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<信長の戦況判断の問題>

2011-06-25 10:42:07 | 信長の戦況判断

<信長の戦況判断の問題>  

ところで、黒田氏は織田勢が本陣に帰陣する駿河勢に紛れ込んだと想定しているのですから、それらの駿河勢は黒末川(扇川)の南にあったであろう村々や田畑に乱取りに出掛けていたことになります。そうでなければ中島砦まで進んだ信長は駿河勢に紛れ込むことができませんから。そして、千秋や佐々が小競り合いをしたのも乱取りに出ていた駿河勢だということになります。勿論、彼らを迎撃した部隊は、乱取り隊を掩護して善照寺砦や中島砦の織田勢を警戒していた部隊でしょう。また少なくとも、義元本陣から一町ほど先に陣取っていた先備は、当然信長を迎撃する態勢をとったはずです。それが役目ですから………?
ただ、解せないのは織田勢から4kmほどしか離れていないところに本陣が休息しており、信長が主力を率いて善照寺砦に姿をみせた状況下で、本陣の幹部らが沓掛から出陣してきたばかりの本陣を手薄にして、先鋒隊の朝比奈勢と一緒になって乱取りに興じさせ続けていたことです。もしそうであったとするならば、今川義元の率いる駿河勢の軍紀は武田・北条にはるかに劣るものであったことになります。乱取に興じていて敗北した部隊というのはそうあるものではありません。なぜならば、乱取は現在の我々が思うよりもはるかに組織的に、警備兵の警戒の下に行われていたからです[6] 
『雑兵たちの戦場』の藤木久志氏は、「島津軍の兵士たちの中には、その日の戦いの目標などそっちのけに、早く戦利品を持って帰りたいと、掠奪だけに熱中する指揮官と若干の兵士たち、つまり明らかに組織された掠奪集団が含まれていた」と言われ、朝鮮出兵の秀吉も彼自身が技術者や女の選別献上を要求しているのですから、明らかに戦争の目的の一つは略奪にあったことは間違いないようです。そうだとしましたなら、当時の乱取というものは、当然に組織化されていて効率的に実施されたものと思われ、「下知なくして」「御意なき以前」と軍法で定めるのであって、作戦や軍律を乱さぬ限り野放しにしたのではなく、安全かつ効率的に略奪をするのが戦争の大きな目的であったと考えた方がよさそうなのです。そう考えますと、少なくとも駿河勢は織田勢をまったく見縊っていたことが窺えます。これが潜在意識に作用して、歴史に残る油断を招いたのだということになるのだと思いますが、………本当にそうだったのでしょうか。 
ところで、鷲津を攻めた先鋒隊が乱捕りをしていたとしたならば、その大将である朝比奈備中守は、すぐさま部隊をまとめて出現した信長に備え、その後本隊と合流すべく指示したに違いありません。そうするのが役目だからです。それに、先鋒大将自らが略奪して回ったとも思えません。彼は許可し命令し監督し、そして上納させて再配分したはずだと考えられるからです。さらに、朝比奈は桶狭間合戦で戦っておらず、それをしなかったと咎められてもいないのです。それに、乱取りを終えた駿河勢は、その後は何処へ向かう心算だったのでしょうか。義元と一緒になるために大高城へ向かうのでしょうか。それとも義元と別れて、一足先に西三河に帰還するのでしょうか。………いずれにせよ、筋の通った説明はなかなか困難です。
