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2011-06-05 17:58:10 | 足軽の階級

八幡城の戦い
~稲葉貞通の関ヶ原~


さて、今度は当時の郡上八幡城主・稲葉貞通の動きを追ってみます。彼の留守中に旧領主遠藤慶隆が、金森勢とともに八幡城へ侵攻してきました。急を聞いた彼は即座に軍を返し、八幡城救援に向かいます。



稲葉一族

 稲葉一族は伊予守通富(通貞)に始まる。彼は伊予国守護河野刑部大輔通教(通直)の六男で、故あって伊予を追われたが、美濃国守護土岐左京大夫成頼に遇された事が縁で、彼の妹を娶って稲葉姓に改姓し美濃に住み着いたと伝えられる。

  「頑固一徹」で有名な西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄良通は、この伊予守通富の長男備中守(初め右京亮)通則の六男、すなわち孫である。この稿とは直接関係ないが、大永五(1525)年八月二日、美濃土岐氏に属していた稲葉通則父子一党は、美濃牧田の戦いにおいて近江の浅井亮政と大激戦を演じ、父子六人全てが討死という悲劇に遭っている。このため六男の一鉄良通が家督を嗣いだのだが、わずか十一歳の時の出来事であったという。写真はその牧田合戦の行われた場所(養老郡養老町)に建つ碑で、南宮山の南東麓、牧田川左岸の田園地帯にひっそりと建っている。

  この稿の主人公で、美濃曾根城主から天正十六年に郡上八幡城主となった右京亮貞通は、この一鉄良通の二男である。貞通は初め西軍に属し、岐阜城主織田秀信の命により石川貞清の守る犬山城救援に出陣、八幡城は末子の美濃中山城主・修理亮通孝にわずかの兵を与えて守らせていた。これを聞きつけた元八幡城主で旧領奪回を切望していた東軍の遠藤慶隆は、千載一遇のチャンスとばかり、まず井伊直政・本多忠勝両将の許可を取り付け(後に家康の許可も得ている)、娘婿の高山城主金森可重の援助を得て八幡城攻めに踏み切ったのである。写真は貞通の旧居城・美濃曾根城跡の華渓寺で、この裏手は 曽根城公園 として整備されている。

 さて、遠藤慶隆の娘婿金森可重は法印長近の養子となっており、この時家康の会津征伐に従軍していた。江戸で家康から慶隆の郡上八幡攻略への加勢を命じられた可重は、急ぎ飛騨高山へと戻り、途中で慶隆に使を送って侵攻経路を指示した。すなわち可重は坂本口より、金森家臣池田図書は白川口より攻め込むので、慶隆は益田口から攻め込んで合流しようというものである。


八幡城の戦い

  八月二十八日、慶隆は四百の兵を率いて佐見吉田を出陣、飛騨街道を田島へと向かった。翌日金森勢と合流、途中口洞峠で稲葉勢の伏兵に銃撃を受けたが、進路を変えて城の南・阿久田(現郡上市八幡町安久田)へ到着した。金森勢は可重隊が城の東・小野の滝山へ、池田隊は城の西にある五町山に登ってそれぞれ布陣、三方からの攻撃態勢を構築した。そして九月一日、八幡城攻めが一斉に開始された。
 一方、犬山城にいた貞通はと言えば、実はこの時点で知己の福島正則の勧めにより東軍に転じることを決めていたのである。これを受けて福島正則は井伊直政と相談し、直政は慶隆宛に八幡城攻撃を中止するよう書状を発したが、慶隆は「もはや手はずも整っている上、貞通父子は今なお犬山城にいて向背の程が知れない」と拒否した。これが八月三十日のことである。子の通孝からの急使により慶隆らの侵攻を知らされた貞通は、驚きまた怒って急ぎ八幡城へと戻っていった。 写真は八幡城の天守閣で、前述「上ヶ根の戦い」にも八幡城の遠景のカットを入れたが、実に美しい城である。

