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カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説 作者:春野一人

2011-07-24 22:49:11 | 戦国時代考証

 カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

47 書記に書かれた、継体王の婚儀
 継体王は大伴金村大連《おおとものかなむらおおむらじ》を大連とし許勢男人大臣《こせのおひとおおみ》を大臣とし物部麁鹿火(もののべのあらかい)大連を大連とし、すべて元のとおりとした。
 十日に大伴の金村大連が王に奏上する。「臣が聞きますには、代々の帝《みかど》が世を穏やかに治めるには皇太子、後宮の事が定まっていなければならないといいます。清寧《せいねい》王(白髪の王)は世継ぎがいませんでした。それで私の祖父、大伴の大連室屋(むろや)は王の名を残すために郡《くに》ごとに三種の白髪部《しらかべ》(雑役、食僐、警備の三種の仕事をする白髪名を冠した部門)を置きました。これは痛ましいことでありました。ご了承して頂きたいのは手白香皇女《てしらかひめみこ》を后《きさき》として立てるために使者を遣わしていただき、民意にそうと言うことです」
 王はおっしゃられた。「使者を立てることを許す」と。

 三月一日 継体王は詔《みことのり》(王の命令を伝える文書)を発した。「天の神、地の神を祭るには神主が居なくてはならず、天下を治めるには君主がいなくてはならない。天は人民、田畑の財を守らせるために王を持ってなし、それを助け養うことを司《つかどら》した。大連は子のない事を憂えて、私の代ばかりではなく代々誠心誠意国の為につくした。礼をつくして手白香皇女をお迎えに行きなさい」と。

 三月五日 継体王は皇后に手白香皇女を立てた。婚儀を行った。

【序】桶狭間の戦いの研究史

2011-06-24 22:08:12 | 戦国時代考証

【序】

 

  1. 桶狭間の戦いの研究史  (2008.08.10~、2010.0618改訂)
  2. 『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論の問題 (2007.12.12 追加分を移行、2010.06.18改訂)
  3.   (2009.03.27 追加分、2010.06.18改訂)    

   

(1)桶狭間の戦いの研究史  (2008.08.10~、2010.06.18改訂)

