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多大の犠牲を払っても「落とす必要がある時代」

2011-06-24 22:27:49 | 桶狭間の真実やいかに

するとそれまでの、政治・行政・経営を目的とした城館では目的を果たせなくなり、武士は城館の背後に詰城として山城を築き始め、次第に戦術的な意義を最優先する山城が主流になります。こうなると城塞は落とし難かろうが、落とさねばならないものになってきました。それまでは、多大の犠牲を払ってまで落とす意義を感じなかったのですが、終に多大の犠牲を払っても「落とす必要がある時代」になっていくのです

ところが、戦術的に有利であると思われた山城も、火縄銃の普及により、反って戦術的には不利になるという逆転現象が起き、城塞は広大な城域と高さを合わせもった平山城に移行します。

 鉄炮の普及が山城への籠城を不利にしたのは、その威力と射程にあります。山城の地形的有利さは、急な斜面と狭い尾根によって攻撃軍が接近し難く、攻撃路が限定されるということにあります。ところが、その山城の有利な点は攻撃側にも作用しており、迎撃正面を著しく狭いものにしてもいるのです。これは投射兵器の射程距離が短い間は守備側に有利に働きましたが、鉄砲が現れて射程距離が増大すると一気にそれを減殺してしまいました。三角形を想像してください。守備側は三角形の頂点の狭間から底辺を万遍なく射撃できるのですが、それに使用できる武器は一つに限られてしまいます。それに対して三角形の底辺には数倍の射手を並べて、狭間を制圧射撃できるわけです。そして、鉄炮は弓矢より自由な射撃姿勢を採れますから、体を隠し難い攻撃側を非常に有利にしました。つまり、山城では尾根を切って堀にすることにより、攻撃路を極端に狭く限定できても、突撃を援護射撃する正面を狭めることができないのです。そして、守備側は各々の山頂に分散していますから、相互に連携して援護し合えないのです。…この欠陥を是正したのが、平山城であり、山頂に指揮所を作り、山腹を全面的に郭にすることによって、一元的統一的に防御戦闘を指揮できるようにしたわけです。そして、平山城の山腹曲輪の狭さを克服したのが、石垣に支えられた重層櫓なわけです。これにより、敵の攻撃路を狭くして戦闘正面幅を小さくしながら、守備兵を重層的に配置することができるようになり、守備側を有利にしようとしたわけです。

城館時代の城は、長期に渡る攻囲などは始めから想定して作られてはおりません。専ら不意の攻撃に備えたものですし、攻撃側も端から徹底的に攻略しようというような意図は持っておりませんでした。そのような大義も利害もなかったからです。ですから、刈り働きをしたり水利施設を破壊したり復讐であったりといったところで終わっていました。そのため、簡素な城館でも攻め落とすことは困難でした。それでも攻め落とそうとするならば、仕寄せをしたでしょうし、攻囲することも考えられるでしょうがそのようなことに至ることは殆どありませんでした。楠木正成の千早城の攻防をみれば、寄せては仕寄の準備を全く欠いていたことがわかります。これでは城は落ちません。

ところが、領国統一から広域支配の時代になりますと、端から籠城を覚悟した造りに城塞はなってきます。それは、攻撃側が敵を徹底的に攻略しようという意志を持つようになったからです。そのため、力攻めで短期に落とすことが無理ならば、攻囲して経済封鎖をすることによって攻略する必要が生じたわけです。そのために発達したのが付城です。城が物資の集積基地であるから、攻囲するわけではありません。戦国時代になると大大名たちは城攻めには、付城を築いて攻囲戦を行うようになるのですが、それ以外の国人衆以下のレベルでの戦争では、そのような例はそれほど多くないのです。攻囲する側も兵員を張りつけなければなりませんし、その兵粮その他の軍需物資を攻囲軍に補給するのが大変だからです。全てを苅田狼藉で現地調達しようとしても無理があります。

領国統一から広域支配の時代になって、端から籠城を覚悟した城塞を攻囲するようになったのは、我彼に圧倒的な兵力差があるのに敵が降参しないからです。そして、降参しないその理由は初めから敵を拘束する役目を持つ城であるか、敵に服従するのが嫌だからです。つまり、近隣の紛争や中央政治の代理戦争として互いに同等の兵力で戦う時代は終わり、継続的に領土拡大のための争いがはじまったのです。

ですから、信長が活躍し始める時代の城塞は、既に「城は攻めても落ちないもの」などではなくなっていたのです。そして、戦国時代が終わる頃には「城は必ず落ちるもの」になってしまっています。天下分け目の合戦の時代に落ちなかった城は数えるほどしかないはずです。

 

(4)別動隊説を検証する     (初出2 007.12.18)   

