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戦国時代の梟雄と呼ばれ、三好氏の重臣から台頭して、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。

2011-06-10 17:20:42 | 足軽の階級

はじめに


戦国時代の梟雄と呼ばれ、三好氏の重臣から台頭して畿内での一大勢力となり、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。後世における彼の人物評は決して芳しいとは言えませんが、実際どういう人物だったのでしょうか。このコンテンツでは彼の生涯を詳しく追ってみます。


松永久秀の出自

 「略歴」の稿でも述べたが、松永久秀の出自・出生や前半生はよくわかっていない。出自については一般には山城西岡の生まれとするものが多いようであるが、真偽はともかく久秀および松永氏の出自に触れた記録として、参考までに以下にひとつ掲げる。

「松永花遁の家は、松永弾正久秀に出づ。久秀姓は藤原、その先世は蓋し筑前の人なり。家系の詳細は、今得て詳にすべからざるも、傳ふる所によれば、源平氏の時代に著はれたる鎭西の名家原田種直の一族にして、種直が太宰少貳を以て平家の號令を奉じ、九州二嶋の政務を管する頃には、松永某太宰府の属員たり。安徳天皇の西遷に方り、宗家を同じく王事に勤め、後ち源氏に降りて世々筑前に居り、元寇の役に功あり。下って南北朝以降戦國の世には、豊後の大友氏に隷し、時に或は長門の大内氏に属し、猶ほ九州の一武士なりしと云ふ。久秀此族より出で、足利幕府末葉の執事職三好筑前守長慶に仕へ、文書の才を以て祐筆となり、最も親信を受け、漸次登用せられて京都の所司代となり、長慶老を告げて本國阿波に歸るに及び、代はりて自ら足利氏の執事職となり、弾正忠從五位下を受領し、久しく政を握りしが、織田信長起るに及び、之と事を搆へ、一旦居る所の西京多門城を納れて降りたるも、ふたヽび懽を失し、和州志貴城に據りて兵を交へ、信長の子信忠攻圍する所となり、天正五年十月十日、防戰力盡るに及び、自ら火を城砦に放ち、自殺す。京都の日蓮宗本國寺に墓あり。法號を妙久寺殿祐雪大居士といふ。」

 これは筑前博多の松永花遁宗助家に関する記録であるが、これによると久秀は太宰府の属員である松永氏の出自とされる。記録によると、久秀の子久通に幼名一丸なる子がおり、乳母とともに遠く筑前に難を逃れて民間に隠れ住んだという。一丸は長じて彦兵衛と称し博多で質店を開業したが、この彦兵衛を家祖とする八代目の末裔が松永花遁宗助とある。
 なお、文中に見える「京都本國寺の墓」は、旧久秀京都屋敷跡であった京都市下京区の妙恵会墓地に現存するが、伝えるところによると久秀は本國寺塔頭戒善院の檀徒で、松永家先祖の供養のため天正年間に土地を寄進したという。
 墓は久秀・久通と法名「法賢院宗秀居士」なる人物(不詳)との合葬墓碑となっており、かなり後になって建立されたものとみられ、その位置は江戸時代の高名な儒学者で一説に曾孫と伝える松永尺五家墓地の一角にある。


松永久秀の人物像

 久秀には多くのエピソードが残されている。「三好義興を暗殺した」「将軍義輝を殺した」「讒言により三好長慶に弟安宅冬康を殺させた」「奈良東大寺の大仏殿を焼いた」etc・・・。しかしこれらには確たる証拠はなく、実際そうしたことを行ったかどうかはわからない。とは言え、こういった記録を残されているということは、少なくとも記録者側の立場にとって彼が「悪人」として映っていたことは否定できない。
 久秀は三好長慶の祐筆より台頭したという。彼には甚介(助)長頼という弟の存在が知られており、長頼は三好家の丹波方面司令官として活躍していたことから、当初は弟の方が三好家に重用されていたのかもしれない。
 久秀は永禄二年八月以降、その主な活動の場を大和に移した。信貴山城(平群町)を修築して本拠とし、さらに南都(奈良)に多聞山城を築き子の久通を入れて大和の二元支配を行った。一時織田信長から大和支配を許されるほどになったものの、結局は背いて天正五年(1577)十月十日、信貴山城に滅ぶ。

