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2011-05-31 17:17:40 | 戦国時代考証
家康最大の危機 「神君伊賀越え」考
織田信長が本能寺に消えた天正十年六月二日のこと。上方に遊んでいた徳川家康は変の報を受け、「伊賀越え」と呼ばれる生涯最大とも言える危機に直面する事は有名です。ここでは家康が通過したと思われる地の写真画像を交えてその足取りを追っていきますが、このルートには諸説あり、現在も特定されてはいません。従って、以下の内容はあくまでも管理人の私見としてご覧下さい。


 


「伊賀越え」とは

 天正十年六月二日早暁、京都本能寺に宿泊していた織田信長は、その重臣明智光秀に襲われ四十九年の人生を終えた(本能寺の変)。これに先立って上方を遊覧していた徳川家康は、この日信長への御礼言上のため堺の松井友閑屋敷を発って京都へ向かっていたが、河内飯盛山付近でこの変報に接した(場所には異説あり)。

 この時点で家康に同行していた面々は、軍勢もなく平服ではあったが、酒井忠次、石川数正、本多正信、本多忠勝、榊原康政、井伊万千代(直政)、天野康景、大久保忠佐・忠隣、高力清長、服部半蔵、渡辺半蔵、鳥居忠政、長田伝八郎(永井直勝)等という、徳川ファンが見れば垂涎ものの錚々たるメンバーであった(異説あり)。これに、信長から案内役として付けられた長谷川秀一(竹丸)、家康に従ったばかりの駿河江尻城主穴山梅雪、京都から急ぎ変報を届けてきた茶屋四郎次郎清延がいた。

 家康は報せを聞き驚愕、やがて「弔い合戦をしたくてもこの人数、土民の槍に掛かって果てるよりは京都知恩院に入ってそこで腹を切ろう」と一旦は死を決意するが、本多忠勝が一人反対して「信長公への報恩は、何としてでも本国へ戻り、軍勢を催して明智を誅伐すること」と力説、家康はじめ一同もこれに同意したと伝えられている。

 さて帰還についての相談となったのだが、一丸となって行動するかと思いきや、穴山梅雪主従十二名は別行動を取った。そこで家康は梅雪に別れを告げ、一路三河へと急ぎに急いだのだが、この家康の三河までの苦難の道中のことを世に「神君伊賀越え」と呼ぶ。なお、梅雪は家康一行の後で木津川にさしかかったが、草内渡し付近で土民の襲撃を受け落命することになる。

 それでは、家康一行が梅雪らと別れてから三河へ至るまでの道筋を一つのコースとして設定し、現地の風景写真などを織り交ぜてご紹介していこうと思う。スタート地点は河内飯盛山西麓である。

戦国主要事件&生没年表・天文年間

2011-05-31 16:54:26 | 戦国時代考証
戦国主要事件&生没年表・天文年間天文元年(1532)~天文二十三年(1554)「*」印は閏月を、「(?)」印は不確かな情報を表します。

 

年次 地域 主要合戦・事件等 誕生 死去
天文元
1532
6
7
和泉
大和
堺公方府崩壊
大和天文一揆
大久保忠世・宗義調・水野長勝・村上武吉・ルイス=フロイス・和田惟政 金春禅鳳(能役者)・柴屋軒宗長(連歌師)・三好元長
天文2
1533
7
8
安房
安芸
稲村城の戦い
可部横川の戦い
朝倉義景・有馬則頼・井戸良弘・伊東長久・井上清秀・大村純忠・小早川隆景・海北友松・カブラル・島津義久・瑞龍院日秀・大道寺政繁・谷忠澄・村上武吉・師岡一羽 里見実堯・宗碩(連歌師)・徳大寺実淳・正木時綱・薬師寺国長
天文3
1534
4 豊後 勢場ヶ原の戦い 織田信長・石川家成・石巻康敬・小田氏治・蒲生賢秀・猿渡信光・瑞龍院日秀・千秋季忠・蜂屋頼隆・細川藤孝・村田宗殖・結城晴朝 宇喜多能家・寒田親将・吉弘氏直
天文4
1535
8
8
12
甲斐
甲斐
尾張
万沢口の戦い
山中の戦い
守山崩れ
荒木村重・井伊直親・石川数正・江馬輝盛・加藤順政・島津義弘・丹羽長秀・吉田兼見・和久宗是 足利高基・勝沼信友・筒井順興・松平清康
天文5
1536
-
6
畿内
駿河
天文法華の乱
花倉の乱
足利義輝・荒木元清・池田恒興・大村由己・九戸政実・近衛前久・佐々成政(?)・島津義虎・諏訪頼忠・南光坊天海・禰寝重長・土方信治・宮部継潤(?)・三好政勝・柳沢元政・山岡景友・和田(小里)光明・渡辺清 今川氏輝・玄広恵探・長尾為景(?)・福島正成・細川晴国
天文6
1537
7
12
 
