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<信長の戦況判断の問題>

2011-06-25 10:42:07 | 信長の戦況判断

<信長の戦況判断の問題>  

ところで、黒田氏は織田勢が本陣に帰陣する駿河勢に紛れ込んだと想定しているのですから、それらの駿河勢は黒末川(扇川)の南にあったであろう村々や田畑に乱取りに出掛けていたことになります。そうでなければ中島砦まで進んだ信長は駿河勢に紛れ込むことができませんから。そして、千秋や佐々が小競り合いをしたのも乱取りに出ていた駿河勢だということになります。勿論、彼らを迎撃した部隊は、乱取り隊を掩護して善照寺砦や中島砦の織田勢を警戒していた部隊でしょう。また少なくとも、義元本陣から一町ほど先に陣取っていた先備は、当然信長を迎撃する態勢をとったはずです。それが役目ですから………?
ただ、解せないのは織田勢から4kmほどしか離れていないところに本陣が休息しており、信長が主力を率いて善照寺砦に姿をみせた状況下で、本陣の幹部らが沓掛から出陣してきたばかりの本陣を手薄にして、先鋒隊の朝比奈勢と一緒になって乱取りに興じさせ続けていたことです。もしそうであったとするならば、今川義元の率いる駿河勢の軍紀は武田・北条にはるかに劣るものであったことになります。乱取に興じていて敗北した部隊というのはそうあるものではありません。なぜならば、乱取は現在の我々が思うよりもはるかに組織的に、警備兵の警戒の下に行われていたからです[6] 
『雑兵たちの戦場』の藤木久志氏は、「島津軍の兵士たちの中には、その日の戦いの目標などそっちのけに、早く戦利品を持って帰りたいと、掠奪だけに熱中する指揮官と若干の兵士たち、つまり明らかに組織された掠奪集団が含まれていた」と言われ、朝鮮出兵の秀吉も彼自身が技術者や女の選別献上を要求しているのですから、明らかに戦争の目的の一つは略奪にあったことは間違いないようです。そうだとしましたなら、当時の乱取というものは、当然に組織化されていて効率的に実施されたものと思われ、「下知なくして」「御意なき以前」と軍法で定めるのであって、作戦や軍律を乱さぬ限り野放しにしたのではなく、安全かつ効率的に略奪をするのが戦争の大きな目的であったと考えた方がよさそうなのです。そう考えますと、少なくとも駿河勢は織田勢をまったく見縊っていたことが窺えます。これが潜在意識に作用して、歴史に残る油断を招いたのだということになるのだと思いますが、………本当にそうだったのでしょうか。 
ところで、鷲津を攻めた先鋒隊が乱捕りをしていたとしたならば、その大将である朝比奈備中守は、すぐさま部隊をまとめて出現した信長に備え、その後本隊と合流すべく指示したに違いありません。そうするのが役目だからです。それに、先鋒大将自らが略奪して回ったとも思えません。彼は許可し命令し監督し、そして上納させて再配分したはずだと考えられるからです。さらに、朝比奈は桶狭間合戦で戦っておらず、それをしなかったと咎められてもいないのです。それに、乱取りを終えた駿河勢は、その後は何処へ向かう心算だったのでしょうか。義元と一緒になるために大高城へ向かうのでしょうか。それとも義元と別れて、一足先に西三河に帰還するのでしょうか。………いずれにせよ、筋の通った説明はなかなか困難です。
