐれた国語学者の研究成果を、現代の私たちも注目してしかるべきです。

 明治期からの西洋文法を取り入れた文法研究は「国文法」として学校教育に取り入れられておりますが、奈良時代からの「和語研究」にもっと注目してよい。私は、日本語文法は西洋語(印欧語)とは別の観点で記述すべきだという立場に立っています。

 馬渕和夫『五十音図の話』などに、あいうえお五十音図について詳しいので、ご一読を。

 『ことばの散歩道』というサイトを運営している信太一郎さんは、五十音図の解説の末尾に、「私は大学に入るまで、五十音図というのは、ローマ字を教えるため、明治ごろに作られたものだと思っていた。このような精密な音の分析が古くから東洋で行われていたことは、学校でもっと早くから教えられてもいいことだと思う。」と、述べておられます。

 私も似たような誤解をしておりました。日本語学を学ぶまで、「いろは」は「あいうえお表」より古い、と信じ込んでいましたから、信太さんの感想に同感です。
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/50onzu.htm

<つづく>
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ぽかぽか春庭「はせをの母はパパだった」
2008/12/25
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>春庭の漢字検定(11)はせをの母はパパだった

 wxm68971さん(2008-12-21 08:26)からのご質問に回答しました。
質問その4:ひらがなの「は」はどうして「者」という字の略語になっているのでしょうか?最近芭蕉に興味を持っていて、「芭蕉」の石碑に「はせを」とあり、その草書体?行書体?「は」の文字が「者」を崩した「は」になっています。 >

春庭回答: 現代仮名遣いの「は」は、「波」という漢字の草書体をもとに字体が作られました。草書体から作られた仮名は、草仮名、平仮名とも呼ばれました。明治期に標準表記が定まるまでは、さまざまな草仮名が用いられており、明治以降つかわれなくなったこれらの仮名は「変体仮名」と呼ばれています。
 現在、私たちが日常生活で目にすることのできる変体仮名は、老舗の看板「しるこ」や「生そば」などのみであり、学校教育の場では無縁になっています。老舗の蕎麦屋や天麩羅屋、呉服店などに行ったら看板を眺めてください。読めない草書みたいな文字が書いてあったら、それが変体仮名です。

「Ha」にあたる仮名には、「波」「者」「盤」「八」の草書体があります。

 芭蕉は1681(延宝9)年までは「桃青」という俳号を用いていました。38歳の桃青が、谷木因にあてた書簡で初めて「はせを」の署名を使用しました。弟子に芭蕉の木を贈られて庭に植えたことからの俳号改名です。南方産の江戸には珍しい木が、桃青の心をにわかに動かし、俳号心機一転の気分を呼び起こしたのでしょうか。

 仮名文字で署名するとき、本来なら「芭蕉」の仮名文字は「はせう」となるはずです。しかし芭蕉は、わざわざ「はせを」と書いていました。芭蕉の「は」には、「者」の草書体からつくられた仮名をあてました。「者」の草書体は「む」を縦半分に切った左側だけのように見えます。
 芭蕉を仮名文字で書くと「はせう」です。おそらくは間違いであることを承知の上で「はせを」と書いたのは、芭蕉のこだわりなのでしょう。

 江戸時代の仮名遣いは、藤原定家が定めた「定家仮名遣い」が基本になっています。しかし契沖は、定家仮名遣いの誤り部分を訂正した仮名遣いを定め、これが現在では「旧仮名遣い」「歴史的仮名遣い」と呼ばれています。
 このように、江戸時代には仮名遣いの用例がかなり揺れている時期なので、芭蕉も「はせを」という表記でよしとしたのでしょう。

 変体仮名と平仮名の使い分けは、きっちり決まっているわけではないのです。概ね決まっている仮名として、たとえば、「春」の「ha」は、「者」の草書体が当てられますが、「花」の「ha」は「波」の草書体です。「波」から出来た「は」の音価は、もともとは「pa」であったのです。「花」の弥生時代以前の発音は「pana」であり、現在も八重山地方宮古島の古い方言では「花」は「pana」です。「母」は、昔むかしの発音では「パパ」でした。

 春庭担当の日本語学授業では、文法、音声、文字表記、方言など日本語の多様な内容を扱いますが、「日本語トリビアクイズをひとり一題作成すること」を課しています。
 私が学生に出したトリビアクイズ例題は、「後奈良院のなぞなぞ」として日本語史では有名なクイズ。

 クイズその1:「母を呼べば二度あうが、父を呼んでも一度もあわないものは、な~に?」というものです。日本語音声変遷史にとって重要なクイズです。

 答えは「唇」。
 このなぞなぞについて春庭コラムのどこかに書いたのですが、どこに書いたか見つかりません。どうして答えが「唇」になるのかの解説は、以下のURLページをお読みください。「昔むかしの母はパパだった」というお話。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d800#comment

<つづく>
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2008年12月26日


ぽかぽか春庭「牛の角文字で大丈夫」
2008/12/26
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>春庭の漢字検定(12)牛の角文字で大丈夫

 学生に課したニホンゴクイズの出題。
 教師例題が「後奈良院のなぞなぞ」だったので、日本語学受講生の2年生レイナさんは、吉田兼好が『徒然草』のなかに書き留めている「なぞなぞ」をトリビアクイズとして出題しました。兼好の時代に流行っていたなぞなぞのひとつ。昔の人もクイズは好きだったのですね。
 ある恋文に書かれた文面、ひらがなの書き方についてのなぞなぞになっています。

クイズその2:「ふたつ文字 牛の角(つの)文字 直ぐな文字 歪(ゆが)み文字とぞ 君は覚ゆる」と、書いてある手紙、いったい何を伝えたかったのでしょうか。

 答えは「恋しく」。ふたつ文字=「こ」、牛の角文字「い」、すぐな文字「し」、ゆがみ文字「く」。
 「い」を牛の頭の2本の角に見立てています。牛の角文字を「ひ」と解く答えもあります。「ひ」の下の丸い部分は牛の顔。左右の横に出ている部分を角に見立てた場合。この場合は「恋しく(こひしく)」となります。どちらにしても、手紙の相手への「恋心」を訴える文面と言うことになります。

 このクイズの解説として、教師が変体仮名の話をすると、日本人学生達「そんな文字があったなんて、初めて知った」と言います。高校で古文を選択しなくてもよい学校も増え、古文授業を選択したとしても古典文法と読解中心ですから、入試には出題されることのない変体仮名のことなど、授業では扱わないのです。

 日本語教師養成コースに在籍している中国人学生ルイさんは、「私は日本の小学校中学校高校に通い、中国語と同じくらいに日本語ができるから、すぐに日本語教師になれると思っていたけれど、まだまだ日本語について知らないことがたくさんあることに気づいた」と、授業の感想コメントを書いていました。
 そうです。まだまだ知らないことが山のようにあり、日本語の世界は奥深いのだと気づくことが日本語教師への第一歩。

 ルイさん出題のトリビアクイズは「日本語と中国語で意味が異なる漢字熟語」
 日本人が誤解しやすい中国語をクイズにしました。
例題)愛人→中国語では「配偶者・奥さん」。手紙→中国語では「トイレットペーパー」。

 では、次の漢字の語、中国語ではどんな意味になる?
クイズその3:1)大丈夫 2)工作 3)湯 4)走 5)飯店 6)汽車 7)娘 8)看病 9)経理 10)改行

答え:大丈夫→中国語では、強い夫。工作→中国語では仕事。湯→中国語ではスープ。走→中国語では歩く。飯店→中国語ではホテル。汽車→中国語では自動車。娘→中国語では、目上の既婚女性(母親も含む)。看病→医者による診察。経理→経営者。総経理→社長。改行→商売を変える・転職する。

 日本人学生たち、漢語は中国語から来ているので、筆談すれば中国人と会話できると信じていたので、まったく意味が異なる中国語もあるのだ、ということに興味を抱いていました。これは、日本語教師が中国人学習者に注意を呼びかける漢字熟語の例でもあります。中国出身の日本語学習者の中に、日本語の漢語は簡単に意味が覚えられると、甘く考えている学生もいるからです。
 かわいい日本の女性から「手紙ください」というメモをもらったのに、なぜトイレットペーパーなど欲しがるのか不思議だったので放って置いた、という失敗例を笑い話として紹介し、しっかり日本語の意味を覚えないと、せっかくの恋のチャンスも失うことになるよ、と注意するのです。

 さて、「注意」という語、日本語では「ちゅうい!」ですね。それではクイズです。
クイズその4:ベトナム語で「注意」にあたることばは何というでしょうか。

 答え:チューイ

 この一致は、偶然ではありません。ベトナム語語彙の70%は、漢語を基にしているのです。

<つづく>
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春庭のあいうえおクイズ3

2011-05-15 11:17:00 | 日本語教育
2008/12/29
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教室>日本語の発音と文字(1)ラララ、ニホンゴクイズ

 漢字クイズでだいぶ脳内活性化できたことと思います。年内最後のシリーズは日本語の発音と文字。ひらがなクイズです。
 春庭コラム、もう一度12/21と12/22の「訓読み一覧表」を眺めてみてください。ア行からワ行まで見て気付くことはなんでしょうか。

 仮名クイズその1:訓読み一覧表を見てわかる日本語(和語)の特徴は何か。

 答え:「ラ行」の訓読みの語がなかったこと。濁音で始まる語が少なかったこと。

 もともと「ラ行」が語頭にくる和語は、日本語語彙にありませんでした。古語辞典をひいてみると、和語らしき古語は「らうたし」だけ。「らうたし」は古語辞典では仮名書きされていますが、中国語由来の語であろうと見なされています。「朧たし」という当て字もありますが、これがもともとの字だったかどうかはわかりません。

 韓国語朝鮮語は「林lim」という漢字を自国に取り入れたとき、語頭の「L」を半母音「Y」に変えて「林yimイム」という発音にしました。ただし、アルファベット表記やハングル表記では「Li,m」のまま。「表記がLでも発音はY」これは英語の「Know」「Knight」の最初の音「K」は発音しないというような表記の問題。
 韓国語朝鮮語では、「ラ行音は語頭に立たない」という発音原則を守ることを選択しました。「龍ロンLong」は語頭の「l」を半母音に変えて「yongヨン」になります。韓流スターのパクヨンハは、「朴龍河Park Yong ha」です。留学は、「ユハク」になります。

 日本は、漢語が日本に入り込むまで和語にはなかった発音「ンn」も「拗音=キャキュキョなど」も取り入れてきました。相手に合わせて自身を変えていくというやり方を日本語は選択しました。
 従来は語頭に「r」「l」の音が立たないはずだった母語の発音でしたが、林は「リン」として取り入れ、「はやし」という訓読み(日本語にあてはめた読み方)を考えました。留学はリューガクです。

 現在ラ行で始まる語は、リンゴ林檎、リス栗鼠、ラシャ羅紗、ラッパ喇叭、ラッコ海獺、ラーメン拉麺、ラジオなど、ほとんどすべてが外来の語です。漢字の当て字が成立している語は外来語じゃないように見えますが、もともとの和語にはなかった語彙です。

 「難読訓読み1級一覧表」では、濁音で始まる訓読みも少なかった。一覧表では、龕(ずし)桴(ばち)くらいでした。「ずし」は、神仏を安置する小さい箱のこと。音読みはガン「仏龕ぶつがん」「啓龕けいがん」。普通は「厨子」と書きます。バチは、太鼓や鉦を鳴らすとき使います。どちらも、仏教用語に関わり、外来の語なので、もともとの和語ではありません。
 和語では、もともとは清音だけが語頭にきていました。

 韓国語朝鮮語は、現在も語頭にくるのは清音だけ。濁音が語頭に立つことはありません。
「チェ・ホンマン、大晦日にK-1ダイナマイトに出場か」というニュースで、Dynamiteは、「タイナマイト」と発音されます。学生は、ハクセン。
 母語の発音原則に保守派の朝鮮語韓国語に比べて、日本語は「変わり身」の早さで日本語を作ってきた。
 日本語に有声音が語頭に来る語彙をもたらした古代中国語。ただし、現代中国語には有声音と無声音は異音(発音は異なっても意味のちがいを生じない)です。現代中国語は有気音と無気音の違いを意味の対立に利用しています。北京の最初の音は、息を口から出さないようにして言う「ペ」と思ってください。ローマ字表記ではBeijinになりますが、有声音の「b」を発音しているのではありません。「息を出さないペ」です。

 日本語は、時代によってどんどん発音が変化してきた言語です。現在進行中の発音変化。小さい→チィセー。デカイ→デッケー。高い→タッケー。現在は若者の発する俗語っぽい響きがありますが、あと50年で、標準の発音になるでしょう。学習院父母会でも「あら、愛子さんのお母様、めっちゃデッケー石のリングですわね。タッケーお買い物ざあましょ」と、話している、、、、かも。

 発音の変化はどんどん進みます。昔々は朝早い行動を認め合って「おハヤい~」なんて言っていたのに、現在は「オハヨー」と、「ヤイ」が「ヨー」に変わっていますし。
 平安時代には少々を「セウセウ」と発音していたのに、現在の発音ではショウショウです。「蝶々」という語、古代日本語でテフテフと発音していたけれど、鎌倉時代にはテウテウと変化し、現代日本語ではチョーチョーです。

<つづく>
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2008年12月30日


ぽかぽか春庭「ことば遊び」
2008/12/30
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本語の発音と文字(2)ことば遊び

 平安時代には「tefutefu」と発音していたから「てふてふ」と表記していた蝶々。現代仮名遣いが制定されるまで、発音が「チョーチョー」に変化しても、仮名表記は「てふてふ」のままでした。古い発音の表記を残したのです。しかし、現在は発音の通りに表記することが原則と決まりましたから、蝶々は「チョウチョウ」と発音通りに仮名文字を書きます。

 泥鰌(どじょう)は、もともとの発音は「どぢやう」でした。大言海を編集した大槻文彦は「泥津魚」を語源であるとみなしていました。どろづうお→どぢうお→どぢやう→どじょう」
 しかし、江戸時代の泥鰌屋のオヤジが三文字の看板にしたいからと「どぜう」と表記するようになったのが広まりました。現代語では「どぢよう」でも「どぜう」でもなく、発音の通りに「ドジョウ」と仮名書きするのです。このように表記と発音の歴史は、語彙によって様々です。

 日本語が「子音+母音」の音節によってすべての語を組み立てており、仮名の発音すなわち「音節文字」の発音は日本語の基礎です。この基礎を小さな子供が学ぶにいちばんよい遊びのひとつがシリトリです。
 お正月に小さいお子さんとシリトリをしたとき、少々大人げないことですが、子供に絶対に勝って、大人はすごいなあと思わせる「シリトリ必勝法」を伝授しましょう。

 ラ行音のことばは外来の語であって、日本語には数が少ない、と申し述べました。つまり、シリトリで自分の順番になったとき、必ずラ行音がおしりにくるような語を選べばいいのです。
 蟻、色、衿、裏、俺、蛙、霧、栗、経理、氷、猿、尻、菫、芹、橇、鱈、ちり取り、釣り、テロ、鳥など、らりるれろがつくことばを相手に返していき、同じことばを使えるのは一度だけというルールにしておくと、相手はラ行の語がだんだんなくなって、シリトリを返せなくなるのです。

 最近の子どもたちは、お正月といっても、たこ揚げも独楽回しも羽つきもしなくなりました。家のなかでゲームばかり。ピコピコとコントローラーを動かす遊びでは、年よりはなかなか参入できません。たまには、カルタなどで「ことば遊び」の楽しさも知ってほしいと思います。いろは歌留多、百人一首など、子供の知力鍛錬にもなりますよ。

 私は「上毛歌留多」で育ちました。
い 伊香保温泉日本の名湯(私の生まれた市に編入されました)
ろ 労農船津伝治平(飛鳥山公園に顕彰碑があります)
は 花山公園ツツジの名所(一度しか行ったことないけれど)
に 日本で最初の富岡製糸(世界遺産に申請中)

 そのほかの「ことばあそび」として、回文もおもしろいです。「トマト」「しんぶんし」「ミルクとクルミ」のような例題を出しておくと、小さなお子さんでも作れます。そのあと、大人の回文として、江戸時代の詩を紹介しましょう。

 ネットに出ているもっとも長い回文は、1197文字のものがあります。文字数はすごいですが、残念ながら、読んだときの情趣に欠ける。この1197文字回文はあちこちのサイトで検索できるので、探してみてね。
 江戸時代に「最長」とされていた回文「時は秋」は、単に回文になっているだけでなく、優れた情景描写の詩になっています。逆からも読んでみてね。

 「紅葉」の仮名表記が「こうへふ」になっているのは、泥鰌を「どぜう」と表記したり、芭蕉が自分のサインを仮名文字でするときに「はせを」と書いたりしたのと同じように、「仮名表記のゆれ」を利用したものと思えるので、あまり目くじらたてずにすぐれた回文としてあじわってください。

時は秋(ときはあき)
この日に陽たづねみむ(このひにひたづねみん)
紅葉錦の葉が(こうへふにしきのはが)
龍田川の岸に殖へ(たつたがはのきしにふへ)
鬱金峰伝ひに(うこんみねづたひに)
陽の濃き淡きと(ひのこきあはきと)

 春庭、2008年もことばの楽しさを追求してまいりました。来年もことばで楽しくすごしたいと思います。

ニッポニアニッポンご教師日誌2010年大学院合格祝い

2011-02-09 20:24:00 | 日本語教育
2010/09/26
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本食文化体験(1)合格祝いのつどい