 前半生不明の久秀が確かな記録に登場するのは、天文十一年(1542)十一月二十六日のことである。

(今)般三好源三郎當國可亂入歟之由種〃造意、則山城ニテ松長(永)弾正已下人數近日罷越了、仍爲調伏被修之了」(『多聞院日記』同日条)

 この年の三月には、大和へ侵入して一部を支配していた木沢長政が河内太平寺に敗死しており、八月には筒井順昭が畠山稙長の松浦氏討伐に加勢して高屋城に入るなど、大和国人衆の動きが激しい時期であった。三好氏に当時大和侵入の意志があったかどうかは不明だが、「弾正已下人數近日罷越了」と見えるように、久秀は当時既に弾正と称していて三好家中で一部隊を率いる地位にあったことがわかる。
 当コンテンツ「松永久秀の生涯」においては、これをもって「戦国武将・松永久秀」の出現とし、出来るだけ信憑性の高い史料を中心に用いてその後の彼の行動を追い、その素顔に迫ってみたい。

三好氏の重臣から台頭して畿内での一大勢力となり、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。

2011-06-10 17:13:20 | 個性派武将得意戦法

はじめに


戦国時代の梟雄と呼ばれ、三好氏の重臣から台頭して畿内での一大勢力となり、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。後世における彼の人物評は決して芳しいとは言えませんが、実際どういう人物だったのでしょうか。このコンテンツでは彼の生涯を詳しく追ってみます。


松永久秀の出自

 「略歴」の稿でも述べたが、松永久秀の出自・出生や前半生はよくわかっていない。出自については一般には山城西岡の生まれとするものが多いようであるが、真偽はともかく久秀および松永氏の出自に触れた記録として、参考までに以下にひとつ掲げる。

「松永花遁の家は、松永弾正久秀に出づ。久秀姓は藤原、その先世は蓋し筑前の人なり。家系の詳細は、今得て詳にすべからざるも、傳ふる所によれば、源平氏の時代に著はれたる鎭西の名家原田種直の一族にして、種直が太宰少貳を以て平家の號令を奉じ、九州二嶋の政務を管する頃には、松永某太宰府の属員たり。安徳天皇の西遷に方り、宗家を同じく王事に勤め、後ち源氏に降りて世々筑前に居り、元寇の役に功あり。下って南北朝以降戦國の世には、豊後の大友氏に隷し、時に或は長門の大内氏に属し、猶ほ九州の一武士なりしと云ふ。久秀此族より出で、足利幕府末葉の執事職三好筑前守長慶に仕へ、文書の才を以て祐筆となり、最も親信を受け、漸次登用せられて京都の所司代となり、長慶老を告げて本國阿波に歸るに及び、代はりて自ら足利氏の執事職となり、弾正忠從五位下を受領し、久しく政を握りしが、織田信長起るに及び、之と事を搆へ、一旦居る所の西京多門城を納れて降りたるも、ふたヽび懽を失し、和州志貴城に據りて兵を交へ、信長の子信忠攻圍する所となり、天正五年十月十日、防戰力盡るに及び、自ら火を城砦に放ち、自殺す。京都の日蓮宗本國寺に墓あり。法號を妙久寺殿祐雪大居士といふ。」

 これは筑前博多の松永花遁宗助家に関する記録であるが、これによると久秀は太宰府の属員である松永氏の出自とされる。記録によると、久秀の子久通に幼名一丸なる子がおり、乳母とともに遠く筑前に難を逃れて民間に隠れ住んだという。一丸は長じて彦兵衛と称し博多で質店を開業したが、この彦兵衛を家祖とする八代目の末裔が松永花遁宗助とある。
 なお、文中に見える「京都本國寺の墓」は、旧久秀京都屋敷跡であった京都市下京区の妙恵会墓地に現存するが、伝えるところによると久秀は本國寺塔頭戒善院の檀徒で、松永家先祖の供養のため天正年間に土地を寄進したという。
 墓は久秀・久通と法名「法賢院宗秀居士」なる人物(不詳)との合葬墓碑となっており、かなり後になって建立されたものとみられ、その位置は江戸時代の高名な儒学者で一説に曾孫と伝える松永尺五家墓地の一角にある。


