gooブログはじめました!地球の無駄使いをやめよう。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
地球が延命出来れば人類は必ず生き延びられる

、『桶狭間合戦名残』といいまして、豊明市旧間米村で発見された写本

2011-06-27 00:27:18 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
 
(6)『新編桶狭間合戦記』    (2009.05.07 追加)
『新編桶狭間合戦記』は尾張藩士・田宮篤輝による十九世紀半頃の著述で、山澄英竜の論考を伝えるものであるが、そこでは義元の十八日の所在を沓掛城として、大高城説を批判している。すなわち、「惣見記ニ十八日夜、義元大高ノ城ニテ軍評議とせり、創業録モ然リ。原本(山澄本)細注ニ、此日、義元大高へ行キ、即、大高城ニテ軍評定有テ、鷲津・丸根ヲ攻落シ、其後義元ハ桶狭間山ノ北に陣取ト言説アレトモ、難信用義元此時大高ニ在テ両城ヲ攻取ナバ、鳴海ハ間近レバ、善照寺辺ノ砦々ヲ攻シムルニ、手寄ヨク、其レヨリ熱田表ヘノ進発モ順路ナリ。其上敵地ニ入テノ用心ニモ直ニ大高ノ城郭ニ在陣可然事ナルニ、又跡ヘ帰テ、桶狭ノ山中ニ野陣セラレタルト云事、其理曽テ難心得古老云伝シ説々ノ中ニモ、十八日、義元大高へ来リシト言は、嘘説也、ト言ヘリ、」というものである。
  1. 鳴海が間近にあって直ぐに攻められるのに何故そうしなかったのか。
  2. 鳴海を獲って熱田へ出るのは当然の順路であろう。
  3. 敵地に深く中入りしているのだから用心のためにも大高城に戻るべきであった。
  4. 鳴海へも出なかったばかりでなく、桶狭間の山中に軍を止めるなどとは考え難い。
  5. 古老なども、義元が大高城に宿泊したというのは、嘘だといっている。
以上が、批判内容の現代語訳である。
山澄英竜は、鷲津・丸根からは距離が近いのだから、中島・善照寺砦を攻めるのがよいというのだが、とても現役の武士=軍人黒の見解末思えない。黒末典川が天然の堀をなしており、干潮であっても空堀の効果を発揮するため、敵前渡河は困難になるから、敢えて南から攻めるのは戦術的に順当とはいえない。ではと言うので、大高から黒末川を徒渉して星崎・笠寺から熱田を襲えるものと仮定したとしても、塩の干満に左右されて交通・補給に支障があることを考えるならば、一時的に奇襲するには良い経路であっても大軍を運用するには適さない。従って、駿河勢が中島・善照寺の砦を南方から攻めなかったのは戦術的な判断としては妥当で有ったと言える。鳴海から熱田へ出たければ鎌倉海道を使用するのが常道だからである。そこで問題になるのは、何故そうまでして(1)義元自身が大高城へ行く必要があったかということと、(2)本当に義元は四万超の大軍を率いて尾三国境へ出張ってきていたのかという事である。だから、山澄英竜の(1)(2)の疑念は、一重に義元軍が四万五千もの大軍であったということを前提にしない限り、疑問にさえならないことが分かるはずである。つまり、義元が小勢であるならば、いつまでも大高城くんだりに居続けたくなかったのであり、『三河物語』で丸根・鷲津砦攻めに駿河の重臣連が乗り気でなかったのも、大高城番交代が紛糾したというのも肯けるものがある。
では、(3)の義元は大高城へ戻るべきであったとするのは正しいことだろうか。勿論、義元が大軍であったならば大高城へ戻る必要もなければ、桶狭間で休息しようが問題はない。織田方への示威のためにも必要でさえある。従って、義元が一旦大高へ戻るべきだというのは、義元が大軍でない場合だけであるのだが、義元が小勢であるならば敵中に突出して孤立する形勢になりかねないことと紙一重であるため、採用し難い戦術であると言えよう。丸根・鷲津を排除したとはいえ、織田方は何時でも進出できるし、大高城は要害などではないからだ。
最後の(4)の桶狭間山中に軍を止めたことは間違いだろうか。結果的には敗北につながったのだから、間違いとすることもできるだろうが、必ずしもそうとは言えないものがある。
第一に、『三河物語』によると義元は自身大物見をしたうえで、丸根・鷲津の排除を決めている。素人が考えても分かりそうな善照寺砦の排除を選択していないのだ。義元には丸根・鷲津を指呼の間に攻略できるだけの兵力があったことは確かなのであるから、先に善照寺・丹下の砦を落とすことも可能であったはずであり、それができれば中島・丸根・鷲津などは敵中に孤立するから、守備兵は砦を捨てて逃げ去ることが見込めたはずであるのに、である。これによって、義元には喧伝されている程の兵力を率いていた訳ではないとも言えなくもない。だからと言って、織田勢に劣る兵力であったわけではないだろう。それでも、二つの城塞を攻撃している最中に敵の後詰を相手に出来るほどの兵力差があったわけではないことは、駿河勢が潮の満ちるのを期して大高城への付城攻略を発起していることから窺われる。兵力差が喧伝される程のものであったならば、付城攻撃を餌にして後詰に来るのであろう信長を待ち伏せる戦術がとれるのに、それを敢えて避けているからである。
第二に、丸根・鷲津攻略後になっても信長が後詰に姿を見せなかったのであるから、兵の疲労を考えるとその日の内の中島・善照寺攻めは見送って、敵の眼前を示威のために行軍して引き揚げることは、あり得るべき戦術だろう。その場合、自軍の武装を解くのは敵から十分に距離をとった桶狭間の丘陵上であることは、当時の常識からしても別におかしな決定ではなかったであろう。ところが、その頃になって信長が遅れて戦場に到着したものだから、中途半端な距離で敵と睨み合う結果になっただけのことである。義元が不運であったのは将に突然の暴風雨だけであったろう。山澄英竜は尾張藩の初代義直に仕えて重臣であったが、その生まれは1625年(寛永二年)と既に戦国は終わり、最後の戦になった島原乱[32]では十三歳であり、未だ武道は廃れていなかったものと思えるのだが、その論評に疑念を付さざるを得ないのは、おそらく一世紀近く前の二~三千人での戦争の仕方には思いもよらなかったからではないのだろうか。