武蔵
信濃
 
河越城の戦い
海ノ口城の戦い
(同五年説あり)
豊臣秀吉・足利義昭・天野康景・板部岡融成(岡江雪)・大久保忠佐・奥平貞能・加藤光泰・真田信綱・島津歳久・清水宗治・下間頼廉・建部寿徳・疋田景兼・松下之綱・水野忠分・木食応其・吉江資堅 上杉朝興・三条西実隆・田代三喜
天文7
1538
2
10
武蔵
下総
葛西城の戦い
国府台の戦い(1)
足利義栄・安国寺恵瓊・今川氏真・梶川一秀・斉藤利三・佐久間信直・新庄直頼・武田義信・鍋島直茂・北条氏政・本多正信・前田利家・森好久・安田顕元・山田勝盛 愛洲移香斎・足利義明・京極高清・下間頼秀
天文8
1539
1
10
薩摩
播磨
加世田城の戦い
英賀城の戦い
稲垣長茂・今出川(菊亭)晴季・五代友喜・島井宗室・長宗我部元親・坪内利定・鳥居元忠・長谷川宗仁・長谷川等伯・蜂屋貞次・本庄繁長・前田玄以 陶興房・諏訪頼満・龍造寺胤久
天文9
1540
6
9
三河
安芸
安祥城の戦い
吉田郡山城の戦い
尼子義久・大内義長・小山田信茂・木曽義昌・小出秀政・小堀政次・島左近(?)・長綱連・津川義近・鳥居勝商・北条氏照・丸目長恵・三木(姉小路)自綱 松平(安祥)長家
天文10
1541
5
5
7
安芸
信濃
陸奥
銀山城の戦い
海野平の戦い
天文の乱
足利義氏・穴山信君・白河義親・柘植与一・豊臣秀長・北条氏邦・水野忠重・山吉豊守・結城義親・遊佐盛光(?) 尼子経久・尼子久幸・武田信重(安国寺恵瓊の父)・北条氏綱
天文11
1542
3
3
7
8
9
信濃
河内
信濃
三河
信濃
瀬沢の戦い
太平寺の戦い
桑原城の戦い
小豆坂の戦い(1)
宮川の戦い
徳川家康・伊藤実信・猪子一時・岡部正綱・岡本良勝(?)・上林久茂・吉良氏朝・九鬼嘉隆・兼松正吉・菅沼定盈・茶屋四郎次郎(清延)・築山殿・柘植清広・中川清秀・成田氏長・服部半蔵・平岩親吉・保科正直・三好義興・山岡景友・渡辺守綱 浅井亮政・木沢長政・諏訪頼重・千葉喜胤・長尾為景(?)
天文12
1543
5
7
8
8
出雲
土佐
薩摩
三河
元就七騎落ち
大野見の戦い
鉄砲伝来
三木城の戦い
朝日姫・一条兼定・宇都宮広綱・織田信包・狩野永徳・木下家定・香宗我部親泰・真田昌輝・菅沼定盈・滝川雄利・保科正直・堀尾吉晴・本願寺顕如・西尾光教・松永久通(?)・村井長頼・山科言経 池坊専応・大内晴持・国枝重光・小早川正平・水野忠政・吉田重賢・渡辺通
天文13
1544
8
9
11
上総
美濃
信濃
苅谷ヶ原の戦い
稲葉山城の戦い
福与城の戦い
安藤直次・岡本良勝(?)・越智家高・梶原政景・勧修寺晴豊・相良義陽・竹中重治・伊達輝宗・妻木貞徳・徳山則秀(秀現)・延沢満延・古田重然・山上宗二・山岡重長 武田朝信
天文14
1545
1
1
4
5
8
9
肥前
肥前
信濃
山城
駿河
三河
藤津の戦い
佐嘉城の戦い
福与城の戦い
宇治の戦い
狐橋の戦い
清田畷の戦い
秋月種実・浅井長政 ・板倉勝重・上井覚兼・大久保長安・織田信治・高木貞家・畠山昭高・北条氏規・増田長盛・宗像氏貞・山内一豊(?)・山口宗永(政弘)・山中幸盛・湯浅直宗・六角義治 佐竹義篤・谷宗牧(連歌師)・十市遠忠・徳大寺実通・畠山稙長・畠山義総・馬場頼周・妙玖(毛利元就室)
天文15
1546
4
5
8
武蔵
信濃
武蔵
河越夜戦
内山城の戦い
松山城の戦い
秋元長朝・出浦盛清・稲葉貞通・氏家行広・遠藤胤俊・小笠原貞慶・織田信時(信直)・黒田孝高・新発田重家(?)・水原親憲・千道安・武田勝頼・長連竜・津田秀政・内藤家長・内藤信成・長野業盛・南部信直・細川昭元(?)・最上義光(?)・山内一豊(?) 上杉朝定・小野寺惟通・黒田秀忠・相良義滋・鷹司忠冬・山中満幸・龍造寺家兼
