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織田信長と本願寺顕如の間で十年にわたって繰り広げられた石山合戦でしょう。

2011-06-11 22:09:53 | 個性派武将得意戦法

孫一と石山合戦


 

優れた射撃術を誇る鉄炮軍団を率い、織田信長をさんざん苦しめた雑賀孫一。彼が歴史上で華々しく活躍するのは、やはり織田信長と本願寺顕如の間で十年にわたって繰り広げられた石山合戦でしょう。ここではその石山合戦の発端となった銃撃戦、「野田・福島の戦い」をご紹介します。



野田・福島の戦い

 写真は石山本願寺跡に建てられた現在の大阪城
  孫一は終始一貫して信長に対抗したように思われがちであるが、実はそうではない。彼はその「傭兵活動」の一環として、本願寺の決起前には織田方に加勢したこともあるのである。事実1569年に信長が三好党を攻めて阿波に追い払っているが、このとき孫一ら雑賀衆は信長軍の中にいたのである。しかしこれは信長に臣従するという性質のものではなく、あくまで「報酬に対して、それに見合うだけの人数と働き」であった。
 1570年当時、信長は八方に敵を抱えており、中でも前年に信長に京の地を追われ、阿波で逼塞していた三好一党が、一向一揆と手を結んで反旗を翻し摂津に上陸侵攻して来るという挙に出たため、これを押さえるべく天王寺に出陣した。同9月9日、総攻撃をかけるべく天満ノ森に陣を移したのだが、このとき三好方の鉄炮隊を率いていたのが、前年には信長軍にいた孫一なのである。

 ここで9月12日から両軍数千挺の鉄炮による激しい銃撃戦が行われるのだが、この時の織田方の主力銃隊は根来衆・雑賀衆・湯河衆だった。つまり、この時点で雑賀衆も二つに分かれていたのである。推測の域を出ないが、たぶん織田方に加わっていた雑賀衆というのは、根来衆とも比較的近い雑賀三緘衆であろうと思われる。『信長公記』にも次のような記述があるので引用する。

 「根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万ばかり罷立ち、遠里小野・住吉・天王寺に陣取り候。鉄炮三千挺これある由候。毎日参陣候て攻められ候。御敵身方の鉄炮誠に日夜天地も響くばかりに候」

 さて、注意していただきたいのは、このとき孫一は最初から本願寺方に属して信長と戦ったわけではなく、三好党に雇われた一軍団の長として信長を迎え撃っているという点である。しかし話が少しややこしくなるのは、ここで「野田・福島が陥落すれば寺の存続の危機」と、本願寺顕如がついに立ち上がり、9月12日夜に門徒へ決起を促し、織田軍に突如として横あいから攻撃を仕掛けたからである。これには信長も驚いたようで、『細川両家記』には「信長方仰天」とある。
 本願寺はかねてより信長から石山の地に築城したいということで「譲渡」を求められていた。いや、信長のことだから高飛車に本願寺に「明け渡し(立ち退き)」を「命じた」のかもしれない。もちろん顕如がはいそうですかと聞き入れるはずはなく、いずれにせよ本願寺と信長は衝突する運命にあったのである。

 この戦いでおそらく孫一は本願寺に合流して織田方と戦ったと思われる。とはいえ野田・福島の砦はこのまま戦が長引けば、圧倒的な軍事力の差から陥落は必至であろうと思われたが、織田方では佐々成政が負傷、野村越中が討死という結果を残したまま退陣する。というのは、浅井・朝倉・六角氏らが本願寺決起に呼応して信長の将森可成の守備する近江宇佐山城を攻め落とし(可成は戦死)京へと動き出したため、信長はこれらに向け馬首を返さざるを得なかったのである。ともあれ、これ以後十年以上に及ぶ、信長と本願寺間の石山合戦が始まった。

伝説の人・雑賀孫一

2011-06-11 21:52:39 | 個性派武将得意戦法

伝説の人・雑賀孫一


 

優れた射撃術を誇る鉄炮軍団を率い、石山合戦で織田信長をさんざん苦しめた雑賀衆の頭領・雑賀(さいか)孫一。しかしその存在は今もなお謎のベールに包まれています。ここでは伝説の人・雑賀孫一の実像に少し迫ってみます。
ただし、孫一にはまだまだ不明な点が多数あり、研究者の方々の間でも明確な結論は出ていません。以下の内容は今回の調査資料を基にした私なりの見解であって、史実として断定するものではないことをあらかじめお断りしておきます。



