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日本語・日本語言語文化・日本語教育

文法とは何か1

2010-12-19 22:17:00 | 日本語教育
(12/02)
春庭のBC級日本語教育研究1「文法とは何かその1」

 11/30に、次のような足跡をもらいました。

2003/11/30 9:30 hawk 「象は鼻が長い」って主語は鼻って本当?
2003/11/30 13:41 haruniwa 象鼻文の「は」トピックマーカー、「が」は「長い」の主体を示す
 
 せっかくのご質問なのに、足跡では、十分な説明もできません。
 日本語教師ポカポカ春庭、12月は、まじめに日本語学概論と日本語教育概論をやります。足跡でhawkさんが質問している「象鼻文」についても、のちほど詳しい説明をしたいと思います。

 三上章「象鼻文」は、日本語学のなかでは、奥津敬一郎「うなぎ文」と並んで、論争が続いた「日本語の文」です。英語に直訳ができない、日本語独特の文と言われています。

 「象鼻文」は、日本語における主語論争。「うなぎ文」は、日本語のコピュラ文の問題を明らかにしました。今では、ほぼ解決した文法事項なので、春庭、ちゃんと説明ができます。でも、いち早く「象鼻文」の秘密が知りたい人は、次の本をどうぞ。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.63
(み)三上章(1960)『象は鼻が長い』くろしお出版.

 文法と聞くと、「活用形の丸暗記」とか、「文節と文節の関係がどうかの設問で、悩まされた国語試験の思い出」しかない人もいるでしょう。
 しかし、春庭が再三申し上げているように、ひとつには文法は「ことば、不思議発見!」のことです。

 そして、もうひとつ、文法とは、語学学習を「経済的に、最小の努力で最大の効果」で行うための「秘密の呪文」のことなのです。

 11/18「いろは歌留多」11/21「んじゃ、メナ」でも、五十音について、日本語音韻論のさわりをほんの少し齧ってみました。12月は、日本語文法学のさわりを少々。

 あ、文法と聞いて逃げないで。最後まで読むと、春庭からのステキなサービスが用意されているんです。あなたのための特別サービス。あなたっていうのは、そう、「あ・な・た」のこと。わかってるでしょう。春庭からのスペシャルコンタクト。
(以上、俺俺詐欺の逆バージョン、よくある手ですね)

 のちほど講義する本家「本居春庭」の国学研究は、文の成分関係の研究です。
 文の成分(文節)関係というのは、学校文法で教えられた方もいるでしょう。
 「修飾語が、どの語(被修飾語)を修飾しているか」「主語と述語の関係」などをやらされて、文法がすっかり嫌いになった人も多いようです。

 嫌いになっても、実はあなたは、日本語の文法すべてを全部習得済みであり、暗記しています。日本語しゃべっているんですから。

 「語と語の並べ方の規則」「語の意味」「活用規則」「語用論」など、文法全部。えっ、いつの間に、、、。たぶん、生まれてから6歳までくらいのあいだに、これらの日本語文法を、すべて習得しています。

 しかし、日本語学習者にとって、これらの「この単語の発音はどうやるか」「この単語の意味は?」「ことばとことばがどうつながって文になるか」など、一から勉強していかなければならないのです。

 単語をひとつひとつ習得することと、文法の習得は、学習者にとって重要なことがらです。ことばの習得にとって、「文法」は、なくてはならない必要事項。

 「私は学生です」という文と、「私は会社員です」という文を、ひとつひとつ丸暗記するのは、とても不経済なやり方。
 「私は~です」という「文の型」と、「学生」「先生」「会社員」「男」「女」という単語を覚えれば、「私は男です」「私は女です」と、いくらでも応用が利いて、しゃべれる文が増やせます。

 この「文型」を教えていくことが、日本語教育では大切な教授法になっています。
 ひとつひとつの文をべつべつに覚えていくのはたいへんだから、あるまとまったルールを知り、経済的に覚える方法、それが「文法」のことなのです。

 ほらね。文法って何か、わかってきたでしょ。

 12月の春庭は、とてもまじめです。まじめに日本語学概論を講義します。

 今月はシモネタギャグはなしです。ああ、つまらない、と思ったあなた、春庭から仕込んだ日本語学蘊蓄を、仕事を終えたあとの楽しみ「クラブ活動」の際に、先輩おねえさんに披露して、もててみたいと思いませんか。

 あ、おねえちゃんにモテるには、蘊蓄より、チップのほう、、、ですか。じゃあ、どっちにしろ、あなたがモテないことには変わりないから、暇つぶしに春庭サイトを読みましょう。

 多額のチップがはずめる方、パソコンの前で難しい顔をしていないで、チップを持って、ほら、、、お出かけを。

 お出かけしない真面目なあなたに、今月はとてもまじめな春庭がサービス。

 春庭、つつとあなたのおそばににじり寄り、
 「いらっしゃいませぇ!あたしぃ、このお仕事を始めてからまだ日が浅くてぇ、あまりいろいろわかってないけど、いっしょうけんめい勤めさせていただきま~す。よろしくねっっ。本気でサービスしちゃうから。
 お客さん、本番?生、いく? あ、うち、尺八生演奏禁止なの。ひちりきと笙の笛なら、演奏できるけど。
 はい、ひちりき演奏ね。かしこまりました、喜んで!
 普段は1曲だけなんだけど、お客さん、あたしのタイプだから、特別に2曲演奏するわね。サービス、さーびす」

 では、ひちりきを演奏します。1曲目は「越天楽」でぇ~す。
 ♪ヒューヒャアラ、ヒャラヒャラリコ、ヒャアラー リィコォリー~♪。

 あれ?何かべつのサービス期待した?