後に天下を獲る信長が世に出る契機となった桶狭間の戦いに対する学術的な興味は、今川義元の征西した目的に尽きるのだが、それも後に信長が天下を獲ったことに関連して、義元も上洛の意図があったのではないかと思われたことにある。
これに対して、世間の興味は小兵力で大敵を打破った痛快さがあるため、常に信長の勝利の「Howe to」に向けられてきた。
しかし、歴史学会は長く戦史の研究には関心を示してこなかったため、明治期に創成国軍の将校育成を目的に編纂された、日本戦史の叙述を無批判に受容してきた。この明治国軍による桶狭間の戦いの研究は、先進列国に日本が勝利するための必須戦術として、「迂回による奇襲」の可能性を常に模索すべきことを、将校に教育するために編まれたものである。
ところが、1982年に『歴史読本』誌上で藤本正行氏によって「異説・桶狭間合戦」として、学術的に取り扱うべき一方法が提言され、それによると世間に喧伝された迂回奇襲説は成立しえず、正面攻撃でなければならないとした。しかし、論争らしい論争は起こらず、一方的に藤本正行氏が自説を繰り返すだけで推移してきた。それが、藤本正行の『信長の戦国軍事学』(宝島社・1993)や、その後改題して出版された『信長の戦争』(講談社)により、これもさしたる論争もなく氏の正面攻撃説は広く受け入れられるようになった。従って、最近では、藤本氏の「正面攻撃説」に反論を唱えられることはないのだが、如何せんこの藤本氏の説では、合理的に信長が勝利でき義元が討死したことを説明できないため、未だに終結を見ていない。
藤本正行氏の功績は、桶狭間合戦に関しての一次資料は殆どなく[1] 、歴史家の検証に応えられる記録史料は『信長公記』しかないということを思い出させたことにあり、その方法論は正しいものである。ところが肝心の牛一は、「来た。見た。勝った」[2]としか書いていない。それだから、信長は正面から攻撃して勝ったと言えるのだが、それだけでは誰も納得していない。納得するには彼我の兵力差があまりに大きすぎるからである。そして、『信長公記』も藤本氏の一連の著述もその兵力差[3]をいかにして解消したかについて、合理的な説明を欠いているからである。おまけに、今川義元が千秋・佐々らとの前哨戦を観戦できる山上にいたらしいうえ、その山の麓は深田で進退困難な節所であるというのに、信長勢は易々と義元本陣に迫れたという地形上の問題[4]についても、何の説明もないのである。
誤解をするといけないから、紹介しておくが、藤本氏はちゃんと桶狭間の勝敗の原因について考察されている。その藤本氏の義元敗因とは、「義元が矛盾する二つの目的を持っており、それに優先順位をつけていなかった」ことにあるとされ、それはミッドウェー海戦の日本海軍機動部隊の失敗と同型であるとされている。ミッドウェーでの日本海軍機動部隊は、本来は敵機動部隊を誘致してこれを補足撃滅することが目的であったのだが、索敵に失敗していたために、本来は餌にしていたはずの第二目的を主目的に切り替えてしまうという失策をしでかしたのである。その様な行動をとった背景である経済的な原因は、当時の日本の国力が再度の作戦を許さなかったことにある。それだけでなく、敵が罠に掛るまでじっと待つという事は、日本軍には陸軍も海軍も許されてはいなかったのである。ここに、当時の日本軍人全ての行動を深層で規定するものがあった。旧帝国軍人には一切の余裕はなかった。しかし、通説によるかぎり、今川義元には十分な時間も兵力もあったはずなのである。
ところで、藤本正行氏の主張のうち、(1)義元本陣は高所にあった。(2)信長は正面から攻撃した。という二点については、現在反対する論者はいない。しかし、藤本氏のいわれるように、『信長公記』を一級史料として認めたとしても、牛一の記述が簡潔な文章であり、地形に固有名詞の存在しない地域で戦われたため、そこにある事実は余りにも少ない。従って、戦いの地理的な推移は想像するしかないのだが、信長の勝因・義元の敗因には、一般に納得できる合理的な解釈が提示できないでおりそこから藤本氏が導き出した内容についても、未だに追試・再検証されていないという問題がある。
現在、藤本氏の方法論は広く受け入れられているものの、藤本氏が漠然と示唆した桶狭間合戦の解釈は、到底受け入れられるものではなく、現在は、(1)小和田哲夫氏の『桶狭間の戦い・信長会心の奇襲作戦』(学習研究社・1989)による正面奇襲説、(2)谷口克広氏の『歴史読本・10.06』の東海道上合戦説は牛一の記述する方角に対して整合性を得ようとして唱えられた説である。(3)同様に、牛一の記述する「東」に呪縛された結果、桶狭間山を桶狭間村から離れた場所に求めたものに、藤井尚久氏の高根山説・漆山説、藤本正行氏の高根山説。(4)参謀本部の迂回説を踏襲したものに梶野渡氏の釜ヶ谷待機説、橋場日月氏の鎌倉街道説、江畑英郷氏の飢饉説などがある。その他、(5)黒田日出男氏の乱捕状態奇襲説や桶狭間山西方の道なき丘陵地帯を踏破するもの、側背から攻撃するための迂回を提示したり、水野信元や徳川家康の裏切りを主張するという説まで存在する。
また義元の西上目的も大きな謎である。久保田昌希氏が『駿河の今川氏(1978)で上洛説に疑問を呈し、『歴史と人物・s56.08』(1981)で三河一国の完全支配尾張への領土拡大のための軍事行動だったと主張された。その後、小和田哲夫氏が『戦国今川氏』(静岡新聞社・1992)で尾張制圧説を唱え、藤本正行氏が『信長の戦国軍事学』(宝島社・1993)で鳴海・大高城後詰の単なる国境紛争を主張して上洛説を否定したことにより、現在では上洛説を採る研究者はいないが、義元の西征目的については未だに決着を見ていない。
現在、桶狭間合戦に対して問題とされているものには、(1)少数の信長が大軍の義元を正面攻撃で討ち破れた理由。(2)『武家事記』の言いだした簗田出羽守の情報と褒賞(沓掛城)は真実か。(3)千秋・佐々らの無謀な突撃の理由は何か。(4)水野信元の行動は如何様であったか。その他、(5)両軍の兵力と、それに関連して、丸根・鷲津砦攻撃を行った部隊は松平元康隊以外にはいなかったのか。(6)義元本陣に関連して桶狭間山の位置。などがある。
これ等以外に、新たに浮上した問題は、『甲陽軍鑑』の史料価値の見直しを迫る黒田日出男氏の乱捕状態奇襲説の登場や、桐野作人『歴史読本2001.11』で尾瀬甫庵の記事は『天理本』を典拠にした可能性を示唆しておられ、これによって軍記物を含めた史料の取り扱いを見直す必要も考えなければなくなってきているだけでなく、歴史学者以外の研究者から、実証は欠くものの、義元の目的に関連して、伊勢湾海運の見直しを迫るものや、弘治・永禄初年の飢饉の影響などをも考慮すべしという提案もなされるに至っている。
  