松永久秀の人物像

 久秀には多くのエピソードが残されている。「三好義興を暗殺した」「将軍義輝を殺した」「讒言により三好長慶に弟安宅冬康を殺させた」「奈良東大寺の大仏殿を焼いた」etc・・・。しかしこれらには確たる証拠はなく、実際そうしたことを行ったかどうかはわからない。とは言え、こういった記録を残されているということは、少なくとも記録者側の立場にとって彼が「悪人」として映っていたことは否定できない。
 久秀は三好長慶の祐筆より台頭したという。彼には甚介(助)長頼という弟の存在が知られており、長頼は三好家の丹波方面司令官として活躍していたことから、当初は弟の方が三好家に重用されていたのかもしれない。
 久秀は永禄二年八月以降、その主な活動の場を大和に移した。信貴山城(平群町)を修築して本拠とし、さらに南都(奈良)に多聞山城を築き子の久通を入れて大和の二元支配を行った。一時織田信長から大和支配を許されるほどになったものの、結局は背いて天正五年(1577)十月十日、信貴山城に滅ぶ。

 前半生不明の久秀が確かな記録に登場するのは、天文十一年(1542)十一月二十六日のことである。

(今)般三好源三郎當國可亂入歟之由種〃造意、則山城ニテ松長(永)弾正已下人數近日罷越了、仍爲調伏被修之了」(『多聞院日記』同日条)

 この年の三月には、大和へ侵入して一部を支配していた木沢長政が河内太平寺に敗死しており、八月には筒井順昭が畠山稙長の松浦氏討伐に加勢して高屋城に入るなど、大和国人衆の動きが激しい時期であった。三好氏に当時大和侵入の意志があったかどうかは不明だが、「弾正已下人數近日罷越了」と見えるように、久秀は当時既に弾正と称していて三好家中で一部隊を率いる地位にあったことがわかる。
 当コンテンツ「松永久秀の生涯」においては、これをもって「戦国武将・松永久秀」の出現とし、出来るだけ信憑性の高い史料を中心に用いてその後の彼の行動を追い、その素顔に迫ってみたい。

三好長慶没後は義継が後を嗣ぎますが、まだ若い義継の器量では荷が重かったようです。

2011-06-10 16:57:23 | 個性派武将得意戦法

三好三人衆との対立


三好長慶没後は義継が後を嗣ぎますが、まだ若い義継の器量では荷が重かったようです。久秀は弟長頼の戦死を境に三人衆と対立して袂を分かち、ついに三好家中は分裂しました。


弟長頼の戦死
 
 将軍義輝が殺害された際、弟で鹿苑寺の僧となっていた周嵩は殺害され、末弟の覚慶は奈良興福寺一乗院に幽閉された。覚慶は七月二十八日に細川藤孝らの活躍によって一乗院からの脱出に成功、甲賀の和田惟政の館へ走る。後に彼は朝倉義景のち織田信長を頼るが、この間に還俗して足利義秋と名乗り、やがて信長の力を借りて十五代将軍義昭となる。
 さて、三好三人衆と組んで義輝襲撃を画策した久秀父子だったが、程なく久秀いや松永氏にとって痛恨の極みと言える大事件が起こった。最も頼りになる弟で丹波八木城主・長頼(内藤宗勝)が戦死したのである。

  丹波では荻野(赤井)・波多野氏らと三好氏の対立が長く続いていたが、天文二十二年に丹波守護代内藤国貞が八木城に戦死すると、同城を奪還した長頼が内藤氏の後を嗣いだ。甚介長頼はこれを機に内藤備前守宗勝と改め、また蓬雲軒と号した。画像は八木城跡(京都府船井郡八木町)の遠景である。
 あと一歩で丹波一国支配というところまで来ていた長頼だが、永禄八年に丹波黒井城主・荻野(赤井)直正を同城に包囲中、八月二日に直正の逆襲を受け戦死してしまった。

