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<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

2011-06-24 22:31:09 | 桶狭間の真実やいかに

<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

  1. 谷口克広氏、『信長の天下布武への道』『織田信長合戦全録』  (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)
  2. 桐野作人氏、『信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ/歴史読本』   (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加) 
  3. 藤原京氏、『時代劇のウソ?ホント?』    (初出 2008.07.13) 
  4. 別動隊説を検証する………橋場日月氏、『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』『伊勢湾制圧・今川帝国の野望/歴史群像』    (初出 2007.12.18)   
  5. 服部徹氏、『大高と桶狭間の合戦』『信長四七〇日の闘い』    初出 2008.12.14 「伊勢湾海運と水軍」に移動。 2009.11.20 別章を立てました)
  6. 鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

 

 

 

 

 

 

 

(1)谷口克広氏の桶狭間    (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)

(2)桐野作人氏の桶狭間        (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加) 

さて、『歴史読本』8月号に桐野作人氏の桶狭間の戦いに対する考え方が示されました。というよりも、新たな可能性も提示されただけのようでして、結論は保留されているようですが、これまでの谷口氏の説とは異なっておられるようでして、藤本氏や谷口氏の提案には一切触れられておられず、かなり藤井尚夫氏の説に近いものになったようです。また、朝比奈勢や服部勢の行方などには一切触れられていないのはとても残念です。

桐野氏は、方角問題を乗り越えるために、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」とされますが、果たしてそのようなことは可能なのかを検証してみます。

註:方角問題とは、中島砦から桶狭間村は東南に位置するため、信長が桶狭間で東に向かって攻めかかるには、どこかで南に行軍しているか、それとは反対に、義元の方が本陣を北方に移動させていなければならないはずだという疑問のことです。

まず、沓掛から桶狭間に義元が向うにあたってどの道を通ったかを考えますと、桐野氏はこの問題には一切触れられてはおられませんが、大脇から大高道を通ったことに間違いはないことだと考えるべきだと思います。何故なら、当時の東海道から桶狭間村に入るには、いったん鎌研あたりまでいって、長坂を上り高根と幕山の間の峠を通る鳴海~桶狭間道を行くしか街道はなく、非常に遠回りになるからです。それにまた、東海道には人家もなく、せっかく塗輿に乗っても義元は人々に示威することができないからです。近世から見られる間米~館を経て桶狭間へ抜ける道なども当時はなく、軍隊が行軍するには適当であるとは思われないこともあります。

と云うことは、義元が大高城に入城するのが目的である限り、当日が熱暑であることを考え併せると、東海道を行軍していながら、わざわざ鎌研から桶狭間山に戻ってまで休息するということは考えられない無駄な行程を採ったことになるわけです。また、疎林とはいえ道のない場所を行軍したものとも考えられません。それに、引き連れた小荷駄を大高城に先行させて入れておくことが安全なはずなのですが、そのような処置もとっていません。これは漆山に着陣した場合でも同様です。………義元が中島砦を攻めたうえで鳴海城を救援しようとしたという伝承もまた殆どないのです。これが第一点の説明されるべき疑問です。

漆山義元本陣説には大きな弱点が二つあります。

一つは、義元勢が桶狭間山から東海道を漆山に上りますと、有松の狭間を抜けてからは善照寺の織田勢にその姿を暴露するわけですから、織田軍は信長だけでなく大勢の将兵が諜報や偵察などによらずとも、義元の軍勢をつぶさに観察して具体的にその数さえも勘定できたことになるわけです。と云うことは、信長がその手兵を前に演説した内容は完全に嘘であることを部下に見抜かれていたことになります。信長がいかに駿河勢が労兵であると演説しようと騙されるわけがありません。………逆に言いますと、これは、それだけ信長一党が熱狂の極みにあったことになるわけでして、善照寺砦や中島砦で信長の出撃を諌止した極少数のものだけが正気を保っていたことになるわけでもあります。ですから、信長のカリスマ性を示す格好の事例になるわけですが、牛一の『信長公記』では信長麾下の将兵が熱狂して敵勢に向かっていったというような記事をのせてはいません。将兵が熱狂したのは略奪に出かけるときだけだったのではないのでしょうか?天理本では熱狂して(?)熱田・山崎からついてきた人々は、駿河勢の威容をみて正気に戻って退き上げてしまったと記しているのです。ですから、これが説明されるべき第二の疑問で、信長のカリスマが疑われるところです。