 尖閣諸島の漁船問題から、日中関係がこじれています。両国の関係の悪化、とても残念です。春庭は、1994年に最初に中国に滞在して以来、2007年2009年と中国で仕事をしてきて、中国四千年の文化の深さと現代中国のエネルギー爆発のような成長ぶりに驚嘆してきました。両国が互いの長所を認め合いつつアジアの平和と繁栄のために協力していけるよう祈っています。

 日本から中国への協力のひとつが、文科省による「中国大学院修士課程修了生の招聘、日本の大学での博士号取得をめざし博士後期課程に在学する期間の学費免除と奨学金給費」の制度です。私の仕事は、この招聘国費留学生が来日前に中国で1年間の集中日本語教育を受ける際の後半の日本語教育担当でした。

 1994年に担当した学生のうち、日本で博士号を取得した後、中国に帰国して中国の大学で研究者教育者として活躍している人も大勢いるし、日本の大学で教授となっている教え子もいます。日本での留学経験を生かし日中の架け橋となっており、意義深い留学制度だと思います。
 しかし、この留学制度も、昨今の日中関係の変化により中止に追い込まれる可能性もあります。これまで日本と中国を結ぶ人材の育成に貢献してきた制度が廃止されると、将来、日本をよく知り日本を愛する中国の人材が減ってしまうかも知れません。アメリカのフルブライト奨学金が、日米関係を取り結ぶ人材を育てたように、文科省国費留学生の制度が残るよう希望しています。

 中国人留学生が日本を理解し日本文化を愛してくれるよう、春庭は教え子との交流を続けて、ささやかながらも日本と中国が仲良くすごせる将来にしていきたいと思っています。
 昨年10月に中国から来た教え子たち、2009年3月から7月まで初級後半から中級レベルを教えた国費留学生です。来日して1年の間に、それぞれ大学院入学試験を受けてきました。文系理系とも2月入試が多かったのですが、理系の一部の学生は、夏休み中に入試が行われるため、この夏は受験勉強にあけくれました。英語と専門のペーパーテスト、英語による専門のプレゼンテーション、日本語と英語の面接試験など、ハードな試験をクリアして、9月合格、10月入学が決まった学生、これから3年後の博士号取得をめざして研究を続けます。

 9月に合格通知を受け、晴れて博士後期課程の大学院学生となった学生から「合格しました」という知らせを受けました。10月5日の秋期入学式は、安田講堂で行われるそうで、「家族も参加できるので、先生は日本のお母さんですからぜひ来て下さい」と誘われたのですが、平日で後期授業が始まっているため参加できません。

 理系の学生のほとんどは英語で博士論文を書くことになっており、研究室内も英語が公用語になっているところが多い。しかし文系で博士論文を日本語で書くことを要求される専攻の場合、日本人学生と同等の高度な日本語力が要求されます。中国で1年、日本で半年日本語を学習したとはいえ、博士論文を日本語で書く程の日本語力獲得は至難の業です。
 まだ、経済学部博士課程に進学する予定の2人の結果がまだ出ていないので、担任学生全員合格ではありません。かっての教え子のうち、教育学専攻の博士課程入試に合格せず失意の帰国をした女性がいました。しかし、彼女はどうしても日本で生活したいからと日本企業に就職し、再来日を果たしました。このような例から、不合格になったからといって、人生おしまいではないと学生たちには言いましたが、合格できるにこしたことはありません。

 今年2月の入試に合格して4月から院生になっている学生たちは、夏休みに故郷へ帰って錦を飾り、久しぶりに家族と過ごしているというメールをもらっています。一方、9月入試組は夏休み中は勉強ひとすじで帰国もできませんでした。そこで、春庭老師は23日秋分の日、合格祝いのつどいを行いました。

<つづく>
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2010年09月27日


ぽかぽか春庭「寿司屋ランチと東京狭小住宅見物」
2010/09/27
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本食文化体験(2)寿司屋ランチと東京狭小住宅見物

 秋分の日の博士課程合格祝いのつどいは、「すし、茶の湯、すきやき」がテーマです。日本の代表的食文化と喫茶文化の体験。要するに食べたり飲んだりするだけ、という春庭お得意の分野です。招待した9月合格組のスージーさんは、2009年のクラスでは文芸委員として、教師歓迎学芸会などで活躍していました。ご主人のヒョウさんは、スージーさんより先に来日して日本の企業で働いています。もうひとり9月に合格したソウさんは薬学専攻。2009年のクラスでは「生活委員」になってクラスをまとめていました。2月入試で合格していたけれど、4月に合格祝いとしてお花見会をしたときにいっしょに過ごすことができなかった医学専攻のウーさんもお招きしました。ウーさんは、中国でお医者さんの経験をつんでから留学生になったので、クラスで一番年上のお姉さんでした。今は大学の癌研究所に所属してガンの遺伝子研究を続けています。

 9月23日はあいにくのお天気でした。ときどき雷鳴ひびく強雨、ときに小雨。雨なので心配しましたが、皆、約束の11時半に遅れませんでした。日本人は集合時間に厳しいから決して遅刻するなと中国での授業でしっかり教えたのを守って、全員時間より前に集合場所に来ていました。

 30分地下鉄に乗り、姑と時々行ったことのあるお寿司屋へ。回転寿司以外の「回らない寿司屋」というのは、ここくらいしか知らないのです。あいにくスージーさんは、生魚は苦手というので、穴子とか海老などの火が通っているネタを選んで握ってもらいました。生魚はダメでも、日本の寿司屋の雰囲気を知ってもらう目的は果たせます。あとはランチセットを頼みました。

 ランチは、お任せ握り15貫と茶碗蒸し、アラ味噌汁、西瓜のセットです。中国の人は、火の通らない肉や魚を食べることはほとんどないので、日本の新鮮な魚を生で食べるという食文化を知ってほしいというお寿司屋ランチ。江戸前のなかなか評判のいいすし屋で、近所の人はもちろん、遠くから食べに来てネットに評判記を載せたりするファンもいる店なのですが、おりからの強雨のため、それほど店が混むこともなくゆっくり過ごせました。その日の朝に築地で仕入れたというネタが客の目の前のガラス箱に並べてあること、流れるような手さばきで寿司飯を握って、目利きの店主が選んで仕入れたネタを合わせること、これは蒸したり油でちゃっちゃっと炒めたりする中華料理とはまた違う食文化のひとつです。
 雨が止むまで雨宿りしていて、というお店の人の勧めだったのですが、姑が家で待っているので、少し雨脚が弱くなったころ、店を出ました。

 秋分の日の大雨の中、留学生たち、びしょびしょになって姑の家に着きました。タオルで拭いたり姑の服を借りて着替えたりして、濡れた服は風呂場へ。風呂場全体が乾燥機になっていて洗濯物を干せるようになっているのですが、姑は「洗濯物はお日様に当てたいから、これまで風呂場乾燥機は使ったことなかったのだけれど、設備があればこういうとき便利ねぇ」と、留学生たちの世話をしてくれました。

 トイレが暖房便座、ウォシュレットつきになっていること、風呂場全体が乾燥機として機能すること、これだけでも日本の現代住居文化の体験であり、日本の家庭生活の一端を知ることになります。マドンナやデカプリオら海外スターたちも日本のウォシュレットトイレがすっかり気に入り、購入したそうですが、日本のトイレ設備は世界最高水準。今は大学内のトイレもどんどん改装されてウォシュレット付きが増えています。トイレがよくないと入学志願者が減ってしまうのだとか。姑のトイレも、人が近づくと自動でトイレのふたが開き、立ち上がると自動で水が流れます。自動装置好きというのも現代日本文化のひとつかも。韓国の歌手がテレビ番組で「来日して驚いたことのひとつ」として、「タクシーのドアが自動ドア」であることを上げていました。日本では日常生活であたりまえになっていることが、来日する外国人には驚きであるということはたくさんあります。タクシーの自動ドアも、日本以外では見られない独特のサービスです。私は自動ドアとか「何でも自動」にする必要はないと思って暮らしているのですが、電動歯ブラシから工場の自動ロボットによる工作機械まで、自動化は現代日本の象徴かもしれません。

<つづく>
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2010年09月28日


ぽかぽか春庭「なんちゃって茶道」
2010/09/28
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本食文化体験(3)なんちゃって茶道

 本当は「茅葺き屋根に囲炉裏の居間」などを日本の伝統的住まいとして紹介できればいいのですが、「東京の狭小現代家屋」の見物も、それはそれで現代住居文化の参考になります。狭い土地に容積率いっぱいの3階建てと猫の額ほどの庭。東京23区内では大富豪でもない限りこんな狭い家に住むしかないのだ、というのも日本の現状を示すことになるでしょう。大邸宅見物がしたければ、隣の駅の田園調布にでも行って見てきてね、と留学生に解説。

 姑は家事の中で料理よりも掃除が好きなので、2007年の夏に大改築してからもせっせと掃除を続けています。「留学生に日本の家のありのままを見せる約束だから、特別掃除なんてしなくてもいいよ」と話しておいたのですが、きれい好きの姑は階段も拭き掃除をし、留学生を迎える準備をしてくれました。

 前回、お正月のつどいでは、「みんなで中華料理を作って食べよう」がテーマでしたが、今回は「日本の茶道を体験してみよう」がメインテーマです。
 家の中を見物して一休みしたあと、合格祝いのつどいの午後のひとときは「茶の湯体験」になりました。3階の和室に移動し、床の間の前にしつらえた「なんちゃって茶道教室」の始まり。

 表千家の茶道を修行し、稽古用の茶道具を一通り揃えたという姑に比べ、私は若い頃、袱紗の畳み方を習っただけで嫌気がさしてお茶の稽古をやめてしまった横着者です。
 本当は留学生に見せるお手前などとてもできないので、茶道具の紹介だけにとどめてもいいかなと思ったのですけれど、今回は「茶道のまねっこをしてみよう」をコンセプトにして、「棗から茶杓で抹茶をすくい、茶碗に湯を注いでかき混ぜる。ほどよく泡をたてて客に供する」という一連の動作をみせることにしました。また、「客は、茶碗を手の上で回し、正面を避けて茶を飲み、味わう」という作法を体験することとしました。

 ウン十年前の若い頃は、袱紗をひと作業ごとにいちいち畳みなおすのも、それでなつめや茶杓を拭くのも、とても形式的で意味のない動作に思えました。
 一杯のお茶を飲むというただそれだけのことを習うのに十年も修行して免許を貰うというのが、ばかばかしく思えました。それに「家元制度」という権威のお化けのような仕組みが気に入らなかった。

 (家元制度については今でもおかしいと思っています。授業料はどんな先生にも教えを受ける対価として払うのは当然でしょうが、それ以外にお稽古の次の段階に進む度に「許状」なるものを取得する必要があり、そのたびに家元と直接の先生へのお礼を支払う、この仕組みは納得できません。明示されている金額は裏千家の准教授で20万円くらいのものだというのだけれど、そのほかの謝礼やなにやらで、教授資格ともなれば、何百万かが必要になるのだそう。どこの流派も金額は不明瞭会計ですが。学校教育に例えれば、入学金授業料のほかに、学年の最終試験に合格した後、上の学年に行きたい場合に、進級料金を払え、というようなもの。お金を払わなければ進級できないなんて納得できません。そういえば剣道7段になった従弟が、8段になるためには審査料登録料がけっこうかかるから、当分進級はしないつもりだと言っていたのだけれど、剣道も同じ仕組みなのかしら)

 この許状制度を別にすれば、今は伝統を習うことの意義が少しはわかってきました。ひとつの空間を主人と客とが共有し、時間の流れと空間を満たす美の世界を共感するために、さまざまな動作と美への見方の基礎教養というのが必要なこともわかります。茶道具の扱い方にひとつひとつ動作の決まりがあるのも、「客に茶をもてなす」の遂行を何ひとつ疎かにせず、時間の流れの中で滞りなく自然体で茶をたてるための修行だということも理解しました。

 何度も何度も繰り返して基本を身体にしみこませることの大切さは、習字でも剣道でも舞踊や語学修行でも、皆、極意はおなじことです。型をひととおり身につけたのち、そこから型をやぶっていく。囲碁将棋でも定石を身につけてこそ新しい一手を生み出せる。伝統文化は一からの基礎修行が大切。袱紗の畳み方を繰り返し習うのも意味があることでした。

 留学生には、風炉、風炉に入れた炭、茶釜、茶碗、柄杓、茶杓、棗、水差し、湯こぼしなど茶道具の紹介を一通りしたのち、盆点前で、見よう見まねで覚えたやり方でお茶をたてて見せました。

<つづく>
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2010年09月29日


ぽかぽか春庭「すき焼き」
2010/09/29
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本食文化体験(4)すき焼き

 私のお点前は、「各流派のやり方をyoutubeで見て、自分にやりやすいようにアレンジした春庭流」というテキトーお点前です。たとえば、茶釜から湯を汲むにも柄杓のあしらい方が各流派ことなっていますから、その中で一番自分にやりやすい方法を選ぶ、という「無手勝流」で、「各流派いろいろなやり方があります。私のは自己流ですから、本当の茶道ではありません」と解説を入れながら、一通りやって見せました。留学生はお菓子を食べてから、順に薄茶を飲みました。留学生たちは私の「なんちゃって茶道」のお点前でも日本の喫茶文化の一端を知った気分です。

 和室での「なんちゃって茶道」練習は飲むだけにして、1階のリビングに戻りました。次は、テーブルで立礼盆点前の方法で、お茶を点てる練習。
 袱紗をたたむのに手こずっても、順番を取り違えても、笑いながらの略式盆点前の茶道、皆おもしろがりながらのお稽古体験です。「袱紗で棗をこの字に拭いてください」と言っても、「このじって何ですか」と、意味が伝わらない。「こ」という平仮名を書くように袱紗を動かすのだと、解説しました。

 スージーさんもウーさんもは「私の研究室は英語が公用語です。教授も日本人学生もみな英語で話しますから、私は日本語が下手になりました」と言います。スージーさんの夫のヒョウさんは、日本の企業で働き、日本と中国を行き来しています。日本の社内では会議も日常会話もすべて日本語でのやりとりですから、2年間日本で働いて日本語が上達し、一番よく日本語ができます。私が日本語でしゃべったことを、中国語でスージーさんに通訳してくれたりしながら、皆でわいわいと略式の盆点前をして、茶道体験を楽しみました。

 茶道体験のあとは、すき焼きを作って、夕食。姑は「私はもう年寄りだから、何もおもてなしができなくて」と言いつつ、気を配ってくれました。
 すき焼きは日本の代表的な家庭料理として紹介したのですが、あいにくの大雨のため、予定の精肉専門店へ買い出しに行けず、近所のスーパーで買った肉だったので、ちょっとグレードダウンだったのが残念。松阪牛は買えず宮崎牛でした。口蹄疫収束後の宮崎応援と思えばいいか。

 白滝、椎茸、葱焼き豆腐などを鍋にいれ、わいわいと食べる鍋文化を楽しみ、生卵は苦手というヒョウさんやウーさんにも、「絶対に卵をつけた方がおいしいから、ダメならやめることにして、ちょっとだけ卵をつけてみて」と、日本の生卵を体験してもらいました。おいしいと感じたかどうかは別として、日本の生卵は新鮮なら安全に食べられることはわかったみたい。
 姑は、デザートにピオーネ、巨峰などの3種類のぶどうをテーブルに並べました。食後のお茶を飲みながら、ぶどうをつまみ、しばしおしゃべり。

 おひらきにして外へ出るとまだ小雨が降っていましたが、「食べてお茶飲む日本食文化体験教室」は、無事終了しました。85歳の姑が留学生交流会を手伝ってなにくれと世話をしてくれたこと、ありがたいことだと思います。
 日本と中国の関係がよくなることを祈りつつ帰宅しました。

<おわり>

授業の実際漢字クイズ

2010-12-30 11:13:00 | 日本語教育
心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「漢字クイズ」
(12/22)
春庭のBC級ニッポン語教育研究18「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー漢字クイズ」

12/19、年内最後の授業。最後のクラスは初級漢字クラス。
 授業が終わったらその足で成田空港へ向かい、帰国する留学生もいて、じっくり初出の漢字を覚えるには、あまりよくない時間。明日からの冬休みを前に、皆浮き足だっている。

 本当は、字形に注意しながらゆっくり書き練習、音読み訓読み気をつけて熟語や漢字交じり文の読み練習をしなければならないのだが、どうやら、いくら練習しようとしても、右の耳から入った説明が左の耳から出ていってしまう状態。
 新出漢字の導入はちゃっちゃっと終わりにする。練習は「冬休みの宿題」ということにしてしまった。

 10月に来日して「あいうえお」から習い始めたクラス。これまでの3ヶ月、とても仲がよく助け合って勉強してきた。
 最後くらい漢字詰め込みはお休みにして、ちょっと遊びましょう。

 今日の初級漢字クラスのメインイベントは、「Five hint 」というクイズ。見たことのない漢字や、忘れている漢字を出題し、3つのヒントで答えをいう。

 3つのヒントだけで答えられたら3ポイント。当たらなかったらひとつ追加の質問ができる。ここであたったら2ポイント。当たらなかったらさらに追加の質問。ここで当たったら1ポイント。はずれたらゼロ。ポイントなし。

 最初に私がデモンストレーション。私の例題は「兎」と「象」「薔薇」など、初級クラスでは、教えない漢字。見たこともない漢字に頭をひねったあと、ヒントを言って答えさせる。

