<蓬左文庫桶狭間図> Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9 「抜け駆け」の章において前哨戦を述べたところで、「諏訪山」辺りに駿河勢の陣地があったという説を紹介しましたが、これを裏付けるものが実際に在るのです。通説のいうような桶狭間村にある64.9mの山などではありません。 『蓬佐文庫の桶狭間図』がそれです。 これは、後世に尾張藩が当時を知る者から聞き取り調査をしたものを絵図におとしたとされるものですが、義元本陣があった場所をみると、どうみても漆山なのです。この合戦図は、かなりデフォルメされていますので、実際の地図に比定するのは困難なのですが、無視するわけにはいかないと思います。
そこで、まずは絵図で省かれているものを[ ]で表示し、強調されているものは〈 〉で表示します。
1. [ 善照寺砦、丹下砦、中島砦 ]が省かれています。このことから、駿河勢の主目的は大高城の救援であり、善照寺砦や丹下砦を攻撃して鳴海城の後詰をする気などは始めからなかったことが窺えると思います。
2. 〈笠寺には葛山ら五人〉が籠っています[1]。 〈星崎古城〉が描かれていますが、守備する者の記載はありません。これらのことから、笠寺・星崎の重要性が窺え、義元が調略した始めの頃の状況も混同されているとしても、笠寺台地の重要性がわかります。
3. 天白川も黒末川も川幅は狭く、大高川河口と一つになっており、通説のような広大な河口とは認識されてはいないようです。従いまして、干潮時には鳴尾辺りから下汐田辺りに渡渉できた可能性もあると思います。
4. 当時の幹線道路であったと思われる[鎌倉街道]の記載がありません。その代わりに〈東海道〉が描かれております。[上手の道]も記載がありませんで、〈笠寺を通る道〉が描かれています。このことからも、駿河勢には始めから善照寺砦を攻撃して鳴海城の後詰をする気はなく、東海道が行軍に使用されたことも考える必要があることになります。『静岡県史』は義元が東海道を桶狭間山に上がったとしています。但し、この説の弱点は、義元が沓掛城から来る限り、桶狭間山にのぼるための既存の地方道は、当時は存在しなかったと考えられることがあります。
5. 黒末川に架かる〈中島橋〉は木製に見え、〈大高川〉は描かれていますのに [手越川]は省かれております。このことから、手越川が作戦に重要な障害にはならなかったことが窺えます。大高川が戦闘には何の意味も持たなかったのに描かれているのは、家康が兵糧入れを担当にすることになり、『渥美家伝』にいうような服部氏や渥美氏による海上からの兵糧入れが行われたからであるとも考えられます。
6. 〈鳴海城下から黒末川を渡し舟で渡り、大高へ向かう道〉が描かれていますが、当時の主要な地方道であったはずの、[大高から鷲津の西を回り前之輪・丸内を経て善明寺から車路で手越川を渡り中島橋に至る道]は描かれていません。これは、砦の敗残兵を追撃しなかったことを暗示するのかもしれません。
7. 藤本正行氏が主張される[平子が丘とみられる丘陵上にも今川方先備の軍勢が布陣]したとは書かれてはおりませんで、[千秋・佐々との合戦]についての記載もありません。これは、徳川家には無関係な合戦でしたし、桶狭間合戦においては鎧袖一触の小競り合いに過ぎなかったからだと思われます。
8. 義元本陣から一町ばかり前進して北西に備えたとされる[松井兵部宗信の前備]も、後世有名になった[大将ヶ根]も描かれてはおりません。桶狭間図の義元本陣からの距離からすると鳴海城より遠い場所になり矛盾するからかもしれませんが、ここが桶狭間山ではないからかもしれません。
9. 鷲津砦と丸根砦の攻略後に、[それら砦の山裏に朝比奈勢が陣]を張ったとは書かれていません。このことは、今川全軍が一まとまりとして義元本陣に集約されているのかもしれません。即ち、それまで一日以上行程先行していた先鋒隊も十八日以降は義元の指揮下にあったからなのかもしれません。
10. 大高城の周囲には家屋が描かれているのですが、[鳴海や相原の辺りには宿屋]が描かれていません。これは少なくとも大高城下には火がかけられなかったことを示しているとともに、戦略目的には当初から鳴海城が想定されていなかったからかもしれません。
11.『張州雑志』と『尾州知多郡大高古城図』にしかみえない〈光寺砦正〉が描かれているのですが、それらに記載されている[氷上砦]は描かれておりません。しかし、このような砦があったとすると、大高城の西と南の封鎖は水野信元の担当であり、大高城は完全に封鎖されていたことになりますから、守将の鵜殿が飢えたのも理解できることになります。同時に、付城が除かれない間は、大高川が鵜殿軍の補給には使えなかったことを窺わせます。
12.〈天神〉という字は現代に残っています。
13.絵図中央の南北の道は、大高川の水源近くで緒川から大高への道と鳴海から緒川への道が接続していますから、平部の山越えしたという〈小川街道〉に見受けられます。これは、現県道が有松郵便局から南に桶狭間へ行く道ではないように思えます。
14.位置関係からみますと、義元本陣のある山は〈漆山〉に相当し、背後の池は〈琵琶ケ池〉にあたるようです。漆山の回りは古くから開発されておりましたから、田があっても不思議ではありません。そのように考えますと南北にある道路が途中で山越えしているのも合点が行きます。また、実際の桶狭間山の東南の傍には、それに見合うような池は存在しませんから、この義元本陣のある山は、通説の桶狭間山ではないように思えます。阿野と有松の間を結ぶ東海道は、地質が農耕に適しておりませんでしたから、溜池が作られる契機などはなかったからです。
15.道を挟んだ向かいの〈明神森〉がある場所は、現在の〈諏訪山〉にあたると思われます。昔は平部山と呼ばれた諏訪山は、樹木鬱蒼として古来より諏訪社が鎮座しましたのでしょうから、明神森と書いたのかも知れません。地名の表記はありませんが、諏訪社の北が母衣後にあたりますから、千秋・佐々らとの合戦があったゆえに記載してあるのかも知れません。
16.桶狭間であるかもしれない義元本陣の周囲には、桶狭間に当時もあったと考えられる[鳴海から桶狭間への道、地蔵池や大池、鞍流瀬川]などが描かれていません。大池の東傍に伝承される[瀬名氏陣所]もまた描かれていません。
17.当時存在した[桶狭間村]も[長福寺]も記載されていません。
18.[大脇から桶狭間に通じる道]が描かれていません。このことは、義元が沓掛城から来た場合には、は東海道から“山上の本陣“に上ったと見做していることになります。これが漆山ならば小川街道から上ることができるわけです。但し、漆山に本陣があった場合には、先に紹介した母路後で前哨戦が戦われるには説明が必要なほど、東にずれていることにもなります。
19.当時、[高根・生山・武侍]などの丘陵は周囲に田を持っていませんでしたから、この絵図の山々には該当しません。
20.目標になるような[一際高い弧峰]などは書かれていません。これによって、桶狭間山の近辺を描いたものではないと考えることもできると思います。
21.『信長公記』に見える[沓掛城]は省かれています。徳川氏にとっての桶狭間合戦には重要ではないのかも知れません。
<省略と強調>
ここで参考までに、この絵図で省かれているものをまとめて
Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9
「抜け駆け」の章において前哨戦を述べたところで、「諏訪山」辺りに駿河勢の陣地があったという説を紹介しましたが、これを裏付けるものが実際に在るのです。通説のいうような桶狭間村にある64.9mの山などではありません。
『蓬佐文庫の桶狭間図』がそれです。