gooブログはじめました!地球の無駄使いをやめよう。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
地球が延命出来れば人類は必ず生き延びられる

島左近。、彼の消息ははっきりとは判っていません

2011-06-07 21:17:37 | 戦国時代考証

左近の消息と墓


身分は三成の一家臣でも、その軍事能力は東軍方諸将も認めた島左近。しかし、彼の消息ははっきりとは判っていません。京都と奈良には歿日時の異なる2つの墓が存在します。


左近の消息

  前述稿の補足の形となるが、関ヶ原合戦の際に三成の前面に二重の柵を設け、左近たちはそれを背に、まさに「背水の陣」の覚悟で戦に臨んだ。その面々を『関ヶ原町史』により少し詳しく紹介すると、三成の笹尾山本陣から見て左端に左近。以下、右へ順に島新吉・同十次郎・大場土佐・大山伯耆・高野越中・舞兵庫・森九兵衛・蒲生備中・同大膳・同大炊・北川平左衛門・同十郎・蒲生監物・近藤縫殿・後藤又助・百々宮内・早崎平蔵・分田伊織・浅井新六郎・中島宗左衛門・香楽間蔵人・三田村織部・町野助之允・馮渡内記・川崎五郎左衛門ら六千である。
 戦闘もたけなわとなってきた頃、左近は密かに回り込んできた黒田(菅)隊に側面から銃撃を受け負傷、柵内にかつぎ込まれた。左近は精兵を率いて開戦直後から奮戦、後に黒田家の者をして「もしあの時鉄炮で撃っていなかったならば、今頃我等の首は左近の槍に刺し貫かれていたことだろう」と言わしめたほどであったという。
 この画像は『関ヶ原合戦図屏風』(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)に描かれた、負傷して両脇を兵に支えられながら退却する左近の姿である。画像から推察すると、足か腰を撃たれたのではないかと思われる。
※当画像は関ヶ原町歴史民俗資料館の許可を得て撮影・掲載しています。無断転載は堅くお断りいたします。

 ここで、左近の消息について記した書物についてであるが、ざっと紹介すると

「被弾し倒れる」・・・『関ヶ原合戦大全』、『落穂集』、『黒田家譜』、『故郷物語』等
「戦死」・・・・・『関ヶ原合戦誌』、『関ヶ原合戦大全』の一説、『関ヶ原軍記』、『戸川記』等
「生死・行方不明」・・・・・・『関ヶ原状』、『慶長年中ト斎記』、『武徳安民記』等
「対馬へ脱出」・・・・・・『関ヶ原軍記大全』
「西国へ脱出」・・・・・・『石田軍記』

 となる。しかし『関原合戦図志』によると、「戦死」説の記述のある『関ヶ原合戦大全』では、「島勝猛ハ黒田ノ家人菅六之助ガウタスル鐵炮ニ當リテ死亡セシト云ヘルハ實事ナルベシ」と、被弾して死亡した旨の記述があるが、その後も左近が三成と応対している様子が所々に見られ、また三成が敗走する直前に左近の死を聞いて悲嘆し、共に討死しようと馬を出しかけたところ、近習たちが三成の馬を押さえて納得させ戦場から離脱させたという話が記載されている。
 これはおかしい。左近の推定被弾時刻は午前九時から十時の間で、三成の敗走は「未の刻(午後二時)」前後かそれ以降である。朝に死亡した島左近のことを、わずか二町(約220m)離れた本陣にいる三成が午後二時頃まで知らないなどということは、どう見ても考えられない。
 「行方不明」説を採る『関ヶ原状』は、『信長公記』で知られる太田牛一が、この戦いの翌年に著したものである。また『慶長年中ト斎記』は信憑性の高い資料として知られており、同説を採る他書の多くはこれらをそのまま信用したと思われ、前出『関原合戦図志』の著者神谷道一氏は、当時はまだ本格的な研究が進んではおらず、世上に伝えられた「左近は行方不明」との風評をそのまま書いたのであろうと評されている。
 つまり、私見ではあるが、左近は朝の被弾負傷時には落命してはいなかった。柵内にかつぎ込まれた左近は、手当を受けた後、再び突撃する機会を待っていたのではないか。