 例題第1問。「兎」と書いた紙を見せる。誰も読めない。それはそうだ。「うさぎ」という日本語は知っていても、漢字はまだ知らない。

 「First hint、最初のヒント。動物です」
 学生「?」
 「二番目のヒント。小さくてかわいいです」 学生「Cat? ねこですか?」
 「いいえ、ちがいます。最後のヒント。耳が長いです」
 学生「わかりました。Rabit」
 「日本語でどうぞ」「えーと、うー」
 別の学生「うさぎ!」
「正解です」という具合。

 ラビットはわかったのに、うさぎが答えられなかった学生はくやしそう。

 次に、クラスを半分に分け、赤チームに赤いマジックペン、青チームに青いマジックを渡す。二人ずつペアを組み、ペアワークで、正解にする漢字とヒントのことばを考えさせる。

 赤チームは、赤いマジックで紙に正解を書いておく。赤チームが考えた正解は「日本酒」「東京タワー」「鎌倉の大仏」「日本、酒、東京、大」は既習漢字だが、「鎌倉、仏」は未習。未習の漢字は、学生に聞いて私がこっそり書いておく。
 「タワー」と、カタカナで書くと簡単にわかってしますから、塔という漢字も教える。

 青いマジックを使う青チームが考えた正解は「新幹線」新は既習。幹線は未習。「年賀状」年は既習、賀状は未習。三問目の正解は「私たちは漢字、書けます」と言って、正解を見せてくれなかった。

ふたつのチームがかわりばんこに出題。

 青チームの学生が自分たちで考えたヒントを言う。
 「長いです」「とても速いです」「安くありません、高いです」
 冬休みに旅行を計画している学生から「しんかんせん」という正解が出た。3ポイントゲット。

 赤チームのヒント。「とても大きいです」「いつも座っています」「外に座っていますが、寒くありません」正解が出ない。

 青チームからの質問「動物ですか」「いいえ、どうぶつじゃありません」
 ここでちょっと私の助け船。いすの上にあぐらで座って手で印を結び「I'm a buddist」それで「ダイブツ」という答えが出た。ここでもめた。
 「ナラのダイブツは外にいません。かまくらと言わないから、正解じゃない」という赤チーム。「ダイブツ」があたったのだから、正解だという青チーム。「じゃ、1点だけ」と、仲裁。

 青チームの第二問「日本の人はこれが好きです」「フィフィさんも好きです」「飲み物です」
 赤チームの答えは、すぐに出た「お酒」「日本酒」。みんなどっと笑う。フィフィさんの日本酒好きはクラスで有名らしい。

 年賀状は、「じゅうしょとなまえを書きます」「お正月にもらいます」「郵便局へ行きます」というヒントで正解が出た。

 東京タワー。「一番高いです」「きれいです」「のぼります」というヒントで出た答えは「ふじさん」

 「ちがいます。東京タワーです」と、正解が発表されると、青チームは「ふじさんはきれいです。東京タワーはきれいじゃないです」と、ヒントの出し方が悪いとブーイング。
 「夜、ライトをつけるときれいですよ」と、私のヘルプ。

 青チーム、最後の問題。出題者はやけにうれしそう。
 「きれいです」おや、また「きれいです」というヒント。あとでブーイングがでないといいけれど。「かわいいです」ますますブーイングが出そうなヒント。
 「いつも冗談を言います」

 赤チームは、「わかった、わかった」と大喜び。声をそろえて「春庭先生」と言い、みな大笑い。
 青チーム「正解です」。私も大笑いして「春庭先生はきれいです。かわいいです。わあ、それは冗談ですねぇ」

 めでたく正解がでたところで、漢字クイズはおしまいにした。

 私の冗談好きも、クイズにしてしまう学生達の機転に、日本語の上達を確かめて、「みなさん、たのしい冬休みをすごしてください」と、ごあいさつ。

 「よいお年を」「よいお年をおむかえください」という年末のあいさつも上手に言えるようになって、今年の授業おさめ。
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2003年12月24日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「ラポール」
(12/24)
春庭のBC級ニッポン語教育研究17「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際・ラポール①」

 前回紹介した初級漢字のクラス。12名が、とても仲良く助け合っているので、教師としては大助かり。クラスの雰囲気がいいか悪いかは、教育効果が上がるかどうかに一番大きな影響を与える。

 教師がどれほど言語学の大家であろうと、第二言語習得理論の専門家であろうと、クラスの「助け合って学んでいこうとする雰囲気」が形成されていなければ、ザルに水を汲むような授業になる。

 最新の教授法理論の中では「ピアラーニング」がもてはやされてきた。
 ピアカウンセリング=専門家と患者という関係のカウンセリングでなく、立場を同じくする仲間同士による助け合いカウンセリング。
 同じように、ピアラーニングというは、仲間同士の「教えあい育てあい」によって教育効果を高めようとする教授法である。

 最新の教授法と聞いて、春庭「ワッハッハ、ついに時代が私に追いついてきた」と思う。

 教師と学生の関係を築くことから授業をスタートさせる、学生同士が知り合い仲良くなることで教育効果が高まる。
 15年前に日本語教師になったときから、私が実践していることだ。

 日本語教育に携わるようになったとき、私はハンディ以外もっていなかった。英語は下手。第二言語教育理論の専門家でもない。日本語学をかじったとはいえ、博士号もない。

 英語やフランス語など、外国語に携わることから日本語教師になる方が多い業界の中で、中学校国語教師から転身した私の日本語教授法の基本は、「ラポール形成」「ピアラーニング」につきた。

 クラスの中を楽しいいい雰囲気にすること。間違えても大丈夫、自分の居場所はここにあるという安心感。どんな質問をしても共に考えようとする教師の姿勢。このようなことが教育の基本であると信じてやってきた。

 教師にとって教える教科の知識は基本事項。しかし、知識だけもっていても授業は成立しない。教師が学生に関わっていこうとする態度、学生同士の助け合い学び合おうとする心を呼びおこすこと。よい授業のために必須の条項はたくさんある。

 楽しい雰囲気にするため、私は何でもやる。ときどきやりすぎて顰蹙もかう。
 これまでに紹介した日本語教授法クラス。どのように授業を行うかを実演してみせる私のデモンストレーション授業の中でも、おおいに受けたのは、すもうのジェスチャーだった。

 学生のひとりが、「日本語教師はジェスチャーの練習もしておかなきゃなりませんね」というので、「日本語教師は芸人を目指さなければ、やっていけません!」という、私の持論を披露。

 日本語の歌を歌って文法を導入するときもあるし、映画や小説の一部分を、シナリオにして、教師がひとり二役で演じてみせることもある。「朗読が上手」などは、芸のうちにも入らない。

 私がよく学生に披露する芸は、バレエのポジション。一番得意なのは、足を前後開脚して、180度に完全に開くこと。また、「パ・ド・シャ」という、「猫の足」の形でくるくる回転するのも得意。

 そんなもの披露して、日本語と何の関係があるのかって。な~んもありゃしません。
 ただ、学生の興味を授業に集中させるとき、「はい、はい、こっちを見て、集中して!」と叫ぶより、学生のひとりに「足を前後に開いてみせて」と、やらせて、開かないのを確認してから、私がぱっと開いて見せると、いっぺんに学生の注目があつまり、次の授業項目へ向かって、集中させることができる。

 留学生に対する日本語授業に限らず、教育の基本は「教室内のコミュニケーション」をいかになごやかに、いい雰囲気にするかが、重要。

 逆に、この雰囲気が壊れたときは修復がむずかしい。
 あるクラスで、全員が先週とうってかわってギスギスした雰囲気になっており、授業の進行がうまくいかないことがあった。

 連絡ノートに先週のクラスの報告があった。
 ディベート授業で、「それぞれの国の印象を話し合う」というトピックが出された。国の第一印象、私たちもよく話題にすることだ。
 エジプト=歴史の古いピラミッドの国。サウジアラビア=石油がとれる砂漠の国。フィンランド=森と湖とサンタさんの国。タイ=仏教寺院とほほえみの国。などなど。

 ある学生が、ペアになった学生の国の印象を「麻薬の輸出国」と言ったことから、ふたりが反目し合い、クラス内が対立してしまったのだという。
 結局このクラスは、仲直りできないままコースを終了する結果となった。

 私もディベートのトピックには気をつかい、国際問題になりそうな話題は避けているが、まさか、「国の印象」から対立が始まるとは、このトピックを提出した先生も予想がつかないことだったろう。

 クラスの雰囲気を作るための方法は、教師それぞれの個性。

 書道師範の資格をもつ先生が、最初のひらがなの練習のとき、筆と墨を用意し、「日本文化体験授業」として、ひらがなを半紙にかかせてクラスを盛り上げることもある。

 学生がひらがなの書き練習をしている間に、折り紙でひとりひとりに様々な形を折ってプレゼントする先生も。(私が本を見ないでできる折り紙は、つると兜だけ)
 春庭は、挫折したとはいえ、元ミュージカル役者なのだから、唄や踊りが主要ツール。

 日本語教師とは、かくも芸に精進するものなのだ。
 といっても、授業中にすもうのジェスチャーやったり、足を180度に開脚してみせたりする日本語教師は、日本で私だけである!

 春庭、「50代の日本語教師の部、餃子早食い暫定日本一(10/20『をんなとおんな』参照のこと)」の座のほか、「授業中に足を180度に開くことができる唯一の日本語教師」の座、も保持している。

 イブの夜。またもや「膝っ小僧が、寒うかあろうぉおお」の夜である。膝は寒いが、せめて、ジングルベルでも歌いながら、前後開脚180度。開き直るのが春庭の人生。

Dashing through the snow 
In a one horse Open sleigh
 
 オープンスレイ!オープンマインド!、開きっぱなし。今夜も、あなたのために、スプリングガーデン、開けてあります。
 よい聖夜を!!
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2003年12月25日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「ラポール」
(12/25)
春庭のBC級ニッポン語教育研究19「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際・ラポール②」

 たたけよ、さらば開かれん。いつでもオープンの春庭教室。クリスマスの今日も、滞りなくオープンです。パンと葡萄酒もございます。
 おひとつワインなど飲みながら、こころと心をつなぐ授業の話、聞いてくださいな。
 

 はじめて習う言語。緊張している学生を前にして
「あなたは、この教室に受け入れられている」
「ここでは、言語の練習過程で、どんな間違いをしても許されるし、まちがえるのは当然のことだ」
「まちがってもいいから、できるだけたくさん日本語を口にしてほしい」
「教師は、あなたがまちがえながらも成長していくのを応援するし、必ずあなたの味方になる」
ということを、最初に教室内に浸透させることが、教師の仕事のいちばん基本。

 これを教育学では、「ラポール作り」と言う。

 日本語文法を日本語を使ってわからせながら、日本語の基礎を教えていく日本語教育。「文型つみあげ方式」である。

 直接法(日本語だけを用いて、日本語を教える教授法)で日本語を教えるには、教授者が日本語の文型、文法を熟知している必要がある。

 しかし、私は、日本語教授法を学ぶ学生にいう。
 どんなに言語学を修得しようと、日本語文法を完全マスターしていようと、ラポール作りができない教師は、教師ではない。

 これは、日本語教師だけじゃなく、あらゆる教育者に共通することだと、春庭まじめに信じております。

 教育の基本は、教師と学習者の間に生まれる、心とこころのつながり「ラポール」です。超まじめに、叫ぶ春庭。

 12月は、日本語教育のさわりをお話してきた。まじめに。
 日本語教育とは、何か。「日本語を母語として成長しなかった人に、第二言語としての日本語を教えること」

 日本語文法とは何か、についても、もうおわかりいただけたと思います。
 「文法」は、言葉を効率よく学ぶのに必要な、ことばの規則。
 ひとつひとつの単語を覚えることが、クラッチやブレーキの働きを知ることに相当するなら、車の構造や交通ルールを覚えることに相当するのが「文法」です。

 そして、「ことばの学習」「語学の勉強」とは。
 基本は「人と人がコミュニケーションをとろうとする、つながりあいたい、という欲求」からはじまる。

 私は、あなたと、つながりたいのです。もちろん心とこころで。あなたのこころ、受け止めます。

 場合によっては、成り成りて成り余れるところのもので、成り成りてなり合わざるところを刺しふたぐという、古事記が書き残した「あなたと私がつながる方法」も、有り得ます。ただし、この方法、春庭、辺見庸が相手の場合のみです。あんたじゃなくて、辺見庸がいいのよう!

 あなたには、春庭からの「愛」をおくるからね。
 自称マリアのごとき、慈母観音のごとき春庭からの深い愛を、今日のこの夜、あなたへ届けます。
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2003年12月26日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ①」
(12/26)
春庭のBC級ニッポン語教育研究20「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「宿題答え合わせ」

 12月の「おい老い笈の小文」は、「へぇへぇ平成教育研究」(へぇへぇ、へぇなるきょういくけんきゅう)のBC級ニッポン語教育研究「サルでも出来るHow to teach Nipponia Nippon語」をお送りしてきた。
 前回で、ニッポン語教育研究第1段階は修了。今回は、宿題答え合わせ。宿題を出されてまじめにやってきたよい学生のための解説コーナーである。

 宿題の点検、一番たいへんなことは、宿題を出したことを忘れること。真面目な学生がいるクラスでは、級長タイプの学生が、「先生、先週の宿題、あつめましょうか」などと授業のおわりに声をかけてくれたりするが、教師も学生も宿題があったことなど、とんと忘れて、冗談に笑いころげたまま授業終了となることもよくある。

 漢字の宿題の点検。字形に注意。点や丸の位置ひとつで、別の漢字になってしまうことをわからせなければいけない。作文の宿題の点検。添削はたいへんだが、苦にはならない。それより、ひとりひとりに心をこめたコメントをつける。こちらに気をつかう。同じようなコメントになってしまうこともある。

 今回は、忘れずにきちんと宿題点検を行いましょう。宿題、やってありますか?

宿題1,象鼻文(03/12/03の宿題)
 「足跡でhawkさんが質問している「象鼻文」についても、のちほど詳しい説明をしたいと思います。」という宿題でした。

 「象は鼻が長い」という文の、主語はどれか、というhawkさんからの質問であった。
 これは、副助詞(トピックマーカー)「は」と、格助詞「が」の機能解説のところで、おおよそは理解してもらえたと思う。

 「は」は文全体の話題をしめす、文レベルの主題を表し、「が」は行為・事象の主体を表す格助詞。「は」と「が」は、同じレベルの助詞ではなく、たとえていえば「フルーツとりんご、どっちがおいしいですか」みたいな、レベルの異なるものを比べる、という一面があります。

 「象は」というのは、「私がこれから聞き手に話すことの話題の中心は象に関してです」ということを表す。

 「鼻が」は、「長い」という述語の主体を表す。長いって表現していることの主体は何か。「鼻」である。「鼻」というものが「長い」んである。

 象鼻文に限らず、「は」というトピックマーカーで表現される部分は、あえて英語に翻訳するなら「~に関して申し述べるなら」「~について説明するなら~」という意味で、「As for~」を用いる。「As for the elephant it has a long nose.」
「私は 教師です」という単純な文も、正確な翻訳をしようとするなら、「As for my job I am a teacher」と、言ったほうがわかりやすい。

宿題2 助詞「に」と助詞「で」
 「会社で働く」「会社に勤めている」を「会社に働く」「会社で勤める」と、言い換えることができなのは、どうしてか

 「に」は、存在するものや事象の状態が続いている場所を示す助詞。現在、実際に動いて活動している場所を示すのが「で」
 「タコが海で泳ぐ」というとき、泳ぐという動作を行っている場所が「海で」として示される。「タコ」は、活動している行為動作の主体。
 「タコが海にいる」というときは、活動ではなく、存在を示している。タコは「存在している」ことの主体。状態の主体である。

 「働く」は、個別的具体的な活動を表現する動詞なので「会社で」になる。「勤務する」は、その人の職業の状態、会社員としてその会社に存在していることを表現しているから「会社に勤めている」となる。

 「会社でつとめている」と言ったばあい、何か特別な活動をしていることを表現することになり「会社員として勤務している」という状態を表現するのとは異なってくる。
 「彼は最近、会社で大きなプロジェクトをまかされ、いっしょうけんめいつとめている」という場合、「勤める」ではなく「努める」という動作を表す動詞のほうがふさわしい。

宿題3「に」と「で」のちがいの教え方
 「日本語学習者が「いすに座る」と「いすで座る」というのは同じですか?と質問してきたとき、あなたなら、どう説明しますか。
 学習者は、日本語を学びはじめたばかり。ひらがなは読めるようになったけれど、日本語の文は「わたしは、がくせいです」くらいしか、習っていません。
 日本語もできない、英語もできない学生、学生が知っている言語ポーランド語もロシア語もわからない教師。
 こういう状況で教えることができるのが、「直接法=ダイレクトメソッド」という教え方です。
 春庭の場合、体をはって教えます。「いすに」と「いすで」の違い、宿題にしておきます。知ってしまえば簡単な教え方があるんです。でも、まだ秘密。」という宿題。

 別段、もったいぶって秘密にしておくほどのことでもなく、助詞の機能の違いがわかっていれば、その違いを学習者に教えられる。
 「で」は、上記の宿題2と同じ、活動の場所をしめす。
 「に」の別の機能、「目的地を示す」を思い出してほしい。(「駅へ行く」と「駅に行く」の違いについて、すでに説明した)

 以下、春庭方式文法説明。

① 教室に椅子を用意し、学生の前に置く。椅子から少し離れた場所に立つ。
② 「That chair is my goal place.」と言って、椅子を指さす。
③ もう一度「あの椅子は私の目的地です」と言って指さしてから、椅子に座る
④ 椅子の上に立つ。「Here is my action place.」と言って、椅子を指さす。「I do some action. Here is my action place」「ここは、私の活動する場所です」と説明してから、椅子の上に立っている状態から、「いすで すわります」と言って、しゃがむ。
⑤ もう一度②と③を繰り返す。

