gooブログはじめました!地球の無駄使いをやめよう。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
地球が延命出来れば人類は必ず生き延びられる

慶長五年当時、美濃北部の郡上八幡(ぐじょうはちまん)には稲葉貞通がいました

2011-06-03 17:40:00 | 足軽の階級

南美濃の戦い
~高木一族の関ヶ原~


美濃には城が多く、南濃一帯にも先に述べた福束城などの他に高木一族の拠る高須・駒野・津屋城がありました。ここではそれら三城の戦いをまとめてご紹介します。



高木一族

 高木氏は南濃一帯に居を構える土豪で、この頃は高須城の高木十郎左衛門盛兼を核に、駒野城には九郎左衛門帯刀、津屋城には八郎兵衛正家と一族で固め、一族ほぼ揃って西軍に属していたが、ただ一人貞友だけは東軍に属していた。
 この貞友は彦左衛門貞久の子で通称藤兵衛といい、慶長二(1597)年に家康に召されて仕え、翌三年には上総望陀(もうだ)郡で五百石を領しており、関ヶ原合戦の後は美濃上石津郡で千石余を与えられ、多羅郡に住んだとされる人物である。海津町歴史民俗資料館でお伺いした話によると、現在上石津町には高木一族の御子孫が住んでおられるとのことである。

 高須城は先に述べた市橋長勝の今尾城より南へ一里、揖斐川左岸の現岐阜県海津市海津町高須町に、駒野城はその川向かいの同市南濃町駒野にあり、津屋城は駒野城から揖斐川支流の津屋川沿いに北西へ一里、同市南濃町津屋にそれぞれ位置していた。
 八月十六日に福束城が落ちたため、この高木一族にもにわかに風雲が立ちこめてきた。東軍の福島正則が十七日に今尾城に入り、市橋・徳永らの戦功を賞した上で、引き続き高須城奪取を命じたのである。


高須城の戦い

  徳永寿昌は直ちに使者を盛兼に送り、開城を説得した。もともと戦っても勝てると思っていなかったと思われる盛兼の返答が面白い。開城しても良いが、すぐ近くに同族もいることなどから、一戦も交えずに開城したとあっては武人の面目に関わる。ここはひとつ、距離を置いて空鉄炮による八百長の戦を演じた上で、機を見て退去しようと言うのである。
 八月十九日、市橋・徳永は一千余の軍勢を率いて高須城北東の成田村(現海津市海津町成戸付近か)から攻め寄せた。高木勢は「形だけの戦」と悠長に構えていたところ、東軍勢は何と実弾射撃を行ってきたのである。面食らった盛兼は、欺かれたと知って怒ったが時すでに遅く、城兵を励まして抗戦するが所詮は兵力や士気の差が大きく、支えきれずに城を捨てて舟で津屋城へと退却した。
 現在、高須城跡には県立海津高校が建ち当時の面影は見られないが、近くには「城跡公園」(=写真) が作られてわずかにその名残をとどめている。なお、このすぐ近くにも「高須城と城下町」なる案内板のあるポイントがある。


駒野城の戦い

  こちらは駒野城の高木帯刀である。彼はすでに盛兼から八百長戦と城の無血開城の報を受け取っていたので、川向かいの高須城の「戦い」を見ていたが、案に相違して激しい銃撃戦が起こり、城兵らが散り散りに駒野城や津屋城目指して落ち延びている様を見て仰天した。自分の城を目指して逃げてくる高須城兵の後ろには、追撃する東軍勢の姿が認められるではないか。と、そんな思案をしている間もなく、あっという間に城は包囲されてしまった。
 帯刀は一旦籠城も考えたようだが、東軍勢から投降を呼びかけられ、加えて一族の貞友からの説得もあり、これを受け入れて開城、東軍に属してしまった。
 写真は駒野城跡の遠望で、現在跡地には城山小学校が建てられている。


津屋城の戦い

  一方、津屋城の高木正家はどうしていたかというと、彼のところにもすでに盛兼からの報がもたらされており、盛兼や城兵を収容する準備を整えて「戦況」を見守っていた。ところが盛兼と城兵数十がほうほうの体で逃げ込んできたため、事態の意外な進展に驚き、とりあえず敗残兵を収容して防御態勢を築こうとした。
 それも束の間、東軍の別働隊が津屋城にも押し寄せ、民家に放火して激しく攻撃を仕掛けてきたのである。正家は盛兼とともに防戦に務めたが、ここへ駒野城を包囲していた東軍がさらに到着して攻め立てたからたまったものではない。こうしてたちまちのうちに城は焼き落とされ、正家らは大垣城へと逃れていった。
 写真は津屋城跡と伝えられる本慶寺で、脇に立つ案内板によると、今の本堂の位置あたりが当時本丸のあった場所ではないかということである。

