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カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説 作者:春野一人

2011-07-22 03:04:24 | 足軽の階級

 カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

44 501年 倭国生まれの百済王即位
 百済の武寧王は筑紫で生まれた王であると、日本書紀は501年の記に失われた百済の史書、「百済新撰」から引いてきて書いている。(読者の方には申し訳ないが、42章に加筆したので読んでいただきたい)このことは三国史記には何も触れられていない。やはり三国史記は「倭」についての記事を避けているように見える。
 武寧王は、書紀で読みとれる限りでは、501年に百済の王となるのだが、その時には武寧王は成人していたようである。産まれたのが九州であったと云うからには母も夫と一緒にいたと云うことを示している。武寧王の母が百済の人なのかそれとも倭人であったかは読み取れない。考えるに、父である王子が倭に来ているという事はおそらく父は人質として来ているのだと思われるから母は倭人であったかもしれない。倭国王は、この時、磐井の父だったであろう。若い磐井は伽耶に倭国全権大使のような立場で館を構えていたと推測できる
 497年~500年 勃興新羅は高句麗と倭、伽耶から絶え間ない攻撃を受けていたようである。
 501年 百済に倭国生まれ(おそらく倭国育ちだろう、百済新撰から日本書紀が引いてきた文章からは、そのことは判別できない)の王、武寧王が即位した。王の母が、倭国王女であることも考えられる。
 ここにおいて高句麗、新羅にとって百済は倭国そのものではあるまいか。武寧王は磐井の姉か妹の子供でありうる。磐井の甥が武寧王という可能性は非常に高い。
 その武寧王が百済に戻ってきた(おそらくそれまで倭国に人質に取られていただろう。人質というと捕らわれ人のようであるが、丁重な待遇が保証されているのが当時の常識である。
 磐井は兄弟のように親しい武寧王が百済に戻って来たので、その喜びは非常に大きかった。

カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

2011-07-22 03:02:22 | 足軽の階級

 カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

43 継体王の即位
 大伴金村大連(おおむらじ)は又、方策を立てて云った。「男大迹君(オオドノキミ)は性格は慈悲あふれ親を大事にする人で、王位を継ぐにふさわしい方です。できれば丁重に王位に着かれるようおすすめして王家が栄えるようにすべきです」物部の麁鹿《あらかい》大連、許勢男人《こせのおひと》大臣《おおみ》などが皆云った。「子孫を詳しく選んでみると賢い人はただオオドノキミだけです」
 そこで臣、連《おみむらじ》などを使わした。王旗をかかげ、豪壮な輿を持たせ越前(福井県)三国《みくに》に進んだ。(古事記では近江に迎えに行ったと記している。後に古事記は鎌倉時代に発見されるまで隠蔽された書となるのは、古事記に真実がしばしば書かれているからなのだ。筆者)
 たちまちのうちに越前、三国にお迎えは到着した。
オオドノオオキミは、静かに平常のように胡座《こざ》している。(あぐらであるが、親指を足の股に乗せる、お釈迦様が修業する聖なる座り方。精密に言えばあぐらとは言えない)
 その有様はすでに王となって群臣を侍らせているように立派に見えた。文書を手に持つ使いの者たちは
その姿に平伏して、王になられることを請うた。
 しかしオオドノキミは、心の裏にまだ疑いの気持ちを持っていたので王位を受けなかった。たまたまオオドノキミに親しい河内馬飼首荒籠《かわちうまかいのおびとあらこ》が朝廷至近にいる。荒籠はひそかにオオドノキミに使者を送って、大臣、大連(おおおみおおむらじ)がオオドノキミ迎えにきた事情を詳しく説明させた。使者がオオドノキミ邸に留まること二日三夜になって、使者はついに帰って行ってしまった。
 オオドノキミは後になってしみじみ言った。「荒籠は良くやった。その時、もし使者を送ってくる事がなければ私は危うく天下の笑いものになるところであった。世に言う『貴き賤しきを問うことなかれ、ただその心のみを重くみるべきだ』というのは、荒籠のような人柄をさすのであろう」と。

カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

2011-07-22 02:39:24 | 足軽の階級

 カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

42 日本書紀が描く 極悪非道な武烈王。筑紫生まれの百済王の事
  西暦507年 一方大和国において継体王が即位した。継体王が即位するまで、いろいろの経緯があった。以下は日本書紀(武烈天皇)が記す、継体王即位に至る流れである。
 