左近の墓

  話は戦いからそれるが、近年左近は戦場を脱出して生き延びたのではないかという説が囁かれている。
 その根拠は『関ヶ原町史』によると、「慶長八年の合戦図」(典拠不明)において、琵琶湖の竹生島に「十六日夜島左近宿す」との記述があることと、左近の墓(=写真)がある京都市上京区の立本寺教法院(りゅうほんじ・きょうぼういん)過去帳ならびに位牌に、「妙法院殿前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀 島左近源友之」との法名と、寛永九(1632)年六月二十六日に歿したとする記録が残されていることが主なもののようである。
 この立本寺は日像上人を開山とする日蓮宗一致派の本山で、元亨元(1321)年に中京区四条大宮に創建され、後土御門天皇から勅願寺の綸旨を賜ったと伝えられる名刹である。同寺はいわゆる「天文の法乱」後に三回ほど移転し、天正年間に上京区寺町通今出川に移された。しばらく同所にあったが、宝永五(1708)年に火災で類焼し、現在の地に移されたという。
 左近の墓が建てられた時期は判らないが、死後すぐに建てられたとするなら、それは寺町通今出川の地ということになり、移転の際に寺とともに現在地に移されたものであろう。

  さらに同町史では、左近の末裔の方が蔵する古記録に「島左近勝猛 又ノ名ヲ友之ト云フ (中略) 関ヶ原ノ役ニ謀士ノ長トナリ、戦ニ敗レ、囲ヲ衝キテ奔ル、後、京都立本寺ニ隠レ、寛永九申壬年六月二十六日歿ス 妙法院殿前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀」なる記述があることを紹介し、併せて同書に母と共に京都にいた左近の二男彦太郎忠正が関ヶ原の敗報に接し西国へと逃れ、坪島彦助と改名して安芸西条四日市に住んだとあることも紹介している。
 もしこの通りだとすると、左近は関ヶ原の後三十年以上を生きたことになり、歿時の推定年齢は九十歳前後にも達するかと思われる。しかし、その間何の記録も残されていないというのは、いくら徳川の世とは言え腑に落ちない部分があり、やはり現時点では左近の消息については不明と言わざるを得ない。左の写真は立本寺教法院に残る左近の位牌だが、これは明らかに後世に作られたものである。
 ここで左近の年齢について少し言及すると、『和州諸将軍傳』には彼の生年月日の記述が見られ、それによると左近は天文九(1540)年五月五日生まれとされている。その説に従うならば関ヶ原では61歳ということになるが、同書の信憑性にはやや問題があることから、残念ながらはっきりと断定出来るまでには至らない。ただ永禄年間から筒井順慶のもとで活躍したことを考えると、これくらいの年齢であったのは事実であろうと思われる。

左近の墓  ところで、左近の墓はやはり大和にもあった(=写真)。この墓は奈良市の三笠霊苑東大寺墓地(通称伴墓)にあり、昭和五十七年に田原本にお住まいの郷土史家が発見したという記録が残っていたことから、平成四年に元奈良市長(故人)が調査確認されたものであるという。中央が左近の墓で、これは「舟形五輪塔」と呼ばれる形式のものだそうである。大きさは縦82cm×横35cm×厚さ10cmで、中央に「嶋左近尉」、その右には「庚子」、左には「九月十五日」とある。つまり言うまでもなく、この墓は左近が合戦当日に歿したということを示しているのだ。
 問題はこの墓の建てられた年代だが、五輪板碑の形状や傷み具合などから、室町末期から江戸初期頃の特徴があるとされ、関ヶ原合戦からさほど遠くない時期に建てられたものであろうとのことである。
 こうなってくると、左近は果たして生き延びたのか、それとも関ヶ原に散ったのか、ますます判らなくなってくる。

  この他にも対馬の島山(長崎県美津島町)や陸前高田市の浄土寺にも左近の墓と伝えられるものがあり、対馬の墓は こちら に別に画像を掲載しているのでご覧頂きたい。
 さらに、左の写真は大阪市淀川区の木川墓地にある左近の供養墓で、これは昭和九年に左近の末裔である島吉次郎氏が、先祖の島清兵衛翁の五十回忌に際して建てられたものという。
 同墓地内には左近の妻の一人とともに大坂に逃れてきた娘の子と伝えられ、江戸時代初期に中津川(淀川)の治水事業に多大な功績を残した島道悦忠次(1611~1654)の墓があることで有名であるが(同墓地には島氏一族の墓もある)、供養墓とは言え左近の墓がここにもあることはあまり知られていないようである。
 墓の下部正面には三行で「五十回忌供養 島左近之墓 次男吉次郎建之」、墓横に立つ碑には二行で「島清兵衛五十回忌 昭和九年七月為菩提 次男吉次郎」と刻まれてあり、一般刊行物ではあまり目にすることのない画像なので、参考までに掲載させていただくことにする。

