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雑賀孫一の「気になる話」

2011-06-14 00:00:23 | 足軽の誕生
孫一番外編
ここでは、今回の取材中にお世話になった蓮乗寺の鈴木ご住職から拝聴したお話の一部と、ご提供いただいた資料の一部をご紹介します。


雑賀孫一の「気になる話」

 雑賀孫一は「平井孫一」とも呼ばれるように、平井郷の「政所(まんどころ)ノ坪」と呼ばれる場所に居館を設けており、そこは通称「孫一道場」と呼ばれていたと伝えられている。
 この「政所ノ坪」なる地は、現在の蓮乗寺から西へ約100m程の所にあったのだが、今ではそこには何も残っていない。鈴木ご住職のお話では、もともと蓮乗寺もその場所にあったのだが、移転して今の場所に来たとのことであった。

 ところで、孫一の居館は「平井城」または「孫一道場」と呼ばれているが、これらはどうも別の建物である可能性があるらしい。ご住職のお話では、旧孫一道場は三方に小さな池があるものの、まったくの平地で、石垣などもあるにはあったらしいが、孫一の居館としてはあまりにもその規模が小さく、防御力もなさすぎるとのことであった。
 私もそう思う。旧「孫一道場」というのは、付近の農民が本願寺僧の説法や講話を聞くためだけの「集会所」ではなかったか。とすると本拠の「平井城」はどこにあったのだろう。
 ご住職はある場所で小さな(?)発見をされているのだが、その内容は残念ながらここには書けない。いつか我々一般が耳にする日が来るまで、楽しみにしまっておこうと思う。


鈴木ご住職自筆の「資料」より

 最後に、蓮乗寺からご提供いただいた資料の一部を抜粋する。

 研究者、郷土史家の皆さんは、様々な説を披露しています。たとえば、和歌浦妙見山に築城した鈴木左太夫その人が孫市である。いやいやその左太夫の三男、重秀が孫市であろう。その他いろいろな説があります。
 ともあれ、伝えられる孫市は、一人ではつじつまが合いません。私方の資料では、はっきり申し上げられるのは、最初の孫市の子、豊若が後に孫市を名乗っておりますので、複数人物であることに間違いありません。

 このことは、作家の司馬遼太郎さんにも申し上げ、司馬さんは「尻啖へ孫市」の中で、平井に残った孫市を小孫市という呼び方で書かれています。
 いずれにしても、初代、2代目、3代目とも左太夫の3人の子、つまり、兄弟とその子が次々と孫市を名乗っていたと考えられます。その墓についても、方々にありますが、私方の墓、これには平井孫市郎藤原兼重となっておりますが、年代から言って最も活躍した孫市の墓ではなかろうかと言われています。

 この墓は、以前、居城のあった政所の坪(当寺から西へ約100メートル)にあったものを、現在地へ移されたもので、上部は当寺十代目住職が建て替えたものですが、基礎の台座は往時のものそのままであります。

 鈴木ご住職、本当にありがとうございました。

武士の発生と足軽の誕生

2011-05-29 12:06:21 | 足軽の誕生
戦国期以前の足軽
「足軽」なる言葉が誕生したのは鎌倉時代と考えられます。彼らは初めのうちは戦いの主役ではありませんでしたが、ある戦いを境にしてその存在が急にクローズアップされます。


武士の発生と足軽の誕生

 武士の誕生のきっかけは簡単に言うと、地方豪族たちが自分の領地を守るために武力が必要となってきたことが大きな要因の一つである。そして中心となる人物(領主)の周囲を一門で固め、さらに雑用を務める身分の低い者たちを含めた一つの単位が出来上がっていった。
 源頼朝が初の武家政権である鎌倉幕府を開くと、これらの武士たちと中央とは「御恩」と「奉公」と呼ばれる関係によって維持されていった。端的に言うと、御恩とは幕府が武士たちの所領を改めて認めたり(本領安堵)新たに所領を与えて(新恩給与)その地の地頭に任じること、奉公とはその引き替えに幕府や内裏の警護役を務めたり、関東御公事などの経済的な負担を受け持つことと、有事の際には幕府方に馳せ参じるといった軍役を務めることである。

