gooブログはじめました!地球の無駄使いをやめよう。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
地球が延命出来れば人類は必ず生き延びられる

<蓬左文庫桶狭間図>

2011-07-05 17:49:12 | 明け狭間の真相やいかに

<蓬左文庫桶狭間図> 

 

 

oogleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9 

 

 

「抜け駆け」の章において前哨戦を述べたところで、「諏訪山」辺りに駿河勢の陣地があったという説を紹介しましたが、これを裏付けるものが実際に在るのです。通説のいうような桶狭間村にある64.9mの山などではありません。

『蓬佐文庫の桶狭間図』がそれです。

これは、後世に尾張藩が当時を知る者から聞き取り調査をしたものを絵図におとしたとされるものですが、義元本陣があった場所をみると、どうみても漆山なのです。この合戦図は、かなりデフォルメされていますので、実際の地図に比定するのは困難なのですが、無視するわけにはいかないと思います。

そこで、まずは絵図で省かれているものを[ で表示し、強調されているものは〈 で表示します。

1. 善照寺砦丹下砦中島砦が省かれています。このことから、駿河勢の主目的は大高城の救援であり、善照寺砦や丹下砦を攻撃して鳴海城の後詰をする気などは始めからなかったことが窺えると思います。

2. 笠寺には葛山ら五人〉が籠っています[1] 星崎古城が描かれていますが、守備する者の記載はありません。これらのことから、笠寺・星崎の重要性が窺え、義元が調略した始めの頃の状況も混同されているとしても、笠寺台地の重要性がわかります。

3. 天白川も黒末川も川幅は狭く、大高川河口と一つになっており、通説のような広大な河口とは認識されてはいないようです。従いまして、干潮時には鳴尾辺りから下汐田辺りに渡渉できた可能性もあると思います。

4. 当時の幹線道路であったと思われる[鎌倉街道]の記載がありません。その代わりに〈東海道〉が描かれております。[上手の道]も記載がありませんで、〈笠寺を通る道〉が描かれています。このことからも、駿河勢には始めから善照寺砦を攻撃して鳴海城の後詰をする気はなく、東海道が行軍に使用されたことも考える必要があることになります。『静岡県史』は義元が東海道を桶狭間山に上がったとしています。但し、この説の弱点は、義元が沓掛城から来る限り、桶狭間山にのぼるための既存の地方道は、当時は存在しなかったと考えられることがあります。

5. 黒末川に架かる〈中島橋〉は木製に見え、〈大高川〉は描かれていますのに 手越川は省かれております。このことから、手越川が作戦に重要な障害にはならなかったことが窺えます。大高川が戦闘には何の意味も持たなかったのに描かれているのは、家康が兵糧入れを担当にすることになり、『渥美家伝』にいうような服部氏や渥美氏による海上からの兵糧入れが行われたからであるとも考えられます。

6. 鳴海城下から黒末川を渡し舟で渡り、大高へ向かう道〉が描かれていますが、当時の主要な地方道であったはずの、[大高から鷲津の西を回り前之輪・丸内を経て善明寺から車路で手越川を渡り中島橋に至る道]は描かれていません。これは、砦の敗残兵を追撃しなかったことを暗示するのかもしれません。

7. 藤本正行氏が主張される平子が丘とみられる丘陵上にも今川方先備の軍勢が布陣]したとは書かれてはおりませんで、[千秋・佐々との合戦]についての記載もありません。これは、徳川家には無関係な合戦でしたし、桶狭間合戦においては鎧袖一触の小競り合いに過ぎなかったからだと思われます。

8. 義元本陣から一町ばかり前進して北西に備えたとされる[松井兵部宗信の前備]も、後世有名になった大将ヶ根も描かれてはおりません。桶狭間図の義元本陣からの距離からすると鳴海城より遠い場所になり矛盾するからかもしれませんが、ここが桶狭間山ではないからかもしれません。

9. 鷲津砦と丸根砦の攻略後に、[それら砦の山裏に朝比奈勢が陣]を張ったとは書かれていません。このことは、今川全軍が一まとまりとして義元本陣に集約されているのかもしれません。即ち、それまで一日以上行程先行していた先鋒隊も十八日以降は義元の指揮下にあったからなのかもしれません。

10. 大高城の周囲には家屋が描かれているのですが、[鳴海や相原の辺りには宿屋]が描かれていません。これは少なくとも大高城下には火がかけられなかったことを示しているとともに、戦略目的には当初から鳴海城が想定されていなかったからかもしれません。