「雑賀孫一」という人物

 写真は孫一道場・蓮乗寺にある雑賀孫一の墓
  雑賀孫一は「鈴木孫一」または「平井孫一」とも呼ばれる謎の人物である。資料には「孫市」と書かれている場合も多いが、正式文書の署名時はみな「孫一」となっていることから、これを採用することにし、以下「雑賀孫一」で統一する。彼は鉄炮集団雑賀党の頭領として実在し、石山合戦などに活躍したことは間違いないのだが、さてその人物の特定はとなると難しい。鈴木佐太夫説・重朝説・重秀説などさまざまな見方があるが、どれも決定的なものではない。またこの人物、ありようは紀州雑賀荘7万石の、いわゆる地方の一土豪でしかないのだが、非常に人気がある戦国武将の一人である。なぜだろうか。

 それはやはり織田信長との石山合戦での大活躍であろう。雑賀衆を率いて本願寺方に加勢し、そのすさまじい鉄炮の威力の前には当時日の出の勢いで勢力拡大中であった信長の大軍をもってしても、寺塀に指一本触れることができなかった。当サイトに今までに寄せられた孫一ファンの方々のメール等からも、やや年輩層では司馬遼太郎氏の歴史小説「尻啖え孫市」における超人的な活躍と憎めない人間性、若い世代の方々では某歴史シミュレーションゲームにおける高い戦闘能力などが、そのファンとなったきっかけであるようだ。
 またほとんどの方が「雑賀孫一=鈴木重秀」と見ておられるというか、そうであってほしいと考えておられるようで、私も実はその一人であった。そこでこの機会に少し調べてみようという気になって和歌山へと足を運んだわけである。

 さて、引き続き孫一に関する色々なことを書く前に、この稿を作成するに当たり、雑賀孫一の末裔である蓮乗寺の鈴木ご住職から、非常に好意的かつ多大なご協力をいただいたことに深く感謝するとともに、これから述べることの一部は、鈴木ご住職から拝聴したお話の内容と、ご提供いただいた資料を中心に作成したことも併記させていただく次第である。

