gooブログはじめました!地球の無駄使いをやめよう。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
地球が延命出来れば人類は必ず生き延びられる

あまり知られざる三度目の紀州攻めがあったのです。絶体絶命の危機に陥った孫一は・・

2011-06-12 23:56:19 | 第一次紀州攻め

孫一と三度の紀州攻め


孫一の存在とその鉄炮隊の活躍に業を煮やした織田信長は1577年、大挙して二度にわたり紀州雑賀攻めを行いますが、孫一は何とか持ちこたえます。しかし、これで終わったわけではありませんでした。1582年5月、あまり知られざる三度目の紀州攻めがあったのです。絶体絶命の危機に陥った孫一は・・・。


第一次紀州攻め

  本願寺との全面戦争に突入した信長は、各地の一向一揆のゲリラ戦に悩まされながらも各個撃破で臨んだ。そして1574年9月には長島願証寺の一揆を壊滅させ、翌年9月には越前・加賀一向一揆を掃討し、やがてその矛先は孫一らの紀州へと向かってきた。このとき紀州は一枚岩ではなく、根来衆をはじめ雑賀三緘衆や太田党は信長方に加担しており、結局は紀州攻めというより、孫一攻めと呼んだ方が適切かも知れない。

 1577年2月13日、信長は十万もの大軍を率いて出陣、22日に泉州信達(しんだち)で軍を浜手と山手の二手に分け、根来衆や太田党の手引きで紀州雑賀へと攻めかかった。浜手の将は滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂谷頼隆・細川藤孝・筒井順慶。山手の将は佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・堀秀政・別所長治・別所重宗という錚々たるメンバーである。

 浜手軍は雑賀衆の抵抗を受けながらも孝子峠から紀ノ川右岸の中野城へと進み、山手軍は風吹峠から南下して紀ノ川を渡り、本拠雑賀城の東側、小雑賀川(和歌川)をはさんで陣を敷いたのだが、ここで雑賀勢により大打撃を受ける。これは有名な場面だが、雑賀城の孫一らは潮の干満なども最大限に利用し、小雑賀川の底に無数の瓶を埋めて敵の来襲を待っていた。
 そうとは知らない信長勢は堀秀政が先陣となって数を頼みに殺到、やがて川底の瓶に足を取られてもがいていたところへ後続兵が次々と押し寄せ、パニック状態となった。ここへ孫一指揮する雑賀より抜きの鉄炮隊から一斉射撃を見舞われたのだからたまらない。小さな川一つ渡ることも出来ず多数の死傷者を出して退却、戦いは膠着状態となった。

 しかし、あまりにも兵力差がありすぎ、浜手軍に中野城を落とされたことから、孫一は一族相談の上で誓詞を認めて降伏を申し出た。これとて本来なら信長の性格からして認められようはずもなく、普通なら孫一や佐太夫の首は取られていたであろう。しかし、信長もそう長く紀州にいられない事情があった。毛利軍の東進である。紀州で手間取っていると事情がどうなるかわからないこともあり、信長は孫一の降伏を赦免するという形を取り、退陣していった。


第二次紀州攻め

 さて、一旦は信長に降参した孫一であったが、その年の夏になって蓄積していた雑賀三緘衆に対しての不満が爆発した。8月16日、井の松原にて激戦が繰り広げられ、信長も佐久間信盛に援軍を命じたのだが失敗、このときは孫一が勝っている。
 どうも孫一らと三緘衆・太田党はウマが合わなかったようだ。次のような資料がある。

☆『太田総光寺中古縁起』

「天正の始の頃、雑賀と宮郷との領間に三十六ケの塩浜并に三日月の芝とて二カ所の地境ありしを、雑賀の庄へ奪ひ取て領せんとす、宮郷の農士等是を奪れましとて卒に諍論となる、雑賀の郷士等大軍を卒して宮郷に押寄す、宮郷は太田城を構へて根来寺の法師を頼既に合戦す」
(大意:天正の初め頃、雑賀と宮郷との領地間に三十六箇所の塩浜、三日月の芝という二ヶ所の地境があったが、雑賀側がこれを奪って領しようとしたため、宮郷の農士たちはこれを奪われてなるものかと、争いになった。雑賀勢は大軍で宮郷に押し寄せたため、宮郷は太田城を中心に構え、根来寺の法師を頼って合戦に及んだ)

