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<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

2011-06-24 22:31:09 | 桶狭間の真実やいかに

<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

  1. 谷口克広氏、『信長の天下布武への道』『織田信長合戦全録』  (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)
  2. 桐野作人氏、『信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ/歴史読本』   (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加) 
  3. 藤原京氏、『時代劇のウソ?ホント?』    (初出 2008.07.13) 
  4. 別動隊説を検証する………橋場日月氏、『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』『伊勢湾制圧・今川帝国の野望/歴史群像』    (初出 2007.12.18)   
  5. 服部徹氏、『大高と桶狭間の合戦』『信長四七〇日の闘い』    初出 2008.12.14 「伊勢湾海運と水軍」に移動。 2009.11.20 別章を立てました)
  6. 鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

 

 

 

 

 

 

 

(1)谷口克広氏の桶狭間    (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)

(2)桐野作人氏の桶狭間        (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加) 

さて、『歴史読本』8月号に桐野作人氏の桶狭間の戦いに対する考え方が示されました。というよりも、新たな可能性も提示されただけのようでして、結論は保留されているようですが、これまでの谷口氏の説とは異なっておられるようでして、藤本氏や谷口氏の提案には一切触れられておられず、かなり藤井尚夫氏の説に近いものになったようです。また、朝比奈勢や服部勢の行方などには一切触れられていないのはとても残念です。

桐野氏は、方角問題を乗り越えるために、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」とされますが、果たしてそのようなことは可能なのかを検証してみます。

註:方角問題とは、中島砦から桶狭間村は東南に位置するため、信長が桶狭間で東に向かって攻めかかるには、どこかで南に行軍しているか、それとは反対に、義元の方が本陣を北方に移動させていなければならないはずだという疑問のことです。

まず、沓掛から桶狭間に義元が向うにあたってどの道を通ったかを考えますと、桐野氏はこの問題には一切触れられてはおられませんが、大脇から大高道を通ったことに間違いはないことだと考えるべきだと思います。何故なら、当時の東海道から桶狭間村に入るには、いったん鎌研あたりまでいって、長坂を上り高根と幕山の間の峠を通る鳴海~桶狭間道を行くしか街道はなく、非常に遠回りになるからです。それにまた、東海道には人家もなく、せっかく塗輿に乗っても義元は人々に示威することができないからです。近世から見られる間米~館を経て桶狭間へ抜ける道なども当時はなく、軍隊が行軍するには適当であるとは思われないこともあります。

と云うことは、義元が大高城に入城するのが目的である限り、当日が熱暑であることを考え併せると、東海道を行軍していながら、わざわざ鎌研から桶狭間山に戻ってまで休息するということは考えられない無駄な行程を採ったことになるわけです。また、疎林とはいえ道のない場所を行軍したものとも考えられません。それに、引き連れた小荷駄を大高城に先行させて入れておくことが安全なはずなのですが、そのような処置もとっていません。これは漆山に着陣した場合でも同様です。………義元が中島砦を攻めたうえで鳴海城を救援しようとしたという伝承もまた殆どないのです。これが第一点の説明されるべき疑問です。

漆山義元本陣説には大きな弱点が二つあります。

一つは、義元勢が桶狭間山から東海道を漆山に上りますと、有松の狭間を抜けてからは善照寺の織田勢にその姿を暴露するわけですから、織田軍は信長だけでなく大勢の将兵が諜報や偵察などによらずとも、義元の軍勢をつぶさに観察して具体的にその数さえも勘定できたことになるわけです。と云うことは、信長がその手兵を前に演説した内容は完全に嘘であることを部下に見抜かれていたことになります。信長がいかに駿河勢が労兵であると演説しようと騙されるわけがありません。………逆に言いますと、これは、それだけ信長一党が熱狂の極みにあったことになるわけでして、善照寺砦や中島砦で信長の出撃を諌止した極少数のものだけが正気を保っていたことになるわけでもあります。ですから、信長のカリスマ性を示す格好の事例になるわけですが、牛一の『信長公記』では信長麾下の将兵が熱狂して敵勢に向かっていったというような記事をのせてはいません。将兵が熱狂したのは略奪に出かけるときだけだったのではないのでしょうか?天理本では熱狂して(?)熱田・山崎からついてきた人々は、駿河勢の威容をみて正気に戻って退き上げてしまったと記しているのです。ですから、これが説明されるべき第二の疑問で、信長のカリスマが疑われるところです。

二つ目の弱点は、『信長公記』が「信長は、先ず丹下砦へ行き、善照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。信長の参陣と同時に佐々らは出撃した。その後、午刻に至って昼食をとり、謡をした。」という時間経過を記すからです。

………これは、歴史読本8月号で桐野作人氏が、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」といわれることは、全くの誤りであることを指摘することになります。午刻には義元は桶狭間山にいる必要があるからです。

なぜなら、『信長公記』は、信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。そしてその信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したとなるからです。その後、義元は漆山に陣を進め、午刻に至って敵前の漆山で昼食をとり、謡をしたと読まなければなりません。

これでは、明らかに拙いので、「信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。義元も信長参陣を知って急遽漆山に陣を移すべく前進を開始した。同時に、信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したが、それを義元が見たのは高根以西の高地からであったとし、その後義元は引き続き前進して漆山に陣を進め、午刻に至って漆山で昼食をとり謡をした」としなければなりません。

ということで、そのように解釈した場合の行程的な問題だけを考えてみます。

義元が午刻に漆山本陣で昼食をとり、謡をするには、桶狭間からの約3kmという距離から考えて45分程かかったものと思われますから、午前11時15分には桶狭間山を出立していなければなりません。その場合、義元が佐々・千秋らとの前哨戦を観戦できる高所を探しますと、高根と幕山およびその峠と長坂を行軍中であることなどが考えられます。そして、高根は桶狭間山から約1km先になりますから、15分前の午前11時30分には高根にいなければなりません。

また、信長の方は、桶狭間山の義元に参陣を見られたのが午前十一時十五分なのですから、 熱田~善照寺間一里25町余の7kmを時速9kmで駆けたとしますと約50分かかりますから、午前10時25分という遅い時刻まで熱田で将兵の着到を待っていたことになります。

佐々らが信長の善照寺参陣を見てから中島砦(天理本)を出撃しているのですから、その場合には、丸根は別にしても鷲津砦の攻略には午前十時以降までかかった可能性があり、松平元康の率いる松平勢が丸根攻略後に鷲津攻めにも転戦し、朝比奈勢は鷲津砦の戦後処理にかかりっきりで、桶狭間合戦には間に合わなかったということもできそうですから、「鷲津砦に朝比奈勢がいる」という難問をクリアーすることができます。

逆に、信長が午前10時頃に善照寺砦に参陣していたとしたならば、義元もその頃には桶狭間山から高根以西を行軍中でなければならないのですから、義元の本来の目的は信長が出現しようがしまいが大高城に行く予定であったと考えられます。すると何のために桶狭間山で人馬を休息させる必要があったのかが再び問題になります。昼食をとるには早すぎる時刻であり、正午には大高城に入城していられるからです。なぜ義元はそうしなかったのでしょうか?………たぶん、桶狭間山で信長参陣を知ったからだという本末転倒な説明を漆山に本陣を布いた理由にされることが考えられますが、桶狭間山に寄り道した理由は依然として謎のままですから、これも説明を要します。