 さて、再び八幡城。可重隊は激しい銃撃戦の末に二ノ丸を占拠、慶隆は一ノ門を突破して金森勢と合流、本丸を攻撃して城方の老臣林惣右衛門父子を生け捕った。両軍は激闘を交えたが日が暮れたため寄せ手は一旦引き揚げ、降伏を勧告した。翌二日、城内から笠を竿先に掲げた僧(安養寺の末寺福寿坊の僧という)が慶隆の陣にやってきて、貞通がすでに東軍に属したことを告げて和平を申し込んだ。慶隆はこれを受け入れ、人質を取った上で和議を結び、ひとまずこの日は赤谷山の愛宕に陣を移した。しかし、戦いはこれで終わってはいなかった。翌三日の未明、皆がまだ寝静まっている時刻に、貞通勢が目と鼻の先の所まで来ていたのである。

 こちらは怒りに燃えて八幡城へと急行していた貞通だが、彼は強行軍を重ねて九月三日未明に八幡城下に到着した。彼の近臣は攻撃をしないよう諫言したが、貞通はこれをはねつけてこう言ったそうである。
「たとえ款を送ったとしても、目前に敵を見て戦わないということは武名を汚す。敵を討ち破って城を取り戻し、その上で和議を結んでも遅くはない」
 さすがは一鉄良通の子、いやはや何ともすさまじい言葉である。そしてその通りに事を運んでしまうのには恐れ入る。貞通は慶隆の本陣愛宕を急襲した。

 そんなことは夢にも知らない慶隆はこの急襲に慌て驚き、本陣は大混乱となった。慶隆はかろうじて家中の勇士の活躍で逃れ、ほうほうの体で可重の陣へたどりついた。一方の貞通は深追いはせず、意気揚々と八幡城に入城した。そして翌九月四日、改めて和議の使が貞通から慶隆のもとへ遣わされ、ここに正式に和議が成立して両軍は兵を収めた。慶隆はただちに兵を東濃上ヶ根へ向け、前述の「上ヶ根の戦い」の後半へとドラマは続く。
 貞通は家康に初め西軍に加担して東軍の兵を殺傷したことを詫び、薙髪して謹慎した。竹を割ったような性格できっちり自己の意地を通した彼は、家康から罰せられることもなく、程なく豊後臼杵五万石の主となる。

 なんと、一万石の加増であった。

河渡川の戦い 舞兵庫の関ヶ原

2011-06-05 17:51:07 | 足軽の階級
河渡川の戦い
~舞兵庫の関ヶ原~

この頃三成は揖斐川右岸の沢渡に小西行長らと布陣していましたが、米野の敗報がもたらされたため、岐阜城の後詰として重臣舞兵庫を長良川右岸の河渡に派遣しました。そこへ東軍の黒田・田中・藤堂・生駒勢らが攻めかかってきます。


要衝・木曾三川

 この関ヶ原の一連の戦いでは、木曽川・長良川・揖斐川という大河が、攻め寄せる東軍の前に横たわっている。三成のいる大垣から東方向を見ると、揖斐川・長良川・木曽川の順で平行に流れているが、揖斐川はそのままほぼ北へと流れ、長良川はこの稿で触れる河渡(現岐阜市河渡)付近から大きく流れを東寄りに変え、北東方向へと続く。また木曽川は現在の笠松町木曽川橋付近から東へと流れを変え、犬山城まではほぼ東西の流れとなっている。これだけの自然の要害を備えていながら、易々と東軍勢に渡河を許してしまったことが敗因の一つといっても良いであろう。これは西軍の兵が弱かったからではない。現に米野の戦いでは敗れはしたものの、もし東軍と同数の兵が集まっていれば、こうも簡単に東軍は渡河出来なかったであろう。
 つまり、ここで言う「敗因の一つ」とは東軍の進出に対して十分な兵力を集められなかったこと、すなわち三成の対応が後手後手に回ってしまったことに尽きる。これが「寄せ集め軍団」の辛いところである。もし西軍がこの川の線で東軍を食い止め、十分な軍勢を次々と集結させていたならば、後の歴史は多少なりとも変わっていたであろう。なお、河渡は合渡とも書き「ごうど」と読む。
 三成は東軍が竹鼻城に押し寄せるとの報を受け、垂井にいた島津惟新(義弘)を大垣から東へ一里の長良川右岸墨俣へ向かわせて東軍勢に備え、自らは小西行長らと揖斐川右岸の沢渡(現大垣市東町・R21新揖斐川橋付近)へ出陣した。しかし二十二日に西軍の米野での敗報がもたらされ、東軍が東山道から大垣へ殺到する恐れが出てきたため、三成は舞兵庫を大将に、杉江勘兵衛・森九兵衛に一千の兵を預けて長良川右岸の河渡へと向かわせた。