[1]  『惣見記』元禄十五年(1702)「十八日、松平蔵人元康を以って大高の城へ兵粮を入れさせ、その夜この城にて合戦の評議を調へ、翌十九日、鷲津・丸根両城を攻めんと議定す。」
[2]  『三河物語』年(1622)「五月十九日に、義元は池鯉鮒より段々に押して大高へ行き、棒(某)山之砦をつくづくと巡見して、諸大名を寄せて、やや久しく評定をして・・・」
[3]  『甫庵信長記』元和八年(1622)「翌日十八日ノ夜ニ入、大高ノ城ヘ兵糧ヲ入、爰ニ於テ軍評定シケルカ、翌朝ハ鷲津・丸根両城ヲ可攻干ニソ定メケル。」
[4]  但し、これは「昼間だけ」の話ですからお忘れなく。
[5]  但し、小和田氏を始めとした現代の多くの方々は、大部分の軍記が短時間であったというにもかかわらず、その攻略には長時間かかったうえ信長が善照寺砦に参陣した後まで鷲津砦は落ちなかったと言われる方が多いようです。
[6]  
[7]  現に、桶狭間合戦では勘当されていた前田犬千代が抜駆け組に交じって戦っているし、千秋・佐々らは抜駆けしている。
[8]  『武徳編年集成』幕府大番頭・木村高敦(タカアツ)が八代吉宗に献じたもの。寛保元年(1741)は、十八日については「十八日、神君尾州知多郡阿古屋(阿久比)の郷主・久松佐渡守菅原俊勝が亭に至りたまひ、母君へ御対顔あり」の記事しかない。
[9]  『東照軍鑑』成立年不明「尾州沓掛へ入城し、軍評定あつて、鵜殿長照方へ羽激を飛し、翌朝鷲津・丸根両砦攻破られ可き間、其の節大高よりも出勢す可きの仰せ遣わされ由」ただし、桶狭間合戦記事については誤謬が多過ぎて全般的に信頼できないものがある。
[10]  『佐久間家譜』が「砦からの撤退は許されなかったので、盛重は現地で戦死した」として、信長の非情を指摘している。ところがこれに対して、『松平記』や『三岡記』は「丸根の城に佐久間大学籠けるを、元康公の先手勢攻め詰める故、大学(アツカイ)を入れ、城を立ち退きぬ」と、『東照軍鑑』は「構へ乗入戦ふ程に大学こらへず取手を捨てゝ落行けり」と伝える。
[11]  大軍であれば何でもできるはずなのに、現実の今川義元は大軍を率いているような行動をしなかったのですから、駿河勢は喧伝されるような大兵力などではなかったということ。
[12]  (2009.11.02追加)  最近知ったのですが、桐野氏は「池鯉鮒より段々に押して大高へ行き」とある「池鯉鮒」は「沓掛」の誤りであろうとされているようです。そのようですと段々の意味がなくなりますから賛成できません。
[13] 「段々」について、 (2009.01.31  挿入) 天理本・『信長公記』では、「戌亥(イヌイ)に向て段々に人数を備」とあって「段々」という語句が追加されています。『桶狭間・信長の奇襲神話は嘘だった』の藤本正行氏は、「桐野氏は”段々に”という言葉から、多数の部隊が横隊になって幾重にも重なる様を連想されたようだが、各所に点在することも”段々に”と表現する。『信長公記』…”北から東の山に…前後左右段々に取り続き、陣を懸けさせられ”とあるのがその一例である。」と批判されますが、これは明らかに藤本氏の誤りでしょう。『信長公記』には他にも天正三年の河内国新堀城攻めで、「其の日は、誉田の八幡、道明寺河原へ取り続き、段々に陣取る。信長は駒ヶ谷山に御陣を張らせられ、万方へ足軽仰せ遣はさる。」とあるのを見ましても、各所に点在というのではなく、段々の原義通りの「層をなして重なっているもの、小分けにした一つ一つ。」という、ある種秩序だった並びの意味であることは明らかで、「点在する」の本来の意味である「散在、散り散りバラバラ」という解釈は当らないものと思います。
[14] 手順を踏んで。織田方の諸砦を大物見を敢行しながら。
[15]但し、駿河勢全軍が大高城に宿営したとまでは言えません。何故なら、それまでも駿河勢は諸方に分散して宿営しているからです。例えば、義元が掛川に着いたときの先手は、原河・袋井・見付・池田に分宿していますし、義元が吉田に着いたときには、下地の御油・小坂井・国府・御油・赤坂に陣取ったといいます。さらに、義元が岡崎に着いたときには、諸勢は矢作・宇頭・今村・牛田・八橋・池鯉鮒に陣取っています。しかし、これ以後の諸勢の動向は何も記されていません。全軍が合同したとも書かれてはいません。ですから、義元がいったいどの程度の兵力を率いて沓掛から大高に行ったのかは、史料からは分からないのです。
[16] 戦国時代の武器兵粮は自弁です。しかし、兵粮を必ずしも用意できるとは限りませんから、大名や寄親が立替えて支給し、後で利息を加えて清算することは多かったものと考えます。要するに、動員回数が多すぎて過重な負担になっていたと思うからです。食料自弁の実態はよく解りません。武器についても同様です。北条氏の文書を見ていると必ずしも調っていないのですが、だからといって寄親が用意してやる余裕もなさそうです。
[17] これに反対する意見に永井勝三著『鳴尾村史』があります。そこでは「尾張国西端長嶋城主服部左京亮等は織田軍に当然味方すべきを、今川軍に味方し数十艘の兵船に、多量の兵粮と士卒をのせ、前夜黒末川口に着岸したが、風雨強く陸揚ができず、合戦の朝大高城に兵粮入をし、今川軍をば歓喜させたが、午后義元の敗戦を知るや将士は船に戻り、奮激の棄場に帰途熱田ノ宮に上陸したが、此処でも加藤図書の土民に追いまくられ、民家に放火しやっと帰城したニュースは、当時の著作者の心を引いたので、各書に記された黒末川の名も世間に知れた」とされています。 しかし、牛一の記事では信長が善照寺砦に参陣した時点での戦況に服部水軍については一言も触れていないのですから、戦術的に脅威であったとは看做されていないと思いますので、この見解には賛同しかねます。
[18]  『惣見記』は小瀬甫庵の『信長記』を補訂するという形で記しており、信長の諸孫にあたる貞置に校閲を依頼し完成したといわれるため、史実に潤色がされていて信用性に欠けるのが難点です。
[19]  (十七日)
[20]  これは、『桶狭間合戦名残』といいまして、豊明市旧間米村で発見された写本で、豊明市史編纂室で保管するもので、「神君様(が)兵米(を)御運びあそばされ候よし、その節、木之山村(大府市共和町)を御通り、兵糧を御運びあそばされよし申し伝え候、同村(には)開け城へ再度籠城あそばされ候よし伝えもあり。」とありる。
[21]  最近、天理本・『信長公記』には「大高之南、大野・小河衆被置」という記載があることが紹介された。 
[22] [23] 村木砦が攻略された際に帰路の信長に焼討されて落城したと家譜にあるという。その場合には、信長の村木砦攻めは単に喉元に刺さった棘を抜いただけではなく、花井氏の背後にいた大野佐治氏の心胆を寒からしめたことになり、これによって佐治氏と緒川水野氏の同盟などを促進させたことを推測させる。 (2008.1.19追加)
[24]  『寛政譜』
[25]  『日本戦史・桶狭間役』の考えでは、岡崎に一千名、来迎時城・牛田城・重原城・池鯉鮒・今岡に合わせて四千名の兵を控置したとしています。これでみますと北から沓掛城・今岡城・重原城と一直線上に並んでおり、これらが今川方の合戦前日の最前線であったと旧参謀本部は考えていたことになります。 
[26]  前野家文書の小説・『武功夜話』には、「十八日夜には卅有余人を尾三国境に派遣し、百余の佐々成政一党が信州道から裕福寺に出張した」「蜂須賀らは、裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして街道筋で義元の通過を待った」とある。………2008.11.24からは『武功夜話』の頭に「偽書」とつけていたが、2010.03.15からは小説『武功夜話』と直すことにした。もし、義元が祐福寺に宿営したとしたならば、百人からの佐々隊と交戦したことになったはずだから、武功夜話の作者はこのような寺伝があるのを知らなかったものと思われる。また、祐福寺村々長も態々桶狭間村を超えてまで義元に戦勝祝賀に訪れる必要もないわけである。理由は、とうの昔に安堵を受けていただろうからである。これが、義元が祐福寺ではなく沓掛城に宿営したとしても同じことです。総大将義元を守ために何重にも敵地との間に駿河勢が陣を張ったはずだからです。そして、祐福寺は勅願寺であり、義元の勢力圏にあるのだから、そのような所に敵の軍勢に出張られたとあっては、顔に泥を塗られたのも同じことだ。ということは、敵中深く中入りした勲功は大きなものがあるはずだから、佐々氏や蜂須賀氏がこれを喧伝しないはずがない。それなのに、それが無いのだ。
[27]  (2007.07.25 追加)この焼失について書かれた古文書は、現在名古屋市博物館が保管されている。今川義元の先鋒であった三河の岡崎軍が近郷沓掛の砦を攻略したときのことと取り違えているのかも知れない。
[28] 因みに、古代ギリシャのファランクスでは、最右翼には「左側は手盾で護れても、自分の右半身を守ってくれる隣の兵士」は存在し。ないために、右縦列には最強の戦士を、右翼には最強の部隊を配置したうえで、これを援護するために若干の騎兵や軽装歩兵を配備するのが理想であった。
[29]  但し、今川義元が沓掛に宿営したとは考えない。
[31] 藤本正行氏は、「調略で奪われた鳴海・大高両城に付城で攻囲されたことにより、この事態を打開すべく義元が後詰したことによって生起した、当時としては平凡な群雄間のローカルな境界争いである。」とされ、信長の戦略は「西三河の経営に手を焼き、三国同盟が成ったとはいえ背後の不安な義元の弱みに付け込んで、戦局を膠着状態に持ち込むのが狙いであった」とされている。そして、信長が善照寺に入り中島砦に進んだのを見れば、信長には自身の行動を秘匿するつもりはなかったし、十分な情報網を持っていなかったといわれながら、一方ではフロイスの「決断を秘し」という言葉を紹介し、信長は「敵の疲労を待って温存していた自軍の主力で叩こうとしていた」と見做している。そして、『信長公記』に記された信長の一連の行動から、信長は敵の動きを確認しながら行動した結果、ようやく前線について直接みた戦況を誤認したとされる。
[32]  一揆軍三万七千という。 

