<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>
Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9
- 谷口克広氏、『信長の天下布武への道』『織田信長合戦全録』 (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)
- 桐野作人氏、『信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ/歴史読本』 (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加)
- 藤原京氏、『時代劇のウソ?ホント?』 (初出 2008.07.13)
- 別動隊説を検証する………橋場日月氏、『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』『伊勢湾制圧・今川帝国の野望/歴史群像』 (初出 2007.12.18)
- 服部徹氏、『大高と桶狭間の合戦』『信長四七〇日の闘い』 (初出 2008.12.14 「伊勢湾海運と水軍」に移動。 2009.11.20 別章を立てました)
- 鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』 (初出 2009.02.01)
(1)谷口克広氏の桶狭間 (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)
(2)桐野作人氏の桶狭間 (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加)
さて、『歴史読本』8月号に桐野作人氏の桶狭間の戦いに対する考え方が示されました。というよりも、新たな可能性も提示されただけのようでして、結論は保留されているようですが、これまでの谷口氏の説とは異なっておられるようでして、藤本氏や谷口氏の提案には一切触れられておられず、かなり藤井尚夫氏の説に近いものになったようです。また、朝比奈勢や服部勢の行方などには一切触れられていないのはとても残念です。 桐野氏は、方角問題を乗り越えるために、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」とされますが、果たしてそのようなことは可能なのかを検証してみます。 註:方角問題とは、中島砦から桶狭間村は東南に位置するため、信長が桶狭間で東に向かって攻めかかるには、どこかで南に行軍しているか、それとは反対に、義元の方が本陣を北方に移動させていなければならないはずだという疑問のことです。 まず、沓掛から桶狭間に義元が向うにあたってどの道を通ったかを考えますと、桐野氏はこの問題には一切触れられてはおられませんが、大脇から大高道を通ったことに間違いはないことだと考えるべきだと思います。何故なら、当時の東海道から桶狭間村に入るには、いったん鎌研あたりまでいって、長坂を上り高根と幕山の間の峠を通る鳴海~桶狭間道を行くしか街道はなく、非常に遠回りになるからです。それにまた、東海道には人家もなく、せっかく塗輿に乗っても義元は人々に示威することができないからです。近世から見られる間米~館を経て桶狭間へ抜ける道なども当時はなく、軍隊が行軍するには適当であるとは思われないこともあります。 と云うことは、義元が大高城に入城するのが目的である限り、当日が熱暑であることを考え併せると、東海道を行軍していながら、わざわざ鎌研から桶狭間山に戻ってまで休息するということは考えられない無駄な行程を採ったことになるわけです。また、疎林とはいえ道のない場所を行軍したものとも考えられません。それに、引き連れた小荷駄を大高城に先行させて入れておくことが安全なはずなのですが、そのような処置もとっていません。これは漆山に着陣した場合でも同様です。………義元が中島砦を攻めたうえで鳴海城を救援しようとしたという伝承もまた殆どないのです。これが第一点の説明されるべき疑問です。 漆山義元本陣説には大きな弱点が二つあります。 一つは、義元勢が桶狭間山から東海道を漆山に上りますと、有松の狭間を抜けてからは善照寺の織田勢にその姿を暴露するわけですから、織田軍は信長だけでなく大勢の将兵が諜報や偵察などによらずとも、義元の軍勢をつぶさに観察して具体的にその数さえも勘定できたことになるわけです。と云うことは、信長がその手兵を前に演説した内容は完全に嘘であることを部下に見抜かれていたことになります。信長がいかに駿河勢が労兵であると演説しようと騙されるわけがありません。………逆に言いますと、これは、それだけ信長一党が熱狂の極みにあったことになるわけでして、善照寺砦や中島砦で信長の出撃を諌止した極少数のものだけが正気を保っていたことになるわけでもあります。ですから、信長のカリスマ性を示す格好の事例になるわけですが、牛一の『信長公記』では信長麾下の将兵が熱狂して敵勢に向かっていったというような記事をのせてはいません。将兵が熱狂したのは略奪に出かけるときだけだったのではないのでしょうか?天理本では熱狂して(?)熱田・山崎からついてきた人々は、駿河勢の威容をみて正気に戻って退き上げてしまったと記しているのです。ですから、これが説明されるべき第二の疑問で、信長のカリスマが疑われるところです。 二つ目の弱点は、『信長公記』が「信長は、先ず丹下砦へ行き、善照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。信長の参陣と同時に佐々らは出撃した。その後、午刻に至って昼食をとり、謡をした。」という時間経過を記すからです。 ………これは、歴史読本8月号で桐野作人氏が、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」といわれることは、全くの誤りであることを指摘することになります。午刻には義元は桶狭間山にいる必要があるからです。 なぜなら、『信長公記』は、信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。そしてその信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したとなるからです。その後、義元は漆山に陣を進め、午刻に至って敵前の漆山で昼食をとり、謡をしたと読まなければなりません。 これでは、明らかに拙いので、「信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。義元も信長参陣を知って急遽漆山に陣を移すべく前進を開始した。同時に、信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したが、それを義元が見たのは高根以西の高地からであったとし、その後義元は引き続き前進して漆山に陣を進め、午刻に至って漆山で昼食をとり謡をした」としなければなりません。 ということで、そのように解釈した場合の行程的な問題だけを考えてみます。 義元が午刻に漆山本陣で昼食をとり、謡をするには、桶狭間からの約3kmという距離から考えて45分程かかったものと思われますから、午前11時15分には桶狭間山を出立していなければなりません。その場合、義元が佐々・千秋らとの前哨戦を観戦できる高所を探しますと、高根と幕山およびその峠と長坂を行軍中であることなどが考えられます。そして、高根は桶狭間山から約1km先になりますから、15分前の午前11時30分には高根にいなければなりません。 また、信長の方は、桶狭間山の義元に参陣を見られたのが午前十一時十五分なのですから、 熱田~善照寺間一里25町余の7kmを時速9kmで駆けたとしますと約50分かかりますから、午前10時25分という遅い時刻まで熱田で将兵の着到を待っていたことになります。 佐々らが信長の善照寺参陣を見てから中島砦(天理本)を出撃しているのですから、その場合には、丸根は別にしても鷲津砦の攻略には午前十時以降までかかった可能性があり、松平元康の率いる松平勢が丸根攻略後に鷲津攻めにも転戦し、朝比奈勢は鷲津砦の戦後処理にかかりっきりで、桶狭間合戦には間に合わなかったということもできそうですから、「鷲津砦に朝比奈勢がいる」という難問をクリアーすることができます。 逆に、信長が午前10時頃に善照寺砦に参陣していたとしたならば、義元もその頃には桶狭間山から高根以西を行軍中でなければならないのですから、義元の本来の目的は信長が出現しようがしまいが大高城に行く予定であったと考えられます。すると何のために桶狭間山で人馬を休息させる必要があったのかが再び問題になります。昼食をとるには早すぎる時刻であり、正午には大高城に入城していられるからです。なぜ義元はそうしなかったのでしょうか?………たぶん、桶狭間山で信長参陣を知ったからだという本末転倒な説明を漆山に本陣を布いた理由にされることが考えられますが、桶狭間山に寄り道した理由は依然として謎のままですから、これも説明を要します。 さて、桶狭間山にいた義元が午前10時頃に信長の参陣を知って、急遽本陣を約1km先の高根まで進めたところで前哨戦を見たとしたならば、これには15分かかりますから義元の先備えは約840m先の戌亥にあたる鎌研のあたりで織田勢を迎え撃つことが考えられます。その場合に佐々らは1.4kmを山際(鎌研あたり)まで行ったとしますと25分ほどかかりますから、義元が高根に到着した十分後に両勢は合戦を開始した可能性があります。これは午前10時25分になりますが、戦闘時間は五分程度で勝敗は明らかになり、その後は追撃戦になったものと看做すことにします。この趨勢をみて義元が陣を進めたとしますと、約1km先の漆山に到着できるのは15分後の午前10時45分頃になります。義元は正午に昼食をとっていますから、その後の1時間15分で全軍を漆山に収容して布陣を完了したと看做すことができます。これは後続が行軍中に襲撃されることを許すわけにいかないからです。 この行程から義元の直卒兵力を推定しますと、1時間15分で行軍できる距離の5kmにどれだけの兵士がいたかという問題なるわけですが、騎兵一割を含んだ一時間当りの兵数は4,208人でしたから5,260人と先備えの兵力1,000人を加えて、6,000人強の兵力と算定します。これは微妙な兵力です。信長の率いたのは2,000人といいますから約三倍なのですが、信長の場合には小荷駄などを伴わなかったと考えられるからです。 そして、信長とその兵士の大部分は熱狂的に攻撃に移り、少数の冷静な武将はこれを諌止しようとし、熱田・山崎から浮かれて付いてきた町人らは、熱から冷めて急遽引き返したことになるわけです。果たして、信長軍の中核になった小姓・馬廻などの集団はそのような熱狂的な集団であったと言えるでしょうか? ………これは、結構いえるようにも思えますので、これも信長のカリスマ性の一例にされそうです。しかし、それにしては『信長公記』は「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども」と書いたり、「右の衆、手々に(敵の)首を取り持ち参られ候。 (信長は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、」と書き、信長に反対する情景は書きますが、信長を熱狂的に支持する将兵の姿は書かず、進撃の実態も緩々と前進しているように思えて、熱狂性は感じられません。 ところで、朝日出~漆山は約2kmありますから、信長勢二千人が漆山の山際に展開するには45分ほど要します。