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戦国期の人々の誕生日【天皇・文化人・女性編】

2011-06-06 21:38:57 | 戦国ロマン
戦国期の人々の誕生日2【天皇・文化人・女性編】

 

人物名 誕生日時 ~ 死没日時 享年 備考 
飛鳥井雅庸 永禄十二(1569)年10月20日元和元(1615)年12月22日 47 権大納言の公家で歌人
阿茶局 弘治元(1555)年2月13日寛永十四(1637)年1月22日 83 飯田直政の娘で家康側室
一条冬良 寛正五(1464)年6月25日永正十一(1514)年3月27日 51 兼良の子、関白太政大臣
正親町天皇 永正十四(1517)年5月29日文禄二(1593)年1月5日 77 第106代天皇、在位1557~1586
覚恕 大永元(1521)年12月18日天正二(1574)年1月3日 54 後奈良帝第一皇子、166世天台座主
覚深 天正十六(1588)年5月29日慶安元(1648)年閏1月21日 61 仁和寺門跡、後陽成天皇第一皇子
勧修寺光豊 天正三(1575)年12月7日慶長十七(1612)年10月26日 38 正三位権大納言叙任翌日に死去
加納御前 永禄三(1560)年3月18日寛永二(1625)年5月27日 66 亀姫のち盛徳院、徳川家康の娘
狩野永徳 天文十二(1543)年1月13日天正十八(1590)年9月14日 48 絵師、狩野派全盛の礎を築いた
狩野孝信 元亀二(1571)年11月25日元和四(1618)年8月30日 48 絵師、木挽町狩野家の祖
狩野元信 文明八(1476)年8月9日永禄二(1559)年10月6日 84 絵師、正信の子で永徳の祖父
神谷宗湛 天文二十(1551)年1月1日寛永十二(1635)年10月28日 85 博多の豪商神谷家第六代当主
喜安 永禄九(1566)年1月20日承応二(1653)年8月10日 88 『喜安日記』著者で尚寧王側近の僧
義演 永禄元(1558)年8月20日寛永三(1626)年閏4月21日 69 『義演准后日記』著者、醍醐寺座主
九条稙通 永正四(1507)年1月11日文禄三(1594)年1月5日 88 関白内大臣、『源氏物語孟津抄』等
興意法親王 天正四(1576)年10月12日元和六(1620)年10月7日 45 誠仁親王第五子、三井寺長吏等
江月宗玩 天正二(1574)年11月21日寛永二十(1643)年10月1日 70 臨済僧、堺の豪商津田宗及の子
後柏原天皇 寛正五(1464)年10月20日大永四(1526)年4月7日 63 第104代天皇、在位1500~1526
後奈良天皇 明応五(1496)年12月23日弘治三(1557)年9月5日 62 第105代天皇、在位1526~1557
近衛信尹 永禄八(1565)年11月1日慶長十九(1614)年11月25日 50 前久の子で関白、寛永三筆の一人
後水尾天皇 慶長元(1596)年6月4日延宝八(1680)年8月19日 85 第108代天皇、在位1611~1629
後陽成天皇 元亀二(1571)年12月15日元和三(1617)年8月26日 47 第107代天皇、在位1586~1611
策彦周良 文亀元(1501)年4月2日天正七(1579)年6月30日 79 臨済僧で『南游集』の著者
誠仁親王 天文二十一(1552)年4月23日天正十四(1586)年7月24日 35 太政天皇を追贈
三条西公条 長享元(1487)年5月21日永禄六(1563)年12月2日 77 実隆の子で右大臣、歌人
三条西実隆 康正元(1455)年4月25日天文六(1537)年10月3日 83 内大臣、『実隆公記』著者の歌人
慈昌 天文十三(1544)年1月10日元和六(1620)年11月2日 77 存応、増上寺十二世住持
貞把 永正十二(1515)年9月20日天正二(1574)年12月7日 60 浄土宗道誉流の祖
鈴木正三 天正七(1579)年1月10日明暦元(1655)年6月25日 77 重次の子、禅僧で仮名草子作者
角倉素庵 元亀二(1571)年6月5日寛永九(1632)年6月22日 62 京都嵯峨の豪商角倉了以の長男
千姫 慶長二(1597)年4月11日寛文六(1666)年2月6日 70 徳川秀忠長女で豊臣秀頼室
沢庵宗彭 天正元(1573)年12月1日正保二(1645)年12月11日 73 臨済僧、大徳寺百五十三世住持
田代三喜斎 寛正六(1465)年4月8日天文六(1537)年2月19日 73 古河公方に仕えた名医
立入宗継 享禄元(1528)年1月5日元和八(1622)年9月26日 95 京都の商人で禁裡御倉預職
智仁親王 天正七(1579)年1月8日寛永六(1629)年4月7日 51 誠仁親王第六皇子、桂宮初代
呑竜 弘治二(1556)年4月25日元和九(1623)年8月9日 68 「子育て呑竜」の異名を持つ浄土僧
中院通勝 弘治二(1556)年5月6日慶長十五(1610)年3月25日 55 通為の子、権中納言の歌人
中院通村 天正十六(1588)年1月26日承応二(1653)年2月29日 66 通勝の子、権大納言の歌人、毒殺か
中御門宣秀 文明元(1469)年8月17日享禄四(1531)年7月9日 63 宣胤の子、権大納言
西洞院時慶 天文二十一(1552)年11月5日寛永十六(1639)年12月20日 88 円空、『時慶卿記』を著した公家
二条昭実 弘治二(1556)年11月1日元和五(1619)年7月14日 64 晴良二男、従一位関白、氏長者
二条尹房 明応五(1496)年10月12日天文二十(1551)年9月1日 55 陶晴賢の乱に巻き込まれて没す
日奥 永禄八(1565)年6月8日寛永七(1630)年3月10日 66 日蓮僧、不受不施派の開祖
日辰 永正五(1508)年8月26日天正四(1576)年12月15日 69 茶人、日蓮僧、要法寺十三世
長谷川角行 天文十(1541)年1月15日正保三(1646)年6月3日 106 修験行者、富士講の開祖
幡随意 天文十一(1542)年10月15日元和元(1615)年1月5日 74 幡随院長兵衛が慕った浄土僧
芳春院 天文十六(1547)年7月9日元和三(1617)年7月16日 71 まつ、前田利家正室、父は篠原主計
堀杏庵 天正十三(1585)年5月28日寛永十九(1642)年11月20日 58 『寛永諸家系図伝』編纂に従事
本願寺教如 永禄元(1558)年9月16日慶長十九(1614)年10月5日 57 顕如長男、大谷派(東)本願寺十二世
本願寺顕如 天文十二(1543)年1月6日文禄元(1592)年11月24日 50 証如長男、本願寺十一世門跡
本願寺実如 長禄二(1458)年8月10日大永五(1525)年2月2日 68 蓮如第五子、本願寺九世門跡
本願寺准如 天正五(1577)年7月19日寛永七(1630)年11月30日 54 顕如三男、西本願寺十二世
本願寺証如 永正十三(1516)年11月20日天文二十三(1554)年8月13日 39 円如の子、本願寺十世門跡
曲直瀬道三 永正四(1507)年9月18日文禄四(1595)年1月4日 89 諱正盛、『啓迪集』を著した医者
三浦按針 永禄七(1564)年9月24日元和六(1620)年4月26日 57 William Adams、イギリス人航海士
三宅奇斎 天正八(1580)年1月1日慶安二(1649)年6月18日 70 後陽成・後水尾天皇に進講した儒者
山科言継 永正四(1507)年4月26日天正七(1579)年3月2日 73 権大納言、『言継卿記』の著者
山科言経 天文十二(1543)年7月2日慶長十六(1611)年2月27日 69 権中納言、『言経卿記』の著者
吉田兼右 永正十三(1516)年4月20日天正元(1573)年1月10日 58 清原宣賢の子、『兼右卿記』の著者
霊巌 天文二十三(1554)年4月8日寛永十八(1641)年9月1日 88 浄土僧、知恩院三十二世
蓮教 宝徳三(1451)年1月15日明応元(1492)年5月2日 42 真宗僧、仏光寺十四世