(2)『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論上の問題 (2007.12.12 追加分を移行、2010.06.18改訂)
(イ)<地理情報の問題>  『信長公記』の記事が少ないのは確かなのだが、牛一が「書けなかった」のか。または、「書く必要がないほど自明なこと」であったのか。これらについては検証されていない。例えば、道は鳴海道(鳴海~桶狭間)の他には、鎌倉街道と近世東海道しかなかったならば、これは説明を要しないし、もともと地名がなくて説明できない場合も考えられるのだが、現在の研究者は中島砦から山際の間、および山際から信長の最初に接触した義元勢との間について、情報不足であると一様に感じている。これなどは、当時の地理情報からして牛一がそれ以上には書きようがなかったのだという立場に立って、冷静な解釈をする必要があると思われる。
一般の論者は、信長軍には、道が無かろうと、錯綜した丘陵地であろうと、何処でもお構いなしに踏破させてしまう傾向がある。そのうえ、所要時間という観念を欠いていることもあって、牛一が態々時刻を記載していることを無視してしまっているし、伊勢湾の潮の干満まで書いてあるのだが、その意味についても殊更には考えられてこなかった。戦場になった桶狭間山についても、特定できる固有名詞を持つ山が存在しないこともあって、無闇に想定範囲が広げられており、藤本氏は平子が丘辺りまでをその範囲におさめる[5]のだが、これらは、自身が主張される「牛一の地理に関する記載は正確である」という前提からすると、牛一が「戌亥に向って人数を備へ」と書くことを踏まえるならば、矛盾する結果になっているさらに現在では、中島砦の南にあたる漆山までをも「桶狭間丘陵」などと名付けることによって範囲が広げているものもある。また、方角に関する記載も藤本氏の主張に反して、一概に信用できるものではなさそうであり、改めての検証が必要だろう。
(ロ)<方法論の矛盾>  これ以外には史料がないのだから、真摯に扱わねばならない『信長公記』も、極めて恣意的に扱われる傾向がある。その最たる例が、藤本正行氏自身によってなされている。氏自身が一級史料として認めるべきだとした『信長公記』に記載された内容を、将に当人が恣意的に切り捨てた事実があるばかりでなく、現在に至るまでそれが看過されるのみならず、諸人は無批判に追随してきているのである。
これは、信長が中島砦から今川本陣に向かって将に出撃せんとしたときに麾下の将兵を鼓舞するために向かって行った演説[6]なのだが、藤本氏は「信長の思い込みによる誤認」と決めつけ、それに続いた多くの研究者も、信長の戦況誤認だとして片付けている。
『信長公記』を一級史料として扱う以上、最も重大な信長自身の判断を無碍に誤認だとして切り捨てる前に、それが正しいものとして真摯に受け取る姿勢が必要なのではないのだろうか。第一、信長の判断が間違いであったというような根拠は、『公記』の何処にもみられない。藤本氏の認識は、徹頭徹尾藤本氏自身の思い込みによるものでしかないように思われる。……この問題については、別に「信長の戦況判断」章で論じる。