さて、桶狭間山にいた義元が午前10時頃に信長の参陣を知って、急遽本陣を約1km先の高根まで進めたところで前哨戦を見たとしたならば、これには15分かかりますから義元の先備えは約840m先の戌亥にあたる鎌研のあたりで織田勢を迎え撃つことが考えられます。その場合に佐々らは1.4kmを山際(鎌研あたり)まで行ったとしますと25分ほどかかりますから、義元が高根に到着した十分後に両勢は合戦を開始した可能性があります。これは午前10時25分になりますが、戦闘時間は五分程度で勝敗は明らかになり、その後は追撃戦になったものと看做すことにします。この趨勢をみて義元が陣を進めたとしますと、約1km先の漆山に到着できるのは15分後の午前10時45分頃になります。義元は正午に昼食をとっていますから、その後の1時間15分で全軍を漆山に収容して布陣を完了したと看做すことができます。これは後続が行軍中に襲撃されることを許すわけにいかないからです。

この行程から義元の直卒兵力を推定しますと、1時間15分で行軍できる距離の5kmにどれだけの兵士がいたかという問題なるわけですが、騎兵一割を含んだ一時間当りの兵数は4,208人でしたから5,260人と先備えの兵力1,000人を加えて、6,000人強の兵力と算定します。これは微妙な兵力です。信長の率いたのは2,000人といいますから約三倍なのですが、信長の場合には小荷駄などを伴わなかったと考えられるからです。

そして、信長とその兵士の大部分は熱狂的に攻撃に移り、少数の冷静な武将はこれを諌止しようとし、熱田・山崎から浮かれて付いてきた町人らは、熱から冷めて急遽引き返したことになるわけです。果たして、信長軍の中核になった小姓・馬廻などの集団はそのような熱狂的な集団であったと言えるでしょうか?

………これは、結構いえるようにも思えますので、これも信長のカリスマ性の一例にされそうです。しかし、それにしては『信長公記』は「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども」と書いたり、「右の衆、手々に(敵の)首を取り持ち参られ候。 (信長は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、」と書き、信長に反対する情景は書きますが、信長を熱狂的に支持する将兵の姿は書かず、進撃の実態も緩々と前進しているように思えて、熱狂性は感じられません。

ところで、朝日出~漆山は約2kmありますから、信長勢二千人が漆山の山際に展開するには45分ほど要します。ですから、昼食と謡に30分を見積もりますと、風雨の始まりは午後1時15分ということになり、降雨時間は45分と考えることができます。そうしますと、桐野氏の説も行程的にはと限定すれば、有り得る想定であるということができます。

但し、桐野氏自身も認めておられますが、『信長公記』や『三河物語』という史料に矛盾する点が多々あります。

  1. 取敢えず鷲津山の朝比奈勢は考慮しなくてよいことは先に述べましたが、服部党一千艘(二十艘?)が遊弋していた問題があります。彼らはなぜ信長の背後を衝かなかったのでしょうか? ……… これは、天理本に「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。」とあることがポイントになります。この文章では、織田軍の劣勢を見て帰ったということだけなのですが、大高河口に遊弋していた服部勢をも見たからだとも思われるからです。この熱田住民らは熱田を襲った服部党を撃退しているのです。そのため、この事からもう一つ分かることは、服部勢が熱田を襲った時刻です。「真説・桶狭間の戦い」章から推定しますと、熱田からの兵一千が到着を終るのは午前10時50分ですから、町民らが取って返したとしますと約1時間30分後には帰れますから、服部勢が熱田を襲ったのは正午半頃であったろうということになります。これは、大高河口~熱田湊の海上6kmとしますと、約1時間弱の航行ですから午前11時半頃には大高河口を離れたことになります。せっかく参陣していながら義元にも会わずに、です。
  2. なぜ兵力に優今川勢は中島砦を出ようとする信長の出鼻を叩かず、山際に信長勢が兵の展開を完了するまで待っていたのでしょうか?義元は信長参陣を知って漆山に本陣を進めたという想定なのですから、戦う意欲は十分にあったはずなのです。 ……… 当時の漆山と中島砦の間は、水田が広がっていたのではないのでしょうか?その場合には、水田の中の一本道を信長軍は進撃しており、山際に至って駿河勢の西方に展開するまでは、両軍とも互いに攻撃できないことになりますから、説明は可能ですが、今度は逆に義元の意図が疑われます。それとも原野と看做すのでしょうか。
  3. 漆山山麓から見える沓掛の峠とは何処をさすのでしょうか?
  4. 現在にいたっても所在の知れない「おけはざまやま」にさえ名前をつけた牛一が、なぜ漆山については名前をあげなかったのでしょうか?
  5. 『三河物語』に山上にいた「駿河勢が我先に退いた」とある記述を、桐野氏説では説明できません。これが先備えであったならば、背後の義元は何をしていたというのでしょうか。これは降雨前のことです。
  6. 根強くある信長迂回説を説明することもできません。なぜ、このような説が生まれたのでしょうか?迂回も何も全くできなくなる位置関係になります。
  7. 黒田氏によって唱えられた『甲陽軍鑑』の記載による「どさくさ紛れ」説も説明できません。紛れようもないストーリーの展開だからです。すると、この『三河物語』にも矛盾するような情報を信玄はどこから仕入れたのでしょうか?
  8. その他、多くの軍記物の記事を説明できません。

(2010.05.06 挿入) 『歴史街道2010.06』での桐野氏は、『信長公記』に「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、五月十九日、午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」とあるのを誤読されて、「今川軍は桶狭間山で休息したのち、戌亥の方角に向かって軍勢を進めた」と解釈される。この恣意的操作により、信長と義元との距離はぐっと縮まり、両雄が近世東海道上において東西の位置関係で遭遇する可能性を高くすることができる様にはなる。しかし、原文をどう読んでも、義元は桶狭間山で休息していたのであって、そこから自陣を動かしたと読むことはできない。義元が動かしたのは、当然の軍事行動であるが、休息する本陣を守るために「一手(備)」を敵のいる方角(善照寺・中島砦方面)へ張り出して布陣させたという、極々常識的な行動をしたに過ぎないだろう。これ以外に解釈のしようがないのは、時間の経過を見れば分かりそうなものだ。義元は午の刻には、佐々・千秋らとの前哨戦を観戦したうえに、謡を三番も謡って悠然としていたのである。その義元が64.9mの山から下りて東海道上に出るには一体どれほどの時間がかかるだろうか。信長が義元の旗本を発見して突入するのは未の刻であったのだ。そして、『天理本』には「戌亥に向て段々に人数を備」たとあるのだから、とてつもない時間がかかっただろう。まず、義元は前がつかえていて山を下りられなかっただろうし、信長は東海道に充満する駿河勢に道を塞がれて、義元の許に辿り着くことなどできなかったはずなのである。これらのことから、桐野氏のいわれる方角問題は、問題以前の問題というしかない。  <余談だが、氏は、桶狭間山を「石塚山」と態々記載されている。これは64.9m山頂から200m東にあたる現在の南舘付近のことである。そして、『豊明市史p576』には「石塚山は義元の本陣跡とも墓所とも伝えられている。正確な場所は不明だが、・・・(豊明市)古戦場公園の南約500mの丘陵付近(現在のホシザキ電機付近)に該当すると考えられている。」との説明があるにはあるが、見通しはまるで利かない山中である。同関連史料も資料編補一第六節にあるにはあるが、検証する気にもならない。………因みに、この64.9m山付近の地名は目まぐるしく変転している。1976~80年の地形図では、この山の北が舘北、この山の辺りが舘、その西が舘中、南が舘南と表記されている。それが、1984~89年の地形図では北舘が南舘に変わり、その他の地名は消えている。1968~73年の地形図では南舘が舘と表示されているだけであり、1959~60年以前の地形図(昭和37年発行)には地名表記すらないのである。桐野氏がなぜこのような地名を態々持ち出すのか気が知れない。