 

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戦国期の人々の誕生日1【将軍・大名・武将編】

2011-06-06 21:32:55 | 戦国ロマン
戦国期の人々の誕生日1【将軍・大名・武将編】


人物名 誕生日時 ~ 死没日時 享年 備考 
青山忠俊 天正六(1578)年2月10日寛永二十(1643)年4月15日 66 徳川秀忠近侍・家光の傅役
青山忠成 天文二十(1551)年8月6日慶長十八(1613)年2月20日 63 徳川家康家臣、播磨守
秋月種長 永禄十(1567)年8月14日慶長十九(1614)年6月13日 48 日向高鍋藩主
朝倉貞景 文明五(1473)年2月5日永正九(1512)年3月25日 40 義景祖父、鷹野への途で急死
朝倉孝景 明応二(1493)年11月22日天文十七(1548)年3月22日 56 越前国守護、義景の父
朝倉義景 天文二(1533)年9月24日天正元(1573)年8月22日 41 越前大野郡の賢松寺で自刃
浅野長晟 天正十四(1586)年1月28日寛永九(1632)年9月3日 47 浅野長政二男、広島藩主
足利義昭 天文六(1537)年11月3日慶長二(1597)年8月28日 61 室町幕府十五代将軍
足利義稙 文正元(1466)年7月30日大永三(1523)年4月9日 58 同十代将軍、阿波撫養で病歿
足利義輝 天文五(1536)年3月10日永禄八(1565)年5月19日 30 同十三代将軍、松永久秀等に殺害
足利義晴 永正八(1511)年3月5日天文十九(1550)年5月4日 40 同十二代将軍、近江穴太で病歿
足利義尚 寛正六(1465)年11月23日延徳元(1489)年3月26日 25 同九代将軍、近江鈎の陣中で病歿
尼子経久 長禄二(1458)年11月20日天文十(1541)年11月13日 84 清定嫡男、出雲月山富田城主
尼子晴久 永正十一(1514)年2月12日永禄三(1560)年12月24日 47 月山富田城内で急死
有馬豊氏 永禄十(1567)年5月3日寛永十九(1642)年閏9月30日 74 筑後国久留米藩祖
井伊直孝 天正十八(1590)年2月11日万治二(1659)年6月28日 70 直政二男、近江彦根藩主
井伊直政 永禄四(1561)年2月19日慶長七(1602)年2月1日 42 徳川四天王の一人
池田輝政 永禄七(1564)年12月29日慶長十八(1613)年1月25日 50 恒興二男、姫路宰相
伊東祐兵 永禄二(1559)年1月15日慶長五(1600)年10月11日 42 義祐の子で日向飫肥初代藩主
上杉景勝 弘治元(1555)年11月27日元和九(1623)年3月20日 69 長尾政景の子、出羽米沢藩主
上杉謙信 享禄三(1530)年1月21日天正六(1578)年3月13日 49 春日山城で倒れ急死
上井覚兼 天文十四(1545)年2月11日天正十七(1589)年6月12日 45 島津家臣で『上井覚兼日記』著者
大内義隆 永正四(1507)年11月15日天文二十(1551)年9月1日 45 陶晴賢に背かれ大寧寺で自刃
大友宗麟 享禄三(1530)年1月3日天正十五(1587)年5月23日 58 豊後津久見で病歿
小笠原貞慶 天文十五(1546)年8月12日文禄四(1595)年5月10日 50 長時三男で信濃深志城主
小笠原忠真 慶長元(1596)年2月28日寛文七(1667)年10月18日 72 秀政二男、豊前小倉藩主
小笠原長時 永正十一(1514)年10月23日天正十一(1583)年2月25日 70 蘆名氏寄寓中に会津で謀殺
小笠原秀政 永禄十二(1569)年3月21日元和元(1615)年5月7日 47 貞慶長男、大阪夏の陣で戦死
織田信長 天文三(1534)年5月12日天正十(1582)年6月2日 49 明智光秀に背かれ本能寺で自刃
小野寺義道 永禄九(1566)年8月5日正保二(1645)年11月22日 80 追放先の石見津和野で病歿
加藤清正 永禄五(1562)年6月24日慶長十六(1611)年6月24日 50 熊本城主、賤ヶ岳七本槍の一人
亀井政矩 天正十八(1590)年11月29日元和五(1619)年8月15日 30 茲矩の子、因幡鹿野城主
吉川広家 永禄四(1561)年11月1日寛永二(1625)年9月21日 65 吉川元春三男で初代岩国藩主
栗山大膳 天正十九(1591)年1月22日承応元(1652)年3月2日 62 黒田八虎利安の子、福岡藩家老
黒田長政 永禄十一(1568)年12月3日元和九(1623)年8月4日 56 官兵衛孝高の子、筑前福岡藩主
黒田孝高 天文十五(1546)年11月29日慶長九(1604)年3月20日 59 通称官兵衛号如水、秀吉の参謀