  舞兵庫は通称で諱は前野忠康といい、かつては豊臣秀次に仕え黄母衣衆十三人の一人として知られる剛の者であった。秀次の失脚後、同僚の大場土佐とともに三成に招かれ、高禄(一説に五千石)にて召し抱えられたとされる人物である。左の画像は『関ヶ原合戦図屏風』(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)に描かれた、九月十五日の決戦における彼の勇姿である。なお、当稿では通称の舞兵庫をもって書き進めさせていただく。
 この日のうちに戦場となった河渡へ着陣した舞らの西軍勢は、前線の河渡堤に森と杉江、そこから後方八町(約870m)の地点に舞という形で布陣し、迎撃体勢を敷いた。
※当画像は関ヶ原町歴史民俗資料館の許可を得て撮影・掲載しています。無断転載は堅くお断りいたします。


河渡川の戦い

  八月二十三日朝、東軍の黒田長政・田中吉政・藤堂高虎は、大垣から岐阜城への援軍が来ると読み、これを阻止すべく岐阜城の西・長良川左岸へと軍を進めた。しかし西軍が既に布陣していたので、直ちに機先を制し銃撃を浴びせ、激しい銃撃戦となった。写真は長良川左岸の岐阜市西鏡島地内から見た古戦場跡で、対岸の河渡一帯に西軍勢が展開していたと思われる。右に見える橋は河渡橋で、大垣城は画面向かって左端の方向へ二里半(南西約10km)の位置にある。
 この日は濃い霧が立ちこめていたため前線の西軍勢は東軍勢の来襲に気付かず、加えて朝食を摂っていたため狼狽し、かろうじて舞に報告をしたものの、準備が整わずただ銃撃戦を繰り返すのみであったという。

 東軍勢は、まず初めに田中勢が川上の茱萸(グミ)の木原から渡河に成功、森・杉江らの軍勢に突入した。続いて黒田勢も渡河、別働隊の後藤基次(又兵衛)や黒田一成(三左衛門)らと河渡の西へ迂回し、舞勢に攻めかかる。西軍は前線の森・杉江らと舞兵庫の本隊が同時に攻め立てられる形となって苦戦に陥り、先陣は杉江勘兵衛が殿軍となって退却するが、奮闘及ばず勘兵衛は田中勢の西村五左衛門に討ち取られてしまった。この杉江勘兵衛はもと稲葉一鉄良通の家臣で、姉川の戦いの際の活躍により武名を挙げた剛の者である。故あって一鉄に恨みを持ち、稲葉家を去り浪人していたところを近頃三成に拾われ、重用されていたと伝えられる。この日も九尺の朱柄の鑓を振り回して奮戦していたという。
 濃霧の立ちこめた朝ということもあり、舞兵庫らは少し油断をしていたかもしれない。兵庫は懸命に防戦に務めるが、数にも勝り勢いに乗る田中・黒田勢を一手に引き受けてはどうしようもない。混戦とはなったが結局は支えきれず、三百余人を討たれて大垣へと敗走したという。