ホームページ制作、ホームページ作成

<信長の戦況判断の問題>

2011-06-25 10:42:07 | 信長の戦況判断

<信長の戦況判断の問題>  

ところで、黒田氏は織田勢が本陣に帰陣する駿河勢に紛れ込んだと想定しているのですから、それらの駿河勢は黒末川(扇川)の南にあったであろう村々や田畑に乱取りに出掛けていたことになります。そうでなければ中島砦まで進んだ信長は駿河勢に紛れ込むことができませんから。そして、千秋や佐々が小競り合いをしたのも乱取りに出ていた駿河勢だということになります。勿論、彼らを迎撃した部隊は、乱取り隊を掩護して善照寺砦や中島砦の織田勢を警戒していた部隊でしょう。また少なくとも、義元本陣から一町ほど先に陣取っていた先備は、当然信長を迎撃する態勢をとったはずです。それが役目ですから………?
ただ、解せないのは織田勢から4kmほどしか離れていないところに本陣が休息しており、信長が主力を率いて善照寺砦に姿をみせた状況下で、本陣の幹部らが沓掛から出陣してきたばかりの本陣を手薄にして、先鋒隊の朝比奈勢と一緒になって乱取りに興じさせ続けていたことです。もしそうであったとするならば、今川義元の率いる駿河勢の軍紀は武田・北条にはるかに劣るものであったことになります。乱取に興じていて敗北した部隊というのはそうあるものではありません。なぜならば、乱取は現在の我々が思うよりもはるかに組織的に、警備兵の警戒の下に行われていたからです[6] 
『雑兵たちの戦場』の藤木久志氏は、「島津軍の兵士たちの中には、その日の戦いの目標などそっちのけに、早く戦利品を持って帰りたいと、掠奪だけに熱中する指揮官と若干の兵士たち、つまり明らかに組織された掠奪集団が含まれていた」と言われ、朝鮮出兵の秀吉も彼自身が技術者や女の選別献上を要求しているのですから、明らかに戦争の目的の一つは略奪にあったことは間違いないようです。そうだとしましたなら、当時の乱取というものは、当然に組織化されていて効率的に実施されたものと思われ、「下知なくして」「御意なき以前」と軍法で定めるのであって、作戦や軍律を乱さぬ限り野放しにしたのではなく、安全かつ効率的に略奪をするのが戦争の大きな目的であったと考えた方がよさそうなのです。そう考えますと、少なくとも駿河勢は織田勢をまったく見縊っていたことが窺えます。これが潜在意識に作用して、歴史に残る油断を招いたのだということになるのだと思いますが、………本当にそうだったのでしょうか。 
ところで、鷲津を攻めた先鋒隊が乱捕りをしていたとしたならば、その大将である朝比奈備中守は、すぐさま部隊をまとめて出現した信長に備え、その後本隊と合流すべく指示したに違いありません。そうするのが役目だからです。それに、先鋒大将自らが略奪して回ったとも思えません。彼は許可し命令し監督し、そして上納させて再配分したはずだと考えられるからです。さらに、朝比奈は桶狭間合戦で戦っておらず、それをしなかったと咎められてもいないのです。それに、乱取りを終えた駿河勢は、その後は何処へ向かう心算だったのでしょうか。義元と一緒になるために大高城へ向かうのでしょうか。それとも義元と別れて、一足先に西三河に帰還するのでしょうか。………いずれにせよ、筋の通った説明はなかなか困難です。
因みに、桶狭間山の付近に織田方の村は殆どないのですが、全くないわけでもありません。東海道沿いには平部の集落があったらしいですし、中島砦は信長が「南中島とて小村あり」というのを砦にしたことが知られています。また、その砦に程近い善明寺や瑞松寺(瑞泉寺)の辺りにも檀家になった住民の村があったはずです。しかし、諏訪神社にも、善明寺にも安堵されていたかは不明なのですが、戦火にあったという伝承はないのです。勿論、桶狭間村にもそこにある長福寺も戦火に合ってはいないのです。他にも村はあります。大高城下にも村がありますし、前之輪や丸内にも集落はあったものと思われます。
因みに、黒田説にも有利な記事が、何かと問題視されている『武功夜話』にあります。そこでは、「一、佐々党と我等一同が鳴海から転じて、善照寺に辿り着いたときの人数は、八十有余人でしかなかった。中島砦はすでに駿河勢が満ち溢れ、手の施しようもなかった。おりしも大師嶽の辺りで鬨の声があがったが、四面は真っ暗で雷を伴い、天地は鳴動して止まない有様。なすすべもなく、その場に呆然と立ち竦んでいると、やがて狭間辺りから勝鬨の声が天地に木霊した。が、それは味方か敵かも判らなかった。佐々内蔵之助(成政)殿は、遅参したと知るや、顔面を引きつらせて一同に下馬を指示された。見れば三町ばかりの間は、幔幕は泥土にまみれ、辺りには人馬が倒れていて惨状を呈し、駿河勢も潮の引いたように一人もいない。佐々内蔵之助はじめ柏井衆は、田楽狭間の近くにありながら、かくの如きの不覚であった。織田上総介様は、佐々党らには目もくれず、治部少輔の首級を鑓先に掲げて清須へ御引き揚げになった。一党の者も致し方なく、夕方には竜泉寺砦へ戻った」と書いているからです。
何れにせよ、『信長公記』を見れば、二千名にも上る信長勢が中島砦から出て、駿河勢に紛れ込むことができたうえ、山際についた信長勢が他の駿河勢のように本隊に合流せずに、山麓辺りに屯していたことが明らかなわけです。まだ、雨は降りだしていません。それが、それでも怪しまれることがなかったか、軽視されたことになりますから、もしこれが事実であったとすると、駿河勢の迂闊さ、お粗末さは特筆すべきものだということになります。事実は小説より奇なりという言葉どおりであったわけです。
ところで、黒田説が正しければ、義元本陣の兵力も推定できるという副次効果が期待できます。つまり、旗本が「三百騎ばかり」しかいなかったわけですから、それ以外の武士を百人と見積って、武士の割合を一割と仮定して計算しますと、義元本陣は四千人、それに本陣先備えの松井勢を一千人とみて、凡そ五千人規模であったことになります。すると、信長は歴々の衆が六七百いたことが知られていますから、実戦力では互角かそれ以上であったことになりますので、信長が決戦を挑もうとするのも、そう無謀なことではないとも言えそうです。
こうしてみますと、この黒田説は、義元が大高からの帰還途中であったとし、先鋒隊が緒川や沓掛方面へ乱捕りに出かけたとして始めて『信長公記』との整合性が得られるのだと思えます。
さらに、この学説が学会に認められるようでしたならば、さらにいろいろ面白いことが考えられます。
例えば、義元も上杉謙信と同様に「食うため」[7]に尾張国境へ出てきた可能性があることになります。永禄二年の駿河遠江の作柄はどうだったのでしょうか。天候は不順だったのでしょうか。それとも、武田信玄と同じく国内の矛盾(過重な軍役負荷)を国外に転嫁するために、頻繁に隣国への領土拡張を今川氏も行う必要に迫られていたのでしょうか。
(2008.12.30 追加) 未だに黒田氏の論文を手に入れることができないでいますが、一番知りたかった家康の証言とは何かということについては、藤本正行氏の『桶狭間・信長の奇襲神話は嘘だった』で知ることができました。それによると、その正体が小幡景憲の『甲陽軍鑑抜書後集』だというのですからがっかりです。


