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<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

2011-06-28 22:44:26 | 桶狭間の真実やいかに

<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9

  1. 谷口克広氏、『信長の天下布武への道』『織田信長合戦全録』  (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)
  2. 桐野作人氏、『信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ/歴史読本』   (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加) 
  3. 藤原京氏、『時代劇のウソ?ホント?』    (初出 2008.07.13) 
  4. 別動隊説を検証する………橋場日月氏、『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』『伊勢湾制圧・今川帝国の野望/歴史群像』    (初出 2007.12.18)   
  5. 服部徹氏、『大高と桶狭間の合戦』『信長四七〇日の闘い』    初出 2008.12.14 「伊勢湾海運と水軍」に移動。 2009.11.20 別章を立てました)
  6. 鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

 

 

 

 

 

 

 

(1)谷口克広氏の桶狭間    (初出 2007.11.23、 2010.05.06 追加、2010.05.21別章立)

(2)桐野作人氏の桶狭間        (初出 2008.07.07、 2010.05.06追加) 

さて、『歴史読本』8月号に桐野作人氏の桶狭間の戦いに対する考え方が示されました。というよりも、新たな可能性も提示されただけのようでして、結論は保留されているようですが、これまでの谷口氏の説とは異なっておられるようでして、藤本氏や谷口氏の提案には一切触れられておられず、かなり藤井尚夫氏の説に近いものになったようです。また、朝比奈勢や服部勢の行方などには一切触れられていないのはとても残念です。

桐野氏は、方角問題を乗り越えるために、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」とされますが、果たしてそのようなことは可能なのかを検証してみます。

註:方角問題とは、中島砦から桶狭間村は東南に位置するため、信長が桶狭間で東に向かって攻めかかるには、どこかで南に行軍しているか、それとは反対に、義元の方が本陣を北方に移動させていなければならないはずだという疑問のことです。

まず、沓掛から桶狭間に義元が向うにあたってどの道を通ったかを考えますと、桐野氏はこの問題には一切触れられてはおられませんが、大脇から大高道を通ったことに間違いはないことだと考えるべきだと思います。何故なら、当時の東海道から桶狭間村に入るには、いったん鎌研あたりまでいって、長坂を上り高根と幕山の間の峠を通る鳴海~桶狭間道を行くしか街道はなく、非常に遠回りになるからです。それにまた、東海道には人家もなく、せっかく塗輿に乗っても義元は人々に示威することができないからです。近世から見られる間米~館を経て桶狭間へ抜ける道なども当時はなく、軍隊が行軍するには適当であるとは思われないこともあります。

と云うことは、義元が大高城に入城するのが目的である限り、当日が熱暑であることを考え併せると、東海道を行軍していながら、わざわざ鎌研から桶狭間山に戻ってまで休息するということは考えられない無駄な行程を採ったことになるわけです。また、疎林とはいえ道のない場所を行軍したものとも考えられません。それに、引き連れた小荷駄を大高城に先行させて入れておくことが安全なはずなのですが、そのような処置もとっていません。これは漆山に着陣した場合でも同様です。………義元が中島砦を攻めたうえで鳴海城を救援しようとしたという伝承もまた殆どないのです。これが第一点の説明されるべき疑問です。

漆山義元本陣説には大きな弱点が二つあります。

一つは、義元勢が桶狭間山から東海道を漆山に上りますと、有松の狭間を抜けてからは善照寺の織田勢にその姿を暴露するわけですから、織田軍は信長だけでなく大勢の将兵が諜報や偵察などによらずとも、義元の軍勢をつぶさに観察して具体的にその数さえも勘定できたことになるわけです。と云うことは、信長がその手兵を前に演説した内容は完全に嘘であることを部下に見抜かれていたことになります。信長がいかに駿河勢が労兵であると演説しようと騙されるわけがありません。………逆に言いますと、これは、それだけ信長一党が熱狂の極みにあったことになるわけでして、善照寺砦や中島砦で信長の出撃を諌止した極少数のものだけが正気を保っていたことになるわけでもあります。ですから、信長のカリスマ性を示す格好の事例になるわけですが、牛一の『信長公記』では信長麾下の将兵が熱狂して敵勢に向かっていったというような記事をのせてはいません。将兵が熱狂したのは略奪に出かけるときだけだったのではないのでしょうか?天理本では熱狂して(?)熱田・山崎からついてきた人々は、駿河勢の威容をみて正気に戻って退き上げてしまったと記しているのです。ですから、これが説明されるべき第二の疑問で、信長のカリスマが疑われるところです。

二つ目の弱点は、『信長公記』が「信長は、先ず丹下砦へ行き、善照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。信長の参陣と同時に佐々らは出撃した。その後、午刻に至って昼食をとり、謡をした。」という時間経過を記すからです。

………これは、歴史読本8月号で桐野作人氏が、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」といわれることは、全くの誤りであることを指摘することになります。午刻には義元は桶狭間山にいる必要があるからです。

なぜなら、『信長公記』は、信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。そしてその信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したとなるからです。その後、義元は漆山に陣を進め、午刻に至って敵前の漆山で昼食をとり、謡をしたと読まなければなりません。

これでは、明らかに拙いので、「信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。義元も信長参陣を知って急遽漆山に陣を移すべく前進を開始した。同時に、信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したが、それを義元が見たのは高根以西の高地からであったとし、その後義元は引き続き前進して漆山に陣を進め、午刻に至って漆山で昼食をとり謡をした」としなければなりません。