常識でみる桶狭間合戦】

2011-06-24 21:38:36 | 戦国時代考証

桶狭間の戦いには、今川義元が沓掛城から出陣している限り、解決できない問題が数々生じます。そこで、発想を逆転させて義元が前日に大高城に宿営しており、当日は大高城から出陣していたとし、それを織田信長が信じられなかったとしたならば、納得できる筋書が描かれるはずです。信長が東海道を進撃しながら、なぜ後世からは迂回であったと言われるのか?桶狭間の戦いはどこにも作戦計画などはなく、全てが「成り行き」であったことがわかるはずです。我々はもっと『信長公記』や『三河物語』を熟読すべきなのではないでしょうか?

  • 桶狭間の戦いで鷲津砦・丸根砦攻撃を指揮したのは義元であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いでは、初め今川義元の本陣は漆山にあったこと・・・御存じでしたか?
  • 佐久間大学が伊勢湾の干満をいう理由や伊勢湾の干潮時刻・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦い当時、天白川は徒渉できたこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで千秋・佐々らが母呂後で討死したこと・・・御存じですか?
  • 桶狭間山は赤松の疎林であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦い当時、東海道はすでに準幹線道路であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで信長は情報戦を行わなかったこと・・・御存じでしたか?
  • 簗田出羽守が義元の所在を注進したというのは嘘だったこと・・・御存じでしたか?
  • 織田信長自慢の三間半の長柄鑓は寿命が短かかったこと・・・御存じでしたか?
  • 信長が大将ケ根から攻撃発起したのは正しいこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで駿河先鋒隊は既に撤兵を完了していたこと・・・御存じでしたか?
  • 大高城が飢えるには氷上砦・正光寺砦が必要なこと・・・御存じでしたか?
  • 水野十郎左衛門尉は刈谷城主・水野信近だということを御存じですか?
  • 桶狭間の戦い当時、伊勢湾や三河湾に水軍などなかったこと・・・御存じでしたか?
  • 三方ヶ原合戦での信玄の目的は、天竜川以東と奥三河の領国化でしかない。
  • 信玄は、上洛戦において、天竜川右岸を北上したりしてはいない。
  • 岩村城は秋山虎繁に攻めとられたのではなく、岩村城兵が自ら武田方へ寝返ったのである。
  • 長篠合戦は、あるみ原で戦われたのでも、設楽原で戦われたのでもない。強いていうなら連吾川の戦いが正しいのだろう。
  • 長篠合戦での攻め口は三か所しかなく、陣城は築かれなかった。

  最新改稿月日:2011年06月07  

”桶狭間の戦いと具足”(刀剣)に信長の脇差について読売新聞ニュースを採録しました


公開月日:2006年12月12日(原コンテンツの公開日)
旧版(biglobe)は、2007年03月21日に閉鎖しました。

Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9

御断り、 これは、推理の過程を現在進行形で叙述しているものでもありますから、結論から導かれて一貫した体系にはなっていません。そのため、極めて難解かつ解り難いものになっていますが、その点はご容赦ください。………できるだけ誤解をされないように書き改めるようにしますが、御急ぎの方は「真説・桶狭間の戦い」章をご覧いただければと思います。