 春庭の日本語教室では、日本文化の紹介の際、ひちりき笙の笛で、「雅楽」演奏聞かせるんですよぉ。
 東儀秀樹の本番生演奏じゃないのが残念だけど、CDとかで。

 では、2曲めを。あ、いらないの?せっかくのスペシャルサービスなのに。
 2曲めがすごくいいんです。
 「越天楽」ほど、知られてないんですけど、「古楽乱声(こがくらんじょう)」って曲なんです。乱声、、、すごっく乱れちゃおうと思ったのにぃ。残念!

 12月の春庭は、これまでと違います。すごく真面目に、、、、文法を、、、斯うご期待!
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2003年12月03日


足跡メールにこたえて3「サルでもできる日本語の教え方
(12/03)
春庭のBC級日本語教育研究2「文法とは何かその2 うなぎ文」

 12/02スタートのBC級日本語教育研究、2回目です。

 ミステリーズさんから2003/12/02夜、届いた足跡「mysteriesうちの嫁は男です。これ何文?」

 春庭は、トランスジェンダー大賛成の人間ですから、自分のセクシャリティに正直にパートナーを選びとった息子を自慢している姑のセリフと解釈して、「芸文、ゲイ・ブン?」と足跡をかえしました。

 しかし、ミステリーズさんからの種明かし。
 2003/12/02 19:15 mysteries 孫の話なので孫文・笑

(この駄洒落が分からない人、あとでミステリーズさんから、清朝の辛亥革命と「孫文&宋慶麗夫婦」人民中国誕生と、「蒋介石&宋美麗夫婦」の講義をうけてください。または、映画『宋姉妹』を見ましょう。)

 日本語は省略を多く用います。お互いに話が通じていて、言わなくてもわかることは、いちいち言いません。

 息子夫婦のおめでたを吹聴したくてたまらないお姑さん。ご近所の最近孫が生まれた人に「オタク、お孫さん女のお子さんだったんですってね。うちの嫁は、まあ、お手柄!男の子を出産したんですよ。跡取りが生まれて、これで一安心」と、言いたくてたまりません。

 そんなとき、ゴミ出しのついでに立ち話。「おたく、お孫さん、お嬢ちゃんだったんですって。オタクのお嫁さん、やさしそうな顔してらっしたから、女の子かなあ、っておもってたんですよ。うち?うちの嫁は男です」

 「うちの嫁が生んだ孫は、男の子です」を省略した文が、「うちの嫁は男です」になるのです。この文、実は芸文でも、孫文でもなく、日本語の「うなぎ文」と構造が同じです。

 今回は「うなぎ文」とは何か、の講義。
 ことばは、直訳だけでは理解できないことがある、という例です。

 日本語では「猫がネズミを食べる」「ネズミを猫が食べる」と、語順を変えても、助詞を変えなければ、文の意味が変わりません。

 しかし、「ネズミを猫が食べた」という文の、日本語の語順の順番通りに「A rat eats cats」という文にしたら、英語の意味が変わってしまいます。

 英語を習った人が、cat rat eat の三つの単語を知っていて、複数形のS,三単現のSなんてことも教わったが、語順の理論を知らなければ、「A cat eats rats.」と「A rat eas cats.」では、まったく「逆の意味」になる、ということがわかりません。英語では、主格(主語)と対象格(目的語)の語順が大切だからです。

 「Kitty chan eats Mickey mouse..」だと、「あ、やっぱりキティちゃんって、ねずみが好物だったんだね。ピューロランドのキティちゃん、毎晩10匹はネズミ食っているらしいよ、あくまで噂だけど」という噂がたつ程度です。

 が、「Michey mouse eats Kitty chan .」という文が打電されたら、騒動がおこります。
 普通、ネズミは猫を食べませんから、オリエンタルランドがサンリオを吸収合併か、という話の譬喩かと思われて、株価が動いてしまします。

 株主特別サービス仕様のキティちゃんグッズほしさに、サンリオの株をこずかいはたいて10株買ったあなたは、大ショック!

 このように、単語と単語の並び順は、とても大切です。この並び順の研究を「シンタックス=構文論」といいます。

 英語には英語のことばの並べ方があり、日本語には日本語の「コトバの並べ方の規則」があります。習得たいへんですよね。

 あなたは、つまずいたり、ころんだりしながら英語を学んで、結局は英字新聞を読むことも、金髪ねえちゃんと会話することもできないで終わったことと思います。勝手に思ってすみませんが、まあ、春庭の英語習得と、みなさんだいたいいっしょでしょ!と推察。

 日本語学習者も、つまづいたり、まちがえたりします。いろんなまちがいをしますが、ちゃんと日本語を習得します。会話ができるようになるし、研究のための日本語文献も読めるようになります。春庭の指導よろしきを得ているからです。