桶狭間の戦いにおける一方的な大勝利を迂回を考えずに可能にする方法には、「別動隊」を考えることで解決することがあります。

但し、この別動隊説には根本的な問題がいくつかあります。

  1. 当時の信長には支隊(別動隊)を預けて時刻を計って分進合撃できるような官僚的指揮官がその配下にはいなかっただろうと思われること。
  2. 信長が別動隊を使って挟撃作戦の類を過去に行ったことがないと思われること。…支隊に分割して多方面作戦を行った例はいくつかあります。天文廿一年(1552)八月の深田・松葉両城奪還作戦では、「稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸け付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介(自らは)、孫三郎殿一手になり、海津ロヘ御かかり侯」とあって、全軍を四手に分かっています。不確実なものですが、永禄二年四月に福谷(ウキガイ)砦の酒井忠次を攻めたときに、自らが岩崎丹羽氏を牽制しておいて、柴田・荒川をして攻めさせたというものが『東照軍鑑』にあるのですが、成功はしていません。
  3. 別動隊を指揮できそうな武将は全て、付城の守将を務めていて出払っていると考えられること。
  4. 『信長公記』に名前の出てこない大物武将を別動隊とした場合には、当該諸家にその事績が伝わらないこと。
  5. 分進合撃や別動隊との共同作戦を実現することは、無線通信手段のなかった時代では極めて困難なこと。…あのナポレオンでさえ、ワーテルローではグルーシーの部隊を間に合わせることができなかったのです。ナポレオン自身が後日、別動隊を呼び寄せるために常と違って一人しか伝令を出さなかったことを後悔しているぐらいです。しかし、全くできなかったわけでもありません。戦国時代に別動隊との共同作戦を得意としたのは島津氏であり、後世「釣り野伏」と言われる待ち伏せ作戦が有名です。
  6. 桶狭間の戦いの後の信長の作戦に、別動隊を用いた作戦は長篠合戦しかなく、この戦いでは長篠城の救援が主目的ですから、敵の鷲巣砦攻略には大軍を派遣しています。そして、敵に優越する兵力があれば、別動隊どころか複数の攻め口から攻撃することは自由であるというよりも、混雑を避けるためにも必然になるに過ぎない現象になります。信長が敵より劣る兵力で別動隊などは使用した実績はありません。 (2008.1.27)
  7. 敵に劣る兵力で二正面に敵を受けて戦った稲生合戦ですら、支隊を設けなかったことからみても、当時の信長には別動隊の指揮を任すことができるような野戦指揮官は未だ育っていなかったと考えるべきであること。 (2008.1.27)
  8. 戦後、別動隊の指揮官が論功行賞に与かっていないこと。

別動隊による可能性を指摘したのは、橋場日月氏の『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』である。

橋場氏の指摘の新しい視点は、これまでの迂回説と異なり、信長自身が迂回したのではなく、配下の武将それも新設して間もない馬廻部隊の武将が迂回挺身を指揮している点である。………それなのに、この後、此の馬廻りの指揮官が支隊を率いて活躍することは伝えられない。馬廻の武将の多くは攻囲戦での周番を担当している。それは馬廻の本来の任務が近衛兵・親衛隊であったからではないかと考える。

橋場氏のこれらの著作では、橋場氏が一般にはこれまで見過ごされてきたか又は触れることを避けられたり、合理的な説明がなされないままできた点に注意を促しているものがある。

  1. 大高城への兵粮搬入日が『信長公記』と『三河物語』で食い違うように見えること。
  2. 前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人は何処で誰と戦ってきたのかという問題。
  3. 古くから指摘されている問題だが、『蓬左文庫・桶狭間之図』に鎌倉往還と扇川が交差するすぐ東側に書き込まれた「今川魁首(先鋒)此道筋を押」が、史実であるとすれば一連の戦いのどこに位置づければよいのかという疑問。
  4. 『信長公記』に紹介されていない重臣連は本当に参陣していなかったのかを問うている。そして天理本では一部の武将の参陣が認められること。
  5. 山際に着いてからの信長勢が、暴風雨が止むまで信長が移動・戦闘を行った記事がないこと。
  6. 鉄炮は本当に使われなかったのかという問題。
  7. 義元が往路に刈谷水野氏を攻撃せず、岡部信元が帰路に刈屋城に信近を襲った理由。
  8. 服部左京助が黒末川河口に参陣した意味。

逆に、氏が触れなかったり説明していない問題もある。

  1. 鷲津丸根を攻めた駿河勢の動向が不明であること。
  2. 今川義元が沓掛城を出立した時刻。
  3. 服部友定が約束の時間に義元が来ないからと言って、勝手に引揚げてしまったうえ、大高城番になった松平元康には異変を知らせなかったこと。そして、元康が義元の到着がなくても心配していないこと。

 

(2009.01.23 追加)  以下は、小生のブログ「読書三昧」に2008.07.10に書いたことに一部手直しして転載したものである。

『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「信長は時速6kmほどで(清洲から熱田までの)12km弱を移動した計算になる。これは旧日本陸軍の標準的行軍速度の時速4kmより若干早い速度だ。信長は、後続の軍勢が追い付いて来られる速度で進んだのであるp173………信長が善照寺砦から分派して鎌倉往還を東進させた部隊は、途中暴風雨が吹きはじめる中、今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至り、さらにこの部隊は大高道を南下して上ノ山に至る。距離はほぼ3km強であり、………旧陸軍が通常行軍を時速4km、「速歩」という強行軍を時速5kmと規定していた事から見ても、それと比較して無理のない移動速度と距離だと言えるp215」と書かれる。

