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記ここでは剣聖上泉信綱の誕生から、山内上杉家の重鎮・

2011-06-08 14:13:31 | 戦国時代考証

上州の小領主上泉氏


ここでは剣聖上泉信綱の誕生から、山内上杉家の重鎮・上野箕輪城主長野業正に属した一国人衆としての彼に少し触れてみることにします。


剣聖誕生

 彼は永正五(1508)年に武蔵守義綱(憲綱とも)の二男として、上野大胡城の出城のひとつである同国桂萱郷上泉城に生まれた。この上泉城は現在の群馬県前橋市にある。元服までは源五郎を名乗り、のち秀綱・信綱と称するようになるが、当面秀綱の名で書き進めていくことにする。
 この永正五年という年の各国の情勢を見てみると、近畿では流浪していた前将軍義稙が細川高国・畠山尚順らに迎えられて泉州堺に入り、ほどなく前将軍義澄を近江に追い出した上、七月一日付で将軍位に還補され、義澄は将軍職を解かれるという事が起きている。また甲斐では武田信虎が叔父の大井信恵父子らと甲斐守護職に絡む同族争いを起こしている。同年生まれの武将としては足利晴氏・小山高朝・蒲生賢秀らがおり、大内義隆・里見義堯(1507年生)らも秀綱と同世代の武将である。

 さて上泉家と剣術との関わりであるが、彼の祖父時秀は天真正伝香取神道流の飯篠長威斎家直や陰流の祖愛洲移香斎久忠に、父義綱は長威斎門下で鹿島新当流の祖松本備前守また愛洲移香斎について修行をしたという記録がある。そして秀綱も、父と同じ松本備前守に入門して修行に励み、十七歳の若さで天真正伝神道流の奥義を授けられた。

 享禄三(1530)年、秀綱23歳の時のこと、祖父時秀が永眠する直前に愛洲移香斎が上泉城を訪れた。おそらくこの時移香斎は秀綱と立ち会い、その非凡な才能を見て取り、我が陰流を継ぐに足りる人物と思い極めたに違いない。この後どういう稽古があったかは定かではないが、翌年移香斎は秀綱に陰流の伝書・秘巻・太刀一腰など全てを伝え、飄然と歴史から姿を消した。このあたり、後に武州小金原で一刀流の祖・伊東一刀斎が、兄弟子善鬼との決闘に勝った御子神典膳(後の小野忠明)に全てを伝えたのち姿を消したのとよく似ている。
 余談だが、この享禄三年1月には、後に秀綱とも関わってくる人物が越後春日山城に生まれている。幼名を虎千代といい、父は長尾為景、母は古志長尾顕吉の娘・虎御前。後に合戦の神とまで言われた戦国の巨星・上杉謙信である。

 ともあれ、ここに秀綱は陰流正統を愛洲移香斎久忠から受け継いだ。享禄四(1531)年のことである。


秀綱と小田原北条氏

 さてそのころ関東の情勢は動きつつあった。もともと大胡城つまり秀綱の本家筋は扇谷上杉家の傘下にあったらしいが、扇谷上杉朝興が北条氏綱に江戸城を奪取されて以来、ついに奪回を果たせず天文六(1537)年四月に死去した際に扇谷上杉家(13歳の朝定が家督を嗣いだ)を見限って江戸へ移り、北条氏の傘下に入ったという。ただ大胡城は一族の者が守り、依然として扇谷上杉氏に属していたというので、上泉義綱・秀綱がその指揮を執り家中の統制を行っていたのかもしれない。

 そして天文14(1545)年9月、山内上杉憲政は扇谷上杉朝定とともに東国勢六万五千を率いて北条方の勇将北条綱成の守る武蔵河越城を包囲する。程なく古河公方足利晴氏も一万五千の軍を率いてこれに合流、計8万の大軍で河越城を囲み北条氏康に宣戦布告するという事件が起きる。
 これに対して翌年4月、北条氏康は河越城救援に向け小田原を発し、武蔵三ツ木に布陣した。軍勢はわずか八千。しかし4月20日、信じられないことが起こった。氏康が上杉憲政・朝定・足利晴氏連合軍を謀略により油断させておいて突如夜襲をかけ撃破、扇谷上杉朝定は戦死(享年22歳)、憲政は上野平井城に、晴氏は古河に奔るという結末を迎えたのである。これを世に「河越夜戦」と呼び、戦国三大奇襲戦の一つとして後世に語り継がれてゆくことになる。