因みに、桶狭間山の付近に織田方の村は殆どないのですが、全くないわけでもありません。東海道沿いには平部の集落があったらしいですし、中島砦は信長が「南中島とて小村あり」というのを砦にしたことが知られています。また、その砦に程近い善明寺や瑞松寺(瑞泉寺)の辺りにも檀家になった住民の村があったはずです。しかし、諏訪神社にも、善明寺にも安堵されていたかは不明なのですが、戦火にあったという伝承はないのです。勿論、桶狭間村にもそこにある長福寺も戦火に合ってはいないのです。他にも村はあります。大高城下にも村がありますし、前之輪や丸内にも集落はあったものと思われます。
因みに、黒田説にも有利な記事が、何かと問題視されている『武功夜話』にあります。そこでは、「一、佐々党と我等一同が鳴海から転じて、善照寺に辿り着いたときの人数は、八十有余人でしかなかった。中島砦はすでに駿河勢が満ち溢れ、手の施しようもなかった。おりしも大師嶽の辺りで鬨の声があがったが、四面は真っ暗で雷を伴い、天地は鳴動して止まない有様。なすすべもなく、その場に呆然と立ち竦んでいると、やがて狭間辺りから勝鬨の声が天地に木霊した。が、それは味方か敵かも判らなかった。佐々内蔵之助(成政)殿は、遅参したと知るや、顔面を引きつらせて一同に下馬を指示された。見れば三町ばかりの間は、幔幕は泥土にまみれ、辺りには人馬が倒れていて惨状を呈し、駿河勢も潮の引いたように一人もいない。佐々内蔵之助はじめ柏井衆は、田楽狭間の近くにありながら、かくの如きの不覚であった。織田上総介様は、佐々党らには目もくれず、治部少輔の首級を鑓先に掲げて清須へ御引き揚げになった。一党の者も致し方なく、夕方には竜泉寺砦へ戻った」と書いているからです。
何れにせよ、『信長公記』を見れば、二千名にも上る信長勢が中島砦から出て、駿河勢に紛れ込むことができたうえ、山際についた信長勢が他の駿河勢のように本隊に合流せずに、山麓辺りに屯していたことが明らかなわけです。まだ、雨は降りだしていません。それが、それでも怪しまれることがなかったか、軽視されたことになりますから、もしこれが事実であったとすると、駿河勢の迂闊さ、お粗末さは特筆すべきものだということになります。事実は小説より奇なりという言葉どおりであったわけです。
ところで、黒田説が正しければ、義元本陣の兵力も推定できるという副次効果が期待できます。つまり、旗本が「三百騎ばかり」しかいなかったわけですから、それ以外の武士を百人と見積って、武士の割合を一割と仮定して計算しますと、義元本陣は四千人、それに本陣先備えの松井勢を一千人とみて、凡そ五千人規模であったことになります。すると、信長は歴々の衆が六七百いたことが知られていますから、実戦力では互角かそれ以上であったことになりますので、信長が決戦を挑もうとするのも、そう無謀なことではないとも言えそうです。
こうしてみますと、この黒田説は、義元が大高からの帰還途中であったとし、先鋒隊が緒川や沓掛方面へ乱捕りに出かけたとして始めて『信長公記』との整合性が得られるのだと思えます。
さらに、この学説が学会に認められるようでしたならば、さらにいろいろ面白いことが考えられます。
例えば、義元も上杉謙信と同様に「食うため」[7]に尾張国境へ出てきた可能性があることになります。永禄二年の駿河遠江の作柄はどうだったのでしょうか。天候は不順だったのでしょうか。それとも、武田信玄と同じく国内の矛盾(過重な軍役負荷)を国外に転嫁するために、頻繁に隣国への領土拡張を今川氏も行う必要に迫られていたのでしょうか。
(2008.12.30 追加) 未だに黒田氏の論文を手に入れることができないでいますが、一番知りたかった家康の証言とは何かということについては、藤本正行氏の『桶狭間・信長の奇襲神話は嘘だった』で知ることができました。それによると、その正体が小幡景憲の『甲陽軍鑑抜書後集』だというのですからがっかりです。