戦国時代の人々の身体能力は本当のところはよく分からない。江戸期の旅行記録をみると昔の日本人は驚異的に強靭な身体を持っていたらしい。昭和の陸軍も同様であったらしいことは知られている。従って、その明治以降の陸軍が定めた作戦要務令が合理的に戦争を継続して遂行するための行軍速度を時速4km、強行軍を時速5km急行軍を時速8kmと定めたことは無視できない。

『作戦要務令・第320』「撃兵団の前進速度は1時間4粁、兵の負担量を軽減せる場合は1時間5粁とす。大隊以下の小部隊にして負担量を軽減せる場合は、急行軍の速度は1時間8粁に達す」とあり、兵の負担量を軽減し大隊以下の小部隊にしなければ、急行軍の速度は達成できないなのである。

通常、歩兵の行軍は一時間で4kmを50分歩いて10分小休止するペースで行軍する。昼食の休憩は1時間大休止し、連日行軍の場合は一日24kmである。『太閤記』高麗陣ニ就イテノ掟條々でも「一、人数おし之事、六里を一日之行程とす。」とあるから戦国時代と旧軍も各国陸軍も概ね変わらない。

強行軍は行軍時間を長くしたり、休憩時間を短くすることで行い、一日に十時間の行軍で40kmの距離を進む。が、実際にはそんな決まりは無いに等しかったらしい。行軍速度を上げることも強行軍と言わないこともないが、急行軍という。急行軍になると駆け足になるが、休息時間も減らす点は強行軍とさして違わない。

『作戦要務令・第321』には、「一般兵団の一日行程は、普通行軍に於いて8時間32粁、強行軍に於いては10乃至12時間以上(大休止の時間を増加す)とす。…」とあり、戦場到着後直ちに戦闘に入れる状況にあるわけではない。現に、賤ケ岳の場合も21時に全軍が着陣したといわれているのだが、秀吉は軍勢に喚声をあげさせはしたが、総攻撃を命じたのは夜明けを期して行うということであった。ところが、それに驚いた佐久間盛正は23時に総退却を始めた。それでも、秀吉が佐久間勢退却中の報を得たのは翌日am2時であり、賤ケ岳にいた既存の秀吉方守備隊は、それぞれ対応して逐次攻撃を開始したらしい。それでも佐久間盛正の部隊は、am3時には総退却を無事に完了しているのである。ですから、大垣から駆け付けて疲労困憊した部隊が戦闘に参加し始めたのは、もっと後になる。


つまり、時速6kmという速度は、若干早いなどという行軍速度ではない。駆け足に近いのですから、時速6kmは完全武装した歩兵が追い付ける速度などではありません。
旧日本陸軍の強行軍は時速5kmなのだ。時速6kmというのは、ほとんど走っている状態だ。


信じられないことなのだが、旧日本軍の兵士たちは通常装備30kgを背負い、そのうえで機関銃隊ならば機関銃を、砲兵隊ならば砲身を担いで、そのような強行軍を実際に行ったといわれている………。

行軍速度というものは部隊の規模が大きくなるにつれて遅くなるし、異兵種と連合する場合は遅い速度の部隊を基準とすることになる。(分進することが効率的ではあるのだが、敵に遭遇する状況では致命的な結果を招来することになる場合もあり、そう簡単に兵力を分散させるわけにもいきません。)歩兵が追い付けないから、信長は熱田でその参集を待つ必要があったのだろうと考えるべきです。もし、信長に常備軍があってそれが清洲に駐屯していたならば、であるのですが………。そうでなければ、余りあてにできない国人衆が熱田に集合するのを待っていたと考えなければならないことになります。

だから、信長が小姓や馬廻など乗馬身分の者だけで挺身したのならば、三里を時速6kmは十分に可能であるでしょうが、歩兵を随伴した場合には強行軍を超えているのですから、到着した戦場で直ちに戦闘に入ったのでは、兵士たちは使い物にならないのではないかと危惧されるわけです。一般に戦国時代の軍勢に占める騎兵の割合は一割程度であるといわれるからです。

戦史を見ても強行軍の例は多く、一日に80~100km以上という行軍速度の例がある。
何れも時速に換算すると2~3kmというのが多い。

時速4kmを超える例は、第二次ポエニ戦争のローマの武将クラウディウス・ネロが、精兵7千を選り抜いて可能な限り軽装にさせ、食料も携帯せずに道筋にある町に食事を用意させ、800kmを一昼夜に100km(時速4km)以上の速度で強行軍させたものぐらいしかない。

橋場氏は、「秀吉の賤ヶ岳合戦の際の移動速度が時速8kmだった事、旧陸軍の早足(時速6km)・駆け足(時速8km以上)を勘案すれば、今川別働隊を風雨に乗じて撃破した地点から沓掛まで4km、さらに沓掛から4kmを移動するのにそれほど無理があるとは思えない。」とされるのだが、背後から吹き飛ばされる場合はまだ良い。嫌でも運ばれるのだから。しかし、沓掛から大脇村曹源寺へ南下するときには横風を受けて吹き飛ばされたであろうし、曹源寺から上ノ山へは向かい風の中を進まなければならないのだ。信長が義元本陣に突撃したのは風雨が止んでからのことであるのだから、それを、楠が吹き倒される強風の中を挺身したというのだからスーパーマンとしか言いようがない設定である。

