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幸隆に始まる真田家は、まさに謀略家と呼ぶにふさわしい小大名家であった。

2011-06-14 21:31:38 | 第2位?真田家(幸隆・昌幸・信之・幸村)

第2位 真田家(幸隆・昌幸・信之・幸村)

 ここに真田家の名を挙げるには、やや首をかしげる方もおられるのではないかと思われる。真田家は関ヶ原にて東西両軍に分かれ、昌幸と幸村は九度山へ流される。つまり敗者である。しかし、小国の領主として謀略の限りを尽くし、幾多の苦難を乗り切った昌幸の手腕は評価に値すると私は考えているので、敢えて挙げさせていただいた次第である。


 幸隆に始まる真田家は、まさに謀略家と呼ぶにふさわしい小大名家であった。幸隆は知謀に富み、武田信玄のもとで山本勘助と並ぶ軍師であった。彼の計略で、長年苦汁を飲まされてきた北信濃の強豪・村上義清を追放することに成功する。以来彼は信玄の信頼あつく、武田家中に確固たる地位を築いてゆく。
 昌幸は幸隆の三男で、はじめ武藤喜兵衛と名乗り、信玄の小姓をつとめていた。長篠合戦で主家が弱体化し、やがて勝頼が信長麾下の武将・滝川一益の手により自害に追い込まれて主家は滅亡した。ここから昌幸の活躍が始まる。

 昌幸は家康嫌いであった。しかし、北条・上杉・徳川と大勢力に囲まれた上州の地を守るには、どこかの傘下に入らなくてはならない。ここで昌幸は敵対していた上杉家に頭を下げる。当時の上杉当主は景勝であったが、今までのいきさつは水に流して昌幸の頼みを聞き入れた。このあたりに潔い上杉家の家風が現れている。しかし、次男の幸村(信繁)は人質として春日山城へ送られていった。
 しかし北条家の圧力の前に、今度は秀吉に助けを求める。これにより幸村は今度は秀吉のもとへと人質にゆくことになるのである。このとき起こった北条軍による名胡桃城奪取事件を口実に、秀吉は大軍を動員し北条氏を滅ぼすことになる。また、幸村は大坂へ行った際に大谷吉継らと知り合い、後に吉継の娘を妻にめとることになる。

  昌幸の長男の信之(当時は信幸)は徳川家重臣・本多忠勝の娘を妻として迎えた。この時すでに「犬伏の別れ」で有名な、関ヶ原で親子が東西に分かれて戦った下地は出来上がっていたのである。
 関ヶ原の戦いでは昌幸と幸村は上田城に籠城し、徳川秀忠の大軍にびくともせず手こずらせて日数を稼いだ。しかし西軍は負け、親子とも斬首寸前の所を信之や舅の本多忠勝らの必死の嘆願で、高野山配流に減免された。
【Photo:上田城に残る真田石(左の大石)】

  昌幸は配所で寂しく没したが、幸村は苦節に耐え、大坂の陣の際秀頼に依頼され入城する。このときの幸村の活躍は冬の陣・夏の陣ともあまりにも有名で、ここではあえて触れないことにする。しかしその幸村も夏の陣にて父譲りの知謀の限りを尽くし、赤備えの騎馬軍団を率いて敵本陣に突入し家康を敗走させ、一時は自害を覚悟させるほどに追いつめて奮戦したが、とうとう力つきて戦死する。またその嫡子大助も秀頼に従って大坂城において自害する。
【Photo:真田庵にある真田昌幸の墓(手前左の石塔)】

 信之の心中はどのようなものだったであろうか。しかし彼は徳川家に忠節を尽くし、度重なる幕府の嫌がらせや減封とも言える国替え(上田から松代へ)にも耐え、家を守り抜いてゆくのである。

 93歳の長寿を保ち、まぎれもない名君として民に慕われ治政に励んだ初代真田松代藩主・信之こそ、真田家一の名君であったような気がする。