[1]金持ち喧嘩せず」…義元や重臣たちの判断は、後方に退けば味方もいるし城もある。こんなところで計算外の戦闘を行うより、一旦退却する方が無難であるという<健全で常識的>なものであったというのが藤本氏の説です。……… 一般には、最も精鋭が集められているのが本隊です。おまけに通常の本隊は七段(先・先・脇・旗・後・荷・遊)に構えているのです。その本隊が、それも自軍よりも兵力において劣る敵に正面から迫られたからといって退くのは論外の想定でしょう。それこそ裏崩れの引き金を引くことになります。戦争は「勢い」だからです。だから、総大将が後退するということは在り得ないことだと思います。それに、あらゆる格闘技は前に出よと教えて、一寸たりとも退くことを嫌います。相撲が最も良い例です。ですから、金持ち喧嘩せずという発想は、コンピュータゲーム社会の現代っ子に流行の安易な”リセット”感覚であって、一旦退いて出直すなどという戦国武将がいるはずがありません。武士は、臆病や未練を最も忌み嫌うものだからです。唯一の例外が、織田信長でして、その時の信長は我が身一つで遁走したのです。朝倉宗滴などは、「聞逃は構わない。しかし見逃はいけない」と訓戒しているほどです。
[2]臨機応変」…戦場にそつなく展開した今川軍であるが、信長の戦場到着を知りながら、信長不在という前提に立って作戦を進めてきたために、信長出現という計算外の事態が生じてしまった。そのため、前軍と3kmも離れた義元との間で報告と命令を遣り取りしていて、そのため適切な動きがとれなかった。それにより今川前軍は簡単に討ち破られたというのが藤本氏の説です。………しかし、当時は前近代ですから、近代的な意味での「命令」も「任務」もありません。何よりも優先されたのが個人の「功名」です。従って、絶好の功名の機会が生じたというのに、義元に御伺いを立てなければ戦闘が開始できないなどという事態が生じるはずがありません。全くの時代錯誤の議論です。このような間違いが生じた原因は、藤本氏が太平洋戦争のミッドウエー海戦という近代戦と比較して「前近代の合戦」を説明しようと試みたことにあるのだと思われます。
[3] 鷲津砦  前之輪の300m南にある「卍」(明忠院)の裏山が鷲津砦。史跡のある鷲津公園ではない。『大高町誌』では『蓬左文庫桶狭間図』による位置関係から、明忠院裏山に比定している。ここは、西方に岬のように張り出しており、標高は不明であるが現在でも30m超あるから、善照寺砦からの展望も効く。
[4] 信長を欺くために、義元は大脇から大高道を使い、途中から緒川道によってその行動を秘匿したのだと言い張る向きがおられるかも知れませんが、もしそれが事実ならば、義元は足手まといになる小荷駄隊を少なくとも奪取した丸根砦か、本来なら大高城に送ったはずなのです。しかし、太田城番の元康は何も知らなかったというのですから、それもあり得ません。
[5] 『三河物語(1626)』は「程なく」、『総見記(1702)』は「難なく」、『信長公記』は「はや鷲津・丸根の両砦は落去したと覚しくて
[6]  井伊直政が他界するにあたって、石原主膳・孕石備前・広瀬左馬助の三人に命じて、特に甲州・信濃及び越後での経験と見聞を取捨按配して、井伊家末代の作法(軍事)を策定させたという『井伊家御軍法』では、「かり田・小屋おとし者、下知次第に、騎馬一人づゝ、足軽鉄炮二拾挺・弓拾挺宛苅取遣す可く候。稲・薪等其所に而割符之事。但し間遠に候はゞ、これにしたがひ人数下知有る可事」とあります。 『信長公記』の記事は乱取ではありませんが、「清洲の並び三十町隔ており(下)津の郷に、正眼寺とて会下寺あり。然るべき構えの地なり。上郷岩倉より取手(砦)に仕るべきの由、風説これあり。これに依り、清洲の町人どもをかり出し、正眼寺の藪を切り払ひ候はんの由にて、御人数出され候へば、馬上八十三騎ならでは御座なく候と申し候」とあるように、少ないとはいえ護衛兼監督をつけているのです。
[7]  (2010.03.15 追加) 2009年12月に江畑秀郷氏が『桶狭間』という著書で、永禄三年の駿河が飢饉であったという説を立てています。詳細についての批判は別章を設けました。 

ホームページ制作、ホームページ作成

桶狭間の戦いにおける,(4)別動隊説を検証する     

2011-06-25 10:34:28 | 桶狭間の真実やいかに

(4)別動隊説を検証する     (初出2 007.12.18)   

桶狭間の戦いにおける一方的な大勝利を迂回を考えずに可能にする方法には、「別動隊」を考えることで解決することがあります。

但し、この別動隊説には根本的な問題がいくつかあります。

  1. 当時の信長には支隊(別動隊)を預けて時刻を計って分進合撃できるような官僚的指揮官がその配下にはいなかっただろうと思われること。
  2. 信長が別動隊を使って挟撃作戦の類を過去に行ったことがないと思われること。…支隊に分割して多方面作戦を行った例はいくつかあります。天文廿一年(1552)八月の深田・松葉両城奪還作戦では、「稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸け付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介(自らは)、孫三郎殿一手になり、海津ロヘ御かかり侯」とあって、全軍を四手に分かっています。不確実なものですが、永禄二年四月に福谷(ウキガイ)砦の酒井忠次を攻めたときに、自らが岩崎丹羽氏を牽制しておいて、柴田・荒川をして攻めさせたというものが『東照軍鑑』にあるのですが、成功はしていません。
  3. 別動隊を指揮できそうな武将は全て、付城の守将を務めていて出払っていると考えられること。
  4. 『信長公記』に名前の出てこない大物武将を別動隊とした場合には、当該諸家にその事績が伝わらないこと。
  5. 分進合撃や別動隊との共同作戦を実現することは、無線通信手段のなかった時代では極めて困難なこと。…あのナポレオンでさえ、ワーテルローではグルーシーの部隊を間に合わせることができなかったのです。ナポレオン自身が後日、別動隊を呼び寄せるために常と違って一人しか伝令を出さなかったことを後悔しているぐらいです。しかし、全くできなかったわけでもありません。戦国時代に別動隊との共同作戦を得意としたのは島津氏であり、後世「釣り野伏」と言われる待ち伏せ作戦が有名です。
  6. 桶狭間の戦いの後の信長の作戦に、別動隊を用いた作戦は長篠合戦しかなく、この戦いでは長篠城の救援が主目的ですから、敵の鷲巣砦攻略には大軍を派遣しています。そして、敵に優越する兵力があれば、別動隊どころか複数の攻め口から攻撃することは自由であるというよりも、混雑を避けるためにも必然になるに過ぎない現象になります。信長が敵より劣る兵力で別動隊などは使用した実績はありません。 (2008.1.27)
  7. 敵に劣る兵力で二正面に敵を受けて戦った稲生合戦ですら、支隊を設けなかったことからみても、当時の信長には別動隊の指揮を任すことができるような野戦指揮官は未だ育っていなかったと考えるべきであること。 (2008.1.27)
  8. 戦後、別動隊の指揮官が論功行賞に与かっていないこと。

別動隊による可能性を指摘したのは、橋場日月氏の『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』である。

橋場氏の指摘の新しい視点は、これまでの迂回説と異なり、信長自身が迂回したのではなく、配下の武将それも新設して間もない馬廻部隊の武将が迂回挺身を指揮している点である。………それなのに、この後、此の馬廻りの指揮官が支隊を率いて活躍することは伝えられない。馬廻の武将の多くは攻囲戦での周番を担当している。それは馬廻の本来の任務が近衛兵・親衛隊であったからではないかと考える。

橋場氏のこれらの著作では、橋場氏が一般にはこれまで見過ごされてきたか又は触れることを避けられたり、合理的な説明がなされないままできた点に注意を促しているものがある。

  1. 大高城への兵粮搬入日が『信長公記』と『三河物語』で食い違うように見えること。
  2. 前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人は何処で誰と戦ってきたのかという問題。
  3. 古くから指摘されている問題だが、『蓬左文庫・桶狭間之図』に鎌倉往還と扇川が交差するすぐ東側に書き込まれた「今川魁首(先鋒)此道筋を押」が、史実であるとすれば一連の戦いのどこに位置づければよいのかという疑問。
  4. 『信長公記』に紹介されていない重臣連は本当に参陣していなかったのかを問うている。そして天理本では一部の武将の参陣が認められること。
  5. 山際に着いてからの信長勢が、暴風雨が止むまで信長が移動・戦闘を行った記事がないこと。
  6. 鉄炮は本当に使われなかったのかという問題。
  7. 義元が往路に刈谷水野氏を攻撃せず、岡部信元が帰路に刈屋城に信近を襲った理由。
  8. 服部左京助が黒末川河口に参陣した意味。

逆に、氏が触れなかったり説明していない問題もある。

  1. 鷲津丸根を攻めた駿河勢の動向が不明であること。
  2. 今川義元が沓掛城を出立した時刻。
  3. 服部友定が約束の時間に義元が来ないからと言って、勝手に引揚げてしまったうえ、大高城番になった松平元康には異変を知らせなかったこと。そして、元康が義元の到着がなくても心配していないこと。

 

(2009.01.23 追加)  以下は、小生のブログ「読書三昧」に2008.07.10に書いたことに一部手直しして転載したものである。

『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「信長は時速6kmほどで(清洲から熱田までの)12km弱を移動した計算になる。これは旧日本陸軍の標準的行軍速度の時速4kmより若干早い速度だ。信長は、後続の軍勢が追い付いて来られる速度で進んだのであるp173………信長が善照寺砦から分派して鎌倉往還を東進させた部隊は、途中暴風雨が吹きはじめる中、今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至り、さらにこの部隊は大高道を南下して上ノ山に至る。距離はほぼ3km強であり、………旧陸軍が通常行軍を時速4km、「速歩」という強行軍を時速5kmと規定していた事から見ても、それと比較して無理のない移動速度と距離だと言えるp215」と書かれる。

戦国時代の人々の身体能力は本当のところはよく分からない。江戸期の旅行記録をみると昔の日本人は驚異的に強靭な身体を持っていたらしい。昭和の陸軍も同様であったらしいことは知られている。従って、その明治以降の陸軍が定めた作戦要務令が合理的に戦争を継続して遂行するための行軍速度を時速4km、強行軍を時速5km急行軍を時速8kmと定めたことは無視できない。

『作戦要務令・第320』「撃兵団の前進速度は1時間4粁、兵の負担量を軽減せる場合は1時間5粁とす。大隊以下の小部隊にして負担量を軽減せる場合は、急行軍の速度は1時間8粁に達す」とあり、兵の負担量を軽減し大隊以下の小部隊にしなければ、急行軍の速度は達成できないなのである。