  三成はこの日の朝八時頃、沢渡に小西・島津らを呼び軍議を開いていたが、そこへ河渡の敗報が届き、あわてて大垣へ退却しようとした。しかし、島津惟新は自らの軍勢を墨俣(現安八郡墨俣町墨俣)に展開させているため、この撤退が先と主張し難色を示した。しかし三成は、島津家の士新納弥太右衛門と川上久右衛門が「惟新を死地に置き去りにして一人退却するのは卑怯」と三成の馬を押さえて訴えたのにもかかわらず、ただちに大垣へと退却していったという。
 惟新はどのような思いであっただろうか。とりあえず甥の豊久に連絡を取り、無事に軍を撤収はさせたが、もはやこの時点で三成を見限る下地は出来ていたものと見て良いと思われる。写真は墨俣にある通称「一夜城」で、かつて信長の下級武将だった秀吉が一夜にして築いたという逸話にちなみ、後に町によって模擬天守が建てられたものである。ただ、この城は史実としては実在していなかったようで、むろん天守は復元されたものではないが、現在は歴史資料館として人々に広く親しまれて利用されている。

 そして九月十五日の本戦において、島津勢は自軍への攻撃に対しては反撃するものの三成の指示には従わず、遂に積極的には動かなかった。

~織田秀信の関ヶ原2~記事のタイトルを入力してください(必須)

2011-06-05 17:35:11 | 足軽の階級

岐阜城の戦い
~織田秀信の関ヶ原2~


岐阜城に追いつめられた秀信は、攻め寄せる東軍に果敢に立ち向かおうとはしますが、援軍の望みもなく、わずか一日の戦いで降伏してしまいます


正則と輝政

  岐阜城に追いつめられた秀信は八月二十二日夜、大垣城と犬山城に救援要請を飛ばし、軍評定を開いて諸将の持ち場を定め、援軍到着までそれぞれ死守するよう命じた。本城は秀信と異母弟秀則が守り、稲葉山・権現山砦は松田重大夫、瑞龍寺山砦は河瀬左馬之助ら。総門口には津田藤三郎、七曲口には木造具康父子。御殿・百曲口は百々綱家ら、水の手口には武藤助十郎らという面々である。写真は岐阜城の遠望(中央に小さく見えるのが天守)であるが、ここは現在のJR岐阜駅から北東へ約4kmの金華山山頂にある。

 一方東軍では、先鋒の二将・福島正則と池田輝政の間にちょっとした悶着があったのだが、この両者、どうも気が合わないようだ。そのいきさつはこうである。
 福島正則は、尾張海東郡花正庄二寺邑(現愛知県海部郡美和町二ツ寺)の住人で、後に秀吉に仕えた市兵衛尉正信の子とされる。正に猛将の名にふさわしい人物で、賤ヶ岳の戦いを始め、数々の戦いで活躍している。性格的には粗暴というより直情型で人情味があり、「失敗もやらかすが憎めない殿様」といった感を受ける。事実家臣の統率力は素晴らしく、その軍勢は実に強かった。一方、池田輝政は長久手の戦いで戦死した勝入斎恒興(信輝)の二男で、織田信長と乳兄弟だった父や兄とともに信長に仕え、荒木村重の謀反の際には花隈城攻略戦で大功を立てている。また秀吉の執行した大徳寺での信長の葬儀では、棺の一端を抱えて行進した人物である。したがって家格としては秀吉が政権を握るまでは同格かそれ以上で、一説に「どこの馬の骨かとも判らない」「桶屋の倅」と言われる正則とは比較にならず、このあたりに正則の劣等感があったのかもしれない。年齢は当時正則四十歳、輝政三十七歳である。

