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 西国の覇者として広く知られる毛利家も、はじめは安芸国吉田郡山に居を構える小豪族であった。

2011-06-14 22:04:48 |  毛利家(元就・吉川元春・小早川隆景)

    毛利家(元就・吉川元春・小早川隆景)

  西国の覇者として広く知られる毛利家も、はじめは安芸国吉田郡山に居を構える小豪族であった。大内氏に属していたが、義隆の重臣・陶晴賢(すえはるかた)の乱により義隆が自害し、大内氏は滅亡した。これより、「謀略の塊」と言われた元就が歴史の表舞台に登場してくるのである。
【Photo:吉田郡山城下にある元就の像(広島県安芸高田市)】

 まずは世に名高い陶晴賢との厳島の合戦。数倍する大軍を相手にしては勝利はおぼつかない。元就は計略をめぐらし、厳島へ敵の大軍をおびき寄せる。これは敵のスパイを逆利用して成功させたものである。
 さらに瀬戸内の海上に勢力を持つ村上水軍の助けを得て、見事に奇襲を成功させ陶晴賢の大軍を破り、その首を取ったのである。ここから元就の活躍が始まる。


 彼には優秀な子がいた。長男隆元・次男元春・三男隆景である。隆元は残念ながら早世したが、元春は吉川家の養子となり山陰地方の固め役に。また、隆景は名家小早川家の養子となり、山陽地方の固め役として父元就から期待された。これがいわゆる「毛利両川体制」とよばれるものである。
 元春は軍事面で、隆景は外交・政治面でと元就を助けた。この兄弟も性格は全く異なりはするが、仲はきわめてよかった。元就が3人の子を前に諭したとされる「三矢の訓」は有名だが、残念ながらこの話は後世の創作である。しかし、それはともあれ兄弟仲がよかったことは間違いない。
【Photo:隆景広場より見た三原城跡に残る石垣(広島県三原市)】

 もっとも知られている話の一つとして、本能寺の変の際に毛利家のとる方針についてのことがある。当時秀吉は高松城を水攻めにし、城将清水宗治を切腹させ和睦の扱いとし、京へ引き返した。この瞬間毛利氏に信長死すの情報が飛び込んだのだが、追撃を主張してやまない元春に隆景はこう言ったという。

  今我らが秀吉の後を追えば少なからず打撃を与えられるであろうが、問題は彼が天下を取る人物かどうかである。私はそうであると見た。とすればやがては秀吉と一戦せねばならず、そのとき我が毛利家に勝算はあるかどうか?答えは否である。しからばここは黙って見過ごし、恩を売りつけておくに限る。やがてはそれが当家にとって非常に大きく物をいうであろう…。
 そして、隆景の予言通りに事は進んでいくのである。このとき元春は納得できない顔をしていたが、「隆景がああまで言うならそれに従おう」と潔く同意したと言われる。余談だが、元春は後に病死するまで一生秀吉嫌いで通したという。
【Photo:吉川氏居館跡にある元春・元長父子の墓(広島県北広島町)】

 本家の人間ではなくとも、このように優れた人材を身内に持つ家は強い。関ヶ原後に大きく領土は減らされた。改易されても文句の言えない立場であった。しかし、毛利家はしっかりと残った。
大内氏に属していたが、義隆の重臣・陶晴賢(すえはるかた)の乱により義隆が自害し、大内氏は滅亡した。これより、「謀略の塊」と言われた元就が歴史の表舞台に登場してくるのである。
【Photo:吉田郡山城下にある元就の像(広島県安芸高田市)】

 まずは世に名高い陶晴賢との厳島の合戦。数倍する大軍を相手にしては勝利はおぼつかない。元就は計略をめぐらし、厳島へ敵の大軍をおびき寄せる。これは敵のスパイを逆利用して成功させたものである。
 さらに瀬戸内の海上に勢力を持つ村上水軍の助けを得て、見事に奇襲を成功させ陶晴賢の大軍を破り、その首を取ったのである。ここから元就の活躍が始まる。