 498年 仁賢《にんけん》王が亡くなると、雄略王以来黒幕となっていた平群真鳥《へぐりのまとり》はいまだ国政を独占し続け、自分が王になろうと自分のために豪壮な宮殿を建造するにいたるが、(このことから考えるに、この当時、大和王国の王になるには血筋の濃さははさして重要な要素ではなかったように見える。又、大和国もさして伝統を造るような長い歴史を持っていないように思える。筆者)ついに大伴金村《おおとものかなむら》らは武烈王と組んで真鳥父子を殺した。498年から507年まで武烈王が在位するのだが日本書紀はここで武烈王を悪逆非道の天皇として描く。以下は日本書紀の記事だ。武烈王二年(499年)九月孕んでいる女の腹を裂いて胎児の姿をみた。三年(500年)十月、人の生爪を抜いて芋を掘らせた。四年(501年)四月人の頭の髪を抜いてから樹の先端に登らせておいて、樹を切り倒して、登っている者が落ちて死ぬのを楽しみとした。

(書紀の叙述はここまで来て、突然百済について書き出す) この年(501年)百済の末多王《まつたおう》無道であって百姓《たみ》に暴虐である。国の人々は遂に王を見捨てて嶋王《せまきし》を立てる。(末多王第二子と三国史記には記載あり。岩波文庫、日本書紀、註記)これを武寧王《むねいおう》と云った。 
(ここより書紀本文は解説となる、筆者) 百済新撰《くだらしんせん》(失われた百済の史書の一つ。筆者註)に云わく。末多王は無道で百姓《たみ》に暴虐である。国の人々は王を見捨てた。武寧王が立つ。諱《いみな》(その貴人の前では口に出してはならない名前=本名)を斯麻王《しまきし》と云う。これは琨支王子《こんきせしむ》の子である。琨支は末多王の異母兄弟だ。琨支は倭にやって来た。筑紫の嶋(九州)に到った時に斯麻王《しまきし》を生んだ。出産のため百済の都に帰らずに筑紫嶋で生まれたので(しまきし)と名付けたと云う。今各羅の海中《わたなか》に主嶋あり、王の産まれた嶋である。(現在、伽耶の洋上に主嶋《にりむせま》(貴王の島)がある、それが斯麻王の産まれた島、筑紫の嶋九州だ。筆者訳)
 今考えるに嶋王は蓋鹵王《かむろおう》の子であるという。末多王は琨支王の子であるから、これを異母兄弟とは言えまい。

(ここで、日本書紀本文は、武烈王の悪行にもどる。筆者) 
 武烈帝五年(502年)六月にため池の椻川に人を入れて流れてくるのを矛(やり)で突き殺して楽しむ。七年(504年)二月に人を木に登らせて弓で射落として笑う。八年(505年)三月 女を全裸にして平らな板に寝かせ、その前で馬を交尾させた。女の陰部が濡れているときはそれを殺し、乾いている者は官の奴隷とした。その乱行を楽しみとした。(中略)十二月天皇は亡くなった。

 ここまでが武烈王が亡くなるまでの日本書紀の記事である。一方、古事記は武烈王についてきわめて簡略である。前代の仁賢天皇から推古帝まで十代は系統の説明で終わる簡単なものになっているが、武烈王も悪行を特記されずに、こう書かれているのみである。

ヲハツセノワカサザキノ命は大和の長谷《はつせ》(奈良、桜井市)に列木《なみき》の宮を作って、そこで八年間天下を治めた。この天皇には継ぐべき皇子がおらず、そこで御子の代わりに小長谷部《おはつせべ》を定めた。稜は片岡の石坏《いわつき》の岡にある。
 この天皇が崩じたあとに、天下を治めるべき日嗣の皇子がなかった。それで、ホムダノ天皇(応神天皇)五世のヲホドノミコトを近淡海《ちかつおおみ》の国から呼んでタシラガノ命と一緒にして、天下を治める位に即《つ》けた。

たったこれだけである。古事記と日本書記は以上のように編集方針が異なっている。
 さて長年の重臣による権力争いで、殺害された王子は数多く、ついに王に近い濃い血筋の者は途絶えてしまった。
 大伴金村は重臣と合議して「昔から今に至るまで、災いは王の後継問題に発する」としみじみ言った。そして皆で合議して仲哀《ちゅうあい》王の五世の孫という倭彦君《やまとひこのおおきみ》が丹波の国(京都府)にいるので王にしようと決定する。武装した軍隊と輿《こし》を迎えに行かせたが、倭彦君は
攻撃と思って遁走した。
 そこで次の候補にあがったのが越前の国(福井県)三国《みくに》にいる応神《おうじん》天皇五世の孫であるオオトノキミであった。
 継体を王にするに当たって、説得に行ったのは、百済からの渡来人、河内馬飼荒籠《かわちうまかいのあらこ》であった。彼をわざわざ起用したという事は継体は百済の血をうけている可能性が強い。
 後年の百済への数々の肩入れ、百済滅亡の際のあたかも国が引っ越してきたような何万という百済人の受け入れをみると、そう推測できる。

