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カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

2011-07-24 22:43:35 | 個性派武将得意戦法

 カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説作者:春野一人

45 継体王の即位
 のちに、 大和の男大迹《おおど》の君は王位を受ける時になって、荒籠に十分な施しを与えたという。
 この継体という名は七世紀半ばつけられたもので、生存中はオオド王と呼ばれていた。筆者がここで継体天皇を継体王と書くのは日本書紀の罠にはまらないためである、本来は日本書紀の叙述によらないでオオド王と書くべきであるがそれでは、この名前が歴史上の誰をさすのか判らなくなる。讃、珍、済、興、武のごとく。しかしまあ、それは別として朝廷がつけた継体天皇という、あからさまである名前の異常さに驚く。あたかも推理小説中の不明の殺人犯人の名前に、菖蒲成男《あやめなすお》と名付けるなどは考えられない。それに似たことを日本書紀はやっていると考えられまいか。この天皇は前代と断絶している人ですよと知らせているのだ。万世一系を強調しているのに、それに逆らう名前をつけている。日本書紀の史官は歴史を隠蔽しているが、真実をかなり濃厚に残そうとしている。それが日本書紀のおもしろさで、惚れ込める美点でもあるのだが、この命名はひどく可笑しいと思う。本来隠すべき事があからさまではないか。せめて古事記ぐらいの描写で良いのに、書紀は重箱の隅を突っつくように、事情を面白可笑しくぶちまけてしまう。中国には王の気に入らない史書の叙述をして、惨殺された史官がいたと言う。まさに史官が殺されかねない叙述を書記は露悪的に描いてみせる。本当に不思議でならない。
 さらに言えば、あまりと言えばあまりな武烈帝の暴れぶりはまるで漫画であり、ここまで書くと(ははん、継体帝が従来の王家の血筋でないことを隠そうとしているな)と誰にも推理できてしまう。史官は
真実を現したくて馬鹿な表現者を演じているのだ。

 継体王元年(507年)一月十二日、王は樟葉宮《くすはのみや》(河内の国、葛葉郷。今の大阪府牧方市楠葉)に移られた。
 二月四日 再びやって来た、大伴金村大連はひざまずいて天子の鏡、剣をさし上げて王を拝んだ。王は詫びて言った。

織田信長と本願寺顕如の間で十年にわたって繰り広げられた石山合戦でしょう。

2011-06-11 22:09:53 | 個性派武将得意戦法

孫一と石山合戦


 

優れた射撃術を誇る鉄炮軍団を率い、織田信長をさんざん苦しめた雑賀孫一。彼が歴史上で華々しく活躍するのは、やはり織田信長と本願寺顕如の間で十年にわたって繰り広げられた石山合戦でしょう。ここではその石山合戦の発端となった銃撃戦、「野田・福島の戦い」をご紹介します。



野田・福島の戦い

 写真は石山本願寺跡に建てられた現在の大阪城
  孫一は終始一貫して信長に対抗したように思われがちであるが、実はそうではない。彼はその「傭兵活動」の一環として、本願寺の決起前には織田方に加勢したこともあるのである。事実1569年に信長が三好党を攻めて阿波に追い払っているが、このとき孫一ら雑賀衆は信長軍の中にいたのである。しかしこれは信長に臣従するという性質のものではなく、あくまで「報酬に対して、それに見合うだけの人数と働き」であった。
 1570年当時、信長は八方に敵を抱えており、中でも前年に信長に京の地を追われ、阿波で逼塞していた三好一党が、一向一揆と手を結んで反旗を翻し摂津に上陸侵攻して来るという挙に出たため、これを押さえるべく天王寺に出陣した。同9月9日、総攻撃をかけるべく天満ノ森に陣を移したのだが、このとき三好方の鉄炮隊を率いていたのが、前年には信長軍にいた孫一なのである。

 ここで9月12日から両軍数千挺の鉄炮による激しい銃撃戦が行われるのだが、この時の織田方の主力銃隊は根来衆・雑賀衆・湯河衆だった。つまり、この時点で雑賀衆も二つに分かれていたのである。推測の域を出ないが、たぶん織田方に加わっていた雑賀衆というのは、根来衆とも比較的近い雑賀三緘衆であろうと思われる。『信長公記』にも次のような記述があるので引用する。