11.『張州雑志』と『尾州知多郡大高古城図』にしかみえない光寺砦正が描かれているのですが、それらに記載されている氷上砦は描かれておりません。しかし、このような砦があったとすると、大高城の西と南の封鎖は水野信元の担当であり、大高城は完全に封鎖されていたことになりますから、守将の鵜殿が飢えたのも理解できることになります。同時に、付城が除かれない間は、大高川が鵜殿軍の補給には使えなかったことを窺わせます。

12.天神という字は現代に残っています。

13.絵図中央の南北の道は、大高川の水源近くで緒川から大高への道と鳴海から緒川への道が接続していますから、平部の山越えしたという〈小川街道〉に見受けられます。これは、現県道が有松郵便局から南に桶狭間へ行く道ではないように思えます。

14.位置関係からみますと、義元本陣のある山は〈漆山〉に相当し、背後の池は琵琶ケ池にあたるようです。漆山の回りは古くから開発されておりましたから、田があっても不思議ではありません。そのように考えますと南北にある道路が途中で山越えしているのも合点が行きます。また、実際の桶狭間山の東南の傍には、それに見合うような池は存在しませんから、この義元本陣のある山は、通説の桶狭間山ではないように思えます。阿野と有松の間を結ぶ東海道は、地質が農耕に適しておりませんでしたから、溜池が作られる契機などはなかったからです。

15.道を挟んだ向かいの〈明神森〉がある場所は、現在の〈諏訪山〉にあたると思われます。昔は平部山と呼ばれた諏訪山は、樹木鬱蒼として古来より諏訪社が鎮座しましたのでしょうから、明神森と書いたのかも知れません。地名の表記はありませんが、諏訪社の北が母衣後にあたりますから、千秋・佐々らとの合戦があったゆえに記載してあるのかも知れません。

16.桶狭間であるかもしれない義元本陣の周囲には、桶狭間に当時もあったと考えられる[鳴海から桶狭間への道、地蔵池大池鞍流瀬川などが描かれていません。大池の東傍に伝承される瀬名氏陣所もまた描かれていません。

17.当時存在した桶狭間村]も[長福寺も記載されていません。

18.[大脇から桶狭間に通じる道]が描かれていません。このことは、義元が沓掛城から来た場合には、は東海道から山上の本陣に上ったと見做していることになります。これが漆山ならば小川街道から上ることができるわけです。但し、漆山に本陣があった場合には、先に紹介した母路後で前哨戦が戦われるには説明が必要なほど、東にずれていることにもなります。

19.当時、高根生山武侍などの丘陵は周囲に田を持っていませんでしたから、この絵図の山々には該当しません。

20.目標になるような[一際高い弧峰]などは書かれていません。これによって、桶狭間山の近辺を描いたものではないと考えることもできると思います。

21.『信長公記』に見える沓掛城は省かれています。徳川氏にとっての桶狭間合戦には重要ではないのかも知れません。

 

<省略と強調>

ここで参考までに、この絵図で省かれているものをまとめて

 oogleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9 

「抜け駆け」の章において前哨戦を述べたところで、「諏訪山」辺りに駿河勢の陣地があったという説を紹介しましたが、これを裏付けるものが実際に在るのです。通説のいうような桶狭間村にある64.9mの山などではありません。

『蓬佐文庫の桶狭間図』がそれです。

 


<蓬左文庫桶狭間図>

2011-07-05 17:40:48 | 明け狭間の真相やいかに

<蓬左文庫桶狭間図>

 

 

 

<省略と強調>

ここで参考までに、この絵図で省かれているものをまとめてみます。

建造物では沓掛城、善照寺砦、丹下砦、中島砦、氷上砦、知我麻社、長福寺、諏訪社が、交通路では鎌倉街道、上手の道、大高から鷲津の西を回り込む中島橋に至る道が、河川池沼では手越川、鞍流瀬川、地蔵池、大池が、集落としては鳴海や相原や平部の家屋(宿場)と桶狭間村が、山々といってよければ高根・生山・武路・武侍、桶狭間山、大将ヶ根などの丘陵が、軍事的には今川方先備である松井兵部、朝比奈勢、佐々・千秋との合戦、瀬名氏陣所が省かれています。

逆に強調されているものを掲げますと、建造物では笠寺城、星崎古城、正光寺砦、大高城の周囲の家屋が、交通路では東海道、鳴海城下から黒末川を渡し舟で渡り、大高へ向かう道と中島橋が、河川池沼では大高川、琵琶ケ池(?)が、山々などでは天神森、明神森、漆山(?)が強調されています。