 

              

(6)鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

(p18)「常識的に考えても、織田家との間で国境の城砦を取ったり取られたりしているような状況では、一気に上洛するなど到底無理である。」

………この指摘は重要である。尾三国境の北部・品野城などでは信長の攻勢にあって防衛一辺倒であり、後詰がされたという話がない。南部の大高城の攻防は早い時期から始まっていて、笠寺台地の駿河勢は駆逐されている可能性があることを考えると、鈴木氏の指摘は看過できないものがある。信長の軍事力は三河・遠江・駿河の辺境に派遣された軍勢とではあるが、互角に戦えるだけの実力を備えつつあったことになる。そして、その信長の軍隊が七~八百の歴々からなる常備軍を中核とした二~三千の兵力であった可能性があるようにも思える。

(p18)「(清須城を)力攻めにすれば膨大な損害を覚悟しなければならない。といって兵糧攻めなどしていたなら、大変な手間と時間が必要となる。義元にそれだけの準備と余裕があったとは考えられないから、尾張一国の制覇でも。まだ目的として大きすぎるだろう。」

………これについては、「天理本信長記」の「(2)軍議があった夜」で詳しく論じたとおりだが、安城も刈谷も落ちているのだから、平城で一重堀の舘城である清須城を攻め落とすのに時間はかからなかったろう。

(p18)「この時代、優勢な敵が迫ってくれば、領民はパニックを起こすのが普通である。…このときの織田領内では、まったくそうした形跡が見当たらない。それどころか熱田の町人たちなどは、今川に与党して海上から攻めてきた一向宗徒と戦って追い返したりしている。本当に今川軍が迫ってくるなら、報復が恐ろしくて、そんなことはできないだろうし、そもそも大勢の町民が街のなかに止まっていたはずがない。」

………この視点も重要である。もし熱田の町人でさえ義元が尾張との国境を踏み越えて熱田にまで侵出することなどあり得ないと考えており、且つ『天理本信長記』のいうように町民らが動員されて、のこのこ善照寺までもついて行ったことが事実ならば、一つ考えねばならないことは、義元の軍勢は牛一が今に伝えるような四万五千もの大軍などではなかったことであり、もう一つは、熱田は湊町であり自由港としての性格を持っており、港町を無暗に攻めて商人・町人を追い散らすことはしないだろうという見込みがたっていたかも知れないということである。熱田は港であるから役に立つのであり、信長ですら堺幕府があった堺衆に対しては交渉(矢銭を課した)から入っているのだ。これが戦国時代も終盤に近くなると見境もまくなり、博多湊などは1580年には竜造寺氏が、1586年には島津氏が焼き討ちを行って灰燼に帰している。

(p20)「そもそも戦闘を始めた時点では、信長は義元が何処に居るのかということも知らなかったと思われる

………鈴木氏が言われる「戦闘を始めた時点」が午後二時頃のことであるならば、具体的な居場所を知らなかったとはいえる。しかし、善照寺に参陣した時点では桶狭間山に本陣を置いていたことも知らなかったとは断定できない。何故なら、山上には総大将の居所を示す旗幟が立っていたものと思われるからである。だから、牛一は「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、」と書いたのだと思うのだ。単に、敵勢が屯していたことを義元に代表させたわけではないと思うのだ。

(p20)「信長の狙いは…とりあえず今川軍に打撃を与えて追い返すことだったろう。…くたびれた敵部隊を自軍の主力で叩くことによって、確実にポイントを稼ごうとしたのである。」

………とりあえず今川軍に打撃を与えることが目的ならば、付城を攻めている背後を攻撃することが常道だろうが、これについての説明は藤本氏も十分になされたとは言えない。

………「自軍の主力」と言われるが、たった二千が信長の主力なのだろうか?

(p20)「本拠を遠く離れてやってきている彼らの半ば以上は、補給要員などを含めた非戦闘員だったと考えるべきである。相手の信長勢は清須から真っ直ぐやってきたのだから、馬丁・槍持などを除けば、大部分が戦闘員だったであろう。」

………彼等駿河・松平同盟軍の根拠地は岡崎城であるのだから、非戦闘員が多かったということはできまい。先鋒を務めた松平勢のことはどう考えるのだろうか?

(p20)「信長勢は一団となっていたが、今川の部隊は各所に分散していた。」

………これが、暴風雨のために統率が乱れたというのならば問題は少ないが、移動中であったためとか、布陣が各所にバラバラであったというのであるのならば、それには根拠がないと言わざるを得ない。

(p22)「 (清須城における前夜の)籠城の議論にしても…前線で苦戦している味方を見捨てたまま大将が城に逃げ籠ってしまうことなど考えられない。もしそんなことをしたら、信長はたちまち部下たちから見放されてしまったに違いない。」

………では何故、信長は後詰に出かけないのに部下に見放されなかったのか。それとも、雑兵二百人にしか随伴しなかったのが見放された結果なのか。

………この鈴木氏の著書は『天理本信長記』が公にされる前のものではありますが、籠城しないことが常識であるとしたならば、信長や清洲城にいたと思われる重臣たちの行動は異常であると言わざるを得ません。