通常、歩兵の行軍は一時間で4kmを50分歩いて10分小休止するペースで行軍する。昼食の休憩は1時間大休止し、連日行軍の場合は一日24kmである。『太閤記』高麗陣ニ就イテノ掟條々でも「一、人数おし之事、六里を一日之行程とす。」とあるから戦国時代と旧軍も各国陸軍も概ね変わらない。

強行軍は行軍時間を長くしたり、休憩時間を短くすることで行い、一日に十時間の行軍で40kmの距離を進む。が、実際にはそんな決まりは無いに等しかったらしい。行軍速度を上げることも強行軍と言わないこともないが、急行軍という。急行軍になると駆け足になるが、休息時間も減らす点は強行軍とさして違わない。

『作戦要務令・第321』には、「一般兵団の一日行程は、普通行軍に於いて8時間32粁、強行軍に於いては10乃至12時間以上(大休止の時間を増加す)とす。…」とあり、戦場到着後直ちに戦闘に入れる状況にあるわけではない。現に、賤ケ岳の場合も21時に全軍が着陣したといわれているのだが、秀吉は軍勢に喚声をあげさせはしたが、総攻撃を命じたのは夜明けを期して行うということであった。ところが、それに驚いた佐久間盛正は23時に総退却を始めた。それでも、秀吉が佐久間勢退却中の報を得たのは翌日am2時であり、賤ケ岳にいた既存の秀吉方守備隊は、それぞれ対応して逐次攻撃を開始したらしい。それでも佐久間盛正の部隊は、am3時には総退却を無事に完了しているのである。ですから、大垣から駆け付けて疲労困憊した部隊が戦闘に参加し始めたのは、もっと後になる。


つまり、時速6kmという速度は、若干早いなどという行軍速度ではない。駆け足に近いのですから、時速6kmは完全武装した歩兵が追い付ける速度などではありません。
旧日本陸軍の強行軍は時速5kmなのだ。時速6kmというのは、ほとんど走っている状態だ。


信じられないことなのだが、旧日本軍の兵士たちは通常装備30kgを背負い、そのうえで機関銃隊ならば機関銃を、砲兵隊ならば砲身を担いで、そのような強行軍を実際に行ったといわれている………。

行軍速度というものは部隊の規模が大きくなるにつれて遅くなるし、異兵種と連合する場合は遅い速度の部隊を基準とすることになる。(分進することが効率的ではあるのだが、敵に遭遇する状況では致命的な結果を招来することになる場合もあり、そう簡単に兵力を分散させるわけにもいきません。)歩兵が追い付けないから、信長は熱田でその参集を待つ必要があったのだろうと考えるべきです。もし、信長に常備軍があってそれが清洲に駐屯していたならば、であるのですが………。そうでなければ、余りあてにできない国人衆が熱田に集合するのを待っていたと考えなければならないことになります。

だから、信長が小姓や馬廻など乗馬身分の者だけで挺身したのならば、三里を時速6kmは十分に可能であるでしょうが、歩兵を随伴した場合には強行軍を超えているのですから、到着した戦場で直ちに戦闘に入ったのでは、兵士たちは使い物にならないのではないかと危惧されるわけです。一般に戦国時代の軍勢に占める騎兵の割合は一割程度であるといわれるからです。

戦史を見ても強行軍の例は多く、一日に80~100km以上という行軍速度の例がある。
何れも時速に換算すると2~3kmというのが多い。

時速4kmを超える例は、第二次ポエニ戦争のローマの武将クラウディウス・ネロが、精兵7千を選り抜いて可能な限り軽装にさせ、食料も携帯せずに道筋にある町に食事を用意させ、800kmを一昼夜に100km(時速4km)以上の速度で強行軍させたものぐらいしかない。

橋場氏は、「秀吉の賤ヶ岳合戦の際の移動速度が時速8kmだった事、旧陸軍の早足(時速6km)・駆け足(時速8km以上)を勘案すれば、今川別働隊を風雨に乗じて撃破した地点から沓掛まで4km、さらに沓掛から4kmを移動するのにそれほど無理があるとは思えない。」とされるのだが、背後から吹き飛ばされる場合はまだ良い。嫌でも運ばれるのだから。しかし、沓掛から大脇村曹源寺へ南下するときには横風を受けて吹き飛ばされたであろうし、曹源寺から上ノ山へは向かい風の中を進まなければならないのだ。信長が義元本陣に突撃したのは風雨が止んでからのことであるのだから、それを、楠が吹き倒される強風の中を挺身したというのだからスーパーマンとしか言いようがない設定である。

 

              

(6)鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

(p18)「常識的に考えても、織田家との間で国境の城砦を取ったり取られたりしているような状況では、一気に上洛するなど到底無理である。」

………この指摘は重要である。尾三国境の北部・品野城などでは信長の攻勢にあって防衛一辺倒であり、後詰がされたという話がない。南部の大高城の攻防は早い時期から始まっていて、笠寺台地の駿河勢は駆逐されている可能性があることを考えると、鈴木氏の指摘は看過できないものがある。信長の軍事力は三河・遠江・駿河の辺境に派遣された軍勢とではあるが、互角に戦えるだけの実力を備えつつあったことになる。そして、その信長の軍隊が七~八百の歴々からなる常備軍を中核とした二~三千の兵力であった可能性があるようにも思える。

(p18)「(清須城を)力攻めにすれば膨大な損害を覚悟しなければならない。といって兵糧攻めなどしていたなら、大変な手間と時間が必要となる。義元にそれだけの準備と余裕があったとは考えられないから、尾張一国の制覇でも。まだ目的として大きすぎるだろう。」

………これについては、「天理本信長記」の「(2)軍議があった夜」で詳しく論じたとおりだが、安城も刈谷も落ちているのだから、平城で一重堀の舘城である清須城を攻め落とすのに時間はかからなかったろう。

(p18)「この時代、優勢な敵が迫ってくれば、領民はパニックを起こすのが普通である。…このときの織田領内では、まったくそうした形跡が見当たらない。それどころか熱田の町人たちなどは、今川に与党して海上から攻めてきた一向宗徒と戦って追い返したりしている。本当に今川軍が迫ってくるなら、報復が恐ろしくて、そんなことはできないだろうし、そもそも大勢の町民が街のなかに止まっていたはずがない。」

………この視点も重要である。もし熱田の町人でさえ義元が尾張との国境を踏み越えて熱田にまで侵出することなどあり得ないと考えており、且つ『天理本信長記』のいうように町民らが動員されて、のこのこ善照寺までもついて行ったことが事実ならば、一つ考えねばならないことは、義元の軍勢は牛一が今に伝えるような四万五千もの大軍などではなかったことであり、もう一つは、熱田は湊町であり自由港としての性格を持っており、港町を無暗に攻めて商人・町人を追い散らすことはしないだろうという見込みがたっていたかも知れないということである。熱田は港であるから役に立つのであり、信長ですら堺幕府があった堺衆に対しては交渉(矢銭を課した)から入っているのだ。これが戦国時代も終盤に近くなると見境もまくなり、博多湊などは1580年には竜造寺氏が、1586年には島津氏が焼き討ちを行って灰燼に帰している。

(p20)「そもそも戦闘を始めた時点では、信長は義元が何処に居るのかということも知らなかったと思われる

………鈴木氏が言われる「戦闘を始めた時点」が午後二時頃のことであるならば、具体的な居場所を知らなかったとはいえる。しかし、善照寺に参陣した時点では桶狭間山に本陣を置いていたことも知らなかったとは断定できない。何故なら、山上には総大将の居所を示す旗幟が立っていたものと思われるからである。だから、牛一は「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、」と書いたのだと思うのだ。単に、敵勢が屯していたことを義元に代表させたわけではないと思うのだ。

(p20)「信長の狙いは…とりあえず今川軍に打撃を与えて追い返すことだったろう。…くたびれた敵部隊を自軍の主力で叩くことによって、確実にポイントを稼ごうとしたのである。」

………とりあえず今川軍に打撃を与えることが目的ならば、付城を攻めている背後を攻撃することが常道だろうが、これについての説明は藤本氏も十分になされたとは言えない。

………「自軍の主力」と言われるが、たった二千が信長の主力なのだろうか?

(p20)「本拠を遠く離れてやってきている彼らの半ば以上は、補給要員などを含めた非戦闘員だったと考えるべきである。相手の信長勢は清須から真っ直ぐやってきたのだから、馬丁・槍持などを除けば、大部分が戦闘員だったであろう。」

………彼等駿河・松平同盟軍の根拠地は岡崎城であるのだから、非戦闘員が多かったということはできまい。先鋒を務めた松平勢のことはどう考えるのだろうか?