松永久秀年表 No.3永禄八(1565)年~永禄十二(1569)年

2011-06-11 21:49:50 | 個性派武将得意戦法
松永久秀年表 No.3永禄八(1565)年~永禄十二(1569)年* 印は閏月を示します。
西暦 和暦 日付 事績
1565 永禄8 1/29 多聞山城で茶会を開く。客は堺隆専・千宗易(利休)・松屋久政・堺宗可。
    5/19 久通・三好義継らが将軍義輝を殺害、次男の興福寺一乗院門跡覚慶(後の義昭)を同院に幽閉する。
    5/23 久通・三好義継らが一乗寺を破壊し放火する。
    7/28 義輝の弟で久秀方に幽閉されていた興福寺一乗院覚慶(後の足利義昭)が幽所を脱し甲賀に走る。
    8/2 丹波八木城主の長頼(内藤宗勝)が黒井城に荻野(赤井)直正を攻めるが逆襲に遭い戦死する。
    8/24 多聞山城内・家臣の瓦林左馬之丞(秀重)屋敷で茶会を開く。客は鉢屋紹佐・堺宗徳・松屋久政。
    10/8 丹波の波多野・須智・柳本氏らが荻野直正方に寝返り山城長坂口に出陣したため、多聞山城より竹内秀勝を差し向ける。
    10/11 竹内秀勝が京から大和へ戻り、釜口に布陣する。
    10/15 小夫城が開城、小夫氏は多田(東山内)へ逃れる。
    10/18 竹内秀勝が帰陣するが、夜にまた京都へ向けて出陣する。十市氏が訴訟のため多聞山城に入る。
    11/15 三好三人衆が義継を擁して飯盛城を攻略、久秀と関係を絶つ。
    11/18 筒井藤勝が布施城へ入る。「國中心替衆數多在之」と見える。
    11/19 阿部山・ナベ塚城が落城。十市郷南部が焼き払われる。また布施城に入った筒井方に細井戸・南郷両氏が同心する。
    11/26 布施氏が高田郷を焼き払う。
    12/19 筒井より中坊駿河守(松永方)が二千の兵を率いて出陣、井戸城に入る。河内・山城口へ二千ほどの兵を率いて出陣し、相楽(南山城)に陳取る。
    12/20 郡山辰巳氏が味方につき、大安寺・辰市へ兵を出す。
    12/21 筒井党への援軍として河内から三好三人衆の軍勢が三千の軍勢を率いて大和へ入り、多聞山城から兵を出すが大事には至らず。
    12/26 三好三人衆が撤退する。多聞山勢が宝来・西京を焼く。
    12/28 多聞山勢が西京へ押し寄せるが、兵を少々損ねる。
1566 永禄9 1/15 越智伊予守家増が筒井氏から貝吹城を受け取り入城する。
    2/4 多聞山城から筒井衆へ討って出、二十余名を討つ。美濃庄に兵を残して久秀は多聞山城に帰陣する。
    2/6 筒井城へ兵粮を入れるべく多聞山城から出陣する。
    2/17 三好三人衆が畠山・遊佐勢と河内に戦い、大勝する。畠山・遊佐方は堺へ逃げる。討ち取った首は実検分の463を含め、1000程という。
    2/19 多聞院英俊が多聞山城にいる筒井方の人質に連絡を取る。
    2/24 久通が筒井城へ兵粮を入れる。その際合戦があり、討死少々と多くの負傷者を出す。
    2/29 久通が筒井城へ出陣、兵の入れ替えを行う。
    3/15 久通が今市城破却に出陣する。
    3/17 筒井城へ兵粮を入れるべく多聞山城から出陣する。
    4/10 三好三人衆が四千の兵を率いて大和へ入り筒井勢と合流、翌日奈良付近の五本松まで迫る。
    4/21 美野庄城を和議にて筒井氏に明け渡す。
    4/26 三好三人衆が大安寺の陣を払い、筒井城攻略へ向かう。
    5/18 夜に多聞山城より摂津へ出陣、翌日摂津中島・野田に布陣する。
    5/24 筒井城周辺の小屋が悉く焼かれる。
    5/29 堺へ入る。
    6/1 大安寺南大門前で郡山衆(筒井方)と多聞山衆による合戦があり、両軍数名の戦死者が出る。
    6/8 筒井平城を筒井氏に明け渡す。筒井六郎(順慶)が入城する。
    8/9 三好三人衆の兵千余が片岡まで出陣する。
    9/18 十市氏が筒井方に同心、田城に陣を置き柳本へ攻めかかる。
    9/25 筒井藤政(順慶)が五千の兵を従え奈良へ入る。西手掻で多聞山衆と山田・井戸衆の間に合戦があり、多聞山衆が少々討ち取られる。
    9/28 筒井藤政が成身院にて得度、陽舜房順慶となる。
    12/2 多聞山衆が吐田郷を焼き払う。
1567 永禄10 4/5・6 和泉堺から大和へ入る。
    4/7 筒井順慶が奈良の陣を払う。多聞山衆は奈良を出陣、五本松に陣を置く。
    4/11 三好義継とともに多聞山城へ入る。
    4/18 三好三人衆が一万余りの軍勢を率いて奈良近辺に陣取り、付近の通行が不能となる。
    4/24 天満山・大乗院山に三人衆と順慶勢が陣を移したため、寺内(東大寺か)の塔や南大門に登り鉄砲を放つ。このため昼夜分かたず「雷電の如き」銃撃戦となる。