 「根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万ばかり罷立ち、遠里小野・住吉・天王寺に陣取り候。鉄炮三千挺これある由候。毎日参陣候て攻められ候。御敵身方の鉄炮誠に日夜天地も響くばかりに候」

 さて、注意していただきたいのは、このとき孫一は最初から本願寺方に属して信長と戦ったわけではなく、三好党に雇われた一軍団の長として信長を迎え撃っているという点である。しかし話が少しややこしくなるのは、ここで「野田・福島が陥落すれば寺の存続の危機」と、本願寺顕如がついに立ち上がり、9月12日夜に門徒へ決起を促し、織田軍に突如として横あいから攻撃を仕掛けたからである。これには信長も驚いたようで、『細川両家記』には「信長方仰天」とある。
 本願寺はかねてより信長から石山の地に築城したいということで「譲渡」を求められていた。いや、信長のことだから高飛車に本願寺に「明け渡し(立ち退き)」を「命じた」のかもしれない。もちろん顕如がはいそうですかと聞き入れるはずはなく、いずれにせよ本願寺と信長は衝突する運命にあったのである。

 この戦いでおそらく孫一は本願寺に合流して織田方と戦ったと思われる。とはいえ野田・福島の砦はこのまま戦が長引けば、圧倒的な軍事力の差から陥落は必至であろうと思われたが、織田方では佐々成政が負傷、野村越中が討死という結果を残したまま退陣する。というのは、浅井・朝倉・六角氏らが本願寺決起に呼応して信長の将森可成の守備する近江宇佐山城を攻め落とし(可成は戦死)京へと動き出したため、信長はこれらに向け馬首を返さざるを得なかったのである。ともあれ、これ以後十年以上に及ぶ、信長と本願寺間の石山合戦が始まった。

伝説の人・雑賀孫一

2011-06-11 21:52:39 | 個性派武将得意戦法

伝説の人・雑賀孫一


 

優れた射撃術を誇る鉄炮軍団を率い、石山合戦で織田信長をさんざん苦しめた雑賀衆の頭領・雑賀(さいか)孫一。しかしその存在は今もなお謎のベールに包まれています。ここでは伝説の人・雑賀孫一の実像に少し迫ってみます。
ただし、孫一にはまだまだ不明な点が多数あり、研究者の方々の間でも明確な結論は出ていません。以下の内容は今回の調査資料を基にした私なりの見解であって、史実として断定するものではないことをあらかじめお断りしておきます。



「雑賀孫一」という人物

 写真は孫一道場・蓮乗寺にある雑賀孫一の墓
  雑賀孫一は「鈴木孫一」または「平井孫一」とも呼ばれる謎の人物である。資料には「孫市」と書かれている場合も多いが、正式文書の署名時はみな「孫一」となっていることから、これを採用することにし、以下「雑賀孫一」で統一する。彼は鉄炮集団雑賀党の頭領として実在し、石山合戦などに活躍したことは間違いないのだが、さてその人物の特定はとなると難しい。鈴木佐太夫説・重朝説・重秀説などさまざまな見方があるが、どれも決定的なものではない。またこの人物、ありようは紀州雑賀荘7万石の、いわゆる地方の一土豪でしかないのだが、非常に人気がある戦国武将の一人である。なぜだろうか。

 それはやはり織田信長との石山合戦での大活躍であろう。雑賀衆を率いて本願寺方に加勢し、そのすさまじい鉄炮の威力の前には当時日の出の勢いで勢力拡大中であった信長の大軍をもってしても、寺塀に指一本触れることができなかった。当サイトに今までに寄せられた孫一ファンの方々のメール等からも、やや年輩層では司馬遼太郎氏の歴史小説「尻啖え孫市」における超人的な活躍と憎めない人間性、若い世代の方々では某歴史シミュレーションゲームにおける高い戦闘能力などが、そのファンとなったきっかけであるようだ。
 またほとんどの方が「雑賀孫一=鈴木重秀」と見ておられるというか、そうであってほしいと考えておられるようで、私も実はその一人であった。そこでこの機会に少し調べてみようという気になって和歌山へと足を運んだわけである。