天文16
1547
*7
9
10
11
信濃
美濃
山城
尾張
志賀城の戦い
加納口の戦い
内野の戦い
古渡城の戦い
浅野長政・阿多盛淳・石丸有定・小笠原信嶺・織田長益(?)・お市の方・吉川経家・佐竹義重・真田信尹・真田昌幸・新発田重家(?)・島津家久・伴盛兼・伏見宮貞康親王・芳春院(まつ)・堀直政・山崎片家・山中長俊 笠原清繁・黒川隆尚・土岐頼純(政頼)・松平忠倫
天文17
1548
2
3
4
7
信濃
三河
三河
信濃
上田原の戦い
小豆坂の戦い(2)
明大寺の戦い
塩尻峠の戦い
一条内基・遠藤胤基・大崎義隆・川口宗勝・高台院(おね)・斎藤龍興・榊原康政・島一正・西笑承兌・相馬義胤・高橋紹運・田中吉政・百々綱家(安信)・野一色助義・林崎重信(剣豪)・保春院・本多忠勝・松前慶広・溝口秀勝・皆川広照・山名豊国 朝倉孝景・池田信正・甘利虎泰・板垣信方・松平信孝・龍造寺胤栄
天文18
1549
5
6
8
11
大隅
摂津
薩摩
三河
黒川崎の戦い
江口の戦い
キリスト教伝来
安祥城の戦い
赤井忠家・氏家行継・朽木元綱・酒井重忠・島津忠俊・筒井順慶・花房職秀・堀内氏善・松平重勝・松浦鎮信・曲直瀬玄朔・三好義継・茂庭延元・山内康豊・山田有信・留守政景 一条房基・荒木田守武(連歌師)・高畠長直・松平広忠・三好政長
天文19
1550
2
7
10
11
豊後
安芸
信濃
山城
大友二階崩れ
井上党粛清
戸石崩れ
中尾城の戦い
伊那忠次・遠藤慶隆・大岩重秀・斎藤勝秀(剣豪)・島津以久・津軽為信・丹羽氏次・細野藤敦・堀田一継・松井康之・真壁氏幹・由良国繁 足利義晴・井上元兼・上杉定実・大友塩市丸・大友義鑑・吉川興経・清原宣賢・斎藤長実・筒井順昭・横田高松
天文20
1551
8
9
10
周防
周防
信濃
陶晴賢の乱
大内義隆自刃
平瀬城の戦い
青木一重・青山忠成・神屋宗湛・島津忠長・下間仲孝・大宝寺義氏・田手宗時・土岐定政・富田長繁(?)・穂田(毛利)元清・水原茂親・三好義継 大内義隆・大内義尊・織田信秀・小見の方・黒川隆像・相良武任・三条公頼・島津忠広・杉興運・二条尹房・二条良豊・貫隆仲・遊佐長教・冷泉隆豊
天文21
1552
4
8
11
尾張
尾張
上総
赤塚の戦い
萱津の戦い
椎津城の戦い
伊丹親興・稲富祐直・今井宗薫・大木兼能・黒川盛治・誠人親王・仙石秀久・専当安家・高山右近・武田元明・多羅尾光太・西洞院時慶・松平康元・分部光嘉 大井夫人・小山田昌辰・肝付兼演・鷹司兼輔・武田信政・長尾房長・フランシスコ=ザビエル・細川持隆(?)・六角定頼
天文22
1553
4
7
7
9
信濃
安房
尾張
信濃
葛尾城の戦い
金谷城の戦い
安食の戦い
川中島の戦い(1)
尼子勝久・石野氏満・上杉景虎(?)・大久保忠隣・神屋宗湛・衣笠景延・桑山重晴・国分盛重・白石宗実・瀬上信康・新納長住(旅庵)・二本松(畠山)義継・土方雄久・一柳直末・平手汎秀・堀秀政・三好長治・村上元吉・毛利輝元 伊丹総堅・一万田鑑相・内藤国貞・長尾晴景・平手政秀・細川持隆(?)
天文23
1554
1
9
10
11
11
尾張
安芸
大隅
出雲
播磨
村木城の戦い
折敷畑の戦い
岩剣城の戦い
新宮党粛清
明石城の戦い
安藤直次(?)・安楽庵策伝・石川康通・井上之房・今枝重直・上杉景虎(?)・小河信章・可児才蔵・桐山丹斎・斎藤信利・佐久間盛政・角倉了以・十河存保・富田重政・本多康重・三好房一・脇坂安治 尼子国久・尼子敬久・尼子誠久・以天宗清・菊池義武・河野続秀・斯波義統・諏訪御前(?)・内藤興盛・細川元常・本願寺証如・宮川房長