 秀綱は享禄元(1528)年に妻を娶っているが、その妻というのが大森式部少輔泰頼の娘という。この泰頼はかつて小田原城主であり、明応四(1495)年に北条早雲の謀略により城を奪われたという大森実頼・藤頼親子の子孫である。そしてこの妻は秀胤を生んだものの早世したため、秀綱は後妻を持つことになるのだが、その後妻というのがなんと先述の勇将北条綱成の娘なのである。


上州の小領主上泉氏

 この河越夜戦以来、山内上杉家の声望は地に墜ち、関東は本格的な北条氏康の侵攻にさらされることになる。小領主たちは争って氏康の傘下に馳せ参じ、上杉家はもはや風前の灯火であった。しかし、この情勢の中でも一貫して斜陽の上杉憲政を支え続けた名将がいた。箕輪城主・長野業正である。
 秀綱はこの長野業正に属して活躍した。長野家の勇将藤井豊後守友忠や白川満勝らと並び「長野十六槍」の一人に挙げられ、さらに「上野一本槍」の栄えある称号を得ていることからも、上杉憲政の麾下として活躍したことは事実であろう。では、その敵である小田原北条氏との関係はどうなったのであろうか。

 ここに戦国の小領主としてのどうにもならない哀しさがある。秀綱個人の思惑はともかく、家臣や領民を戦乱から守るため他の国人衆とも歩調を合わせ、「今日は上杉、明日は北条」といった、悪く言えば「恥も外聞もない日和見的進退」をせざるを得なかったであろうことは想像に難くない。事実、関東の国人衆はのちに上杉謙信と北条氏康・氏政の間で離合を繰り返すのである。そしてこういうことを繰り返すうち、秀綱は強い厭世観を持ったのではないかと思われる。箕輪落城・長野家滅亡を機に、秀綱が地位も領土も棄てて一武芸者として生きる道を選んだ最大の要因は、戦国の世そのものだったような気がしてならない。

 


精一杯健闘した三成勢もついに敗走する時を迎えます。

2011-06-08 13:57:36 | 戦国時代考証

左近の終焉


精一杯健闘した三成勢もついに敗走する時を迎えます。午前中の戦いで被弾負傷していた左近は、無謀を承知で敵の大軍に突っ込みます。

 

左近が戦死したと思われる、笹尾山下に拡がる決戦地一帯

左近の終焉

 やがて、遂に石田隊も東軍の猛攻を支えきれずに四散、主将三成の戦場離脱となる未の刻を迎える。そして、左近は・・・。
 彼は最後の力を振り絞って敵陣に突入し、ここでついに戦死した。上の写真は笹尾山下に拡がる決戦地一帯で、遠方中ほどに小さく見える白い幟が決戦地碑の建つ位置である。おそらく左近の戦死した場所はこのあたりではなかったかと思うが、それを記した書は見あたらない。
 先の脱出説を否定するわけではないが、私はやはり彼は関ヶ原に散ったと思いたい。いや、華々しく散らせてやりたいと思うのである。ただ、その場合、彼の首は家康の実検には供されていないから、屍は雑兵達のものと混じって戦場にうち捨てられたままということになるが、これは左近ほどの名将の最期としては実に忍びない。しかし、これがそもそも合戦というものの本来の姿なのだろう。ひょっとすると、今なお西首塚あたりに、左近の遺骨が人知れず紛れこんでいる可能性も大いに考えられるのである。