 さて、引き続き孫一に関する色々なことを書く前に、この稿を作成するに当たり、雑賀孫一の末裔である蓮乗寺の鈴木ご住職から、非常に好意的かつ多大なご協力をいただいたことに深く感謝するとともに、これから述べることの一部は、鈴木ご住職から拝聴したお話の内容と、ご提供いただいた資料を中心に作成したことも併記させていただく次第である。

松永久秀年表 No.3永禄八(1565)年~永禄十二(1569)年

2011-06-11 21:49:50 | 個性派武将得意戦法
松永久秀年表 No.3永禄八(1565)年~永禄十二(1569)年* 印は閏月を示します。
西暦 和暦 日付 事績
1565 永禄8 1/29 多聞山城で茶会を開く。客は堺隆専・千宗易(利休)・松屋久政・堺宗可。
    5/19 久通・三好義継らが将軍義輝を殺害、次男の興福寺一乗院門跡覚慶(後の義昭)を同院に幽閉する。
    5/23 久通・三好義継らが一乗寺を破壊し放火する。
    7/28 義輝の弟で久秀方に幽閉されていた興福寺一乗院覚慶(後の足利義昭)が幽所を脱し甲賀に走る。
    8/2 丹波八木城主の長頼(内藤宗勝)が黒井城に荻野(赤井)直正を攻めるが逆襲に遭い戦死する。
    8/24 多聞山城内・家臣の瓦林左馬之丞(秀重)屋敷で茶会を開く。客は鉢屋紹佐・堺宗徳・松屋久政。
    10/8 丹波の波多野・須智・柳本氏らが荻野直正方に寝返り山城長坂口に出陣したため、多聞山城より竹内秀勝を差し向ける。
    10/11 竹内秀勝が京から大和へ戻り、釜口に布陣する。
    10/15 小夫城が開城、小夫氏は多田(東山内)へ逃れる。
    10/18 竹内秀勝が帰陣するが、夜にまた京都へ向けて出陣する。十市氏が訴訟のため多聞山城に入る。
    11/15 三好三人衆が義継を擁して飯盛城を攻略、久秀と関係を絶つ。
    11/18 筒井藤勝が布施城へ入る。「國中心替衆數多在之」と見える。
    11/19 阿部山・ナベ塚城が落城。十市郷南部が焼き払われる。また布施城に入った筒井方に細井戸・南郷両氏が同心する。
    11/26 布施氏が高田郷を焼き払う。
    12/19 筒井より中坊駿河守(松永方)が二千の兵を率いて出陣、井戸城に入る。河内・山城口へ二千ほどの兵を率いて出陣し、相楽(南山城)に陳取る。
    12/20 郡山辰巳氏が味方につき、大安寺・辰市へ兵を出す。
    12/21 筒井党への援軍として河内から三好三人衆の軍勢が三千の軍勢を率いて大和へ入り、多聞山城から兵を出すが大事には至らず。
    12/26 三好三人衆が撤退する。多聞山勢が宝来・西京を焼く。
    12/28 多聞山勢が西京へ押し寄せるが、兵を少々損ねる。
1566 永禄9 1/15 越智伊予守家増が筒井氏から貝吹城を受け取り入城する。
    2/4 多聞山城から筒井衆へ討って出、二十余名を討つ。美濃庄に兵を残して久秀は多聞山城に帰陣する。
    2/6 筒井城へ兵粮を入れるべく多聞山城から出陣する。
    2/17 三好三人衆が畠山・遊佐勢と河内に戦い、大勝する。畠山・遊佐方は堺へ逃げる。討ち取った首は実検分の463を含め、1000程という。
    2/19 多聞院英俊が多聞山城にいる筒井方の人質に連絡を取る。
    2/24 久通が筒井城へ兵粮を入れる。その際合戦があり、討死少々と多くの負傷者を出す。