原発エリート達は原発マネーゲームボケの国民皆殺しも平気な金の亡者集団だ。

2011-07-11 23:57:48 | 足軽の階級

福島第1原発

2011/03/19 07:56

 

 
 
ハイパーレスキュー原発への放水は60トン 19日も2回目の放水へ
2011.3.19 01:25
 
 東京電力福島第1原発3号機に向けたハイパーレスキューなど東京消防庁の緊急消防援助隊の放水は19日午前0時50分に終了した。午前0時半から放水を開始、放水量は推定60トンに上った。
 
 東京消防庁によると、機材は現場に残し、隊員らは放射線の影響が少ない安全地帯に退避した。
 
 19日正午から2回目の放水をする予定という。
 
 東京消防庁によると、原子炉建屋に近い岸壁から「スーパーポンパー」と呼ばれる送水車でくみ上げた海水を、防護服を着用した隊員が手作業で伸ばしたホースで中継。地上22メートルの高さから放水可能な屈折放水塔車で3号機に水を放った。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110319/dst11031901250006-n1.htm
 
 
自衛隊、消防庁もがんばっている。
 
私は素人なので、余計な心配をするのだが、消防車が水を撒き散らしていて、東電が電源を引こうとしている。ふつうに考えて濡れた場所で電気を使うのはご法度だ。感電するかもしれないし、せっかくの電気がショートするかもしれない。同時に平行してやることだろうか。
 
原発の機器は、すでに海水をかぶっていて、そこへ海から海水を汲んで撒けば、津波の総仕上げみたいなものではないだろうか。
 
しかも東電はいきなり送電線から電気を引いてくればなんとかなるかも、と言い出した。それが有効な対策だったらなぜもっと早くやらなかったのだろうか。

 

これまで現場にあった多数の電源車両ではだめで、送電線ならいけるというのは、なにかごまかしがあるような気もしないではない。ポンプとやらは動くのだろうか。もし動くんならどうして今まで動かせなかったのか。
 
みなさんは、赤外の衛星写真とか、真夏のヒートアイランド現象のためにマスコミが時々見せてくれる、建物などの温度分布を示す写真を見たことがあるだろう。なぜ誰かがそういうカメラを持っていって、原発を写してみないのだろうか。もちろん建物の表面の温度だけれども、温度が上がった、下がったくらいはわかるだろう。
 
建物の内部を写したいなら、自衛隊の偵察機に赤外カメラくらいあるはず。上空から屋根のふっとんだ原発を写せば内部はすぐわかる。アメリカに頼んでグローバル・ホークを飛ばしてもらってもいい。
 
東電のやっていることと、自衛隊・消防庁のやっていることとは、同時並行してやるようなことなのかなと思う。しかも、消防署のほうは、順次に戦力投入のようで、大阪市からも行くらしい。考え抜かれた策というわけでもない。
 
前に、1、2、3号機を、3匹のモグラを1つのハンマーで叩こうとしていると書いた。そのときにハンマーを2つとか3つにしておけば良かったのにそうはしなかった。そして今度は、自衛隊や消防をチョコチョコ出してきて、効果も定かでないことをやっている。
 
どうも、やることがいきあったりばったりのドロ縄に見えてしまう。誰かがどこかで知恵を絞って計画を立て、実行しているとは思えないのだ。一元化された指揮官や参謀がいないと思う。
 
無能の見本みたいな事故対策だと思ってはいるが、その結果が重大なことになるとは思っていない。最悪でも半径数キロが立ち入り禁止になって、農産物を政府が買い上げる程度で収まると思っているからだ。
 
しかし、東電や下請けなどの、事故対策を必死でやってきた人たちは、ただではすまないだろう。可哀想なことだ。東電の役員が福島の記者会見で号泣したらしい。誰も死んでもいないのにすでに泣いている。私に言わせれば、そんな弱虫だから必要なことをこれまでしてこなかったし、これから重病人が出ることになるのだと思う。
 
 
 