 藤本正行氏の最初の問題提起は1982年の『歴史読本』七月号

2011-06-24 22:11:57 | 明け狭間の真相やいかに


[1] 藤本正行氏の最初の問題提起は1982年の『歴史読本』七月号

[2]  信長軍の速度を検証できる史料はほとんどない。因みに、金ヶ崎退却時には、金ヶ崎城を4/28夜に出て、4/30亥の下刻(23)に帰京している。全行程75kmで、荷駄を伴わず口取りを伴う甲冑着用の騎馬行軍で、37.5km/日、時速4.7km。長篠合戦の折の信長の行軍は、4/21京都~4/28岐阜(101km、12.6km/日、1.6km/)5/13出陣~4/13熱田泊(30km、4km/h)4/14岡崎着(35km/日、時速4.5km)4/16牛久保(23.3km、3km/)4/17野田原(12.5km、1.6km/)4/18設楽が原(10km、1.3km/)、時速4km~4.km、戦場に近づいてからは1.5km/h程度である。  義元は、五月十二日に駿府を発ち、16.57km先の藤枝に泊まる。十三日は26.04km行軍して掛川に泊まっている。十四日は26.65km行軍して引馬(浜松)に泊まり、十五日は31.27km行軍して吉田(豊橋)に泊まり、十六日は28.68km行軍して岡崎に到着している。五月十七日、岡崎を発ち8.44km先の安城、そこから5.44km先の池鯉鮒(ここまで13.88km/日、六日で143.09km、平均24km/日、平均時速3km)を経て6.76km先の沓掛に陣を置いた。

[3] 『孫子・地形篇』には「隘なる形には、我まずこれに居らば必ずこれを盈たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」とありますから、武人の常識として事前に渓谷の入口を占領しているはずであり、信長軍が狭間の中に侵入してくるという事などはある筈がないのです。

[4]  (善得寺)静岡県富士市今泉。今はない。駿河東部は今川・武田・北条の争奪の地となったが、天文廿三年(1554)、太原崇孚が仲介役となり善徳寺で「甲・駿・相三国同盟」が成立したという伝説がある。

[5]  (1496-1555)今川家の一門衆である庵原家に生まれ、善得寺に入れられて僧となり、京都の建仁寺で常庵龍崇に学んだ。1522年、今川氏親と正室・寿桂尼の五男・方菊丸の養育係として善得寺に戻った。

[6]  因みに、泰平の世になった江戸時代でも、旅人は暗くなる前には宿に入った。

[7]  『武徳編年集成』「大高の城へも漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆるところ駿州勢のたまたま当城に在る者皆遁れ去り、鷲津、沓掛の守兵も皆逃亡する由告あり、…」

[8]  この間に「午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根ヲ攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて」と言う文章があり、多くの人はこの文章をもって今川勢は、出現した信長勢に対して迎撃体制もしくは攻撃態勢をとったと解釈するのだが、信長正面攻撃をしたにもかかわらず、今川軍の先備をすり抜けていると云う事実からみて、今川軍は敵正面に広く展開していなかったことが窺える、ということを論破する必要がある。

[9]  『船々聚銭帳(フネブネシュウセンチョウ)』133隻のうち尾張関係は、大野一隻、常滑三隻、野間六隻、亀崎一隻、師崎四隻、篠島(当時は三河国)二隻、宮(熱田)四隻の合計廿一隻である。 大高はない。大高の南にある大江川の河口が近世初め頃の湊であった。ここには本地、南野村等の船が集まり「万場の渡し」の応援に「津島祭の車船二十数艘の船」が出ている。この大江湊は、海側へ七子、水袋、宝生新田とまた南側へ八左ヱ門、操出、大江新田が出来ていく度に、入江として西へ進出していっている。

[10]  先鋒隊(支隊)と「本陣先備」では、その布陣していただろう場所の義元本陣からの距離は全く異なる。本陣先備は義元から大きく離れて配備されたのでは、本陣を守という本来の意味をなさない。

[11]  史実であるかは疑問。

[12]  (さらに追加、2010.03.15)江畑秀郷氏が駿河の餓民などが乱捕を目的に万を超える人数が追随してきたとする。

[13]  (追加 2007.02.19) 最近では、黒田日出男氏が「駿河勢の乱捕り」に注目されている。  (さらに追加、2010.03.15)江畑秀郷氏が駿河の餓民などが乱捕を目的に追随してきたとしている。

 

[14]  (2010.08.12挿入)谷口克弘氏が「『信長公記』と心中しなさい」とコラムで書かれている。桶狭間合戦についての史料はこれ以外にないのだから。他の資料を使えば傷口を広げるばかりであるとまで言われている。【信長学起動


【序】桶狭間の戦いの研究史

2011-06-24 22:08:12 | 戦国時代考証

【序】

 

  1. 桶狭間の戦いの研究史  (2008.08.10~、2010.0618改訂)
  2. 『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論の問題 (2007.12.12 追加分を移行、2010.06.18改訂)
  3.   (2009.03.27 追加分、2010.06.18改訂)    

   

(1)桶狭間の戦いの研究史  (2008.08.10~、2010.06.18改訂)