後藤又兵衛 永禄三(1560)年4月10日元和元(1615)年5月6日 56 基次、大坂の陣で道明寺にて戦死
斉藤義龍 大永七(1527)年6月10日永禄四(1561)年5月11日 35 道三長男、土岐頼芸の子とも
酒井忠勝 天正十五(1587)年6月16日寛文二(1662)年7月12日 76 忠利の子で若狭小浜城主、老中
酒井忠世 元亀三(1572)年6月5日寛永十三(1636)年3月13日 65 雅楽頭、上野厩橋城主の老中
相良義陽 天文十三(1544)年2月8日天正九(1581)年12月2日 38 肥後人吉城主、響野原合戦で戦死
相良頼房 天正二(1574)年5月4日寛永十三(1636)年6月13日 63 長毎とも、義陽の二男
佐竹義重 天文十六(1547)年2月16日慶長十七(1612)年4月19日 66 鬼義重と称された常陸の名族大名
佐竹義宣 元亀元(1570)年7月16日寛永十(1633)年1月25日 64 義重嫡男で初代久保田(秋田)藩主
佐々成政 天文五(1536)年1月15日天正十六(1588)年閏5月14日 53 肥後隈本城主、摂津法園寺で自刃
島左近 天文九(1540)年5月5日慶長五(1600)年9月15日 61 石田三成の家老、生存伝説あり
島津家久 天正四(1576)年11月7日寛永十五(1638)年2月24日 63 忠恒(義弘第三子)、天正六年生とも
島津忠長 天文二十(1551)年7月17日慶長十五(1610)年11月9日 60 尚久の子で宮之城島津氏の祖
島津忠良 明応元(1492)年9月23日永禄十一(1568)年12月13日 77 日新斎、加世田城で病歿
島津以久 天文十九(1550)年6月20日慶長十五(1610)年4月9日 61 忠将の子で日向佐土原初代藩主
島津義弘 天文四(1535)年7月23日元和五(1619)年7月21日 85 貴久二男、島津氏第十八代当主
多賀谷重経 永禄元(1558)年2月23日元和四(1618)年11月9日 61 政経の子で下総結城下妻城主
武田信玄 大永元(1521)年11月3日天正元(1573)年4月12日 53 上洛中に伊那駒場で病歿
武田信虎 明応三(1494)年1月6日天正二(1574)年3月5日 81 信玄の父、信濃で病歿
武田信吉 天正十一(1583)年9月3日慶長八(1603)年9月11日 21 家康五男、下総佐倉城主
竹中重治 天文十三(1544)年9月11日天正七(1579)年6月13日 36 羽柴秀吉の名参謀
立花道雪 永正十(1513)年3月17日天正十三(1585)年9月11日 73 戸次鑑連、大友三家老の一人
立花直次 元亀三(1572)年12月1日元和三(1617)年7月19日 46 宗茂の弟、筑後三池立花家の祖
立花宗茂 永禄十(1567)年11月18日寛永十九(1642)年11月25日 76 実父高橋紹運、義父立花道雪
伊達秀宗 天正十九(1591)年9月25日万治元(1658)年6月8日 68 政宗の庶長子で宇和島藩祖
伊達政宗 永禄十(1567)年8月3日寛永十三(1636)年5月24日 70 独眼竜の異名を持つ仙台藩祖
津軽為信 天文十九(1550)年1月1日慶長十二(1607)年12月5日 58 守信の子、奥州堀越城主
筒井定次 永禄五(1562)年5月5日元和元(1615)年3月5日 54 順慶養子、大坂内通の疑いで切腹
筒井順慶 天文十八(1549)年3月3日天正十二(1584)年8月11日 36 信長麾下の大和守護、陽舜坊
筒井順興 明応二(1493)年7月7日天文四(1535)年7月5日 43 順盛の子、良舜坊
筒井順昭 大永三(1523)年2月15日天文十九(1550)年6月20日 28 順興の子、栄舜坊、順慶の父
筒井順盛 長禄元(1457)年5月5日大永四(1524)年4月2日 68 順秀の子、明舜坊
土井利勝 天正元(1573)年3月18日正保元(1644)年7月10日 72 水野信元の子、江戸幕府大老
藤堂高虎 弘治二(1556)年1月6日寛永七(1630)年10月5日 75 築城術に秀でた伊賀・伊勢津藩祖
藤堂高吉 天正七(1579)年6月1日寛文十(1670)年7月16日 92 丹羽長秀三男、名張藤堂家の祖
徳川家康 天文十一(1542)年12月26日元和二(1616)年4月14日 75 江戸幕府初代将軍、東照大権現
徳川信康 永禄二(1559)年3月7日天正七(1579)年9月19日 21 家康長男、遠江二俣城で自害
徳川秀忠 天正七(1579)年4月7日寛永九(1632)年1月24日 54 家康三男、江戸幕府二代将軍
徳川義直 慶長五(1600)年11月28日慶安三(1650)年5月7日 51 家康九男、初代尾張藩主