 彼には優秀な子がいた。長男隆元・次男元春・三男隆景である。隆元は残念ながら早世したが、元春は吉川家の養子となり山陰地方の固め役に。また、隆景は名家小早川家の養子となり、山陽地方の固め役として父元就から期待された。これがいわゆる「毛利両川体制」とよばれるものである。
 元春は軍事面で、隆景は外交・政治面でと元就を助けた。この兄弟も性格は全く異なりはするが、仲はきわめてよかった。元就が3人の子を前に諭したとされる「三矢の訓」は有名だが、残念ながらこの話は後世の創作である。しかし、それはともあれ兄弟仲がよかったことは間違いない。
【Photo:隆景広場より見た三原城跡に残る石垣(広島県三原市)】

 もっとも知られている話の一つとして、本能寺の変の際に毛利家のとる方針についてのことがある。当時秀吉は高松城を水攻めにし、城将清水宗治を切腹させ和睦の扱いとし、京へ引き返した。この瞬間毛利氏に信長死すの情報が飛び込んだのだが、追撃を主張してやまない元春に隆景はこう言ったという。

  今我らが秀吉の後を追えば少なからず打撃を与えられるであろうが、問題は彼が天下を取る人物かどうかである。私はそうであると見た。とすればやがては秀吉と一戦せねばならず、そのとき我が毛利家に勝算はあるかどうか?答えは否である。しからばここは黙って見過ごし、恩を売りつけておくに限る。やがてはそれが当家にとって非常に大きく物をいうであろう…。
 そして、隆景の予言通りに事は進んでいくのである。このとき元春は納得できない顔をしていたが、「隆景がああまで言うならそれに従おう」と潔く同意したと言われる。余談だが、元春は後に病死するまで一生秀吉嫌いで通したという。
【Photo:吉川氏居館跡にある元春・元長父子の墓(広島県北広島町)】

 本家の人間ではなくとも、このように優れた人材を身内に持つ家は強い。関ヶ原後に大きく領土は減らされた。改易されても文句の言えない立場であった。しかし、毛利家はしっかりと残った。


幸隆に始まる真田家は、まさに謀略家と呼ぶにふさわしい小大名家であった。

2011-06-14 21:31:38 | 第2位?真田家(幸隆・昌幸・信之・幸村)

第2位 真田家(幸隆・昌幸・信之・幸村)

 ここに真田家の名を挙げるには、やや首をかしげる方もおられるのではないかと思われる。真田家は関ヶ原にて東西両軍に分かれ、昌幸と幸村は九度山へ流される。つまり敗者である。しかし、小国の領主として謀略の限りを尽くし、幾多の苦難を乗り切った昌幸の手腕は評価に値すると私は考えているので、敢えて挙げさせていただいた次第である。


 幸隆に始まる真田家は、まさに謀略家と呼ぶにふさわしい小大名家であった。幸隆は知謀に富み、武田信玄のもとで山本勘助と並ぶ軍師であった。彼の計略で、長年苦汁を飲まされてきた北信濃の強豪・村上義清を追放することに成功する。以来彼は信玄の信頼あつく、武田家中に確固たる地位を築いてゆく。
 昌幸は幸隆の三男で、はじめ武藤喜兵衛と名乗り、信玄の小姓をつとめていた。長篠合戦で主家が弱体化し、やがて勝頼が信長麾下の武将・滝川一益の手により自害に追い込まれて主家は滅亡した。ここから昌幸の活躍が始まる。

 昌幸は家康嫌いであった。しかし、北条・上杉・徳川と大勢力に囲まれた上州の地を守るには、どこかの傘下に入らなくてはならない。ここで昌幸は敵対していた上杉家に頭を下げる。当時の上杉当主は景勝であったが、今までのいきさつは水に流して昌幸の頼みを聞き入れた。このあたりに潔い上杉家の家風が現れている。しかし、次男の幸村(信繁)は人質として春日山城へ送られていった。
 しかし北条家の圧力の前に、今度は秀吉に助けを求める。これにより幸村は今度は秀吉のもとへと人質にゆくことになるのである。このとき起こった北条軍による名胡桃城奪取事件を口実に、秀吉は大軍を動員し北条氏を滅ぼすことになる。また、幸村は大坂へ行った際に大谷吉継らと知り合い、後に吉継の娘を妻にめとることになる。

  昌幸の長男の信之(当時は信幸)は徳川家重臣・本多忠勝の娘を妻として迎えた。この時すでに「犬伏の別れ」で有名な、関ヶ原で親子が東西に分かれて戦った下地は出来上がっていたのである。
 関ヶ原の戦いでは昌幸と幸村は上田城に籠城し、徳川秀忠の大軍にびくともせず手こずらせて日数を稼いだ。しかし西軍は負け、親子とも斬首寸前の所を信之や舅の本多忠勝らの必死の嘆願で、高野山配流に減免された。
【Photo:上田城に残る真田石(左の大石)】