[1]金持ち喧嘩せず」…義元や重臣たちの判断は、後方に退けば味方もいるし城もある。こんなところで計算外の戦闘を行うより、一旦退却する方が無難であるという<健全で常識的>なものであったというのが藤本氏の説です。……… 一般には、最も精鋭が集められているのが本隊です。おまけに通常の本隊は七段(先・先・脇・旗・後・荷・遊)に構えているのです。その本隊が、それも自軍よりも兵力において劣る敵に正面から迫られたからといって退くのは論外の想定でしょう。それこそ裏崩れの引き金を引くことになります。戦争は「勢い」だからです。だから、総大将が後退するということは在り得ないことだと思います。それに、あらゆる格闘技は前に出よと教えて、一寸たりとも退くことを嫌います。相撲が最も良い例です。ですから、金持ち喧嘩せずという発想は、コンピュータゲーム社会の現代っ子に流行の安易な”リセット”感覚であって、一旦退いて出直すなどという戦国武将がいるはずがありません。武士は、臆病や未練を最も忌み嫌うものだからです。唯一の例外が、織田信長でして、その時の信長は我が身一つで遁走したのです。朝倉宗滴などは、「聞逃は構わない。しかし見逃はいけない」と訓戒しているほどです。
[2]臨機応変」…戦場にそつなく展開した今川軍であるが、信長の戦場到着を知りながら、信長不在という前提に立って作戦を進めてきたために、信長出現という計算外の事態が生じてしまった。そのため、前軍と3kmも離れた義元との間で報告と命令を遣り取りしていて、そのため適切な動きがとれなかった。それにより今川前軍は簡単に討ち破られたというのが藤本氏の説です。………しかし、当時は前近代ですから、近代的な意味での「命令」も「任務」もありません。何よりも優先されたのが個人の「功名」です。従って、絶好の功名の機会が生じたというのに、義元に御伺いを立てなければ戦闘が開始できないなどという事態が生じるはずがありません。全くの時代錯誤の議論です。このような間違いが生じた原因は、藤本氏が太平洋戦争のミッドウエー海戦という近代戦と比較して「前近代の合戦」を説明しようと試みたことにあるのだと思われます。
[3] 鷲津砦  前之輪の300m南にある「卍」(明忠院)の裏山が鷲津砦。史跡のある鷲津公園ではない。『大高町誌』では『蓬左文庫桶狭間図』による位置関係から、明忠院裏山に比定している。ここは、西方に岬のように張り出しており、標高は不明であるが現在でも30m超あるから、善照寺砦からの展望も効く。
[4] 信長を欺くために、義元は大脇から大高道を使い、途中から緒川道によってその行動を秘匿したのだと言い張る向きがおられるかも知れませんが、もしそれが事実ならば、義元は足手まといになる小荷駄隊を少なくとも奪取した丸根砦か、本来なら大高城に送ったはずなのです。しかし、太田城番の元康は何も知らなかったというのですから、それもあり得ません。
[5] 『三河物語(1626)』は「程なく」、『総見記(1702)』は「難なく」、『信長公記』は「はや鷲津・丸根の両砦は落去したと覚しくて
[6]  井伊直政が他界するにあたって、石原主膳・孕石備前・広瀬左馬助の三人に命じて、特に甲州・信濃及び越後での経験と見聞を取捨按配して、井伊家末代の作法(軍事)を策定させたという『井伊家御軍法』では、「かり田・小屋おとし者、下知次第に、騎馬一人づゝ、足軽鉄炮二拾挺・弓拾挺宛苅取遣す可く候。稲・薪等其所に而割符之事。但し間遠に候はゞ、これにしたがひ人数下知有る可事」とあります。 『信長公記』の記事は乱取ではありませんが、「清洲の並び三十町隔ており(下)津の郷に、正眼寺とて会下寺あり。然るべき構えの地なり。上郷岩倉より取手(砦)に仕るべきの由、風説これあり。これに依り、清洲の町人どもをかり出し、正眼寺の藪を切り払ひ候はんの由にて、御人数出され候へば、馬上八十三騎ならでは御座なく候と申し候」とあるように、少ないとはいえ護衛兼監督をつけているのです。
[7]  (2010.03.15 追加) 2009年12月に江畑秀郷氏が『桶狭間』という著書で、永禄三年の駿河が飢饉であったという説を立てています。詳細についての批判は別章を設けました。 