二つ目の弱点は、『信長公記』が「信長は、先ず丹下砦へ行き、善照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。信長の参陣と同時に佐々らは出撃した。その後、午刻に至って昼食をとり、謡をした。」という時間経過を記すからです。

………これは、歴史読本8月号で桐野作人氏が、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」といわれることは、全くの誤りであることを指摘することになります。午刻には義元は桶狭間山にいる必要があるからです。

なぜなら、『信長公記』は、信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。そしてその信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したとなるからです。その後、義元は漆山に陣を進め、午刻に至って敵前の漆山で昼食をとり、謡をしたと読まなければなりません。

これでは、明らかに拙いので、「信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。義元も信長参陣を知って急遽漆山に陣を移すべく前進を開始した。同時に、信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したが、それを義元が見たのは高根以西の高地からであったとし、その後義元は引き続き前進して漆山に陣を進め、午刻に至って漆山で昼食をとり謡をした」としなければなりません。

ということで、そのように解釈した場合の行程的な問題だけを考えてみます。

義元が午刻に漆山本陣で昼食をとり、謡をするには、桶狭間からの約3kmという距離から考えて45分程かかったものと思われますから、午前11時15分には桶狭間山を出立していなければなりません。その場合、義元が佐々・千秋らとの前哨戦を観戦できる高所を探しますと、高根と幕山およびその峠と長坂を行軍中であることなどが考えられます。そして、高根は桶狭間山から約1km先になりますから、15分前の午前11時30分には高根にいなければなりません。

また、信長の方は、桶狭間山の義元に参陣を見られたのが午前十一時十五分なのですから、 熱田~善照寺間一里25町余の7kmを時速9kmで駆けたとしますと約50分かかりますから、午前10時25分という遅い時刻まで熱田で将兵の着到を待っていたことになります。

佐々らが信長の善照寺参陣を見てから中島砦(天理本)を出撃しているのですから、その場合には、丸根は別にしても鷲津砦の攻略には午前十時以降までかかった可能性があり、松平元康の率いる松平勢が丸根攻略後に鷲津攻めにも転戦し、朝比奈勢は鷲津砦の戦後処理にかかりっきりで、桶狭間合戦には間に合わなかったということもできそうですから、「鷲津砦に朝比奈勢がいる」という難問をクリアーすることができます。

逆に、信長が午前10時頃に善照寺砦に参陣していたとしたならば、義元もその頃には桶狭間山から高根以西を行軍中でなければならないのですから、義元の本来の目的は信長が出現しようがしまいが大高城に行く予定であったと考えられます。すると何のために桶狭間山で人馬を休息させる必要があったのかが再び問題になります。昼食をとるには早すぎる時刻であり、正午には大高城に入城していられるからです。なぜ義元はそうしなかったのでしょうか?………たぶん、桶狭間山で信長参陣を知ったからだという本末転倒な説明を漆山に本陣を布いた理由にされることが考えられますが、桶狭間山に寄り道した理由は依然として謎のままですから、これも説明を要します。

さて、桶狭間山にいた義元が午前10時頃に信長の参陣を知って、急遽本陣を約1km先の高根まで進めたところで前哨戦を見たとしたならば、これには15分かかりますから義元の先備えは約840m先の戌亥にあたる鎌研のあたりで織田勢を迎え撃つことが考えられます。その場合に佐々らは1.4kmを山際(鎌研あたり)まで行ったとしますと25分ほどかかりますから、義元が高根に到着した十分後に両勢は合戦を開始した可能性があります。これは午前10時25分になりますが、戦闘時間は五分程度で勝敗は明らかになり、その後は追撃戦になったものと看做すことにします。この趨勢をみて義元が陣を進めたとしますと、約1km先の漆山に到着できるのは15分後の午前10時45分頃になります。義元は正午に昼食をとっていますから、その後の1時間15分で全軍を漆山に収容して布陣を完了したと看做すことができます。これは後続が行軍中に襲撃されることを許すわけにいかないからです。

この行程から義元の直卒兵力を推定しますと、1時間15分で行軍できる距離の5kmにどれだけの兵士がいたかという問題なるわけですが、騎兵一割を含んだ一時間当りの兵数は4,208人でしたから5,260人と先備えの兵力1,000人を加えて、6,000人強の兵力と算定します。これは微妙な兵力です。信長の率いたのは2,000人といいますから約三倍なのですが、信長の場合には小荷駄などを伴わなかったと考えられるからです。

そして、信長とその兵士の大部分は熱狂的に攻撃に移り、少数の冷静な武将はこれを諌止しようとし、熱田・山崎から浮かれて付いてきた町人らは、熱から冷めて急遽引き返したことになるわけです。果たして、信長軍の中核になった小姓・馬廻などの集団はそのような熱狂的な集団であったと言えるでしょうか?