       

(3)藤原京氏の桶狭間   (初出 2008.07.13) 

『時代劇のウソ?ホント?』での氏の仮説はかなりユニークです。

その要点は義元軍は陣城を構築中であって、それが完成する前の隙を速攻した信長に衝かれために敗れたというものです。そのために、信長は第一波の攻撃を千秋・佐々ら三百人に行わせ、第二波には前田犬千代が参加しており、自らは第三波となって義元本陣に殺到したというのです。そして、その背後には柴田勝家らの部隊が控えていたとしています。

このような説を唱える理由について、氏は自ら説明して、現在忘れ去られた戦国時代の常識の一つとして、「城は攻めても落ちないもの」というものがあるとされています。そのため、鳴海城・大高城を攻囲し、駿河勢籠城策をとったために必然的に駿河勢による後詰が行われたことにより生起したされており、信長は桶狭間山に着陣した駿河勢が未だ陣城を構築できないでいたその隙をついたのだとされるわけです。そして、反面教師として長篠合戦での信長・家康連合軍による野戦築城を例に出されます。………義元は、本当に桶狭間山に陣城を築こうとしていたのでしょうか?一体、何の目的で?

陣城構築中であったということには否定的な情報が多々あります。

  1. 氏は、桶狭間山が鳴海城に後詰するには、大軍を広く展開できる理想的な陣城構築場所だとされていますが、桶狭間山からは予定戦場になると考えられる中島砦付近が見通せませんし、そこは小規模な丘陵が複雑に入り組んでおり、とても大軍を駐留させる場所ではありません。これは孫呉の兵法を齧った武将ならば絶対にしなかったと思われる陣取りです。そして、今川義元は僧として一生を終えるつもりで京の妙心寺で修行に励んでいたのです。………黒末川の南から攻めたいのならば、二村山辺りを選定するのが常識ではないのでしょうか。沓掛城から鎌倉海道を使って、善照寺砦を落とすのが兵法の常道ではないのでしょうか?それを何故、態々、黒末川が天然の堀をなしている南方から攻めなくてはならないのでしょう。
  2. 最も間近な桶狭間村の村民たちには、陣夫役として築城に駆り出されたという伝承はなさそうです。何故なら、地元住民には戦闘に巻き込まれて死傷したという悲惨な伝承が皆無だからです。死んだのは今川方の将兵ばかりなのです。………地元の郷土史家は、村民たちはセド山の上から恐々として戦いの帰趨を窺っていたしていますし、長福寺の伝承では義元を接待したとしています。
  3. なぜ近場の大高城に行く途中で昼食をとるためだけのために、陣幕と柵・逆茂木程度で済まさずに、しかも前もって用意せずにその場になって慌てて陣城を構築しようとしたのでしょうか?
  4. 桶狭間に構築した陣城は、鳴海城救援のために役立つものなのでしょうか。それに、陣城が構築途中であるならば、その工事を妨害させないために、その前面に敵を迎え撃って戦いが行われたはずです。………小生は、赤塚合戦は信長が天王山に付城を築こうとして、それを阻止しようとした鳴海城の山口九郎次郎との間に起こったとみています。
  5. 最も重要な点は、ほとんど全域にわたって宅地開発された現在に至るまで桶狭間付近で陣城址が発見されていないことです。

それでも、藤原氏の説には魅力的なものがありました。それは、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」という主張です。この説は、『信長公記』の天理本が紹介されるまでは、大高城に兵粮を搬入したことは公記に書いてあるのですが、大高城が包囲されていた事は証明できませんでしたから、すこぶる魅力的な見方の一つで有り得ました。大高城の南に付城が築かれたことを明確には証明できなかったからです。

その場合には、丸根・鷲津砦の戦術的な意味は、藤原氏が言われるように、鳴海城への兵粮や兵力を搬入することを妨害するものであったことになり、織田方が大高城を攻撃することは二義的になりますから、義元がこのニ砦を攻略することは取りも直さず鳴海城の封鎖を解くことを目的にしたものであったことになるわけです。………尤も、それでもまだ中島砦が東海道を封鎖していますから、東海道からの搬入は見込めませんし、沓掛城から鎌倉海道によって善照寺砦を攻略した方が楽なように思えることには変わりはないのですが。

ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか?

これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。

城塞というのは古代に「稲城」といわれたものから戦国時代前期までの「城館」まで、一般には本気で戦争するための城塞というものは唐の侵攻に怯えて大宰府に水城を築いた時期を除いては、日本ではあまり作られませんでした。つまり、防御施設というものは簡単なものでも十分に有効であったという事実があったからです。

「落ちない城」の範疇で最も有名なのは楠木正成の千早城・赤坂城ですし、大きなものでは大宰府の水城、平氏の福原防塞、奥州平泉の藤原泰衝が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれた阿津賀志山防塁、元弘時の防塁がある程度のものでしょう。勿論、帝都は中国の城塞都市を真似て作られていますから、一応城塞であります。

これらのことから気づくことは、日本では古代に国際外交の真っただ中にあったとき以外には、城塞に拠って長期にわたって攻防するということは殆ど考えられていなかったということです。そのため、城塞は簡単な設備であっても十分にその役目を果たしてしたということなのです。しかし、これは逆からみますと、日本国内での紛争は殆どが内乱にまでも至らず、ヤクザ同志のシマ争いの喧嘩程度のものでしかなかったからであることが窺えます。つまり、世界的なレベルで見るならば戦国時代より前の日本の城塞の殆どは世界規格に満たないものばかりだったわけです。なぜなら、戦争当事者自体がヤクザみたいなものですから、敵の城塞を徹底的に攻略しようなどという「意図」も兵力差も持たなかったからです。

応仁の乱においても洛中では、首都の都城の内にあっての市街戦で終始したのです。市街戦が行われるということは、市街が焼き尽くされ破壊し尽くされていないことから起こります。近代以前ならば始めから火攻めをおこなったりはしないということですし、近世以降になりますと事前の制圧砲撃で徹底的に破壊したりしない攻撃になります。ところが、戦国時代も深化してきますと、領国の統一から始まって、領国を拡大して隣国をも支配しようとするように目的が変わってきますと、まず、兵力差が広がってきたうえに、それに裏付けられて敵の城塞を完全に攻略する意志持ち始めます。


多大の犠牲を払っても「落とす必要がある時代」

2011-06-24 22:27:49 | 桶狭間の真実やいかに

するとそれまでの、政治・行政・経営を目的とした城館では目的を果たせなくなり、武士は城館の背後に詰城として山城を築き始め、次第に戦術的な意義を最優先する山城が主流になります。こうなると城塞は落とし難かろうが、落とさねばならないものになってきました。それまでは、多大の犠牲を払ってまで落とす意義を感じなかったのですが、終に多大の犠牲を払っても「落とす必要がある時代」になっていくのです

ところが、戦術的に有利であると思われた山城も、火縄銃の普及により、反って戦術的には不利になるという逆転現象が起き、城塞は広大な城域と高さを合わせもった平山城に移行します。