  昌幸は配所で寂しく没したが、幸村は苦節に耐え、大坂の陣の際秀頼に依頼され入城する。このときの幸村の活躍は冬の陣・夏の陣ともあまりにも有名で、ここではあえて触れないことにする。しかしその幸村も夏の陣にて父譲りの知謀の限りを尽くし、赤備えの騎馬軍団を率いて敵本陣に突入し家康を敗走させ、一時は自害を覚悟させるほどに追いつめて奮戦したが、とうとう力つきて戦死する。またその嫡子大助も秀頼に従って大坂城において自害する。
【Photo:真田庵にある真田昌幸の墓(手前左の石塔)】

 信之の心中はどのようなものだったであろうか。しかし彼は徳川家に忠節を尽くし、度重なる幕府の嫌がらせや減封とも言える国替え(上田から松代へ)にも耐え、家を守り抜いてゆくのである。

 93歳の長寿を保ち、まぎれもない名君として民に慕われ治政に励んだ初代真田松代藩主・信之こそ、真田家一の名君であったような気がする。


雑賀孫一の「気になる話」

2011-06-14 00:00:23 | 足軽の誕生
孫一番外編
ここでは、今回の取材中にお世話になった蓮乗寺の鈴木ご住職から拝聴したお話の一部と、ご提供いただいた資料の一部をご紹介します。


雑賀孫一の「気になる話」

 雑賀孫一は「平井孫一」とも呼ばれるように、平井郷の「政所(まんどころ)ノ坪」と呼ばれる場所に居館を設けており、そこは通称「孫一道場」と呼ばれていたと伝えられている。
 この「政所ノ坪」なる地は、現在の蓮乗寺から西へ約100m程の所にあったのだが、今ではそこには何も残っていない。鈴木ご住職のお話では、もともと蓮乗寺もその場所にあったのだが、移転して今の場所に来たとのことであった。

 ところで、孫一の居館は「平井城」または「孫一道場」と呼ばれているが、これらはどうも別の建物である可能性があるらしい。ご住職のお話では、旧孫一道場は三方に小さな池があるものの、まったくの平地で、石垣などもあるにはあったらしいが、孫一の居館としてはあまりにもその規模が小さく、防御力もなさすぎるとのことであった。
 私もそう思う。旧「孫一道場」というのは、付近の農民が本願寺僧の説法や講話を聞くためだけの「集会所」ではなかったか。とすると本拠の「平井城」はどこにあったのだろう。
 ご住職はある場所で小さな(?)発見をされているのだが、その内容は残念ながらここには書けない。いつか我々一般が耳にする日が来るまで、楽しみにしまっておこうと思う。


鈴木ご住職自筆の「資料」より

 最後に、蓮乗寺からご提供いただいた資料の一部を抜粋する。

 研究者、郷土史家の皆さんは、様々な説を披露しています。たとえば、和歌浦妙見山に築城した鈴木左太夫その人が孫市である。いやいやその左太夫の三男、重秀が孫市であろう。その他いろいろな説があります。
 ともあれ、伝えられる孫市は、一人ではつじつまが合いません。私方の資料では、はっきり申し上げられるのは、最初の孫市の子、豊若が後に孫市を名乗っておりますので、複数人物であることに間違いありません。

 このことは、作家の司馬遼太郎さんにも申し上げ、司馬さんは「尻啖へ孫市」の中で、平井に残った孫市を小孫市という呼び方で書かれています。
 いずれにしても、初代、2代目、3代目とも左太夫の3人の子、つまり、兄弟とその子が次々と孫市を名乗っていたと考えられます。その墓についても、方々にありますが、私方の墓、これには平井孫市郎藤原兼重となっておりますが、年代から言って最も活躍した孫市の墓ではなかろうかと言われています。

 この墓は、以前、居城のあった政所の坪(当寺から西へ約100メートル)にあったものを、現在地へ移されたもので、上部は当寺十代目住職が建て替えたものですが、基礎の台座は往時のものそのままであります。

 鈴木ご住職、本当にありがとうございました。