ですから、昼食と謡に30分を見積もりますと、風雨の始まりは午後1時15分ということになり、降雨時間は45分と考えることができます。そうしますと、桐野氏の説も行程的にはと限定すれば、有り得る想定であるということができます。 但し、桐野氏自身も認めておられますが、『信長公記』や『三河物語』という史料に矛盾する点が多々あります。 (2010.05.06 挿入) 『歴史街道2010.06』での桐野氏は、『信長公記』に「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、五月十九日、午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」とあるのを誤読されて、「今川軍は桶狭間山で休息したのち、戌亥の方角に向かって軍勢を進めた」と解釈される。この恣意的操作により、信長と義元との距離はぐっと縮まり、両雄が近世東海道上において東西の位置関係で遭遇する可能性を高くすることができる様にはなる。しかし、原文をどう読んでも、義元は桶狭間山で休息していたのであって、そこから自陣を動かしたと読むことはできない。義元が動かしたのは、当然の軍事行動であるが、休息する本陣を守るために「一手(備)」を敵のいる方角(善照寺・中島砦方面)へ張り出して布陣させたという、極々常識的な行動をしたに過ぎないだろう。これ以外に解釈のしようがないのは、時間の経過を見れば分かりそうなものだ。義元は午の刻には、佐々・千秋らとの前哨戦を観戦したうえに、謡を三番も謡って悠然としていたのである。その義元が64.9mの山から下りて東海道上に出るには一体どれほどの時間がかかるだろうか。信長が義元の旗本を発見して突入するのは未の刻であったのだ。そして、『天理本』には「戌亥に向て段々に人数を備」たとあるのだから、とてつもない時間がかかっただろう。まず、義元は前がつかえていて山を下りられなかっただろうし、信長は東海道に充満する駿河勢に道を塞がれて、義元の許に辿り着くことなどできなかったはずなのである。これらのことから、桐野氏のいわれる方角問題は、問題以前の問題というしかない。 <余談だが、氏は、桶狭間山を「石塚山」と態々記載されている。これは64.9m山頂から200m東にあたる現在の南舘付近のことである。そして、『豊明市史p576』には「石塚山は義元の本陣跡とも墓所とも伝えられている。正確な場所は不明だが、・・・(豊明市)古戦場公園の南約500mの丘陵付近(現在のホシザキ電機付近)に該当すると考えられている。」との説明があるにはあるが、見通しはまるで利かない山中である。同関連史料も資料編補一第六節にあるにはあるが、検証する気にもならない。………因みに、この64.9m山付近の地名は目まぐるしく変転している。1976~80年の地形図では、この山の北が舘北、この山の辺りが舘、その西が舘中、南が舘南と表記されている。それが、1984~89年の地形図では北舘が南舘に変わり、その他の地名は消えている。1968~73年の地形図では南舘が舘と表示されているだけであり、1959~60年以前の地形図(昭和37年発行)には地名表記すらないのである。桐野氏がなぜこのような地名を態々持ち出すのか気が知れない。> (3)藤原京氏の桶狭間 (初出 2008.07.13) 『時代劇のウソ?ホント?』での氏の仮説はかなりユニークです。 その要点は義元軍は陣城を構築中であって、それが完成する前の隙を速攻した信長に衝かれために敗れたというものです。そのために、信長は第一波の攻撃を千秋・佐々ら三百人に行わせ、第二波には前田犬千代が参加しており、自らは第三波となって義元本陣に殺到したというのです。そして、その背後には柴田勝家らの部隊が控えていたとしています。 このような説を唱える理由について、氏は自ら説明して、現在忘れ去られた戦国時代の常識の一つとして、「城は攻めても落ちないもの」というものがあるとされています。そのため、鳴海城・大高城を攻囲し、駿河勢籠城策をとったために必然的に駿河勢による後詰が行われたことにより生起したされており、信長は桶狭間山に着陣した駿河勢が未だ陣城を構築できないでいたその隙をついたのだとされるわけです。そして、反面教師として長篠合戦での信長・家康連合軍による野戦築城を例に出されます。………義元は、本当に桶狭間山に陣城を築こうとしていたのでしょうか?一体、何の目的で? 陣城構築中であったということには否定的な情報が多々あります。 それでも、藤原氏の説には魅力的なものがありました。それは、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」という主張です。この説は、『信長公記』の天理本が紹介されるまでは、大高城に兵粮を搬入したことは公記に書いてあるのですが、大高城が包囲されていた事は証明できませんでしたから、すこぶる魅力的な見方の一つで有り得ました。大高城の南に付城が築かれたことを明確には証明できなかったからです。 その場合には、丸根・鷲津砦の戦術的な意味は、藤原氏が言われるように、鳴海城への兵粮や兵力を搬入することを妨害するものであったことになり、織田方が大高城を攻撃することは二義的になりますから、義元がこのニ砦を攻略することは取りも直さず鳴海城の封鎖を解くことを目的にしたものであったことになるわけです。………尤も、それでもまだ中島砦が東海道を封鎖していますから、東海道からの搬入は見込めませんし、沓掛城から鎌倉海道によって善照寺砦を攻略した方が楽なように思えることには変わりはないのですが。 ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか? これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。