豊臣秀吉 天文六(1537)年2月6日慶長三(1598)年8月18日 62 関白太政大臣、太閤、伏見城で病歿
豊臣秀頼 文禄二(1593)年8月3日元和元(1615)年5月8日 23 母淀君と共に大坂城で自刃
鍋島勝茂 天正八(1580)年10月28日明暦三(1657)年3月24日 78 直茂嫡男、化け猫騒動で知られる
鍋島直茂 天文七(1538)年3月13日元和四(1618)年6月3日 81 龍造寺氏に代わった佐賀藩祖
南部信直 天文十五(1546)年3月1日慶長四(1599)年10月5日 54 石川高信の子で南部氏二十六代
丹羽長重 元亀二(1571)年4月18日寛永十四(1637)年閏3月6日 67 長秀の子、陸奥白河城主
丹羽長秀 天文四(1535)年9月20日天正十三(1585)年4月16日 51 越前北ノ庄城で病歿、自刃説も
蜂須賀至鎮 天正十四(1586)年1月2日元和六(1620)年2月26日 35 家政の子で徳島藩主
保科正貞 天正十六(1588)年5月21日寛文元(1661)年11月1日 74 正直三男、初代上総飯野藩主
細川忠興 永禄六(1563)年11月13日正保二(1645)年12月2日 83 利休七哲の一人、妻はガラシャ
細川忠利 天正十四(1586)年11月11日寛永十八(1641)年3月17日 56 忠興三男、小倉のち熊本藩主
細川藤孝 天文三(1534)年4月22日慶長十五(1610)年8月20日 77 幽斎、戦国期屈指の文化人
前田利家 天文七(1538)年12月25日慶長四(1599)年閏3月3日 62 利昌四男、金沢藩主前田家の祖
前田利常 文禄二(1593)年11月25日万治元(1658)年10月12日 66 利家第四子(利長弟)、三代加賀藩主
前田利長 永禄五(1562)年1月12日慶長十九(1614)年5月20日 53 利家嫡男、加賀・能登・越中の国主
松井康之 天文十九(1550)年11月1日慶長十七(1612)年1月23日 63 細川家の家老、文武両道の名将
松平清康 永正八(1511)年9月7日天文四(1535)年12月5日 25 家臣安部弥七郎により殺害
松平定綱 文禄元(1592)年1月25日慶安四(1651)年12月25日 60 山城淀藩主、日光参拝中に病歿
松平忠輝 文禄元(1592)年1月4日天和三(1683)年2月22日 92 家康六男、配所の信濃諏訪で病歿
松平忠直 文禄四(1595)年6月10日慶安三(1650)年9月10日 56 結城秀康の子、越前北ノ庄城主
松平信綱 慶長元(1596)年10月30日寛文二(1662)年3月16日 67 「智恵伊豆」と称された川越藩主
松平信康 永禄二(1559)年3月6日天正七(1579)年9月15日 21 謀反の嫌疑を受け二俣城で自害
松平広忠 大永六(1526)年4月29日天文十八(1549)年3月6日 24 家臣岩松八弥により殺害
松永久通 天文十二(1543)年1月8日天正五(1577)年10月10日 35 父久秀と共に信貴山城で自刃
松前慶広 天文十七(1548)年9月3日元和二(1616)年10月12日 68 初め蠣崎氏、蝦夷松前藩主
松浦隆信 天正十九(1591)年11月29日寛永十四(1637)年5月24日 47 久信の子、肥前平戸三代藩主
水野勝成 永禄七(1564)年8月15日慶安四(1651)年3月15日 88 忠重の子、備後福山藩主
三好長慶 大永二(1522)年2月13日永禄七(1564)年7月4日 43 元長の子、摂津芥川城主
毛利輝元 天文二十二(1553)年1月22日寛永二(1625)年4月27日 73 隆元の嫡男、元就の嫡孫
毛利秀就 文禄四(1595)年10月18日慶安四(1651)年1月5日 57 輝元長男、長門萩初代藩主
毛利秀元 天正七(1579)年11月7日慶安三(1650)年閏10月3日 72 穂田元清の子、長門長府初代藩主
毛利元就 明応六(1497)年3月14日元亀二(1571)年6月14日 75 吉田郡山城で病歿
最上義光 天文十五(1546)年1月1日慶長十九(1614)年1月18日 69 奥州最上氏十一代の山形城主
山中鹿介 天文十四(1545)年8月15日天正六(1578)年7月17日 34 護送中に備後阿井の渡しで謀殺
結城晴朝 天文三(1534)年8月11日慶長十九(1614)年7月20日 81 小山高朝の三男、下総結城城主
結城秀康 天正二(1574)年2月8日慶長十二(1607)年閏4月8日 34 家康二男、越前福井藩祖
龍造寺隆信 享禄二(1529)年2月15日天正十二(1584)年3月24日 56 沖田畷合戦で川上左京に討たれる
脇坂安元 天正十二(1584)年3月4日承応二(1653)年12月3日 70 安治の子、伊予大洲藩主