<桶狭間合戦図の示すもの>

この『蓬左文庫桶狭間図』には、『成功記』が「桶狭間山の北に陣す」といい、『桶狭間合戦記』も「桶狭間山の北の松原」というような、目標になるような一際高い弧峰は一切書かれていません。ところが、『蓬左文庫桶狭間図』が描く義元の本陣の位置は、東海道を北に臨んで、西に明神森を持つ山塊としており、鳴海から南関山へでる小川道を挟んで岬のように突出した丘にみえ、南東の背後に雨池なる溜池を控えた丘陵上にあったとしています。そこで、もしこの絵図が、現在の緑地公園から現県道西にあたる丘陵一帯を省略して描いたものであった場合を考えてみますと、図の中央を南北に走る道が「鳴海から桶狭間へ向かう道」であり、鎌研橋で東海道と接続することになりますから、絵図の下部(南)で合している所は追分に相当すると見做せます。また南には大高から発して緒川へ至るらしい道が描かれており、東海道は絵図の上部(北)から中島砦の南で分岐して義元本陣の西を南下する道と丸根砦の東で合流しています。

逆に、この図が桶狭間村付近であることを否定する証拠には、以下のようなものがあります。それは、当時から存在した長福寺、桶狭間を深田にしていたはずの地蔵池、大池、鞍流瀬川が記載されていません。義元が沓掛城から来た場合には必ず通ったと思われる大脇から桶狭間を経て大高へ至る道、そして肝心の桶狭間山が描かれていません。又、義元本陣の位置は、街道に面して異常に敵方に露出しており、本来なら松井宗信が陣取ったと思われる位置にあります。義元本陣の東は田や狭間にある雨池などは、合戦当時は此辺りに人家も水田の無かったので、この様な場所にあったとは思えません。

以上なようなことから、この絵図が、現在の緑地公園から現県道西にあたる丘陵一体の全てを一切省いて、桶狭間村辺りを描いたものであるとは認め難いものがあります。

では、この絵図が何処を示しているかといいますと、鷲津砦がある丘陵地帯で、『三河物語』の言う「某山」だと思われます。これは固有名詞ではなく「或る」という意味での「某」だと思います。上下に伸びる真ん中の道は小川道であり、平部山を越えていることになります。義元本陣がある山は「漆山」であり、その脇の池は琵琶が池であり、明神森とあるのは諏訪社のある諏訪山に比定することができると思います。北からの道に注記して、「鳴海より丸根廿三町」としているのは、平部山を越える小川道を使用した距離であり、桶狭間を経由した距離ではありません。また、この図の余白には、合戦譚をまとめて表示しているにも関わらず、信長と義元の参陣経路は無視されています。また、当時から存在したと思われる桶狭間村辺りのランドマークが一切描かれていません。その一方で、鷲津砦・丸根砦・大高城・鳴海城が強調され、合戦時には駿河方の兵力がなかったと目される笠寺城・星崎古城が描かれているのに、沓掛城は無視されており、千秋・佐々との戦闘も無視されています。

ところが『蓬左文庫桶狭間図』の大きな特徴としては、松平元康による大高城への兵粮入れに支障になったと思われる正光寺砦が描かれていることです。即ち、そこに描かれているものは、駿河勢が佐々・千秋隊との前哨戦に及ぶより前までの状態であり、十九日早朝から丸根砦攻略中か、またはその直後までの兵力の配置状況なのです。そうしますと、蓬左文庫の主題は飽くまで家康の顕彰であり、丸根砦の攻略における功名であるように思えます。問題は、そのような状況の時に、義元本陣が小川道の鳴海側登り口を扼す丘陵と思しき所にあることなのです。そして、この場所の戦術上の意味は、満潮時に丸根・鷲津砦を攻略しますと、信長が星崎方面から来襲する恐れがないのですから、義元本陣は中島砦からの信長による後詰を迎撃する位置にあたるということです。

もしこれが、桶狭間合戦の見聞を正しく伝えるものでしたならば、小瀬輔庵が信長記で作り上げた世界から離れて、『信長公記』と『三河物語』だけの世界を検証してみる必要があるものと思われます。しかもその意味するところは重大なのです。

1. 第一に、この図は十九日の義元が沓掛城から大高城へ向かっていたのではなかったことを主張しています。大高城から小川道を通って「漆山」に本陣を置いて、信長の後詰に備えていた義元は、丸根・鷲津砦の攻略に成功した後は、東海道を撤退しますが、鎌研で鳴海と桶狭間村を結ぶ坂道に入り、桶狭間山で休んだということになります。