(p20)「信長勢は一団となっていたが、今川の部隊は各所に分散していた。」

………これが、暴風雨のために統率が乱れたというのならば問題は少ないが、移動中であったためとか、布陣が各所にバラバラであったというのであるのならば、それには根拠がないと言わざるを得ない。

(p22)「 (清須城における前夜の)籠城の議論にしても…前線で苦戦している味方を見捨てたまま大将が城に逃げ籠ってしまうことなど考えられない。もしそんなことをしたら、信長はたちまち部下たちから見放されてしまったに違いない。」

………では何故、信長は後詰に出かけないのに部下に見放されなかったのか。それとも、雑兵二百人にしか随伴しなかったのが見放された結果なのか。

………この鈴木氏の著書は『天理本信長記』が公にされる前のものではありますが、籠城しないことが常識であるとしたならば、信長や清洲城にいたと思われる重臣たちの行動は異常であると言わざるを得ません。

ホームページ制作、ホームページ作成

”2000/11月のお宝発見!

2011-06-25 10:14:05 | 第28巻”ステレオ写真

”2000/11月のお宝発見!


第28巻”ステレオ写真


アンティークおもしろ道具のページで紹介していた【ステレオスコープ】
(ステレオビューアー)で見る立体写真です。
左目で左の写真を、右目で右の写真をじっと見ていると
左右の写真が中央に寄ってきて、うまく重なれば立体的に見えます。

画像1
Gems of Niagara (E&H.T.Anthony&Co.,New york.)
11.3×17.7cm 1870年代

画像1.
ナイアガラの吊り橋です、こういう構図は1枚でも立体的に見えやすいので、
江戸時代には、「覗き眼鏡」を用いた眼鏡絵や浮き絵とよばれた
浮世絵によく使われています。

どうしても絵が重ならないという人は、安い虫眼鏡を二つ買って来て下さい。
100円ショップでも売っています。
レンズの直径が6cm位のものが見やすいでしょう。

それぞれの虫眼鏡を両目に当てて、
顔をディスプレイに近づけて行きます、
左目で左右目で右の写真の中央が見えるようにします。

焦点が合ったところで、
中央に重なった絵が立体的に見えるはずです。
目が慣れてくるとすぐに見えるようになります。

画像2
Grand Procession April 10th 1871.in Commemoration of
the Treaty of Peace between Germany and France
(E&H.T.Anthony&Co.,New york.) 8.7×17.85cm 1870年代

画像2.
ニューヨークのブロードウェイのパレードを写したもの
写真をよく見ると、パレードの人々がボケています。

当時のカメラは、露光時間が長いので動いているものを撮るのが
難しかったのでしょう、建物の前にあった馬車が動き出したため、
馬車の半分が消えている写真もあります。

まだ、立体的に見えないと言う人は、
牛乳パックを半分に切って、セロハンテープで付け
双眼鏡の様なものを作り、虫眼鏡もセロハンテープで
取り付けます。これでステレオスコープの出来上がり

これでも見ることの出来ない人は、
次の日にでも、目医者さんに行った方が良いでしょう。

画像3
向島の桜花 (MEIDE BY NAITO. TOKYO JAPAN)
9.3×17.3cm 1910年代

画像3
向島の桜花と書かれています。左に見えるのが隅田川でしょう、
今は、コンクリートの護岸と上には首都高速6号線が走っている所の様です。
白黒写真に手彩色で色をつけたカラー写真です。
この他に、日比谷公園の鶴・浅草観音の本堂・上野國榛名湖ノ景とか色々
ありますが、日比谷公園の池に丹頂鶴がいるのにはオドロキです。.

画像4.
A Japanese Tandem, Japan. (COPYRIGHT GRIFFITH&GRIFFITH)
8.9×17.8cm 大正時代?


画像4.5は写真を印刷したものです。アメリカで販売されていたようで、
日本の風俗をアメリカ人の感覚で紹介している物が沢山あります。
画像4.A Japanese Tandem,(Tandem)とは、縦並びの2頭に引かれる馬車のこと。
そう言えば、そう見えますが・・・  他にも、横浜の盆踊りの風景を、
Maturi festival. Music Stand and dancers in the Streets of Yokohama,Japan.

4人の若い舞子さんがお茶を飲みながらお菓子を食べている写真は、
Japanese Maidens Having a Jolly Tea Party
と題が付けてあります。

画像5.
Youthful Mothers of Japan.(不明)
8.9×17.8cm 大正時代?


画像4.この写真も日本の農村の子供達の風景ですが、
よく見ると、一番大きな子は、大きな竹の籠を背負って
農作業の手伝いでしょうか、・・仕事が出来ない小さな子供は
皆、赤ちゃんを背負って子守をしながら遊んでいます。

Youthful Mothers of Japan.日本の若々しい母親達と訳すのでしょうか、
日本もこういう時代があったのですね・・・・・

自分でステレオ写真を作りたい方は、
アンティークおもしろ道具のページの【ステレオスコープ】で紹介しています。
また、デジタル画像をステレオ写真にするソフトもあるようです。
ご感想などありましたなら伝言板にお書き込み下さい。

私、英語が苦手なもので・・お気づきの点ありましたら
こちらへメールをお願いしますすぐに訂正させて頂きますので。


<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

2011-06-24 22:31:09 | 桶狭間の真実やいかに

<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

  1. 谷口克広氏、『信長の天下布武への道』『織田信長合戦全録』  (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)
  2. 桐野作人氏、『信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ/歴史読本』   (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加) 
  3. 藤原京氏、『時代劇のウソ?ホント?』    (初出 2008.07.13) 
  4. 別動隊説を検証する………橋場日月氏、『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』『伊勢湾制圧・今川帝国の野望/歴史群像』    (初出 2007.12.18)   
  5. 服部徹氏、『大高と桶狭間の合戦』『信長四七〇日の闘い』    初出 2008.12.14 「伊勢湾海運と水軍」に移動。 2009.11.20 別章を立てました)
  6. 鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

 

 

 

 

 

 

 

(1)谷口克広氏の桶狭間    (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)

(2)桐野作人氏の桶狭間        (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加) 

さて、『歴史読本』8月号に桐野作人氏の桶狭間の戦いに対する考え方が示されました。というよりも、新たな可能性も提示されただけのようでして、結論は保留されているようですが、これまでの谷口氏の説とは異なっておられるようでして、藤本氏や谷口氏の提案には一切触れられておられず、かなり藤井尚夫氏の説に近いものになったようです。また、朝比奈勢や服部勢の行方などには一切触れられていないのはとても残念です。

桐野氏は、方角問題を乗り越えるために、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」とされますが、果たしてそのようなことは可能なのかを検証してみます。

註:方角問題とは、中島砦から桶狭間村は東南に位置するため、信長が桶狭間で東に向かって攻めかかるには、どこかで南に行軍しているか、それとは反対に、義元の方が本陣を北方に移動させていなければならないはずだという疑問のことです。

まず、沓掛から桶狭間に義元が向うにあたってどの道を通ったかを考えますと、桐野氏はこの問題には一切触れられてはおられませんが、大脇から大高道を通ったことに間違いはないことだと考えるべきだと思います。何故なら、当時の東海道から桶狭間村に入るには、いったん鎌研あたりまでいって、長坂を上り高根と幕山の間の峠を通る鳴海~桶狭間道を行くしか街道はなく、非常に遠回りになるからです。それにまた、東海道には人家もなく、せっかく塗輿に乗っても義元は人々に示威することができないからです。近世から見られる間米~館を経て桶狭間へ抜ける道なども当時はなく、軍隊が行軍するには適当であるとは思われないこともあります。

と云うことは、義元が大高城に入城するのが目的である限り、当日が熱暑であることを考え併せると、東海道を行軍していながら、わざわざ鎌研から桶狭間山に戻ってまで休息するということは考えられない無駄な行程を採ったことになるわけです。また、疎林とはいえ道のない場所を行軍したものとも考えられません。それに、引き連れた小荷駄を大高城に先行させて入れておくことが安全なはずなのですが、そのような処置もとっていません。これは漆山に着陣した場合でも同様です。………義元が中島砦を攻めたうえで鳴海城を救援しようとしたという伝承もまた殆どないのです。これが第一点の説明されるべき疑問です。

漆山義元本陣説には大きな弱点が二つあります。

一つは、義元勢が桶狭間山から東海道を漆山に上りますと、有松の狭間を抜けてからは善照寺の織田勢にその姿を暴露するわけですから、織田軍は信長だけでなく大勢の将兵が諜報や偵察などによらずとも、義元の軍勢をつぶさに観察して具体的にその数さえも勘定できたことになるわけです。と云うことは、信長がその手兵を前に演説した内容は完全に嘘であることを部下に見抜かれていたことになります。信長がいかに駿河勢が労兵であると演説しようと騙されるわけがありません。………逆に言いますと、これは、それだけ信長一党が熱狂の極みにあったことになるわけでして、善照寺砦や中島砦で信長の出撃を諌止した極少数のものだけが正気を保っていたことになるわけでもあります。ですから、信長のカリスマ性を示す格好の事例になるわけですが、牛一の『信長公記』では信長麾下の将兵が熱狂して敵勢に向かっていったというような記事をのせてはいません。将兵が熱狂したのは略奪に出かけるときだけだったのではないのでしょうか?天理本では熱狂して(?)熱田・山崎からついてきた人々は、駿河勢の威容をみて正気に戻って退き上げてしまったと記しているのです。ですから、これが説明されるべき第二の疑問で、信長のカリスマが疑われるところです。