 鉄炮の普及が山城への籠城を不利にしたのは、その威力と射程にあります。山城の地形的有利さは、急な斜面と狭い尾根によって攻撃軍が接近し難く、攻撃路が限定されるということにあります。ところが、その山城の有利な点は攻撃側にも作用しており、迎撃正面を著しく狭いものにしてもいるのです。これは投射兵器の射程距離が短い間は守備側に有利に働きましたが、鉄砲が現れて射程距離が増大すると一気にそれを減殺してしまいました。三角形を想像してください。守備側は三角形の頂点の狭間から底辺を万遍なく射撃できるのですが、それに使用できる武器は一つに限られてしまいます。それに対して三角形の底辺には数倍の射手を並べて、狭間を制圧射撃できるわけです。そして、鉄炮は弓矢より自由な射撃姿勢を採れますから、体を隠し難い攻撃側を非常に有利にしました。つまり、山城では尾根を切って堀にすることにより、攻撃路を極端に狭く限定できても、突撃を援護射撃する正面を狭めることができないのです。そして、守備側は各々の山頂に分散していますから、相互に連携して援護し合えないのです。…この欠陥を是正したのが、平山城であり、山頂に指揮所を作り、山腹を全面的に郭にすることによって、一元的統一的に防御戦闘を指揮できるようにしたわけです。そして、平山城の山腹曲輪の狭さを克服したのが、石垣に支えられた重層櫓なわけです。これにより、敵の攻撃路を狭くして戦闘正面幅を小さくしながら、守備兵を重層的に配置することができるようになり、守備側を有利にしようとしたわけです。

城館時代の城は、長期に渡る攻囲などは始めから想定して作られてはおりません。専ら不意の攻撃に備えたものですし、攻撃側も端から徹底的に攻略しようというような意図は持っておりませんでした。そのような大義も利害もなかったからです。ですから、刈り働きをしたり水利施設を破壊したり復讐であったりといったところで終わっていました。そのため、簡素な城館でも攻め落とすことは困難でした。それでも攻め落とそうとするならば、仕寄せをしたでしょうし、攻囲することも考えられるでしょうがそのようなことに至ることは殆どありませんでした。楠木正成の千早城の攻防をみれば、寄せては仕寄の準備を全く欠いていたことがわかります。これでは城は落ちません。

ところが、領国統一から広域支配の時代になりますと、端から籠城を覚悟した造りに城塞はなってきます。それは、攻撃側が敵を徹底的に攻略しようという意志を持つようになったからです。そのため、力攻めで短期に落とすことが無理ならば、攻囲して経済封鎖をすることによって攻略する必要が生じたわけです。そのために発達したのが付城です。城が物資の集積基地であるから、攻囲するわけではありません。戦国時代になると大大名たちは城攻めには、付城を築いて攻囲戦を行うようになるのですが、それ以外の国人衆以下のレベルでの戦争では、そのような例はそれほど多くないのです。攻囲する側も兵員を張りつけなければなりませんし、その兵粮その他の軍需物資を攻囲軍に補給するのが大変だからです。全てを苅田狼藉で現地調達しようとしても無理があります。

領国統一から広域支配の時代になって、端から籠城を覚悟した城塞を攻囲するようになったのは、我彼に圧倒的な兵力差があるのに敵が降参しないからです。そして、降参しないその理由は初めから敵を拘束する役目を持つ城であるか、敵に服従するのが嫌だからです。つまり、近隣の紛争や中央政治の代理戦争として互いに同等の兵力で戦う時代は終わり、継続的に領土拡大のための争いがはじまったのです。

ですから、信長が活躍し始める時代の城塞は、既に「城は攻めても落ちないもの」などではなくなっていたのです。そして、戦国時代が終わる頃には「城は必ず落ちるもの」になってしまっています。天下分け目の合戦の時代に落ちなかった城は数えるほどしかないはずです。

 

(4)別動隊説を検証する     (初出2 007.12.18)   

桶狭間の戦いにおける一方的な大勝利を迂回を考えずに可能にする方法には、「別動隊」を考えることで解決することがあります。

但し、この別動隊説には根本的な問題がいくつかあります。

  1. 当時の信長には支隊(別動隊)を預けて時刻を計って分進合撃できるような官僚的指揮官がその配下にはいなかっただろうと思われること。
  2. 信長が別動隊を使って挟撃作戦の類を過去に行ったことがないと思われること。…支隊に分割して多方面作戦を行った例はいくつかあります。天文廿一年(1552)八月の深田・松葉両城奪還作戦では、「稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸け付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介(自らは)、孫三郎殿一手になり、海津ロヘ御かかり侯」とあって、全軍を四手に分かっています。不確実なものですが、永禄二年四月に福谷(ウキガイ)砦の酒井忠次を攻めたときに、自らが岩崎丹羽氏を牽制しておいて、柴田・荒川をして攻めさせたというものが『東照軍鑑』にあるのですが、成功はしていません。
  3. 別動隊を指揮できそうな武将は全て、付城の守将を務めていて出払っていると考えられること。
  4. 『信長公記』に名前の出てこない大物武将を別動隊とした場合には、当該諸家にその事績が伝わらないこと。
  5. 分進合撃や別動隊との共同作戦を実現することは、無線通信手段のなかった時代では極めて困難なこと。…あのナポレオンでさえ、ワーテルローではグルーシーの部隊を間に合わせることができなかったのです。ナポレオン自身が後日、別動隊を呼び寄せるために常と違って一人しか伝令を出さなかったことを後悔しているぐらいです。しかし、全くできなかったわけでもありません。戦国時代に別動隊との共同作戦を得意としたのは島津氏であり、後世「釣り野伏」と言われる待ち伏せ作戦が有名です。
  6. 桶狭間の戦いの後の信長の作戦に、別動隊を用いた作戦は長篠合戦しかなく、この戦いでは長篠城の救援が主目的ですから、敵の鷲巣砦攻略には大軍を派遣しています。そして、敵に優越する兵力があれば、別動隊どころか複数の攻め口から攻撃することは自由であるというよりも、混雑を避けるためにも必然になるに過ぎない現象になります。信長が敵より劣る兵力で別動隊などは使用した実績はありません。 (2008.1.27)
  7. 敵に劣る兵力で二正面に敵を受けて戦った稲生合戦ですら、支隊を設けなかったことからみても、当時の信長には別動隊の指揮を任すことができるような野戦指揮官は未だ育っていなかったと考えるべきであること。 (2008.1.27)
  8. 戦後、別動隊の指揮官が論功行賞に与かっていないこと。

別動隊による可能性を指摘したのは、橋場日月氏の『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』である。

橋場氏の指摘の新しい視点は、これまでの迂回説と異なり、信長自身が迂回したのではなく、配下の武将それも新設して間もない馬廻部隊の武将が迂回挺身を指揮している点である。………それなのに、この後、此の馬廻りの指揮官が支隊を率いて活躍することは伝えられない。馬廻の武将の多くは攻囲戦での周番を担当している。それは馬廻の本来の任務が近衛兵・親衛隊であったからではないかと考える。

橋場氏のこれらの著作では、橋場氏が一般にはこれまで見過ごされてきたか又は触れることを避けられたり、合理的な説明がなされないままできた点に注意を促しているものがある。

  1. 大高城への兵粮搬入日が『信長公記』と『三河物語』で食い違うように見えること。
  2. 前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人は何処で誰と戦ってきたのかという問題。
  3. 古くから指摘されている問題だが、『蓬左文庫・桶狭間之図』に鎌倉往還と扇川が交差するすぐ東側に書き込まれた「今川魁首(先鋒)此道筋を押」が、史実であるとすれば一連の戦いのどこに位置づければよいのかという疑問。
  4. 『信長公記』に紹介されていない重臣連は本当に参陣していなかったのかを問うている。そして天理本では一部の武将の参陣が認められること。
  5. 山際に着いてからの信長勢が、暴風雨が止むまで信長が移動・戦闘を行った記事がないこと。
  6. 鉄炮は本当に使われなかったのかという問題。
  7. 義元が往路に刈谷水野氏を攻撃せず、岡部信元が帰路に刈屋城に信近を襲った理由。
  8. 服部左京助が黒末川河口に参陣した意味。