因みに、桶狭間山の付近に織田方の村は殆どないのですが、全くないわけでもありません。東海道沿いには平部の集落があったらしいですし、中島砦は信長が「南中島とて小村あり」というのを砦にしたことが知られています。また、その砦に程近い善明寺や瑞松寺(瑞泉寺)の辺りにも檀家になった住民の村があったはずです。しかし、諏訪神社にも、善明寺にも安堵されていたかは不明なのですが、戦火にあったという伝承はないのです。勿論、桶狭間村にもそこにある長福寺も戦火に合ってはいないのです。他にも村はあります。大高城下にも村がありますし、前之輪や丸内にも集落はあったものと思われます。
因みに、黒田説にも有利な記事が、何かと問題視されている『武功夜話』にあります。そこでは、「一、佐々党と我等一同が鳴海から転じて、善照寺に辿り着いたときの人数は、八十有余人でしかなかった。中島砦はすでに駿河勢が満ち溢れ、手の施しようもなかった。おりしも大師嶽の辺りで鬨の声があがったが、四面は真っ暗で雷を伴い、天地は鳴動して止まない有様。なすすべもなく、その場に呆然と立ち竦んでいると、やがて狭間辺りから勝鬨の声が天地に木霊した。が、それは味方か敵かも判らなかった。佐々内蔵之助(成政)殿は、遅参したと知るや、顔面を引きつらせて一同に下馬を指示された。見れば三町ばかりの間は、幔幕は泥土にまみれ、辺りには人馬が倒れていて惨状を呈し、駿河勢も潮の引いたように一人もいない。佐々内蔵之助はじめ柏井衆は、田楽狭間の近くにありながら、かくの如きの不覚であった。織田上総介様は、佐々党らには目もくれず、治部少輔の首級を鑓先に掲げて清須へ御引き揚げになった。一党の者も致し方なく、夕方には竜泉寺砦へ戻った」と書いているからです。
何れにせよ、『信長公記』を見れば、二千名にも上る信長勢が中島砦から出て、駿河勢に紛れ込むことができたうえ、山際についた信長勢が他の駿河勢のように本隊に合流せずに、山麓辺りに屯していたことが明らかなわけです。まだ、雨は降りだしていません。それが、それでも怪しまれることがなかったか、軽視されたことになりますから、もしこれが事実であったとすると、駿河勢の迂闊さ、お粗末さは特筆すべきものだということになります。事実は小説より奇なりという言葉どおりであったわけです。
ところで、黒田説が正しければ、義元本陣の兵力も推定できるという副次効果が期待できます。つまり、旗本が「三百騎ばかり」しかいなかったわけですから、それ以外の武士を百人と見積って、武士の割合を一割と仮定して計算しますと、義元本陣は四千人、それに本陣先備えの松井勢を一千人とみて、凡そ五千人規模であったことになります。すると、信長は歴々の衆が六七百いたことが知られていますから、実戦力では互角かそれ以上であったことになりますので、信長が決戦を挑もうとするのも、そう無謀なことではないとも言えそうです。
こうしてみますと、この黒田説は、義元が大高からの帰還途中であったとし、先鋒隊が緒川や沓掛方面へ乱捕りに出かけたとして始めて『信長公記』との整合性が得られるのだと思えます。
さらに、この学説が学会に認められるようでしたならば、さらにいろいろ面白いことが考えられます。
例えば、義元も上杉謙信と同様に「食うため」[7]に尾張国境へ出てきた可能性があることになります。永禄二年の駿河遠江の作柄はどうだったのでしょうか。天候は不順だったのでしょうか。それとも、武田信玄と同じく国内の矛盾(過重な軍役負荷)を国外に転嫁するために、頻繁に隣国への領土拡張を今川氏も行う必要に迫られていたのでしょうか。
(2008.12.30 追加) 未だに黒田氏の論文を手に入れることができないでいますが、一番知りたかった家康の証言とは何かということについては、藤本正行氏の『桶狭間・信長の奇襲神話は嘘だった』で知ることができました。それによると、その正体が小幡景憲の『甲陽軍鑑抜書後集』だというのですからがっかりです。