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桶狭間の戦いにおける,(4)別動隊説を検証する     

2011-06-25 10:34:28 | 桶狭間の真実やいかに

(4)別動隊説を検証する     (初出2 007.12.18)   

桶狭間の戦いにおける一方的な大勝利を迂回を考えずに可能にする方法には、「別動隊」を考えることで解決することがあります。

但し、この別動隊説には根本的な問題がいくつかあります。

  1. 当時の信長には支隊(別動隊)を預けて時刻を計って分進合撃できるような官僚的指揮官がその配下にはいなかっただろうと思われること。
  2. 信長が別動隊を使って挟撃作戦の類を過去に行ったことがないと思われること。…支隊に分割して多方面作戦を行った例はいくつかあります。天文廿一年(1552)八月の深田・松葉両城奪還作戦では、「稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸け付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介(自らは)、孫三郎殿一手になり、海津ロヘ御かかり侯」とあって、全軍を四手に分かっています。不確実なものですが、永禄二年四月に福谷(ウキガイ)砦の酒井忠次を攻めたときに、自らが岩崎丹羽氏を牽制しておいて、柴田・荒川をして攻めさせたというものが『東照軍鑑』にあるのですが、成功はしていません。
  3. 別動隊を指揮できそうな武将は全て、付城の守将を務めていて出払っていると考えられること。
  4. 『信長公記』に名前の出てこない大物武将を別動隊とした場合には、当該諸家にその事績が伝わらないこと。
  5. 分進合撃や別動隊との共同作戦を実現することは、無線通信手段のなかった時代では極めて困難なこと。…あのナポレオンでさえ、ワーテルローではグルーシーの部隊を間に合わせることができなかったのです。ナポレオン自身が後日、別動隊を呼び寄せるために常と違って一人しか伝令を出さなかったことを後悔しているぐらいです。しかし、全くできなかったわけでもありません。戦国時代に別動隊との共同作戦を得意としたのは島津氏であり、後世「釣り野伏」と言われる待ち伏せ作戦が有名です。
  6. 桶狭間の戦いの後の信長の作戦に、別動隊を用いた作戦は長篠合戦しかなく、この戦いでは長篠城の救援が主目的ですから、敵の鷲巣砦攻略には大軍を派遣しています。そして、敵に優越する兵力があれば、別動隊どころか複数の攻め口から攻撃することは自由であるというよりも、混雑を避けるためにも必然になるに過ぎない現象になります。信長が敵より劣る兵力で別動隊などは使用した実績はありません。 (2008.1.27)
  7. 敵に劣る兵力で二正面に敵を受けて戦った稲生合戦ですら、支隊を設けなかったことからみても、当時の信長には別動隊の指揮を任すことができるような野戦指揮官は未だ育っていなかったと考えるべきであること。 (2008.1.27)
  8. 戦後、別動隊の指揮官が論功行賞に与かっていないこと。

別動隊による可能性を指摘したのは、橋場日月氏の『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』である。

橋場氏の指摘の新しい視点は、これまでの迂回説と異なり、信長自身が迂回したのではなく、配下の武将それも新設して間もない馬廻部隊の武将が迂回挺身を指揮している点である。………それなのに、この後、此の馬廻りの指揮官が支隊を率いて活躍することは伝えられない。馬廻の武将の多くは攻囲戦での周番を担当している。それは馬廻の本来の任務が近衛兵・親衛隊であったからではないかと考える。

橋場氏のこれらの著作では、橋場氏が一般にはこれまで見過ごされてきたか又は触れることを避けられたり、合理的な説明がなされないままできた点に注意を促しているものがある。

  1. 大高城への兵粮搬入日が『信長公記』と『三河物語』で食い違うように見えること。
  2. 前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人は何処で誰と戦ってきたのかという問題。
  3. 古くから指摘されている問題だが、『蓬左文庫・桶狭間之図』に鎌倉往還と扇川が交差するすぐ東側に書き込まれた「今川魁首(先鋒)此道筋を押」が、史実であるとすれば一連の戦いのどこに位置づければよいのかという疑問。
  4. 『信長公記』に紹介されていない重臣連は本当に参陣していなかったのかを問うている。そして天理本では一部の武将の参陣が認められること。
  5. 山際に着いてからの信長勢が、暴風雨が止むまで信長が移動・戦闘を行った記事がないこと。
  6. 鉄炮は本当に使われなかったのかという問題。
  7. 義元が往路に刈谷水野氏を攻撃せず、岡部信元が帰路に刈屋城に信近を襲った理由。
  8. 服部左京助が黒末川河口に参陣した意味。