 長頼は天文十八年に細川氏綱から山科七郷を給せられた頃から記録に登場し、翌年には三好氏の先鋒大将として近江大津へ出陣、六角氏と戦っている。その後二十二年には内藤氏を嗣いで八木城主となり、弘治三年以降は氷上郡を除く丹波を支配するなど、三好氏の丹波方面司令官として大いに活躍した。
 長頼の死は久秀はもちろん、三好氏にとっても大打撃であった。事実、丹波一国を失った三好氏は若い義継の手腕では立て直せず、やがて崩壊していく。義輝襲撃の際には久通と行動を共にした三好三人衆とも、これを境にして対立が目立つようになっていった。


三好三人衆との対立
 
 三好三人衆とは山城飯岡城主・三好日向守長逸を筆頭とし、山城木津城主・三好下野守政康、山城勝竜寺城主・石成主税助友通の三人をいう。長逸は長慶の父元長の従弟で、政康は長慶の祖父長秀の弟頼澄の子とされ(異説あり)、ともに一族である。彼らは初めは個別に記録されていたが、『細川両家記』永禄八年条に
 
「同年乙丑初秋の比より三好御同名衆日向守。下野守。石成主税助今號三人衆と」
 
とあり、概ね永禄八年初秋の頃から「三人衆」と呼ばれ始めたものとみられる。

 永禄八年十一月、三人衆は河内飯盛城を襲って久秀派の金山長信を殺害、義継を高屋城へ拉致して久秀との関係を絶つよう強要した。さらに阿波にいた足利義維の子義栄を擁立して久秀追討の御教書を作成させ、軍を大和へ入れた。
 東山内に逼塞していた筒井氏は、この状況を見てすかさず三人衆と組む。対する久秀は旧河内勢力の畠山・遊佐・安見氏や紀伊根来衆に檄を飛ばし、もはや一回り規模の大きくなった衝突は時間の問題となっていった。
 翌年二月四日、久秀は多聞山付近に三人衆勢を破り、畠山勢らは高屋城に迫った。しかし十七日には逆に和泉上之芝(上野芝)で大敗し、勢いづいた三人衆は筒井勢とともに多聞山城へと攻め寄せた。六月には三人衆の力を借りた筒井藤勝が筒井城を奪回している。
 その後小競り合いが続くが、劣勢となった久秀は姿をくらました。三人衆は堺制圧に続き入京を果たして畿内の支配体制を整える一方、阿波から上洛を目指した足利義栄が摂津普門寺に入り、義継と三人衆の大願が成就するかに見えた。

 しかし思わぬ事態が起こった。三人衆や阿波から兵を率いてきた篠原長房は義栄を敬い、若い義継を冷遇した。これに怒った義継は三人衆方を離れ、三好康長らと久秀方へ再び寝返ったのである。そんな中に久秀も姿を現して多聞山城へ入り、やがて両者の南都対陣を迎える。
 両勢は南都を舞台に大激戦を演じ、十年十月には東大寺大仏殿が両者の兵火によって炎上した。戦況は久秀方が優勢で、三人衆はじわじわと追いつめられていき、やがては木っ端みじんに砕け散ることになる。しかし、その相手は久秀ではなかった。
 先に興福寺一乗院を脱出した義秋を擁し、織田信長が上洛してきたのである。

【お断り】
 現在、奈良県西和区域の月刊タウン紙「うぶすな」に松永久秀関連のコラムを連載中です。これ以下の稿も一応出来上がってはいますが、重複する部分が多々ありますので、続きの稿は新聞掲載終了後に順次UPさせていただきます。予めご了承下さい。

戦国の梟雄と呼ばれる松永久秀ですが、その出自は不明です。

2011-06-10 16:53:04 | 戦国ロマン

山城から大和へ


戦国の梟雄と呼ばれる松永久秀ですが、その出自は不明です。久秀は三好氏の将として初め山城方面で活動しており、弘治年間には摂津滝山城を居城としていました。しかし永禄二年に大和へ侵入すると、信貴山城を本拠として本格的な活動を開始します。