 この一連の動作で、「で」で示された「椅子で」は、「椅子」が活動を行う場所として限定されることと、「椅子に」は、椅子を動作の目的地としていることが、学習者にわかってもらえる。

 英語でスラスラ文法用語を駆使して説明する先生に教わるより、春庭が下手な英語で説明した方が、学習者に日本語文法の説明が「よくわかる」と好評である。
 これは、どのような文法説明の場合も、春庭は、具体的な動作や絵で違いを目に見える形にして教えているから。

 単純なことのように思えるかもしれないが、実際の教室で、靴を脱いで椅子の上に立ち、立ったり座ったりして体をはって教える教師は少ない。
 他の教師がしないから、春庭が好評を得ることになる。たいていの行儀のいい教師たちは、ここまでやらない。

 人前で靴を脱ぐことを行儀が悪いと感じる欧米系の学生がいるときは、ついでに、部屋へ入るときや、椅子やソファに足を載せるときは、日本の習慣として靴をぬぐことも教える。日本の生活文化だから。

 あなたの家、靴を脱いで入りますか?
 くつを脱がない文化を持つ人々にとって、靴を人前で脱ぐのは、あなたが人の家に入るときに、コートを脱ぐだけじゃなく、上着もセーターも脱いで、ステテコ一枚になってください、と言われるような気がするそうです。最初はちょっと抵抗を感じるとか。

 でも、日本には日本の生活文化があることを知らせるのも、日本語教師の大切な役割。押しつけることはしませんが、日本にいる間は、日本の文化を尊重する気持ちを持ってほしいと思っています。

 日本の「うち」と「そと」の文化のちがいも、おおきな問題。敬語もこの「うち」と「そと」の使い分けが関わってきます。
 
 「うち」「そと」の問題はまた後の課題にして、あしたは、敬語の宿題つづきを。
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2003年12月27日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ②敬語」
(12/27)
春庭のBC級ニッポン語教育研究21「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ② 敬語

宿題4,「差し上げる」は、敬語か
 「国の日本語学校では「差し上げる」は敬語だと教わったのに、来日したら、先生に対して「先生の荷物もって差し上げましょう」と言うと失礼だと教わった。

 差し上げるというのは、敬語なのか、そうじゃないのか、わからなくなった」という宿題。

 待遇表現(いわゆる敬語問題)については、また詳しく論じる機会をもちたいと思うが、とりあえず「差し上げる」について説明しよう。

 学習者は、giveにあたる日本語として、「やる」は子どもか動物に使う、と教わる。「金魚に餌をやる」など。ふつうは「あげる」を使う。「友だちに花をあげる」先生には敬語を使う。「先生にお茶を差し上げる」

 しかし、実際の敬語運用は、学習者にとって、大きな問題。学生が大きな荷物を持って歩いている教師に「先生、荷物をもってさしあげましょう」というのは、なぜ敬意の表現としてまずいのか。敬意をあらわすなら、どう言えばいいのか。

 現代の表現でいうなら、「先生、荷物をお持ちしましょうか」が、ニュートラルな表現。「先生、さしつかえなければ、荷物を持たせていただけませんか」などが、より丁寧な印象を与える。

 「荷物をもって差し上げましょう」というのは、すでに話し手が「荷物を持つ」という行為を行うことを決定し、それを前提として、それを聞き手に承知させようとしている。
 そのため行為が押しつけがましくなり、敬意表現と受け取られないのである。

 「荷物をお持ちしましょうか」「持たせていただけませんか」という表現なら、「持つかどうか」という行為の決定権は、相手にゆだねられている。そのため押しつけがましくない。

 敬語表現には、以上のように複雑な要素がからみあう。
 日本人学生でも、「先生、おりますか」など、謙譲語と尊敬語の混乱した使い方、「来週の授業、やすまさせていただきます」など、の誤用が見られる。
 (やすまさせて、という誤用、20年後には正しい表現とされそうな勢いで広まっている)

 敬語は、人間関係の円滑なコミュニケーションに必要とされるから、古来から形を変えながら生き残ってきた。
 ただし、敬意表現はすぐにすりきれるので、くるくると表現がかわってくる。

 「聞き手(第二人称)」をしめす言葉を例にしよう。
 昔は尊敬の意味を含んでいた「御前(ここにひかえている私から見て、前にいる方」「貴様(貴い方)」などの語が、現在では「オマエ」「キサマ」を目上の人に使うことはできなくなっている。

 このように、敬意表現は価値がすり切れやすいのだ。
 源氏物語ではよく使われる「給ふ」という敬語も、現代では、平社員が課長に「この仕事、仕上げておき給え」と、言うことはできない。

 敬語(待遇表現)には「丁寧語」「尊敬語」「謙譲語」がある。

 「見る」という動詞に「見ます」と「ごらんになります」と「拝見します」がある、というと、母語に敬語システムを持たない学生は「どうして、そんなにつかいわけなければならないのか」と、言う。

 なぜ敬語があるのか。
 では、逆に、敬語が発達しなかった言語を話す社会とは、どのような社会であったか。

 前近代の中国や欧州には、韓国朝鮮語や日本語のような敬語システムはなかった。
 「丁寧な表現」は、どの言語にも、多かれ少なかれ存在する。しかし、尊敬語は発達しなかった。
 なぜなら、身分が上の者と下の者は、決して会話をかわさなかったからだ

 身分が上の者と、身分が下のものが、直接会話することが許されていなかった社会では、敬語など必要がない。同じ階級の中同士で話すのだから。

 身分の上の方と直接口を利ける者は、ただひとりの伝送役のみ。あとの者は、伝送役にことばを伝え、伝送役から上の人のことばが返ってくるのを待つ。

 丁寧な言い方は必要であっても、尊敬語としての敬語(待遇表現)が必要がない社会というのは、身分の上下がハッキリし、上下は決して混じり合わない社会だった。

 日本社会が敬語を必要としたのは、身分の上下を越えて話ができたからである。

 古事記や万葉集などにも、下働きの翁媼が、天皇と直接会話をかわしているエピソードが出てくる。尊敬語を使えば、宮廷の庭掃除の翁が、たまたま御簾をかかげて庭を眺めている高貴な方に許されて、ことばをかわすことができたのだ。

 現代社会においても、敬語を駆使できれば、平社員が社長と直接会話することができる。

 この待遇表現システムさえ身につけてしまえば、相手に不快感をもたせることなく、だれとでも会話ができるのだ。

 便利な表現システムではありませんか。
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2003年12月29日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ③」
(12/29)
春庭のBC級ニッポン語教育研究22「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ③動詞のカテゴリー分類

宿題5,「が」を対象格としている動詞
 「が」格を対象格として持つ動詞。初級で扱う動詞は「みえる」「きこえる」くらい。
 「富士山が見える」「子どもの泣き声が聞こえる」、という場合、対象を示すのは「が」になる。「富士山を見る」「音楽をきく」と、どう違うのか、日本語学習者から、必ず出される質問である。あなたなら、どう説明しますか。(ヒント:意志動詞、無意志動詞)
という宿題。

 12/21に「水が飲みたい」「テニスが好きだ」など、「が」を対象格とする表現について説明した。要求や好悪など、心理的動詞の対象は、一般の対象格「を」ではなく、「が」によって対象をしめす、と述べた。

 では「音楽をきく」と「音楽が聞こえる」は、どうちがうか、と留学生に質問されたらどう答えるのか。

 動詞にはさまざまなカテゴリー(範疇)の違いがある。
 意味的なカテゴリー分類。例をあげるなら「変化を表す動詞」「移動を表す動詞」などのカテゴリー。変化動詞の例「焼く、切る、壊す」など、動作の前とあとでは世の中が変化する動詞。移動動詞の例「行く、来る、渡る」など、主体の位置が変化する動詞。

 また、文法的な違いによってカテゴリーを分ける。例として、アスペクトのカテゴリーをあげてみる。アスペクト(動詞の相)による分類では、「状態継続動詞」「動作継続動詞」のカテゴリーに分類できる。(以前は「瞬間動詞、継続動詞」と呼ばれていた)。

 「電気が消えている」は、電気を消すという動作が終了したあと、電気がついていない状態が続いていることを表す。こちらが状態継続動詞。動作は一瞬で終わってしまい、その動作の結果が残存していることを「~ている」という表現で表す。

 「死ぬ」という行為は一瞬で決定してしまい、「死んだ」と、過去形になる。そしてそのあと、「死んでいる」という状態が続くのである。

 一方、「ごはんを食べている」というのは、今現在、動作が継続していて、食べるという動作が引き続き行われていることを表す。こちらが動作継続動詞。

 日本語動詞の、過去形、非過去形、「~ている(アスペクトのひとつ)形」を、ことが起きる順に順番に並べてみると。
 動作継続動詞の場合: 食べる→食べている→食べた
 状態継続動詞の場合: 死ぬ→死んだ→死んでいる  
 と、なる。動詞のアスペクトカテゴリーによって、違いがあるのだ。アスペクトについては、またあとで。

 意志動詞、無意志動詞、という分け方もある。「みる」「きく」は意志動詞。「みえる」「きこえる」は、無意志動詞である。

 「昨日、私はローストチキンを食べた」という表現。「食べる」という動作を行った「私」はその動作を行う意志を持って、自分で口を動かして食べたのである。
 自分でも気づかないうちに、無意識で食べるということは、まず特殊な場合だけ。普通は、自分で意志をもち、自分から動作を行う。

 一方、「きのう、私は財布を落とした」という表現。文の形式は同じ「~は、~を 動詞」というかたち。
 しかし、「財布を落とした」私は、そうする意志をもってその動作を行ったのではない。知らないうちに落ちていたのだ。この場合の動詞「落とす」は無意志動詞。

 意志動詞の表現は「欲求形=~たい」にすることができる。「ローストチキンを食べたい」「ハワイへ行きたい」「彼女と結婚したい」など。

 しかし、無意志動詞の表現は要求の形が不自然になる。「財布を落としたい」と、表現したとき、知らないうちに落ちてしまった、という意味にならない。自分の意志で財布をどこかにわざと落とすことになる。

 「聞こえる」も、無意志動詞なので「音楽がきこえたい」にはならない。「聞く」は意志動詞なので、「音楽をききたい」は、OK。

 「見える、きこえる」は、その動作を行いたいという意志を持たなくても、自然の状態として、目に入ってくる、耳に入ってくるということを表現しているのである。

新幹線の車窓に偶然富士山が、という場合「あ、ほらほら、あっちに富士山がみえる」と言う。「あ、ほらほら、あっちに富士山を見る」とは、言わない。

 以上、今までに課題がでていた宿題の簡単な説明をしました。まだまだ、無意識のうちに使っている日本語で、外国人に質問されるとどう答えようかと悩む表現はたくさんあります。

 新しい宿題。
 むこうから電車がホームに近づいてくる。「あ、ほら、電車が来た、来た」と、友だちに知らせてやりました。
 留学生の友だちが「電車が来る、来る、じゃないんですか。だって、まだホームのところまで来ていないのに、来た!と過去形で言うのはへんでしょう。」

 さあ、あなたは、この「きた!」をどのように説明しますか。冬休みの課題です。
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2003年12月30日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ④」
(12/30)
春庭のBC級ニッポン語教育研究23「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ④「ル形」と「タ形」

①日本語クイズ:動詞の「ル形」と「タ形」(非過去、過去、完了の形)。

2003/12/29 2: 3 pjtako すごく難しい宿題。
と、考えすぎるとわかんなくなるけれど、

2003/12/29 1:47 donblaco 「来る=まだ見えない」「来た=見えた!」って感じがします
と、感覚でとらえたほうが、わかりやすいかもしれない。どんぶらこさんのとらえ方、正解です。

 日本語教育では、動詞の基本形(辞書形)を「ル形」と表現する。英文法のテンスについて知識を持っている人が「現在形」と言うこともあるが、これは誤解を生む言い方。
 なぜなら、日本語動詞の「ル形」が現在を表すのは、存在をあらわす「ある」「いる」と、昨日「無意志動詞」として紹介した「わかる」「みえる/きこえる」などの」などの限られた動詞。
 無意志動詞というのは、意志のあるなしというより、「自分で制御できるか、できないか」と言い直したほうがいいだろう。

 「わかる」などは、本来は、わかるかどうか自分で制御できない動詞であったが、最近では、「理解する」と同じようにつかわれるため、「あの子の心をわかりたい」などのように、コントロールできる動詞として用いられるようになってきた。

 この存在をあらわす「在る、居る」や、「見える、聞こえる」は、「ル形」が現在の出来事をあらわす。しかし、一般の動詞は、基本的に「ル形」は未来の出来事を表す。
「オレ、昼飯を食べるよ」と言う人は、まだ、食べていない人。
 「しぬ、しぬ」というのは、まだシんでいない人がいう。「イク!イク!」も、これからイク人が叫ぶ。英文法でいえば、willやshallを用いた未来の機能を、日本語の動詞基本形は担っている。

 その出来事が実現したあとでは、現代日本語では「タ形」を用いる。「昼飯、もう食べた」など。
 しかし、「タ」の機能は、過去をあらわすだけではない。

 日本語の「過去形」とみなされている「た」の出自は、古典日本語の「たり」である。過去を表す「き」や「けり」に比して、「たり」は、完了と存続の意味を担っていた。その「たり」が現代語では「た」となっている。

 ゆえに、「た」を「過去形」と名付けてしまうと、他の機能に目がいかない場合もあるので、「過去形」と呼ばずに「タ形」と呼ぶ。

 「食べる」などの動詞基本形を「ル形」と呼ぶ。辞書形という場合もあるが、学校文法のように終止形という言い方はしない。

 現代語では、終止形と連体形は同じ形になっている。終止形と連体形を区別するのは古典文法では必要なことであるが、現代語では必要ない。それより、「食べた」を語幹「食べ」+「助動詞タ」と、とらえるのではなく、「食べた」は、動詞「食べる」の活用形のひとつ、ととらえる。活用の呼び名が「タ」形である。

動詞タ形には、過去を表すという以外の機能もある。
 「ほら、そこ、じゃまだよ。どいた、どいた」と、まだどいていない人に対して「タ形」で言うのも、古典語なら「どいたり、どいたり」であって、「そこから立ち退くという動作を完了させなさい」という完了の意味を含めているのである。

 ホームの向こうのほうに見えた電車に気づいた人が「電車が来た!」と、まだホームに着いていないのに言うのは、「完了」を前提とした「気づき」を表現している。
 「電車の到着」という事象が完了しようとしていることに、今私は気づいた!」と、言って居る。

 どんぶらこさんが「見えた!って感じがする」というのは、まさにその通り。今、現在電車の存在に気づいた人が「来た!」と叫ぶ。

 そして「電車が来る!」というとき、まだ電車の姿に気づいていなくても、「時刻表のとおりなら、まもなくホームに来るはずだ」という予測だけでも、言うことができる。

 普通はこんなふうにいちいち理屈で使い分けをしているのではない。「タ」の機能に過去の意味以外にあることなど、意識はしていなくても、無意識ではあるが、ちゃんと使い分けをしながら話しているのだ。

②日本語クイズ:自動詞に「たい」がつくか?