………これは、結構いえるようにも思えますので、これも信長のカリスマ性の一例にされそうです。しかし、それにしては『信長公記』は「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども」と書いたり、「右の衆、手々に(敵の)首を取り持ち参られ候。 (信長は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、」と書き、信長に反対する情景は書きますが、信長を熱狂的に支持する将兵の姿は書かず、進撃の実態も緩々と前進しているように思えて、熱狂性は感じられません。

ところで、朝日出~漆山は約2kmありますから、信長勢二千人が漆山の山際に展開するには45分ほど要します。ですから、昼食と謡に30分を見積もりますと、風雨の始まりは午後1時15分ということになり、降雨時間は45分と考えることができます。そうしますと、桐野氏の説も行程的にはと限定すれば、有り得る想定であるということができます。

但し、桐野氏自身も認めておられますが、『信長公記』や『三河物語』という史料に矛盾する点が多々あります。

  1. 取敢えず鷲津山の朝比奈勢は考慮しなくてよいことは先に述べましたが、服部党一千艘(二十艘?)が遊弋していた問題があります。彼らはなぜ信長の背後を衝かなかったのでしょうか? ……… これは、天理本に「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。」とあることがポイントになります。この文章では、織田軍の劣勢を見て帰ったということだけなのですが、大高河口に遊弋していた服部勢をも見たからだとも思われるからです。この熱田住民らは熱田を襲った服部党を撃退しているのです。そのため、この事からもう一つ分かることは、服部勢が熱田を襲った時刻です。「真説・桶狭間の戦い」章から推定しますと、熱田からの兵一千が到着を終るのは午前10時50分ですから、町民らが取って返したとしますと約1時間30分後には帰れますから、服部勢が熱田を襲ったのは正午半頃であったろうということになります。これは、大高河口~熱田湊の海上6kmとしますと、約1時間弱の航行ですから午前11時半頃には大高河口を離れたことになります。せっかく参陣していながら義元にも会わずに、です。
  2. なぜ兵力に優今川勢は中島砦を出ようとする信長の出鼻を叩かず、山際に信長勢が兵の展開を完了するまで待っていたのでしょうか?義元は信長参陣を知って漆山に本陣を進めたという想定なのですから、戦う意欲は十分にあったはずなのです。 ……… 当時の漆山と中島砦の間は、水田が広がっていたのではないのでしょうか?その場合には、水田の中の一本道を信長軍は進撃しており、山際に至って駿河勢の西方に展開するまでは、両軍とも互いに攻撃できないことになりますから、説明は可能ですが、今度は逆に義元の意図が疑われます。それとも原野と看做すのでしょうか。
  3. 漆山山麓から見える沓掛の峠とは何処をさすのでしょうか?
  4. 現在にいたっても所在の知れない「おけはざまやま」にさえ名前をつけた牛一が、なぜ漆山については名前をあげなかったのでしょうか?
  5. 『三河物語』に山上にいた「駿河勢が我先に退いた」とある記述を、桐野氏説では説明できません。これが先備えであったならば、背後の義元は何をしていたというのでしょうか。これは降雨前のことです。
  6. 根強くある信長迂回説を説明することもできません。なぜ、このような説が生まれたのでしょうか?迂回も何も全くできなくなる位置関係になります。
  7. 黒田氏によって唱えられた『甲陽軍鑑』の記載による「どさくさ紛れ」説も説明できません。紛れようもないストーリーの展開だからです。すると、この『三河物語』にも矛盾するような情報を信玄はどこから仕入れたのでしょうか?
  8. その他、多くの軍記物の記事を説明できません。