2. 第二に、五月十八日は空白などではなく、既に義元はその夜には大高城へ入城していたことになります。

3. 第三に、義元は善照寺・丹下を攻撃する心算はなく、鳴海城は困窮したりしておらず、橋頭堡として充分に機能していたということになります。

4. 第四に、実際の駿河勢は、逃げる砦の織田勢を深追いはしなかったはずです。何故なら、『三河物語』に「其れより大高城に兵糧米多く籠める。その上にて、また長評定これ有けり」とあり、義元が直ぐさま元康に命じて服部氏や渥美氏の持参した兵粮を大高城に搬入させ、大高城番の交代の軍議を開催していますから、それらのことの方に時間をとられてしまっているのです。また、両砦の織田勢に対しての華々しい追撃の記事が見えないうえ、『三河物語』が「その内に、信長は清須より人数を繰り出し給う」と書くのみであるからでもあります。そして、これらのことは義元の率いていた兵力が喧伝されたような大兵力ではなかったことを疑わせることにもなると思います。

5. 第五に、「漆山」の西には小川道を挟んで諏訪山がありますが、ここに義元が本陣を置いた可能性は少ないと思います。何故なら、当時ここにあった諏訪社には兵火にあった伝承がないからです。同じように、桶狭間合戦の戦場になったと思われる桶狭間村にある長福寺も戦火を免れています。そこでは、桶狭間合戦の時に住職が村人とともに酒肴を献上したと伝わり、その境内では、義元の茶坊主・林阿弥が義元らの首検証をさせられた後で許され、後に主君義元の菩堤を弔うため、阿弥陀如来を持参したとも伝えているのです。そして、このことは深田に阻まれてそこまでは戦場にならなかった可能性が高いことを考慮すべきことを示唆します。つまり、義元は桶狭間山が何処であれ、長福寺までさえも逃れられなかったことを示しています。逆に、鷲津砦と丸根砦の間にある長寿(祐)寺は兵火にあって焼失しています。

6. 第六に、瑞松寺(瑞泉寺)は、文亀元年1501に平部山を離れて、当時出来上がりつつあった東海道の町並みの中(中島橋西の辺の現在地)に移っているのですが、特に兵火にあったという伝承はないようです。もし兵火には遭ったとしますと黒田日出男氏のいう乱捕りによるものであると思われるのですが………? そのような事実はないようです。

追加-1、2007年10月発行の『織豊期研究』第九号「戦場を歩く・戦場調査ガイド・桶狭間古戦場を歩く」に高田徹氏の漆山本陣説があるそうです。拝見したことはありませんが、このHPでの説は漆山が桶狭間山であると主張しているわけではありませんから、念のため。 (2009.02.29)

追加-2、また、最近発行された『信長と織田軍団/新歴史群像シリーズ11』でも藤井尚夫氏が漆山を桶狭間山だと主張されていますが、これも常識はずれなものです。第一に、義元は漆山の本陣に何時、何処から上って布陣したのでしょうか。もし、東海道を行軍してきたのならば信長が是を「労兵」と誤認するわけがありませんし、織田軍全ての将兵も信長の嘘に騙されたりはしないでしょう。皆がその大軍の全貌を知り得たはずだからです。ですから、織田勢は中島砦から出撃したはずがありません。天理本では「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。弥(イヨイヨ)手薄に成候也。」ともあるのです。

また、小川道から漆山に上がった場合の義元は、沓掛城から大高道を来て態々寄り道して布陣したことになります。それも昼食を採るために態々敵の間近にまで行ったことになるのです。大高道の分岐点からは大高城へ行くのと殆どかわりの無い距離なのに、です。そんな馬鹿なことをするはずがありませんから、義元は大高道を来たはずがありません。それに、信長は漆山本陣の義元を中島砦から出陣して西から東に向かって攻めることができません。そうするためには、信長は漆山の西側にある諏訪山の東の裾野、漆山の西の裾野、すなわち小川道上に兵を展開していたことになります。藤井尚夫氏のイラストによると今川勢の大軍を掻きわけなければ、山裾で西から吹き付ける風雨を背中に受けることはできないのです。 (以上、2008.3.20従って、漆山=桶狭間山説というのは、残念ながら思いつきに過ぎないものだということになります。

<漆山=桶狭間山説を再度検証する>  (2008.07.07 挿入  2009.12.09追加)

桐野氏は「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」とされる説を歴史読本八月号で発表されていますので、ここで再度漆山を見直してみます。桐野氏説についての検証は「藤井戦国史ほか」や「方角・距離・眺望・山際」の章で、その可能性と問題点を追加検証しています。