記年表で見る戦国期

2011-05-31 16:28:10 | 戦国時代考証
年表で見る戦国期


戦国期には全国各地で非常に多くの大小の合戦が、それこそ毎日のように行われていました。例えば桶狭間の合戦は1560年に起こっていますが、これは戦国ファンの皆さんなら誰でも知っていると思います。
そこで、このコーナーでは少し趣向を変え、戦国期の主要合戦・局地戦や重大事件などについて、当事者の行動などを前後の日付で追うと同時に、その時期に全国ではどんなことが起こっていたのかがわかるよう、日付まで詳細に記した年表形式でご覧いただこうと思います。
なお、年表の日付については資料ごとに異なるものが数多くあり、当年表によって史実の断定を行うものではありませんので、その点は予めご了承下さい。


※ノミネートされた主要合戦・出来事
出来事 日付 場所 当事者
河越夜戦 1546年4月20日 武蔵河越城 北条氏康・綱成 vs 扇谷・山内両上杉、足利晴氏連合軍
厳島の合戦 1555年10月1日 安芸厳島 毛利元就 vs 陶晴賢
桶狭間の合戦 1560年5月19日 尾張田楽狭間 織田信長 vs 今川義元
第4次 川中島の合戦 1561年9月10日 信濃川中島 上杉謙信 vs 武田信玄
姉川の合戦 1570年6月28日 近江姉川 織田・徳川連合 vs 浅井・朝倉連合
三方ヶ原の合戦 1572年12月22日 遠江三方ヶ原 武田信玄 vs 徳川家康
長篠の合戦 1575年5月21日 三河長篠設楽原 織田・徳川連合 vs 武田勝頼
本能寺の変
山崎の合戦
1582年6月2日
1582年6月13日
京都本能寺
摂津山崎
明智光秀 vs 織田信長
羽柴秀吉 vs 明智光秀
小田原攻め 1590年7月5日開城 相模小田原城 豊臣秀吉 vs 北条氏政・氏直
関ヶ原の合戦 1600年9月15日 美濃関ヶ原 徳川家康東軍 vs 石田三成西軍
大坂の陣 1614年11月15日~
1615年5月8日
摂津大坂城周辺 徳川家康 vs 豊臣秀頼