(2010.05.06 挿入) 『歴史街道2010.06』での桐野氏は、『信長公記』に「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、五月十九日、午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」とあるのを誤読されて、「今川軍は桶狭間山で休息したのち、戌亥の方角に向かって軍勢を進めた」と解釈される。この恣意的操作により、信長と義元との距離はぐっと縮まり、両雄が近世東海道上において東西の位置関係で遭遇する可能性を高くすることができる様にはなる。しかし、原文をどう読んでも、義元は桶狭間山で休息していたのであって、そこから自陣を動かしたと読むことはできない。義元が動かしたのは、当然の軍事行動であるが、休息する本陣を守るために「一手(備)」を敵のいる方角(善照寺・中島砦方面)へ張り出して布陣させたという、極々常識的な行動をしたに過ぎないだろう。これ以外に解釈のしようがないのは、時間の経過を見れば分かりそうなものだ。義元は午の刻には、佐々・千秋らとの前哨戦を観戦したうえに、謡を三番も謡って悠然としていたのである。その義元が64.9mの山から下りて東海道上に出るには一体どれほどの時間がかかるだろうか。信長が義元の旗本を発見して突入するのは未の刻であったのだ。そして、『天理本』には「戌亥に向て段々に人数を備」たとあるのだから、とてつもない時間がかかっただろう。まず、義元は前がつかえていて山を下りられなかっただろうし、信長は東海道に充満する駿河勢に道を塞がれて、義元の許に辿り着くことなどできなかったはずなのである。これらのことから、桐野氏のいわれる方角問題は、問題以前の問題というしかない。  <余談だが、氏は、桶狭間山を「石塚山」と態々記載されている。これは64.9m山頂から200m東にあたる現在の南舘付近のことである。そして、『豊明市史p576』には「石塚山は義元の本陣跡とも墓所とも伝えられている。正確な場所は不明だが、・・・(豊明市)古戦場公園の南約500mの丘陵付近(現在のホシザキ電機付近)に該当すると考えられている。」との説明があるにはあるが、見通しはまるで利かない山中である。同関連史料も資料編補一第六節にあるにはあるが、検証する気にもならない。………因みに、この64.9m山付近の地名は目まぐるしく変転している。1976~80年の地形図では、この山の北が舘北、この山の辺りが舘、その西が舘中、南が舘南と表記されている。それが、1984~89年の地形図では北舘が南舘に変わり、その他の地名は消えている。1968~73年の地形図では南舘が舘と表示されているだけであり、1959~60年以前の地形図(昭和37年発行)には地名表記すらないのである。桐野氏がなぜこのような地名を態々持ち出すのか気が知れない。

       

(3)藤原京氏の桶狭間   (初出 2008.07.13) 

『時代劇のウソ?ホント?』での氏の仮説はかなりユニークです。

その要点は義元軍は陣城を構築中であって、それが完成する前の隙を速攻した信長に衝かれために敗れたというものです。そのために、信長は第一波の攻撃を千秋・佐々ら三百人に行わせ、第二波には前田犬千代が参加しており、自らは第三波となって義元本陣に殺到したというのです。そして、その背後には柴田勝家らの部隊が控えていたとしています。

このような説を唱える理由について、氏は自ら説明して、現在忘れ去られた戦国時代の常識の一つとして、「城は攻めても落ちないもの」というものがあるとされています。そのため、鳴海城・大高城を攻囲し、駿河勢籠城策をとったために必然的に駿河勢による後詰が行われたことにより生起したされており、信長は桶狭間山に着陣した駿河勢が未だ陣城を構築できないでいたその隙をついたのだとされるわけです。そして、反面教師として長篠合戦での信長・家康連合軍による野戦築城を例に出されます。………義元は、本当に桶狭間山に陣城を築こうとしていたのでしょうか?一体、何の目的で?