後に天下を獲る信長が世に出る契機となった桶狭間の戦いに対する学術的な興味は、今川義元の征西した目的に尽きるのだが、それも後に信長が天下を獲ったことに関連して、義元も上洛の意図があったのではないかと思われたことにある。
これに対して、世間の興味は小兵力で大敵を打破った痛快さがあるため、常に信長の勝利の「Howe to」に向けられてきた。
しかし、歴史学会は長く戦史の研究には関心を示してこなかったため、明治期に創成国軍の将校育成を目的に編纂された、日本戦史の叙述を無批判に受容してきた。この明治国軍による桶狭間の戦いの研究は、先進列国に日本が勝利するための必須戦術として、「迂回による奇襲」の可能性を常に模索すべきことを、将校に教育するために編まれたものである。
ところが、1982年に『歴史読本』誌上で藤本正行氏によって「異説・桶狭間合戦」として、学術的に取り扱うべき一方法が提言され、それによると世間に喧伝された迂回奇襲説は成立しえず、正面攻撃でなければならないとした。しかし、論争らしい論争は起こらず、一方的に藤本正行氏が自説を繰り返すだけで推移してきた。それが、藤本正行の『信長の戦国軍事学』(宝島社・1993)や、その後改題して出版された『信長の戦争』(講談社)により、これもさしたる論争もなく氏の正面攻撃説は広く受け入れられるようになった。従って、最近では、藤本氏の「正面攻撃説」に反論を唱えられることはないのだが、如何せんこの藤本氏の説では、合理的に信長が勝利でき義元が討死したことを説明できないため、未だに終結を見ていない。
藤本正行氏の功績は、桶狭間合戦に関しての一次資料は殆どなく[1] 、歴史家の検証に応えられる記録史料は『信長公記』しかないということを思い出させたことにあり、その方法論は正しいものである。ところが肝心の牛一は、「来た。見た。勝った」[2]としか書いていない。それだから、信長は正面から攻撃して勝ったと言えるのだが、それだけでは誰も納得していない。納得するには彼我の兵力差があまりに大きすぎるからである。そして、『信長公記』も藤本氏の一連の著述もその兵力差[3]をいかにして解消したかについて、合理的な説明を欠いているからである。おまけに、今川義元が千秋・佐々らとの前哨戦を観戦できる山上にいたらしいうえ、その山の麓は深田で進退困難な節所であるというのに、信長勢は易々と義元本陣に迫れたという地形上の問題[4]についても、何の説明もないのである。
誤解をするといけないから、紹介しておくが、藤本氏はちゃんと桶狭間の勝敗の原因について考察されている。その藤本氏の義元敗因とは、「義元が矛盾する二つの目的を持っており、それに優先順位をつけていなかった」ことにあるとされ、それはミッドウェー海戦の日本海軍機動部隊の失敗と同型であるとされている。ミッドウェーでの日本海軍機動部隊は、本来は敵機動部隊を誘致してこれを補足撃滅することが目的であったのだが、索敵に失敗していたために、本来は餌にしていたはずの第二目的を主目的に切り替えてしまうという失策をしでかしたのである。その様な行動をとった背景である経済的な原因は、当時の日本の国力が再度の作戦を許さなかったことにある。それだけでなく、敵が罠に掛るまでじっと待つという事は、日本軍には陸軍も海軍も許されてはいなかったのである。ここに、当時の日本軍人全ての行動を深層で規定するものがあった。旧帝国軍人には一切の余裕はなかった。しかし、通説によるかぎり、今川義元には十分な時間も兵力もあったはずなのである。
ところで、藤本正行氏の主張のうち、(1)義元本陣は高所にあった。(2)信長は正面から攻撃した。という二点については、現在反対する論者はいない。しかし、藤本氏のいわれるように、『信長公記』を一級史料として認めたとしても、牛一の記述が簡潔な文章であり、地形に固有名詞の存在しない地域で戦われたため、そこにある事実は余りにも少ない。従って、戦いの地理的な推移は想像するしかないのだが、信長の勝因・義元の敗因には、一般に納得できる合理的な解釈が提示できないでおりそこから藤本氏が導き出した内容についても、未だに追試・再検証されていないという問題がある。
現在、藤本氏の方法論は広く受け入れられているものの、藤本氏が漠然と示唆した桶狭間合戦の解釈は、到底受け入れられるものではなく、現在は、(1)小和田哲夫氏の『桶狭間の戦い・信長会心の奇襲作戦』(学習研究社・1989)による正面奇襲説、(2)谷口克広氏の『歴史読本・10.06』の東海道上合戦説は牛一の記述する方角に対して整合性を得ようとして唱えられた説である。(3)同様に、牛一の記述する「東」に呪縛された結果、桶狭間山を桶狭間村から離れた場所に求めたものに、藤井尚久氏の高根山説・漆山説、藤本正行氏の高根山説。(4)参謀本部の迂回説を踏襲したものに梶野渡氏の釜ヶ谷待機説、橋場日月氏の鎌倉街道説、江畑英郷氏の飢饉説などがある。その他、(5)黒田日出男氏の乱捕状態奇襲説や桶狭間山西方の道なき丘陵地帯を踏破するもの、側背から攻撃するための迂回を提示したり、水野信元や徳川家康の裏切りを主張するという説まで存在する。
また義元の西上目的も大きな謎である。久保田昌希氏が『駿河の今川氏(1978)で上洛説に疑問を呈し、『歴史と人物・s56.08』(1981)で三河一国の完全支配尾張への領土拡大のための軍事行動だったと主張された。その後、小和田哲夫氏が『戦国今川氏』(静岡新聞社・1992)で尾張制圧説を唱え、藤本正行氏が『信長の戦国軍事学』(宝島社・1993)で鳴海・大高城後詰の単なる国境紛争を主張して上洛説を否定したことにより、現在では上洛説を採る研究者はいないが、義元の西征目的については未だに決着を見ていない。
現在、桶狭間合戦に対して問題とされているものには、(1)少数の信長が大軍の義元を正面攻撃で討ち破れた理由。(2)『武家事記』の言いだした簗田出羽守の情報と褒賞(沓掛城)は真実か。(3)千秋・佐々らの無謀な突撃の理由は何か。(4)水野信元の行動は如何様であったか。その他、(5)両軍の兵力と、それに関連して、丸根・鷲津砦攻撃を行った部隊は松平元康隊以外にはいなかったのか。(6)義元本陣に関連して桶狭間山の位置。などがある。
これ等以外に、新たに浮上した問題は、『甲陽軍鑑』の史料価値の見直しを迫る黒田日出男氏の乱捕状態奇襲説の登場や、桐野作人『歴史読本2001.11』で尾瀬甫庵の記事は『天理本』を典拠にした可能性を示唆しておられ、これによって軍記物を含めた史料の取り扱いを見直す必要も考えなければなくなってきているだけでなく、歴史学者以外の研究者から、実証は欠くものの、義元の目的に関連して、伊勢湾海運の見直しを迫るものや、弘治・永禄初年の飢饉の影響などをも考慮すべしという提案もなされるに至っている。
  
