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<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   

2011-06-27 00:50:33 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   (2009.05.0加追加、2010.0816改訂)
 
Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9
 
  1. 信長公記を読む
  2. 三河物語を読む
  3. 信長公記と三河物語の矛盾
  4. 十七日を軍事的に検証すると・・・
  5. なぜ前夜の信長は動かなかったのか
  6. 『新編桶狭間合戦記』   (2009.05.07 追加)
   
(1)信長公記を読む
ここでの推理は、前章の到達点である「合戦当日の義元は、沓掛城から出陣してなどはいない」はずだということから、桶狭間の戦いの前日十八日の今川義元の動向を検証する。この問題についても多くの人は、『惣見記』[1]も『三河物語』[2]も『甫庵信長記』[3]も義元は18日の軍議を大高城で行ったと書くのを無視しているのだが、そのことについては何の疑問も持たれないようでして、コメントも見かけない。
『信長公記』の「今川義元討死の事」は、こう書き出している。
「永禄三年(1560)五月十七日、今川義元沓懸へ参陣、十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、(潮)の満ち干を堪が(考)へ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、その夜の御話、軍の行は努々(ユメユメ)これなく、色六(イロイロ)世間のご雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる。家老衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候
これをみると、今川義元も織田信長も桶狭間の戦いの前日十八日の「昼間」は何も行動していないようにも受け取れると前に書いたが、この文章は一般に次のように分解して解釈されているようある。
  1. 永禄三年五月十七日に今川義元が沓懸へ参陣した。
  2. 十八日夜になったら大高の城へ兵糧を運びこむであろう
  3. (それから、)織田軍の後詰を封じるために、十九日朝の潮の干満の状態を考えた上で、丸根・鷲津の取手攻略を開始するだろう
  4. 以上二件の情報があったが、それは確実であろうということが、佐久間大学と織田玄蕃のそれぞれより、十八日の夕方になってから、清須の信長公へ届いた。 
つまり、信長は清洲に、義元は沓掛城に居つづけたということである[4]。………と云う事は、少なくとも当時の織田方では「十八日の晩の義元は、沓掛城に在陣していた」と認識していたと考えることができるわけである。そして「通説」もまた清州城の織田方と同様に考える。これが事実であるかどうかは別にして、飽くまで信長を始めとした織田方に共通の戦況判断としては、十八日の晩の「義元は沓掛城にあり」と認識していたとみなすことができるわけである。しかし、これは飽く迄「清洲城の織田方だけに限定される認識」だと考えるべきである。何故なら、今日の我々が知りうる情報からすると、これまで毎日多ければ日に30kmも行軍してきた義元が、最前線の沓掛城で丸一日鳴りを潜めてしまったからである。この時期の沓掛城は決して安全な後方などではない。北方の岩崎城は、一時は今川方の武将・福島氏が城代を務めたりしていた時期もあったが、当時は丹羽氏がこれを回復して両属の中立を保っており、それより南の福谷(ウキガイ)砦が攻防の対象になっていたからである。では、一体何のために義元は危険のある沓掛城などで「十八日の丸一日」を無為に過ごしたのだろうか?
同じ織田方でも善照寺・中島砦や鷲津・丸根砦のような最前線の将兵たちは違った見解であった。鷲津・丸根の両砦が比較的容易に短時間[5]で落ちたのは、両砦の武将たちの見解が相違したからである。鷲津砦の織田玄蕃は砦を堅固に守って信長の後詰を待つべきであるという見解であったのに対して、丸根の佐久間大学と五騎の寄騎たちは砦を出て迎撃することに決めたのだ。これは問題であった。何故なら、『蓬左文庫桶狭間図』によれば鷲津と丸根は尾根道で結ばれており、相互に助け合える構造になっていましたが、尾根には堀切りがなされていなかったからである。このような構造であると、一方が落ちれば新たな攻め口を敵に与えることになり、好ましいものではない。それなのに、信長は前線の指揮官たちに何の指示も与えていなかったのだ。多くの識者が主張されるように、信長の戦略が、「敵の一部に打撃を与えて面目を保つ」というのであれば、敵を補足して之の攻撃を加えなければならないのだから、当然に両砦は兵力を一つにまとめてでも死守して、駿河勢を拘束すべきだったのである。ところが、それをせずに丸根砦の大学の方は砦から打って出ているのだから、信長の作戦意図は前線に伝わってはいなかったということになる。前線の佐久間大学などから駿河勢が兵粮を大高城に搬入するのは十八日夜であることは確実であり、翌日早朝の満潮時に付城が攻撃される計画があることまでは、清洲の認識と前線の認識は変わらないわけなのだが、鷲津砦の織田玄蕃や清洲の家老衆などは、「義元自身が指揮しての攻撃である」のだろうと思っていたのに対して、清須の信長だけは「駿河勢の一支隊が攻めてくる」のだろうと軽く考えていたようであり、その指揮を義元が執っているかどうかまでは確認できなかったのだろうと考えたい。………現に、現代になっても多くの論者は義元が付城の攻略に義元が参陣していたとは認めていないのだ。