陣城構築中であったということには否定的な情報が多々あります。

  1. 氏は、桶狭間山が鳴海城に後詰するには、大軍を広く展開できる理想的な陣城構築場所だとされていますが、桶狭間山からは予定戦場になると考えられる中島砦付近が見通せませんし、そこは小規模な丘陵が複雑に入り組んでおり、とても大軍を駐留させる場所ではありません。これは孫呉の兵法を齧った武将ならば絶対にしなかったと思われる陣取りです。そして、今川義元は僧として一生を終えるつもりで京の妙心寺で修行に励んでいたのです。………黒末川の南から攻めたいのならば、二村山辺りを選定するのが常識ではないのでしょうか。沓掛城から鎌倉海道を使って、善照寺砦を落とすのが兵法の常道ではないのでしょうか?それを何故、態々、黒末川が天然の堀をなしている南方から攻めなくてはならないのでしょう。
  2. 最も間近な桶狭間村の村民たちには、陣夫役として築城に駆り出されたという伝承はなさそうです。何故なら、地元住民には戦闘に巻き込まれて死傷したという悲惨な伝承が皆無だからです。死んだのは今川方の将兵ばかりなのです。………地元の郷土史家は、村民たちはセド山の上から恐々として戦いの帰趨を窺っていたしていますし、長福寺の伝承では義元を接待したとしています。
  3. なぜ近場の大高城に行く途中で昼食をとるためだけのために、陣幕と柵・逆茂木程度で済まさずに、しかも前もって用意せずにその場になって慌てて陣城を構築しようとしたのでしょうか?
  4. 桶狭間に構築した陣城は、鳴海城救援のために役立つものなのでしょうか。それに、陣城が構築途中であるならば、その工事を妨害させないために、その前面に敵を迎え撃って戦いが行われたはずです。………小生は、赤塚合戦は信長が天王山に付城を築こうとして、それを阻止しようとした鳴海城の山口九郎次郎との間に起こったとみています。
  5. 最も重要な点は、ほとんど全域にわたって宅地開発された現在に至るまで桶狭間付近で陣城址が発見されていないことです。

それでも、藤原氏の説には魅力的なものがありました。それは、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」という主張です。この説は、『信長公記』の天理本が紹介されるまでは、大高城に兵粮を搬入したことは公記に書いてあるのですが、大高城が包囲されていた事は証明できませんでしたから、すこぶる魅力的な見方の一つで有り得ました。大高城の南に付城が築かれたことを明確には証明できなかったからです。

その場合には、丸根・鷲津砦の戦術的な意味は、藤原氏が言われるように、鳴海城への兵粮や兵力を搬入することを妨害するものであったことになり、織田方が大高城を攻撃することは二義的になりますから、義元がこのニ砦を攻略することは取りも直さず鳴海城の封鎖を解くことを目的にしたものであったことになるわけです。………尤も、それでもまだ中島砦が東海道を封鎖していますから、東海道からの搬入は見込めませんし、沓掛城から鎌倉海道によって善照寺砦を攻略した方が楽なように思えることには変わりはないのですが。

ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか?

これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。

城塞というのは古代に「稲城」といわれたものから戦国時代前期までの「城館」まで、一般には本気で戦争するための城塞というものは唐の侵攻に怯えて大宰府に水城を築いた時期を除いては、日本ではあまり作られませんでした。つまり、防御施設というものは簡単なものでも十分に有効であったという事実があったからです。

「落ちない城」の範疇で最も有名なのは楠木正成の千早城・赤坂城ですし、大きなものでは大宰府の水城、平氏の福原防塞、奥州平泉の藤原泰衝が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれた阿津賀志山防塁、元弘時の防塁がある程度のものでしょう。勿論、帝都は中国の城塞都市を真似て作られていますから、一応城塞であります。

これらのことから気づくことは、日本では古代に国際外交の真っただ中にあったとき以外には、城塞に拠って長期にわたって攻防するということは殆ど考えられていなかったということです。そのため、城塞は簡単な設備であっても十分にその役目を果たしてしたということなのです。しかし、これは逆からみますと、日本国内での紛争は殆どが内乱にまでも至らず、ヤクザ同志のシマ争いの喧嘩程度のものでしかなかったからであることが窺えます。つまり、世界的なレベルで見るならば戦国時代より前の日本の城塞の殆どは世界規格に満たないものばかりだったわけです。なぜなら、戦争当事者自体がヤクザみたいなものですから、敵の城塞を徹底的に攻略しようなどという「意図」も兵力差も持たなかったからです。

応仁の乱においても洛中では、首都の都城の内にあっての市街戦で終始したのです。市街戦が行われるということは、市街が焼き尽くされ破壊し尽くされていないことから起こります。近代以前ならば始めから火攻めをおこなったりはしないということですし、近世以降になりますと事前の制圧砲撃で徹底的に破壊したりしない攻撃になります。ところが、戦国時代も深化してきますと、領国の統一から始まって、領国を拡大して隣国をも支配しようとするように目的が変わってきますと、まず、兵力差が広がってきたうえに、それに裏付けられて敵の城塞を完全に攻略する意志持ち始めます。



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