 日本語の場合、助詞(particle)の働きを知ること。日本語の構造の中では、述語がもっとも大切であり、述語に係る文の成分を、「述語の働きを補助する補語」としてとらえる、ということが必要です。

 英語のような「主語ー述語」という関係の文法とは異なるので、最初は、いろんな誤解も生まれます。

 大衆食堂に入った留学生が、他の客が「ぼくは、きつねだ」「わたしは、うなぎよ」と、いっているのを聞きました。

 少し英語ができる日本人の友だちが「ぼくはきつねだ。I am a fox. わたしはうなぎよ。I am a eel.」と、翻訳して聞かせました。
 外国から来た友人のために、英語に翻訳してやれて、ちょっと得意な日本人。「それじゃ、ぼくはたぬきにしようかな。I am a racoon. 」

 ちょっとだけ出来る人ほど、得意になって知っている外国語を披露したくなるものです。私のスワヒリ語吹聴のように.


 留学生はびっくりして、日本ではレストランに入ったら、自分を動物にたとえるのが作法とおもい「I am a tiger. わたしはトラだ!」と、叫びました。

 大阪の阪神ファンが集まる食堂だったので、他の客にも、店主にもオオウケで、ライスは大盛りサービスになったとか。

 こんな楽しい誤解なら、笑ってすませられますが、自分の母語にひきつけて、外国語を直訳的に理解しようとすると、さまざまな誤解もでてきます。

 「私はきつねだ」が「I am a fox. 」になってしまったら、文の意味がことなってしまう、ということを教えていかなければなりません。このような誤解をときほぐし、ときほぐしして、日本語を教えていくのが、私の仕事です。

 「ぼくはうなぎだ」を英語で言うなら「I'd like to order my lunch. My order is a grilled eel on the rice.」くらいの表現になるでしょうか。

 「日本語のうなぎ文」
 奥津敬一郎の「うなぎ文」の解釈。「ぼくはうなぎダ」と言う表現は「ぼくはうなぎを注文する」と、同じ意味を表現していると考えました。

 「ダ」に「~ヲ 注文スル」という表現が含まれると、解釈したのです。日本語のコピュラ(繋辞)「ダ」に「述部代替機能」がある、と論じました。くわしく知りたい方は、下の一冊を。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.64
(お)奥津敬一郎『「ボクハウナギダ」の文法』くろしお出版.

 奥津と異なるもうひとつの解釈は、「ぼくはうなぎダ」という文は「僕が注文したいのはうなぎダ」という表現だ、という考え方。

「僕が注文したい食べ物は、うなぎダ」という文のうち、いわなくても分かっている「注文したい食べ物」という部分を省略した、という考え方です。ポカポカ春庭は、こちらに賛成しています。

 「うちの嫁が産んだのは、男の子です」を省略して、「うちの嫁は男です」と言ってしまっても、孫の誕生の話をしているという前提を、話し手聞き手両者が合意しているなら、誤解は生まれません。

 日本語では、言わなくてもわかることは、お互いの「語用論pragmatism=実用的実践的言語運用法」の中で解釈し合い、いちいち表現しなくてもいいのです。

 「食べた?」「うん、食べた」「じゃ、食べちゃうから待ってて」これで、すべてわかり合えます。

 いちいち主語と述語を出して、
「あなたは、お昼ご飯をもう食べましたか。それとも、まだあなたは昼ご飯を食べていないですか」

「はい、わたしはもう昼ご飯を食べました。あなたがまだ昼ご飯を食べていないのなら、どうぞ、あなたも昼ご飯を召し上がってください。」

「それでは、失礼して、お昼ご飯を食べますから、私が昼ご飯を食べ終わるまで、すみませんが少々お待ちください」

と、いちいち言わなくてもいいんです。こんなふうに会話していたら、わずらわしいですよね。

 「する?」「うん、しよう」
 これだけで、夜の会話が成立します。便利ですね。

 じゃ、今夜も、、、する?うん、しよう。じゃ、日本語の勉強をすることにしましょう。え?なにをするつもりだったの?

09:03 コメント(0) 編集 ページのトップへ
2003年12月04日


足跡メールにこたえて4「サルでもできる日本語の教え方」
(12/04)
春庭のBC級日本語教育研究3「文法とは何か3 母語、第二言語、バイリンガル」

 「私も英語苦手です」「英語、苦労しました」という足跡を何通か、いただきました。よかった、英語苦手な人、春庭だけじゃないよね。

 今からでも遅くないから、初歩からきちんと学びたいとは思うものの、ついつい、目先の自転車操業に追われています。
 「ブロークンでも通じているからいいじゃないか」と、開き直って、これまで来てしまいました。

 習い始めのあの頃に、きちんと勉強しておけば、、、、。してもせんない後悔を今夜もしつつ、ブロークン。文法がなあ、ちゃんと覚えなかったから。

 中学1年生の英語を学び始めたあのころ。半年もたつと、始めて習う英語に夢中になって、どんどん勉強が進む子と、私のように、途中でひっかかって、前へ行けなくなる子の二手に分かれていきました。

 私が最初にひっかかたのは、複数のS。
 「先生、なんで英語は、本を持っています、と言うときに、いちいち、私は一冊の本を手の中に持っていますって、言うんですか。どうして一冊のっていうのをくっつけないとダメなんですか」と、質問した。教師は「そんなヘリクツ言ってないで、その間につづり字を覚えろ!」と叱りました。