(2010.03.15 挿入) 藤本正行氏[6]は、信長は丸根砦と鷲津砦の陥落をある程度予想していたとされ、「緒戦の小競り合いに巻き込まれて、大勝利を得ることは難しく、むしろ競り負ける確率が高い」から、自らの作戦計画を秘匿したとされる。しかし、この時代の武士は功名が目的なのだから、信長が明瞭に命令しないと織田方の武士たちは、自発的に戦いを求めて丸根・鷲津の砦に入ってしまう恐れも大いにあったはずである。[7]もちろん、信長がこれらの砦の後詰に必ず出てくると踏んでのことなのだろうが。従って、「ある程度予想していた」というような表現は不正確であり、信長にとっては誤算だったというのが実際なのではなかろうか。なぜならば、信長が清州を出陣したのは「本当に丸根・鷲津が攻撃された」からであって、そこに義元がいるのではないかと考えたからであろうし、ましてや所在不明の義元の居所が判明したからでも、義元が沓掛城出陣したからでもない。『信長公記』にはそのようなことは何処にも書いていないからだ。信長は、義元の所在をつきとめずに出陣したというのが事実なのである。だとすれば、信長は丸根砦と鷲津砦の陥落などは「ある程度」どころか、予想だ、にしなかったのではないだろうか。また、藤本正行氏が「信長は主力を温存しておきたかった」とされることは、その後の行動のドタバタ、熱田での兵力の記載がないことなどや、その時点で浜道の通行できないことを確認していることなどからみても不適当だと考える。明らかに、信長にとっては見込み違いのことが進行していたのだと考えるべきなのである。そして、それを認めているのは、「諸大名を寄て、良久敷評定をして、さらば責取、其儀ならば、元康責給えと有ければ、…その上にて、また長評定これ有けり。…次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。 」と書く『三河物語』を始め江戸初期の軍記作者なのだ。……注意すべき重要なことは、江戸初期の軍記作者もその読者も「前夜(十八日)の義元は大高城にいた」と理解しており、何の疑問も持たなかったということである。…十八日の義元が沓掛城にいたと主張して止まないのは、明確に検証出来てはいないのだが、寛保元年(1741)に成立した『武徳編年集成』[8]以降のことで、『東照軍鑑』[9]あたりが言いだしたのではなかろうかと思っている。
ここで信長が計画通りに間に合って駆けつけたのは、松平元康の布陣する所などではないことは明らかであり、義元の許に見参するために出張ったのだ。その為だろうか、信長の戦略意図にそぐわない行動をとった佐久間大学[10]は記録に残らなくなる。討死したとも看做せるが、生き延びても信長の不興をかって重用されなくなっただけなのかも知れない。初期信長政権の許で高級将校として活躍した武将の多くは、信長の親族でなければ他国より新規召抱の者や、重臣であっても柴田権六などのように有力国人領主などではない才覚だけの者が多々みえるから、一旦信長の寵を失うと零落するのも早かったのではないかとも考えられるのだ。『信長公記』は「夕日」というから「日の入る前」に、前線から敵の作戦について確度の高いと思われる情報の報告を信長は受け取っているわけなのだが、それにも関わらず、信長は何も行動を起こしていないのだ。………なぜだろうか。
(2009.12.08 挿入) 公開された天理本によると、前夜軍議が行われて国境で今川軍を迎え撃つことで衆議一決したと伝えるのだが、その後は酒宴に及んだとあり、清州に参集していた重臣達も具体的な手立て打ち合わせることなく、その場になっての信長の指示待ちということになったらしいのだ。天理本の記述は著しく、信長を始めとした彼等清須織田方の行動の矛盾を示す。戦おうと云いながら出陣していないと云うのだから、矛盾でなくてなんであろう。『信長公記』は、十八日の義元の所在については何も触ないのだが、前線からの報告で、「駿河勢が兵粮を大高城に搬入するのは十八日夜であることは確実であり、翌日早朝に潮の具合を考慮して付城が攻撃される計画があることを清須では承知していたと書かれている。だから、信長には、義元もそれに伴って大高城に入城した可能性を否定することはできないはずである。それなのに、『信長公記』では否定はしていないが、その文面から判断すると、少なくとも信長に限っては、「義元が確実に大高に入城した」と把握することはもちろん、考えも及ばなかったものらしく思えるのだ。つまり、信長は義元本隊の所在を大高城にいるとも、翌朝沓掛城から付け城攻撃に出陣するとも、特定できるとは思っていなかったと考えるべきだろう。
信長は、義元主力の所在について、何処に居るか迷っていた。信長は、駿河勢の一支隊が大高城に兵糧を搬入したり、また別の支隊が付け城を攻撃することがあったとしても、義元自身がそれらの攻撃に加わっていることについては、懐疑的であったように思える。何しろ今川軍は四万五千という大軍であるという触れ込みなのだから、信長がそれを信じていたとすれば、大高や丸根・鷲津への行動が主目的だなどとは、信長にはとても思えなかったのだろうと考えるのだ。因みに、この考え方[11]が正しければ、巷で唱えられる信長の諜報戦能力はそれほどのものではなかったことになるし、梁田出羽守や蜂須賀小六の索敵などは後世の創作であったということになる。