逆に、氏が触れなかったり説明していない問題もある。

  1. 鷲津丸根を攻めた駿河勢の動向が不明であること。
  2. 今川義元が沓掛城を出立した時刻。
  3. 服部友定が約束の時間に義元が来ないからと言って、勝手に引揚げてしまったうえ、大高城番になった松平元康には異変を知らせなかったこと。そして、元康が義元の到着がなくても心配していないこと。

 

(2009.01.23 追加)  以下は、小生のブログ「読書三昧」に2008.07.10に書いたことに一部手直しして転載したものである。

『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「信長は時速6kmほどで(清洲から熱田までの)12km弱を移動した計算になる。これは旧日本陸軍の標準的行軍速度の時速4kmより若干早い速度だ。信長は、後続の軍勢が追い付いて来られる速度で進んだのであるp173………信長が善照寺砦から分派して鎌倉往還を東進させた部隊は、途中暴風雨が吹きはじめる中、今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至り、さらにこの部隊は大高道を南下して上ノ山に至る。距離はほぼ3km強であり、………旧陸軍が通常行軍を時速4km、「速歩」という強行軍を時速5kmと規定していた事から見ても、それと比較して無理のない移動速度と距離だと言えるp215」と書かれる。

戦国時代の人々の身体能力は本当のところはよく分からない。江戸期の旅行記録をみると昔の日本人は驚異的に強靭な身体を持っていたらしい。昭和の陸軍も同様であったらしいことは知られている。従って、その明治以降の陸軍が定めた作戦要務令が合理的に戦争を継続して遂行するための行軍速度を時速4km、強行軍を時速5km急行軍を時速8kmと定めたことは無視できない。

『作戦要務令・第320』「撃兵団の前進速度は1時間4粁、兵の負担量を軽減せる場合は1時間5粁とす。大隊以下の小部隊にして負担量を軽減せる場合は、急行軍の速度は1時間8粁に達す」とあり、兵の負担量を軽減し大隊以下の小部隊にしなければ、急行軍の速度は達成できないなのである。

通常、歩兵の行軍は一時間で4kmを50分歩いて10分小休止するペースで行軍する。昼食の休憩は1時間大休止し、連日行軍の場合は一日24kmである。『太閤記』高麗陣ニ就イテノ掟條々でも「一、人数おし之事、六里を一日之行程とす。」とあるから戦国時代と旧軍も各国陸軍も概ね変わらない。

強行軍は行軍時間を長くしたり、休憩時間を短くすることで行い、一日に十時間の行軍で40kmの距離を進む。が、実際にはそんな決まりは無いに等しかったらしい。行軍速度を上げることも強行軍と言わないこともないが、急行軍という。急行軍になると駆け足になるが、休息時間も減らす点は強行軍とさして違わない。

『作戦要務令・第321』には、「一般兵団の一日行程は、普通行軍に於いて8時間32粁、強行軍に於いては10乃至12時間以上(大休止の時間を増加す)とす。…」とあり、戦場到着後直ちに戦闘に入れる状況にあるわけではない。現に、賤ケ岳の場合も21時に全軍が着陣したといわれているのだが、秀吉は軍勢に喚声をあげさせはしたが、総攻撃を命じたのは夜明けを期して行うということであった。ところが、それに驚いた佐久間盛正は23時に総退却を始めた。それでも、秀吉が佐久間勢退却中の報を得たのは翌日am2時であり、賤ケ岳にいた既存の秀吉方守備隊は、それぞれ対応して逐次攻撃を開始したらしい。それでも佐久間盛正の部隊は、am3時には総退却を無事に完了しているのである。ですから、大垣から駆け付けて疲労困憊した部隊が戦闘に参加し始めたのは、もっと後になる。


つまり、時速6kmという速度は、若干早いなどという行軍速度ではない。駆け足に近いのですから、時速6kmは完全武装した歩兵が追い付ける速度などではありません。
旧日本陸軍の強行軍は時速5kmなのだ。時速6kmというのは、ほとんど走っている状態だ。


信じられないことなのだが、旧日本軍の兵士たちは通常装備30kgを背負い、そのうえで機関銃隊ならば機関銃を、砲兵隊ならば砲身を担いで、そのような強行軍を実際に行ったといわれている………。

行軍速度というものは部隊の規模が大きくなるにつれて遅くなるし、異兵種と連合する場合は遅い速度の部隊を基準とすることになる。(分進することが効率的ではあるのだが、敵に遭遇する状況では致命的な結果を招来することになる場合もあり、そう簡単に兵力を分散させるわけにもいきません。)歩兵が追い付けないから、信長は熱田でその参集を待つ必要があったのだろうと考えるべきです。もし、信長に常備軍があってそれが清洲に駐屯していたならば、であるのですが………。そうでなければ、余りあてにできない国人衆が熱田に集合するのを待っていたと考えなければならないことになります。

だから、信長が小姓や馬廻など乗馬身分の者だけで挺身したのならば、三里を時速6kmは十分に可能であるでしょうが、歩兵を随伴した場合には強行軍を超えているのですから、到着した戦場で直ちに戦闘に入ったのでは、兵士たちは使い物にならないのではないかと危惧されるわけです。一般に戦国時代の軍勢に占める騎兵の割合は一割程度であるといわれるからです。

戦史を見ても強行軍の例は多く、一日に80~100km以上という行軍速度の例がある。
何れも時速に換算すると2~3kmというのが多い。

時速4kmを超える例は、第二次ポエニ戦争のローマの武将クラウディウス・ネロが、精兵7千を選り抜いて可能な限り軽装にさせ、食料も携帯せずに道筋にある町に食事を用意させ、800kmを一昼夜に100km(時速4km)以上の速度で強行軍させたものぐらいしかない。

橋場氏は、「秀吉の賤ヶ岳合戦の際の移動速度が時速8kmだった事、旧陸軍の早足(時速6km)・駆け足(時速8km以上)を勘案すれば、今川別働隊を風雨に乗じて撃破した地点から沓掛まで4km、さらに沓掛から4kmを移動するのにそれほど無理があるとは思えない。」とされるのだが、背後から吹き飛ばされる場合はまだ良い。嫌でも運ばれるのだから。しかし、沓掛から大脇村曹源寺へ南下するときには横風を受けて吹き飛ばされたであろうし、曹源寺から上ノ山へは向かい風の中を進まなければならないのだ。信長が義元本陣に突撃したのは風雨が止んでからのことであるのだから、それを、楠が吹き倒される強風の中を挺身したというのだからスーパーマンとしか言いようがない設定である。

 

              

(6)鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

(p18)「常識的に考えても、織田家との間で国境の城砦を取ったり取られたりしているような状況では、一気に上洛するなど到底無理である。」

………この指摘は重要である。尾三国境の北部・品野城などでは信長の攻勢にあって防衛一辺倒であり、後詰がされたという話がない。南部の大高城の攻防は早い時期から始まっていて、笠寺台地の駿河勢は駆逐されている可能性があることを考えると、鈴木氏の指摘は看過できないものがある。信長の軍事力は三河・遠江・駿河の辺境に派遣された軍勢とではあるが、互角に戦えるだけの実力を備えつつあったことになる。そして、その信長の軍隊が七~八百の歴々からなる常備軍を中核とした二~三千の兵力であった可能性があるようにも思える。

(p18)「(清須城を)力攻めにすれば膨大な損害を覚悟しなければならない。といって兵糧攻めなどしていたなら、大変な手間と時間が必要となる。義元にそれだけの準備と余裕があったとは考えられないから、尾張一国の制覇でも。まだ目的として大きすぎるだろう。」