逆に、氏が触れなかったり説明していない問題もある。

  1. 鷲津丸根を攻めた駿河勢の動向が不明であること。
  2. 今川義元が沓掛城を出立した時刻。
  3. 服部友定が約束の時間に義元が来ないからと言って、勝手に引揚げてしまったうえ、大高城番になった松平元康には異変を知らせなかったこと。そして、元康が義元の到着がなくても心配していないこと。

 

(2009.01.23 追加)  以下は、小生のブログ「読書三昧」に2008.07.10に書いたことに一部手直しして転載したものである。

『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「信長は時速6kmほどで(清洲から熱田までの)12km弱を移動した計算になる。これは旧日本陸軍の標準的行軍速度の時速4kmより若干早い速度だ。信長は、後続の軍勢が追い付いて来られる速度で進んだのであるp173………信長が善照寺砦から分派して鎌倉往還を東進させた部隊は、途中暴風雨が吹きはじめる中、今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至り、さらにこの部隊は大高道を南下して上ノ山に至る。距離はほぼ3km強であり、………旧陸軍が通常行軍を時速4km、「速歩」という強行軍を時速5kmと規定していた事から見ても、それと比較して無理のない移動速度と距離だと言えるp215」と書かれる。

戦国時代の人々の身体能力は本当のところはよく分からない。江戸期の旅行記録をみると昔の日本人は驚異的に強靭な身体を持っていたらしい。昭和の陸軍も同様であったらしいことは知られている。従って、その明治以降の陸軍が定めた作戦要務令が合理的に戦争を継続して遂行するための行軍速度を時速4km、強行軍を時速5km急行軍を時速8kmと定めたことは無視できない。

『作戦要務令・第320』「撃兵団の前進速度は1時間4粁、兵の負担量を軽減せる場合は1時間5粁とす。大隊以下の小部隊にして負担量を軽減せる場合は、急行軍の速度は1時間8粁に達す」とあり、兵の負担量を軽減し大隊以下の小部隊にしなければ、急行軍の速度は達成できないなのである。

通常、歩兵の行軍は一時間で4kmを50分歩いて10分小休止するペースで行軍する。昼食の休憩は1時間大休止し、連日行軍の場合は一日24kmである。『太閤記』高麗陣ニ就イテノ掟條々でも「一、人数おし之事、六里を一日之行程とす。」とあるから戦国時代と旧軍も各国陸軍も概ね変わらない。

強行軍は行軍時間を長くしたり、休憩時間を短くすることで行い、一日に十時間の行軍で40kmの距離を進む。が、実際にはそんな決まりは無いに等しかったらしい。行軍速度を上げることも強行軍と言わないこともないが、急行軍という。急行軍になると駆け足になるが、休息時間も減らす点は強行軍とさして違わない。

『作戦要務令・第321』には、「一般兵団の一日行程は、普通行軍に於いて8時間32粁、強行軍に於いては10乃至12時間以上(大休止の時間を増加す)とす。…」とあり、戦場到着後直ちに戦闘に入れる状況にあるわけではない。現に、賤ケ岳の場合も21時に全軍が着陣したといわれているのだが、秀吉は軍勢に喚声をあげさせはしたが、総攻撃を命じたのは夜明けを期して行うということであった。ところが、それに驚いた佐久間盛正は23時に総退却を始めた。それでも、秀吉が佐久間勢退却中の報を得たのは翌日am2時であり、賤ケ岳にいた既存の秀吉方守備隊は、それぞれ対応して逐次攻撃を開始したらしい。それでも佐久間盛正の部隊は、am3時には総退却を無事に完了しているのである。ですから、大垣から駆け付けて疲労困憊した部隊が戦闘に参加し始めたのは、もっと後になる。