<十八日に於ける今川義元の所在の問題> 

2011-06-27 00:40:40 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   (2009.05.0加追加、2010.0816改訂)
 
 
(2008.01.10 追加) ここで、『三河物語』が「永禄三年庚申(カノエサル)五月十九日に義元は池リフ(鯉鮒)寄、段々に押て大高え行、棒(某)山之取手をつくつくとジュンケン(巡見)して、諸大名を寄て、良(ヤヤ)久敷評定をして、さらば責(攻)取、其儀ならば、元康責給えと有ければ、元寄足甚(ススム)殿(元康)なれば、即押寄て責給ひければ、…其寄大高之城に兵ラウ(糧)米多く誉(籠)」と書くものを、「義元は十八日に沓掛城へ行き、翌日十九日に丸根・鷲津の砦を排除した後で大高城に兵粮を籠めた」のだと書いていると解釈した場合を考えます。
そこでまず、『信長公記』の当該部分の解釈を再考します。そこには、「(イ)十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩(潮)の満ち干を堪(考)がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、」と書かれています。そこで、これを(1)「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし」という文章と、(2)「大高の城へ兵糧いれ(を計画し) 、 (これを)助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨(が駿河方にあるのは)必定」いう二つの文章からなっているのだと看做す。つまり、「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし(は)、大高の城へ兵糧いれ(について) 助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定とのことなり」とするわけである。こうすれば、一応は大高城への兵糧入れも十九日の砦攻略後という文意にすることはできる。しかし、後半の文章「十八日、夕日に及んで、…御注進申し上げ…」と明らかに矛盾する。そこでは、「十八日、夕日に御注進」があったと云うのだが、「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし」とも云うのだから、清州に注進した後で佐久間大学や織田玄蕃が情報を手に入れたことになるからだ。つまり、前線の武将が情報を入手するよりも早く、前線からの注進の方が信長の許に届いたということになるからである。以上の事から、障害になる怖れのある鷲津・丸根をそのままにして大高城への兵粮入れが行われたなどという訳がないと考えることは、間違いであるということになる。
では、何故それが間違いであるのかと言えば、(イ)大高城へ兵粮を運ぶ道は丸根砦の下を通る大高道だけではないということであり、地元の伝承[20]では木ノ山村を通って大高城に兵糧を入れたとしているからだ。また、松平勢が一千もいれば、丸根砦の兵力では鷲津砦からの応援を得たとしても、手出しなどは出来なかったかも知れないこともある。何しろ織田方は駿河勢が大軍であると信じているはずなのだから、砦の将兵たちは伏兵を恐れて、迂闊に手を出すことはできなかったと考えられるからである。ところで、この氷上砦や正光寺砦[21]は、どの軍記物にも見えないのですが、『張州雑志』と『尾州知多郡大高古城図』にその存在が紹介されています。但し、正光寺砦は『蓬左文庫桶狭間図』にみることができるから、桶狭間合戦に何等かの働きをしたことが考えられる。常識的にみても、大高城の東と南にも付城がなければ、効果的に大高城を封鎖することはできず、伝えられるような城兵が飢えて、兵糧を搬入する必要も生じなかったものと思われるからである。
『豊明市史』によると、豊明市旧間米村で発見された写本に、年記や著者の記載のない『桶狭間合戦名残』なる研究書があり、現在は豊明市史編纂室で保管されているらしいのですが、その著者は『三河物語』の義元大物見の記事を受けて、「桶狭間前書きに、今川義元、五月十八日中島まで攻め来たり、扇川の汐高くして、其の日の軍は止とあり」と書き、義元の大物見は中嶋まで足を伸ばしていたとみています。………因みに、この日の満潮は午前八時廿四分[22]ですから、池鯉鮒を早朝に発って沓掛に着いた義元は、すかさず東海道を中島辺りに出陣したことになります。これが正しければ、今川義元は朝寝坊などではないことにもなります。もう一つ重要なことを『三河物語』は教えてくれます。それは、義元自身が軍勢を陣頭指揮していることです。つまり、飾り物の総大将などではなく。義元自身が物見をしたうえで砦攻略を決定しているのです。それも、偵察したのは善照寺砦などだけではなく、中島砦から丸根・鷲津砦の全てなのです。このことは、二つの事を我々に教えます。一つは、義元の計画には鳴海城の後詰などは最初からなかったこと。もう一つは、義元自身が翌朝の丸根砦の攻城戦を督戦していた可能性があることです。それは、今後の三河経営において松平元康の器量を見極めるためでもあったろう。だから、『惣見記』に「今朝城攻めにも、松平元康朱具足の出で立ちにて真っ先を掛け、比類なき働きなり、義元これを感じ、元康毎日の働き神妙なり、今日は、大高の城に居住し、暫く昨今の疲労を休息せられよとて、元康を大高城へ遣わして、籠め置かる」とあるのも、いかにも元康の勇姿を本陣から実見したようでもあり、元康と直に対面して、城番として大高へ派遣しているようにも受け取れる。従って、もしそうであるならば、駿河勢が大軍をもって大高城に入城したために、丸根・鷲津の織田方は手を出すこともできずに砦に籠っていたとも考えられる。そして、これらのことはみな、義元の実像を「京被れ」の惰弱な政治家などではなく、少なくとも太原雪斎の薫陶を受けて、外交・調略に長けた戦国武将であったことを窺わせることになる。………しかし、彼の経歴をみると、国主として軍勢をあちこちに向わせているが、実際の戦闘を指揮したことなどはなさそうである。おそらく丸根・鷲津砦攻めが義元にとって殆ど始めての実戦なのではないだろうか。