………これについては、「天理本信長記」の「(2)軍議があった夜」で詳しく論じたとおりだが、安城も刈谷も落ちているのだから、平城で一重堀の舘城である清須城を攻め落とすのに時間はかからなかったろう。

(p18)「この時代、優勢な敵が迫ってくれば、領民はパニックを起こすのが普通である。…このときの織田領内では、まったくそうした形跡が見当たらない。それどころか熱田の町人たちなどは、今川に与党して海上から攻めてきた一向宗徒と戦って追い返したりしている。本当に今川軍が迫ってくるなら、報復が恐ろしくて、そんなことはできないだろうし、そもそも大勢の町民が街のなかに止まっていたはずがない。」

………この視点も重要である。もし熱田の町人でさえ義元が尾張との国境を踏み越えて熱田にまで侵出することなどあり得ないと考えており、且つ『天理本信長記』のいうように町民らが動員されて、のこのこ善照寺までもついて行ったことが事実ならば、一つ考えねばならないことは、義元の軍勢は牛一が今に伝えるような四万五千もの大軍などではなかったことであり、もう一つは、熱田は湊町であり自由港としての性格を持っており、港町を無暗に攻めて商人・町人を追い散らすことはしないだろうという見込みがたっていたかも知れないということである。熱田は港であるから役に立つのであり、信長ですら堺幕府があった堺衆に対しては交渉(矢銭を課した)から入っているのだ。これが戦国時代も終盤に近くなると見境もまくなり、博多湊などは1580年には竜造寺氏が、1586年には島津氏が焼き討ちを行って灰燼に帰している。

(p20)「そもそも戦闘を始めた時点では、信長は義元が何処に居るのかということも知らなかったと思われる

………鈴木氏が言われる「戦闘を始めた時点」が午後二時頃のことであるならば、具体的な居場所を知らなかったとはいえる。しかし、善照寺に参陣した時点では桶狭間山に本陣を置いていたことも知らなかったとは断定できない。何故なら、山上には総大将の居所を示す旗幟が立っていたものと思われるからである。だから、牛一は「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、」と書いたのだと思うのだ。単に、敵勢が屯していたことを義元に代表させたわけではないと思うのだ。

(p20)「信長の狙いは…とりあえず今川軍に打撃を与えて追い返すことだったろう。…くたびれた敵部隊を自軍の主力で叩くことによって、確実にポイントを稼ごうとしたのである。」

………とりあえず今川軍に打撃を与えることが目的ならば、付城を攻めている背後を攻撃することが常道だろうが、これについての説明は藤本氏も十分になされたとは言えない。

………「自軍の主力」と言われるが、たった二千が信長の主力なのだろうか?

(p20)「本拠を遠く離れてやってきている彼らの半ば以上は、補給要員などを含めた非戦闘員だったと考えるべきである。相手の信長勢は清須から真っ直ぐやってきたのだから、馬丁・槍持などを除けば、大部分が戦闘員だったであろう。」

………彼等駿河・松平同盟軍の根拠地は岡崎城であるのだから、非戦闘員が多かったということはできまい。先鋒を務めた松平勢のことはどう考えるのだろうか?

(p20)「信長勢は一団となっていたが、今川の部隊は各所に分散していた。」

………これが、暴風雨のために統率が乱れたというのならば問題は少ないが、移動中であったためとか、布陣が各所にバラバラであったというのであるのならば、それには根拠がないと言わざるを得ない。

(p22)「 (清須城における前夜の)籠城の議論にしても…前線で苦戦している味方を見捨てたまま大将が城に逃げ籠ってしまうことなど考えられない。もしそんなことをしたら、信長はたちまち部下たちから見放されてしまったに違いない。」

………では何故、信長は後詰に出かけないのに部下に見放されなかったのか。それとも、雑兵二百人にしか随伴しなかったのが見放された結果なのか。

………この鈴木氏の著書は『天理本信長記』が公にされる前のものではありますが、籠城しないことが常識であるとしたならば、信長や清洲城にいたと思われる重臣たちの行動は異常であると言わざるを得ません。


 藤本正行氏の最初の問題提起は1982年の『歴史読本』七月号

2011-06-24 22:11:57 | 明け狭間の真相やいかに


[1] 藤本正行氏の最初の問題提起は1982年の『歴史読本』七月号

[2]  信長軍の速度を検証できる史料はほとんどない。因みに、金ヶ崎退却時には、金ヶ崎城を4/28夜に出て、4/30亥の下刻(23)に帰京している。全行程75kmで、荷駄を伴わず口取りを伴う甲冑着用の騎馬行軍で、37.5km/日、時速4.7km。長篠合戦の折の信長の行軍は、4/21京都~4/28岐阜(101km、12.6km/日、1.6km/)5/13出陣~4/13熱田泊(30km、4km/h)4/14岡崎着(35km/日、時速4.5km)4/16牛久保(23.3km、3km/)4/17野田原(12.5km、1.6km/)4/18設楽が原(10km、1.3km/)、時速4km~4.km、戦場に近づいてからは1.5km/h程度である。  義元は、五月十二日に駿府を発ち、16.57km先の藤枝に泊まる。十三日は26.04km行軍して掛川に泊まっている。十四日は26.65km行軍して引馬(浜松)に泊まり、十五日は31.27km行軍して吉田(豊橋)に泊まり、十六日は28.68km行軍して岡崎に到着している。五月十七日、岡崎を発ち8.44km先の安城、そこから5.44km先の池鯉鮒(ここまで13.88km/日、六日で143.09km、平均24km/日、平均時速3km)を経て6.76km先の沓掛に陣を置いた。

[3] 『孫子・地形篇』には「隘なる形には、我まずこれに居らば必ずこれを盈たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」とありますから、武人の常識として事前に渓谷の入口を占領しているはずであり、信長軍が狭間の中に侵入してくるという事などはある筈がないのです。

[4]  (善得寺)静岡県富士市今泉。今はない。駿河東部は今川・武田・北条の争奪の地となったが、天文廿三年(1554)、太原崇孚が仲介役となり善徳寺で「甲・駿・相三国同盟」が成立したという伝説がある。

[5]  (1496-1555)今川家の一門衆である庵原家に生まれ、善得寺に入れられて僧となり、京都の建仁寺で常庵龍崇に学んだ。1522年、今川氏親と正室・寿桂尼の五男・方菊丸の養育係として善得寺に戻った。

[6]  因みに、泰平の世になった江戸時代でも、旅人は暗くなる前には宿に入った。

[7]  『武徳編年集成』「大高の城へも漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆるところ駿州勢のたまたま当城に在る者皆遁れ去り、鷲津、沓掛の守兵も皆逃亡する由告あり、…」

[8]  この間に「午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根ヲ攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて」と言う文章があり、多くの人はこの文章をもって今川勢は、出現した信長勢に対して迎撃体制もしくは攻撃態勢をとったと解釈するのだが、信長正面攻撃をしたにもかかわらず、今川軍の先備をすり抜けていると云う事実からみて、今川軍は敵正面に広く展開していなかったことが窺える、ということを論破する必要がある。

[9]  『船々聚銭帳(フネブネシュウセンチョウ)』133隻のうち尾張関係は、大野一隻、常滑三隻、野間六隻、亀崎一隻、師崎四隻、篠島(当時は三河国)二隻、宮(熱田)四隻の合計廿一隻である。 大高はない。大高の南にある大江川の河口が近世初め頃の湊であった。ここには本地、南野村等の船が集まり「万場の渡し」の応援に「津島祭の車船二十数艘の船」が出ている。この大江湊は、海側へ七子、水袋、宝生新田とまた南側へ八左ヱ門、操出、大江新田が出来ていく度に、入江として西へ進出していっている。