(2)『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論上の問題 (2007.12.12 追加分を移行、2010.06.18改訂)
(イ)<地理情報の問題>  『信長公記』の記事が少ないのは確かなのだが、牛一が「書けなかった」のか。または、「書く必要がないほど自明なこと」であったのか。これらについては検証されていない。例えば、道は鳴海道(鳴海~桶狭間)の他には、鎌倉街道と近世東海道しかなかったならば、これは説明を要しないし、もともと地名がなくて説明できない場合も考えられるのだが、現在の研究者は中島砦から山際の間、および山際から信長の最初に接触した義元勢との間について、情報不足であると一様に感じている。これなどは、当時の地理情報からして牛一がそれ以上には書きようがなかったのだという立場に立って、冷静な解釈をする必要があると思われる。
一般の論者は、信長軍には、道が無かろうと、錯綜した丘陵地であろうと、何処でもお構いなしに踏破させてしまう傾向がある。そのうえ、所要時間という観念を欠いていることもあって、牛一が態々時刻を記載していることを無視してしまっているし、伊勢湾の潮の干満まで書いてあるのだが、その意味についても殊更には考えられてこなかった。戦場になった桶狭間山についても、特定できる固有名詞を持つ山が存在しないこともあって、無闇に想定範囲が広げられており、藤本氏は平子が丘辺りまでをその範囲におさめる[5]のだが、これらは、自身が主張される「牛一の地理に関する記載は正確である」という前提からすると、牛一が「戌亥に向って人数を備へ」と書くことを踏まえるならば、矛盾する結果になっているさらに現在では、中島砦の南にあたる漆山までをも「桶狭間丘陵」などと名付けることによって範囲が広げているものもある。また、方角に関する記載も藤本氏の主張に反して、一概に信用できるものではなさそうであり、改めての検証が必要だろう。
(ロ)<方法論の矛盾>  これ以外には史料がないのだから、真摯に扱わねばならない『信長公記』も、極めて恣意的に扱われる傾向がある。その最たる例が、藤本正行氏自身によってなされている。氏自身が一級史料として認めるべきだとした『信長公記』に記載された内容を、将に当人が恣意的に切り捨てた事実があるばかりでなく、現在に至るまでそれが看過されるのみならず、諸人は無批判に追随してきているのである。
これは、信長が中島砦から今川本陣に向かって将に出撃せんとしたときに麾下の将兵を鼓舞するために向かって行った演説[6]なのだが、藤本氏は「信長の思い込みによる誤認」と決めつけ、それに続いた多くの研究者も、信長の戦況誤認だとして片付けている。
『信長公記』を一級史料として扱う以上、最も重大な信長自身の判断を無碍に誤認だとして切り捨てる前に、それが正しいものとして真摯に受け取る姿勢が必要なのではないのだろうか。第一、信長の判断が間違いであったというような根拠は、『公記』の何処にもみられない。藤本氏の認識は、徹頭徹尾藤本氏自身の思い込みによるものでしかないように思われる。……この問題については、別に「信長の戦況判断」章で論じる。

常識でみる桶狭間合戦】

2011-06-24 21:38:36 | 戦国時代考証

桶狭間の戦いには、今川義元が沓掛城から出陣している限り、解決できない問題が数々生じます。そこで、発想を逆転させて義元が前日に大高城に宿営しており、当日は大高城から出陣していたとし、それを織田信長が信じられなかったとしたならば、納得できる筋書が描かれるはずです。信長が東海道を進撃しながら、なぜ後世からは迂回であったと言われるのか?桶狭間の戦いはどこにも作戦計画などはなく、全てが「成り行き」であったことがわかるはずです。我々はもっと『信長公記』や『三河物語』を熟読すべきなのではないでしょうか?