 この資料に見られる通り、孫一らと根来衆・三緘衆は領地の境界をめぐって仲違いする事が多く(他の資料にも同様の記述あり)、一般に「雑賀衆」という場合、本来の語義からは外れるが、一面では雑賀荘・十ヶ郷のみを指すと考えても良いようだ。それほどいわゆる「雑賀衆」は仲間割れを起こしていたのである。


第三次紀州攻め

 信長はどうも孫一が気に入らないらしく、1582年5月、息子の信孝に命じて極秘裏に三度目の紀州雑賀攻めを行った。信孝は同年4月までは高野山攻めに出陣していたが、紀州背山城に在陣していたところを呼び戻され、一万四千の軍勢(一説には五千)を堺に集結させ、丹羽長秀に三千を与えて鷺宮道場を急襲させたとも、信孝自身が兵を率いて鷺宮道場へ攻め寄せたとも言われている。

 不意を突かれた顕如上人と孫一らはあわてたが、必死の防戦をする。孫一はじめ雑賀孫六・的場源四郎・三井遊雲軒・島(坂井)与四郎・関掃部守らが満身創痍となって支えるが、味方はわずか二百という小勢、その上激戦の中で孫一は右肩先と左手首に斬りつけられる。その日は何とか持ちこたえて道場に戻ってきた孫一だったが、斬られたはずの肩や手首に痛みもない。そこで肌身に付けていた御本尊(阿弥陀如来尊像の巻物)を取り出してみたところ、その肩先と手首にすーっと一筋の血が流れたという。
 そこで孫一はこれを「守本尊孫市身代り像」として祀ったのが、平井蓮乗寺のはじまりとされている。なお、この像は今でも一筋の血が付いたまま、蓮乗寺に残っている(!)。

 とりあえず今日の攻撃はしのいだものの、明日はもはや落城かという6月2日夜、顕如上人は覚悟を決め、皆を集めてこう言った。

 「明日信長勢が門前近く攻め寄らば、火を放って御真影を焼き奉るべし。私もお供申します。皆さんには、これまで身命、妻子を捨て、よく助けてくれた事、誠にかたじけない。今宵は今生の名残、残る物語りは安養浄土でゆるゆる語り合うべく、再会を期しましょう」

 さて、ここで日付に注目いただきたい。上記顕如上人の法話に皆が感涙にくれていた天正十(1582)年6月2日。そう、この日の早暁には信長はもはやこの世の人ではなくなっていた。この報せは間もなく道場にも伝わり、翌3日早朝には敵勢は蒼惶として退陣していった。孫一は喜びのあまり傷ついた足を引きずって立ち上がり、片足を上げながら日の丸の扇をかざして踊り狂った(一説には踊ったのは雑賀孫六とある)という。これが「雑賀踊り」の発祥とされ、後に「徳川和歌祭」に組み入れられて伝わり、今も5月17日の和歌祭りにはこれを踊るという。

 ところで、この戦いは一般書籍ではまず取り上げられておらず、ほとんど目にすることはないのだが、他にも『根来焼討太田責細記』中の紀州の勇将・的場源四郎を紹介している部分に、以下のような記述を見つけたので書く。

☆『根来焼討太田責細記』

「源四郎ワ万武不当ノ勇士ニシテ正直也、光佐上人ニ従テ勇ヲ励シ、且鷲森ニ移給ヒテ信長ノ勢是ヲ攻ニ味方シ奉ニ、信長、明智ガ為ニ討レシ由告ケレバ、惣軍陣ヲハロフテ帰京シヌ、是ニ依テ光佐上人帰洛ノ節立寄給ヒ一礼シテ黄金三枚・時服三重・信国ノ刀一腰・自筆ノ名号ヲ給フ」
(大意:源四郎は万夫不当の勇士でしかも正直である。顕如上人に従って勇をふるい、かつ鷺森に移られて信長勢が攻め寄せたときにもお味方したのだが、信長が明智光秀の為に討たれた事を敵に告げたところ、みな陣を払って帰京した。これにより顕如上人が帰洛するときに的場のもとに立ち寄られ、一礼して黄金三枚・時服三重・信国の名刀一振りと自筆の名号を与えられた)

 この資料は軍記物などではなく、秀吉の紀州攻めの様子を中心に、出来事を非常に細かく書き留めた「記録書」である。他の記述部分とも併せて考えて、攻め寄せた武将が誰かは別として、まずこの戦いが行われたことは事実と見て良いと思う。