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2011-06-06 21:27:32 | 足軽の階級
大垣城の戦い
~福原長堯の関ヶ原~
石田三成は九月十四日夜、大垣城から関ヶ原へと向かいます。間もなく東軍が攻め寄せますが、留守を務めた福原長堯らはよく防戦に務め、城を守ります。しかし、その後に思わぬ結末が・・・。


両軍、関ヶ原へ

  写真は家康の本陣から見た大垣城方向の様子である。さて東軍方はというと、多少の兵を損じはしたが、さして気にはかけてはいなかった。一説に、家康は敵情偵察をさせた上で軍議を開き、大垣城へは多少の兵を押さえとして残し、主力は明朝佐和山攻めに向かい、引き続き大坂へ進むことを決定したという。家康は元来野戦は得意だが攻城戦は不得手といわれ、もし敵勢が大垣城に籠もると、たとえ勝てたにせよ相応の犠牲は払わねばならず、何より時間がかかりすぎるのである。もし膠着状態になっている間に大坂の毛利輝元が秀頼を担いで参陣するようなことになれば、東軍に参加している豊臣恩顧の武将の動向はどうなるかわからないという不安があった。そこで家康は野戦に持ち込もうと謀り、この情報を大垣城に聞こえるように流したというのである。

 家康が野戦に持ち込みたかった他の理由として、かねてからの調略(内応させること)が進んでいたこともあるかもしれない。家康は九月十四日のこの時点までに、小早川秀秋・脇坂安治らの内応に確かな手応えを感じていた。小身の脇坂はともかく、秀秋は一万五千余の大兵力を持っている。彼はこの日までに黒田長政のもとへ人質を送り内応を約束していたが、家康はさらにこの日に念を押した。井伊直政・本多忠勝の名において、上方で二カ国を宛う旨の誓書を、秀秋の家老平岡頼勝・稲葉正成に送っているのである。もちろん三成方も負けてはおらず、一説に秀秋には秀頼成人までの関白職と播磨一国の加増、両家老には十万石の所領と黄金三百枚という破格の条件を提示したという。

 西軍は連日の敗報続きの中、この日は島左近らの働きにより、ささやかながらも初めて一矢を報いて士気を高め、三成らは大垣城で軍議を開いた。島津惟新は斥候に出していた押川公近から「東軍は長旅で疲れている模様」との報告を受け、絶好の夜襲の機会と甥の豊久を通じて三成に献策した。しかし、結局この策は採用されず、豊久は無言で帰陣する。宇喜多秀家は毛利輝元の出馬を待った上での決戦を主張、これに賛同する将もあったが、三成は煮え切らず時間だけが経過していった。
 『浮田秀家記』によると、この時東軍の中で事前に三成に通じていた宮部兵部(長熙・ながひろ)が、事が露見しそうになったため赤坂から脱走して大垣城に逃げ込み、前述の家康の計画を伝えたとし、これを聞いた三成は、急遽軍議をやり直して関ヶ原へ進出を決めたとある。原文は以下の通りである。
 「関東ノ御談合ニハ大垣ヲバ人数ヲ以テ押ヘ付治部ガ居城ヲ始メ上方勢■■ヲ攻メ京都ニ直ニ御登リ可有之ニ相極リケルヲ宮部具ニ咄シケル故治部大ニ了見違ヒ(以下略)

 これが事実とすれば、家康が故意に宮部長熙を大垣へ走らせた可能性も考えられるが、旧参謀本部編『日本戦史 関ヶ原役』には、後の佐和山城攻めの際の水之手口の部署に田中吉政とともに彼の名が見えるので、この時点で彼が西軍に走ったとは考えにくい。ところで宮部長熙の行動は今ひとつはっきりしておらず、伏見・大津城攻めにも彼の名が見えることから混乱する。しかしこれには少々複雑な事情があるようだ。長熙は家康に従って会津征伐に赴くが、小山で反転して西上中に家臣団が分裂、因幡若桜城主木下重賢・浦住城主垣屋光成ら与力衆が配下の兵ごと脱走し、大坂に走って西軍に投じるという事態が起こる。したがって『家忠日記』には伏見・大津城攻めに長熙の名が見えるようだが、参加したのは木下・垣屋であり彼自身は参加していないのである。ただ長熙も西軍に加担したかったらしく、これを田中吉政に止められ渋々東軍に参加していたようだ。一説に彼の態度に愛想を尽かした家老等が井伊・本多の陣へ赴き、主君が乱心したので別の大将の下で働きたいと申し出たため、友田左近右衛門ら多くの家人が藤堂高虎の隊に組み入れられるという一幕があったという。
 事の真偽はともあれ、こういう話が伝わったこと自体、家康が三成を城外に出したかったことの裏返しとも取れる。
 このあたりには色々な説があり、近年「家康の西軍おびき出し説」は後の西軍の奮闘ぶりなどから否定されつつある。つまり西軍の関ヶ原移動は、家康の謀略ではなく三成らの自発的行動だったというわけである。決定的な新根拠があるわけではないが、少しだけ考えてみた。