 

  1. 国土地理院が試験公開している米軍の撮影した航空写真(本文中にも掲載)
  2. 450年前の合戦当日の伊勢湾の水位を推計し直し潮位表を掲載しました
  3. 天白川洪水ハザードマップ削除(代わりに国土交通省版にリンク
  4. その他一部に、電子国土ポータルをリンクしました。

 


戦国時代には非常に個性的な武将がたくさんいました。

2011-06-15 22:15:43 | 戦国時代考証

自由気ままに生きた武将 TOP3


戦国時代には非常に個性的な武将がたくさんいました。その中から自由気ままに生きた武将を3人紹介します。

第1位 前田利大(まえだ としおき)

 前田利大と書いてもピンと来ないかもしれないが、前田慶次郎、前田慶次なら歴史ファンならみんな知っているくらい有名な人物である。利太(とします)とする書もある。彼は前田利家の兄利久の養子であることから、一般的には利家の甥ということで知られている。彼はいわゆる「かぶき者」の最たる者で、いたずらの類の話は数多く伝えられている。そのうちの2、3を紹介しよう。

 彼は上杉家の直江兼続と親交があり、上杉家と伊達家との戦いに助っ人として駆けつけたのだが、そのとき背にした旗に「大ふへん者」と大書した。これを見た上杉家中の士が「大武辺者とは何事か、上杉家にも人はいる。助っ人のくせに上杉をなめるな」と怒った。これを聞いた彼は
「田舎者はこれだから困る。清濁を間違えてはいけない。私は遠くから駆けつけて来ているので土地勘もないし仲間もいない。大いに不便をしている。どうして『大不便者』と読まずに『大武辺者』と読むのか」
 これはもう人を喰ったとしか言い様のない問答である。

 また今で言う銭湯に入る際、鉄製の物を水や湯気にさらしていいはずはないのだが、脇差を下帯に差して入っていった。後から入ってきた無頼者の連中がこれを見て仰天し、あわてて自分たちの脇差しを取りに戻った。ここに奇妙な光景が現れた。湯舟にいる男たち全員の頭に脇差が乗せられているのである。しばらくして彼は湯舟を出ると脇差を抜き払った。一同に緊張が走る。
 さて次の瞬間、無頼者たちは唖然とした。彼の抜き払った脇差は竹光で、しかもそれを使ってまじめな顔で体の垢を丁寧にこそぎ落とし始めたのである。垢を落とし終わった彼は湯舟に戻ってこう言った。
 「いやあ、まことに気持ちがいい。さあさあ、みなさんも遠慮せずにどうぞ…」

 さらに、前田利家を招待した際に「いい湯加減です」と言って水風呂に入れて逃げ出したり、隠居して「ひょっと斎」と号したり、とにかくいたずら三昧の生活を気ままに楽しんでいたようである。そのくせ松風という世に知られた名馬を持ち、戦場では鬼神のごとく強かったという。先に述べた合戦や佐渡の本間一族との戦い、長谷堂城の戦いにも活躍している。

 晩年の彼の消息は分からない。親友の直江兼続とともに米沢に移りそこで没したとも、京で没したとも言われている。【画像は慶次の供養塔(山形県米沢市)】




第2位 鈴木重秀(すずき しげひで)

 鈴木重秀より雑賀孫一(孫市)と書く方が広く知られているだろう。ただ、雑賀孫一は伝説上の人物で重秀=孫一と言い切れるわけではないが、私はそう思っているので以後は孫一と書くことにする。
 紀州雑賀荘といえば鉄砲である。彼は鈴木佐太夫の子で鉄砲の名手として知られ、本願寺と織田信長が戦った際に石山本願寺に鉄砲隊を率いて籠もり、信長に反抗した。雑賀衆は傭兵である。金を出せば雇われていく。ただ、彼は信長が嫌いであった。信長も彼らの力量と利用価値は十分承知していたが、どうやら高圧的な態度で交渉に出たらしい。それで孫一は信長に徹底抗戦することにした。

