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、『桶狭間合戦名残』といいまして、豊明市旧間米村で発見された写本

2011-06-27 00:27:18 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
 
(6)『新編桶狭間合戦記』    (2009.05.07 追加)
『新編桶狭間合戦記』は尾張藩士・田宮篤輝による十九世紀半頃の著述で、山澄英竜の論考を伝えるものであるが、そこでは義元の十八日の所在を沓掛城として、大高城説を批判している。すなわち、「惣見記ニ十八日夜、義元大高ノ城ニテ軍評議とせり、創業録モ然リ。原本(山澄本)細注ニ、此日、義元大高へ行キ、即、大高城ニテ軍評定有テ、鷲津・丸根ヲ攻落シ、其後義元ハ桶狭間山ノ北に陣取ト言説アレトモ、難信用義元此時大高ニ在テ両城ヲ攻取ナバ、鳴海ハ間近レバ、善照寺辺ノ砦々ヲ攻シムルニ、手寄ヨク、其レヨリ熱田表ヘノ進発モ順路ナリ。其上敵地ニ入テノ用心ニモ直ニ大高ノ城郭ニ在陣可然事ナルニ、又跡ヘ帰テ、桶狭ノ山中ニ野陣セラレタルト云事、其理曽テ難心得古老云伝シ説々ノ中ニモ、十八日、義元大高へ来リシト言は、嘘説也、ト言ヘリ、」というものである。
  1. 鳴海が間近にあって直ぐに攻められるのに何故そうしなかったのか。
  2. 鳴海を獲って熱田へ出るのは当然の順路であろう。
  3. 敵地に深く中入りしているのだから用心のためにも大高城に戻るべきであった。
  4. 鳴海へも出なかったばかりでなく、桶狭間の山中に軍を止めるなどとは考え難い。
  5. 古老なども、義元が大高城に宿泊したというのは、嘘だといっている。
以上が、批判内容の現代語訳である。
山澄英竜は、鷲津・丸根からは距離が近いのだから、中島・善照寺砦を攻めるのがよいというのだが、とても現役の武士=軍人黒の見解末思えない。黒末典川が天然の堀をなしており、干潮であっても空堀の効果を発揮するため、敵前渡河は困難になるから、敢えて南から攻めるのは戦術的に順当とはいえない。ではと言うので、大高から黒末川を徒渉して星崎・笠寺から熱田を襲えるものと仮定したとしても、塩の干満に左右されて交通・補給に支障があることを考えるならば、一時的に奇襲するには良い経路であっても大軍を運用するには適さない。従って、駿河勢が中島・善照寺の砦を南方から攻めなかったのは戦術的な判断としては妥当で有ったと言える。鳴海から熱田へ出たければ鎌倉海道を使用するのが常道だからである。そこで問題になるのは、何故そうまでして(1)義元自身が大高城へ行く必要があったかということと、(2)本当に義元は四万超の大軍を率いて尾三国境へ出張ってきていたのかという事である。だから、山澄英竜の(1)(2)の疑念は、一重に義元軍が四万五千もの大軍であったということを前提にしない限り、疑問にさえならないことが分かるはずである。つまり、義元が小勢であるならば、いつまでも大高城くんだりに居続けたくなかったのであり、『三河物語』で丸根・鷲津砦攻めに駿河の重臣連が乗り気でなかったのも、大高城番交代が紛糾したというのも肯けるものがある。
では、(3)の義元は大高城へ戻るべきであったとするのは正しいことだろうか。勿論、義元が大軍であったならば大高城へ戻る必要もなければ、桶狭間で休息しようが問題はない。織田方への示威のためにも必要でさえある。従って、義元が一旦大高へ戻るべきだというのは、義元が大軍でない場合だけであるのだが、義元が小勢であるならば敵中に突出して孤立する形勢になりかねないことと紙一重であるため、採用し難い戦術であると言えよう。丸根・鷲津を排除したとはいえ、織田方は何時でも進出できるし、大高城は要害などではないからだ。
最後の(4)の桶狭間山中に軍を止めたことは間違いだろうか。結果的には敗北につながったのだから、間違いとすることもできるだろうが、必ずしもそうとは言えないものがある。