二つ目の弱点は、『信長公記』が「信長は、先ず丹下砦へ行き、善照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。信長の参陣と同時に佐々らは出撃した。その後、午刻に至って昼食をとり、謡をした。」という時間経過を記すからです。

………これは、歴史読本8月号で桐野作人氏が、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」といわれることは、全くの誤りであることを指摘することになります。午刻には義元は桶狭間山にいる必要があるからです。

なぜなら、『信長公記』は、信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。そしてその信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したとなるからです。その後、義元は漆山に陣を進め、午刻に至って敵前の漆山で昼食をとり、謡をしたと読まなければなりません。

これでは、明らかに拙いので、「信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。義元も信長参陣を知って急遽漆山に陣を移すべく前進を開始した。同時に、信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したが、それを義元が見たのは高根以西の高地からであったとし、その後義元は引き続き前進して漆山に陣を進め、午刻に至って漆山で昼食をとり謡をした」としなければなりません。

ということで、そのように解釈した場合の行程的な問題だけを考えてみます。

義元が午刻に漆山本陣で昼食をとり、謡をするには、桶狭間からの約3kmという距離から考えて45分程かかったものと思われますから、午前11時15分には桶狭間山を出立していなければなりません。その場合、義元が佐々・千秋らとの前哨戦を観戦できる高所を探しますと、高根と幕山およびその峠と長坂を行軍中であることなどが考えられます。そして、高根は桶狭間山から約1km先になりますから、15分前の午前11時30分には高根にいなければなりません。

また、信長の方は、桶狭間山の義元に参陣を見られたのが午前十一時十五分なのですから、 熱田~善照寺間一里25町余の7kmを時速9kmで駆けたとしますと約50分かかりますから、午前10時25分という遅い時刻まで熱田で将兵の着到を待っていたことになります。

佐々らが信長の善照寺参陣を見てから中島砦(天理本)を出撃しているのですから、その場合には、丸根は別にしても鷲津砦の攻略には午前十時以降までかかった可能性があり、松平元康の率いる松平勢が丸根攻略後に鷲津攻めにも転戦し、朝比奈勢は鷲津砦の戦後処理にかかりっきりで、桶狭間合戦には間に合わなかったということもできそうですから、「鷲津砦に朝比奈勢がいる」という難問をクリアーすることができます。

逆に、信長が午前10時頃に善照寺砦に参陣していたとしたならば、義元もその頃には桶狭間山から高根以西を行軍中でなければならないのですから、義元の本来の目的は信長が出現しようがしまいが大高城に行く予定であったと考えられます。すると何のために桶狭間山で人馬を休息させる必要があったのかが再び問題になります。昼食をとるには早すぎる時刻であり、正午には大高城に入城していられるからです。なぜ義元はそうしなかったのでしょうか?………たぶん、桶狭間山で信長参陣を知ったからだという本末転倒な説明を漆山に本陣を布いた理由にされることが考えられますが、桶狭間山に寄り道した理由は依然として謎のままですから、これも説明を要します。

さて、桶狭間山にいた義元が午前10時頃に信長の参陣を知って、急遽本陣を約1km先の高根まで進めたところで前哨戦を見たとしたならば、これには15分かかりますから義元の先備えは約840m先の戌亥にあたる鎌研のあたりで織田勢を迎え撃つことが考えられます。その場合に佐々らは1.4kmを山際(鎌研あたり)まで行ったとしますと25分ほどかかりますから、義元が高根に到着した十分後に両勢は合戦を開始した可能性があります。これは午前10時25分になりますが、戦闘時間は五分程度で勝敗は明らかになり、その後は追撃戦になったものと看做すことにします。この趨勢をみて義元が陣を進めたとしますと、約1km先の漆山に到着できるのは15分後の午前10時45分頃になります。義元は正午に昼食をとっていますから、その後の1時間15分で全軍を漆山に収容して布陣を完了したと看做すことができます。これは後続が行軍中に襲撃されることを許すわけにいかないからです。

この行程から義元の直卒兵力を推定しますと、1時間15分で行軍できる距離の5kmにどれだけの兵士がいたかという問題なるわけですが、騎兵一割を含んだ一時間当りの兵数は4,208人でしたから5,260人と先備えの兵力1,000人を加えて、6,000人強の兵力と算定します。これは微妙な兵力です。信長の率いたのは2,000人といいますから約三倍なのですが、信長の場合には小荷駄などを伴わなかったと考えられるからです。

そして、信長とその兵士の大部分は熱狂的に攻撃に移り、少数の冷静な武将はこれを諌止しようとし、熱田・山崎から浮かれて付いてきた町人らは、熱から冷めて急遽引き返したことになるわけです。果たして、信長軍の中核になった小姓・馬廻などの集団はそのような熱狂的な集団であったと言えるでしょうか?

………これは、結構いえるようにも思えますので、これも信長のカリスマ性の一例にされそうです。しかし、それにしては『信長公記』は「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども」と書いたり、「右の衆、手々に(敵の)首を取り持ち参られ候。 (信長は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、」と書き、信長に反対する情景は書きますが、信長を熱狂的に支持する将兵の姿は書かず、進撃の実態も緩々と前進しているように思えて、熱狂性は感じられません。

ところで、朝日出~漆山は約2kmありますから、信長勢二千人が漆山の山際に展開するには45分ほど要します。ですから、昼食と謡に30分を見積もりますと、風雨の始まりは午後1時15分ということになり、降雨時間は45分と考えることができます。そうしますと、桐野氏の説も行程的にはと限定すれば、有り得る想定であるということができます。

但し、桐野氏自身も認めておられますが、『信長公記』や『三河物語』という史料に矛盾する点が多々あります。

  1. 取敢えず鷲津山の朝比奈勢は考慮しなくてよいことは先に述べましたが、服部党一千艘(二十艘?)が遊弋していた問題があります。彼らはなぜ信長の背後を衝かなかったのでしょうか? ……… これは、天理本に「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。」とあることがポイントになります。この文章では、織田軍の劣勢を見て帰ったということだけなのですが、大高河口に遊弋していた服部勢をも見たからだとも思われるからです。この熱田住民らは熱田を襲った服部党を撃退しているのです。そのため、この事からもう一つ分かることは、服部勢が熱田を襲った時刻です。「真説・桶狭間の戦い」章から推定しますと、熱田からの兵一千が到着を終るのは午前10時50分ですから、町民らが取って返したとしますと約1時間30分後には帰れますから、服部勢が熱田を襲ったのは正午半頃であったろうということになります。これは、大高河口~熱田湊の海上6kmとしますと、約1時間弱の航行ですから午前11時半頃には大高河口を離れたことになります。せっかく参陣していながら義元にも会わずに、です。
  2. なぜ兵力に優今川勢は中島砦を出ようとする信長の出鼻を叩かず、山際に信長勢が兵の展開を完了するまで待っていたのでしょうか?義元は信長参陣を知って漆山に本陣を進めたという想定なのですから、戦う意欲は十分にあったはずなのです。 ……… 当時の漆山と中島砦の間は、水田が広がっていたのではないのでしょうか?その場合には、水田の中の一本道を信長軍は進撃しており、山際に至って駿河勢の西方に展開するまでは、両軍とも互いに攻撃できないことになりますから、説明は可能ですが、今度は逆に義元の意図が疑われます。それとも原野と看做すのでしょうか。
  3. 漆山山麓から見える沓掛の峠とは何処をさすのでしょうか?
  4. 現在にいたっても所在の知れない「おけはざまやま」にさえ名前をつけた牛一が、なぜ漆山については名前をあげなかったのでしょうか?
  5. 『三河物語』に山上にいた「駿河勢が我先に退いた」とある記述を、桐野氏説では説明できません。これが先備えであったならば、背後の義元は何をしていたというのでしょうか。これは降雨前のことです。
  6. 根強くある信長迂回説を説明することもできません。なぜ、このような説が生まれたのでしょうか?迂回も何も全くできなくなる位置関係になります。
  7. 黒田氏によって唱えられた『甲陽軍鑑』の記載による「どさくさ紛れ」説も説明できません。紛れようもないストーリーの展開だからです。すると、この『三河物語』にも矛盾するような情報を信玄はどこから仕入れたのでしょうか?
  8. その他、多くの軍記物の記事を説明できません。