 後に興福寺持宝院の主が語った話によると、西軍の敗勢が濃くなった頃、三成家臣の八条勘兵衛という者が、左近に佐和山城へ入って城の守備をしてはどうかと勧めたところ、左近は彼に、我が子掃部や修理(注1)の消息をただした。そして勘兵衛から二人の息子の戦死を聞かされると、左近は「それならば、もう何を楽しみにして生きられようか」との言葉を残し、そのまま敵陣に突っ込んでいったという。彼の心情は察するに余りある。
 事の真偽はいざ知らず、私はこれで良いと思う。きっと、その時の彼は、「鬼左近」と呼ばれた以上のすさまじい形相をしていたことであろう。苦痛に耐え、傷ついた身を引きずって兵を指揮し、自らも力尽きるまで槍を揮い、あるいは刀を払って東軍兵を薙ぎ倒し続けたと思いたい。しかし怒濤となって次々と押し寄せる東軍兵の中に、やがて彼の姿は消えていった。

 まさに玉砕。無謀を承知の上で雲霞の如き敵の大軍の中へ突撃していった彼の脳裏には、いったい何が映っていたのだろうか。
(※協力&一部資料提供:平群町教育委員会)

【注1】『奈良県史11 大和武士』所収の『和州国民郷士記』に、「○平群郡 馬乗七十三人 雑兵七百二十人 嶋左近亟 嶋掃部介慶長五年子九月十五日関ヶ原陣ニ立テ打死ス 嶋修理介知行一万石秀頼卿ヨリ 同持宝院陵尊房一万石石田三成ヨリ」とある。




左近は筒井氏の勇将として、宿敵松永久秀勢との戦いに奮闘した。

2011-06-08 13:46:38 | 戦国時代考証

筒井家から石田家へ


左近は「筒井の左近右近」と呼ばれる勇将としてその名を轟かせますが、定次の代になって彼は主家を去り、やがて石田三成に高禄で迎えられます。



筒井家を去る

 左近は筒井氏の勇将として、宿敵松永久秀勢との戦いに奮闘した。やがて天正五(1577)年十月にはその久秀も滅び、同六年には信長から山中鹿介の拠る播磨上月城への援軍として派遣された筒井勢の中に彼の名が見える。信長から秀吉の時代へと移った同十一(1583)年五月、左近は筒井順慶に従って秀吉の滝川一益攻めに出陣するが、このときは敵の夜襲を受け負傷している。程なく順慶が歿し(天正十二年八月十一日歿)、左近は葬儀の際に幡を持って参列した。そして、主君は定次に代わり、筒井家は後に伊賀に移る。
 天正十三(1585)年三月の秀吉の紀州征伐時における筒井定次勢の中に彼の名があり、『根来焼討太田責細記』にその際の彼の活躍が見られるので記しておく。

(前略) 的一坊ハ敵ヲ打事数多ニシテ筒井ガ臣井田五郎・小泉四郎ト戦ヒケル、是ヲ見テ筒井隼人先祖ノ武功ヲ顕サント大ニ下知シ、真壁与十郎・宇田切三郎・飯田祐右ヱ衛門・楢原右助・松倉右近・森縫殿ヲ従ヱ的一坊ニ切テ掛リ半刻斗戦ヒシニ、嶋左近、的一坊ガ手ヲトラヱ鉄棒引タクリケレバ、爰ニ於テ筒井ノ勇士手取足取引倒シ、終首掻切タリケル」

 ただ、一説にこの時活躍したのは彼の子新吉信勝とするものもあり、加えて竹中重門の『豊鑑』に「寺々はみな明けうせ、僧俄に落行たりと覚えて、器以下取りちらして置けり。兵ども寺々に入りみちて是を取りしたためなどす」とあるように、秀吉の根来焼き討ち自体がさほど伝えられているような激戦でなかったとする見方もあることを付記させていただく。