 それはともあれ、こうして孫一は難を逃れたのだが、喜びはむしろ顕如上人の方が大きかったかも知れない。ほどなく上人が泉州の門徒達に出した書簡にこうある。

 「信長滅亡によって、国々静謐にまかりなり、重畳に候」

松永久秀年表 No.4元亀元(1570)年~天正元(1573)年

2011-06-12 23:53:00 | 戦国時代考証
松永久秀年表 No.4元亀元(1570)年~天正元(1573)年* 印は閏月を示します。
西暦 和暦 日付 事績
1570 元亀元 2/22 筒井党からの人質(井戸良弘の娘・松蔵権介の子)を殺し井戸城の際にて串刺しにする。また筒井八条庄屋の子を殺す。
    2/24 久通・竹内秀勝が信長の在京中に出仕すべく近江へ出迎えに行く。
    3/28 この日までに井戸城を落とす。良弘は南方へ逃れる。
    4/5 井戸城を破却する。
    4/23 永禄より元亀に改元される。
    4/30 信長に従い越前朝倉氏攻めに赴くが浅井長政が背き退却、この日京都まで戻る。
    5/12 竹内秀勝とともに大和へ戻る。
    5/23 久通とともに春日社に詣でる。大神楽などが催される。
    6/6 父子で十市城方面へ向かうが調略が不首尾に終わり、転じて福住城に押し寄せる。
    6/14 堀池・平等坊・室・豊井ら郡山衆を生害させる。郡山を襲い散郷を焼き払う。
    6/26 久通とともに郡山から多聞山城に戻る。
    7/25 三好三人衆が河内に侵入とのことで久通とともに急遽信貴山城へ出陣する。
    7/27 久秀不在の間に筒井順慶が五百の兵を率いて十市城に入る。久秀父子は八千程の兵を率いて河内へ向かう。また信長に対抗する三好三人衆らが雑賀衆を誘い、摂津野田・福島に砦を構築、天満ノ森に布陣する。
    7/29 久秀方の箸尾氏が細井戸城を落とす。
    8/9 三好三人衆が淡路衆・安宅衆千五百人を率いて摂津尼崎に上陸、伊丹城を攻める。
    8/20 信長に従って三好三人衆と河内で戦っている隙に筒井勢が古市郷を焼き高樋山に城を築く。順慶は福住に入る。
    8/22 天王寺と遠里小野の境に陣取った三好三人衆勢一万に対峙して久秀は河内高安に、竹内秀勝は大窪に陣取る。信長が京都に入る。
    8/23 竹内秀勝が引き返して筒井衆と戦い、高樋城まで追い込む。中坊衆に少々負傷者が出る。
    9/8 三好義継とともに海老江城を落とし、野田に迫る。
    9/12 石山本願寺が三好三人衆と同盟を結び、野田・福島の砦を攻める織田信長に対して挙兵、石山合戦始まる。
1571 元亀2 1/4 摂津より多聞山城へ帰還する。
    1/5 多聞山城にてこの日より国人衆の礼を受ける。
    1/6 寺門衆が多聞山城へ礼に赴く。
    1/21 興福寺一臈法印の死去(1/14)につき、寺門の人事について相談を受ける。
    2/8 竹内秀勝が美濃から戻る。
    3/5 柳本表へ竹内秀勝を大将として出陣させる。
    3/11 多聞山城で春日社祠官中東大輔時宣父子からの訴え事を聞く。
    3/19 花がほとんど落ちたため、花見はもとより山の木を折り取ることを禁止する通達を出す。
    3/21 興福寺修南院に絡む院家の相続につき報告を受ける。
    4/28 小五月銭について興福寺大乗院より斡旋を依頼される。
    5/2 小目代慶賢の改易についての訴えを聞く。
    5/6 久通・竹内秀勝が多聞山城より出陣する。
    5/9 窪城へ押し寄せる。
    5/11 窪城から陣を払う。
    5/12 久通とともに安見右近攻撃に河内交野へ出陣する。また武田信玄の臣小幡信実が久秀の臣岡周防守へ書状を発す。
    5/17 信長に背き、武田信玄に同盟を持ちかける。信玄はこれを受ける。
    5/19 武田信玄が岡周防守へ久秀を別格として処遇する旨の書状を発す。
    5/27 久通とともに河内交野より多聞山城へ戻る。
    5/30 久通とともに信長に対して出陣する。三好三人衆が河内高屋城に畠山昭高を攻める。
    6/9 河内高屋表で合戦が日々行われる。
    6/11 河内高屋表から兵を引き、久秀勢は藤井寺へ入る。足利義昭が養女を筒井順慶に嫁がせる。中坊駿河守が筒井順慶に帰参する。
    6/12 箸尾為綱が久秀に背き、十市氏(松永派)と南柿森で戦う。
    7/3 藤井寺から法隆寺辺りへ兵を引く。久通は多聞山城へ帰城する。
    7/4 箸尾表から兵を引き、法隆寺・龍田に布陣する。また吐山・簀川氏が守っていた郡山の付城で吐山氏が筒井方に寝返り簀川衆を討つ。
    7/5 筒井勢が櫟本の付城を落とし、久秀勢は筒井城へ入る。