    5/2 石成(友通)・摂津池田衆以下約一万の兵が東大寺へ陣替え、念仏堂・二月堂・大仏殿の回廊などへ布陣したため、戒壇院に楯て籠もる。
    5/5 池田衆・三好山城守(康長)の交替として四・五千の兵が来着する。
    5/17 摂津の池田勝正が自ら西方寺に着陣。下野守(三好政康)は天満山から七・八千の兵とともに西ノ坂へ陣替えし、念仏堂にいた石成配下の衆は氷室山法雲院裏手の畠に布陣する。筒井順慶は大乗院山を動かず、東大寺内への通路を絶つ。
    5/18 多聞山が焼き討ちを受ける。般若寺・文殊堂など多数の伽藍が焼け、飛び火して戒壇院の授戒堂はじめ南北水門まで悉く焼ける。
    5/24 多聞山より無量寿院を焼く。三好三人衆が法輪院へ入ったため多聞山から火矢を放ち、寶徳院・妙音院・徳蔵院・金蔵院以下悉く焼ける。
    5/28 秋山衆が無量寿院屋敷門の築地に櫓を上げて押し寄せ、死者二名・手負い少々を出す。
    6/4 夜、筒井衆が興福寺内へ火矢を放つが、火災は起こらず。
    6/5 筒井順慶が龍花院方の発心院・中蔵院・千手院・大聖院・安養院・谷坊・慈明坊へ陣を移す。
    6/17 信貴山衆が箸尾衆(同為綱方)とともに筒井郷椎木・小泉周辺に放火する。
    6/27 花厳院にて筒井順慶が三好三人衆に久秀との和睦をもちかける。
    7/23 三好三人衆の調略により松永方の五人が内応、東大寺戒壇院・千手堂を焼く。
    8/25 飯盛城の松山安芸守が久秀方に寝返る。
    8/26 三好三人衆の石成ら二千の兵が河内へ向かう。
    9/4 根来衆が三人衆方の吐田郷を焼く。
    9/5 根来衆が幸田城を攻めるが落とせず退く。
    10/10 東大寺大仏殿の三人衆の陣に攻め掛け、大仏殿が焼ける。氷室山の別所・郡山辰巳勢は陣を焼いて落ちる。
    10/15 松山安芸守が三好三人衆に飯盛城内の私宅を攻められ和睦し堺へ退く。安芸守は再び三人衆方へ付く。
    10/21 飯盛城を篠原長房・三好日向守長逸が請け取り入城する。
    11/27 久通と連名で春日社山内(興福寺)へ三箇条の禁制を下す。三好義継からも同文言の制札あり。
1568 永禄11 2/20 十市遠勝が秋山氏を森屋城に攻め落とす。
    3/11 十市遠勝が三好山城守・篠原弾正と誓紙を交わす。
    8/17 三好三人衆が六角承禎と談合すべく近江へ下る。
    9/25 箸尾氏が十市郷五ヶ所を焼く。
    9/26 織田信長が足利義昭を擁して上洛する。
    9/27 箸尾氏と竜王山城を陥れた秋山氏が十市郷で苅田・放火する。
    9/28 上洛した信長に人質として廣橋氏の娘を差し出す。
    10/4 信長から大和一国の支配を認められる。井戸氏以下の大和国人衆も義昭に拝謁、信長の配下に属すことを求めるが拒否される。
    10/6 久通が筒井郷へ攻め寄せ、城際まで焼く。筒井順慶は堅固に籠城する。
    10/8 久通が筒井城を再び奪回する。筒井氏は夕刻に城を脱出する。
    10/10 信長配下の細川藤孝・和田惟政・佐久間信盛らが二万の大軍にて大和へ入り、窪城の城を開城させる。森屋城も奪う。
    10/15 豊田城を落とす。
    10/18 足利義昭が征夷大将軍となる。
    10/19 井戸城周辺他四ヶ所に布陣していた久秀勢が布施城へ向かう。
    10/21 柳本・福智堂が久秀方に寝返る。
    11/9 久通が秋山衆を先手に、十市衆を大西城に攻め落とす。
    12/24 名刀不動国行など「名物」を多数持参して岐阜へ赴き、そのまま越年する。
    12/28 三好三人衆が松永方池田丹後・寺町らを和泉家原城に攻め落とす。
1569 永禄12 1/10 織田信長に従い岐阜から上洛する。
    4月 弾正少弼を改め山城守と称す。
    4/8 久通・三好義継・畠山高政らとともに片岡城攻めに出陣する。
    4/16 片岡城が落城する。
    4/18 父子で万歳城を攻める。
    5/10 父子で貝吹城を攻めるが自軍に損害を出す。
    5/16 久通とともに井戸表へ陣替えする。
    5/18 久通とともに御所の一向宗道場を破却する。
    7/23 東山内の小夫城を陥れる。
    7/24 深川を攻める。
    8/20 布施衆と戦う。布施で刈田ののち田中表へ攻め寄せる。
    9/4 井戸表へ帰陣する。
    10/24 十市遠勝(遠成)が没す。十市氏家中が松永・筒井二派に分裂する。
    10/29 多聞山城下の法蓮郷に市を立てる。
    11/4 越智氏の貝吹城が久秀方に渡る。また近々北里にも久秀が市を立てるとの風聞が伝わる。
    12/9 筒井・興福寺衆五百が十市城に入り今後について談合するが決裂、久秀派の河合権兵衛以下六名は城を出て今井に移る。