 さて東軍はこの一連の戦いの始まる前、清洲において岐阜城攻めの段取りを、正則は起(おこし=尾越)渡から岐阜城大手口へ、輝政らは河田渡から搦手口へ、狼煙を合図に「同時に」攻め入ろうと定めていた。ところが輝政の家臣の伊木清兵衛が地元ということもあり、川の深浅に通じていたので先導役を買って出、狼煙を待たずに瀬に踏み入ったことから、輝政勢の諸将が遅れてはならじとばかり渡河を開始してしまったのである(異説あり)
 一方の正則勢はというと、予定していた尾越渡付近の西軍方の防御が堅固だったため、さらに下流の加賀野井城(現岐阜県羽島市加賀野井)対岸まで南下、合図を今や遅しと待っていたところ、狼煙が上がる前にはるか上流から銃撃音が聞こえてきた。これで正則は「輝政め、約を違えたか」と逆上してただちに渡河を開始、猛烈な勢いで竹鼻城を抜く。そして茜部村まで軍を進めた正則は輝政に使者を送り強硬に抗議するが、本多忠勝や井伊直政が中に入り正則をなだめるという一幕があったという。さらに彼は岐阜城落城後にも、その戦功をめぐって輝政と口論に及び、一触即発の状態になっている。このように正則には逸話が多く、ここはこれくらいにして別稿で触れることにする。


岐阜城の戦い

  八月二十三日朝、東軍は総攻撃を開始した。犬山城への押さえとして新加納村・長塚・古市場に山内・有馬・戸川・堀尾らを、大垣から来援した西軍勢については田中・藤堂・黒田の諸将を長良川右岸の河渡に向かわせ、瑞龍寺山砦へ浅野幸長らが攻め上った。続いて井伊直政が稲葉山・権現山砦へ、大手口へは福島正則らが殺到する。もはや秀信勢は何の抵抗もできなかったと言って良く、あっという間に諸砦を落とされて本城を包囲されてしまった。犬山城からの援軍もついに来なかった。写真は秀信最後の牙城となった岐阜城天守閣(本丸)である。
 秀信は自刃しようとするが、池田輝政らの説得もあって思いとどまり、降伏下山して上加納の浄泉坊(現円徳寺)に入った。秀信はここで武具を解き剃髪して尾張知多へと送られ、関ヶ原合戦終結後に高野山へと向かう。余談だが、岐阜市神田町の円徳寺には秀信の画像と、彼の着用と伝えられる烏帽子型兜が現在も残っている。
 降伏した秀信の処遇について、東軍では助命はいかがなものかという声も上がったが、福島正則が助命を主張した。『改正三河後風土記』に次のようにある。

「我等は織田家へ荷担すべき筋目にあらずといへ共、さすが信長の嫡孫也。味方にも旧好恩顧の輩なきにもあらず。むざむざと死罪に行はんも情なし。降参ある上は助命せずばあるべからず。もし此事内府の心に応ぜずば、正則が此度の骨折を無にせんより外候はず」

 最後の文言が彼らしい。「助命したことが家康の不興を買うならば、自分の今までの戦功と引き替えにするだけである」・・・直情型の面目躍如たる話である。かくして岐阜城は、わずか一日であっけなく落ちた。秀信は関ヶ原の戦いが終結後に尾張知多から高野山へ向かって出家し、五年後の慶長十年五月八日、まだ二十六歳の若さでこの世を去った。秀信には子がなかったため、ここに戦国の革命児・信長の嫡流は途絶えた。

~織田秀信の関ヶ原1~

2011-06-05 17:18:23 | 戦国ロマン
米野の戦い
~織田秀信の関ヶ原1~
岐阜城主・織田秀信は攻め寄せる東軍に城を出て戦う方針を採り、重臣百々綱家(安信)と木造具康を木曽川右岸の米野・中屋に配して東軍に立ち向かいます。しかし彼らの奮戦も及ばず、結局秀信は岐阜城へと退却します。


三法師秀信

 岐阜城主織田秀信、当時二十一歳。幼名を三法師という。彼は本能寺の変の際に父織田信長とともに自刃した信忠の嫡子で、信長の嫡孫である。後のいわゆる清洲会議において秀吉に推され、織田家の当主となった。しかし時流はもはや織田家には戻らず、岐阜十三万五千石を領する秀吉麾下の一大名として存在していた。
 この頃美濃では東西いずれに加担するかで迷っている者が多く、その中心的存在ともいえる秀信の去就を見守っていたと言って良いであろう。石田三成は秀信に姪の川瀬左馬助という者を派遣し、戦後は美濃・尾張二国の主とするという条件で加担を要請した。秀信の重臣木造具康らは東軍加担を勧めたが、結局秀信は寵臣入江右近らの言を容れて西方につくことになり、これが美濃国内諸将の情勢に大きく影響を及ぼした。