 家康にとって一番困ることは「時間の浪費」であろう。前述の通り、もたもたしていると毛利輝元が秀頼を擁して出馬してこないとも限らず、また事実そうなってしまってはたとえ秀忠軍と合流できたとしても、家康にとって困るのである。実際家康は、竹中重門が自分の居城・菩提山城への移動を提案すると、これを良しとしてその準備を命じているようだ。実現こそしなかったが、これはやはり西軍を大垣城から引きずり出すための一方策(この場合、戦場は青野ヶ原一帯を想定か)であった公算が大きい。ただ、家康としては一日も早く西軍を大垣城外に、というほどせっぱ詰まっていたわけではなく、とりあえずは秀忠との合流を果たしてからと考えていたのであろう。
 ところが、三成にとっては小早川・毛利の動向が何より気がかりであり、『慶長記』にも「此時備前中納言殿・小西摂津守・石田治部少輔、大柿を出て関原へまいられ候由。子細は筑前中納言殿むほんと風聞候。仕置いたすべきとて出られ候由」とあるように、この時点で小早川の挙動はすでに傍目(大谷吉継)からもはっきり不審であり、これは一日も早く対処する必要があった。大軍を擁する小早川秀秋への対策を確実なものにしておかないと、万一の際には大変なことになるのである(実際にはその「万一」が起こってしまうのだが)。従って三成は大垣城にいると大谷吉継との連絡や小早川への対応などに何かと不便で、それは吉継にもよく解っていたと思われ、おそらく吉継が三成等を呼び寄せたのであろう。
 さらに、大垣城の西にある長松城に入っていた東軍方一柳直盛が、変装した西軍方の八人の諜者を捕らえて処刑した旨の記録が残されていることも注目に値しよう(『一柳家記』)。詳細は省くが、諜報戦において西軍方は東軍方に遠く及ばず、三成や吉継も薄々これに感づいていたのではないだろうか。だから西軍は関ヶ原で一丸となって東軍に当たろうとし、もはやそれは出来る限り一日でも早い方が良かった。そして、それを行動に移した日がたまたま九月十四日夜だったのである。

 話を赤坂の家康に戻してまとめる。つまり家康は西軍に探りを入れた。「佐和山進撃」という「虚報」を流すことによって西軍方がどう動くか見極めようとしたのである。動けば良し、動かずば次の手を、といったところであろう。家康は真田信之に大垣城を水攻め云々と九月一日付の書状で伝えているが、これは西軍方に探知される事を見越した上で書いたものではないだろうか。現地に行って地形を見るとわかるが、大垣城の水攻めなど事実上手間暇が掛かりすぎて不可能に近い。確かに大垣城は低湿地帯にあるため、足場を悪くする程度のことは出来るだろう。しかし秀吉の備中高松城攻めなどと同じように「水没」させることなどまず不可能で、そんなことをしようものなら莫大な時間と労力が掛かってしまうのである。
 そこで、家康は三成に下駄を預けた。もし三成が動けば西軍方の体制(布陣)が整わないうちに追撃して打撃を与える。布陣の定まっていない軍勢や移動中の軍勢はたやすく討てるからである。また三成等が動かなければ、菩提山城に移った後に相手の出方を見ようとしたのかもしれない。

 そして、三成は家康の真意を知ってか知らずか、注文通りの行動を起こした。しかしこれは家康に「はめられた」わけではない。上記の通り、三成には三成の事情があり、一日も早い対処を迫られたからである。そこで西軍勢は大垣城守備として本丸に福原長堯・熊谷直盛、二の丸に垣見家純・木村勝正・同豊統・相良頼房(長毎)、三の丸に秋月種長・高橋元種ら七千五百(実数は四千八百ともいう)の兵を残し、折から降りしきる雨の中、関ヶ原へと午後七時頃に大垣城を後にした。
 家康は三成を大垣城から退去させたく、三成は自軍の連繋上関ヶ原に移動するのがベターと判断した。移動に当たっては、なるべくなら敵方に探知されにくい雨の夜が良い。十四日夜はまさに打ってつけであり、三成は意を決して移動したのである。家康はこれをキャッチして直ちに深夜関ヶ原へと向かうが、いざ翌朝深い霧が晴れてみると、西軍は既に迎撃体勢を整えていた。