(4)十七日を軍事的に検証すると…
さて、ここで通説のいう十七日と十八日の二日間にも亘って、今川義元が沓掛城に宿営していたということについて、軍事的な妥当性を考えてみる。
確かに、一時は笠寺辺りまでが今川方の支配地域になっていたが、当時は尾張をほぼ統一した信長によってかなり後退させられており、控えめに見ても沓掛辺りは紛争の対象地域だったと考えられる。例えば、『東照軍鑑』は、永禄二年四月廿六日に信長が平針(天白区)に出陣して、三河との国境福谷(三好町)に砦を構えて酒井忠次を配していた松平方と戦ったと伝えている。この時、信長自身は丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえて此れを攻撃し、柴田勝家・荒川新八郎らに福谷(ウキガイ)城攻めをさせたが失敗したというのだ。 また、『武辺咄聞書』ではこの年四月のこととする大高城兵糧入れも伝えている。つまり、大高城や鳴海城を封鎖するほど、信長の勢力は伸張していたわけである。  (2007.07.11 挿入) さらに、最近公表された天理本・『信長公記』に「大高之南、大野・小河衆被置」とあるなかの「大野衆」というものが、大野佐治氏や寺本花井氏[23] を指すものであるならば、知多半島はその付け根にあたる鳴海・大高および最先端の河和戸田氏の領分を除いた全てが信長と同盟し、その勢力圏に入っていたことになる。それも、今川義元が着々と西三河を領国化しつつあるなかでの寝返りになるわけだ。これは重大なことである。佐治氏はそれまで今川氏の親派であったから、それが水野氏や荒尾氏との競合いのなかで、信長の権力の下で和解があったらしいことになるからだ。例えば、荒尾氏は当主の空善の許に娘婿として佐治宗貞の次男・善次が娘婿として養子に入っているし、弘治二年(1556)に空善が今川氏との戦いで戦死すると、信長の同意を得て荒尾家を継いだということ[24]があるからだ。しかし、疑問もある。鯏浦の服部氏が廿艘ほどの兵船で大高河口に来襲しているにもかかわらず、伊勢湾東半に武威を張っていたと思われる大野水軍は、これを阻止していないからだ。さらに、渥美氏などは知多半島の南端・師崎を回って、佐治氏の目の前を通って兵粮を運んで元康に献じたと後世に言い張っているのである。師崎には千賀氏が佐治氏の陣代として見張っていたのにも関わらず、である。 このように見てくると、事は複雑だ。どうも、知多半島の豪族らは半手を切っているように思える。信長とも同盟しているようだが、駿河勢や松平勢との戦争に対しては、自らの領国が危機に晒されない限り、消極的な協力しかしなかったようにも思える。そうでなければ、知多半島には海賊はいても水軍などはなかったのではないかということも考えなければならない。そう考えると、天理本・『信長公記』にみえる「大野衆」も、その実態は荒尾家を継いだ大野善治が率いる荒尾衆のことであったとも考えられる。その場合には、十七日に駿河勢先鋒が桶狭間に進出し、知多郡に働いたという記事もあるのだから、それを機に氷上砦や正光寺砦の荒尾衆・大野衆・水野衆らの将兵も開城して退きあげたものと考えることができる。我が身大事だから………。そうであるならば、松平元康が十八日に阿久比の坂部城で母・於大と面会したという話も、もともと親今川であった大野氏を調略するために、母の嫁ぎ先の久松氏を口説きに行ったと解釈することができる。彼等は、緒川の水野信元に押され放しであったから、あくまで独立して生き残り地位を向上させるためには、三河松平氏と結ぶことは魅力的な選択肢であったはずである。その証拠に、大野佐治氏も緒川水野氏も「当主」が信長の軍に参陣するのは、信長が将軍義昭を得て大義名分を掲げて上洛を果たして以降のことなのだ。 <挿入終り>
さらに、『西尾市史』によると、桶狭間合戦のあった永禄三年の五月五日には、信長が吉良に出兵して付近を放火し、名刹実相寺も兵火で焼失させたということだから、沓掛城は付城こそつけられていないものの、織田方の善照寺砦や丹下砦へ約12kmしかはなれていない最前線であったことになる。だから、沓掛城は決して安全な後方などではないのだ。それに、『三河物語』によると一日先行していた先手諸勢の五月十六日の宿営地が矢作(岡崎市)・宇頭・今村・牛田・八橋そして最先端が池鯉鮒という具合に、東海道に沿って布陣したことわかっている[25]。そしてこれをみると、十七日の駿河勢の先手はほとんど前進していなかったことになるから、先手の諸将は十七日に池鯉鮒に着いたその日の今川義元と会ったことになる。また『武功夜話』[26]では、「佐々党は善光寺道に出て平針村に居陣」とか、「佐々内蔵之助(成政)と隼人(政次)殿は、先発して平針というところまで夜中に進出、前野長兵衛、稲田大八郎らは岩作の砦に止まっていたところ」と書くが、これを信ずるならば、駿河勢は十八日の夜には平針方面には部隊を配備していなかったことになる。つまり、鳴海城は封鎖されているのだから、沓掛城が駿河方の最前線になるわけだ。……で、何を言いたいかというと、沓掛城も大高城と条件は同じだということだ。沓掛城は後方地帯でも安全であったわけでもないのだ。そこから考えると、今川義元は合戦前日までの十七日には進軍を止めた先手に、そして翌日の十八日には全軍に、という具合に駿河軍の諸勢に対して尾張国の愛知・知多の両郡に対して「二日間の乱取り・刈働き」の実行を許可したとも考えることができる。これについては、『天白区の歴史』に、「島田山地蔵寺は永禄三年(1560)桶狭間の合戦の折この寺も焼かれている[27]」と紹介している。但し、最近では黒田日出男氏が乱取説を出しているから、これは十九日のことかもしれない。 