山城から大和へ

 戦国期の梟雄として知られる松永久秀。彼の出生地については京都西岡とするものが多いが、他に摂津・加賀・筑前・阿波・豊後・近江などとする説も存在する。また生年についても永正七年(1510)説が主流となっているようではあるが、これも確かなものではなく、現状では一切が不明と言わざるを得ない。はっきりしていることは近畿一円に強大な勢力を有した三好長慶の下で力をつけ、後に独立した戦国大名となったということである。
 久秀が三好家の武将として、初めて確かな記録に見えるのは天文十一年(1542)十一月のこと。永正七年の生まれとする説を信ずるならば、三十三歳の時のことである。また久秀には甚介長頼という弟の存在が知られており、長頼もまた三好家の丹波方面の有能な指揮官として重用されていた。
 永禄元年(1558)までの間、久秀は三好長慶や弟長頼とともに主として丹波・山城・摂津方面で活動していた。天文二十二年~弘治二年正月までは長慶とともに摂津芥川城(高槻市)にいたようである。弘治二年七月には摂津滝山城(神戸市)に長慶を招いており、おそらくこれが久秀最初の居城と考えられる。当時三好長慶は室町幕府十三代将軍・足利義輝や近畿管領の細川晴元、近江の六角氏などと対立し、度々戦闘を交えていた。久秀はこういった戦いへの参陣に加え、長慶が京都市中に課した地子銭を取り立てたり、また定めた掟を奉行したりと、軍政両面における長慶の「懐刀」的な役割を務めていたようである。

 天文年間の大和は国情が不安定で、天文五年(1536)六月からの木沢長政の侵入に際しては国人衆が一揆を結成してこれに立ち向かったが、長政が滅亡すると国人一揆は再び崩壊した。これを機に筒井順昭が勢力を盛り返し、混乱は収束に向かうかに見えたが、同十九年六月に順昭は二十八歳の若さで病没してしまう。幼い順慶が跡を嗣いで筒井氏の惣領となるが、大和の国情は再び混沌としつつあった。

  永禄元年十一月、長慶と将軍義輝らの間に和睦が成立し、京都周辺はひとまず平穏になった。そして翌年八月、三好長慶は河内守護代安見直政を高屋城に攻め、紀伊に逃れていた畠山高政を同城に迎えると、久秀を大和に派遣し筒井・十市氏らを攻めさせた。筒井城主・筒井藤勝(のちの順慶)は当時まだ十一歳で、松永勢の猛攻の前にかろうじて城を脱出し、椿尾上城(奈良市)へと逃れた。ここに大和における久秀と藤勝との長い戦いの幕が切って落とされたのである。久秀は信貴山城を再築してこれを本拠とし、腰を据えて大和支配に乗り出した。左の図は信貴山城の縄張り図で、相当大規模な城構えであることがおわかりいただけよう。
(「平群町遺跡分布調査概報」平群町教育委員会 1989/掲載許可済)


大和二元支配へ

 筒井氏を追い出した久秀は精力的に大和掌握へと動き、大和国人衆を次々と配下に組み入れて勢力を拡大していった。彼は永禄三年二月四日には弾正少弼に任ぜられ、翌四年には従四位下に昇り将軍足利義輝の相伴衆となるなど勢いを増すが、従四位下といえば主君三好長慶(天文二十二年三月任官)と同位である。同時に義輝から桐紋と塗輿の使用を許されているが、これらも長慶と同格の待遇であり、三好家中で相当な地位にあっただけでなく、幕府からも十分に実力を認められていたことが窺える。

  久秀は続いて奈良の眉間寺(現在は若草中学校の敷地)を破壊して多聞山城を築き、嫡子右衛門佐久通を入れた。地理的に見て信貴山城は河内・和泉(堺)方面と、多聞山城は山城方面との連絡に便利で、久秀の描いたであろう大和を中心とする広大な支配圏構築の青写真が垣間見える気がする。ともあれ、ここに信貴山城と多聞山城による本格的な大和二元支配がスタートしたのである。(写真は東から望む多聞山城の遠景)