 『増補筒井家記』によると、左近は天正十六年に筒井氏を去り、大和興福寺の持寶院に寓居したとされ、『多聞院日記』では同十八年五月十七日条に
「北庵法印明日亀山ヘ為見廻越トテ、箱二ツ預ケラレ了、嶋左近ノ内法印ノ娘一段孝行、左近陣立ルスノ間越了」
 と見える。北庵法印とは左近の妻「おちゃちゃ」の父で、興福寺に所属する医師である。この記述の解釈として、従来の説では「北庵が娘(左近の妻)を見舞うため亀山(伊勢か)に来たが左近は出陣中で留守だった」とされているようなのだが、これについては後の稿で新解釈を提言するので、そちらで詳しく述べさせていただくことにする。なお、当時の伊勢亀山は蒲生氏郷の与力関一政の領地で、時期的に「陣立」(出陣)とは秀吉の小田原攻めを指し、左近は関一政とともに蒲生勢の一員として参陣(氏郷は二月七日伊勢松阪を出陣)したと見る向きもある。ただ、小田原城北の久野口(宮窪)に布陣した蒲生・関は、五月三日に太田氏房家臣広沢重信の夜襲を撃退した記録があるが、左近の名はそこにはない。また、丹波にも「亀山」(現亀岡)があり、当時前田玄以の領地であったことを付記しておく。


左近、石田家へ

  石田三成が左近を召し抱えた時期も天正末期説や文禄四年説などがあり、はっきりとは判っていないようだ。同日記には左近が朝鮮の役に出陣したと思わせる記述があるが、文禄二年閏九月九日の条に「嶋左近昨日八日佐和山ヘ西陣ヨリ帰了」とあり、「佐和山」の文字があることから、この時点で既に三成の家臣(または与力)になっていたものと見られる。ということは、朝鮮役にも既に石田家の一員として加わっていたはずである。一説に大和大納言秀長・その子秀保に仕え、秀保が文禄三(1594)年四月に歿して再び浪人したとき三成に召し抱えられたともいうが、その間の左近の事績は不明で、今回の取材ではその形跡は認められなかった。この点についても改めて後に詳しく述べることにしたい。
 写真は佐和山の麓に位置する龍潭寺(彦根市古沢町)にある三成の像で、同寺の並びには石田家における左近の居館跡と伝えられる清涼寺(井伊家菩提寺・写真下左)がある。

  ともあれ、三成が高禄をもって彼を召し抱えたことは事実で、ここから彼は再び歴史の表舞台に登場する。一説に三成がまだ近江水口四万石の主であったとき、一万五千石とも二万石ともいう破格の条件で左近を召し抱え、後に佐和山十九万石余となったときに禄高を増やそうとしたら、左近は「このままで結構でございます」と断ったという。周囲の人は「この主君にしてこの家臣あり」と、皆感じ入ったと伝えられている。
 三成の「水口四万石」については時期的に問題があるのだが、敢えてここでは触れないことにする。この一万五千石云々という数字について私なりに考えてみたが、これは「三成の所領の半分」というよりも、左近全盛時の所領を考慮したものではないだろうか。『姓氏家系大辞典』(太田亮著 角川書店)の島氏の項に「島左近友保、その子左近友之は、共に筒井氏に属し、松倉、森の二氏と三老の稱あり。一萬石を領し、柳本戒重、櫻井、生駒、萩原等、合せて五千石の麾下ありしと云ふ」とあり、所領は一万石だがそれに加えて五千石分相当の麾下を併せ持っていた。つまり筒井家では一万五千石格の武将だったのである。三成は最低限左近最盛時の俸禄を「値切る」形では召し抱えたくなかった。左近という大物を抱えるにはそれなりの待遇が必要で、仮に三成の所領が二万石ほどだったとしても、やはり一万五千石を出したのではないかと思うのである。
 当然の事ながら三成は左近を重用し、左近も忠実にそれに応えた。石田家の筆頭家老職を務め、佐和山城下の松原内湖に百間橋を架けるなど、三成の治世にも貢献している。また軍事面では総司令官たる地位にあったと言っても良いであろう。まさに三成の懐刀であり片腕たる存在であった。そして慶長五年、いよいよ「関ヶ原」を迎える。