  乱取については一先ず置いておいて、戦術的妥当性を検討してみると、沓掛城に泊まった場合の義元は、最前線のそれも最右翼で織田方に露出した場所に着陣したことになる。これは、ちょっと考え難い行動だ。よほど安全なら別だが、通常は、右翼は最も危険な位置[28]である。桶狭間の戦いでの此の状況は、姉川合戦のときの信長の布陣と似ていると河合秀郎氏はいわれる。氏の『日本戦史・戦国編・死闘七大決戦』には、「この(姉川合戦)ときの織田・徳川勢は、まるで桶狭間での今川勢のように分散し、しかも本陣を最前線に突出させたまま、朝倉・浅井勢に背を向けていた」とある。卓見だと思う。尤も、氏がこれを「信長が意図的に朝倉・浅井連合軍を誘致するために採った囮作戦だ」ということについては、深読みしすぎだと思えるので与しないが。………桶狭間の今川義元も同じような過ちを犯したことになるわけである。[29]
(2008.07.10 挿入) 後小松、後柏原、後奈良三帝の勅願道場として東海中本山として栄えた浄土宗玉松山裕福寺[30]には、今川義元が桶狭間で戦死の前日に陣をとったという伝承があると『東郷町誌』はいうのだが、勅願寺であるから訪れたのであって、最前線に相当する地域でありながら防御には劣るのだから、直近に沓掛城がある以上は、宿営したとまでは断定できないものと思う。また、義元が沓掛に訪れた理由も祐福寺に参詣するのが目的であって、鳴海城を救援する目的などは初めからなかったことを窺わせもする。
(5)なぜ前夜の信長は動かなかったのか
さて、こうして見る[31]と、信長が義元の所在を正確に把握していたならば、義元が沓掛城を出陣して行軍しているところを襲撃することが最も良い作戦であることになる。後年の長久手合戦で徳川家康が中入した三好秀次の総勢二万人を撃破したように、である。しかし、『信長公記』のいう事実は逆のように思える。信長は最前線のはずの丸根・鷲津からの注進を確認しようとさえしていないからである。それなのに実際に攻撃されたという報告があって初めて、主従六騎・雑兵二百ばかりで慌てて飛び出しているのだ。これは、沓掛城へ善照寺砦から物見を出して駿河勢が出陣の支度をしているかどうかを確認した形跡がないことで分かる。そして、兵を動員していないところを見ると、決心を秘匿したのではなく、決心ができなかったために、兵力を予定される戦場に広く分散配置したままであったことを疑うべきなのではないのかと思う。ただそれが何れにせよ東部国境であることは間違いないことであったため、敵の行動が鈍ければ比較的間に合って戦場に駆け付けることができるだろうという期待があったのではないのかとも思われる。その傍証に天理本には「於是非国境にて可被遂(トグ)御一戦候、寄地へ被踏迯(ニゲ)候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也」という信長の思いが紹介されているし、『三河物語』は「引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。」としていることがある。
戦争は、敵も味方も情勢判断の誤りや錯誤の連続であるということを証明しているようでもあり、そうした意味では『信長公記』も『三河物語』も真実を伝えているように思えるのだ。………とすると、家老衆が「各嘲弄して罷り帰られ候」とも、最早時間もない夜分に至って斥候を放ってその事実と義元の所在を確認したうえで、夜分に前線各地へ使者を派遣して動員したのでは、直卒の将校を減じるうえ参集するのに混乱するばかりであり、そこを西三河に義元の残置する駿河方に突かれることを恐れたからとも考えられるから、もし信長が十七日に今川義元の所在を把握しており、十八日の時点で沓掛城にいることを確認できたとしたならば、夜間であろうと沓掛城に向かって進発していたに違いない。これは、後の信長の行動からみても確かなことだと思える。それをしなかった時の信長には、他所に大敵がいて動けず、手元には兵力がなかったことが明らかである。例えば、戦力を集中できなかった岩村城の喪失や三方ケ原や手取川での敗戦がその代表例である。だから、信長が沓掛城へ向けて即座に出陣しなかったのは、信長は駿河勢の侵攻については知っていても、義元本隊の所在については把握できておらず、そのような情報があっても信長はそれを信じていなかったのだと考えるべきだと思うのだ。………このことは、現在もて囃されている「織田信長が情報戦に優れていたことが桶狭間での勝因である」とする説は、全くの誤りであるということを意味する。勿論、信長が情報を軽視したということではない。現に、『信長公記』には信玄が鷹狩での「鳥見の衆」のことを知って、「信長の武者を知られ候事、道理にて候よ」と言ったという噺が載っているから、信長の索敵が疎かであったわけではないと思う。一方、義元にとっての沓掛城は、翌朝に鳴海城を救出するために善照寺砦や丹下砦を攻撃する予定があるのでなければ、極めて不用心な宿営地であったということ先に説明した。義元本隊が大軍であれば問題はないのだが、とかく問題の多い小説・『武功夜話』によると、佐々内蔵之助成政や隼人政次らが義元の右翼である平針や裕福寺辺りで駿河勢と接触していないのだから、義元が沓掛城に宿営していた場合にはその直卒兵力には疑問が残る。