つまり、時速6kmという速度は、若干早いなどという行軍速度ではない。駆け足に近いのですから、時速6kmは完全武装した歩兵が追い付ける速度などではありません。
旧日本陸軍の強行軍は時速5kmなのだ。時速6kmというのは、ほとんど走っている状態だ。


信じられないことなのだが、旧日本軍の兵士たちは通常装備30kgを背負い、そのうえで機関銃隊ならば機関銃を、砲兵隊ならば砲身を担いで、そのような強行軍を実際に行ったといわれている………。

行軍速度というものは部隊の規模が大きくなるにつれて遅くなるし、異兵種と連合する場合は遅い速度の部隊を基準とすることになる。(分進することが効率的ではあるのだが、敵に遭遇する状況では致命的な結果を招来することになる場合もあり、そう簡単に兵力を分散させるわけにもいきません。)歩兵が追い付けないから、信長は熱田でその参集を待つ必要があったのだろうと考えるべきです。もし、信長に常備軍があってそれが清洲に駐屯していたならば、であるのですが………。そうでなければ、余りあてにできない国人衆が熱田に集合するのを待っていたと考えなければならないことになります。

だから、信長が小姓や馬廻など乗馬身分の者だけで挺身したのならば、三里を時速6kmは十分に可能であるでしょうが、歩兵を随伴した場合には強行軍を超えているのですから、到着した戦場で直ちに戦闘に入ったのでは、兵士たちは使い物にならないのではないかと危惧されるわけです。一般に戦国時代の軍勢に占める騎兵の割合は一割程度であるといわれるからです。

戦史を見ても強行軍の例は多く、一日に80~100km以上という行軍速度の例がある。
何れも時速に換算すると2~3kmというのが多い。

時速4kmを超える例は、第二次ポエニ戦争のローマの武将クラウディウス・ネロが、精兵7千を選り抜いて可能な限り軽装にさせ、食料も携帯せずに道筋にある町に食事を用意させ、800kmを一昼夜に100km(時速4km)以上の速度で強行軍させたものぐらいしかない。

橋場氏は、「秀吉の賤ヶ岳合戦の際の移動速度が時速8kmだった事、旧陸軍の早足(時速6km)・駆け足(時速8km以上)を勘案すれば、今川別働隊を風雨に乗じて撃破した地点から沓掛まで4km、さらに沓掛から4kmを移動するのにそれほど無理があるとは思えない。」とされるのだが、背後から吹き飛ばされる場合はまだ良い。嫌でも運ばれるのだから。しかし、沓掛から大脇村曹源寺へ南下するときには横風を受けて吹き飛ばされたであろうし、曹源寺から上ノ山へは向かい風の中を進まなければならないのだ。信長が義元本陣に突撃したのは風雨が止んでからのことであるのだから、それを、楠が吹き倒される強風の中を挺身したというのだからスーパーマンとしか言いようがない設定である。

 

              

(6)鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

(p18)「常識的に考えても、織田家との間で国境の城砦を取ったり取られたりしているような状況では、一気に上洛するなど到底無理である。」

………この指摘は重要である。尾三国境の北部・品野城などでは信長の攻勢にあって防衛一辺倒であり、後詰がされたという話がない。南部の大高城の攻防は早い時期から始まっていて、笠寺台地の駿河勢は駆逐されている可能性があることを考えると、鈴木氏の指摘は看過できないものがある。信長の軍事力は三河・遠江・駿河の辺境に派遣された軍勢とではあるが、互角に戦えるだけの実力を備えつつあったことになる。そして、その信長の軍隊が七~八百の歴々からなる常備軍を中核とした二~三千の兵力であった可能性があるようにも思える。

(p18)「(清須城を)力攻めにすれば膨大な損害を覚悟しなければならない。といって兵糧攻めなどしていたなら、大変な手間と時間が必要となる。義元にそれだけの準備と余裕があったとは考えられないから、尾張一国の制覇でも。まだ目的として大きすぎるだろう。」

………これについては、「天理本信長記」の「(2)軍議があった夜」で詳しく論じたとおりだが、安城も刈谷も落ちているのだから、平城で一重堀の舘城である清須城を攻め落とすのに時間はかからなかったろう。