第一に、『三河物語』によると義元は自身大物見をしたうえで、丸根・鷲津の排除を決めている。素人が考えても分かりそうな善照寺砦の排除を選択していないのだ。義元には丸根・鷲津を指呼の間に攻略できるだけの兵力があったことは確かなのであるから、先に善照寺・丹下の砦を落とすことも可能であったはずであり、それができれば中島・丸根・鷲津などは敵中に孤立するから、守備兵は砦を捨てて逃げ去ることが見込めたはずであるのに、である。これによって、義元には喧伝されている程の兵力を率いていた訳ではないとも言えなくもない。だからと言って、織田勢に劣る兵力であったわけではないだろう。それでも、二つの城塞を攻撃している最中に敵の後詰を相手に出来るほどの兵力差があったわけではないことは、駿河勢が潮の満ちるのを期して大高城への付城攻略を発起していることから窺われる。兵力差が喧伝される程のものであったならば、付城攻撃を餌にして後詰に来るのであろう信長を待ち伏せる戦術がとれるのに、それを敢えて避けているからである。
第二に、丸根・鷲津攻略後になっても信長が後詰に姿を見せなかったのであるから、兵の疲労を考えるとその日の内の中島・善照寺攻めは見送って、敵の眼前を示威のために行軍して引き揚げることは、あり得るべき戦術だろう。その場合、自軍の武装を解くのは敵から十分に距離をとった桶狭間の丘陵上であることは、当時の常識からしても別におかしな決定ではなかったであろう。ところが、その頃になって信長が遅れて戦場に到着したものだから、中途半端な距離で敵と睨み合う結果になっただけのことである。義元が不運であったのは将に突然の暴風雨だけであったろう。山澄英竜は尾張藩の初代義直に仕えて重臣であったが、その生まれは1625年(寛永二年)と既に戦国は終わり、最後の戦になった島原乱[32]では十三歳であり、未だ武道は廃れていなかったものと思えるのだが、その論評に疑念を付さざるを得ないのは、おそらく一世紀近く前の二~三千人での戦争の仕方には思いもよらなかったからではないのだろうか。


[1]  『惣見記』元禄十五年(1702)「十八日、松平蔵人元康を以って大高の城へ兵粮を入れさせ、その夜この城にて合戦の評議を調へ、翌十九日、鷲津・丸根両城を攻めんと議定す。」
[2]  『三河物語』年(1622)「五月十九日に、義元は池鯉鮒より段々に押して大高へ行き、棒(某)山之砦をつくづくと巡見して、諸大名を寄せて、やや久しく評定をして・・・」
[3]  『甫庵信長記』元和八年(1622)「翌日十八日ノ夜ニ入、大高ノ城ヘ兵糧ヲ入、爰ニ於テ軍評定シケルカ、翌朝ハ鷲津・丸根両城ヲ可攻干ニソ定メケル。」
[4]  但し、これは「昼間だけ」の話ですからお忘れなく。
[5]  但し、小和田氏を始めとした現代の多くの方々は、大部分の軍記が短時間であったというにもかかわらず、その攻略には長時間かかったうえ信長が善照寺砦に参陣した後まで鷲津砦は落ちなかったと言われる方が多いようです。
[6]  
[7]  現に、桶狭間合戦では勘当されていた前田犬千代が抜駆け組に交じって戦っているし、千秋・佐々らは抜駆けしている。
[8]  『武徳編年集成』幕府大番頭・木村高敦(タカアツ)が八代吉宗に献じたもの。寛保元年(1741)は、十八日については「十八日、神君尾州知多郡阿古屋(阿久比)の郷主・久松佐渡守菅原俊勝が亭に至りたまひ、母君へ御対顔あり」の記事しかない。
[9]  『東照軍鑑』成立年不明「尾州沓掛へ入城し、軍評定あつて、鵜殿長照方へ羽激を飛し、翌朝鷲津・丸根両砦攻破られ可き間、其の節大高よりも出勢す可きの仰せ遣わされ由」ただし、桶狭間合戦記事については誤謬が多過ぎて全般的に信頼できないものがある。
[10]  『佐久間家譜』が「砦からの撤退は許されなかったので、盛重は現地で戦死した」として、信長の非情を指摘している。ところがこれに対して、『松平記』や『三岡記』は「丸根の城に佐久間大学籠けるを、元康公の先手勢攻め詰める故、大学(アツカイ)を入れ、城を立ち退きぬ」と、『東照軍鑑』は「構へ乗入戦ふ程に大学こらへず取手を捨てゝ落行けり」と伝える。