松永久秀年表 No.1永正七(1510)年~永禄元(1558)年

2011-06-11 21:31:41 | 戦国時代考証
松永久秀年表 No.1永正七(1510)年~永禄元(1558)年* 印は閏月を示します。
西暦 和暦 日付 事績
1510 永正7 -- [参考] この年、久秀生まれる。出自や出生地については諸説あって不詳。山城西岡・摂津五百住はじめ加賀・筑前・阿波・豊後・近江などとする伝承が残る。
1527 大永7 3月 三好元長が足利義維・細川晴元を奉じて堺に上陸する。
1529 享禄2 -- [参考] この頃、三好元長に仕える。
1532 天文1 6/20 三好元長が細川晴元方一向一揆勢の襲撃を受け、堺の顕本寺で自刃。享年32歳。
1533 天文2 6/20 三好長慶が阿波芝生城より大坂へ入る。
1541 天文10 -- [参考] この頃から、三好長慶の祐筆として活動する。
1542 天文11 11/26 三好長慶の部将松永弾正が山城に着陣、近日乱入するとの風聞が大和に流れる。(確実な記録における久秀の初見)
1549 天文18 10月 松永甚介(長頼=弟)、細川氏綱より山城七郷を給せられる。
    12/15 本願寺証如から贈物を受ける。
1550 天文19 5/4 足利義晴が近江坂本で病没する。享年40歳。
    10月 山城小栗栖で甚介長頼・今村紀伊守(慶満)が違乱する。
    11/20 長頼が長慶の先鋒大将として近江へ攻め入り、大津に放火する。
1551 天文20 2/7 長頼とともに近江大津へ出陣、六角勢と戦う。
    3/3 長慶が京都市中に地子銭を課し、久秀はこれを厳しく取り立てる。
    3/14 長慶が伊勢貞孝亭で進士九郎賢光に襲われ負傷する。賢光はその場で自害する。
    5/5 河内守護代で長慶の岳父・遊佐長教が暗殺される。
    7/14 長頼および摂津・河内・大和衆とともに細川晴元の将三好政勝・香西元成らを京都相国寺に攻め破る。
1552 天文21 4/25 長慶とともに丹波に出陣、八上城を包囲する。
    12月 朝廷四府(左右近衛府・左右兵衛府)の駕輿丁御服座衣更の件を裁判する。
1553 天文22 3/16 山城畑で細川晴元の兵と戦い、これを破る。
    8/22 芥川孫十郎が長慶に降伏して芥川城を明け渡し、長慶・久秀が請取りに赴く。以後両者ここに居住す。
    9/3 長頼とともに丹波へ出陣、八上城に波多野与兵衛(晴通)と戦い敗れるが、退却時に三好政勝らに落とされた八木城を奪回して入る。これ以後長頼が内藤氏を嗣ぎ八木城主となる。
1554 天文23 4/12 長慶とともに丹波桑田郡へ出陣、三好政勝方の小城を攻め落とす。
1556 弘治2 1/1 芥川城で火災が起き、久秀や義興の陣所などが焼ける。
    1/11 芥川城を引き上げる。
    2/11 長慶が山城にて七箇条の掟を定め、久秀がこれを奉行する。
    4月 宇治橋の新造につき、長頼がこれを沙汰する。
    5月 久我通興家臣の山国庄入部に際し、長頼が警護のため随行する。
    5月 長頼が宇津氏討伐のため丹波に入る。
    7/10 当時の居城・摂津滝山城へ長慶を招待する。
1558 永禄1 5/9 長頼・三好長逸らとともに足利義輝・細川晴元迎撃のため吉祥寺・梅小路・七条千乗寺・六条中堂寺に布陣する。
    5/12 勧修寺晴秀を通じて京都の警護は別儀無きことを奏聞してもらうよう申請する。
    5/19 長頼・三好長逸・伊勢貞孝らと一万五千の兵を率いて市中を打廻す。
    6/8 勝軍山を奪った義輝・晴元方に対抗し、長頼・三好長逸らと如意嶽に上る。
    6/9 長頼や摂津・丹波の兵とともに義輝・晴元の兵と白川口で戦う。
    7月 京中の地子銭徴収の奉行を務める。
    11/27 長慶が将軍義輝と和睦し上洛する。
    12/18 長慶とともに京都から芥川城へ戻る。