 「足軽」の呼称はこの時代には現れて来たようである。彼らは主人から生活の保証を受ける代わりに忠勤を励み、主家に関係した戦いが起こると戦闘要員となり、命を張って働いた。記録的には鎌倉時代前期の成立とされる『保元物語』に
 
 「郎党足軽共四五十人馬の口前後左右に附て真先に先づ罷り向ひ候て(略)
 
 と見えるのが最も古いという。『平治物語絵巻』『保元平治合戦図』に描かれた彼らは、裸足で折烏帽子(おりえぼし)に腹巻(戦国期に言う胴丸)を着用し、太刀または腰刀を帯びて長刀や矛を担いだ「徒歩の兵」である。
 豪族の家には下人・下部、あるいは若党などと呼ばれる、主として雑用を務める身分の低い人々が古くから存在した。そして戦いの頻度が増えてくると、これら下級層の人々の中から戦闘を専門的に受け持つ裸足・軽装の一団が誕生し、それが次第に足軽という呼称で定着していったものと考えられる。
 当時、彼らより身分が上位の騎馬武者は大鎧を着用しており、威厳はあるがその重量から動作には敏捷性を欠いていた。このため、地形や天候にかかわらず身軽に動けた彼らを「足軽」と呼んだのであろう。


戦乱の増加と足軽

 当初、合戦は騎射戦が主体であった。しかし、元弘三年(1333)に行われた河内千早城の戦いの際、楠木正成が数万騎といわれる幕府軍に対し、足軽を駆使したゲリラ戦を挑み、わずか千人の兵力で三ヶ月以上も城を守り通したことは広く知られている。これ以後戦術・戦法が改革され、従来の騎射戦主体のスタイルから次第に歩射・白兵戦重視へと変化していったと言っても過言ではないであろう。
 こうして足軽隊を保有する豪族たちが増えていくのだが、この時代に急速に足軽が出現した背景には戦乱の増加がある。近隣との土地境界争いなども頻繁に起こり、自衛力を高める必要が生じたこと、また戦いで多くの死者が出ると人員を補充する必要があり、その際種々雑多な人々が流れ込んできた。農民もいれば山賊・海賊などのいわゆる悪党、あるいは他家を追い出されて流れ着いた無頼の徒もいたであろう。そしてこれらの人々を抱え込んで勢力を強めていく豪族が各地に現れ出してきた。
 なぜなら、戦乱のさなかでは召し抱える豪族たちにも、また奉公先にあぶれていた悪党たちにも、ある意味メリットがあったからである。豪族たちは終わりの見えない戦乱に、譜代の奉公人など一族につながる者は失いたくない。一方、奉公先にあぶれていた者たちにとっては、非常時のため召し抱えられやすく、最低限の生活が保障される上に活躍次第で立身出世が可能なのである。


悪党・野伏と足軽

 悪党とは字のごとく「悪行を為す者」という意味であるが、当時は権力者に対して抵抗する人々をもこう呼んだ。彼らは徒党を組み、過酷な取り立てをする荘園領主などに対して城や砦を構え、農民を糾合して年貢を拒むなど抵抗した。時には領内の略奪を行うこともあり、初めは農民に歓迎されていたが、農作物を荒らしたり家屋を焼くなどの挙に出ることもしばしばあり、やがては孤立して野伏となっていった。こういった層からの出自を持つ戦国期の人物としては、蜂須賀正勝などが有名である。

 先にこういった人々を抱えるのには豪族たちにもメリットがあると述べたが、むろんデメリットもあった。彼らにとっては戦いの場は敵の甲冑や刀剣など、金目の物の略奪こそが主たる目的であり、主人の存亡などは二の次だったからである。このため主人に忠誠を尽くす一族郎党とは違い、命を張ってまで戦おうとする者などほとんどおらず、形勢が不利になると逃げ散ったことも多かった。こういう連中だから主人としても信用は置けず、少々活躍したからといって多くの報賞は出せない。主人は彼らを前線に置いて戦わせる代わりに略奪行為を見て見ぬふりをし、ある意味一族郎党の盾として利用したのである。
 とはいえ彼らは戦いのツボを心得ており、優れた行動能力や戦略眼を持った者も多く、彼らのお陰で勝てた戦いも多かったことであろう。やがてそういう特殊能力を持った者は「忍びの者」として、伊賀や甲賀に定着していったケースもあったのではないかと思われる。