[11]  大軍であれば何でもできるはずなのに、現実の今川義元は大軍を率いているような行動をしなかったのですから、駿河勢は喧伝されるような大兵力などではなかったということ。
[12]  (2009.11.02追加)  最近知ったのですが、桐野氏は「池鯉鮒より段々に押して大高へ行き」とある「池鯉鮒」は「沓掛」の誤りであろうとされているようです。そのようですと段々の意味がなくなりますから賛成できません。
[13] 「段々」について、 (2009.01.31  挿入) 天理本・『信長公記』では、「戌亥(イヌイ)に向て段々に人数を備」とあって「段々」という語句が追加されています。『桶狭間・信長の奇襲神話は嘘だった』の藤本正行氏は、「桐野氏は”段々に”という言葉から、多数の部隊が横隊になって幾重にも重なる様を連想されたようだが、各所に点在することも”段々に”と表現する。『信長公記』…”北から東の山に…前後左右段々に取り続き、陣を懸けさせられ”とあるのがその一例である。」と批判されますが、これは明らかに藤本氏の誤りでしょう。『信長公記』には他にも天正三年の河内国新堀城攻めで、「其の日は、誉田の八幡、道明寺河原へ取り続き、段々に陣取る。信長は駒ヶ谷山に御陣を張らせられ、万方へ足軽仰せ遣はさる。」とあるのを見ましても、各所に点在というのではなく、段々の原義通りの「層をなして重なっているもの、小分けにした一つ一つ。」という、ある種秩序だった並びの意味であることは明らかで、「点在する」の本来の意味である「散在、散り散りバラバラ」という解釈は当らないものと思います。
[14] 手順を踏んで。織田方の諸砦を大物見を敢行しながら。
[15]但し、駿河勢全軍が大高城に宿営したとまでは言えません。何故なら、それまでも駿河勢は諸方に分散して宿営しているからです。例えば、義元が掛川に着いたときの先手は、原河・袋井・見付・池田に分宿していますし、義元が吉田に着いたときには、下地の御油・小坂井・国府・御油・赤坂に陣取ったといいます。さらに、義元が岡崎に着いたときには、諸勢は矢作・宇頭・今村・牛田・八橋・池鯉鮒に陣取っています。しかし、これ以後の諸勢の動向は何も記されていません。全軍が合同したとも書かれてはいません。ですから、義元がいったいどの程度の兵力を率いて沓掛から大高に行ったのかは、史料からは分からないのです。
[16] 戦国時代の武器兵粮は自弁です。しかし、兵粮を必ずしも用意できるとは限りませんから、大名や寄親が立替えて支給し、後で利息を加えて清算することは多かったものと考えます。要するに、動員回数が多すぎて過重な負担になっていたと思うからです。食料自弁の実態はよく解りません。武器についても同様です。北条氏の文書を見ていると必ずしも調っていないのですが、だからといって寄親が用意してやる余裕もなさそうです。
[17] これに反対する意見に永井勝三著『鳴尾村史』があります。そこでは「尾張国西端長嶋城主服部左京亮等は織田軍に当然味方すべきを、今川軍に味方し数十艘の兵船に、多量の兵粮と士卒をのせ、前夜黒末川口に着岸したが、風雨強く陸揚ができず、合戦の朝大高城に兵粮入をし、今川軍をば歓喜させたが、午后義元の敗戦を知るや将士は船に戻り、奮激の棄場に帰途熱田ノ宮に上陸したが、此処でも加藤図書の土民に追いまくられ、民家に放火しやっと帰城したニュースは、当時の著作者の心を引いたので、各書に記された黒末川の名も世間に知れた」とされています。 しかし、牛一の記事では信長が善照寺砦に参陣した時点での戦況に服部水軍については一言も触れていないのですから、戦術的に脅威であったとは看做されていないと思いますので、この見解には賛同しかねます。
[18]  『惣見記』は小瀬甫庵の『信長記』を補訂するという形で記しており、信長の諸孫にあたる貞置に校閲を依頼し完成したといわれるため、史実に潤色がされていて信用性に欠けるのが難点です。
[19]  (十七日)
[20]  これは、『桶狭間合戦名残』といいまして、豊明市旧間米村で発見された写本で、豊明市史編纂室で保管するもので、「神君様(が)兵米(を)御運びあそばされ候よし、その節、木之山村(大府市共和町)を御通り、兵糧を御運びあそばされよし申し伝え候、同村(には)開け城へ再度籠城あそばされ候よし伝えもあり。」とありる。