回数重ねる必要がある3号機への放水
 
 東京電力福島第一原発3号機で17日午前から始まった使用済み核燃料の一時貯蔵プールに対する放水作業。
 
 冷却水が蒸発して露出している恐れのある燃料を冷やすためだが、自衛隊の大型輸送ヘリによる水の投下は1回あたり約7・5トンで、拡散量も多い。1回あたり4トンの放水能力のある警視庁の高圧放水車と合わせても、回数を重ねないと十分に冷却できないとみられる。
 
 出力78万4000キロ・ワットの3号機のプールは、原子炉建屋内にあり、深さ12メートル。使用済み核燃料は現在、514本置かれている。通常は、約1400トンの水が20~40度に保たれた状態だが、14日に起きた3号機の水素爆発で建屋が吹き飛んだ後は雨ざらしになっている。水温や水位に関するデータが取れない上、放射線量が高いため、地上からは目視による確認もできない。東電では、プールが空になっていると想定して、満杯になるだけの水を入れる予定だが、成否を確かめるのは難しいとしている。
 
 自衛隊のヘリは、機体にぶら下げた容器で海水をくみ上げ、3号機の建屋上空を通過しながら投下している。これまで山火事の時などの消火活動で出動することはあったものの、広範囲に散布するので、今回求められている建物へのピンポイント投下は経験がないという。
 
 林勉・元日立製作所原子力事業部長は「上空からでは、投下した海水がかなり拡散し、一時的な冷却効果しか望めないだろう。水面から露出して熱を持った核燃料棒に水をかけた場合、核燃料棒が壊れ、ガス状の放射性物質が一時的に放出される恐れがある」と危惧する一方、「このまま放っておくと、さらに危険な状態になる。地上からの放水も含め、総力を挙げて取り組む必要がある」と語った。
 
 宮崎慶次・大阪大名誉教授(原子力工学)は、100万キロ・ワット級の発電能力がある原発のプールに燃料が1か月置かれていたという想定で単純計算した場合、冷却水を循環させることができない現状では、プールが満杯だったとしても毎時5トン程度の注水が必要とみている。「このまま冷却ができないと、燃料棒が溶ける恐れがある。放水を繰り返しやらざるを得ない」と強調した。
 
 住田健二・元原子力安全委員(大阪大名誉教授)は「ホースで水を直接プールに入れた方がいいが、放射線量が高すぎてそこまで近づける状況ではないだろう。水で冷却するのに加え、臨界を防ぐために、核分裂反応を抑える効果のあるホウ酸も絶対に投入しなければならない」と指摘する。
 
(2011年3月17日12時27分 読売新聞)
 
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110317-OYT1T00460.htm
 
 
この記事を見ると核燃料が入っているプールは、1400トンの水があるものらしい。自衛隊のヘリは4回7・5トンを投下し合計30トンで終了。効果はみられなかったという。
 
警視庁の放水車は、NHKによると7時すぎに試みたものの水が届かず撤退。これから自衛隊が放水を試みるそうだ。
 
自衛隊は、必要量にとても届かない、なんの効果もなさそうな30トンという少ない量でやめてしまい、警視庁はやってやるという意気込みは買うが、なんの役にもたたなかった。

 

1400トンのプールに、ヘリで7.5トンづつ運ぶとしたら約187回かかる。
 
なんだかバカバカしいと思うのは私だけだろうか。バカバカしいを通りこしてあきれる事態だ。
 
 
しかも、3号炉にかまけている間にも、4、5、6号機の使用済み核燃料が、ますます危険になってきていないだろうか。
 
まだ3号炉で作業ができた間に、プールに消火用のホースを引いて固定し、海水でもなんでもいつでも注入できる用意くらいしておくべきだったのではないか。それをいえば5、6号機だって、まだおとなしいうちにホースを設置しておこうとかいう考えはないのだろうか。
 
東電は、核燃料が燃えだしてからでないと手がうてないのか。


戦国時代の梟雄と呼ばれ、三好氏の重臣から台頭して、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。

2011-06-10 17:20:42 | 足軽の階級

はじめに


戦国時代の梟雄と呼ばれ、三好氏の重臣から台頭して畿内での一大勢力となり、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。後世における彼の人物評は決して芳しいとは言えませんが、実際どういう人物だったのでしょうか。このコンテンツでは彼の生涯を詳しく追ってみます。


松永久秀の出自

 「略歴」の稿でも述べたが、松永久秀の出自・出生や前半生はよくわかっていない。出自については一般には山城西岡の生まれとするものが多いようであるが、真偽はともかく久秀および松永氏の出自に触れた記録として、参考までに以下にひとつ掲げる。