    7/15 三好義継とともに信長方の和田惟政攻めに摂津芥川へ出陣すべく画策する。
    7/18 箸尾勢が川合の付城を攻めるが失敗する。
    7/22 画策していた三好三人衆・義継との摂津芥川城攻めを断念する。
    8/2 筒井方が辰市に城を築く。多聞山城より辰市へ兵を出すが合戦には到らず戻る。
    8/4 辰市城へ三好義継勢とともに攻め掛かるが大敗、多数の討死衆を出し多聞山城へ逃れる。(辰市の戦い)
    8/5 越智氏が新賀に城を築き、箸尾為綱は森屋城を攻めて十市郷を侵害するとの風聞が流れる。
    8/6 順慶に筒井城を明け渡し、信貴山城へ入る。順慶は高田・野垣内・番条・森屋蔵堂城も奪回する。
    8/10 超昇寺氏が寝返り、筒井方の木津氏に応じる。
    8/14 越智・箸尾氏が十市氏(久秀派)を攻め、十市郷を略取する。
    9/22 竹内秀勝が河内若江城にて没す。
    10/10 山城槙島城を攻撃する。
    10/14 山城木津で苅田を行い、興福寺領の田を焼き払う。
    12/19 筒井氏が総勢を出して十市城へ押し寄せる。
1572 元亀3 *1/20 奈良で早暁に大地震が起こる。
    2/15 昨年の辰市合戦討死衆を弔う大念仏に敵味方とも多数が参詣する。
    3/11 久秀の重臣渡辺出雲守が東大寺で、妻は法花寺で剃髪、高野山へ向かう途中に番条(大和郡山市)で捕らえられる。
    3/16 順慶・箸尾為綱・岡某と戦う。
    3/26 十市氏の内久秀・順慶両派で進められていた和睦が破れる。
    4/16 佐久間・柴田・明智はじめ織田方の軍勢二万余が河内へ出陣、久秀の軍勢を私市城に攻囲する。
    4/29 大安寺の門付近で多聞山衆二百ほどと筒井足軽衆が戦う。
    5/5 信長の先陣が西京に着陣する。山の木が多数枯れ、多聞院英俊は「武家の入国」に不安を募らせる。
    5/7 西京の信長勢が数万に達する。明日打ち入りとのことで、それを阻止すべく種々の調停を試みる。
    5/8 奈良より銀子320枚、興福寺より100枚、東大寺より50枚を出し、信長勢との調停が成立する。
    5/9 順慶は南大門に、信長軍は多聞山の北を包囲して布陣するが、午後には陣を払う。
    5/17 足利義昭が久秀の重臣岡周防守に武田信玄の上洛を報じて協力を要請する。
    6/2 奈良で大地震が二度起こる。
    7/10 十市後室・御料の二人が久秀方の柳本城に入る。
    7/29 山城へ出陣する。
    8/19 柳本城において森本左京が自害、伊源二郎らが捕らえられる。
    8/27 山城木津周辺へ手勢を派遣し苅田を強行する。
    8/28 木津表から兵を引き上げる。
    11/19 片岡近辺に出て二日にわたって放火する。
    11/22 多聞山衆が今市へ出て放火するが筒井衆に追い返される。
    12/22 武田信玄が遠江三方ヶ原で徳川家康と信長の援軍を撃破、織田方平手汎秀は伊場で戦死、家康は浜松城に逃げ帰る。(三方ヶ原の戦い)
1573 天正元 1/8 名刀・不動国行を岐阜城の織田信長に献上し恭順の意を表す。
    3/30 将軍義昭・三好三人衆らとともに、信長方京都所司代村井貞勝の屋敷を包囲する。
    4/7 信長が名代の細川藤孝らを将軍義昭のもとに派遣し正親町天皇からの和睦勧告を伝え、義昭もこれを認める。
    4/12 武田信玄が労咳のため甲斐への帰国途中に伊那駒場で病歿。享年53歳。
    4/28 信長と義昭が起請文を交わし、正式に和睦する。
    6/13 義昭が信長との盟を破って挙兵を企て、兵糧米の送付を毛利輝元に依頼する。
    7月 信長軍が山城の所々を焼き、多聞山城周辺にも乱入する。
    7/3 義昭が三淵藤英を二条城に置き、再び信長に反旗を翻し宇治槇島城に籠もる。
    7/18 信長が義昭を槇島城に攻める。義昭は子の義尋を人質として渡し降伏、山城枇杷庄へ移る。これにより室町幕府滅亡。
    7/20 義昭が河内津田を経て若江城の三好義継のもとへ身を移す。
    8/2 信長が長岡(細川)藤孝・三淵藤英をして石成友通(三好三人衆)を淀城に攻め滅ぼす。
    11/5 義昭が河内若江城から和泉堺へ移る。
    11/9 義昭が紀伊由良興国寺へ移るべく和泉堺を発つ。
    11/10 信長が河内若江城に佐久間信盛を差し向け、三好義継を攻める。『佐久間軍記』には「松永久秀・筒井順慶先陣若江城ヲセム」と見える。
    11/16 三好義継が家老の若江三人衆の裏切りに遭い若江城で自害、三好家崩壊。
    12/26 再び信長に降り、多聞山城を明け渡す。