[21]  最近、天理本・『信長公記』には「大高之南、大野・小河衆被置」という記載があることが紹介された。 
[22] [23] 村木砦が攻略された際に帰路の信長に焼討されて落城したと家譜にあるという。その場合には、信長の村木砦攻めは単に喉元に刺さった棘を抜いただけではなく、花井氏の背後にいた大野佐治氏の心胆を寒からしめたことになり、これによって佐治氏と緒川水野氏の同盟などを促進させたことを推測させる。 (2008.1.19追加)
[24]  『寛政譜』
[25]  『日本戦史・桶狭間役』の考えでは、岡崎に一千名、来迎時城・牛田城・重原城・池鯉鮒・今岡に合わせて四千名の兵を控置したとしています。これでみますと北から沓掛城・今岡城・重原城と一直線上に並んでおり、これらが今川方の合戦前日の最前線であったと旧参謀本部は考えていたことになります。 
[26]  前野家文書の小説・『武功夜話』には、「十八日夜には卅有余人を尾三国境に派遣し、百余の佐々成政一党が信州道から裕福寺に出張した」「蜂須賀らは、裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして街道筋で義元の通過を待った」とある。………2008.11.24からは『武功夜話』の頭に「偽書」とつけていたが、2010.03.15からは小説『武功夜話』と直すことにした。もし、義元が祐福寺に宿営したとしたならば、百人からの佐々隊と交戦したことになったはずだから、武功夜話の作者はこのような寺伝があるのを知らなかったものと思われる。また、祐福寺村々長も態々桶狭間村を超えてまで義元に戦勝祝賀に訪れる必要もないわけである。理由は、とうの昔に安堵を受けていただろうからである。これが、義元が祐福寺ではなく沓掛城に宿営したとしても同じことです。総大将義元を守ために何重にも敵地との間に駿河勢が陣を張ったはずだからです。そして、祐福寺は勅願寺であり、義元の勢力圏にあるのだから、そのような所に敵の軍勢に出張られたとあっては、顔に泥を塗られたのも同じことだ。ということは、敵中深く中入りした勲功は大きなものがあるはずだから、佐々氏や蜂須賀氏がこれを喧伝しないはずがない。それなのに、それが無いのだ。
[27]  (2007.07.25 追加)この焼失について書かれた古文書は、現在名古屋市博物館が保管されている。今川義元の先鋒であった三河の岡崎軍が近郷沓掛の砦を攻略したときのことと取り違えているのかも知れない。
[28] 因みに、古代ギリシャのファランクスでは、最右翼には「左側は手盾で護れても、自分の右半身を守ってくれる隣の兵士」は存在し。ないために、右縦列には最強の戦士を、右翼には最強の部隊を配置したうえで、これを援護するために若干の騎兵や軽装歩兵を配備するのが理想であった。
[29]  但し、今川義元が沓掛に宿営したとは考えない。
[31] 藤本正行氏は、「調略で奪われた鳴海・大高両城に付城で攻囲されたことにより、この事態を打開すべく義元が後詰したことによって生起した、当時としては平凡な群雄間のローカルな境界争いである。」とされ、信長の戦略は「西三河の経営に手を焼き、三国同盟が成ったとはいえ背後の不安な義元の弱みに付け込んで、戦局を膠着状態に持ち込むのが狙いであった」とされている。そして、信長が善照寺に入り中島砦に進んだのを見れば、信長には自身の行動を秘匿するつもりはなかったし、十分な情報網を持っていなかったといわれながら、一方ではフロイスの「決断を秘し」という言葉を紹介し、信長は「敵の疲労を待って温存していた自軍の主力で叩こうとしていた」と見做している。そして、『信長公記』に記された信長の一連の行動から、信長は敵の動きを確認しながら行動した結果、ようやく前線について直接みた戦況を誤認したとされる。
[32]  一揆軍三万七千という。 

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