 藤本正行氏の最初の問題提起は1982年の『歴史読本』七月号

2011-06-24 22:11:57 | 明け狭間の真相やいかに


[1] 藤本正行氏の最初の問題提起は1982年の『歴史読本』七月号

[2]  信長軍の速度を検証できる史料はほとんどない。因みに、金ヶ崎退却時には、金ヶ崎城を4/28夜に出て、4/30亥の下刻(23)に帰京している。全行程75kmで、荷駄を伴わず口取りを伴う甲冑着用の騎馬行軍で、37.5km/日、時速4.7km。長篠合戦の折の信長の行軍は、4/21京都~4/28岐阜(101km、12.6km/日、1.6km/)5/13出陣~4/13熱田泊(30km、4km/h)4/14岡崎着(35km/日、時速4.5km)4/16牛久保(23.3km、3km/)4/17野田原(12.5km、1.6km/)4/18設楽が原(10km、1.3km/)、時速4km~4.km、戦場に近づいてからは1.5km/h程度である。  義元は、五月十二日に駿府を発ち、16.57km先の藤枝に泊まる。十三日は26.04km行軍して掛川に泊まっている。十四日は26.65km行軍して引馬(浜松)に泊まり、十五日は31.27km行軍して吉田(豊橋)に泊まり、十六日は28.68km行軍して岡崎に到着している。五月十七日、岡崎を発ち8.44km先の安城、そこから5.44km先の池鯉鮒(ここまで13.88km/日、六日で143.09km、平均24km/日、平均時速3km)を経て6.76km先の沓掛に陣を置いた。

[3] 『孫子・地形篇』には「隘なる形には、我まずこれに居らば必ずこれを盈たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」とありますから、武人の常識として事前に渓谷の入口を占領しているはずであり、信長軍が狭間の中に侵入してくるという事などはある筈がないのです。

[4]  (善得寺)静岡県富士市今泉。今はない。駿河東部は今川・武田・北条の争奪の地となったが、天文廿三年(1554)、太原崇孚が仲介役となり善徳寺で「甲・駿・相三国同盟」が成立したという伝説がある。

[5]  (1496-1555)今川家の一門衆である庵原家に生まれ、善得寺に入れられて僧となり、京都の建仁寺で常庵龍崇に学んだ。1522年、今川氏親と正室・寿桂尼の五男・方菊丸の養育係として善得寺に戻った。

[6]  因みに、泰平の世になった江戸時代でも、旅人は暗くなる前には宿に入った。

[7]  『武徳編年集成』「大高の城へも漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆるところ駿州勢のたまたま当城に在る者皆遁れ去り、鷲津、沓掛の守兵も皆逃亡する由告あり、…」

[8]  この間に「午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根ヲ攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて」と言う文章があり、多くの人はこの文章をもって今川勢は、出現した信長勢に対して迎撃体制もしくは攻撃態勢をとったと解釈するのだが、信長正面攻撃をしたにもかかわらず、今川軍の先備をすり抜けていると云う事実からみて、今川軍は敵正面に広く展開していなかったことが窺える、ということを論破する必要がある。

[9]  『船々聚銭帳(フネブネシュウセンチョウ)』133隻のうち尾張関係は、大野一隻、常滑三隻、野間六隻、亀崎一隻、師崎四隻、篠島(当時は三河国)二隻、宮(熱田)四隻の合計廿一隻である。 大高はない。大高の南にある大江川の河口が近世初め頃の湊であった。ここには本地、南野村等の船が集まり「万場の渡し」の応援に「津島祭の車船二十数艘の船」が出ている。この大江湊は、海側へ七子、水袋、宝生新田とまた南側へ八左ヱ門、操出、大江新田が出来ていく度に、入江として西へ進出していっている。

[10]  先鋒隊(支隊)と「本陣先備」では、その布陣していただろう場所の義元本陣からの距離は全く異なる。本陣先備は義元から大きく離れて配備されたのでは、本陣を守という本来の意味をなさない。

[11]  史実であるかは疑問。

[12]  (さらに追加、2010.03.15)江畑秀郷氏が駿河の餓民などが乱捕を目的に万を超える人数が追随してきたとする。

[13]  (追加 2007.02.19) 最近では、黒田日出男氏が「駿河勢の乱捕り」に注目されている。  (さらに追加、2010.03.15)江畑秀郷氏が駿河の餓民などが乱捕を目的に追随してきたとしている。

 

[14]  (2010.08.12挿入)谷口克弘氏が「『信長公記』と心中しなさい」とコラムで書かれている。桶狭間合戦についての史料はこれ以外にないのだから。他の資料を使えば傷口を広げるばかりであるとまで言われている。【信長学起動