筒井家で重きをなし、「鬼の左近」と呼ばれて怖れられた島左近。

2011-06-07 21:00:26 | 戦国時代考証

大和の国人・島氏


筒井家で重きをなし、「鬼の左近」と呼ばれて怖れられた島左近。彼の出自には諸説あり、はっきりとは判っていません。謎の闘将・島左近の実像に迫ってみます。


大和の国人・島氏

  島左近。名は諸書に清興・勝猛・清胤・友之・昌仲と様々に見られるが、『根岸文書』に「清興」なる自筆書状が残っており、少なくとも筒井家時代には「清興」を名乗っていたことは間違いないと思われる。左はその自筆署名と花押で、「嶋左近清興」と読める。彼の出自については大和・近江・尾張・畿内・対馬などの諸説があって、いまだに特定されるには至っていない。なお『姓氏家系大辞典』(太田亮著 角川書店)の島氏の項には36の項目があるのだが、ここでは取りあえず大和国説を採用して話を進めることにする。

 島氏は大和平群(へぐり)郡の国人で、同郷の国人曾歩々々(そぶそぶ)氏とともに鎌倉時代の末に武士化、春日社国民となり興福寺一乗院方坊人として同院から福貴寺(ふきでら)や大内庄下司職を与えられ、現在の奈良県生駒郡平群町椿井一帯を支配していた。島氏が筒井家の武将として歩み出したと思われるのは、長禄四(1460)年の河内畠山氏の内紛においてからで、島氏は筒井氏とともに畠山政長に加担し、義就軍を撃退した記録がある。『群書類従 合戦部』所収の『長禄寛正記』には「河内勢は高安の馬場の崎にて、二手に分け、島の領内福基のをうたうと云ふ所には、(以下略)」とあり、「福基のをうたう(福貴の大塔)」が「島(氏)の領内」であった事が見て取れる。島氏の全盛期(左近の代)には平群郡のうちで一万石ほど領していたらしいが、左近が同氏の出自(血縁者)かというと、それを記した「信頼できる資料」は見あたらない。
 『多聞院日記』によると、永禄九(1566)年の頃に嶋の庄屋は裕福であるという評判が立ち、この庄屋なる二十五歳の人物が翌十年六月に平群「嶋城」に乱入、父の豊前守や養母など一族九人を殺害して(豊前守は逃げたようである)城を手に入れたとされ、これが左近ではないかともいわれる。とすると戦国期という風潮や何らかの事情はあるにせよ、結構「あくどい」こともやっている。が、この人物が左近である確証はない。
 「嶋城」という表記は同時期にしばしば見られる。これは推論ではあるが、下垣内(しもがいと)城または同城の南に谷を挟んで隣接する西宮城のことか、あるいはこれらを合わせた総称、さらには椿井城はじめ島氏の領有する平群の城全てを総称してこう呼んだのかもしれない。つまり、「嶋さんの城」というほどの意味であろう。


左近の城と館
  さて、平群町の南東部・矢田丘陵の南西端に位置する尾根上には、島氏全盛期のころの居城と伝えられている椿井城跡(現奈良県生駒郡平群町椿井)がある。島氏は文明十八(1486)年、椿井氏と争い椿井懐専(越前守政里)を討ち取っており(『巨勢系図官務録』)(注1)、椿井方木沢・龍野・郡山氏を島左門友保が撃破している記録がある。もし左近が大和出身なら、この「島左門友保」なる人物は左近の祖に当たるかもしれない。
 島氏は後に同城に拠ったと思われ、平群町のお話によると、築城者は現時点では不明であるが、少なくとも左近の手で修築整備はされたものと見て良いだろうとのことである。後に筒井家の家老職を務め、松蔵右近勝重(重信)とともに「筒井の右近左近」と呼ばれる勇士としても知られていた左近はここを居城とし、信貴山城の松永久秀と激しい戦いを行った。なお、島・松蔵両氏に森氏を加えて「筒井の三老」という場合もある。写真は椿井城跡の遠景で、この城は尾根伝いに南北に300m程の規模で築かれており、写真中央部の山上が本丸のあったあたりである。
【注1】椿井氏系図によると、越前守政里は文明十七年十二月二十八日に討死とある。