記美濃福束(ふくつか)城には丸毛兼利がいました。

2011-06-03 16:54:16 | 個性派武将得意戦法

福束城の戦い
~丸毛兼利の関ヶ原~


美濃福束(ふくつか)城には丸毛兼利がいました。石田三成は早くから彼を誘い、西軍につけます。小城とは言え、ここはそれだけ戦略的に重要な場所にあったのです。


丸毛兼利と福束城

  丸毛氏は美濃多芸郡の土豪である。兼利は河内守光兼(長照・長住とも)の子で、父とともに元は斎藤氏の支配下にあったが、永禄三年織田信長軍と戦って以来信長に従っていた。本能寺の変で信長が滅びてからは秀吉に従い、美濃直江・大墳城主を経て天正十七年より福束城二万石の主となり、秀吉に従って九州征伐や小田原征伐に出陣している。

 福束城は、大垣市南端に隣接する岐阜県安八(あんぱち)郡輪之内町福束にあったのだが、後にすぐ横を流れる揖斐川の流れが変わったため、城跡そのものは水没してしまったという。写真は現在の揖斐川左岸・輪之内町福束で撮影したもので、城は左手から中央部にかけて見える堤防のあたりにあったのではないかと推定されている。
 地図を見ればすぐわかるのだが、ここは揖斐川とその支流(水門川・牧田川・相川・大榑川など)の近くにあり、位置的にも大垣から南へ二里(現在の名神大垣ICから南へ2km)ということもあり、伊勢湾から大垣方面への舟運の重要な拠点であった。したがって三成は早くから彼を味方に誘い、攻撃拠点というよりも、もっぱら城の防御を固めさせて兵糧や武器の補給拠点としての任務を与えていた。

  ただ、福束城から南へ一里にある今尾城(一万石・現岐阜県海津市平田町今尾)の市橋長勝と、南東一里半にある松ノ木城(三万石・現岐阜県海津市海津町松木)の徳永寿昌は、尾張黒田城主一柳直盛から誘われて東下しており、この戦いの直前には東軍の先鋒大将福島正則の麾下に属していた。位置的にも近いこれら三城の領主はもともと友好関係を築いていたが、戦国の運命は皮肉で、以下の福束城の戦いはこれら三将によって繰り広げられることになるのである。写真は市橋長勝の居城今尾城跡で、現在は今尾小学校となっており、城跡の碑は小学校敷地内に建てられている。


福束城の戦い

  東軍の諸将が続々と清洲へ集結する中、八月十一日夜に市橋長勝・徳永寿昌の両将は美濃に帰国した。写真は現在の清洲城天守閣であるが、これは後に建てられたもので、当時の城は東西約2km・南北約2.5kmの広さを有し、三重の堀をめぐらせた大規模な城であったという。
 さて両将が帰国してみると、美濃の情勢は彼らの予想を上回って西軍に傾いていた。国内のほとんどが西軍に加担しているのである。これは後で述べるが、岐阜城主織田秀信が西軍に加担した影響が大きい。市橋・徳永の両将は急ぎ城の防御を固めた。この頃清洲にいて家康の出馬を待っていた福島正則は、配下の尾張赤目城主横井伊織介を丸毛兼利の家老丸毛六兵衛に派遣し、翻意して東軍につくよう説得するが、兼利はこれを拒否した。この報を受け、正則は、市橋・徳永と相談の上で横井伊織介をその援軍として加勢させることとし、両将に福束城の攻略を命じた。

  八月十六日朝、東軍勢は福束城の東方から軍を進め、福束城の南東大榑(おおくれ)川左岸の勝賀村付近(現岐阜県海津市平田町北部一帯)に布陣した。迎え撃つ福束城の丸毛兼利も対抗して川を挟んだ右岸一帯に出陣する。兼利から報せを受けた三成は、大垣城主伊藤盛正・長松城主武光式部に福束救援を命じ、自らも手兵を裂いて舞兵庫ら計三千の救援軍を福束へ向かわせ、これら両軍が川を挟んでにらみ合いとなった。
 右の写真は福束城ゆかりの福満寺で、当時は福束城の敷地内にあったが(同寺には福束城の絵図面が現存する)、川の流れが変わった際にこの場所へ移転したという。

 川幅が広いため膠着状態が続いていたが、東軍勢が一計を案じ、夜半密かに別働隊を編成し、遠く迂回して福束の北東に位置する楡俣村へ潜入させた。この別働隊が付近に放火したのを合図に、全軍が一斉に渡河を始め攻撃を開始したのである。西軍は予期せぬ敵が背後から攻め立てて来たので驚き、伊藤勢らは堤防伝いに大垣城へと逃げたが、丸毛勢は福束城に籠城した。

 引き続いて東軍は福束城に攻め寄せる。兼利は支えようとするが、勢いの差が大きく支えきれず、ついに城を捨てて大垣城へと敗走した。兼利は関ヶ原合戦後は前田利常に仕えて二千石を領し、入道して道和と号した。没年は正保四(1647)年一月二十八日という。彼は永禄十二(1569)年の信長による伊勢大河内城攻めに従軍したと記録にあるから、享年不明ではあるが、非常に長寿を保った武将である。
 東軍はこうしてさしたる損害もなく福束城を落とし、小さな戦いではあったが、美濃における緒戦を幸先良く勝利で飾った。