根来衆とは

2011-05-31 15:41:04 | 足軽の階級
根来(ねごろ)衆と津田監物
紀州根来(現和歌山県那賀郡岩出町)には1140年高野山からこの地に移った興教大師が開基した根来寺があり、僧兵を中心とした武力を持つ津田監物一族がいました。ここでは根来衆と津田監物一族に少し触れてみることにします


根来衆とは
 写真は戦火から残った国宝・根来寺大塔
  根来衆の本拠・根来寺は上にも少し書いたように、1140年に高野山からこの地へ移った興教大師覚鑁(かくばん)上人が開いた。葛城連峰の懐にある36万坪の広大な敷地に建てられた、新義真言宗三大道場の一つとして知られる名刹である。現地に足を運ぶとわかるが、複雑に入り組んだ石垣などもあり、寺というよりどこか「要塞」といった感じを受ける。

 戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大寺院の勢力が強かったため、守護畠山持国の力が衰えた後、紀州全体を統治する戦国大名は出現しなかった。そのため各土豪たちが惣を作って割拠するという、甲賀や伊賀と似た状況下にあった。紀北地方の根来では根来衆と呼ばれる武装集団がいたが、その中心として活動したのが津田一族である。

 さてこの根来衆、その組織はどうなっていたのかというと、大きく分けて学侶(がくりょ)方と行人(ぎょうにん)方に分かれる。学侶方は読んで字のごとく仏道に深く帰依し学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。つまり僧兵武装集団・根来衆はこの根来寺行人方のことである。
 根来寺には杉ノ坊・岩室坊・泉識坊(せんしきぼう)などの多数の子院があり、中でも最大の勢力は前述の津田明算率いる杉ノ坊であった。しかしこれらの根来衆は一枚岩ではなく、雑賀衆とも深くまた複雑な関係があったようである。例えば泉識坊の門主は雑賀衆の重鎮・土橋平次であったり、石山合戦時にも各勢力ごとの利害に応じてあるときは織田方に、またあるときは本願寺方にと雑賀衆を含めて複雑な動きをしたため、傭兵集団として見られるようになったのであろう。

 傭兵集団としての根来衆は、1585年の秀吉の紀州攻めをもってその終焉を迎える。最後の最後まで根来衆を率いて秀吉勢に抵抗して悩ませた末、ついに同年3月21日、その大軍の前に力尽きて増田長盛に討たれた杉ノ坊照算(しょうさん)は、監物算長の二男で砲術自由斎流の祖として知られる津田自由斎その人である。


津田監物について

 この根来津田一族は、河内国交野郡津田城主で楠木正成の末裔を自称する、津田周防守正信の長男算長(かずなが)が監物丞を称して根来小倉荘に居を構えたことから起こった。なお「算長」を「さんちょう」と読む場合もある。また、この通称「津田監物」は世襲されており、算長の嫡子算正や次男照算、孫の重長も「津田監物」を称しているようだ。ところで、これには算長が杉ノ坊覚明の弟であるとする異説もあるのだが、ここは現地根来にある岩出町民俗資料館の見解を採用させていただくことにする。

 さて、津田監物算長は鉄炮の製造に成功した後、根来衆の中心的統率者として存在し、世上に名高い砲術津田流の開祖となり、永禄11(1568)年12月22日に69歳の生涯を閉じる。なお算長の弟で前述の杉ノ坊明算はこれに先立つ永禄元(1558)年に歿しているので、津田流は算長の2人の子算正と照算に引き継がれ、照算は独自の工夫をこれに加えて砲術自由斎流を興し、天正十三(1585)年の秀吉による紀州攻めまでの間、杉ノ坊ひいては根来衆全体の統率者として存在した。

 なお、砲術流派はこの津田流の後、程なく稲富祐直一夢による稲富流の出現とともに各地に順次発生してくるのだが、中でも田付兵庫助景澄の田付流、井上九十郎外記正継の外記流(井上流)、米沢藩の丸田九左衛門盛次の霞流、関八左衛門文信の関流などが著名である。

鉄炮伝来

2011-05-31 15:30:34 | 戦国時代考証
鉄炮の伝来と伝播
1543年に種子島に伝わった、たった2挺の鉄炮が戦国期の合戦をやがて大きく様変わりさせました。ここでは鉄炮伝来時の状況と、それをいち早く戦力の中心に取り入れて活躍した紀伊の土豪達について少しご紹介します。
鉄炮伝来