  ところで、左近の居館跡(=写真右)と伝えられる場所が、椿井城の西麓・平等寺地内にある。位置としては、上の写真の中程左に見える民家の裏手にあたる。現在は竹藪となっているが、御覧のように周囲にめぐらせた堀の護岸と思われる石垣跡が見られ、石組み井戸や土塁跡も残っている。あいにく竹薮(道?)の状態が悪く、中に入ってじっくり見ることが出来なかったのが残念であるが、地元の伝承とは言え、場所的に考えて左近がこの館に住んでいたことは大いに考えられる。平時はここで家族郎党とゆったり暮らし、戦時には城へ詰めて戦うといった生活をしていたのではないだろうか。現にこの裏手にはかつて城跡へ通じる道があったのだが、現在は崩れてふさがっており、山上(城跡)へ登るための道は残っていない。

 余談だが、現在椿井城跡への登り口はない。しかし、山上にはちゃんと遺構が残っているそうである。取材に当たって「椿井城跡遺構分布図」を含めた多数の資料をご提供いただいたが、それを見ると堂々たる山城であり、この地の重要性と左近の筒井家に占める位置がわかるような気がする。で、それほどの城で登り口がないと聞けば、登ってみたくなるのが人情。さっそくトライしようとしたが、裏手に回ってみて早々に断念した。興味のある方は こちらの写真 を御覧頂きたい。左下のカーブミラーがその規模を物語っているが、裏手はずっとこんな調子の山肌が続く。はっきり言って、平服では無理である。

 この他にも、平群町に残る前述の西宮城・下垣内城も島氏関連の城とみられており、特に下垣内城のすぐ下には近年まで安養寺という寺があり、左近の母のものとみられる位牌(注②)が残っている。

永禄二年の久秀侵入後の島氏の動向は不明でしたが、やはり久秀の支配下にあったようです。

2011-06-07 20:49:05 | 戦国時代考証

久秀支配下の島氏


松永久秀の本拠・信貴山城の裾に位置する平群谷。永禄二年の久秀侵入後の島氏の動向は不明でしたが、やはり久秀の支配下にあったようです。


 

久秀支配下の島氏

 永禄二年(1559)八月、松永久秀が大和へ侵入して筒井氏は没落するが、平群谷の島氏はどういう動きをしたのであろうか。
 島氏の領する平群谷は久秀の本拠信貴山城北東麓にあり、位置的に見て久秀からは真っ先に狙われるはずである。筒井城を攻め落として筒井藤勝(順慶)を椿尾上城へと追いやった久秀は、永禄九年に筒井城を和議によって一時手放すが、十一年には再び奪回している。
 久秀は元亀二年八月の辰市合戦で筒井氏に大敗するまで多くの大和国人衆を配下に従えたが、この間の島氏の動向といえば、『多聞院日記』にはわずかに永禄年間後半に先述した「嶋ノ庄屋」と「親父豊前」、元亀年間に十市氏に働きかけた「嶋」が見えるのみである。
 しかし、興福寺一乗院方の記録である『二条宴乗記』永禄十二年正月~二月条に、以下のような記述が残されていた。

持宝院より菓子用金銭事、嶋方下代宮部与介方へ申届候てと被申、書状・鈴一対給也」(正月十四日条)
 
「菓子用金銭儀ニ宮部与介へ折紙調持宝院へ遣也」(正月十五日条)
 
「其後、宗識房鈴給。秀顕ヽ使。これハ平群より米取寄被申度間、霜台下代宮部与介へ書状進之候て法隆寺まで送を被付候てと申間則書状遣了」(二月廿三日条)

 島氏の具体的な人物名が見当たらないのが残念だが、「嶋方下代宮部与介」から、宮部与介なる人物が島(氏)方の下代官を務めていること、また「霜台下代宮部与介」から宮部は霜台(松永久秀)の代官であり、「平群より米取寄被申度」「持宝院」と見えることから、島氏が平群谷に在地していて、かつ平群谷は久秀が領有していたことがわかる。つまり、島氏は当時没落してはおらず、平群谷の在地領主として松永方の支配下にあったわけである。

 以上より、永禄十年の庄屋乱入事件が起きた「平郡嶋城」は、場所の特定は別にして松永方の城であることは間違いなく、乱入した「庄屋」は継母や十五才になる子を殺害し、親父の豊前守清国は城から脱出したわけである。
 筒井氏と行動を共にしてきた島氏が当時松永方に属していた以上、こういった内紛が起こりうる可能性は十分考えられよう。


筒井党からの人質

 さて、久秀は当時井戸氏・松蔵氏から人質を取っていたことが記録に見える。

「今日井戸ノムスメ・松蔵権介息久クロウニ入、アエナク指縄ニテシメコロシ、城ノ近辺ニ串二指了」(『多聞院日記』永禄十三年二月廿二日条)
 