関ヶ原の戦いは、戦国史上はもとより、日本史上にその名を留める大戦として広く知られています。

2011-06-03 16:48:59 | 戦国ロマン

関ヶ原の戦いは、戦国史上はもとより、日本史上にその名を留める大戦として広く知られています。ここでは戦いの発端や結果はもちろん、それと同時に日本各地で起こった局地戦も含めて多角度からご紹介していきたいと思います。
なお、本稿は巷説・伝承なども引用の上で作成してあり、史実の追究を目的として作成したものではないことを、あらかじめお断りさせていただきます。


関ヶ原の戦いとは

 慶長五(1600)年九月十五日、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町一帯で、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元(実質上は石田三成)を総大将とする西軍の間で一大決戦が行われたことは、歴史にさほど詳しくない人でも知っていると思われる事実である。しかし、戦いはわずか一日で実にあっけなく終わった。結果は家康が勝利を収め、三成等西軍首脳は斬首・所領没収・減封などの処分を受け、程なく家康は江戸に幕府を開いて政権基盤を確固たるものにしていく。
 しかし、戦いが行われたのは関ヶ原一帯だけではない。東北から九州にいたるまで、各地でそれぞれの思惑を抱く大小名たちが、裏切り・すれ違い・父子の訣別など様々な人間模様の渦巻く中で、それぞれの戦いを行っているのである。
 ここでは「関ヶ原の戦い」と言うよりも、むしろ「慶長五年の人間模様」的な角度から、悲喜こもごものエピソードを織り交ぜて、この日本史上未曾有の大戦およびそれに付随して各地で起こった大小の戦いをご紹介していきたいと思う。

:階層なし :階層あり 点滅は更新ページ 

風雲・慶長五年
 
 序章・関ヶ原
 
 年表で見る慶長五年


関ヶ原周辺の戦い
 
 福束城の戦い ~丸毛兼利の関ヶ原~ 8/16 (美濃)
 
 南美濃の戦い ~高木一族の関ヶ原~ 8/16~19 (美濃)
 
 上ヶ根の戦い ~遠藤一族の関ヶ原~ 8/20 (美濃)
 
 竹鼻城の戦い ~杉浦重勝の関ヶ原~ 8/22 (美濃)
 
 米野の戦い ~織田秀信の関ヶ原1~ 8/22 (美濃)
 
 岐阜城の戦い ~織田秀信の関ヶ原2~ 8/23 (美濃)
 
 河渡川の戦い ~舞 兵庫の関ヶ原~ 8/23 (美濃)
 
 八幡城の戦い ~稲葉貞通の関ヶ原~ 9/1~4 (美濃)
 
 杭瀬川の戦い ~島 左近の関ヶ原~ 9/14 (美濃)
 
 大垣城の戦い ~福原長堯の関ヶ原~ 9/14~23 (美濃)
 
 関ヶ原番外編 ~教如上人の関ヶ原~ 8/?~9/? (美濃)


全国各地の戦い
 
 伏見城の戦い ~鳥居元忠の関ヶ原~ 7/19~8/1 (山城)
 
 田辺城の戦い ~細川幽斎の関ヶ原~ 7/21~9/18 (丹後)
 
 大聖寺城の戦い ~山口宗永の関ヶ原~ 8/2~3 (加賀)
 
 浅井畷の戦い ~丹羽長重の関ヶ原~ 8/8 (加賀)
 
 安濃津城の戦い ~富田信高の関ヶ原~ 8/24~25 (伊勢)
 
 上田城の戦い ~真田昌幸の関ヶ原~  9/5~9(信濃)
 
 鳥羽城の戦い ~九鬼嘉隆の関ヶ原~ 9/13 (志摩)
 
 大津城の戦い ~京極高次の関ヶ原~ 9/13~15 (近江)
 
 石垣原の戦い ~黒田如水の関ヶ原~ 9/13~15 (豊後)
 
 長谷堂城の戦い ~直江兼続の関ヶ原~ 9/15~10/4 (出羽)
 
 佐和山城の戦い ~石田一族の関ヶ原~ 9/17~18 (近江)
 
 福知山城の戦い ~小野木重勝の関ヶ原~ 9/23~10/18 (丹波)


決戦とその後
 
 関ヶ原の戦い ~両軍、激突!~
 
 戦の前後における所領比較
 
 西軍主要諸将のその後


関ヶ原の戦い・注目武将
 
 若武者・飯沼長資
 
 島左近・平群谷の驍将


関ヶ原の戦い・アラカルト
 
 史跡探訪・関ヶ原周辺
 
 関ヶ原お勧めスポット
 
 参考文献等

※背景画像:関ヶ原町歴史民俗資料館蔵『関ヶ原合戦図屏風』(掲載許可済)