(p18)「この時代、優勢な敵が迫ってくれば、領民はパニックを起こすのが普通である。…このときの織田領内では、まったくそうした形跡が見当たらない。それどころか熱田の町人たちなどは、今川に与党して海上から攻めてきた一向宗徒と戦って追い返したりしている。本当に今川軍が迫ってくるなら、報復が恐ろしくて、そんなことはできないだろうし、そもそも大勢の町民が街のなかに止まっていたはずがない。」

………この視点も重要である。もし熱田の町人でさえ義元が尾張との国境を踏み越えて熱田にまで侵出することなどあり得ないと考えており、且つ『天理本信長記』のいうように町民らが動員されて、のこのこ善照寺までもついて行ったことが事実ならば、一つ考えねばならないことは、義元の軍勢は牛一が今に伝えるような四万五千もの大軍などではなかったことであり、もう一つは、熱田は湊町であり自由港としての性格を持っており、港町を無暗に攻めて商人・町人を追い散らすことはしないだろうという見込みがたっていたかも知れないということである。熱田は港であるから役に立つのであり、信長ですら堺幕府があった堺衆に対しては交渉(矢銭を課した)から入っているのだ。これが戦国時代も終盤に近くなると見境もまくなり、博多湊などは1580年には竜造寺氏が、1586年には島津氏が焼き討ちを行って灰燼に帰している。

(p20)「そもそも戦闘を始めた時点では、信長は義元が何処に居るのかということも知らなかったと思われる

………鈴木氏が言われる「戦闘を始めた時点」が午後二時頃のことであるならば、具体的な居場所を知らなかったとはいえる。しかし、善照寺に参陣した時点では桶狭間山に本陣を置いていたことも知らなかったとは断定できない。何故なら、山上には総大将の居所を示す旗幟が立っていたものと思われるからである。だから、牛一は「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、」と書いたのだと思うのだ。単に、敵勢が屯していたことを義元に代表させたわけではないと思うのだ。

(p20)「信長の狙いは…とりあえず今川軍に打撃を与えて追い返すことだったろう。…くたびれた敵部隊を自軍の主力で叩くことによって、確実にポイントを稼ごうとしたのである。」

………とりあえず今川軍に打撃を与えることが目的ならば、付城を攻めている背後を攻撃することが常道だろうが、これについての説明は藤本氏も十分になされたとは言えない。

………「自軍の主力」と言われるが、たった二千が信長の主力なのだろうか?

(p20)「本拠を遠く離れてやってきている彼らの半ば以上は、補給要員などを含めた非戦闘員だったと考えるべきである。相手の信長勢は清須から真っ直ぐやってきたのだから、馬丁・槍持などを除けば、大部分が戦闘員だったであろう。」

………彼等駿河・松平同盟軍の根拠地は岡崎城であるのだから、非戦闘員が多かったということはできまい。先鋒を務めた松平勢のことはどう考えるのだろうか?

(p20)「信長勢は一団となっていたが、今川の部隊は各所に分散していた。」

………これが、暴風雨のために統率が乱れたというのならば問題は少ないが、移動中であったためとか、布陣が各所にバラバラであったというのであるのならば、それには根拠がないと言わざるを得ない。

(p22)「 (清須城における前夜の)籠城の議論にしても…前線で苦戦している味方を見捨てたまま大将が城に逃げ籠ってしまうことなど考えられない。もしそんなことをしたら、信長はたちまち部下たちから見放されてしまったに違いない。」

………では何故、信長は後詰に出かけないのに部下に見放されなかったのか。それとも、雑兵二百人にしか随伴しなかったのが見放された結果なのか。

………この鈴木氏の著書は『天理本信長記』が公にされる前のものではありますが、籠城しないことが常識であるとしたならば、信長や清洲城にいたと思われる重臣たちの行動は異常であると言わざるを得ません。

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”2000/11月のお宝発見!

2011-06-25 10:14:05 | 第28巻”ステレオ写真

”2000/11月のお宝発見!