 確かに、私は「Sii kamu to mai hausu.」と、書いていたんです。
そりゃ、つづりを覚えない私も悪いけど、「なぜ複数にSをつけるのか」というは、「ヘリクツ」なんでしょうか。子どもが抱いてはいけない疑問だったのでしょうか。

次は三単現のS。 I love you. はlove でいいのに、なぜshe loves me. と、Sをつけるのか?
 これも「英語じゃそういうって決まってるんだから、つべこべ言わずに覚えろ」と叱られました。
 私は I lobe yuu.と書いていましたから、それ以上つっこむことができませんでした。

 I am a girl. のとき、am は「です」と訳すのに、「I am in Tokyo.」のとき、am を「います」と、訳せという、そんなご都合主義のような、、、、。適当な、、、

 「なぜ、複数形にSが必要なのか」という疑問に答えてくれる人は誰もいませんでした。10年間、疑問に答える先生に会わないまま、国語教師になりました。そして挫折。

 日本語学、日本語教育、外国語教授法を学ぶことになって、やっと疑問に答えてくれる先生に出会いました。

 英語教科法の先生は「子どもに、なぜ複数にSが必要かと聞かれて、答えられないような者は、英語の教師になる資格がない」といいました。
 私は長年、英語の教師になる資格もない人たちから英語を教わっていたんですね。

 コトバには、抽象的一般的に「あるひとつのもの」、「出来事全体をあらわすこと」を表現する単語と、一回ごとの会話の中で、個別のものを指し示すものの、ふたつがあります。

 一般的に「りんご」と呼ばれるもの全体を示しているときの「りんご」と、今目の前にあって、私が食べようとしている「りんご」は、別のものです。今、目の前にあるりんごは、私が手に取り、口にいれることができる具体的な存在だからです。

 「りんごは赤い」というときの「りんご」は、目の前の一個のりんごじゃなくても、頭に思い描いただけの、りんご全体を思い浮かべて発言することができます。
 日本語は、この「一般的な表現としてのりんご」も、「目の前の、今手に持っている具体的実在としてのりんご」を、区別しないで表現する、言語です。

 日本語では「りんごは赤い」も「いま、手にりんご持ってるよ」も、ただ「りんご」でよい。
 しかし、英語は、このふたつを区別する。世界の中の一般的な「りんご」はりんご全体を表わすため、「apple」でよい。

 が、今、目の前にあり、私が食べようとするとき、具体的な存在であることを示すために「a」をつける。「I eat an apple」と、この「りんご」が、個別的存在であることをしめすためです。
 英語は、一般的な存在の「apple」と個別的存在の「an apple」または「apples」を、区別しなければならない言語だったのです。

 こんな個別表現のための「a」だった、ということを、英語を習い始めてから20年目にして、ようやく教わることができました。

 こういうことが「言語学」を学ぶ、ということです。

お察しの通り、私は「appuru」と書いていました。今では、「語尾にeがつくフォニック」も、ちゃんとわかりますが。

 私の中学校時代の英語教師は、つづり字命のようにスペリングテストを行い、テストでは、文が合っていても、つづりを間違えると×にされ、私はずっと英語の点数悪かった。 つづりも、フォニックをきちんと学んだ先生から教われば、そんなにややこしいもんじゃなかったんです。

 英語はつづりが複雑で、子どもが学ぶにはふさわしくない言語です。
 エスペラント語などのように、合理的で覚えやすい言語もあるけれど、現代では英語が世界制覇してしまいました。

 英語のつづりは、まことに不合理。前にかいたように、「Knight」ナイト=騎士のつづりのうち、Kも、ghも、発音はしない。昔の発音のなごりが残されているだけです。

 日本語も、昔は、ちょうちょうを「てふてふ」と書きました。歴史的仮名遣いです。これと同じような、歴史的つづり字法が、そのまま残っている言語が英語です。

 現代では、つづり字のまちがいなんか、たいしたことではありません。私の一太郎には、スペリングチェックという機能がついていて、まちがいつづりをチェックしてくれます。

 それより、コトバのルール、文法をきちんと知っておけばよかったんですね。
 
 英語でも、日本語でも、はじめて新しいことばを習う人にとって、「文法を学ぶ」ということは、避けて通るわけにはいきません。

 文法には、「シンタックス=構文論」「セマンティクス=意味論」のほか、「語彙論」「単語形態論、活用論」などが含まれ、さらに「語用論」「社会言語論」なども知らないと、言語運用ができません。

 すなわち、今、日本語を話して生活している人は、日本語の「構文論」「語彙論」「意味論」「単語形態論、活用論」「語用論」「社会言語論」などの全部を、すでに習得していることになります。すごいですね。

 そんなにいろいろ身につけていたなんて、春庭に言われるまで、知らなかったでしょ。これから大いに自慢してください。
 と、いっても、ほとんどの人は、自然に母語を身につけるんです。母語というのは、人が成長していく過程において、周囲で話されていたことばのことです。