(2010.05.06 挿入) 『歴史街道2010.06』での桐野氏は、『信長公記』に「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、五月十九日、午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」とあるのを誤読されて、「今川軍は桶狭間山で休息したのち、戌亥の方角に向かって軍勢を進めた」と解釈される。この恣意的操作により、信長と義元との距離はぐっと縮まり、両雄が近世東海道上において東西の位置関係で遭遇する可能性を高くすることができる様にはなる。しかし、原文をどう読んでも、義元は桶狭間山で休息していたのであって、そこから自陣を動かしたと読むことはできない。義元が動かしたのは、当然の軍事行動であるが、休息する本陣を守るために「一手(備)」を敵のいる方角(善照寺・中島砦方面)へ張り出して布陣させたという、極々常識的な行動をしたに過ぎないだろう。これ以外に解釈のしようがないのは、時間の経過を見れば分かりそうなものだ。義元は午の刻には、佐々・千秋らとの前哨戦を観戦したうえに、謡を三番も謡って悠然としていたのである。その義元が64.9mの山から下りて東海道上に出るには一体どれほどの時間がかかるだろうか。信長が義元の旗本を発見して突入するのは未の刻であったのだ。そして、『天理本』には「戌亥に向て段々に人数を備」たとあるのだから、とてつもない時間がかかっただろう。まず、義元は前がつかえていて山を下りられなかっただろうし、信長は東海道に充満する駿河勢に道を塞がれて、義元の許に辿り着くことなどできなかったはずなのである。これらのことから、桐野氏のいわれる方角問題は、問題以前の問題というしかない。  <余談だが、氏は、桶狭間山を「石塚山」と態々記載されている。これは64.9m山頂から200m東にあたる現在の南舘付近のことである。そして、『豊明市史p576』には「石塚山は義元の本陣跡とも墓所とも伝えられている。正確な場所は不明だが、・・・(豊明市)古戦場公園の南約500mの丘陵付近(現在のホシザキ電機付近)に該当すると考えられている。」との説明があるにはあるが、見通しはまるで利かない山中である。同関連史料も資料編補一第六節にあるにはあるが、検証する気にもならない。………因みに、この64.9m山付近の地名は目まぐるしく変転している。1976~80年の地形図では、この山の北が舘北、この山の辺りが舘、その西が舘中、南が舘南と表記されている。それが、1984~89年の地形図では北舘が南舘に変わり、その他の地名は消えている。1968~73年の地形図では南舘が舘と表示されているだけであり、1959~60年以前の地形図(昭和37年発行)には地名表記すらないのである。桐野氏がなぜこのような地名を態々持ち出すのか気が知れない。

       

(3)藤原京氏の桶狭間   (初出 2008.07.13) 

『時代劇のウソ?ホント?』での氏の仮説はかなりユニークです。

その要点は義元軍は陣城を構築中であって、それが完成する前の隙を速攻した信長に衝かれために敗れたというものです。そのために、信長は第一波の攻撃を千秋・佐々ら三百人に行わせ、第二波には前田犬千代が参加しており、自らは第三波となって義元本陣に殺到したというのです。そして、その背後には柴田勝家らの部隊が控えていたとしています。

このような説を唱える理由について、氏は自ら説明して、現在忘れ去られた戦国時代の常識の一つとして、「城は攻めても落ちないもの」というものがあるとされています。そのため、鳴海城・大高城を攻囲し、駿河勢籠城策をとったために必然的に駿河勢による後詰が行われたことにより生起したされており、信長は桶狭間山に着陣した駿河勢が未だ陣城を構築できないでいたその隙をついたのだとされるわけです。そして、反面教師として長篠合戦での信長・家康連合軍による野戦築城を例に出されます。………義元は、本当に桶狭間山に陣城を築こうとしていたのでしょうか?一体、何の目的で?

陣城構築中であったということには否定的な情報が多々あります。

  1. 氏は、桶狭間山が鳴海城に後詰するには、大軍を広く展開できる理想的な陣城構築場所だとされていますが、桶狭間山からは予定戦場になると考えられる中島砦付近が見通せませんし、そこは小規模な丘陵が複雑に入り組んでおり、とても大軍を駐留させる場所ではありません。これは孫呉の兵法を齧った武将ならば絶対にしなかったと思われる陣取りです。そして、今川義元は僧として一生を終えるつもりで京の妙心寺で修行に励んでいたのです。………黒末川の南から攻めたいのならば、二村山辺りを選定するのが常識ではないのでしょうか。沓掛城から鎌倉海道を使って、善照寺砦を落とすのが兵法の常道ではないのでしょうか?それを何故、態々、黒末川が天然の堀をなしている南方から攻めなくてはならないのでしょう。
  2. 最も間近な桶狭間村の村民たちには、陣夫役として築城に駆り出されたという伝承はなさそうです。何故なら、地元住民には戦闘に巻き込まれて死傷したという悲惨な伝承が皆無だからです。死んだのは今川方の将兵ばかりなのです。………地元の郷土史家は、村民たちはセド山の上から恐々として戦いの帰趨を窺っていたしていますし、長福寺の伝承では義元を接待したとしています。
  3. なぜ近場の大高城に行く途中で昼食をとるためだけのために、陣幕と柵・逆茂木程度で済まさずに、しかも前もって用意せずにその場になって慌てて陣城を構築しようとしたのでしょうか?
  4. 桶狭間に構築した陣城は、鳴海城救援のために役立つものなのでしょうか。それに、陣城が構築途中であるならば、その工事を妨害させないために、その前面に敵を迎え撃って戦いが行われたはずです。………小生は、赤塚合戦は信長が天王山に付城を築こうとして、それを阻止しようとした鳴海城の山口九郎次郎との間に起こったとみています。
  5. 最も重要な点は、ほとんど全域にわたって宅地開発された現在に至るまで桶狭間付近で陣城址が発見されていないことです。

それでも、藤原氏の説には魅力的なものがありました。それは、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」という主張です。この説は、『信長公記』の天理本が紹介されるまでは、大高城に兵粮を搬入したことは公記に書いてあるのですが、大高城が包囲されていた事は証明できませんでしたから、すこぶる魅力的な見方の一つで有り得ました。大高城の南に付城が築かれたことを明確には証明できなかったからです。

その場合には、丸根・鷲津砦の戦術的な意味は、藤原氏が言われるように、鳴海城への兵粮や兵力を搬入することを妨害するものであったことになり、織田方が大高城を攻撃することは二義的になりますから、義元がこのニ砦を攻略することは取りも直さず鳴海城の封鎖を解くことを目的にしたものであったことになるわけです。………尤も、それでもまだ中島砦が東海道を封鎖していますから、東海道からの搬入は見込めませんし、沓掛城から鎌倉海道によって善照寺砦を攻略した方が楽なように思えることには変わりはないのですが。

ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか?

これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。

城塞というのは古代に「稲城」といわれたものから戦国時代前期までの「城館」まで、一般には本気で戦争するための城塞というものは唐の侵攻に怯えて大宰府に水城を築いた時期を除いては、日本ではあまり作られませんでした。つまり、防御施設というものは簡単なものでも十分に有効であったという事実があったからです。

「落ちない城」の範疇で最も有名なのは楠木正成の千早城・赤坂城ですし、大きなものでは大宰府の水城、平氏の福原防塞、奥州平泉の藤原泰衝が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれた阿津賀志山防塁、元弘時の防塁がある程度のものでしょう。勿論、帝都は中国の城塞都市を真似て作られていますから、一応城塞であります。

これらのことから気づくことは、日本では古代に国際外交の真っただ中にあったとき以外には、城塞に拠って長期にわたって攻防するということは殆ど考えられていなかったということです。そのため、城塞は簡単な設備であっても十分にその役目を果たしてしたということなのです。しかし、これは逆からみますと、日本国内での紛争は殆どが内乱にまでも至らず、ヤクザ同志のシマ争いの喧嘩程度のものでしかなかったからであることが窺えます。つまり、世界的なレベルで見るならば戦国時代より前の日本の城塞の殆どは世界規格に満たないものばかりだったわけです。なぜなら、戦争当事者自体がヤクザみたいなものですから、敵の城塞を徹底的に攻略しようなどという「意図」も兵力差も持たなかったからです。

応仁の乱においても洛中では、首都の都城の内にあっての市街戦で終始したのです。市街戦が行われるということは、市街が焼き尽くされ破壊し尽くされていないことから起こります。近代以前ならば始めから火攻めをおこなったりはしないということですし、近世以降になりますと事前の制圧砲撃で徹底的に破壊したりしない攻撃になります。ところが、戦国時代も深化してきますと、領国の統一から始まって、領国を拡大して隣国をも支配しようとするように目的が変わってきますと、まず、兵力差が広がってきたうえに、それに裏付けられて敵の城塞を完全に攻略する意志持ち始めます。