「又井戸人質ムスメ八ツニ成を犬クヽリにてシメコロシ、井戸ノ城ノキハニ串ニサシテ置被申候。夜、城へ取入申由。同松蔵権介人質ナンジノ十一ニ成をシメコロシ被申候。奈良口ニ串ニサシテ置被申由」(『二条宴乗記』永禄十三年二月廿二日条)

 久秀は筒井党の国人衆から取った人質を「久クロウニ入」つまり長期間牢に入れ置いていたわけで、多聞山城内には人質を収容する牢屋があった模様である。また井戸氏の娘は処刑後に「井戸ノ城ノキハ」すなわち井戸城の際に晒していることから、井戸氏は在城していたものと考えられる。おそらく当時、井戸氏が何らかの理由で松永氏に背く動きを見せたか察知されたかして人質が処刑されたのであろう。
 その後、井戸城は三月下旬に松永方に攻め落とされて井戸氏は南方へ逃れており、四月には松永方の手により破却された(『多聞院日記』永禄十三年三月二十八日条、四月五日条)。ここに井戸氏は松永方から完全に離れたものとみなされる。

 島氏についても同様に人質を取られていたことが推測されるが、処刑などの記述は見あたらないことから、松永方に従順な態度を示していたのではないかと考えたい。また、辰市合戦前の記録に

「一 昨夜十城ヘ、嶋沙汰トシテ可有引入通ノ處顯現了ト云々、ウソ也、乍去雑説アル故ニ、廿九日歟ニ嶋ハ取退了ト云々」(『多聞院日記』元亀元年四月二十七日条)

と見えるが、別稿で述べる中坊氏の例を考え合わせると、元亀元年四月当時には島氏は筒井氏の配下には復帰しておらず、
松永方の立場から十市氏の引き込みを図ったとの解釈も可能であろう。ちなみに十市氏は当時、家中が筒井派と松永派に分かれて内紛状態にあった。

 これらのことから左近本人はともかく、島氏は少なくとも久秀の侵入~辰市合戦までの間、松永方にあって筒井氏とは別行動をしていたと考えられ、そういった豊前守清国の態度を良しとしない息子の「庄屋」が乱入に及んだとすると、先述の内紛の説明は一応できる。

 久秀の筒井氏攻略は、当時あと一歩のところまで進んでいたようである。しかし国人衆の完全掌握は果たせず、辰市合戦で筒井氏に大敗した後は斜陽の一途をたどることになる。
 

「平群谷の驍将 嶋左近」

2011-06-07 20:43:34 | 戦国ロマン
You're the th visitor.  Last Update Jan. 25 2009
 
写真:島左近ゆかりの地・大和平群谷上庄北城跡と通称ソブソブ薮周辺(奈良県生駒郡平群町)

 

 

  ★☆★ 「平群谷の驍将 嶋左近【改訂版】」刊行! ★☆★ NEW!!
 
☆★☆ 共通掲示板「戦国大和Forum」設置 ☆★☆
 
★☆★ 新説!島氏は久秀の支配下にいた! ★☆★
 
☆★☆ 新発見!不詳の人「豊前守」判明! ☆★☆
 
漫画と文章で綴る「筒井順慶の生涯」好評発売中
 




大和の国人・島氏 筒井家から石田家へ
左近の消息と墓 左近の終焉


連載開始にあたって 謎多き島左近
検証・対馬出自説 検証・近江出自説
大和島氏の起こり 上庄城と曾歩々々氏
椿井氏と島氏 激動の大和と島氏
南山城と島氏 苦悩する大和国人衆
左近出生の謎(1) 左近出生の謎(2)
「庄屋」は左近か 松永久秀との激闘(1)
松永久秀との激闘(2) 平群谷への復帰
筒井順慶の死 筒井家を去る
石田三成のもとへ(1) 石田三成のもとへ(2)
検地奉行を務める 佐和山城と百間橋
風雲急を告げる 劣勢の西軍
岐阜城陥落 杭瀬川の戦い
西軍、関ヶ原へ 決戦・関ヶ原
左近被弾す 新吉信勝の戦死
関ヶ原に散る


新説!! 久秀支配下の島氏 新発見!! 「豊前守」の正体
新説!! 北庵法印と「亀山」(1) 新説!! 北庵法印と「亀山」(2)
発見!! 島左近母の位牌 SCOOP!! 島左近の遺品


考証・茶々逆修 考証・左近灯籠
元の黙阿弥 左近関連の説明板
島左近関連人物列伝1 島左近関連人物列伝2
島左近関連逸話集1 島左近関連逸話集2
島左近関連逸話集3 島左近略年表
戦国大和Forum (共通掲示板) NEW!! 参考文献