2003/12/29 2: 7 mysteries 「うんちがでたいんか」と群馬のおばあちゃんが言うのを聞いた

 これは、日本語の自動詞表現に関わる問題
 無生物を主体とした表現は、ふつう無意志表現になるので、欲求形「たい」はつかない。
「川が流れたい」も「山がそびえたい」「家が建ちたい」も、不自然。

 「わかる」「みえる」などの、自分でコントロールできない動詞、可能形もコントロールできないので、「富士山が見えたい」「もっと上手な文章が書けたい」などは不自然。

 群馬のおばあちゃんは、無生物「うんち」を自動詞「でる」の主体として「うんちがでる」と表現した。

 「うんちがでたい」とうんちを主体に欲求の言い方にしている。
 おばあちゃんは、うんちにたずねているのではなく、うんちをする本人に「うんちがでたいのか」とたずねている。

 おばあちゃんは、うんちをする本人とでてくる「うんち」を一体化したものととらえている。うんちは、それを出す本人の代理人として本人とその存在を等しくする存在として出てくるのである。

 I have a sore throat form a cold.(風邪でのどが痛い)
 と、英語ではどこまでも、本人が主体になる表現でも、日本語では「私」という語は出てこないで、ただ、「のどが痛い」と言う。痛いと感じているのは「私」であり、「のど」は痛んでいる場所、もしくは痛む対象であるが、「のどが」と、「のど」を中心にして表現する。

 日本語は「自分が、自分が」と、自分の行為であることを前面に出すことをきらう言語。

 年末の大掃除手伝いをしていて、花瓶にぶつかり大事な花瓶をわってしまったとき、たいていの人は「あ、花瓶がわれちゃった」と言う。

 割ったのは「花瓶にぶつかる」という自分の行為が原因であることが分かっていても、第一声は、ほとんどが「割れちゃった!」になり、最初から「あ、私が花瓶を割っちゃった!!」と叫ぶ人はいない。

 自分の行為であっても、「自分がコントロールして自分の意志で行ったのではない」という意識があるとき、自分が「割る」という行為を行ったのではなく、「自然にそうなった」「この現象は、私が意図して行ったのではなく、自然の推移や偶然として起こったのだ」という意識から、自動詞の表現「花瓶が割れた」と言うのである。

 「うんちしたいんか」と、たずねるとき、うんちをする本人がトイレへ行きたいのかどうか、意志を確認している。

 しかし、おばあちゃんにとって、うんちをすることは、本人がどうこう意志をもつからできるのではなく、自然にもよおすものととらえているのである。

 本人の意志のあるなしではなく、自然の推移のよって、ことが進むので「うんちがでたい」と、うんちの側に視点をおいて表現しているのである。

 日本語では、動作行為の主体をはっきりさせてだれが行うのか主体を明示する他動詞表現より、世の中の事象を自分がコントロールできないことととらえ、自然の推移として表現する自動詞表現のほうが、好まれる。

 ふたりが合意の上で結婚を決めたとしても、結婚報告のあいさつことば、上司への報告として、「来年、結婚の運びとなりました」「結婚することになりました」と、自分たちの意志ではなく、自然に決定したかのように言う「なる」表現のほうが、「来年、結婚することにします」「来年、結婚します」と、自分たちの意志を鮮明にして表現するより好まれる。

 おばあちゃんにとって、「うんちがでるかでないか」ということは、自分自身でコントロールすべきことではなく、「自然の推移」「自分では決められない事象に従っていく」と感じられたから「うんちがでたいんか」と、たずねたのである。

2003/12/29 3:13 mysteries 「この判子はよく押さる」(井上和子)さすがに言えないだろう

 とても押しやすく、きれいに刻印できる判子がある。その判子の性質を説明するために「この判子はよく押せる」「このハンコはきれいにおすことができる」と表現することは可能。
 以上の宿題の答え合わせ。

 では、みなさん、これにて「サルでも出来るnipponia nippin語の教え方」2003年の教室はこれにて閉室です。

 Nipponia nipponn語が「よくわかるようになりました」「文法って、けっこう笑えるって思えました」と、自然の推移的」感想。

 他動詞表現であるならば、「来年もしっかり勉強します」「日本語文章が上達するよう、勉学に励みます」などになる。よい年にしたいですね。

ダイレクトメソッド

2010-12-24 17:09:00 | 日本語教育
春庭のBC級ニッポン語教育研究13「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「直接法(ダイレクトメソッド)の語学教育」

2003/12/18 0: 1 katuyuki22 中国の学生の話をきくと「大地の子」を思いうかべます。
という足跡をいただきました。

 「大地の子」は、春庭にとっても特別な思い出の作品。春庭が出演しているからです。
 出演といっても、俳優としてではなく、ただのエキストラ。長い作品の中で、ほんの5分間くらい画面に映ります。

 中国の大学で教えていたとき、大地の子のロケが行われました。
 仲代達矢と渡辺文夫が、家族の墓参りをするというシーン。

 日本に戻ることなく満州の地に倒れた妻や子をしのんで、皆で泣きながら家族が埋められていると推定される場所に墓を建てる、という場面です。
 春庭は、日本からの墓参訪問団の一員という役まわりのエキストラでした。

 エキストラが中国の方ばかりだと、日本からやってきた訪問団という設定が本物らしく見えない、というNHKの判断で、急遽日本人の教師がエキストラにかり出されたのです。

 ほとんどの先生はテレビドラマのエキストラなどに興味をしめさず、やりたいという人に限って、はずせない授業があったりして、私のところまで話がまわってきました。

 春庭は、好奇心のかたまり。喜び勇んでエキストラに参加しました。

 私と男の先生がふたり。男の先生にはひとことずつセリフが与えられたけれど、私は「墓参団に参加するという設定と年格好が合わない」というので、セリフなし。

 セリフなしでもめげない春庭。主役のうしろに立てば必ずカメラワークに入ると計算して、仲代達也のうしろに立ち、墓参りのシーン撮影に臨みました。

 結果、今年の夏再放送されたロングバージョンの回では、5分間くらい写っています。
 ショートバージョンのビデオの場合、満州墓参団のシーンはカットされているので、映りません。

 25年前、ケニアに滞在していたときは浅野ゆう子の友だち役で『熱中時代スペシャル版』にエキストラ出演。
 10年前の中国では『大地の子』にエキストラ出演。家族へのなによりのおみやげです。

中国で半年間教えている間、中国語を勉強したのですが、最後まで上手になれませんでした。

 え、中国語できなくて、どういうふうに中国の大学で教えるの?と、質問されることもあります。
 中国語ができなくても、英語ができなくても、日本語教えられるのです。

 日本語の授業って、いったいどんなふうにして、外国人に日本語を教えていくのか、見たことある人もいるだろうし、まったく知らない人も。

 一番わかりやすいたとえとして、子どもが中学校に入学して英語を習う際に、英語圏から来た「TA=ティーチングアシスタント」がついたクラスを思い浮かべてください。

 私たちの世代では、日本人の先生が、英語をカタカナ読みした、日本語なまりそのままの英語。カムカムエブリバディ世代の先生に教わりました。

 現在では、英語教育理論をきちんと身につけた外国人教育者を採用している学校が少なくありません。

 TAは、英語だけで、英語の授業を行うことが多いです。少しは日本語を知っているとしても、授業ではなるべく日本語を使わないで、英語だけで教えるのです。

 また、小学校での英語教育も始まろうとしているところです。英語の先取り研究授業、または総合学習「異文化理解教育」として、英語の授業を行っている学校もあります。
 この場合も、TAが英語だけで英語教育を行う場合があります。
 
 日本語教育では、この「英語だけを用いた英語教育」を逆にした「日本語だけを用いた日本語教育(直接法)」が最も広く行われています。

 どのように日本語だけで日本語をわからせていくか、については、「話しことばの通い路」のウェブログハウス春庭「ステップバイステップ日本語教授法」の「最初の授業」に、くわしく書いてあります。読んでね。

 私は、サバイバル日本語として、最初の日に、自己紹介「わたしは○○です。どうぞよろしく」と「○○、ください」を導入する。そして、日本語の音節の発音練習と、ひらがなの読み方(あ行からな行くらいまで)をインストールする。

 英語は、第二言語習得理論の上で、音声から導入する方法が確立しているが、日本語と英語は異なる。

 10/18「いろは歌留多」で説明したように、日本語は開音節の発音で、音節文字であるため、文字と発音を同時に、最初から指導するやりかたが、効率的。

 2日目に「いくらですか」と、数字の数え方を導入(導入というのは「インストール」の教育用語)ひらがなの「な行~わ、を、ん」
 3日目に濁音、拗音、促音、長音。

 「ひらがな」導入のとき、最初はあ行とか行だけでできている名詞を練習する。色カードをみせながら「あか」「あお」、「貝」の絵をみせながら「かい」自分の顔を指し示したり、顔の絵を見せて「かお」を練習する。駅の絵や写真を見せて「えき」

 発音練習ができたら、音声と文字を結びつける。

 さ行、た行の発音ができれば、音の組み合わせもふえて、いろんな単語を絵カードで教えられるようになる。

 そうしたら、「~ください」を導入。八百屋や肉屋、コンビニにいることを想定して「とりにく、ください」「はむ、ください」「ぱん、ください」などを練習する。私が店員の役をして、買い物ごっこをする。

 留学生が、うまくできたら大いにほめて「Now you can buy anything at the Japanese shop.」などと、おだてます。

実際には、まだまだ運用できないことがたくさんあるのだが、「日本語で買いたい物が注文できた!」という喜びを味わうことが大事。

明日は、授業の実践例を紹介しましょう。
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2003年12月19日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「日本語教授法」私の趣味は日記を書くことです
(12/19)
春庭のBC級ニッポン語教育研究14「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー動詞の名詞化を教える①」私の趣味は日記を書くことです

 春庭が「ニッポニア教師日誌」に書いた一番新しい授業実践報告の中から、日本語文法「動詞の名詞化」を、どのように学習者にわからせるか、というのを転載紹介しましょう。

 日本語教師の資格取得をめざす日本人学生の「日本語教授法」というクラスで紹介した、春庭日本語授業のデモンストレーションです。

 日本語教授法は、「どのようにして日本語を教えるか」を教えています。教員免許の「英語科教科法」とか、「国語科教育法」などに相当する授業です。

 以下は、『話しことばの通い路』フリースペースちえのわ『七味日記2003/11/26 ニッポニア教師日誌』に記載した授業実践の転載です。興味が持てたら、七味日記の他の「ニッポニア教師日誌」も、どうぞご覧ください。

 「動詞の名詞化」を教える授業。直接法(ダイレクトメソッド)と、媒介語(この授業の場合は英語)を用いて文法を説明するのを組み合わせた折衷直接法による授業例

 最初に、基本の理論から。
 英語の動詞はrun がrunning に、walk が walking に、という現在分詞の形で、動詞を名詞としてもちいることができる。
 日本語はこれを取りいれ「ランニング」など、そのまま外来語として使用している。

 日本語の動詞を名詞的用法で文にするには、助詞「の」形式名詞「こと」が用いられる。
 泳ぐという動詞を名詞化(nominaraization)すると、「泳ぐこと」「泳ぐの」どちらも使う。
 「こと」と「の」の使い分けなど、留学生には混乱が起きやすい文法項目だ。
 
 「泳ぐのが好きです」は、「泳ぐことが好きです」と、言うことができる。しかし、「私の趣味は泳ぐことです」という文を、「私の趣味は泳ぐのです」と、言うのは不自然だ。

 そのあたりの文法事項を、きちんと把握していないと、もし、留学生が「私の趣味は泳ぐのです」という発話をしたときに、教師として対処できなくなる。
 「日本語ではそう言わないんだから、つべこべ言わないで覚えろ」と言うしかなくなる。

 名詞化の「の」は、コピュラ「だ」「です」と共起しないことを、教授者が把握している必要がある。

動詞の名詞化の説明(「S.F.J」文法解説に基づく)

1,Attaching「の」 or「こと」(tha fact)that ro V-ing to the end of a sentence in it's plain form allows it to function like a noun.
動詞の基本形(辞書形=国文法でいう終止形)のうしろに、「の」、「こと」(できごと、事実の意味)を附属すると、名詞と同じ機能を持つ。

2 ナ形容詞(国文法でいう形容動詞)や、名詞+ナの単語は、「の」を附属させる方が、「こと」を附属させるより、好んで使われる。

 例:「春さんが元気なことを知りませんでした」より「春さんが元気なのを知りませんでした」のほうが、よく使われる。

3 「の」is preferred to 「こと」in sentences involving ~好きだ/嫌いだ/いやだ/上手だ。
~好きだ/嫌いだ/いやだ/上手だ/下手だ、と、組み合わせるばあい、「こと」よりも「の」の方が好まれる.

例:雨の日にでかけるのはいやですね。>雨の日にでかけることはいやですね

4「こと」only is used in the following type of sentence. ( N は N です)

例:私の趣味は本を読むことです(「私の趣味は本をよむのです」は、不適切)

 cf:「だれがなんと言おうと、私はいくのです」という場合の「の」は、また別。「いくんです」「だれが撮っても上手に写るんです」の「の」や「ん」は、説明的終助詞(explanated finel particle)の、「の」である。

あ、話がややこしくなった。逃げないで次に展開する授業実践を読んでね。春庭、授業中に「横綱土俵入り」を披露しているから。
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2003年12月20日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「の/こと」
(12/20)
春庭のBC級ニッポン語教育研究15「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー動詞の名詞化を教える②」

 12/19に、形式名詞「こと」助詞「の」による動詞の名詞化(Verb nominalization)の理論編を書いたところ、dionさんから「『体言止め』と同じですか」という足跡質問をいただいた。
 いいえ、「体言(名詞)止め」と、「動詞の名詞化」は、同じではありません。

 体言止めというのは、文のおわりが名詞で終止することを言います。「働けどはたらけどわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」という短歌は「見る」という用言(動詞)で終わっています。これに対して「今年も何もいいことがなかった。泣き濡れて砂をつかむ私の手。」という文では、「手」という名詞で文が終わっています。これが体言止め。

 動詞の名詞化とは、動詞の形を変えて名詞にすること。「こと」をつけると、動詞「する」が、名詞「すること」に変化します。これが動詞の名詞化。

 もうひとつ動詞を名詞化する方法は、動詞の連用中止形名詞。「行く」が「行き」という名詞になり「行きも帰りも立ちっぱなし」と、名詞として用いることができる。「のぼり、下り」「読み書き」なども、動詞連用中止形名詞です。

 いつもならパソコンの前でいつまでもメールをやりとりしている学生が、明日からの冬休みめがけ、一目散に帰っていったので、留学生センターのパソコンがめずらしく使われていませんでした。
 それで、仕事が終わってから学生用のパソコンで足跡をチェックでき、dionさんの質問に気づきました。足跡ページに書いてあるとおり、昼間は春庭授業中、質問が書いてあっても、足跡をチェックできず、答えられません。質問があるかたは、ミニメールでお願いします。

 敬愛する九州のドクターからも、助詞「が」について説明せよとの御下問が。明日お答えします。
 年末年始特別更新。12/20、12/21,12/22 更新します。12/23,、12/24,更新しません。12/25,12/26、更新します。12/28、12/29,12/30、更新しません。12/31、2004/01/01,01/02,、更新します。01/03,01/04,01/05,01/06,01/07 、更新しません。
 2004/01/08から、通常の平日更新、土日祝日更新なし。

 さて、「動詞の名詞化を教える授業」の続き。
 「私が、『こと』と『の』を導入するときは、こうやります」というサンプル。あくまで一例であり、さまざまな授業方法が存在する。

 以下の授業実践は、直接法(日本語だけで授業をする)に、媒介語(このクラスでは英語)を加えた、「折衷直接法」の授業である。

1,文字カードを準備。
 カードに「ピンポン」「バレーボール」「バスケットボール」「テニス」「ボクシング」「すもう」「Swimming」「Walking」「Watching」「Standing」「Taking photograph」などと書いてある。

2,日本語学習者をふたつのチームに分ける。カードを配り、ふたり一組になってジェスチャーを出題し、相手チームに何をしているか、あてさせる。あたったら、ポイントゲット。
 これは、カードの語句の意味を理解しているかどうか、確認するための遊び。

 「泳ぐこと」「写真をとること」などは、ジェスチャーで当てられるが、「立っていること」「見ること」などは、ジェスチャーが巧みでないと、答えが出にくい。ただ、じっと立ち続けるジェスチャーでは「立っていること」という答えが出ないのだ。

 「すもう」のジェスチャーなどは知らない学生もいるので、できそうな人にあてておく。学生ができないときは、教師がジェスチャーすると、みな大喜び。私は調子にのると、横綱土俵入りのジェスチャーまでサービス。

3,「Please answer. Do you like sports. 答えてください.スポーツが好きですか」スポーツが好きそうな学生に質問する。学生は「好きです」と答える。

①テニスが好きそうな学習者に質問「テニスが好きですか」学習者の答え「はい、好きです」

②女子学生に質問「ボクシングが好きですか」好きだと答えたら「ボクシングができますか」「いいえ、できません」「そうですか、○○さんは、ボクシングができません。○○san can not play boxing.」

① わざと、すもうができるか聞いてみたりする。冗談で「できる」と答える学生がいたら、「Let's play the game. I am Takamisakari You are Asashoryu.」と、のせる。ふたりで、立ちあい「みあって、見合って、はっけよいのこった」と、立つまでをジェスチャーでやったり。がっぷり四つに組むのは、ちょっと遠慮。(昼間だからね)

4,教師「○○san do you like TV watching ?」
  学生「Yes I do」
 教師「そう、好きなのね。日本語で言ってください」
 学生「好きです」
 教師「Please say full sentence.」
 学生「わたしはテレビを見るが 好きです」

5,教師「今の日本語は正しい日本語ではありません。もういちど、言ってください」
 学生「わたしはテレビをみるが、、、、」
 教師「ちがいます。『みるが』は、正しい日本語ではありません」
 学生「Ah!わかりません」

6,学生が間違えたら、すかさず、「こと」「の」を導入する。「日本語動詞の名詞化 Japanese verb nominaraization」の説明。「の」と「こと」の使い分けなどを説明する。
「私は テレビを見るのが 好きです」

7,「こと」を用いた、動詞の名詞化の練習。カードをみせながら、あるいは口答練習で「Walking →あるくこと」「Watching →みること」の変換練習

8「動詞~のが好きです/~のは好きじゃありません」の代入練習。「公園を歩くのが好きです」「テレビを見るのが好きです」「電車の中で立つのは好きじゃありません」などの文型を練習。

9「趣味は、動詞~ことです」の代入練習。
①「趣味はお酒を飲むことです」「趣味は映画を見ることです」「趣味は絵を描くことです」などの例文を練習。

②調子にのりやすい男子学生がいるクラスだと、「趣味は、女の人の写真をとることです」「趣味は女の人と話すことです」などと、うけねらいの短文が続出。

②乗りやすいクラスと、そうでないクラスでは、例文を使い分ける。やたらに「うけねらい」の文を発表しようと、はりきる学生がいるクラスがある。
 また、ちょっとでもふざけた文を言うと、ブーイングを出す、まじめ学生のいるクラスも。

 教師も、クラスの個性にあわせて臨機応変に。

 あなたの趣味は?「趣味は、女の人といっしょにホテルへ行くことです」あ、そう、いい趣味ですわね。春庭も同じ趣味です。共通の趣味を持っていて、気が合いますこと。おほほほ、、、
 「春庭の趣味も、女の人といっしょにホテルへ行くことです」ホテルのレディスサービス、エステ料金無料などのサービスがある。

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2003年12月21日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「が」の機能
(12/21)
春庭のBC級ニッポン語教育研究17「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「が」の機能。納得するまで疑問を持ち続けることの価値