松永久秀年表 No.2永禄二(1559)年~永禄七(1564)年

2011-06-12 23:50:20 | 戦国時代考証
松永久秀年表 No.2永禄二(1559)年~永禄七(1564)年* 印は閏月を示します。
西暦 和暦 日付 事績
1559 永禄2 5/29 岸和田城の十河一存救援に和泉へ入り、根来寺衆徒と戦うが敗れる。
    6/26 十七箇所に陣していた長慶と合流し、河内中央部へ進む。長頼もこれに従う。
    8/4 長慶が高屋城に安見直政を攻め破り、畠山高政を入城させる。また久秀に安見らの追討を命じる。
    8/6 筒井城に筒井藤勝(順慶)と戦い、これを破る。藤勝は椿尾上城へ逃れる。
    8/8 大和信貴山城を修築し、ここに大和支配の拠点を構える。
    8/14 万歳へ出陣、二上山へ本陣を置き高尾を焼き払う。
    9/22 福住へ出陣、田原郷を焼き払う。
    10/2 春日社に参り神馬1疋を奉納する。また若宮へは12貫神楽を奉納する。
    10/22 椿尾上城から出陣した筒井衆が横井を焼き払い、救援に赴いた松永方の郡山辰巳衆らと戦う。
    11/24 山城勝軍山城を攻め、六角氏の将永原安芸守を討つ。
1560 永禄3 2/1 三好義興とともに義輝の御供衆となる。
    2/4 弾正少弼に任ぜられる。
    2/6 足利義輝の参内に際し、義興や細川藤賢らとともに御供衆として従う。
    2/16 堺の津田宗達の茶会に招かれる。
    4/5 河内から大和へ入り、西京を宿所とする。
    5/12 春日社に神供料百貫文を寄進する。
    7/24 井戸城を攻め、椿尾上城から救援に出陣した筒井衆を破る。
    7/28 井戸城が久秀方に明け渡される。
    10/10 飯盛城の後詰めに出陣した香西道印・波多野右衛門・木沢新太郎らが宇治周辺で放火するが、丹波から到着した長頼がこれを討つ。
    11月 檜牧城に沢氏を攻める。
    11/13 万歳城を攻め、万歳氏は降伏して開城する。この日長慶は飯盛城へ、実休(義賢)は高屋城へ入る。
    11/18 泊瀬の桜坊城を攻め開城させる。
    11/24 沢檜牧城が開城する。
1561 永禄4 -- この年、南都眉間寺を壊し多聞山城を築く。
    1/17 鉢屋紹佐の茶会へ参じる。客は松屋久政・堺宗可ら。
    1/24 義興・三好長逸らと年賀のため参府する。
    2/1 将軍家より桐紋の使用と塗輿を認められる。
    2/4 主君長慶と同じ従四位下に叙せられる。(1/28に一旦藤原姓として口宣案を得たが、桐紋の使用を許可されたため改めて源氏姓として叙せられる)
    3/30 京都立売町の三好亭へ将軍家の御成があり、太刀を献上し御伴衆の接待を務める。
    4/23 長慶の弟で不仲と伝えられる十河一存が没す。
    6/25 多聞山城の塀に使用する柱の用木として、花山の杉を七十本余り切る。
    7月 京都清水寺へ五箇条の禁制を与える。
    7/29 京都西院に在陣中、六角義賢の兵が出撃して粟田口を焼く。
    11/24 松山新太郎を先手として勝軍地蔵山・神楽岡を攻め、六角義賢に与する永原重澄・薬師寺兄弟・柳本兄弟らを討つ。
1562 永禄5 2/22 多聞山より南山城へ出陣、筒井氏に加担した狛・稲八妻氏と戦う。