 第一言語(母語)の習得は、だいたいどの言語でも、生まれてから3~6年くらいで、おおよその言語運用能力が身につくとされています。

 周囲の人が話しているのを聞いて、文を解釈し、自分でもまねて使ってみる。ただまねをするだけでなく、人は新しい文を作り出す能力を持っています。

 「パパ、買い物。ママ、会社」という二語文が話せるようになった子どもは、「ぼく」が自分自身を指し示す語、「トイレ」がおしっこをするときに行く場所だという単語の意味がわかれば、ふたつを組み合わせて、自分で「ぼく、といれ」と表現できるようになります。単語を文の型の中にあてはめて、新しい文を作り出せるのです。

 この、「語と語を組み合わせて新しい文を創出する能力」、これが「文法能力」のことなのです。

 この成長過程で、ふたつの言語を同時に聞いていると、自然習得のバイリンガルになります。自然にふたつの言語が身に付くのです。

 両親が別々の言語を話している場合、たとえば、母は日本語、父はフランス語を話していると、子どもは日本語フランス語両方を同時に覚える。
 また、両親の言語と、生活範囲(保育園、ご近所)などの言語が異なる子どもの場合、家の中では両親と子どもが中国語で話すが、子どもは学校で日本語を話し、バイリンガルになる。

 ただし、子どもによっては、どちらの言語も中途半端にしか理解できないという結果になって、どの言語でも十分な自己表現ができない、という場合もあります。安易に「うちの子、バイリンガルにしたいから、アメリカンスクールに入れてみようか」などは、要注意。

 自然に身につく第一言語(母語)と異なり、第二言語(主に外国語のこと)の習得は、大人になるほど、努力が必要になります。脳が若いほど、第二言語の受け入れがたやすいからです。

 もっとも、脳の若さ以上に、個人差というものが存在し、年をとっても驚異的な記憶力でつぎつぎに外国語を学んでいく人もいれば、若い頃から外国語苦手な春庭のようなのもいる、というしだい。

 10/08に書いた「シニア海外協力隊」への参加お勧めの一環として、効果的な外国語習得法について紹介しました。

 春庭、残念ながら、効果的に外国語を学ぶ方法を実践できなかった。
 わが恋人(そのなれの果てが、現在のワーカホリック夫)は、私以上に外国語を苦手とする「語学音痴」の男。

 夫がケニアにいって、最初に覚えた英語は、ハウマッチ。「ハウマッチって、ホントに実用的で、便利なことばだよね。買い物にすごく役にたつよ」と、新しく覚えた英語を披露して得意になっていた彼。(あのころは、それがかわいく思えたんですけど)

 外国にでるまで、ハウマッチを知らないですごしてきた人がいることに、感心してしまった、ということからおつきあいがはじまりました。間違いの元でしたね。

 このような語学音痴の恋人でなく、ペラペラの人と同居できていたら、今頃私の英語力は、、、、と泣いています。
 これまでに、英語ができなくて、ソンをした人生の分、金額になおせばハウマッチ。


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2003年12月05日


足跡メールに答えて5「サルでもできる日本語の教え方」
(12/05)
春庭のBC級日本語教育研究4「複数形」

2003/12/04 22:53 miyu312fm こんばんは、私も英語苦手発音だけは得意。
2003/12/04 22:43 tttakaaki 自然に身についた母語だけで生きています。
2003/12/04 22:15 piano212880 a にそんな意味があったなんて…勉強になります。

などなど、反響ありがとうございます。

 12/04に書いた単語の複数形について、補足トリビアを。

 世界で使用されている約3000の言語は、おおまかにインドヨーロッパ語族とか、ウラルアルタイ語族のような大きなファミリーに分類されている。日本語はウラルアルタイ語族のひとつ。

 11月27日付の英科学誌ネイチャーで発表された比較言語学の最新情報。
 DNA配列の類似度による系統分析の技術を応用した分類方法によれば、8700年前、トルコのあたりにいた農耕民族ヒッタイトの言語がインドヨーロッパ語族の先祖らしい。

 現在トルコでは、ウラルアルタイ系の言語が話されているから、ヒッタイト民族の直系子孫はトルコ近辺には残らなかったことが推測される。
 鉄器を発明したと言われているヒッタイト。鉄器を残して子孫を残さなかったらしい。

 3000もあるさまざまな言語。
 単語の単数複数の表し方は、言語によって、異なる。
 単語の複数の表し方は、

1,原則として単数も複数も同じ形。

2,原則として単数も複数も同じ形でよいが、語によっては複数を別の形であらわすこともある。

3,原則として、単数と複数を別の形であらわす。単数はひとつだけ、複数はふたつ以上の数をあらわす。(語によっては、単複同型)。

4,単数、双数、複数の三種類に分ける。単数はものがひとつだけあるとき、双数はものがふたつ存在しているとき、複数はものが3つ以上あるときに用いる。

 日本語は2番。原則、単数も複数も同じ形。「きのうりんご食べた」というときのりんごは、一個でも二個でも100個でもよい。

 そして、人々、山々、国々、など、畳語(おなじコトバを繰り返す語)による、複数の強調もある。

 大論争を巻き起こした日本語の単数複数論争。
「古池や蛙飛び込む水の音」
 この芭蕉の句を英語に翻訳するとき、a frogなのか、frogsなのか、論争が起きた。一匹だけ、ぽちゃんと、池に飛び込んだのか、何匹から続けて飛び込んだのか。