 12/03に、英語のことばの並びかたと日本語の並び方の違いについて、述べた。英語の基本的な文型SVOでは、動詞の前にあるのが主語(subject)動詞のうしろにくるのが対象語(object目的語)

 「Subject」の形容詞や動詞としての意味が「服従する」「受け入れる」「従属させる」ということからわかるように、動詞で表現される行為行動や事象を、我が身に負う、受け入れる主体という意味。「Object」は、Subjectの対象となるもの、動詞で表現された行為をはさんで、主体と対極に存在し、行為の対象となるもの。

 日本語では、語の順番ではなく、どの助詞(particle)が単語にくっついたかによって、文の中での機能が決定する。
 ここでは便宜的にparticleと言っているが、英語のparticleには前置詞、冠詞、接頭辞などがすべて含まれるので、英語圏の学生に対してparticleという文法用語を使うときは、前置詞や冠詞とは異なることを言っておく必要がある。

 日本語の助詞には、日本語独特の働きがある。
 初級で最初に教える助詞は、副助詞の「は」。「わたし は がくせい です」などの「(名詞)は(名詞)です」という文が、どの初級教科書にも、第1課で扱われる。

 「は」は、文のトピック(話題、これから話し手が述べたいことの主題)をあらわす。
 聞き手が承知している話題について、説明をくわえるときに用いる。

 「私」という存在が目の前にいて、聞き手は「私が今ここにいること」を承知している。そのとき、「私は 春庭です」とここに存在している「私」がどのようなものかを説明する。

 もし、「私」の存在を、話し手が知らないときにはどうするか。
 病院の受付で、受付係が名前を確認している。「鈴木さん、内科の受付をなさった鈴木さん、いらっしゃいますか」
 このように受付係が呼んだとき、話し手が承知しているのは、「鈴木さん」という氏名のほうであって、「私」を見たことはない。
 そのとき、「私は 鈴木です」とは、言わない。「はい、わたし が すずきです」という。相手にとって、新情報であるとき「は」ではなく、「が」を用いる。
 「は」は、話し手聞き手が承知しているものを話題としてとりあげるときに用いるからだ。

 「昔むかし、おじいさんとおばあさん が 山の中に住んでいました。」と、話をはじめるとき、おじいさんとおばあさんのことを新情報として提出するので、「昔、むかし、おじいさんとおばあさん は 山の中に住んでいました」とは言わない。

 しかし、一度おじいさんとおばあさんの存在が読者に提示されたあと、おじいさんとおばあさんが新たに行う動作は、「は」で示す。「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」
 もう、おじいさんとおばあさんの存在がわかっているのに、「おじいさんが山へ芝刈りにいきました。おばあさんが川へ洗濯に行きました」というのは、不自然になる。

 副助詞「は」の機能はまだ、たくさんあり、たとえば、対比をしめす「は」。
 「ビールは飲めるが、ウィスキーは飲めない」のように、ふたつのものを対比させて述べるときの助詞。
 「チューリップは咲いているが、桜はまだだね」なども、対比。

 副助詞の仲間には、「も」「さえ」などがある。「わたしも がくせいです」などが第1課で提出される。「副助詞」という呼び方のほかに「取り立て助詞」というときもある。

 「は」の次に扱う助詞が、格助詞「を」や「へ」「で」。
 格助詞は、単語について、文節(文の成分)の機能を確定する。ひとつの助詞がさまざまな機能を担う。
 
 初級教科書の第2課第3課あたりで扱う「毎日、私は がっこうへ 行きます」「毎朝、わたし は たまご を たべます」など。

 助詞「へ」は、方向、目的地をしめす。
 「に」との違いが必ず質問で出てくる。「学校へ行きます」と「学校に行きます」は、どう違うのですか、という質問。

 「へ」は、方向の移動性を頭に置いて、今存在する場所から、目的地へ向かって移動していく過程を念頭におく場合使う。
 「に」は、移動の過程を念頭におかず、目的地の存在を強く意識するときに使う。「学校へ」というとき、家を出て電車に乗って、最寄り駅から歩いて、という過程が念頭にある。「学校に」というときは、移動の過程ではなく、「学校」という場所が、話し手が到達したいと思っている目的地であることが意識されている。

 「毎日、会社へ行きます」というとき、会社までの道のりや、乗換駅のことなども念頭にあり、「毎日、会社に行きます」というとき、目的地としての会社、自分が働く場所としての会社が意識にある。

 格助詞は、このように、語と語がどのような関係で述語に結びつくかを表す。ひとつの格助詞は、多様な機能を持つ。

 たとえば、対象を表す「を」。「パンを食べます」「彼女を愛している」など、述語の対象を表すのが第一の機能。
 第二の機能として、「橋を渡る」「公園を通る」など、移動を表現する動詞と結びついて、通過地点を示す、という機能がある。

 「に」「で」なども、多様な機能をもつ。
 「で」の機能のいくつか。
 「で」の基本機能は、場所の表示。「郵便局で 葉書を買う」「北海道で 大雪になった」など、「で」は、行動・事象が行われる場所を示す。

 「電車で 会社へ 行く」このときの「で」は、手段を表す。「はしで ごはんを 食べる」の「で」も手段。
 「人身事故で 電車が 遅れた」の「で」は、原因理由を表す。
 さらに、「市役所で 住民登録をした」というときの「で」は、場所を示しているが「この問題については、市役所で調べているところです」というときの「で」は、「動作主体
」を示す。「事件は 警察で 処理するから、素人はひっこんでいろ」などと言うときの「警察で」は、処理するという動作を行う主体を表現する。

格助詞「が」は、代表的な格助詞が提出されたあとで、教えられる。「は」との使い分けの説明がかなり難しいからだ。

 格助詞「が」の第一の機能は「述語predicate」が表す行為・事象の主体を示すこと。
 話し手も聞き手もその存在を知っている「桜」について述べるとき「桜は きれいだよね」「今年の桜は、いつが見頃だろう」など、「は」で、話題にだす。

 しかし、今現在目の前で展開している事象に気づいて話すとき「あ、ほら、あそこ見て。もう桜が咲いているよ」と言う。新しく気づいた現象についてその主体を示すときは「が」が用いられる。

 格助詞「が」の、もうひとつの機能は、心理的な対象、欲求が向けられる対象を示すこと。「あの子が好きだ」「テニスが上手だ」「酒が飲みたい」など、話し手の心が向けられる対象をしめす。

 対象を示す助詞は「を」であるので、最近の若者は「あの子を好きだ」「酒を飲みたい」など、「が」格でなく、「を」格で対象を表す傾向にある。あと、20年くらいすると「酒が飲みたい」より「酒を飲みたい」のほうが一般的な言い方になるのではないか。

 また、「が」は、「の/が」変換といって、文の中、特に従属節においては、「が」で表示される機能は「の」に置き換わって使われる。「私が好きなあの子」は「わたしの好きなあの子」と、「が」が「の」に変換されて使われる。この場合の「の」は、「が」の機能と同じ。
 
 ドクターからの質問。『どうやら「が」と「の」は、後ろに来る述語によってその前の言葉が主語にも目的語にもなるらしいのだが、なぜなんだろう』

 「なぜなんだろう」の回答としては
1,「が」は「の」と変換できる。
2,「が」の機能のひとつとして、「行動行為のむけられる対象」を示す。
3,「が」によって対象を示すときの述語は、心理的な愛憎や要求などがむけられることを示す述語である。

 ドクターがお気づきのように、「が」が、対象を示す述語は「好きだ/上手だ(ナ形容詞)飲みたい食べたい(動詞の欲求形、活用はイ形容詞と同じ)」などの、述語に限られ、動詞の欲求形(~たい)以外の動詞述語の場合は「パンが 食べる」などにはならない。

 「が」格を対象格として持つ動詞。初級で扱う動詞は「みえる」「きこえる」くらい。
 「富士山が見える」「子どもの泣き声が聞こえる」、という場合、対象を示すのは「が」になる。
 「富士山を見る」「音楽をきく」と、どう違うのか、日本語学習者から、必ず出される質問である。あなたなら、どう説明しますか。(ヒント:意志動詞、無意志動詞)

 ふだん、何気なく使っている母語を意識化するのは、むずかしいことだ。あたりまえの用法としてしゃべっているから。

 その母語を意識化できるということは、ほんとうにすばらしいこと。ドクターが「なぜ、こういうんだろう」と疑問に思ったということが、私がいう「文法というのは、ことば不思議発見のこと」と、以前に話したことなのだ。

 「なんで、こういうんだろう」「どうしてこういう表現をするんだ」と気になることが、文法意識の出発であり、日本語を教えるということは、こういう「なんで日本語ではこういうんだ」ということを、意識化して外国人に伝えること。

 mitubaさんの日記に学校へ行くことを拒否した15歳少年の話が出ている。

 彼は「なぜ、縦と横をかけると面積になるのか」と教師にたずねたが、答えてもらえなかった。彼にとって、学校教育が意味のないものに思えたのもしかたがないことだろう。

 教師とは、「縦と横をかければ面積になる」という計算方法を教える役目も担うが、もっと大事なことは、「なぜ?」という素朴な疑問に答えてやることだ。

 私は数字に弱く、数学は大の苦手。中学1年生のとき、マイナスをマイナスをかけると+になる、ということがどうしても理解できなかった。

 教師は「そんなこと考えてないで、決まっていることなんだから覚えればよい」と言った。テストではマイナスかけるマイナスはかならず+にして答えを書いたから、点はとれた。

 どうしてマイナスかけるマイナスが+になるのかをおしえてくれたのは、中学校国語科教諭になったときの同僚の先生。

 水道方式という教授法をマスターしている先生だったが、出産したあと、教師をやめることになった。生まれてきたお嬢さんの治療養育に専念するため。

 今でも、数学でわからないことがあると、この友人に手紙を出して素朴な疑問に答えてもらう。このような先生に巡り会える人は幸福だ。

 多くの場合、このような教師に巡り会わないまま学校教育の場で「がまんしながら」すごすのではないか。

 わたしが「なぜ、英語では、いちいち一個の林檎とふたつ以上のりんごを区別するのか」という疑問をもったときに「ヘリクツ言わずに覚えろ」と叱られた思い出をもつように、ほとんどの子どもは、素朴な「なぜ」をつぶしながら学校の勉強を強要されているのではないだろうか。
 
 少なくとも、私は、学生から「どうして日本語ではこういうふうに言うのだ」と、質問されたとき、「つべこべ言うな。日本語ではこう言うのに決まっているんだ」と、答えることはしたくない。

 自分でも、わからないことなら、学生といっしょになって考える。答えが出ないときもある。それでも、「先生は質問したことを絶対に無視しない。いっしょに考えてくれる」という姿勢を示すことが、教師の基本だろうと思う。

 ドクターから、「が」の機能について、質問を受けて、とてもうれしかった。まだ全部説明しきれたわけではないけれど、ドクターの疑問にいっしょに考えることができて、楽しいひとときだった。

 「不思議に思う、疑問をもつ、いっしょに考える」これは、世界を共有しようとする人間と人間の関わり合いの基本ではないかと思っている。

 社会のなかであたりまえとされていること、当然だからといわれること、これらのことも、なぜなんだ、なぜ当然のことにされているんだ、と考えることは相当なエネルギーを要する。
 長いものに巻かれて生きる方が、はるかに楽である。

 chiyoisozakiさんの日記。
 「入会するのが当然」とされている地域の「自治会」への疑問から、脱会を決めた。相当な圧力、地域からの圧迫もあったことだろうと察する。

 しかし、納得のいかない自治活動なら、長いものに巻かれて楽を決め込むより、納得できるまで考えてみようとする態度。ここから何かがスタートするのだと信ずる。

 有無を言わさず「決まったことだから」と、遠い戦地へ出かけていくこと。「なぜ?」という素朴な疑問を持ち続けたい。

ほかに、貢献できる方法はないのか、現地の人々にとって、一番必要なことは何なのか。疑問を持ち、考え続けたい。
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2003年12月22日



文法とは何か1

2010-12-19 22:17:00 | 日本語教育
(12/02)
春庭のBC級日本語教育研究1「文法とは何かその1」

 11/30に、次のような足跡をもらいました。

2003/11/30 9:30 hawk 「象は鼻が長い」って主語は鼻って本当?
2003/11/30 13:41 haruniwa 象鼻文の「は」トピックマーカー、「が」は「長い」の主体を示す
 
 せっかくのご質問なのに、足跡では、十分な説明もできません。
 日本語教師ポカポカ春庭、12月は、まじめに日本語学概論と日本語教育概論をやります。足跡でhawkさんが質問している「象鼻文」についても、のちほど詳しい説明をしたいと思います。

 三上章「象鼻文」は、日本語学のなかでは、奥津敬一郎「うなぎ文」と並んで、論争が続いた「日本語の文」です。英語に直訳ができない、日本語独特の文と言われています。

 「象鼻文」は、日本語における主語論争。「うなぎ文」は、日本語のコピュラ文の問題を明らかにしました。今では、ほぼ解決した文法事項なので、春庭、ちゃんと説明ができます。でも、いち早く「象鼻文」の秘密が知りたい人は、次の本をどうぞ。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.63
(み)三上章(1960)『象は鼻が長い』くろしお出版.

 文法と聞くと、「活用形の丸暗記」とか、「文節と文節の関係がどうかの設問で、悩まされた国語試験の思い出」しかない人もいるでしょう。
 しかし、春庭が再三申し上げているように、ひとつには文法は「ことば、不思議発見!」のことです。

 そして、もうひとつ、文法とは、語学学習を「経済的に、最小の努力で最大の効果」で行うための「秘密の呪文」のことなのです。

 11/18「いろは歌留多」11/21「んじゃ、メナ」でも、五十音について、日本語音韻論のさわりをほんの少し齧ってみました。12月は、日本語文法学のさわりを少々。

 あ、文法と聞いて逃げないで。最後まで読むと、春庭からのステキなサービスが用意されているんです。あなたのための特別サービス。あなたっていうのは、そう、「あ・な・た」のこと。わかってるでしょう。春庭からのスペシャルコンタクト。
(以上、俺俺詐欺の逆バージョン、よくある手ですね)

 のちほど講義する本家「本居春庭」の国学研究は、文の成分関係の研究です。
 文の成分(文節)関係というのは、学校文法で教えられた方もいるでしょう。
 「修飾語が、どの語(被修飾語)を修飾しているか」「主語と述語の関係」などをやらされて、文法がすっかり嫌いになった人も多いようです。

 嫌いになっても、実はあなたは、日本語の文法すべてを全部習得済みであり、暗記しています。日本語しゃべっているんですから。

 「語と語の並べ方の規則」「語の意味」「活用規則」「語用論」など、文法全部。えっ、いつの間に、、、。たぶん、生まれてから6歳までくらいのあいだに、これらの日本語文法を、すべて習得しています。

 しかし、日本語学習者にとって、これらの「この単語の発音はどうやるか」「この単語の意味は?」「ことばとことばがどうつながって文になるか」など、一から勉強していかなければならないのです。

 単語をひとつひとつ習得することと、文法の習得は、学習者にとって重要なことがらです。ことばの習得にとって、「文法」は、なくてはならない必要事項。

 「私は学生です」という文と、「私は会社員です」という文を、ひとつひとつ丸暗記するのは、とても不経済なやり方。
 「私は~です」という「文の型」と、「学生」「先生」「会社員」「男」「女」という単語を覚えれば、「私は男です」「私は女です」と、いくらでも応用が利いて、しゃべれる文が増やせます。

 この「文型」を教えていくことが、日本語教育では大切な教授法になっています。
 ひとつひとつの文をべつべつに覚えていくのはたいへんだから、あるまとまったルールを知り、経済的に覚える方法、それが「文法」のことなのです。

 ほらね。文法って何か、わかってきたでしょ。

 12月の春庭は、とてもまじめです。まじめに日本語学概論を講義します。

 今月はシモネタギャグはなしです。ああ、つまらない、と思ったあなた、春庭から仕込んだ日本語学蘊蓄を、仕事を終えたあとの楽しみ「クラブ活動」の際に、先輩おねえさんに披露して、もててみたいと思いませんか。

 あ、おねえちゃんにモテるには、蘊蓄より、チップのほう、、、ですか。じゃあ、どっちにしろ、あなたがモテないことには変わりないから、暇つぶしに春庭サイトを読みましょう。

 多額のチップがはずめる方、パソコンの前で難しい顔をしていないで、チップを持って、ほら、、、お出かけを。

 お出かけしない真面目なあなたに、今月はとてもまじめな春庭がサービス。

 春庭、つつとあなたのおそばににじり寄り、
 「いらっしゃいませぇ!あたしぃ、このお仕事を始めてからまだ日が浅くてぇ、あまりいろいろわかってないけど、いっしょうけんめい勤めさせていただきま~す。よろしくねっっ。本気でサービスしちゃうから。
 お客さん、本番?生、いく? あ、うち、尺八生演奏禁止なの。ひちりきと笙の笛なら、演奏できるけど。
 はい、ひちりき演奏ね。かしこまりました、喜んで!
 普段は1曲だけなんだけど、お客さん、あたしのタイプだから、特別に2曲演奏するわね。サービス、さーびす」

 では、ひちりきを演奏します。1曲目は「越天楽」でぇ~す。
 ♪ヒューヒャアラ、ヒャラヒャラリコ、ヒャアラー リィコォリー~♪。

 あれ?何かべつのサービス期待した?