 本願寺の坊官にも鉄砲の達者下間一族がいた。加賀の七里三河(頼周)、長島願証寺の下間頼旦なども信長に徹底抗戦した。彼らが鉄砲に長じたのも孫一ら雑賀衆の影響があったのではないか。
毛利氏にも援軍を頼み、村上水軍の力も借りて長期にわたって本城を守った。孫一の指揮する鉄砲隊の前にはいかな信長でも退却をせざるを得なかったのだ。
 さらに孫一は騎馬鉄砲隊なるものを考案し、後にこれが伊達家に伝えられたとされているようだが、石山本願寺の攻防ではそれが使われた記録はない。彼の記録にははっきりしたものが少ない。羽柴秀吉と交わりがあったとする書もあるが、これもわからない。

 性格的には放浪癖があったようで、この点では上記の前田利大と似ている。鉄砲の達人として後世に伝えられている人物といえば、私の知るところでは孫一と稲富祐直、滝川一益、信長を狙撃した杉谷善住坊くらいであろうか。もちろん父の佐太夫や兄の重朝なども名手ではあったのだろうが、そこまでは知らない。

 彼はいつもの放浪癖である日ふらっと家を出て、それきり戻ってこなかった。暗殺説や病死説もあるようだが、この表現の方が彼にふさわしい気がする。
 もう少し歴史の表舞台に立っていて欲しかった人物の一人である。【画像は和歌山市駅前に建つ雑賀孫市像(和歌山市)】



第3位 水野勝成(みずの かつなり)

 「勝成あら者にて人を物ともせず」。こう評された彼は「戦国の異端児」と言っても良いかもしれない。したがって、その生涯は波乱に富んでおり、非常に興味深い人物のひとりである。
 彼は永禄七(1564)年に水野総兵衛忠重の子として三河岡崎に生まれ、徳川家康の従兄弟に当たる。十八歳で初陣を迎えて以来、十分猛将と呼ぶにふさわしい活躍をするのだが、ふとしたことから水野家を飛び出し、諸国を放浪することになる。そのいきさつは次の通りである。
 天正十二(1584)年の小牧・長久手の戦いの折りのことである。彼は当時目を患っていたため、兜をかぶらずに出陣した。これを父の忠重が咎めて「おまえの兜は小便壺にでもしたのか」とたしなめるや否や、いきなり馬に飛び乗って駆け出し、連れ戻しに来た家臣を追い返して秀次の将白井備後守の陣に躍り込み、一番首を挙げたという。しかもそれを父の前にではなく本陣の家康の前に持参し、大いに面目を施したというから、父の忠重にしてみれば面白かろうはずはない。忠重は戦後勝成に出陣停止処分を科した。
 さて、程なく今度は尾張蟹江城で戦いがあったのだが、勝成は出陣停止処分を無視して駆けつけ、負傷しながらも活躍し、またまた家康の賞詞を受ける。彼の行動を苦々しく思った父忠重の家臣富永半兵衛が、この件を忠重に告げた。勝成は虫の居所が悪かったのか、要らざる事をする奴め、とばかりに半兵衛を斬り、水野家を飛び出してしまう。忠重は当然激怒し、勝成を「奉公構い」とした。ここから彼の長い放浪生活が始まる。