第28巻”ステレオ写真


アンティークおもしろ道具のページで紹介していた【ステレオスコープ】
(ステレオビューアー)で見る立体写真です。
左目で左の写真を、右目で右の写真をじっと見ていると
左右の写真が中央に寄ってきて、うまく重なれば立体的に見えます。

画像1
Gems of Niagara (E&H.T.Anthony&Co.,New york.)
11.3×17.7cm 1870年代

画像1.
ナイアガラの吊り橋です、こういう構図は1枚でも立体的に見えやすいので、
江戸時代には、「覗き眼鏡」を用いた眼鏡絵や浮き絵とよばれた
浮世絵によく使われています。

どうしても絵が重ならないという人は、安い虫眼鏡を二つ買って来て下さい。
100円ショップでも売っています。
レンズの直径が6cm位のものが見やすいでしょう。

それぞれの虫眼鏡を両目に当てて、
顔をディスプレイに近づけて行きます、
左目で左右目で右の写真の中央が見えるようにします。

焦点が合ったところで、
中央に重なった絵が立体的に見えるはずです。
目が慣れてくるとすぐに見えるようになります。

画像2
Grand Procession April 10th 1871.in Commemoration of
the Treaty of Peace between Germany and France
(E&H.T.Anthony&Co.,New york.) 8.7×17.85cm 1870年代

画像2.
ニューヨークのブロードウェイのパレードを写したもの
写真をよく見ると、パレードの人々がボケています。

当時のカメラは、露光時間が長いので動いているものを撮るのが
難しかったのでしょう、建物の前にあった馬車が動き出したため、
馬車の半分が消えている写真もあります。

まだ、立体的に見えないと言う人は、
牛乳パックを半分に切って、セロハンテープで付け
双眼鏡の様なものを作り、虫眼鏡もセロハンテープで
取り付けます。これでステレオスコープの出来上がり

これでも見ることの出来ない人は、
次の日にでも、目医者さんに行った方が良いでしょう。

画像3
向島の桜花 (MEIDE BY NAITO. TOKYO JAPAN)
9.3×17.3cm 1910年代

画像3
向島の桜花と書かれています。左に見えるのが隅田川でしょう、
今は、コンクリートの護岸と上には首都高速6号線が走っている所の様です。
白黒写真に手彩色で色をつけたカラー写真です。
この他に、日比谷公園の鶴・浅草観音の本堂・上野國榛名湖ノ景とか色々
ありますが、日比谷公園の池に丹頂鶴がいるのにはオドロキです。.

画像4.
A Japanese Tandem, Japan. (COPYRIGHT GRIFFITH&GRIFFITH)
8.9×17.8cm 大正時代?


画像4.5は写真を印刷したものです。アメリカで販売されていたようで、
日本の風俗をアメリカ人の感覚で紹介している物が沢山あります。
画像4.A Japanese Tandem,(Tandem)とは、縦並びの2頭に引かれる馬車のこと。
そう言えば、そう見えますが・・・  他にも、横浜の盆踊りの風景を、
Maturi festival. Music Stand and dancers in the Streets of Yokohama,Japan.

4人の若い舞子さんがお茶を飲みながらお菓子を食べている写真は、
Japanese Maidens Having a Jolly Tea Party
と題が付けてあります。

画像5.
Youthful Mothers of Japan.(不明)
8.9×17.8cm 大正時代?


画像4.この写真も日本の農村の子供達の風景ですが、
よく見ると、一番大きな子は、大きな竹の籠を背負って
農作業の手伝いでしょうか、・・仕事が出来ない小さな子供は
皆、赤ちゃんを背負って子守をしながら遊んでいます。

Youthful Mothers of Japan.日本の若々しい母親達と訳すのでしょうか、
日本もこういう時代があったのですね・・・・・

自分でステレオ写真を作りたい方は、
アンティークおもしろ道具のページの【ステレオスコープ】で紹介しています。
また、デジタル画像をステレオ写真にするソフトもあるようです。
ご感想などありましたなら伝言板にお書き込み下さい。

私、英語が苦手なもので・・お気づきの点ありましたら
こちらへメールをお願いしますすぐに訂正させて頂きますので。