    2/29 久通が筒井城へ出陣、兵の入れ替えを行う。
    3/15 久通が今市城破却に出陣する。
    3/17 筒井城へ兵粮を入れるべく多聞山城から出陣する。
    4/10 三好三人衆が四千の兵を率いて大和へ入り筒井勢と合流、翌日奈良付近の五本松まで迫る。
    4/21 美野庄城を和議にて筒井氏に明け渡す。
    4/26 三好三人衆が大安寺の陣を払い、筒井城攻略へ向かう。
    5/18 夜に多聞山城より摂津へ出陣、翌日摂津中島・野田に布陣する。
    5/24 筒井城周辺の小屋が悉く焼かれる。
    5/29 堺へ入る。
    6/1 大安寺南大門前で郡山衆(筒井方)と多聞山衆による合戦があり、両軍数名の戦死者が出る。
    6/8 筒井平城を筒井氏に明け渡す。筒井六郎(順慶)が入城する。
    8/9 三好三人衆の兵千余が片岡まで出陣する。
    9/18 十市氏が筒井方に同心、田城に陣を置き柳本へ攻めかかる。
    9/25 筒井藤政(順慶)が五千の兵を従え奈良へ入る。西手掻で多聞山衆と山田・井戸衆の間に合戦があり、多聞山衆が少々討ち取られる。
    9/28 筒井藤政が成身院にて得度、陽舜房順慶となる。
    12/2 多聞山衆が吐田郷を焼き払う。
1567 永禄10 4/5・6 和泉堺から大和へ入る。
    4/7 筒井順慶が奈良の陣を払う。多聞山衆は奈良を出陣、五本松に陣を置く。
    4/11 三好義継とともに多聞山城へ入る。
    4/18 三好三人衆が一万余りの軍勢を率いて奈良近辺に陣取り、付近の通行が不能となる。
    4/24 天満山・大乗院山に三人衆と順慶勢が陣を移したため、寺内(東大寺か)の塔や南大門に登り鉄砲を放つ。このため昼夜分かたず「雷電の如き」銃撃戦となる。
    5/2 石成(友通)・摂津池田衆以下約一万の兵が東大寺へ陣替え、念仏堂・二月堂・大仏殿の回廊などへ布陣したため、戒壇院に楯て籠もる。
    5/5 池田衆・三好山城守(康長)の交替として四・五千の兵が来着する。
    5/17 摂津の池田勝正が自ら西方寺に着陣。下野守(三好政康)は天満山から七・八千の兵とともに西ノ坂へ陣替えし、念仏堂にいた石成配下の衆は氷室山法雲院裏手の畠に布陣する。筒井順慶は大乗院山を動かず、東大寺内への通路を絶つ。
    5/18 多聞山が焼き討ちを受ける。般若寺・文殊堂など多数の伽藍が焼け、飛び火して戒壇院の授戒堂はじめ南北水門まで悉く焼ける。
    5/24 多聞山より無量寿院を焼く。三好三人衆が法輪院へ入ったため多聞山から火矢を放ち、寶徳院・妙音院・徳蔵院・金蔵院以下悉く焼ける。
    5/28 秋山衆が無量寿院屋敷門の築地に櫓を上げて押し寄せ、死者二名・手負い少々を出す。
    6/4 夜、筒井衆が興福寺内へ火矢を放つが、火災は起こらず。
    6/5 筒井順慶が龍花院方の発心院・中蔵院・千手院・大聖院・安養院・谷坊・慈明坊へ陣を移す。
    6/17 信貴山衆が箸尾衆(同為綱方)とともに筒井郷椎木・小泉周辺に放火する。
    6/27 花厳院にて筒井順慶が三好三人衆に久秀との和睦をもちかける。
    7/23 三好三人衆の調略により松永方の五人が内応、東大寺戒壇院・千手堂を焼く。
    8/25 飯盛城の松山安芸守が久秀方に寝返る。