 この城の特筆すべき点は、石垣上に久秀が考案したとされる「多聞櫓」なる建造物が設けられていたことである。これは城郭内部の防御と、非常用食糧や武器などの備蓄を兼ねた長屋形式の櫓で、「土の城」が主流だった当時としては画期的かつ最先端の設備であった。城内には家臣たちの屋敷はもとより、国人衆の人質を収容する牢屋や茶室も設けられてあり、単なる軍事拠点ではなく地域を統治する政庁として機能していた。当時多聞山城を訪れたキリスト教宣教師たちの記録に、それまで見たことがないほど白く輝く城壁や、四層の天守に驚いたことが記されており、相当な威容を備えた城であったことは間違いない。
 多聞山城は近世城郭の原型とされ、織田信長の安土城に始まる、いわゆる「織豊系城郭」の成立にも少なからず影響を及ぼしたと考えられている。小説などでは悪玉として描かれがちな久秀だが、創意工夫に長けた、非常に頭の切れる人物であったことだけは確かである。

見事「無刀取り」の難題を解決した柳生宗厳に流派の印可状を与えた剣聖信綱の晩年をご紹介します。

2011-06-10 00:05:04 | 個性派武将得意戦法
剣聖上泉信綱の終焉
見事「無刀取り」の難題を解決した柳生宗厳に流派の印可状を与え、二人の弟子たちとも別れ、万感の想いを胸に故郷へと向かった剣聖信綱の晩年をご紹介します。


「無刀取り」の完成

 永禄八(1565)年4月、信綱は鈴木意伯と名乗る供一人を従えて大和柳生の郷に戻って来た。また別の門人かと思うと、そうではない。この鈴木意伯こそ、神後伊豆守宗治その人なのである。鈴木というのは彼の母方の姓という。しかしこの稿では今まで通り神後伊豆の名をもって書くことにする。
 宗厳と久々に対面した信綱は、請われるままに二人きりで道場に籠もり、彼が格段の進歩を遂げたことを悟った。信綱の感激は大きかった。「もはや我らの及ぶところではない」とまで称賛し、直ちに新陰流の印可状を与えたという。

 しかし翌五月、またもや悲報がもたらされた。将軍義輝が松永久秀らによって暗殺されたのである。信綱はどんな想いをしたであろう。程なく彼は京に戻り、しばらく記録が途絶えているが、京のどこかにいたようだ。そして元亀元(1570)年6月27日、今度は彼は神後伊豆を打太刀に、正親町天皇の御前で武術としては初めての天覧演武の栄に浴し、さらに従四位下武蔵守に叙せられたのである。


剣聖上泉信綱の終焉

 元亀二(1571)年七月、信綱は京を去り故郷上州へと旅立つ。時に信綱64歳のことであった。そこからの足取りは不明だが、天正五(1577)年上泉の地に戻り、下総国府台合戦にて戦死した息子秀胤の13回忌の法要を行ったという記録があるという。その後彼は後妻(北条綱成の娘)との間にもうけた二人の子有綱・行綱が兵法師範をもって仕えている小田原北条家へと向かったようだ。
 そして天正十(1582)年。ついに不世出の剣聖・新陰流祖上泉武蔵守信綱は、相模小田原でその前半生は波乱に明け暮れた上州の一小領主として、後半生は高名な武芸者としての生涯を閉じた。享年75歳であった(一説に天正五年正月十六日、70歳で死去ともいう)。

 彼は地上から消えたが、その流派新陰流は実に多士済々の剣豪を輩出、数多の派生流派を誕生させ、その道統は現在に至るまでなお生き続けている。


弟子たちのその後

 ところで、神後伊豆や疋田文五郎はその後どういう生涯を送ったのであろうか。簡単に付記しておくことにする。

【神後伊豆守宗治】
 彼の没年時ははっきりしていない。一時関白豊臣秀次の兵法師範を務めたのは確かであるが、その後尾張徳川家に仕えたとも、出羽秋田佐竹家に仕えたともいう。

【疋田文五郎景兼】
 彼は信綱と別れた後、丹後宮津の細川幽斎、次いで幽斎の子で豊前中津に転封された忠興に仕えた。その後肥前唐津の寺沢広高を経て、豊臣秀頼の大坂城で彼は終焉を迎える。慶長十(1605)年9月30日歿。享年79歳という。