以上のように、沓掛城は敵に暴露されている最前線であり、決して安全な後方などではないのです。

、『桶狭間合戦名残』といいまして、豊明市旧間米村で発見された写本

2011-06-27 00:27:18 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
 
(6)『新編桶狭間合戦記』    (2009.05.07 追加)
『新編桶狭間合戦記』は尾張藩士・田宮篤輝による十九世紀半頃の著述で、山澄英竜の論考を伝えるものであるが、そこでは義元の十八日の所在を沓掛城として、大高城説を批判している。すなわち、「惣見記ニ十八日夜、義元大高ノ城ニテ軍評議とせり、創業録モ然リ。原本(山澄本)細注ニ、此日、義元大高へ行キ、即、大高城ニテ軍評定有テ、鷲津・丸根ヲ攻落シ、其後義元ハ桶狭間山ノ北に陣取ト言説アレトモ、難信用義元此時大高ニ在テ両城ヲ攻取ナバ、鳴海ハ間近レバ、善照寺辺ノ砦々ヲ攻シムルニ、手寄ヨク、其レヨリ熱田表ヘノ進発モ順路ナリ。其上敵地ニ入テノ用心ニモ直ニ大高ノ城郭ニ在陣可然事ナルニ、又跡ヘ帰テ、桶狭ノ山中ニ野陣セラレタルト云事、其理曽テ難心得古老云伝シ説々ノ中ニモ、十八日、義元大高へ来リシト言は、嘘説也、ト言ヘリ、」というものである。
  1. 鳴海が間近にあって直ぐに攻められるのに何故そうしなかったのか。
  2. 鳴海を獲って熱田へ出るのは当然の順路であろう。
  3. 敵地に深く中入りしているのだから用心のためにも大高城に戻るべきであった。
  4. 鳴海へも出なかったばかりでなく、桶狭間の山中に軍を止めるなどとは考え難い。
  5. 古老なども、義元が大高城に宿泊したというのは、嘘だといっている。
以上が、批判内容の現代語訳である。
山澄英竜は、鷲津・丸根からは距離が近いのだから、中島・善照寺砦を攻めるのがよいというのだが、とても現役の武士=軍人黒の見解末思えない。黒末典川が天然の堀をなしており、干潮であっても空堀の効果を発揮するため、敵前渡河は困難になるから、敢えて南から攻めるのは戦術的に順当とはいえない。ではと言うので、大高から黒末川を徒渉して星崎・笠寺から熱田を襲えるものと仮定したとしても、塩の干満に左右されて交通・補給に支障があることを考えるならば、一時的に奇襲するには良い経路であっても大軍を運用するには適さない。従って、駿河勢が中島・善照寺の砦を南方から攻めなかったのは戦術的な判断としては妥当で有ったと言える。鳴海から熱田へ出たければ鎌倉海道を使用するのが常道だからである。そこで問題になるのは、何故そうまでして(1)義元自身が大高城へ行く必要があったかということと、(2)本当に義元は四万超の大軍を率いて尾三国境へ出張ってきていたのかという事である。だから、山澄英竜の(1)(2)の疑念は、一重に義元軍が四万五千もの大軍であったということを前提にしない限り、疑問にさえならないことが分かるはずである。つまり、義元が小勢であるならば、いつまでも大高城くんだりに居続けたくなかったのであり、『三河物語』で丸根・鷲津砦攻めに駿河の重臣連が乗り気でなかったのも、大高城番交代が紛糾したというのも肯けるものがある。
では、(3)の義元は大高城へ戻るべきであったとするのは正しいことだろうか。勿論、義元が大軍であったならば大高城へ戻る必要もなければ、桶狭間で休息しようが問題はない。織田方への示威のためにも必要でさえある。従って、義元が一旦大高へ戻るべきだというのは、義元が大軍でない場合だけであるのだが、義元が小勢であるならば敵中に突出して孤立する形勢になりかねないことと紙一重であるため、採用し難い戦術であると言えよう。丸根・鷲津を排除したとはいえ、織田方は何時でも進出できるし、大高城は要害などではないからだ。
最後の(4)の桶狭間山中に軍を止めたことは間違いだろうか。結果的には敗北につながったのだから、間違いとすることもできるだろうが、必ずしもそうとは言えないものがある。
第一に、『三河物語』によると義元は自身大物見をしたうえで、丸根・鷲津の排除を決めている。素人が考えても分かりそうな善照寺砦の排除を選択していないのだ。義元には丸根・鷲津を指呼の間に攻略できるだけの兵力があったことは確かなのであるから、先に善照寺・丹下の砦を落とすことも可能であったはずであり、それができれば中島・丸根・鷲津などは敵中に孤立するから、守備兵は砦を捨てて逃げ去ることが見込めたはずであるのに、である。これによって、義元には喧伝されている程の兵力を率いていた訳ではないとも言えなくもない。だからと言って、織田勢に劣る兵力であったわけではないだろう。それでも、二つの城塞を攻撃している最中に敵の後詰を相手に出来るほどの兵力差があったわけではないことは、駿河勢が潮の満ちるのを期して大高城への付城攻略を発起していることから窺われる。兵力差が喧伝される程のものであったならば、付城攻撃を餌にして後詰に来るのであろう信長を待ち伏せる戦術がとれるのに、それを敢えて避けているからである。