 彼の足跡を辿ってみると、まず織田信雄、次いで家康のもとへ行くが、いずれも父の横槍が入り断念。その後秀吉の下に暫くいて紀州攻めや四国征伐に活躍、その戦功により摂津豊島郡で七百石余の所領を与えられた途端、またもや父の横槍で豊臣家を追われて放浪の旅に出る。
 しばらく京都にいた彼は、俗説では虚無僧の姿となり西国へ流れていったと伝えられる。そして美作の野武士のもとに身を寄せたかと思うと、喧嘩してこれを斬り捨てて飛び出し、肥後熊本の佐々成政にようやく千石で拾われたと思うと、程なく佐々成政が統治不行き届きの罪にて失領。次に黒田長政のもとへ行き、豊前一揆(城井谷騒動)の鎮圧に加勢し活躍したと思うと、一揆鎮定後に長政と衝突して出奔。やがてさらなる放浪の末、備中成羽城主三村親成のもとに居候となって住み着く。
 親成の処遇はよく、侍女との間に後の福山藩主勝俊をもうけるが、翌年茶坊主に恥をかかされたと言って斬り捨て、またもや逐電。いやはや何ともお騒がせな人物だが、時代は風雲急を告げていた。

  彼は上方へ行き、東西緊張の中、伏見城の警護につく。そしてこれを耳にした家康が父忠重と対面させ、長きにわたった勘当を解かれることとなるのだが、それも間もない慶長五年七月、今度は父忠重がこともあろうに三河池鯉鮒で加賀野井重望に暗殺されるという大事件が起きた。家中の反対はあったが、勝成は長かった放浪生活に終わりを告げて刈谷三万石水野家の当主となった。以後彼は、関ヶ原や大坂の役の活躍で大和郡山六万石を経て備後神辺十万石の主となり、福山城を築き初代福山藩主となる。
【画像はJR福山駅のすぐ北にある福山城(広島県福山市)】

 ひとつ、良い話がある。彼は常々家臣達に「俺を親と思え、俺はおまえたちを子と思う」と言っていたが、ある鷹狩りの際、昔仕えていた者が混じっているのを見かけた。勝成は、
「懐かしいのう。俺のもとでは三百石だったが、越前では千石というではないか。それがなぜここにいるのじゃ?」
 彼はこう答えた。
「仰せの通り、越前で禄は増えましたが、下々の者まで懇ろに労っておられた殿が忘れられず、これは禄には代え難いと思い、暇をいただいて戻って参りました」
 勝成は大いに喜んで、即座に禄を増し与えたという。
 後に勝成はその優れた治績により名君と呼ばれるが、こういう言葉を残している。

「下の情をしる事はこれ虚無僧たりし故なり」
 苦労人勝成ならではの言葉であろう。

御家騒動に揺れた大名家 TOP3

2011-06-15 21:41:11 | 戦国時代考証

御家騒動に揺れた大名家 TOP3


戦国時代では当主大名の跡継ぎをめぐり、家中が割れて争うことも日常茶飯事でした。ここでは、特に御家騒動で揺れた大名家を3家選んで紹介します。


第1位 上杉家【御館(おたて)の乱】

 天正六(1578)年三月、戦国史上最強の武将で軍神とまで言われた上杉謙信が、織田信長との上洛戦を目前に急逝した。暗殺説もあるが確たる根拠はなく、大酒癖があったことから、いわゆる脳溢血と考えるのが妥当であろう。ところで、謙信には実子が無く、当然遺言も無かったことから3人の養子のうち、景勝と景虎の間で相続争いが勃発した。

 景勝は謙信の実姉と長尾政景との間に生まれた子で謙信の甥に当たり、また景虎は北条家から来た養子ではあるが、名将・北条氏康の実子で当主氏政の弟であった。このため景虎は名家意識が強く、寡黙で地味な景勝とは元々あまりしっくりいっていなかった。
 景勝側は主な重臣や仇敵・武田勝頼の協力も得て最初から優勢ではあったが、景虎側にも本庄秀綱ら有力武将と、何より北条家の全面的バックアップがあった。

 長引けば形勢がどうなるかわからない状況の中、景勝はてきぱきと手を打ち、いち早く春日山城を確保する。景虎は元上杉憲政の居館であった御館にたて籠もり抵抗するが、翌1579年3月、景勝は御館に総攻撃をかけた。
 奮戦するも支えきれないと見た景虎は、北条家に戻るべく小田原城へと脱出を試みたが、途中で景勝軍に追いつかれてついに討ち取られた。また、抵抗を続けていた本庄秀綱らもやがて次々と降伏し、足かけ3年に及んだ御家騒動もここに終結した。