美濃国内の動向

 秀信が西軍方についたことにより、美濃周辺の諸城主の動向は以下のようになった。

 

居城 城主または守将 石高 所属 所在地
岐阜城 織田中納言秀信 135,000 西 岐阜市稲葉山
大垣城 伊東彦兵衛盛宗 34,000 西 大垣市郭町
曾根城 西尾豊後守光教 20,000 大垣市曾根町
池尻城 飯沼十郎左衛門長実 9,000 西 大垣市池尻町
長松城 武光式部少輔忠棟 5,000 西 大垣市長松町
加賀野井城 加賀野井弥八郎秀望 10,000 西 羽島市加賀野井
竹鼻城 杉浦五左衛門秀勝 8,000 西 羽島市竹鼻
鉈尾山城 佐藤才次郎方政 25,000 西 美濃市曽代
福束城 丸毛三郎兵衛兼利 20,000 西 安八郡輪之内町
西保城 木村惣左衛門重則(勝正) 10,000 西 安八郡神戸町
黒野城 加藤右衛門尉貞泰 40,000 西 揖斐郡大野町
清水城 稲葉甲斐守通孝 5,000 西 揖斐郡揖斐川町
田畑城 井上小左衛門定利 760 西 揖斐郡池田町
本郷城 国枝修理亮政森 西 揖斐郡池田町
多羅(良)城 関長門守一政 30,000 西 養老郡上石津町
松ノ木城 徳永法印寿昌 31,000 海津市海津町
高須城 高木十郎左衛門盛兼 10,000 西 海津市海津町
今尾城 市橋下総守長勝 10,000 海津市平田町
太田城 原隠岐守勝胤 30,000 西 海津市南濃町
駒野城 高木九郎兵衛帯刀 5,000 西 海津市南濃町
津屋城 高木八郎右衛門正家 3,000 西 海津市南濃町
垂井城 平塚因幡守為広 12,000 西 不破郡垂井町
岩手城 竹中丹後守重門 5,000 西 不破郡垂井町
小原城 遠藤左馬助慶隆 7,500 加茂郡白川町
犬地城 遠藤小八郎胤直 5,500 西 加茂郡白川町
和知城 稲葉右近大夫方通 4,450 西 加茂郡八百津町
大洞城 稲葉彦六侍従典道 西 関市大洞
岩村城 田丸中務大輔直昌 40,000 西 恵那市岩村町
八幡城 稲葉右京亮貞通 40,000 西 郡上市八幡町
中山城 稲葉修理亮通孝 5,150 西 郡上市八幡町
妻木城 妻木雅楽助家頼 8,000 土岐市妻木町
苗木城 川尻肥前守秀長(直次) 10,000 西 中津川市苗木
高山城 金森法印長近 38,000 高山市城山


 


米野の戦い

岐阜城から見た米野方向  秀信は石田三成からの援軍を加えて軍評定を開いた。席上、木造・百々らは籠城策を主張するが、秀信の意向により出陣と決まる。その作戦は、まず木曽川岸の第一陣・米野で渡河してくる敵を撃破、討ち漏らした敵は境川岸の第二陣で殲滅させる。それでもだめな時は大垣からの援軍を待って籠城し、挟撃により敵を討つというものである。そして八月二十一日までに次のような布陣を固めた。
 総勢九千の兵のうち、先鋒の米野村には百々綱家・飯沼小勘平長資・津田藤左衛門らの二千五百。少し東の中屋村には木造具康・具正の一千。米野と秀信本陣との間にある伏屋村には柏原彦左衛門・川瀬左馬之助の二千。さらに遊軍として、新加納村に佐藤方秀の一千を置いた。秀信は岐阜城に守備兵八百を残し、千七百の兵を率いて本陣を米野と岐阜城のほぼ中間、境川右岸の川手村閻魔(えんま)堂に据え、迎撃体勢をとった。
 写真は岐阜城天守閣から米野方向を望んだもので、クリックすると地名入りの拡大写真にリンクしてあるのでご参考までに。