第二に、丸根・鷲津攻略後になっても信長が後詰に姿を見せなかったのであるから、兵の疲労を考えるとその日の内の中島・善照寺攻めは見送って、敵の眼前を示威のために行軍して引き揚げることは、あり得るべき戦術だろう。その場合、自軍の武装を解くのは敵から十分に距離をとった桶狭間の丘陵上であることは、当時の常識からしても別におかしな決定ではなかったであろう。ところが、その頃になって信長が遅れて戦場に到着したものだから、中途半端な距離で敵と睨み合う結果になっただけのことである。義元が不運であったのは将に突然の暴風雨だけであったろう。山澄英竜は尾張藩の初代義直に仕えて重臣であったが、その生まれは1625年(寛永二年)と既に戦国は終わり、最後の戦になった島原乱[32]では十三歳であり、未だ武道は廃れていなかったものと思えるのだが、その論評に疑念を付さざるを得ないのは、おそらく一世紀近く前の二~三千人での戦争の仕方には思いもよらなかったからではないのだろうか。


[1]  『惣見記』元禄十五年(1702)「十八日、松平蔵人元康を以って大高の城へ兵粮を入れさせ、その夜この城にて合戦の評議を調へ、翌十九日、鷲津・丸根両城を攻めんと議定す。」
[2]  『三河物語』年(1622)「五月十九日に、義元は池鯉鮒より段々に押して大高へ行き、棒(某)山之砦をつくづくと巡見して、諸大名を寄せて、やや久しく評定をして・・・」
[3]  『甫庵信長記』元和八年(1622)「翌日十八日ノ夜ニ入、大高ノ城ヘ兵糧ヲ入、爰ニ於テ軍評定シケルカ、翌朝ハ鷲津・丸根両城ヲ可攻干ニソ定メケル。」
[4]  但し、これは「昼間だけ」の話ですからお忘れなく。
[5]  但し、小和田氏を始めとした現代の多くの方々は、大部分の軍記が短時間であったというにもかかわらず、その攻略には長時間かかったうえ信長が善照寺砦に参陣した後まで鷲津砦は落ちなかったと言われる方が多いようです。
[6]  
[7]  現に、桶狭間合戦では勘当されていた前田犬千代が抜駆け組に交じって戦っているし、千秋・佐々らは抜駆けしている。
[8]  『武徳編年集成』幕府大番頭・木村高敦(タカアツ)が八代吉宗に献じたもの。寛保元年(1741)は、十八日については「十八日、神君尾州知多郡阿古屋(阿久比)の郷主・久松佐渡守菅原俊勝が亭に至りたまひ、母君へ御対顔あり」の記事しかない。
[9]  『東照軍鑑』成立年不明「尾州沓掛へ入城し、軍評定あつて、鵜殿長照方へ羽激を飛し、翌朝鷲津・丸根両砦攻破られ可き間、其の節大高よりも出勢す可きの仰せ遣わされ由」ただし、桶狭間合戦記事については誤謬が多過ぎて全般的に信頼できないものがある。
[10]  『佐久間家譜』が「砦からの撤退は許されなかったので、盛重は現地で戦死した」として、信長の非情を指摘している。ところがこれに対して、『松平記』や『三岡記』は「丸根の城に佐久間大学籠けるを、元康公の先手勢攻め詰める故、大学(アツカイ)を入れ、城を立ち退きぬ」と、『東照軍鑑』は「構へ乗入戦ふ程に大学こらへず取手を捨てゝ落行けり」と伝える。
[11]  大軍であれば何でもできるはずなのに、現実の今川義元は大軍を率いているような行動をしなかったのですから、駿河勢は喧伝されるような大兵力などではなかったということ。
[12]  (2009.11.02追加)  最近知ったのですが、桐野氏は「池鯉鮒より段々に押して大高へ行き」とある「池鯉鮒」は「沓掛」の誤りであろうとされているようです。そのようですと段々の意味がなくなりますから賛成できません。
[13] 「段々」について、 (2009.01.31  挿入) 天理本・『信長公記』では、「戌亥(イヌイ)に向て段々に人数を備」とあって「段々」という語句が追加されています。『桶狭間・信長の奇襲神話は嘘だった』の藤本正行氏は、「桐野氏は”段々に”という言葉から、多数の部隊が横隊になって幾重にも重なる様を連想されたようだが、各所に点在することも”段々に”と表現する。『信長公記』…”北から東の山に…前後左右段々に取り続き、陣を懸けさせられ”とあるのがその一例である。」と批判されますが、これは明らかに藤本氏の誤りでしょう。『信長公記』には他にも天正三年の河内国新堀城攻めで、「其の日は、誉田の八幡、道明寺河原へ取り続き、段々に陣取る。信長は駒ヶ谷山に御陣を張らせられ、万方へ足軽仰せ遣はさる。」とあるのを見ましても、各所に点在というのではなく、段々の原義通りの「層をなして重なっているもの、小分けにした一つ一つ。」という、ある種秩序だった並びの意味であることは明らかで、「点在する」の本来の意味である「散在、散り散りバラバラ」という解釈は当らないものと思います。
[14] 手順を踏んで。織田方の諸砦を大物見を敢行しながら。
[15]但し、駿河勢全軍が大高城に宿営したとまでは言えません。何故なら、それまでも駿河勢は諸方に分散して宿営しているからです。例えば、義元が掛川に着いたときの先手は、原河・袋井・見付・池田に分宿していますし、義元が吉田に着いたときには、下地の御油・小坂井・国府・御油・赤坂に陣取ったといいます。さらに、義元が岡崎に着いたときには、諸勢は矢作・宇頭・今村・牛田・八橋・池鯉鮒に陣取っています。しかし、これ以後の諸勢の動向は何も記されていません。全軍が合同したとも書かれてはいません。ですから、義元がいったいどの程度の兵力を率いて沓掛から大高に行ったのかは、史料からは分からないのです。
[16] 戦国時代の武器兵粮は自弁です。しかし、兵粮を必ずしも用意できるとは限りませんから、大名や寄親が立替えて支給し、後で利息を加えて清算することは多かったものと考えます。要するに、動員回数が多すぎて過重な負担になっていたと思うからです。食料自弁の実態はよく解りません。武器についても同様です。北条氏の文書を見ていると必ずしも調っていないのですが、だからといって寄親が用意してやる余裕もなさそうです。