[10]  先鋒隊(支隊)と「本陣先備」では、その布陣していただろう場所の義元本陣からの距離は全く異なる。本陣先備は義元から大きく離れて配備されたのでは、本陣を守という本来の意味をなさない。

[11]  史実であるかは疑問。

[12]  (さらに追加、2010.03.15)江畑秀郷氏が駿河の餓民などが乱捕を目的に万を超える人数が追随してきたとする。

[13]  (追加 2007.02.19) 最近では、黒田日出男氏が「駿河勢の乱捕り」に注目されている。  (さらに追加、2010.03.15)江畑秀郷氏が駿河の餓民などが乱捕を目的に追随してきたとしている。

 

[14]  (2010.08.12挿入)谷口克弘氏が「『信長公記』と心中しなさい」とコラムで書かれている。桶狭間合戦についての史料はこれ以外にないのだから。他の資料を使えば傷口を広げるばかりであるとまで言われている。【信長学起動


【序】桶狭間の戦いの研究史

2011-06-24 22:08:12 | 戦国時代考証

【序】

 

  1. 桶狭間の戦いの研究史  (2008.08.10~、2010.0618改訂)
  2. 『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論の問題 (2007.12.12 追加分を移行、2010.06.18改訂)
  3.   (2009.03.27 追加分、2010.06.18改訂)    

   

(1)桶狭間の戦いの研究史  (2008.08.10~、2010.06.18改訂)

後に天下を獲る信長が世に出る契機となった桶狭間の戦いに対する学術的な興味は、今川義元の征西した目的に尽きるのだが、それも後に信長が天下を獲ったことに関連して、義元も上洛の意図があったのではないかと思われたことにある。
これに対して、世間の興味は小兵力で大敵を打破った痛快さがあるため、常に信長の勝利の「Howe to」に向けられてきた。
しかし、歴史学会は長く戦史の研究には関心を示してこなかったため、明治期に創成国軍の将校育成を目的に編纂された、日本戦史の叙述を無批判に受容してきた。この明治国軍による桶狭間の戦いの研究は、先進列国に日本が勝利するための必須戦術として、「迂回による奇襲」の可能性を常に模索すべきことを、将校に教育するために編まれたものである。
ところが、1982年に『歴史読本』誌上で藤本正行氏によって「異説・桶狭間合戦」として、学術的に取り扱うべき一方法が提言され、それによると世間に喧伝された迂回奇襲説は成立しえず、正面攻撃でなければならないとした。しかし、論争らしい論争は起こらず、一方的に藤本正行氏が自説を繰り返すだけで推移してきた。それが、藤本正行の『信長の戦国軍事学』(宝島社・1993)や、その後改題して出版された『信長の戦争』(講談社)により、これもさしたる論争もなく氏の正面攻撃説は広く受け入れられるようになった。従って、最近では、藤本氏の「正面攻撃説」に反論を唱えられることはないのだが、如何せんこの藤本氏の説では、合理的に信長が勝利でき義元が討死したことを説明できないため、未だに終結を見ていない。
藤本正行氏の功績は、桶狭間合戦に関しての一次資料は殆どなく[1] 、歴史家の検証に応えられる記録史料は『信長公記』しかないということを思い出させたことにあり、その方法論は正しいものである。ところが肝心の牛一は、「来た。見た。勝った」[2]としか書いていない。それだから、信長は正面から攻撃して勝ったと言えるのだが、それだけでは誰も納得していない。納得するには彼我の兵力差があまりに大きすぎるからである。そして、『信長公記』も藤本氏の一連の著述もその兵力差[3]をいかにして解消したかについて、合理的な説明を欠いているからである。おまけに、今川義元が千秋・佐々らとの前哨戦を観戦できる山上にいたらしいうえ、その山の麓は深田で進退困難な節所であるというのに、信長勢は易々と義元本陣に迫れたという地形上の問題[4]についても、何の説明もないのである。
誤解をするといけないから、紹介しておくが、藤本氏はちゃんと桶狭間の勝敗の原因について考察されている。その藤本氏の義元敗因とは、「義元が矛盾する二つの目的を持っており、それに優先順位をつけていなかった」ことにあるとされ、それはミッドウェー海戦の日本海軍機動部隊の失敗と同型であるとされている。ミッドウェーでの日本海軍機動部隊は、本来は敵機動部隊を誘致してこれを補足撃滅することが目的であったのだが、索敵に失敗していたために、本来は餌にしていたはずの第二目的を主目的に切り替えてしまうという失策をしでかしたのである。その様な行動をとった背景である経済的な原因は、当時の日本の国力が再度の作戦を許さなかったことにある。それだけでなく、敵が罠に掛るまでじっと待つという事は、日本軍には陸軍も海軍も許されてはいなかったのである。ここに、当時の日本軍人全ての行動を深層で規定するものがあった。旧帝国軍人には一切の余裕はなかった。しかし、通説によるかぎり、今川義元には十分な時間も兵力もあったはずなのである。
ところで、藤本正行氏の主張のうち、(1)義元本陣は高所にあった。(2)信長は正面から攻撃した。という二点については、現在反対する論者はいない。しかし、藤本氏のいわれるように、『信長公記』を一級史料として認めたとしても、牛一の記述が簡潔な文章であり、地形に固有名詞の存在しない地域で戦われたため、そこにある事実は余りにも少ない。従って、戦いの地理的な推移は想像するしかないのだが、信長の勝因・義元の敗因には、一般に納得できる合理的な解釈が提示できないでおりそこから藤本氏が導き出した内容についても、未だに追試・再検証されていないという問題がある。
現在、藤本氏の方法論は広く受け入れられているものの、藤本氏が漠然と示唆した桶狭間合戦の解釈は、到底受け入れられるものではなく、現在は、(1)小和田哲夫氏の『桶狭間の戦い・信長会心の奇襲作戦』(学習研究社・1989)による正面奇襲説、(2)谷口克広氏の『歴史読本・10.06』の東海道上合戦説は牛一の記述する方角に対して整合性を得ようとして唱えられた説である。(3)同様に、牛一の記述する「東」に呪縛された結果、桶狭間山を桶狭間村から離れた場所に求めたものに、藤井尚久氏の高根山説・漆山説、藤本正行氏の高根山説。(4)参謀本部の迂回説を踏襲したものに梶野渡氏の釜ヶ谷待機説、橋場日月氏の鎌倉街道説、江畑英郷氏の飢饉説などがある。その他、(5)黒田日出男氏の乱捕状態奇襲説や桶狭間山西方の道なき丘陵地帯を踏破するもの、側背から攻撃するための迂回を提示したり、水野信元や徳川家康の裏切りを主張するという説まで存在する。
また義元の西上目的も大きな謎である。久保田昌希氏が『駿河の今川氏(1978)で上洛説に疑問を呈し、『歴史と人物・s56.08』(1981)で三河一国の完全支配尾張への領土拡大のための軍事行動だったと主張された。その後、小和田哲夫氏が『戦国今川氏』(静岡新聞社・1992)で尾張制圧説を唱え、藤本正行氏が『信長の戦国軍事学』(宝島社・1993)で鳴海・大高城後詰の単なる国境紛争を主張して上洛説を否定したことにより、現在では上洛説を採る研究者はいないが、義元の西征目的については未だに決着を見ていない。
現在、桶狭間合戦に対して問題とされているものには、(1)少数の信長が大軍の義元を正面攻撃で討ち破れた理由。(2)『武家事記』の言いだした簗田出羽守の情報と褒賞(沓掛城)は真実か。(3)千秋・佐々らの無謀な突撃の理由は何か。(4)水野信元の行動は如何様であったか。その他、(5)両軍の兵力と、それに関連して、丸根・鷲津砦攻撃を行った部隊は松平元康隊以外にはいなかったのか。(6)義元本陣に関連して桶狭間山の位置。などがある。
これ等以外に、新たに浮上した問題は、『甲陽軍鑑』の史料価値の見直しを迫る黒田日出男氏の乱捕状態奇襲説の登場や、桐野作人『歴史読本2001.11』で尾瀬甫庵の記事は『天理本』を典拠にした可能性を示唆しておられ、これによって軍記物を含めた史料の取り扱いを見直す必要も考えなければなくなってきているだけでなく、歴史学者以外の研究者から、実証は欠くものの、義元の目的に関連して、伊勢湾海運の見直しを迫るものや、弘治・永禄初年の飢饉の影響などをも考慮すべしという提案もなされるに至っている。
  