 対する東軍は、二十一日夜までに米野の対岸、木曽川左岸の河田付近に集結した。この方面の将は池田輝政で、従う面々は
浅野幸長・山内一豊・有馬豊氏・戸川達安らの一万八千である。輝政は木曽川下流から進撃する福島正則と呼応して、岐阜城の搦手筋から攻め込む段取りであった。

木曽川右岸の米野堤  八月二十二日払暁、東軍は一柳直盛・堀尾忠氏・伊木清兵衛(池田隊)らが先陣となって渡河を開始した。東軍が木曽川の中州(現岐阜県羽島郡笠松町・東海北陸道川島SA付近)に上陸するのを見た秀信勢は一斉射撃を開始、ここに戦いの火蓋が切って落とされた。東軍は激しく飛来する銃弾をものともせず次々と川を渡り、米野堤(=写真)へと上陸した。そこへ秀信勢の先鋒百々綱家が一計を案じて付近の草むらに隠して置いた伏兵が一斉に攻めかかり、大乱戦となる。秀信勢は小勢とは言え奮戦し必死に食い止めるが、数に勝る東軍はじりじりと押し、やがて全軍が美濃になだれ込んだ。
 もともと秀信勢は中屋村の木造隊を合わせても三千五百(新加納村の佐藤勢一千は戦線離脱)、東軍は一万八千。数の上では勝負にならないのだが、それでも秀信勢は健闘した。木造具康・百々綱家・津田藤左衛門・飯沼小勘平長資の奮闘にはさすがの東軍も手を焼き、一進一退を繰り返すほどであったという。しかしやはり兵数の差は如何ともしがたく、秀信勢は木造・百々を殿軍に、境川の第二陣へと退却を余儀なくされた。
 なお、現地平島(岐南町)には、奮戦の末池田勢に討たれた秀信方の勇士・飯沼小勘平長資の墓が現存しているが、この戦いにおける飯沼小勘平長資の活躍は別稿で触れることにする。

 少し話はそれるが、剛の者として知られた飯沼小勘平長資を討ち取ったのは一般に輝政の弟長吉とされているが、『常山紀談』によると森寺政(清)右衛門の弟四郎兵衛長勝が討ち取ったとしている。この書はいわゆる「俗書」ではあるが、著者湯浅常山元禎が池田家中の者であること、加えてその稿(「巻十二の十二 第二百七十八話 森寺四郎兵衛、飯沼小勘平を討つ事」)の終わりに

飯沼が冑は小田原鉢、刀は行光の作、脇差は菊一文字なり。森寺が従者分捕して今森寺が許に有といへり。森寺が飯沼を討取し事、関ヶ原記、其余の書にも、池田備中守としてしるせるは謬なり」

 と強く否定していることから、結構これが真相に近いところなのかもしれない。また、戦後生き残った長資の弟長重を福島正則が拾い、飯沼勘平と名乗らせて扶持を与えており、長重は後に尾張義直に仕えて三千石を領したという。

 秀信は敗残兵をまとめ、踏みとどまって巻き返そうとした。再び激戦となったが、もはや勢いの差はどうしようもなく、秀信勢は敗れて岐阜城へと退却する。しかし新加納村の遊軍佐藤方秀は遂に岐阜城へは戻らず、自領の上有知(こうずち)に引き上げた上、城を放棄して行方不明となった。
 秀信勢を撃破した東軍は、深追いはせずにただちに勝報を家康に報せ、この日二十二日夜は岐阜城麓を流れる荒田川左岸一帯に宿営、夜襲に備えて夜を明かした。

 そして翌日、岐阜城への総攻撃が始まった。