    2/23 柳本城から多聞山へ帰陣した十市氏・郡山辰巳向井氏が筒井衆と戦い敗れる。
    3/5 畠山高政との和泉久米田の戦いで長慶の弟・実休が戦死する。
    3/7 六角義賢が入京し、朝廷を警備する。久秀は義興とともに山崎まで退く。
    3/10 義興とともに摂津鳥養・柱本へ陣を移す。
    4/5 六角義賢に呼応した畠山高政が長慶を飯盛城に攻める。
    5/14 義興・安宅冬康・三好長逸・政康・康長らとともに二万の大軍で、畠山高政に攻められている飯盛城救援に向かう。
    5/20 三好勢が河内教興寺付近で畠山方湯川直光らを撃破する(教興寺の戦い)。夜、筒井衆の陣する菩提山寺を焼く。
    5/21 筒井郷・十市郷・片岡郷を焼き払う。
    5/22 多聞山から兵を出し、宿井・藤坊を焼く。
    5/24 菩提山寺の筒井陳を攻め、坊舎を残らず焼き蔵物を奪う。
    5/25 矢田寺の諸坊を悉く焼き払う。東明寺・松尾・平群谷・生駒谷を焼く。
    5/28 秋山氏に加勢して釜口へ陣取る。井戸氏は久秀に同心し、人質を渡す。
    6/2 三好氏と六角氏が講和する。
    6/23 春日社に参り、神楽十二貫文を奉納する。
    6/26 教興寺の戦いの戦勝を賀し、義興とともに朝廷より太刀を賜る。
    7/16 久秀方の箸尾為綱が伴堂・金剛寺両城を破却、箸尾城を築く。
    8月 大和一国と南山城に徳政令を発す。
    8/12 多聞山城で棟上げが行われ、奈良中の人々が見物する。
    9/11 六角義賢・畠山高政に通じた伊勢貞孝・有馬重則を義興とともに京都杉坂に攻め、これを討つ。
    11/13 春日社の陪従御神楽の施主を務める。願主は近衛前久。
    11/15 春日社神事の下行銭千五百疋を朝廷に献上する。
1563 永禄6 1/11 多聞山城で茶会を開く。客は興福寺成福院・曲直瀬道三・松屋久政・堺宗可・竹内秀勝。
    1/22 久通とともに多武峰へ出陣する。
    1/23 多武峰攻めに備えて釜口に本陣を敷く。
    1/27 多武峰衆徒と多武峰東口で戦うが敗れ、壺阪まで退く。
    3/1 細川晴元が摂津富田普門寺で没す。享年50歳。
    3/3 春日祭の費用として十五貫を、清原枝賢から山科言継を通して献上する。
    5/24 筒井衆が信貴山城を攻め、「本ツフ」を焼き落とす。
    8/25 三好義興が摂津芥川城で病没。享年22歳。長慶は養子重存(のち義継)を家督に据える。
    12/20 細川氏綱が山城淀城で没す。
    *12/1 久通が従五位下・右衛門佐に叙任される。
    *12/14 久通に家督を譲る。
    *12/21 久通が将軍家に対し家督相続を許された御礼言上のため上洛する。
1564 永禄7 3/2 春日祭の費用として千五百疋を山科言継を通して献上する。
    3/16 広橋国光・万里小路惟房を通じ改元を申請するが返事は下されず。
    3/19 妻が没す。
    5/9 長慶が飯盛城で安宅冬康を謀殺する。享年39歳。
    6/22 重存が松永久通・三好長逸はじめ広橋国光らの公卿を含めて四千人を従え、将軍家に対し家督相続を許された御礼言上のため上洛する。
    7/4 三好長慶が飯盛城で没す。享年43歳。重存が跡を嗣ぐ。