[17] これに反対する意見に永井勝三著『鳴尾村史』があります。そこでは「尾張国西端長嶋城主服部左京亮等は織田軍に当然味方すべきを、今川軍に味方し数十艘の兵船に、多量の兵粮と士卒をのせ、前夜黒末川口に着岸したが、風雨強く陸揚ができず、合戦の朝大高城に兵粮入をし、今川軍をば歓喜させたが、午后義元の敗戦を知るや将士は船に戻り、奮激の棄場に帰途熱田ノ宮に上陸したが、此処でも加藤図書の土民に追いまくられ、民家に放火しやっと帰城したニュースは、当時の著作者の心を引いたので、各書に記された黒末川の名も世間に知れた」とされています。 しかし、牛一の記事では信長が善照寺砦に参陣した時点での戦況に服部水軍については一言も触れていないのですから、戦術的に脅威であったとは看做されていないと思いますので、この見解には賛同しかねます。
[18]  『惣見記』は小瀬甫庵の『信長記』を補訂するという形で記しており、信長の諸孫にあたる貞置に校閲を依頼し完成したといわれるため、史実に潤色がされていて信用性に欠けるのが難点です。
[19]  (十七日)
[20]  これは、『桶狭間合戦名残』といいまして、豊明市旧間米村で発見された写本で、豊明市史編纂室で保管するもので、「神君様(が)兵米(を)御運びあそばされ候よし、その節、木之山村(大府市共和町)を御通り、兵糧を御運びあそばされよし申し伝え候、同村(には)開け城へ再度籠城あそばされ候よし伝えもあり。」とありる。
[21]  最近、天理本・『信長公記』には「大高之南、大野・小河衆被置」という記載があることが紹介された。 
[22] [23] 村木砦が攻略された際に帰路の信長に焼討されて落城したと家譜にあるという。その場合には、信長の村木砦攻めは単に喉元に刺さった棘を抜いただけではなく、花井氏の背後にいた大野佐治氏の心胆を寒からしめたことになり、これによって佐治氏と緒川水野氏の同盟などを促進させたことを推測させる。 (2008.1.19追加)
[24]  『寛政譜』
[25]  『日本戦史・桶狭間役』の考えでは、岡崎に一千名、来迎時城・牛田城・重原城・池鯉鮒・今岡に合わせて四千名の兵を控置したとしています。これでみますと北から沓掛城・今岡城・重原城と一直線上に並んでおり、これらが今川方の合戦前日の最前線であったと旧参謀本部は考えていたことになります。 
[26]  前野家文書の小説・『武功夜話』には、「十八日夜には卅有余人を尾三国境に派遣し、百余の佐々成政一党が信州道から裕福寺に出張した」「蜂須賀らは、裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして街道筋で義元の通過を待った」とある。………2008.11.24からは『武功夜話』の頭に「偽書」とつけていたが、2010.03.15からは小説『武功夜話』と直すことにした。もし、義元が祐福寺に宿営したとしたならば、百人からの佐々隊と交戦したことになったはずだから、武功夜話の作者はこのような寺伝があるのを知らなかったものと思われる。また、祐福寺村々長も態々桶狭間村を超えてまで義元に戦勝祝賀に訪れる必要もないわけである。理由は、とうの昔に安堵を受けていただろうからである。これが、義元が祐福寺ではなく沓掛城に宿営したとしても同じことです。総大将義元を守ために何重にも敵地との間に駿河勢が陣を張ったはずだからです。そして、祐福寺は勅願寺であり、義元の勢力圏にあるのだから、そのような所に敵の軍勢に出張られたとあっては、顔に泥を塗られたのも同じことだ。ということは、敵中深く中入りした勲功は大きなものがあるはずだから、佐々氏や蜂須賀氏がこれを喧伝しないはずがない。それなのに、それが無いのだ。
[27]  (2007.07.25 追加)この焼失について書かれた古文書は、現在名古屋市博物館が保管されている。今川義元の先鋒であった三河の岡崎軍が近郷沓掛の砦を攻略したときのことと取り違えているのかも知れない。
[28] 因みに、古代ギリシャのファランクスでは、最右翼には「左側は手盾で護れても、自分の右半身を守ってくれる隣の兵士」は存在し。ないために、右縦列には最強の戦士を、右翼には最強の部隊を配置したうえで、これを援護するために若干の騎兵や軽装歩兵を配備するのが理想であった。
[29]  但し、今川義元が沓掛に宿営したとは考えない。
[31] 藤本正行氏は、「調略で奪われた鳴海・大高両城に付城で攻囲されたことにより、この事態を打開すべく義元が後詰したことによって生起した、当時としては平凡な群雄間のローカルな境界争いである。」とされ、信長の戦略は「西三河の経営に手を焼き、三国同盟が成ったとはいえ背後の不安な義元の弱みに付け込んで、戦局を膠着状態に持ち込むのが狙いであった」とされている。そして、信長が善照寺に入り中島砦に進んだのを見れば、信長には自身の行動を秘匿するつもりはなかったし、十分な情報網を持っていなかったといわれながら、一方ではフロイスの「決断を秘し」という言葉を紹介し、信長は「敵の疲労を待って温存していた自軍の主力で叩こうとしていた」と見做している。そして、『信長公記』に記された信長の一連の行動から、信長は敵の動きを確認しながら行動した結果、ようやく前線について直接みた戦況を誤認したとされる。
[32]  一揆軍三万七千という。 

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