大垣城の戦い

  大垣城(=写真)は大垣市郭町(JR大垣駅の南約500m)にあり、現在は郷土資料館として利用されている。赤坂との距離は約一里である。
 家康は堀尾忠氏・中村一栄・西尾光教・水野勝成ら約一万一千を大垣城の押さえとして残し、残りの兵はそれぞれ部署を定めて佐和山(関ヶ原)へと向かわせた。左翼東山道筋の先鋒は福島正則で、以下藤堂・京極・寺沢らの計一万五千。右翼中山道筋の先鋒は黒田長政・竹中重門で、以下細川・加藤・田中らの計一万六千。松平・井伊勢六千は中堅、筒井・生駒らの九千は後詰となった。また浅野勢は垂井と野上の間にある一里塚に、池田勢は垂井付近の御所野にそれぞれ布陣して南宮山方面の敵に備え、中村・有馬勢は予備軍として野上付近に布陣し、これも主として南宮山の敵に備えたが、この方面の兵は計一万七千である。そして家康自身は三万の兵を率いて最後に関ヶ原へと進む。軍監は本多忠勝である。
 三成らが出陣して間もない十五日早暁、水野・西尾・松平(康長)・津軽(為信)勢が大垣城へ攻め寄せた。その様子が『改正三河後風土記』にこう書かれている(要約のみ)

 西尾光教が真っ先に東大手に攻めかかった。城兵は城内に引き取って門を閉じる。そこへ水野兄弟が駆けつけ、西尾勢とともに門を破り、三の丸へ突入した。城兵も必死に防戦に務め、水野勝成は自ら鎗を振り回して暴れ回る。東軍勢はやがて三の丸を攻め落とし、町屋を焼き払った後に関ヶ原にいる家康へ報告した。家康はちょうど合戦の最中だったが、これらの将の戦功を讃えた上で、「三成らが敗れた上は、大垣は攻めずとも落ちる。焦って火急に攻めかかれば味方の戦傷も多いだろうから、ただ遠巻きにして陣を張るように」との命令を伝えた。

 さて、関ヶ原ではこの日の昼過ぎ、早々に大勢は決してしまう。こちらは大垣城の留守勢であるが、西軍の敗報をそれとなく知り当然動揺し始めた。水野勝成はたまたま秋月種長と知り合いだったので、城将を暗殺して内応の実を示すならば旧領安堵の労をとろうと伝えたところ、秋月は相良・高橋らに計り「我々は行きがかり上仕方なく石田三成に応じたが、今は後悔している。もし罪を許されるなら、主将福原を始め垣見・熊谷・木村らを悉く誅殺してその証とする」という旨の返書を直ちに認め、内応を承諾した。これを受けた水野・松平康長は早速家康のもとへ知らせ、「康長・勝成両人の判断でよきに計らえ」という返答を得てこれを城内の三将に伝えた。そして、三将は行動を起こした。

 翌十八日、相良ら三将は「軍議」という名目で福原・熊谷らを三の丸に招いた。福原は何か怪しく感じたかして来なかったが、やって来た熊谷・垣見・木村父子はすべて秋月らの手によって殺され、三の丸と二の丸の門が開けられた。同時に水野・松平勢が城内になだれ込み、内応勢とともに激しく本丸に攻めかかる。福原は必死の防戦をして持ちこたえるが、その夜三成の郎党日野七郎左衛門が関ヶ原から逃げてきて城内に入り、敗戦の顛末と三成ら諸将が行方不明になっていることを伝えた。これを聞いた城兵等は力を落とし、一人減り二人減りして、わずかに雑兵ら二、三十人のみを残すだけの有様となってしまった。
 この状況を見て西尾光教は本丸内へ矢文を射込み、福原に降伏を勧告した。ここに至ってはさすがの福原もどうすることもできず、ついに意を決して城兵助命の誓書をもらえるならば開城しようと返答した。西尾はこれを約したため福原は剃髪して道蘊と改名し、城外へ出て伊勢朝熊(あさま)山へと向かった。九月二十三日のことであった。ここに美濃国内における「関ヶ原」関連の主立った戦いは終息する。福原はその後伊勢朝熊山で赦免の沙汰を待つが、三成の義弟ということもあって家康は遂にこれを許さず、彼は十月二日(日時は異説あり)に自害した。同地永松寺(現伊勢市朝熊町)には彼の墓があるという。

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2011-06-06 21:09:55 | 足軽の階級

杭瀬川の戦い
~島左近の関ヶ原~


いわゆる「決戦」前日の九月十四日、東軍の総帥・徳川家康が赤坂に着陣しました。石田三成の家老島左近は、一策を秘めて蒲生郷舎・明石全登らと東軍へ小戦を挑みます。  



家康、赤坂へ着陣

  左の写真は大垣城(現大垣市郭町)の天守閣から美濃赤坂方向を望んだものである。赤坂は大垣城の北西約一里(4km)の地にあり、九月十四日までに東軍諸将がすでに集結していた。
 さて家康はというと、八月二十八日に江戸にいた家康のもとに河渡川の戦いの捷報が届き、頃はよしと九月一日に出陣することが決まった。家康は弟の松平康元・五男の武田信吉らを江戸城の留守に残し、同日三万二千七百余の兵を率いて江戸を出陣した。家康本隊はこの後、神奈川・藤沢・小田原・三島・清見寺・島田・中泉・白須賀・岡崎・熱田と泊を重ね、十一日に清洲城に到着した。
 さらに十三日には岐阜城へ入り、その日の夜のうちに馬印・旗・幟と銃隊・使番などを密かに赤坂へ向かわせ、自身は翌十四日夜明け前に岐阜を出陣、稲葉貞通・加藤貞泰らの案内で長良川を越え、神戸・池尻を経て正午前に赤坂に着陣した。