    8/26 三好三人衆の石成ら二千の兵が河内へ向かう。
    9/4 根来衆が三人衆方の吐田郷を焼く。
    9/5 根来衆が幸田城を攻めるが落とせず退く。
    10/10 東大寺大仏殿の三人衆の陣に攻め掛け、大仏殿が焼ける。氷室山の別所・郡山辰巳勢は陣を焼いて落ちる。
    10/15 松山安芸守が三好三人衆に飯盛城内の私宅を攻められ和睦し堺へ退く。安芸守は再び三人衆方へ付く。
    10/21 飯盛城を篠原長房・三好日向守長逸が請け取り入城する。
    11/27 久通と連名で春日社山内(興福寺)へ三箇条の禁制を下す。三好義継からも同文言の制札あり。
1568 永禄11 2/20 十市遠勝が秋山氏を森屋城に攻め落とす。
    3/11 十市遠勝が三好山城守・篠原弾正と誓紙を交わす。
    8/17 三好三人衆が六角承禎と談合すべく近江へ下る。
    9/25 箸尾氏が十市郷五ヶ所を焼く。
    9/26 織田信長が足利義昭を擁して上洛する。
    9/27 箸尾氏と竜王山城を陥れた秋山氏が十市郷で苅田・放火する。
    9/28 上洛した信長に人質として廣橋氏の娘を差し出す。
    10/4 信長から大和一国の支配を認められる。井戸氏以下の大和国人衆も義昭に拝謁、信長の配下に属すことを求めるが拒否される。
    10/6 久通が筒井郷へ攻め寄せ、城際まで焼く。筒井順慶は堅固に籠城する。
    10/8 久通が筒井城を再び奪回する。筒井氏は夕刻に城を脱出する。
    10/10 信長配下の細川藤孝・和田惟政・佐久間信盛らが二万の大軍にて大和へ入り、窪城の城を開城させる。森屋城も奪う。
    10/15 豊田城を落とす。
    10/18 足利義昭が征夷大将軍となる。
    10/19 井戸城周辺他四ヶ所に布陣していた久秀勢が布施城へ向かう。
    10/21 柳本・福智堂が久秀方に寝返る。
    11/9 久通が秋山衆を先手に、十市衆を大西城に攻め落とす。
    12/24 名刀不動国行など「名物」を多数持参して岐阜へ赴き、そのまま越年する。
    12/28 三好三人衆が松永方池田丹後・寺町らを和泉家原城に攻め落とす。
1569 永禄12 1/10 織田信長に従い岐阜から上洛する。
    4月 弾正少弼を改め山城守と称す。
    4/8 久通・三好義継・畠山高政らとともに片岡城攻めに出陣する。
    4/16 片岡城が落城する。
    4/18 父子で万歳城を攻める。
    5/10 父子で貝吹城を攻めるが自軍に損害を出す。
    5/16 久通とともに井戸表へ陣替えする。
    5/18 久通とともに御所の一向宗道場を破却する。
    7/23 東山内の小夫城を陥れる。
    7/24 深川を攻める。
    8/20 布施衆と戦う。布施で刈田ののち田中表へ攻め寄せる。
    9/4 井戸表へ帰陣する。
    10/24 十市遠勝(遠成)が没す。十市氏家中が松永・筒井二派に分裂する。
    10/29 多聞山城下の法蓮郷に市を立てる。
    11/4 越智氏の貝吹城が久秀方に渡る。また近々北里にも久秀が市を立てるとの風聞が伝わる。
    12/9 筒井・興福寺衆五百が十市城に入り今後について談合するが決裂、久秀派の河合権兵衛以下六名は城を出て今井に移る。