[1]金持ち喧嘩せず」…義元や重臣たちの判断は、後方に退けば味方もいるし城もある。こんなところで計算外の戦闘を行うより、一旦退却する方が無難であるという<健全で常識的>なものであったというのが藤本氏の説です。……… 一般には、最も精鋭が集められているのが本隊です。おまけに通常の本隊は七段(先・先・脇・旗・後・荷・遊)に構えているのです。その本隊が、それも自軍よりも兵力において劣る敵に正面から迫られたからといって退くのは論外の想定でしょう。それこそ裏崩れの引き金を引くことになります。戦争は「勢い」だからです。だから、総大将が後退するということは在り得ないことだと思います。それに、あらゆる格闘技は前に出よと教えて、一寸たりとも退くことを嫌います。相撲が最も良い例です。ですから、金持ち喧嘩せずという発想は、コンピュータゲーム社会の現代っ子に流行の安易な”リセット”感覚であって、一旦退いて出直すなどという戦国武将がいるはずがありません。武士は、臆病や未練を最も忌み嫌うものだからです。唯一の例外が、織田信長でして、その時の信長は我が身一つで遁走したのです。朝倉宗滴などは、「聞逃は構わない。しかし見逃はいけない」と訓戒しているほどです。
[2]臨機応変」…戦場にそつなく展開した今川軍であるが、信長の戦場到着を知りながら、信長不在という前提に立って作戦を進めてきたために、信長出現という計算外の事態が生じてしまった。そのため、前軍と3kmも離れた義元との間で報告と命令を遣り取りしていて、そのため適切な動きがとれなかった。それにより今川前軍は簡単に討ち破られたというのが藤本氏の説です。………しかし、当時は前近代ですから、近代的な意味での「命令」も「任務」もありません。何よりも優先されたのが個人の「功名」です。従って、絶好の功名の機会が生じたというのに、義元に御伺いを立てなければ戦闘が開始できないなどという事態が生じるはずがありません。全くの時代錯誤の議論です。このような間違いが生じた原因は、藤本氏が太平洋戦争のミッドウエー海戦という近代戦と比較して「前近代の合戦」を説明しようと試みたことにあるのだと思われます。
[3] 鷲津砦  前之輪の300m南にある「卍」(明忠院)の裏山が鷲津砦。史跡のある鷲津公園ではない。『大高町誌』では『蓬左文庫桶狭間図』による位置関係から、明忠院裏山に比定している。ここは、西方に岬のように張り出しており、標高は不明であるが現在でも30m超あるから、善照寺砦からの展望も効く。
[4] 信長を欺くために、義元は大脇から大高道を使い、途中から緒川道によってその行動を秘匿したのだと言い張る向きがおられるかも知れませんが、もしそれが事実ならば、義元は足手まといになる小荷駄隊を少なくとも奪取した丸根砦か、本来なら大高城に送ったはずなのです。しかし、太田城番の元康は何も知らなかったというのですから、それもあり得ません。
[5] 『三河物語(1626)』は「程なく」、『総見記(1702)』は「難なく」、『信長公記』は「はや鷲津・丸根の両砦は落去したと覚しくて
[6]  井伊直政が他界するにあたって、石原主膳・孕石備前・広瀬左馬助の三人に命じて、特に甲州・信濃及び越後での経験と見聞を取捨按配して、井伊家末代の作法(軍事)を策定させたという『井伊家御軍法』では、「かり田・小屋おとし者、下知次第に、騎馬一人づゝ、足軽鉄炮二拾挺・弓拾挺宛苅取遣す可く候。稲・薪等其所に而割符之事。但し間遠に候はゞ、これにしたがひ人数下知有る可事」とあります。 『信長公記』の記事は乱取ではありませんが、「清洲の並び三十町隔ており(下)津の郷に、正眼寺とて会下寺あり。然るべき構えの地なり。上郷岩倉より取手(砦)に仕るべきの由、風説これあり。これに依り、清洲の町人どもをかり出し、正眼寺の藪を切り払ひ候はんの由にて、御人数出され候へば、馬上八十三騎ならでは御座なく候と申し候」とあるように、少ないとはいえ護衛兼監督をつけているのです。
[7]  (2010.03.15 追加) 2009年12月に江畑秀郷氏が『桶狭間』という著書で、永禄三年の駿河が飢饉であったという説を立てています。詳細についての批判は別章を設けました。 

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