 日本語では問題にならない蛙の数が、翻訳では、どちらかに決めなければならないために起きた大論争。

 英語は、語尾にSをつけることで、複数を表すが、スワヒリ語は、語頭の文字を変える。

 ムトトは子どもひとり、ワトトは子ども複数。
 ムワリムは先生ひとり、ワリムは先生複数
 ムティは木一本、ミティは、木、複数。

「英語じゃ、ふたつ以上の数があれば、Sをくっつけるのが決まりなんだから、つべこべ言わずに覚えろ!」ではなく、「世界のことばにはいろいろあって、ものの数をあらわす言い方も、こんなにいろんな種類があるんだよ。

 たまたま英語は、ふたつ以上の数があるものを表すとき、Sをつけることになったコトバなんだ」
と、教えてくれる人がいたら、私も、この納得いかない言語と折り合いをつけることができたかもしれない。

 英語教師が言語学の基礎を少しだけ知っていれば、私も、不合理きわまると思えた英語から逃げ出さなかったかも知れない。

 日本語のばあい、家々、道々などの畳語の言い方を教えるのは中級以後。初級では登場しないことが多い。しかし、初級で学習者がひっかかるのが、助数詞。

 一番最初に教えるのは、紙やお皿の数え方。一枚二枚三枚四枚五枚六枚、、、、と、番長更屋敷のお菊さんが一枚一枚うらめしげに皿を数えるのと同じく、留学生にとって、さらさらと数えられる。
 
 ひっかかるのは、ペンや傘を数えるとき。「いっぽん」と教えると、必ず次は「にぽん」と言う。「いいえ、two pensは、にぽんではなく、にほん」と教えると次は「さんほん」というので、「さんぼん」と訂正。すると次は「よんぼん」と言う。

 数を数えるのも、たいへんなのだ。
 ムワリム春庭、羊を数えて寝ることにします。Sheep(単複同型)いっぴき、Sheepにぴき「ちがう!にひき」Sheepさんひき「ちがう!さんびき」Sheepよんびき「ちがう!よんひき」、、、なかなか寝付けません。

 「三匹の山羊のがらがらどん」読み聞かせで子どもを寝かしつけた日も遠く、ひとりでねるときにやようぉおお、膝っ小僧が寒ぅかあろぅ」と、膝を抱えて寝ることにします。じゃ。山羊が一匹山羊が二匹、、、、
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2003年12月08日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究
(12/08)
春庭のBC級ニッポン語教育研究4「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「日本語教師はトリビア雑学博士であるべし」

 12/06、07、両日、「地学巡検」の旅に参加しました。
 2日間で、日鉱記念館、石炭化石館の見学、アンモナイト館の見学と化石掘り体験コーナー。常磐いわき周辺地層、数カ所での化石掘り。

 え?日本語教師がなんで、化石掘りに?話せば長くなり、長い話はお得意なのですが、そこは割愛。「話しことばの通い路」フリースペースちえのわ七味日記のこのページなどにhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0311b7mi.htm グチグチと理由は書いてあります。

 で、今回の化石掘り旅行は、娘が成人し、「子育て卒業、子離れ実習」の第3弾です。これまでは親子3人で参加してきた「地学ハイキング」の「2003年一泊地学巡検」にひとりで参加することにしました。

 本来、春庭は「全身完全文化系」人間です。
 でも、私、高校時代は科学部に所属し、クラブ活動として共同研究した成果が「読売学生科学賞」全国大会に入賞したりしたんですよ。。

 学生科学賞といっても、クラブ活動を行った部員全員の努力の結果であり、私はちゃっかり東京のホテルで行われた授賞式に参加したのがメインの活動というお調子者。授賞式のメインゲストは朝永振一郎博士でした。

 高校時代の思い出。
 生物はなんとか理解できたけれど、化学は「水素と酸素がくっつくと水になるって、なんて不思議なことなんだろう」と、ひたすら感心したり、「硫酸銅のブルーって、なんともいえない青色だなあ」と、科学室の棚にある硫酸銅の瓶を飽きずにながめたり、という「不思議な世界へのあこがれ」だった。

 物理となると、まったくお手上げ。りんごが落ちたのを見て、どうして「すべての物は引きつけ合う」と思いつけるのか、まったくもって理解不能。

 地学も、天文分野は、ギリシャ神話の星座の話と関連させながら、星について学ぶのは好きだったが、気象や地形の話には興味が持てなかった。

 地学で星座のほかに興味が持てたことが「太古の地球」。恐竜、化石、リンボクロボク。ムカシトンボ、三葉虫、アンモナイト。
 今は絶滅してしまったたくさんの生物が、人間が誕生するよりはるか昔にいたことが、とても不思議だった。

 「遠くに行きたい」が第一テーマの私にとって、時間を遡ってはるか遠く、昔々に遡ることのできる化石の世界は、大好きな分野のひとつだった。 

私がどんなことに興味をかき立てられたかについては、11/10春庭今日の一冊、山口昌男『道化的世界』の項に書いた。同じ地面を掘るのでも、考古学の専門家になりたいと思ったことはあったが、化石の専門家になりたいとは思ったことがなかった。化石は、遠くから眺める夢の世界だったのだ。

 それが、7年前に「化石採集教室」に参加して以来、毎年、化石を掘るハイキングに参加してきた。

 ここから昨日の話。
 今回の採集地は、トキオがDASH村の「化石発掘プロジェクト」を実施した地域。トキオがこのテレビ番組の中で掘り当てた化石は「アンモナイト館」に寄贈展示されていることもわかりました。

 春庭、今回は二枚貝と巻き貝の化石を掘り出しました。ほんとはアンモナイトが欲しかったんですが、私がアンモナイトだと確信していっしょうけんめいハンマーとタガネで掘り出したのは、イノセラムスという貝の化石。
 私の隣で掘っていた人はみつけたのに、残念。でも、貝の化石もステキですよ。

 さて、冒頭に戻って、なんで、日本語教師が授業準備にあてるべき週末に化石掘りに出かける?