  この家康の赤坂本陣は当時岡山と呼ばれたが、関ヶ原合戦の後に勝利を記念して「勝山」と改称され、現在に至っている。場所はJR美濃赤坂駅の南西300m程のところにある小高い丘で、現在では頂上部分に「史蹟 関ヶ原合戦岡山本陣址」の碑が建っているのみ(=写真右)である。
 これにより、赤坂に勢揃いした東軍勢の陣所を家康の本陣から見てみると、以下の通りである。なお、各武将の陣所記述は『関原合戦図志』(神谷道一著 小林新兵衛発行)より引用した。

徳川家康:岡山(勝山)
筒井定次:大久保

杭瀬川の戦い

 九月十四日正午頃、西軍の斥候が大垣城へ駆け戻ってきた。東軍の赤坂本陣のそこかしこに白旗が翻って俄に活気を呈し、幟の数なども一気に増えたので、家康が着陣したのではないかという報である。これを聞いた西軍方の兵は少なからず動揺し、浮き足だった様相を呈し始めた。そこで三成の家老島左近や蒲生郷舎らは「家康は上杉景勝と戦っているはずなので、こんなに早く着陣する事はあり得ない。白旗は金森法印(長近)のものである」と触れ、兵たちの動揺を鎮めようとした。しかし三成は宇喜多秀家・小西行長とはかり、改めて偵察をさせたところ、家康の持筒頭・渡辺半蔵の姿を認めたことから家康の着陣は事実であると報告されたので、兵たちは一層動揺の色を濃くしていった。
 左近はこれ以上動揺が広がるとまずいと考え、「もはやこの動揺を鎮めるには、まず一戦におよんでこちらの戦力を示す他ありますまい。敵を誘い出して攻め、状況を打診してみてもよいのでは」と三成に献策、了承を得た。そこで左近は蒲生郷舎とともに五百の兵を率いて大垣城を出陣、宇喜多秀家は明石全登・本多但馬らに八百の兵を与えて後陣に備えさせた。

  左近は一隊を笠木村付近の草むらに隠しておき、自身は池尻口から杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊の前で刈田をして敵を誘った。なお、中村隊は本来は駿河府中城主の式部少輔一氏が出陣するところだったが、七月十七日に病没したため、代わって弟の一栄が指揮をとり参陣していた。
 左の写真は杭瀬川の左近が渡ったのではないかと思われる場所(推定)で、対岸から少し行ったところに中村隊、その左手(南側)に有馬玄蕃頭豊氏隊が布陣していた。中央遠方に小高く見える丘が家康の本陣岡山(現勝山)である。

 さて、陣前で刈田をされた中村隊は面白かろう筈もなく、「人もなげな振る舞い」とばかりに柵から一人の兵が飛び出して左近方の三人の兵を撃ち殺した。これに応戦して左近方もこの中村兵を射殺すると、柵内から中村一栄の家老・野一色頼母(たのも)助義が薮内匠とともに出撃してきた。左近は暫く応戦し、頼母らの猛攻撃を支えきれずと見せて川を渡り退却する。むろん、計略である。そして頼母らは勢いに乗じて川を渡って追撃してきた。
 ここで伏兵が草むらから現れて中村勢の退路を断ち、さらに敗走と見せかけた兵も急に反転して挟撃、乱戦となった。そして野一色頼母は乱戦中に戦死してしまう。中村隊の苦戦を見た有馬豊氏は、急ぎ救援に向かうべく柵を越えて出陣、迎え撃った左近・蒲生勢と激戦を展開した。乱戦の中、有馬隊の稲次右近は蒲生郷舎の士横山監物を討ち取るなど力戦するが、そのとき迂回してきた明石全登隊から集中射撃を浴びせられ、これまた苦戦に陥ってしまう。この一部始終を岡山から望見していた家康は、優勢だった初めのうち(左近の計略だが)は褒め称えるなど上機嫌であったが、左近の計略に見事にはめられたことを知ると機嫌を損じ、「大事の前に、かかる小戦をなし、兵を損じるとは何事ぞ」と怒り、井伊直政・本多忠勝に命じて兵を撤収させた。

  中村勢の指揮官で家老職を務める野一色頼母助義は近江野一色村の出身で、中村家中で八千石を領していた人物である。この日の出で立ちは「金の三幣の指物に馬印は鳥毛の二ツ団子」という颯爽たるものであったという。しかし、頼母は乱戦の中、深田に足を取られたところを宇喜多家中の浅賀三左衛門(浅香左馬助)に組みつかれ、ついに討ち取られた。後れて追いついた家臣の奮闘によってその首は敵(左近方)に渡さずに済み、赤坂の西麓に葬られたという(注①)。写真は彼の鎧兜が埋められたと伝えられる通称「かぶと塚」で、大垣市赤坂西町の旧中山道沿いのJR昼飯貨物線踏切東側にあり、御覧のように立派な碑が建てられている。
【注①】一説に、石田方海北市右衛門の鉄砲に撃たれ落命したともいう。

 目的を果たした左近は、強いて深追いはせずに軍を撤収させた。殿軍は三成の士・林半助と宇喜多の士・稲葉助之允が見事に務め、これを見ていた家康は「敵ながら天晴れ見事な働きぶり」と称賛したという。これが小戦ながら西軍の唯一の勝ち戦となった「杭瀬川の戦い」である。三成は牛屋村遮那院の門前(現大垣市本町・近年まで「首実検橋」があったという)にて挙げた敵の首実験を行い、一時的ではあったが、西軍は大いに士気を高めた。古記録にこうある。

「大垣方よき首三十二取り、また雑兵首は石田の手へ八十四、浮田の手へ六十四取りたり、これを杭瀬川の戦という云々」