  • 桶狭間の戦いで鷲津砦・丸根砦攻撃を指揮したのは義元であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いでは、初め今川義元の本陣は漆山にあったこと・・・御存じでしたか?
  • 佐久間大学が伊勢湾の干満をいう理由や伊勢湾の干潮時刻・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦い当時、天白川は徒渉できたこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで千秋・佐々らが母呂後で討死したこと・・・御存じですか?
  • 桶狭間山は赤松の疎林であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦い当時、東海道はすでに準幹線道路であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで信長は情報戦を行わなかったこと・・・御存じでしたか?
  • 簗田出羽守が義元の所在を注進したというのは嘘だったこと・・・御存じでしたか?
  • 織田信長自慢の三間半の長柄鑓は寿命が短かかったこと・・・御存じでしたか?
  • 信長が大将ケ根から攻撃発起したのは正しいこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで駿河先鋒隊は既に撤兵を完了していたこと・・・御存じでしたか?
  • 大高城が飢えるには氷上砦・正光寺砦が必要なこと・・・御存じでしたか?
  • 水野十郎左衛門尉は刈谷城主・水野信近だということを御存じですか?
  • 桶狭間の戦い当時、伊勢湾や三河湾に水軍などなかったこと・・・御存じでしたか?
  • 三方ヶ原合戦での信玄の目的は、天竜川以東と奥三河の領国化でしかない。
  • 信玄は、上洛戦において、天竜川右岸を北上したりしてはいない。
  • 岩村城は秋山虎繁に攻めとられたのではなく、岩村城兵が自ら武田方へ寝返ったのである。
  • 長篠合戦は、あるみ原で戦われたのでも、設楽原で戦われたのでもない。強いていうなら連吾川の戦いが正しいのだろう。
  • 長篠合戦での攻め口は三か所しかなく、陣城は築かれなかった。

  最新改稿月日:2011年06月07  

”桶狭間の戦いと具足”(刀剣)に信長の脇差について読売新聞ニュースを採録しました


公開月日:2006年12月12日(原コンテンツの公開日)
旧版(biglobe)は、2007年03月21日に閉鎖しました。

Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9

御断り、 これは、推理の過程を現在進行形で叙述しているものでもありますから、結論から導かれて一貫した体系にはなっていません。そのため、極めて難解かつ解り難いものになっていますが、その点はご容赦ください。………できるだけ誤解をされないように書き改めるようにしますが、御急ぎの方は「真説・桶狭間の戦い」章をご覧いただければと思います。

 

  1. 国土地理院が試験公開している米軍の撮影した航空写真(本文中にも掲載)
  2. 450年前の合戦当日の伊勢湾の水位を推計し直し潮位表を掲載しました
  3. 天白川洪水ハザードマップ削除(代わりに国土交通省版にリンク
  4. その他一部に、電子国土ポータルをリンクしました。

 


明治時代(1872)学制が定められ、全国で小学校がつくられるようになった

2011-06-23 21:37:44 | 戦国時代時代の終焉

 

明治維新(めいじいしん)によって、江戸幕府や藩(大名)はなくなり、ヨーロッパやアメリカをお手本とする新しい国の仕組みが取り入れられました。日本は、世界の中で強い国になることをめざし、アジアの国々を侵略し、戦争を繰り返しました。アメリカとの戦争に負けた後は、平和な国に生まれ変わり、経済が発展し国民の生活はとても豊かになりました。

 



明治時代

1872

1874



1889

1894

1904

学制が定められ、全国で小学校がつくられるようになった

民撰議員設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)が政府に出され、議会の設置や憲法の制定を求める自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)が広まる

大日本帝国憲法が発布された

日清戦争が始まった(~1895)

日露戦争が始まった(~1905)

大正時代

1914


1923

第一次世界大戦が始まり、日本も参加する(~1918)


関東大震災(かんとうだいしんさい)がおこる

昭和時代

1931


1933

1937

1941

1945
1946

1951

1953

1964


1970

1972

1973

1983

満州事変(まんしゅうじへん)がおこされ、日本軍が中国東北部を占領する

日本が国際連盟を脱退した

日中戦争が始まった

太平洋戦争が始まった

広島・長崎に原爆が落とされ、日本が降伏した
日本国憲法が発布された

サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が主権を回復した

テレビの放送が開始された

東海道新幹線が開通した
東京オリンピックが開かれた

大阪で万国博覧会が開かれた

沖縄が本土に復帰した
日中国交正常化がされた
石油危機がおきた

国立歴史民俗博物館が開館した

平成時代

1995

2002

阪神・淡路大震災がおこった

サッカーワールドカップ大会が韓国と共同で開かれた