 春庭の日本語教室では、日本文化の紹介の際、ひちりき笙の笛で、「雅楽」演奏聞かせるんですよぉ。
 東儀秀樹の本番生演奏じゃないのが残念だけど、CDとかで。

 では、2曲めを。あ、いらないの?せっかくのスペシャルサービスなのに。
 2曲めがすごくいいんです。
 「越天楽」ほど、知られてないんですけど、「古楽乱声(こがくらんじょう)」って曲なんです。乱声、、、すごっく乱れちゃおうと思ったのにぃ。残念!

 12月の春庭は、これまでと違います。すごく真面目に、、、、文法を、、、斯うご期待!
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2003年12月03日


足跡メールにこたえて3「サルでもできる日本語の教え方
(12/03)
春庭のBC級日本語教育研究2「文法とは何かその2 うなぎ文」

 12/02スタートのBC級日本語教育研究、2回目です。

 ミステリーズさんから2003/12/02夜、届いた足跡「mysteriesうちの嫁は男です。これ何文?」

 春庭は、トランスジェンダー大賛成の人間ですから、自分のセクシャリティに正直にパートナーを選びとった息子を自慢している姑のセリフと解釈して、「芸文、ゲイ・ブン?」と足跡をかえしました。

 しかし、ミステリーズさんからの種明かし。
 2003/12/02 19:15 mysteries 孫の話なので孫文・笑

(この駄洒落が分からない人、あとでミステリーズさんから、清朝の辛亥革命と「孫文&宋慶麗夫婦」人民中国誕生と、「蒋介石&宋美麗夫婦」の講義をうけてください。または、映画『宋姉妹』を見ましょう。)

 日本語は省略を多く用います。お互いに話が通じていて、言わなくてもわかることは、いちいち言いません。

 息子夫婦のおめでたを吹聴したくてたまらないお姑さん。ご近所の最近孫が生まれた人に「オタク、お孫さん女のお子さんだったんですってね。うちの嫁は、まあ、お手柄!男の子を出産したんですよ。跡取りが生まれて、これで一安心」と、言いたくてたまりません。

 そんなとき、ゴミ出しのついでに立ち話。「おたく、お孫さん、お嬢ちゃんだったんですって。オタクのお嫁さん、やさしそうな顔してらっしたから、女の子かなあ、っておもってたんですよ。うち?うちの嫁は男です」

 「うちの嫁が生んだ孫は、男の子です」を省略した文が、「うちの嫁は男です」になるのです。この文、実は芸文でも、孫文でもなく、日本語の「うなぎ文」と構造が同じです。

 今回は「うなぎ文」とは何か、の講義。
 ことばは、直訳だけでは理解できないことがある、という例です。

 日本語では「猫がネズミを食べる」「ネズミを猫が食べる」と、語順を変えても、助詞を変えなければ、文の意味が変わりません。

 しかし、「ネズミを猫が食べた」という文の、日本語の語順の順番通りに「A rat eats cats」という文にしたら、英語の意味が変わってしまいます。

 英語を習った人が、cat rat eat の三つの単語を知っていて、複数形のS,三単現のSなんてことも教わったが、語順の理論を知らなければ、「A cat eats rats.」と「A rat eas cats.」では、まったく「逆の意味」になる、ということがわかりません。英語では、主格(主語)と対象格(目的語)の語順が大切だからです。

 「Kitty chan eats Mickey mouse..」だと、「あ、やっぱりキティちゃんって、ねずみが好物だったんだね。ピューロランドのキティちゃん、毎晩10匹はネズミ食っているらしいよ、あくまで噂だけど」という噂がたつ程度です。

 が、「Michey mouse eats Kitty chan .」という文が打電されたら、騒動がおこります。
 普通、ネズミは猫を食べませんから、オリエンタルランドがサンリオを吸収合併か、という話の譬喩かと思われて、株価が動いてしまします。

 株主特別サービス仕様のキティちゃんグッズほしさに、サンリオの株をこずかいはたいて10株買ったあなたは、大ショック!

 このように、単語と単語の並び順は、とても大切です。この並び順の研究を「シンタックス=構文論」といいます。

 英語には英語のことばの並べ方があり、日本語には日本語の「コトバの並べ方の規則」があります。習得たいへんですよね。

 あなたは、つまずいたり、ころんだりしながら英語を学んで、結局は英字新聞を読むことも、金髪ねえちゃんと会話することもできないで終わったことと思います。勝手に思ってすみませんが、まあ、春庭の英語習得と、みなさんだいたいいっしょでしょ!と推察。

 日本語学習者も、つまづいたり、まちがえたりします。いろんなまちがいをしますが、ちゃんと日本語を習得します。会話ができるようになるし、研究のための日本語文献も読めるようになります。春庭の指導よろしきを得ているからです。

 日本語の場合、助詞(particle)の働きを知ること。日本語の構造の中では、述語がもっとも大切であり、述語に係る文の成分を、「述語の働きを補助する補語」としてとらえる、ということが必要です。

 英語のような「主語ー述語」という関係の文法とは異なるので、最初は、いろんな誤解も生まれます。

 大衆食堂に入った留学生が、他の客が「ぼくは、きつねだ」「わたしは、うなぎよ」と、いっているのを聞きました。

 少し英語ができる日本人の友だちが「ぼくはきつねだ。I am a fox. わたしはうなぎよ。I am a eel.」と、翻訳して聞かせました。
 外国から来た友人のために、英語に翻訳してやれて、ちょっと得意な日本人。「それじゃ、ぼくはたぬきにしようかな。I am a racoon. 」

 ちょっとだけ出来る人ほど、得意になって知っている外国語を披露したくなるものです。私のスワヒリ語吹聴のように.


 留学生はびっくりして、日本ではレストランに入ったら、自分を動物にたとえるのが作法とおもい「I am a tiger. わたしはトラだ!」と、叫びました。

 大阪の阪神ファンが集まる食堂だったので、他の客にも、店主にもオオウケで、ライスは大盛りサービスになったとか。

 こんな楽しい誤解なら、笑ってすませられますが、自分の母語にひきつけて、外国語を直訳的に理解しようとすると、さまざまな誤解もでてきます。

 「私はきつねだ」が「I am a fox. 」になってしまったら、文の意味がことなってしまう、ということを教えていかなければなりません。このような誤解をときほぐし、ときほぐしして、日本語を教えていくのが、私の仕事です。

 「ぼくはうなぎだ」を英語で言うなら「I'd like to order my lunch. My order is a grilled eel on the rice.」くらいの表現になるでしょうか。

 「日本語のうなぎ文」
 奥津敬一郎の「うなぎ文」の解釈。「ぼくはうなぎダ」と言う表現は「ぼくはうなぎを注文する」と、同じ意味を表現していると考えました。

 「ダ」に「~ヲ 注文スル」という表現が含まれると、解釈したのです。日本語のコピュラ(繋辞)「ダ」に「述部代替機能」がある、と論じました。くわしく知りたい方は、下の一冊を。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.64
(お)奥津敬一郎『「ボクハウナギダ」の文法』くろしお出版.

 奥津と異なるもうひとつの解釈は、「ぼくはうなぎダ」という文は「僕が注文したいのはうなぎダ」という表現だ、という考え方。

「僕が注文したい食べ物は、うなぎダ」という文のうち、いわなくても分かっている「注文したい食べ物」という部分を省略した、という考え方です。ポカポカ春庭は、こちらに賛成しています。

 「うちの嫁が産んだのは、男の子です」を省略して、「うちの嫁は男です」と言ってしまっても、孫の誕生の話をしているという前提を、話し手聞き手両者が合意しているなら、誤解は生まれません。

 日本語では、言わなくてもわかることは、お互いの「語用論pragmatism=実用的実践的言語運用法」の中で解釈し合い、いちいち表現しなくてもいいのです。

 「食べた?」「うん、食べた」「じゃ、食べちゃうから待ってて」これで、すべてわかり合えます。

 いちいち主語と述語を出して、
「あなたは、お昼ご飯をもう食べましたか。それとも、まだあなたは昼ご飯を食べていないですか」

「はい、わたしはもう昼ご飯を食べました。あなたがまだ昼ご飯を食べていないのなら、どうぞ、あなたも昼ご飯を召し上がってください。」

「それでは、失礼して、お昼ご飯を食べますから、私が昼ご飯を食べ終わるまで、すみませんが少々お待ちください」

と、いちいち言わなくてもいいんです。こんなふうに会話していたら、わずらわしいですよね。

 「する?」「うん、しよう」
 これだけで、夜の会話が成立します。便利ですね。

 じゃ、今夜も、、、する?うん、しよう。じゃ、日本語の勉強をすることにしましょう。え?なにをするつもりだったの?

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2003年12月04日


足跡メールにこたえて4「サルでもできる日本語の教え方」
(12/04)
春庭のBC級日本語教育研究3「文法とは何か3 母語、第二言語、バイリンガル」

 「私も英語苦手です」「英語、苦労しました」という足跡を何通か、いただきました。よかった、英語苦手な人、春庭だけじゃないよね。

 今からでも遅くないから、初歩からきちんと学びたいとは思うものの、ついつい、目先の自転車操業に追われています。
 「ブロークンでも通じているからいいじゃないか」と、開き直って、これまで来てしまいました。

 習い始めのあの頃に、きちんと勉強しておけば、、、、。してもせんない後悔を今夜もしつつ、ブロークン。文法がなあ、ちゃんと覚えなかったから。

 中学1年生の英語を学び始めたあのころ。半年もたつと、始めて習う英語に夢中になって、どんどん勉強が進む子と、私のように、途中でひっかかって、前へ行けなくなる子の二手に分かれていきました。

 私が最初にひっかかたのは、複数のS。
 「先生、なんで英語は、本を持っています、と言うときに、いちいち、私は一冊の本を手の中に持っていますって、言うんですか。どうして一冊のっていうのをくっつけないとダメなんですか」と、質問した。教師は「そんなヘリクツ言ってないで、その間につづり字を覚えろ!」と叱りました。

 確かに、私は「Sii kamu to mai hausu.」と、書いていたんです。
そりゃ、つづりを覚えない私も悪いけど、「なぜ複数にSをつけるのか」というは、「ヘリクツ」なんでしょうか。子どもが抱いてはいけない疑問だったのでしょうか。

次は三単現のS。 I love you. はlove でいいのに、なぜshe loves me. と、Sをつけるのか?
 これも「英語じゃそういうって決まってるんだから、つべこべ言わずに覚えろ」と叱られました。
 私は I lobe yuu.と書いていましたから、それ以上つっこむことができませんでした。

 I am a girl. のとき、am は「です」と訳すのに、「I am in Tokyo.」のとき、am を「います」と、訳せという、そんなご都合主義のような、、、、。適当な、、、

 「なぜ、複数形にSが必要なのか」という疑問に答えてくれる人は誰もいませんでした。10年間、疑問に答える先生に会わないまま、国語教師になりました。そして挫折。

 日本語学、日本語教育、外国語教授法を学ぶことになって、やっと疑問に答えてくれる先生に出会いました。

 英語教科法の先生は「子どもに、なぜ複数にSが必要かと聞かれて、答えられないような者は、英語の教師になる資格がない」といいました。
 私は長年、英語の教師になる資格もない人たちから英語を教わっていたんですね。

 コトバには、抽象的一般的に「あるひとつのもの」、「出来事全体をあらわすこと」を表現する単語と、一回ごとの会話の中で、個別のものを指し示すものの、ふたつがあります。

 一般的に「りんご」と呼ばれるもの全体を示しているときの「りんご」と、今目の前にあって、私が食べようとしている「りんご」は、別のものです。今、目の前にあるりんごは、私が手に取り、口にいれることができる具体的な存在だからです。

 「りんごは赤い」というときの「りんご」は、目の前の一個のりんごじゃなくても、頭に思い描いただけの、りんご全体を思い浮かべて発言することができます。
 日本語は、この「一般的な表現としてのりんご」も、「目の前の、今手に持っている具体的実在としてのりんご」を、区別しないで表現する、言語です。

 日本語では「りんごは赤い」も「いま、手にりんご持ってるよ」も、ただ「りんご」でよい。
 しかし、英語は、このふたつを区別する。世界の中の一般的な「りんご」はりんご全体を表わすため、「apple」でよい。

 が、今、目の前にあり、私が食べようとするとき、具体的な存在であることを示すために「a」をつける。「I eat an apple」と、この「りんご」が、個別的存在であることをしめすためです。
 英語は、一般的な存在の「apple」と個別的存在の「an apple」または「apples」を、区別しなければならない言語だったのです。

 こんな個別表現のための「a」だった、ということを、英語を習い始めてから20年目にして、ようやく教わることができました。

 こういうことが「言語学」を学ぶ、ということです。

お察しの通り、私は「appuru」と書いていました。今では、「語尾にeがつくフォニック」も、ちゃんとわかりますが。

 私の中学校時代の英語教師は、つづり字命のようにスペリングテストを行い、テストでは、文が合っていても、つづりを間違えると×にされ、私はずっと英語の点数悪かった。 つづりも、フォニックをきちんと学んだ先生から教われば、そんなにややこしいもんじゃなかったんです。

 英語はつづりが複雑で、子どもが学ぶにはふさわしくない言語です。
 エスペラント語などのように、合理的で覚えやすい言語もあるけれど、現代では英語が世界制覇してしまいました。

 英語のつづりは、まことに不合理。前にかいたように、「Knight」ナイト=騎士のつづりのうち、Kも、ghも、発音はしない。昔の発音のなごりが残されているだけです。

 日本語も、昔は、ちょうちょうを「てふてふ」と書きました。歴史的仮名遣いです。これと同じような、歴史的つづり字法が、そのまま残っている言語が英語です。

 現代では、つづり字のまちがいなんか、たいしたことではありません。私の一太郎には、スペリングチェックという機能がついていて、まちがいつづりをチェックしてくれます。

 それより、コトバのルール、文法をきちんと知っておけばよかったんですね。
 
 英語でも、日本語でも、はじめて新しいことばを習う人にとって、「文法を学ぶ」ということは、避けて通るわけにはいきません。

 文法には、「シンタックス=構文論」「セマンティクス=意味論」のほか、「語彙論」「単語形態論、活用論」などが含まれ、さらに「語用論」「社会言語論」なども知らないと、言語運用ができません。

 すなわち、今、日本語を話して生活している人は、日本語の「構文論」「語彙論」「意味論」「単語形態論、活用論」「語用論」「社会言語論」などの全部を、すでに習得していることになります。すごいですね。

 そんなにいろいろ身につけていたなんて、春庭に言われるまで、知らなかったでしょ。これから大いに自慢してください。
 と、いっても、ほとんどの人は、自然に母語を身につけるんです。母語というのは、人が成長していく過程において、周囲で話されていたことばのことです。

 第一言語(母語)の習得は、だいたいどの言語でも、生まれてから3~6年くらいで、おおよその言語運用能力が身につくとされています。

 周囲の人が話しているのを聞いて、文を解釈し、自分でもまねて使ってみる。ただまねをするだけでなく、人は新しい文を作り出す能力を持っています。

 「パパ、買い物。ママ、会社」という二語文が話せるようになった子どもは、「ぼく」が自分自身を指し示す語、「トイレ」がおしっこをするときに行く場所だという単語の意味がわかれば、ふたつを組み合わせて、自分で「ぼく、といれ」と表現できるようになります。単語を文の型の中にあてはめて、新しい文を作り出せるのです。

 この、「語と語を組み合わせて新しい文を創出する能力」、これが「文法能力」のことなのです。

 この成長過程で、ふたつの言語を同時に聞いていると、自然習得のバイリンガルになります。自然にふたつの言語が身に付くのです。

 両親が別々の言語を話している場合、たとえば、母は日本語、父はフランス語を話していると、子どもは日本語フランス語両方を同時に覚える。
 また、両親の言語と、生活範囲(保育園、ご近所)などの言語が異なる子どもの場合、家の中では両親と子どもが中国語で話すが、子どもは学校で日本語を話し、バイリンガルになる。

 ただし、子どもによっては、どちらの言語も中途半端にしか理解できないという結果になって、どの言語でも十分な自己表現ができない、という場合もあります。安易に「うちの子、バイリンガルにしたいから、アメリカンスクールに入れてみようか」などは、要注意。

 自然に身につく第一言語(母語)と異なり、第二言語(主に外国語のこと)の習得は、大人になるほど、努力が必要になります。脳が若いほど、第二言語の受け入れがたやすいからです。

 もっとも、脳の若さ以上に、個人差というものが存在し、年をとっても驚異的な記憶力でつぎつぎに外国語を学んでいく人もいれば、若い頃から外国語苦手な春庭のようなのもいる、というしだい。

 10/08に書いた「シニア海外協力隊」への参加お勧めの一環として、効果的な外国語習得法について紹介しました。

 春庭、残念ながら、効果的に外国語を学ぶ方法を実践できなかった。
 わが恋人(そのなれの果てが、現在のワーカホリック夫)は、私以上に外国語を苦手とする「語学音痴」の男。

 夫がケニアにいって、最初に覚えた英語は、ハウマッチ。「ハウマッチって、ホントに実用的で、便利なことばだよね。買い物にすごく役にたつよ」と、新しく覚えた英語を披露して得意になっていた彼。(あのころは、それがかわいく思えたんですけど)

 外国にでるまで、ハウマッチを知らないですごしてきた人がいることに、感心してしまった、ということからおつきあいがはじまりました。間違いの元でしたね。

 このような語学音痴の恋人でなく、ペラペラの人と同居できていたら、今頃私の英語力は、、、、と泣いています。
 これまでに、英語ができなくて、ソンをした人生の分、金額になおせばハウマッチ。


