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カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

2011-07-22 02:39:24 | 足軽の階級

 カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

42 日本書紀が描く 極悪非道な武烈王。筑紫生まれの百済王の事
  西暦507年 一方大和国において継体王が即位した。継体王が即位するまで、いろいろの経緯があった。以下は日本書紀(武烈天皇)が記す、継体王即位に至る流れである。
 
 498年 仁賢《にんけん》王が亡くなると、雄略王以来黒幕となっていた平群真鳥《へぐりのまとり》はいまだ国政を独占し続け、自分が王になろうと自分のために豪壮な宮殿を建造するにいたるが、(このことから考えるに、この当時、大和王国の王になるには血筋の濃さははさして重要な要素ではなかったように見える。又、大和国もさして伝統を造るような長い歴史を持っていないように思える。筆者)ついに大伴金村《おおとものかなむら》らは武烈王と組んで真鳥父子を殺した。498年から507年まで武烈王が在位するのだが日本書紀はここで武烈王を悪逆非道の天皇として描く。以下は日本書紀の記事だ。武烈王二年(499年)九月孕んでいる女の腹を裂いて胎児の姿をみた。三年(500年)十月、人の生爪を抜いて芋を掘らせた。四年(501年)四月人の頭の髪を抜いてから樹の先端に登らせておいて、樹を切り倒して、登っている者が落ちて死ぬのを楽しみとした。

(書紀の叙述はここまで来て、突然百済について書き出す) この年(501年)百済の末多王《まつたおう》無道であって百姓《たみ》に暴虐である。国の人々は遂に王を見捨てて嶋王《せまきし》を立てる。(末多王第二子と三国史記には記載あり。岩波文庫、日本書紀、註記)これを武寧王《むねいおう》と云った。 
(ここより書紀本文は解説となる、筆者) 百済新撰《くだらしんせん》(失われた百済の史書の一つ。筆者註)に云わく。末多王は無道で百姓《たみ》に暴虐である。国の人々は王を見捨てた。武寧王が立つ。諱《いみな》(その貴人の前では口に出してはならない名前=本名)を斯麻王《しまきし》と云う。これは琨支王子《こんきせしむ》の子である。琨支は末多王の異母兄弟だ。琨支は倭にやって来た。筑紫の嶋(九州)に到った時に斯麻王《しまきし》を生んだ。出産のため百済の都に帰らずに筑紫嶋で生まれたので(しまきし)と名付けたと云う。今各羅の海中《わたなか》に主嶋あり、王の産まれた嶋である。(現在、伽耶の洋上に主嶋《にりむせま》(貴王の島)がある、それが斯麻王の産まれた島、筑紫の嶋九州だ。筆者訳)
 今考えるに嶋王は蓋鹵王《かむろおう》の子であるという。末多王は琨支王の子であるから、これを異母兄弟とは言えまい。

(ここで、日本書紀本文は、武烈王の悪行にもどる。筆者) 
 武烈帝五年(502年)六月にため池の椻川に人を入れて流れてくるのを矛(やり)で突き殺して楽しむ。七年(504年)二月に人を木に登らせて弓で射落として笑う。八年(505年)三月 女を全裸にして平らな板に寝かせ、その前で馬を交尾させた。女の陰部が濡れているときはそれを殺し、乾いている者は官の奴隷とした。その乱行を楽しみとした。(中略)十二月天皇は亡くなった。

 ここまでが武烈王が亡くなるまでの日本書紀の記事である。一方、古事記は武烈王についてきわめて簡略である。前代の仁賢天皇から推古帝まで十代は系統の説明で終わる簡単なものになっているが、武烈王も悪行を特記されずに、こう書かれているのみである。

ヲハツセノワカサザキノ命は大和の長谷《はつせ》(奈良、桜井市)に列木《なみき》の宮を作って、そこで八年間天下を治めた。この天皇には継ぐべき皇子がおらず、そこで御子の代わりに小長谷部《おはつせべ》を定めた。稜は片岡の石坏《いわつき》の岡にある。
 この天皇が崩じたあとに、天下を治めるべき日嗣の皇子がなかった。それで、ホムダノ天皇(応神天皇)五世のヲホドノミコトを近淡海《ちかつおおみ》の国から呼んでタシラガノ命と一緒にして、天下を治める位に即《つ》けた。

たったこれだけである。古事記と日本書記は以上のように編集方針が異なっている。
 さて長年の重臣による権力争いで、殺害された王子は数多く、ついに王に近い濃い血筋の者は途絶えてしまった。
 大伴金村は重臣と合議して「昔から今に至るまで、災いは王の後継問題に発する」としみじみ言った。そして皆で合議して仲哀《ちゅうあい》王の五世の孫という倭彦君《やまとひこのおおきみ》が丹波の国(京都府)にいるので王にしようと決定する。武装した軍隊と輿《こし》を迎えに行かせたが、倭彦君は
攻撃と思って遁走した。
 そこで次の候補にあがったのが越前の国(福井県)三国《みくに》にいる応神《おうじん》天皇五世の孫であるオオトノキミであった。
 継体を王にするに当たって、説得に行ったのは、百済からの渡来人、河内馬飼荒籠《かわちうまかいのあらこ》であった。彼をわざわざ起用したという事は継体は百済の血をうけている可能性が強い。
 後年の百済への数々の肩入れ、百済滅亡の際のあたかも国が引っ越してきたような何万という百済人の受け入れをみると、そう推測できる。


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