(2)『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論上の問題 (2007.12.12 追加分を移行、2010.06.18改訂)
(イ)<地理情報の問題>  『信長公記』の記事が少ないのは確かなのだが、牛一が「書けなかった」のか。または、「書く必要がないほど自明なこと」であったのか。これらについては検証されていない。例えば、道は鳴海道(鳴海~桶狭間)の他には、鎌倉街道と近世東海道しかなかったならば、これは説明を要しないし、もともと地名がなくて説明できない場合も考えられるのだが、現在の研究者は中島砦から山際の間、および山際から信長の最初に接触した義元勢との間について、情報不足であると一様に感じている。これなどは、当時の地理情報からして牛一がそれ以上には書きようがなかったのだという立場に立って、冷静な解釈をする必要があると思われる。
一般の論者は、信長軍には、道が無かろうと、錯綜した丘陵地であろうと、何処でもお構いなしに踏破させてしまう傾向がある。そのうえ、所要時間という観念を欠いていることもあって、牛一が態々時刻を記載していることを無視してしまっているし、伊勢湾の潮の干満まで書いてあるのだが、その意味についても殊更には考えられてこなかった。戦場になった桶狭間山についても、特定できる固有名詞を持つ山が存在しないこともあって、無闇に想定範囲が広げられており、藤本氏は平子が丘辺りまでをその範囲におさめる[5]のだが、これらは、自身が主張される「牛一の地理に関する記載は正確である」という前提からすると、牛一が「戌亥に向って人数を備へ」と書くことを踏まえるならば、矛盾する結果になっているさらに現在では、中島砦の南にあたる漆山までをも「桶狭間丘陵」などと名付けることによって範囲が広げているものもある。また、方角に関する記載も藤本氏の主張に反して、一概に信用できるものではなさそうであり、改めての検証が必要だろう。
(ロ)<方法論の矛盾>  これ以外には史料がないのだから、真摯に扱わねばならない『信長公記』も、極めて恣意的に扱われる傾向がある。その最たる例が、藤本正行氏自身によってなされている。氏自身が一級史料として認めるべきだとした『信長公記』に記載された内容を、将に当人が恣意的に切り捨てた事実があるばかりでなく、現在に至るまでそれが看過されるのみならず、諸人は無批判に追随してきているのである。
これは、信長が中島砦から今川本陣に向かって将に出撃せんとしたときに麾下の将兵を鼓舞するために向かって行った演説[6]なのだが、藤本氏は「信長の思い込みによる誤認」と決めつけ、それに続いた多くの研究者も、信長の戦況誤認だとして片付けている。
『信長公記』を一級史料として扱う以上、最も重大な信長自身の判断を無碍に誤認だとして切り捨てる前に、それが正しいものとして真摯に受け取る姿勢が必要なのではないのだろうか。第一、信長の判断が間違いであったというような根拠は、『公記』の何処にもみられない。藤本氏の認識は、徹頭徹尾藤本氏自身の思い込みによるものでしかないように思われる。……この問題については、別に「信長の戦況判断」章で論じる。

常識でみる桶狭間合戦】

2011-06-24 21:38:36 | 戦国時代考証

桶狭間の戦いには、今川義元が沓掛城から出陣している限り、解決できない問題が数々生じます。そこで、発想を逆転させて義元が前日に大高城に宿営しており、当日は大高城から出陣していたとし、それを織田信長が信じられなかったとしたならば、納得できる筋書が描かれるはずです。信長が東海道を進撃しながら、なぜ後世からは迂回であったと言われるのか?桶狭間の戦いはどこにも作戦計画などはなく、全てが「成り行き」であったことがわかるはずです。我々はもっと『信長公記』や『三河物語』を熟読すべきなのではないでしょうか?

  • 桶狭間の戦いで鷲津砦・丸根砦攻撃を指揮したのは義元であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いでは、初め今川義元の本陣は漆山にあったこと・・・御存じでしたか?
  • 佐久間大学が伊勢湾の干満をいう理由や伊勢湾の干潮時刻・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦い当時、天白川は徒渉できたこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで千秋・佐々らが母呂後で討死したこと・・・御存じですか?
  • 桶狭間山は赤松の疎林であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦い当時、東海道はすでに準幹線道路であったこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで信長は情報戦を行わなかったこと・・・御存じでしたか?
  • 簗田出羽守が義元の所在を注進したというのは嘘だったこと・・・御存じでしたか?
  • 織田信長自慢の三間半の長柄鑓は寿命が短かかったこと・・・御存じでしたか?
  • 信長が大将ケ根から攻撃発起したのは正しいこと・・・御存じでしたか?
  • 桶狭間の戦いで駿河先鋒隊は既に撤兵を完了していたこと・・・御存じでしたか?
  • 大高城が飢えるには氷上砦・正光寺砦が必要なこと・・・御存じでしたか?
  • 水野十郎左衛門尉は刈谷城主・水野信近だということを御存じですか?
  • 桶狭間の戦い当時、伊勢湾や三河湾に水軍などなかったこと・・・御存じでしたか?
  • 三方ヶ原合戦での信玄の目的は、天竜川以東と奥三河の領国化でしかない。
  • 信玄は、上洛戦において、天竜川右岸を北上したりしてはいない。
  • 岩村城は秋山虎繁に攻めとられたのではなく、岩村城兵が自ら武田方へ寝返ったのである。
  • 長篠合戦は、あるみ原で戦われたのでも、設楽原で戦われたのでもない。強いていうなら連吾川の戦いが正しいのだろう。
  • 長篠合戦での攻め口は三か所しかなく、陣城は築かれなかった。

  最新改稿月日:2011年06月07  

”桶狭間の戦いと具足”(刀剣)に信長の脇差について読売新聞ニュースを採録しました


公開月日:2006年12月12日(原コンテンツの公開日)
旧版(biglobe)は、2007年03月21日に閉鎖しました。

Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9

御断り、 これは、推理の過程を現在進行形で叙述しているものでもありますから、結論から導かれて一貫した体系にはなっていません。そのため、極めて難解かつ解り難いものになっていますが、その点はご容赦ください。………できるだけ誤解をされないように書き改めるようにしますが、御急ぎの方は「真説・桶狭間の戦い」章をご覧いただければと思います。

 

  1. 国土地理院が試験公開している米軍の撮影した航空写真(本文中にも掲載)
  2. 450年前の合戦当日の伊勢湾の水位を推計し直し潮位表を掲載しました
  3. 天白川洪水ハザードマップ削除(代わりに国土交通省版にリンク
  4. その他一部に、電子国土ポータルをリンクしました。