「松永花遁の家は、松永弾正久秀に出づ。久秀姓は藤原、その先世は蓋し筑前の人なり。家系の詳細は、今得て詳にすべからざるも、傳ふる所によれば、源平氏の時代に著はれたる鎭西の名家原田種直の一族にして、種直が太宰少貳を以て平家の號令を奉じ、九州二嶋の政務を管する頃には、松永某太宰府の属員たり。安徳天皇の西遷に方り、宗家を同じく王事に勤め、後ち源氏に降りて世々筑前に居り、元寇の役に功あり。下って南北朝以降戦國の世には、豊後の大友氏に隷し、時に或は長門の大内氏に属し、猶ほ九州の一武士なりしと云ふ。久秀此族より出で、足利幕府末葉の執事職三好筑前守長慶に仕へ、文書の才を以て祐筆となり、最も親信を受け、漸次登用せられて京都の所司代となり、長慶老を告げて本國阿波に歸るに及び、代はりて自ら足利氏の執事職となり、弾正忠從五位下を受領し、久しく政を握りしが、織田信長起るに及び、之と事を搆へ、一旦居る所の西京多門城を納れて降りたるも、ふたヽび懽を失し、和州志貴城に據りて兵を交へ、信長の子信忠攻圍する所となり、天正五年十月十日、防戰力盡るに及び、自ら火を城砦に放ち、自殺す。京都の日蓮宗本國寺に墓あり。法號を妙久寺殿祐雪大居士といふ。」

 これは筑前博多の松永花遁宗助家に関する記録であるが、これによると久秀は太宰府の属員である松永氏の出自とされる。記録によると、久秀の子久通に幼名一丸なる子がおり、乳母とともに遠く筑前に難を逃れて民間に隠れ住んだという。一丸は長じて彦兵衛と称し博多で質店を開業したが、この彦兵衛を家祖とする八代目の末裔が松永花遁宗助とある。
 なお、文中に見える「京都本國寺の墓」は、旧久秀京都屋敷跡であった京都市下京区の妙恵会墓地に現存するが、伝えるところによると久秀は本國寺塔頭戒善院の檀徒で、松永家先祖の供養のため天正年間に土地を寄進したという。
 墓は久秀・久通と法名「法賢院宗秀居士」なる人物(不詳)との合葬墓碑となっており、かなり後になって建立されたものとみられ、その位置は江戸時代の高名な儒学者で一説に曾孫と伝える松永尺五家墓地の一角にある。


松永久秀の人物像

 久秀には多くのエピソードが残されている。「三好義興を暗殺した」「将軍義輝を殺した」「讒言により三好長慶に弟安宅冬康を殺させた」「奈良東大寺の大仏殿を焼いた」etc・・・。しかしこれらには確たる証拠はなく、実際そうしたことを行ったかどうかはわからない。とは言え、こういった記録を残されているということは、少なくとも記録者側の立場にとって彼が「悪人」として映っていたことは否定できない。
 久秀は三好長慶の祐筆より台頭したという。彼には甚介(助)長頼という弟の存在が知られており、長頼は三好家の丹波方面司令官として活躍していたことから、当初は弟の方が三好家に重用されていたのかもしれない。
 久秀は永禄二年八月以降、その主な活動の場を大和に移した。信貴山城(平群町)を修築して本拠とし、さらに南都(奈良)に多聞山城を築き子の久通を入れて大和の二元支配を行った。一時織田信長から大和支配を許されるほどになったものの、結局は背いて天正五年(1577)十月十日、信貴山城に滅ぶ。

 前半生不明の久秀が確かな記録に登場するのは、天文十一年(1542)十一月二十六日のことである。

(今)般三好源三郎當國可亂入歟之由種〃造意、則山城ニテ松長(永)弾正已下人數近日罷越了、仍爲調伏被修之了」(『多聞院日記』同日条)

 この年の三月には、大和へ侵入して一部を支配していた木沢長政が河内太平寺に敗死しており、八月には筒井順昭が畠山稙長の松浦氏討伐に加勢して高屋城に入るなど、大和国人衆の動きが激しい時期であった。三好氏に当時大和侵入の意志があったかどうかは不明だが、「弾正已下人數近日罷越了」と見えるように、久秀は当時既に弾正と称していて三好家中で一部隊を率いる地位にあったことがわかる。
 当コンテンツ「松永久秀の生涯」においては、これをもって「戦国武将・松永久秀」の出現とし、出来るだけ信憑性の高い史料を中心に用いてその後の彼の行動を追い、その素顔に迫ってみたい。