 私の持論は、「日本語教師は、教室では芸人であれ、トリビア雑学収集家であれ」。

 教室をなごませたり、授業に集中させるためなら、「日本語の歌」指導もやるし、踊りも見せる、土俵入りのジェスチャーも披露する。照れたり「歌は下手なのに」と躊躇したりはしない。

 歌や踊りが美味くて、才能があったのなら、私はミュージカル女優としての仕事をやめずに続けていた。人様から金をいただいて見せるほどの芸ではないとわかったから、小学校の体育館を回ってミュージカルを見せる仕事をやめたのだ。

 そして私は、他の日本語教師のように「日本語学」で博士号を持っているわけでもないし、「第二言語習得理論」を専攻した教育プロパーでもない。

 私が得意なのは、「楽しい教室」にすること。
 そして、学生の質問には、出来る限り答えること。わからないことは、あとで調べて答えるが、できるなら簡単にでもいいから、その場で答えたい。

 「日本事情」という科目では、日本の文化、歴史を教えている。「留学生のための日本史」というテキストを使っているが、テキストに書かれたことのほか、本当にさまざまな日本に関する質問が出る。

 それらの質問につぎつぎに答えていくと、「先生は歩く百科事典のようです」と、持ち上げてくれる学生もいる。

 「I'm not a walking encyclopedia. I'm an old secondhand dadderring Japanese book. 歩く百科事典ではなく、よぼよぼ歩きの古本です」と答える。一応「謙遜」の美徳は示しておかないと。

 よぼよぼ古本ではあるが、学生の質問に出来る限り答えるという姿勢、どんな質問をしても、先生はいやがらずに答えようとしてくれる、という教室の雰囲気は損なわずにいようと、思っている。

 日本文化、歴史以外の質問。当然、日本語の文法に関することが最も多い。これに答えるのは、日本語教師として当たり前のこと。

 「会社で働く」「会社に勤める」を「会社に働く」「会社で勤める」と、言い換えることができないのは、どうしてか、という基本中の基本の助詞問題から、国の日本語学校では「差し上げる」は敬語だと教わったのに、来日したら、先生に対して「先生の荷物もって差し上げましょう」と言うと失礼だと教わった。差し上げるというのは、敬語なのか、そうじゃないのか、わからなくなった、という待遇表現に関することまで、日本語についての質問は、とぎれることなく出てくる。

 当然知っていると、思って解説をしなかったことについて、留学生がまったく知らなくて、質問を受けることもある。

 日本の高校卒業程度の学生なら当然知っていると思うことを、留学生の既習項目によって、まったく学んでおらず、その部分の知識が欠けている、ということも多々あるのだ。
 理科教育、芸術教育などは、国によって、カリキュラムが大きく異なる、という教育事情による。

 「私の国では、学校の授業で音楽や体育を習うことはない。音楽は町のピアノ教師にならったり、スポーツは、クラブチームで練習したりする」という国もあるし、「受験科目になかったから、地学はまったく勉強したことがない」という学生も。

 私が担当している授業科目の中に、「日本語文章表現」というのがある。

初級日本語を学んでいる学生への、「初歩の日本語作文」の指導もある。初級の学生には、ひとつの文章の中で「だ、である体」の文体と、「です、ます体」の文体を混ぜてはいけないと口をすっぱくして教えますが、本日の春庭雑文は、雑文らしく、文体もまぜまぜです。

 大学院で、日本語によって博士論文修士論文を書く予定の学生に対して「論理的な日本語表現」などの指導もある.

 中級用の作文テキストのひとつの章に「変化の過程を表現するための、論理的な説明文」を練習する課がある。

 例文として出されているのは「アンモナイトがどのようにして化石になるか」という、変化の過程について。

 「アンモナイト」を、当然知っていると思って、化石になる過程を読解していたら、途中で「先生、さっきから話にでてくるアンモナイトっていったいなんのことですか」と質問を受けたことがあった。

 テキストに挿絵があるが、イカなのか、オーム貝なのか、知らない人には区別がつかない。

 そのとき、あわてずさわがず、さらりとアンモナイトを説明するには。

 まったくアンモナイトについて興味をもったことがない教師が、流暢な英語で説明するよりも、たどたどよぼよぼした私のブロークンイングリッシュで解説したほうが、わかってもらえる、という場合が多い。

 私はアンモナイトに興味があり、アンモナイトが好きだから、説明に「愛」があるんでR。

 おまけに、アンモナイトの章を受け持つときは、「古代の海」の古生物が描かれた図版や、私の宝物のひとつアンモナイト化石の文鎮(モロッコ出土の化石)を持参する。一目瞭然。