 写真は紀伊国の中心・和歌山城
  戦国中期までは、力量に優れた侍大将同士が「やあやあ、我こそは・・・」と大音に名乗りを上げ、華々しい一騎討ちを行うといったような戦いが多かったようだ。しかし鉄炮という新兵器の出現でそれは大きく変わった。ご存じのように世上に名高い「長篠合戦」では、天下無敵の武田騎馬軍団が織田・徳川連合軍の三千挺の鉄炮隊の前に、無謀な突撃を繰り返して全滅に近い敗北を喫してしまう。
 また織田信長の全盛時と言っても良い時期に行われた石山合戦では、その織田軍が本願寺の鉄炮隊の前には塀ひとつ崩すことさえ出来なかったのである。ではその「鉄炮」なるもの、どのように我国に伝わってきたのだろうか。

 天文12(1543)年8月25日、大隅種子島の南端・西之村の小浦という所に、100人ほどの南蛮(ポルトガル)商人の乗った一隻の船が強風により漂着した。代官より報せを受けた島主の種子島時堯(ときたか)はこれを赤尾木湊に曳航させ船主と会ったところ、乗組員の中にいた商人が見慣れぬ鉄の棒(鉄炮)を持っているのを見つけた。
 言葉は通じなかったが、これが欲しくなった時堯は乗組員の中に五峰という中国人がいたことから彼を通訳として筆談で話を進め、高価にもかかわらず二挺の鉄砲を購入したという。ともあれ、こうして二挺の鉄砲が種子島時堯の手に入り、彼はこれを「稀世の珍宝」として家宝にしたという。これが鉄炮伝来の瞬間であった。

鉄炮の伝播

 当然の事ながら種子島時尭は自領で鉄砲の複製を造ろうと考え、刀鍛冶・八板金兵衛清定と篠川小四郎にその製法や火薬調合法を学ばせ、ついに1545年複製に成功した。これが国産の鉄炮第一号である。
 そしてこれをいち早く聞きつけて行動に移した二人の人物がいた。一人は後述する紀州那賀郡小倉荘領主の津田監物算長(かずなが)、もう一人は堺の商人橘屋又三郎である。津田監物は直ちに種子島に渡って二挺のうちの一挺を入手、また橘屋又三郎は自身現地の八板金兵衛のもとに弟子入りしてその製法技術を持ち帰ったという。つまり鉄炮は、本州ではまず紀州根来と泉州堺に伝播したわけである。

 根来に鉄炮を持ち帰った津田監物は、ただちにこれを根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門妙西に複製を命じ、1545年に紀州第一号の鉄炮が誕生したという。そして監物の弟で根来寺の子院「杉ノ坊」の院主である津田明算(みょうさん)に命じて武装化を進めていった。これが鉄炮傭兵集団・根来衆の発祥となる。
 堺では橘屋又三郎が鉄炮の製造に着手、後に「鉄炮又」と呼ばれる大商人となる。また上記根来の芝辻清右衛門が後に堺に移住したこともあり、堺は一大鉄炮生産地として知られるようになる。

 もうひとつ、鉄炮といえば近江坂田郡国友村の存在を忘れるわけにはいかない。この国友村でも1544年2月、将軍足利義晴が管領細川晴元を通じて国友村の鍛冶善兵衛に鉄炮の制作を命じ、半年後に二挺の鉄炮を献上させたと伝えられているが、これはどうも信憑性に欠けるというか疑問点がある。
 というのは当時の国友村は浅井氏の領内にあり、ほとんど無力化している足利将軍義晴から当主の浅井氏を通さずに国友村に直接命令を下すことなどあり得ないと思われるからである。
 しかし国友村はやがて織田信長の武将であった長浜城主羽柴秀吉が、国友藤二郎なる人物を抜擢して国友河原方代官に任命することにより、織田政権下において鉄炮の一大生産地として機能していくようになる。これが事実上の国友村の鉄炮生産地としての発祥ではないかと思うのである。

 各地の発祥はどうであれ、鉄炮は次第にその数を増し、中央では石山合戦から長篠合戦へと本格的な「鉄炮戦」の時代を迎えることになる。