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2003年12月05日


足跡メールに答えて5「サルでもできる日本語の教え方」
(12/05)
春庭のBC級日本語教育研究4「複数形」

2003/12/04 22:53 miyu312fm こんばんは、私も英語苦手発音だけは得意。
2003/12/04 22:43 tttakaaki 自然に身についた母語だけで生きています。
2003/12/04 22:15 piano212880 a にそんな意味があったなんて…勉強になります。

などなど、反響ありがとうございます。

 12/04に書いた単語の複数形について、補足トリビアを。

 世界で使用されている約3000の言語は、おおまかにインドヨーロッパ語族とか、ウラルアルタイ語族のような大きなファミリーに分類されている。日本語はウラルアルタイ語族のひとつ。

 11月27日付の英科学誌ネイチャーで発表された比較言語学の最新情報。
 DNA配列の類似度による系統分析の技術を応用した分類方法によれば、8700年前、トルコのあたりにいた農耕民族ヒッタイトの言語がインドヨーロッパ語族の先祖らしい。

 現在トルコでは、ウラルアルタイ系の言語が話されているから、ヒッタイト民族の直系子孫はトルコ近辺には残らなかったことが推測される。
 鉄器を発明したと言われているヒッタイト。鉄器を残して子孫を残さなかったらしい。

 3000もあるさまざまな言語。
 単語の単数複数の表し方は、言語によって、異なる。
 単語の複数の表し方は、

1,原則として単数も複数も同じ形。

2,原則として単数も複数も同じ形でよいが、語によっては複数を別の形であらわすこともある。

3,原則として、単数と複数を別の形であらわす。単数はひとつだけ、複数はふたつ以上の数をあらわす。(語によっては、単複同型)。

4,単数、双数、複数の三種類に分ける。単数はものがひとつだけあるとき、双数はものがふたつ存在しているとき、複数はものが3つ以上あるときに用いる。

 日本語は2番。原則、単数も複数も同じ形。「きのうりんご食べた」というときのりんごは、一個でも二個でも100個でもよい。

 そして、人々、山々、国々、など、畳語(おなじコトバを繰り返す語)による、複数の強調もある。

 大論争を巻き起こした日本語の単数複数論争。
「古池や蛙飛び込む水の音」
 この芭蕉の句を英語に翻訳するとき、a frogなのか、frogsなのか、論争が起きた。一匹だけ、ぽちゃんと、池に飛び込んだのか、何匹から続けて飛び込んだのか。

 日本語では問題にならない蛙の数が、翻訳では、どちらかに決めなければならないために起きた大論争。

 英語は、語尾にSをつけることで、複数を表すが、スワヒリ語は、語頭の文字を変える。

 ムトトは子どもひとり、ワトトは子ども複数。
 ムワリムは先生ひとり、ワリムは先生複数
 ムティは木一本、ミティは、木、複数。

「英語じゃ、ふたつ以上の数があれば、Sをくっつけるのが決まりなんだから、つべこべ言わずに覚えろ!」ではなく、「世界のことばにはいろいろあって、ものの数をあらわす言い方も、こんなにいろんな種類があるんだよ。

 たまたま英語は、ふたつ以上の数があるものを表すとき、Sをつけることになったコトバなんだ」
と、教えてくれる人がいたら、私も、この納得いかない言語と折り合いをつけることができたかもしれない。

 英語教師が言語学の基礎を少しだけ知っていれば、私も、不合理きわまると思えた英語から逃げ出さなかったかも知れない。

 日本語のばあい、家々、道々などの畳語の言い方を教えるのは中級以後。初級では登場しないことが多い。しかし、初級で学習者がひっかかるのが、助数詞。

 一番最初に教えるのは、紙やお皿の数え方。一枚二枚三枚四枚五枚六枚、、、、と、番長更屋敷のお菊さんが一枚一枚うらめしげに皿を数えるのと同じく、留学生にとって、さらさらと数えられる。
 
 ひっかかるのは、ペンや傘を数えるとき。「いっぽん」と教えると、必ず次は「にぽん」と言う。「いいえ、two pensは、にぽんではなく、にほん」と教えると次は「さんほん」というので、「さんぼん」と訂正。すると次は「よんぼん」と言う。

 数を数えるのも、たいへんなのだ。
 ムワリム春庭、羊を数えて寝ることにします。Sheep(単複同型)いっぴき、Sheepにぴき「ちがう!にひき」Sheepさんひき「ちがう!さんびき」Sheepよんびき「ちがう!よんひき」、、、なかなか寝付けません。

 「三匹の山羊のがらがらどん」読み聞かせで子どもを寝かしつけた日も遠く、ひとりでねるときにやようぉおお、膝っ小僧が寒ぅかあろぅ」と、膝を抱えて寝ることにします。じゃ。山羊が一匹山羊が二匹、、、、
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2003年12月08日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究
(12/08)
春庭のBC級ニッポン語教育研究4「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「日本語教師はトリビア雑学博士であるべし」

 12/06、07、両日、「地学巡検」の旅に参加しました。
 2日間で、日鉱記念館、石炭化石館の見学、アンモナイト館の見学と化石掘り体験コーナー。常磐いわき周辺地層、数カ所での化石掘り。

 え?日本語教師がなんで、化石掘りに?話せば長くなり、長い話はお得意なのですが、そこは割愛。「話しことばの通い路」フリースペースちえのわ七味日記のこのページなどにhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0311b7mi.htm グチグチと理由は書いてあります。

 で、今回の化石掘り旅行は、娘が成人し、「子育て卒業、子離れ実習」の第3弾です。これまでは親子3人で参加してきた「地学ハイキング」の「2003年一泊地学巡検」にひとりで参加することにしました。

 本来、春庭は「全身完全文化系」人間です。
 でも、私、高校時代は科学部に所属し、クラブ活動として共同研究した成果が「読売学生科学賞」全国大会に入賞したりしたんですよ。。

 学生科学賞といっても、クラブ活動を行った部員全員の努力の結果であり、私はちゃっかり東京のホテルで行われた授賞式に参加したのがメインの活動というお調子者。授賞式のメインゲストは朝永振一郎博士でした。

 高校時代の思い出。
 生物はなんとか理解できたけれど、化学は「水素と酸素がくっつくと水になるって、なんて不思議なことなんだろう」と、ひたすら感心したり、「硫酸銅のブルーって、なんともいえない青色だなあ」と、科学室の棚にある硫酸銅の瓶を飽きずにながめたり、という「不思議な世界へのあこがれ」だった。

 物理となると、まったくお手上げ。りんごが落ちたのを見て、どうして「すべての物は引きつけ合う」と思いつけるのか、まったくもって理解不能。

 地学も、天文分野は、ギリシャ神話の星座の話と関連させながら、星について学ぶのは好きだったが、気象や地形の話には興味が持てなかった。

 地学で星座のほかに興味が持てたことが「太古の地球」。恐竜、化石、リンボクロボク。ムカシトンボ、三葉虫、アンモナイト。
 今は絶滅してしまったたくさんの生物が、人間が誕生するよりはるか昔にいたことが、とても不思議だった。

 「遠くに行きたい」が第一テーマの私にとって、時間を遡ってはるか遠く、昔々に遡ることのできる化石の世界は、大好きな分野のひとつだった。 

私がどんなことに興味をかき立てられたかについては、11/10春庭今日の一冊、山口昌男『道化的世界』の項に書いた。同じ地面を掘るのでも、考古学の専門家になりたいと思ったことはあったが、化石の専門家になりたいとは思ったことがなかった。化石は、遠くから眺める夢の世界だったのだ。

 それが、7年前に「化石採集教室」に参加して以来、毎年、化石を掘るハイキングに参加してきた。

 ここから昨日の話。
 今回の採集地は、トキオがDASH村の「化石発掘プロジェクト」を実施した地域。トキオがこのテレビ番組の中で掘り当てた化石は「アンモナイト館」に寄贈展示されていることもわかりました。

 春庭、今回は二枚貝と巻き貝の化石を掘り出しました。ほんとはアンモナイトが欲しかったんですが、私がアンモナイトだと確信していっしょうけんめいハンマーとタガネで掘り出したのは、イノセラムスという貝の化石。
 私の隣で掘っていた人はみつけたのに、残念。でも、貝の化石もステキですよ。

 さて、冒頭に戻って、なんで、日本語教師が授業準備にあてるべき週末に化石掘りに出かける?

 私の持論は、「日本語教師は、教室では芸人であれ、トリビア雑学収集家であれ」。

 教室をなごませたり、授業に集中させるためなら、「日本語の歌」指導もやるし、踊りも見せる、土俵入りのジェスチャーも披露する。照れたり「歌は下手なのに」と躊躇したりはしない。

 歌や踊りが美味くて、才能があったのなら、私はミュージカル女優としての仕事をやめずに続けていた。人様から金をいただいて見せるほどの芸ではないとわかったから、小学校の体育館を回ってミュージカルを見せる仕事をやめたのだ。

 そして私は、他の日本語教師のように「日本語学」で博士号を持っているわけでもないし、「第二言語習得理論」を専攻した教育プロパーでもない。

 私が得意なのは、「楽しい教室」にすること。
 そして、学生の質問には、出来る限り答えること。わからないことは、あとで調べて答えるが、できるなら簡単にでもいいから、その場で答えたい。

 「日本事情」という科目では、日本の文化、歴史を教えている。「留学生のための日本史」というテキストを使っているが、テキストに書かれたことのほか、本当にさまざまな日本に関する質問が出る。

 それらの質問につぎつぎに答えていくと、「先生は歩く百科事典のようです」と、持ち上げてくれる学生もいる。

 「I'm not a walking encyclopedia. I'm an old secondhand dadderring Japanese book. 歩く百科事典ではなく、よぼよぼ歩きの古本です」と答える。一応「謙遜」の美徳は示しておかないと。

 よぼよぼ古本ではあるが、学生の質問に出来る限り答えるという姿勢、どんな質問をしても、先生はいやがらずに答えようとしてくれる、という教室の雰囲気は損なわずにいようと、思っている。

 日本文化、歴史以外の質問。当然、日本語の文法に関することが最も多い。これに答えるのは、日本語教師として当たり前のこと。

 「会社で働く」「会社に勤める」を「会社に働く」「会社で勤める」と、言い換えることができないのは、どうしてか、という基本中の基本の助詞問題から、国の日本語学校では「差し上げる」は敬語だと教わったのに、来日したら、先生に対して「先生の荷物もって差し上げましょう」と言うと失礼だと教わった。差し上げるというのは、敬語なのか、そうじゃないのか、わからなくなった、という待遇表現に関することまで、日本語についての質問は、とぎれることなく出てくる。

 当然知っていると、思って解説をしなかったことについて、留学生がまったく知らなくて、質問を受けることもある。

 日本の高校卒業程度の学生なら当然知っていると思うことを、留学生の既習項目によって、まったく学んでおらず、その部分の知識が欠けている、ということも多々あるのだ。
 理科教育、芸術教育などは、国によって、カリキュラムが大きく異なる、という教育事情による。

 「私の国では、学校の授業で音楽や体育を習うことはない。音楽は町のピアノ教師にならったり、スポーツは、クラブチームで練習したりする」という国もあるし、「受験科目になかったから、地学はまったく勉強したことがない」という学生も。

 私が担当している授業科目の中に、「日本語文章表現」というのがある。

初級日本語を学んでいる学生への、「初歩の日本語作文」の指導もある。初級の学生には、ひとつの文章の中で「だ、である体」の文体と、「です、ます体」の文体を混ぜてはいけないと口をすっぱくして教えますが、本日の春庭雑文は、雑文らしく、文体もまぜまぜです。

 大学院で、日本語によって博士論文修士論文を書く予定の学生に対して「論理的な日本語表現」などの指導もある.

 中級用の作文テキストのひとつの章に「変化の過程を表現するための、論理的な説明文」を練習する課がある。

 例文として出されているのは「アンモナイトがどのようにして化石になるか」という、変化の過程について。

 「アンモナイト」を、当然知っていると思って、化石になる過程を読解していたら、途中で「先生、さっきから話にでてくるアンモナイトっていったいなんのことですか」と質問を受けたことがあった。

 テキストに挿絵があるが、イカなのか、オーム貝なのか、知らない人には区別がつかない。

 そのとき、あわてずさわがず、さらりとアンモナイトを説明するには。

 まったくアンモナイトについて興味をもったことがない教師が、流暢な英語で説明するよりも、たどたどよぼよぼした私のブロークンイングリッシュで解説したほうが、わかってもらえる、という場合が多い。

 私はアンモナイトに興味があり、アンモナイトが好きだから、説明に「愛」があるんでR。

 おまけに、アンモナイトの章を受け持つときは、「古代の海」の古生物が描かれた図版や、私の宝物のひとつアンモナイト化石の文鎮(モロッコ出土の化石)を持参する。一目瞭然。

 これなら、どんなに英語がへたでも、通じるわけだ。必要なのは愛じゃなくて、文鎮だったのね。

 というわけで、今回はアンモナイト館の体験発掘現場で、ぜひともアンモナイトを掘り当てたかったのだが。

 つまるところ、日本語教師は、何事にも興味を持ち、トリビア収集が大好きという人に向いている仕事だと思う。どんな些末な雑学でも、それがほんとうに役にたつ。
 学生から出る質問は、多種多様おもいがけない質問も多い。

 私は、テレビからも、留学生からも日本人学生からも、毎日たくさんのトリビア雑学を学べる。覚えたトリビアは、すぐにでも次の教室で話したい。

 かくて、春庭日本語教室は、今日も「へぇへぇへぇ」が連打されるのである。

 これまで、地学などに興味がわかなかった人にも、化石掘りはお勧め。

 学術的な見地から「人生において意義深いのは、掘ることより、掘られることだ」という信念をお持ちのお方もいらっしゃいましょうが、ここはひとつ、掘るほうも体験してみましょう。

 新しい経験は、必ずあなたに新しい喜びをもたらすことでしょう。
 あなたが、アンモナイトや、恐竜の骨などを掘り当てることをお祈りして、、、、。掘られるのも楽しいでしょうが、機会があったら、ぜひ掘ってみて!
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2003年12月09日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究
(12/09)
春庭のBC級ニッポン語教育研究6「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「日本語古文もなんなくわかる伝達の極意」

 語学(第二言語)の学習は、
1,単語を覚えること。単語の発音ができ、語句の意味がわかること

2,単語と単語をどうつないで、どう並べたら、意味のある文になるか、覚えること

3,文の含意や、ことば以外の情報(顔つきや態度、服装、文化的背景、などコトバ以外のすべて)を加味しながら、文の情報を正しく受けとる訓練

 実際の会話では、文の表面上のことば以上に、「3」の情報は大切。
 しかめっ面をしながら、「係長、ご栄転おめでとうございます」と言えば、この栄転を快く思っていないことは、すぐにわかる。伝達情報は、ことばだけでは成立しない。

 沈痛な顔を作りながら、「奥さんのご冥福をお祈りします」と言っても「やったあ、これで、与党を総攻撃できる。ツッコメェー」と、内心小躍りしているようすがアリアリの人もいれば、「盗聴を社長から指示したことはございません。世間をおさわがせしたこと、まことに申し訳なく」といいながら、少しも悪いと思っていないようすが、ミエミエというのも、よくある話。

 コミュニケーション(情報伝達、交流)は、人間存在のすべてが丸出しになる行為なのです。
 1,2,3,すべてが、「ことば」の習得にとって重要、とは言っても、「3」は、語学教室で教えることがらではなく、実際の運用の中で、自分自身の経験から学び取っていくもの。
 日本語学習は、「第二言語習得理論」に基づいて、効果的な日本語習得方法の研究を工夫し、主として1と2を教えます。

 春庭がどのように日本語を教えているか、興味がある人は「話し言葉の通い路」サイトをごらんください。

 ウェブログハウス春庭『ステップバイステップ日本語教授法』には、日本語を教えるための理論が書いてあります。フリースペースちえのわ『七味日記』の中の「ニッポニア教師日誌」に、毎日の日本語授業をどのように行っているかの、簡単な紹介があります。

 外国語習得に効果的な学習方法については、笈の小文11/07「シニア海外協力隊」の項で伝授してあるので、11/07を読み返してください。
 外国語を学ぶ二番目にいい方法は、ポルノをジャンジャン読みふけることでしたね。

 春庭、サービス精神旺盛だから、もう一度繰り返して、復習サービスしましょう。
 英語については、11/07を読めばいいから、古典日本語のサービス。

 古文を始めて読まされたときは、とても日本語とは思えなかった。英語以上に、ちんぷんかんぷんでした。
 しかし、古典文学ったって、こわかない。読むべきところを読めば、そのまま意味が通じるんです。
 (万葉仮名の原文を現代かなづかい漢字仮名まじり文に変換)

 「汝が身はいかにか成れる」と、問いたまえば、「吾が身は、成り成りて、なり合わざるところ、ひとところあり」と、こたえ給いき。ここに、いざなぎの命、のりたまわく、「我が身は、成り成りて成り余れるところ、ひとところあり。かれ、この吾が身の成り余れるところをもちて、汝が身の成り合わざるところに刺しふたぎて、くにを生みなさんとおもう。生むこといかに」と、のり給えば、いざなみの命「しか、善けむ」と、こたえ給いき。

 どうですか。日本の最古の古典。初めて読んでも、ちゃんと古文の意味が通じたでしょ。

 「なりなりて、なりあまれる所」をもちて、「なりなりて成り合わざるところ」を、「刺しふたぐ」んですよ。リアルですね。
 すばらしき哉!最古の古典のリアリズム!

 ぽかぽか春庭の最初の「卒論」は「古事記」です。
 この卒論を書いて以来、清純な乙女だった春庭が、現在のような耳年増に、、、、ああ、私