 これなら、どんなに英語がへたでも、通じるわけだ。必要なのは愛じゃなくて、文鎮だったのね。

 というわけで、今回はアンモナイト館の体験発掘現場で、ぜひともアンモナイトを掘り当てたかったのだが。

 つまるところ、日本語教師は、何事にも興味を持ち、トリビア収集が大好きという人に向いている仕事だと思う。どんな些末な雑学でも、それがほんとうに役にたつ。
 学生から出る質問は、多種多様おもいがけない質問も多い。

 私は、テレビからも、留学生からも日本人学生からも、毎日たくさんのトリビア雑学を学べる。覚えたトリビアは、すぐにでも次の教室で話したい。

 かくて、春庭日本語教室は、今日も「へぇへぇへぇ」が連打されるのである。

 これまで、地学などに興味がわかなかった人にも、化石掘りはお勧め。

 学術的な見地から「人生において意義深いのは、掘ることより、掘られることだ」という信念をお持ちのお方もいらっしゃいましょうが、ここはひとつ、掘るほうも体験してみましょう。

 新しい経験は、必ずあなたに新しい喜びをもたらすことでしょう。
 あなたが、アンモナイトや、恐竜の骨などを掘り当てることをお祈りして、、、、。掘られるのも楽しいでしょうが、機会があったら、ぜひ掘ってみて!
19:01 コメント(0) 編集 ページのトップへ
2003年12月09日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究
(12/09)
春庭のBC級ニッポン語教育研究6「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「日本語古文もなんなくわかる伝達の極意」

 語学(第二言語)の学習は、
1,単語を覚えること。単語の発音ができ、語句の意味がわかること

2,単語と単語をどうつないで、どう並べたら、意味のある文になるか、覚えること

3,文の含意や、ことば以外の情報(顔つきや態度、服装、文化的背景、などコトバ以外のすべて)を加味しながら、文の情報を正しく受けとる訓練

 実際の会話では、文の表面上のことば以上に、「3」の情報は大切。
 しかめっ面をしながら、「係長、ご栄転おめでとうございます」と言えば、この栄転を快く思っていないことは、すぐにわかる。伝達情報は、ことばだけでは成立しない。

 沈痛な顔を作りながら、「奥さんのご冥福をお祈りします」と言っても「やったあ、これで、与党を総攻撃できる。ツッコメェー」と、内心小躍りしているようすがアリアリの人もいれば、「盗聴を社長から指示したことはございません。世間をおさわがせしたこと、まことに申し訳なく」といいながら、少しも悪いと思っていないようすが、ミエミエというのも、よくある話。

 コミュニケーション(情報伝達、交流)は、人間存在のすべてが丸出しになる行為なのです。
 1,2,3,すべてが、「ことば」の習得にとって重要、とは言っても、「3」は、語学教室で教えることがらではなく、実際の運用の中で、自分自身の経験から学び取っていくもの。
 日本語学習は、「第二言語習得理論」に基づいて、効果的な日本語習得方法の研究を工夫し、主として1と2を教えます。

 春庭がどのように日本語を教えているか、興味がある人は「話し言葉の通い路」サイトをごらんください。

 ウェブログハウス春庭『ステップバイステップ日本語教授法』には、日本語を教えるための理論が書いてあります。フリースペースちえのわ『七味日記』の中の「ニッポニア教師日誌」に、毎日の日本語授業をどのように行っているかの、簡単な紹介があります。

 外国語習得に効果的な学習方法については、笈の小文11/07「シニア海外協力隊」の項で伝授してあるので、11/07を読み返してください。
 外国語を学ぶ二番目にいい方法は、ポルノをジャンジャン読みふけることでしたね。

 春庭、サービス精神旺盛だから、もう一度繰り返して、復習サービスしましょう。
 英語については、11/07を読めばいいから、古典日本語のサービス。

 古文を始めて読まされたときは、とても日本語とは思えなかった。英語以上に、ちんぷんかんぷんでした。
 しかし、古典文学ったって、こわかない。読むべきところを読めば、そのまま意味が通じるんです。
 (万葉仮名の原文を現代かなづかい漢字仮名まじり文に変換)

 「汝が身はいかにか成れる」と、問いたまえば、「吾が身は、成り成りて、なり合わざるところ、ひとところあり」と、こたえ給いき。ここに、いざなぎの命、のりたまわく、「我が身は、成り成りて成り余れるところ、ひとところあり。かれ、この吾が身の成り余れるところをもちて、汝が身の成り合わざるところに刺しふたぎて、くにを生みなさんとおもう。生むこといかに」と、のり給えば、いざなみの命「しか、善けむ」と、こたえ給いき。

 どうですか。日本の最古の古典。初めて読んでも、ちゃんと古文の意味が通じたでしょ。

 「なりなりて、なりあまれる所」をもちて、「なりなりて成り合わざるところ」を、「刺しふたぐ」んですよ。リアルですね。
 すばらしき哉!最古の古典のリアリズム!

 ぽかぽか春庭の最初の「卒論」は「古事記」です。
 この卒論を書いて以来、清純な乙女だった春庭が、現在のような耳年増に、、、、ああ、私

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