三好氏の重臣から台頭して畿内での一大勢力となり、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。

2011-06-10 17:13:20 | 個性派武将得意戦法

はじめに


戦国時代の梟雄と呼ばれ、三好氏の重臣から台頭して畿内での一大勢力となり、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。後世における彼の人物評は決して芳しいとは言えませんが、実際どういう人物だったのでしょうか。このコンテンツでは彼の生涯を詳しく追ってみます。


松永久秀の出自

 「略歴」の稿でも述べたが、松永久秀の出自・出生や前半生はよくわかっていない。出自については一般には山城西岡の生まれとするものが多いようであるが、真偽はともかく久秀および松永氏の出自に触れた記録として、参考までに以下にひとつ掲げる。

「松永花遁の家は、松永弾正久秀に出づ。久秀姓は藤原、その先世は蓋し筑前の人なり。家系の詳細は、今得て詳にすべからざるも、傳ふる所によれば、源平氏の時代に著はれたる鎭西の名家原田種直の一族にして、種直が太宰少貳を以て平家の號令を奉じ、九州二嶋の政務を管する頃には、松永某太宰府の属員たり。安徳天皇の西遷に方り、宗家を同じく王事に勤め、後ち源氏に降りて世々筑前に居り、元寇の役に功あり。下って南北朝以降戦國の世には、豊後の大友氏に隷し、時に或は長門の大内氏に属し、猶ほ九州の一武士なりしと云ふ。久秀此族より出で、足利幕府末葉の執事職三好筑前守長慶に仕へ、文書の才を以て祐筆となり、最も親信を受け、漸次登用せられて京都の所司代となり、長慶老を告げて本國阿波に歸るに及び、代はりて自ら足利氏の執事職となり、弾正忠從五位下を受領し、久しく政を握りしが、織田信長起るに及び、之と事を搆へ、一旦居る所の西京多門城を納れて降りたるも、ふたヽび懽を失し、和州志貴城に據りて兵を交へ、信長の子信忠攻圍する所となり、天正五年十月十日、防戰力盡るに及び、自ら火を城砦に放ち、自殺す。京都の日蓮宗本國寺に墓あり。法號を妙久寺殿祐雪大居士といふ。」

 これは筑前博多の松永花遁宗助家に関する記録であるが、これによると久秀は太宰府の属員である松永氏の出自とされる。記録によると、久秀の子久通に幼名一丸なる子がおり、乳母とともに遠く筑前に難を逃れて民間に隠れ住んだという。一丸は長じて彦兵衛と称し博多で質店を開業したが、この彦兵衛を家祖とする八代目の末裔が松永花遁宗助とある。
 なお、文中に見える「京都本國寺の墓」は、旧久秀京都屋敷跡であった京都市下京区の妙恵会墓地に現存するが、伝えるところによると久秀は本國寺塔頭戒善院の檀徒で、松永家先祖の供養のため天正年間に土地を寄進したという。
 墓は久秀・久通と法名「法賢院宗秀居士」なる人物(不詳)との合葬墓碑となっており、かなり後になって建立されたものとみられ、その位置は江戸時代の高名な儒学者で一説に曾孫と伝える松永尺五家墓地の一角にある。


松永久秀の人物像

 久秀には多くのエピソードが残されている。「三好義興を暗殺した」「将軍義輝を殺した」「讒言により三好長慶に弟安宅冬康を殺させた」「奈良東大寺の大仏殿を焼いた」etc・・・。しかしこれらには確たる証拠はなく、実際そうしたことを行ったかどうかはわからない。とは言え、こういった記録を残されているということは、少なくとも記録者側の立場にとって彼が「悪人」として映っていたことは否定できない。
 久秀は三好長慶の祐筆より台頭したという。彼には甚介(助)長頼という弟の存在が知られており、長頼は三好家の丹波方面司令官として活躍していたことから、当初は弟の方が三好家に重用されていたのかもしれない。
 久秀は永禄二年八月以降、その主な活動の場を大和に移した。信貴山城(平群町)を修築して本拠とし、さらに南都(奈良)に多聞山城を築き子の久通を入れて大和の二元支配を行った。一時織田信長から大和支配を許されるほどになったものの、結局は背いて天正五年(1577)十月十日、信貴山城に滅ぶ。

 前半生不明の久秀が確かな記録に登場するのは、天文十一年(1542)十一月二十六日のことである。

(今)般三好源三郎當國可亂入歟之由種〃造意、則山城ニテ松長(永)弾正已下人數近日罷越了、仍爲調伏被修之了」(『多聞院日記』同日条)

 この年の三月には、大和へ侵入して一部を支配していた木沢長政が河内太平寺に敗死しており、八月には筒井順昭が畠山稙長の松浦氏討伐に加勢して高屋城に入るなど、大和国人衆の動きが激しい時期であった。三好氏に当時大和侵入の意志があったかどうかは不明だが、「弾正已下人數近日罷越了」と見えるように、久秀は当時既に弾正と称していて三好家中で一部隊を率いる地位にあったことがわかる。
 当コンテンツ「松永久秀の生涯」においては、これをもって「戦国武将・松永久秀」の出現とし、出来るだけ信憑性の高い史料を中心に用いてその後の彼の行動を追い、その素顔に迫ってみたい。