(画像は新潟県上越市に残る御館跡)


第2位 今川家【花倉の乱】

 あまり広くは知られていないが、戦国時代とは言え、今川家ほど大小の御家騒動に悩まされ続けた家も珍しい。このときの当主は氏輝であったが、当時氏輝は北条氏綱(氏康の父)と協力して甲斐の武田信虎(信玄の父)と交戦中であった。ところが1536年、その氏輝とすぐ下の弟が突然急逝した。時に氏輝まだ24歳の若さであった。

 ところで、氏輝には2人の弟がいた。遍照光院の住持である玄広恵探(げんこうえたん)と善得寺の喝食・梅岳承芳(ばいがくしょうほう)である。しかも玄広恵探は年長ではあるが氏輝の父・氏親の側室からの生まれで、梅岳承芳は年少ではあるが氏親の正室からの生まれという複雑な背景もあり、家中が割れた。
 まず恵探が家督相続を主張したが、氏親の正室・寿桂尼は承芳に家督を継がせるべく重臣たちに働きかけた。そのとき活躍したのが今川家の名軍師として名高い太原雪斎である。彼の説得により重臣たちのほとんどが承芳側につき、恵探は孤立した。
 しかし野望を捨てきれない恵探は、花倉城に籠城して着々と戦備を整える。そこへ承芳の軍が押し寄せて城を包囲した。孤立状態に近い恵探は支えきれず、とりあえず城外への脱出には成功したが、追撃の手をゆるめない承芳軍の前に絶望し、ついに普門寺にて自刃したのである。
 勝利を収めて跡継ぎとなったこの梅岳承芳こそ、後の今川義元その人である。


第3位 大友家【二階(楷)崩れ】

 大友家は鎌倉初期から島津家・小弐家と並ぶ「九州三人衆」と呼ばれる名家で、当時の当主は義鑑(よしあき)であった。長男の義鎮(よししげ)はやや粗暴な性格のため、義鑑は三男の塩市丸を偏愛した。これが後に流血騒ぎを引き起こす御家騒動の発端となる。

 こういう父の仕打ちがさらに義鎮の心を荒らす結果となり、行状の改まらない彼は義鑑の手により別府の別館に幽閉されてしまった。今がチャンスとばかり、塩市丸の母は重臣入田(にゅうた)丹後守に取り入って家督を塩市丸に相続させるよう義鑑に迫った。それを受けた義鑑は5人の重臣(入田丹後守・津久見美作守・斎藤播磨守・小佐井大和守・田口蔵人佐)を呼び、塩市丸の家督相続を打診した。入田以外の4人の重臣たちがことごとく反対したため、これらを除くため翌日再招集をかけ、斎藤と小佐井を謀殺したのである。

 たまたま難を免れた津久見・田口の両名は「もはやこれまで」と義鑑の居館に斬り込み、奥方と塩市丸を斬殺し、義鑑にも重傷を負わせた。このため府中(大友氏本拠地)は一時大混乱に陥ったが、駆けつけた重臣佐伯惟教によって間もなく鎮められた。

  天文十九年二月十二日、重傷の義鑑は重臣たちも居並ぶ死の床に義鎮を呼び、今までの仕打ちを詫びた上に家督相続を申し渡した。義鑑はその直後に息絶え、自らが建立した野津院寺小路村の到明寺に葬られた。(画像は大分市(旧野津町)に残る義鑑の墓)
 生き残った入田丹後守は義父の阿蘇惟豊を頼って逃げたが、その所業に激怒され、逆に斬られてしまった。義鎮はこれにより大友家を継いで第21代当主となり、後に宗麟の名で広く知られるキリシタン大名となる。