ということで、そのように解釈した場合の行程的な問題だけを考えてみます。

義元が午刻に漆山本陣で昼食をとり、謡をするには、桶狭間からの約3kmという距離から考えて45分程かかったものと思われますから、午前11時15分には桶狭間山を出立していなければなりません。その場合、義元が佐々・千秋らとの前哨戦を観戦できる高所を探しますと、高根と幕山およびその峠と長坂を行軍中であることなどが考えられます。そして、高根は桶狭間山から約1km先になりますから、15分前の午前11時30分には高根にいなければなりません。

また、信長の方は、桶狭間山の義元に参陣を見られたのが午前十一時十五分なのですから、 熱田~善照寺間一里25町余の7kmを時速9kmで駆けたとしますと約50分かかりますから、午前10時25分という遅い時刻まで熱田で将兵の着到を待っていたことになります。

佐々らが信長の善照寺参陣を見てから中島砦(天理本)を出撃しているのですから、その場合には、丸根は別にしても鷲津砦の攻略には午前十時以降までかかった可能性があり、松平元康の率いる松平勢が丸根攻略後に鷲津攻めにも転戦し、朝比奈勢は鷲津砦の戦後処理にかかりっきりで、桶狭間合戦には間に合わなかったということもできそうですから、「鷲津砦に朝比奈勢がいる」という難問をクリアーすることができます。

逆に、信長が午前10時頃に善照寺砦に参陣していたとしたならば、義元もその頃には桶狭間山から高根以西を行軍中でなければならないのですから、義元の本来の目的は信長が出現しようがしまいが大高城に行く予定であったと考えられます。すると何のために桶狭間山で人馬を休息させる必要があったのかが再び問題になります。昼食をとるには早すぎる時刻であり、正午には大高城に入城していられるからです。なぜ義元はそうしなかったのでしょうか?………たぶん、桶狭間山で信長参陣を知ったからだという本末転倒な説明を漆山に本陣を布いた理由にされることが考えられますが、桶狭間山に寄り道した理由は依然として謎のままですから、これも説明を要します。

さて、桶狭間山にいた義元が午前10時頃に信長の参陣を知って、急遽本陣を約1km先の高根まで進めたところで前哨戦を見たとしたならば、これには15分かかりますから義元の先備えは約840m先の戌亥にあたる鎌研のあたりで織田勢を迎え撃つことが考えられます。その場合に佐々らは1.4kmを山際(鎌研あたり)まで行ったとしますと25分ほどかかりますから、義元が高根に到着した十分後に両勢は合戦を開始した可能性があります。これは午前10時25分になりますが、戦闘時間は五分程度で勝敗は明らかになり、その後は追撃戦になったものと看做すことにします。この趨勢をみて義元が陣を進めたとしますと、約1km先の漆山に到着できるのは15分後の午前10時45分頃になります。義元は正午に昼食をとっていますから、その後の1時間15分で全軍を漆山に収容して布陣を完了したと看做すことができます。これは後続が行軍中に襲撃されることを許すわけにいかないからです。

この行程から義元の直卒兵力を推定しますと、1時間15分で行軍できる距離の5kmにどれだけの兵士がいたかという問題なるわけですが、騎兵一割を含んだ一時間当りの兵数は4,208人でしたから5,260人と先備えの兵力1,000人を加えて、6,000人強の兵力と算定します。これは微妙な兵力です。信長の率いたのは2,000人といいますから約三倍なのですが、信長の場合には小荷駄などを伴わなかったと考えられるからです。

そして、信長とその兵士の大部分は熱狂的に攻撃に移り、少数の冷静な武将はこれを諌止しようとし、熱田・山崎から浮かれて付いてきた町人らは、熱から冷めて急遽引き返したことになるわけです。果たして、信長軍の中核になった小姓・馬廻などの集団はそのような熱狂的な集団であったと言えるでしょうか?

………これは、結構いえるようにも思えますので、これも信長のカリスマ性の一例にされそうです。しかし、それにしては『信長公記』は「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども」と書いたり、「右の衆、手々に(敵の)首を取り持ち参られ候。 (信長は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、」と書き、信長に反対する情景は書きますが、信長を熱狂的に支持する将兵の姿は書かず、進撃の実態も緩々と前進しているように思えて、熱狂性は感じられません。

ところで、朝日出~漆山は約2kmありますから、信長勢二千人が漆山の山際に展開するには45分ほど要します。ですから、昼食と謡に30分を見積もりますと、風雨の始まりは午後1時15分ということになり、降雨時間は45分と考えることができます。そうしますと、桐野氏の説も行程的にはと限定すれば、有り得る想定であるということができます。

但し、桐野氏自身も認めておられますが、『信長公記』や『三河物語』という史料に矛盾する点が多々あります。

  1. 取敢えず鷲津山の朝比奈勢は考慮しなくてよいことは先に述べましたが、服部党一千艘(二十艘?)が遊弋していた問題があります。彼らはなぜ信長の背後を衝かなかったのでしょうか? ……… これは、天理本に「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。」とあることがポイントになります。この文章では、織田軍の劣勢を見て帰ったということだけなのですが、大高河口に遊弋していた服部勢をも見たからだとも思われるからです。この熱田住民らは熱田を襲った服部党を撃退しているのです。そのため、この事からもう一つ分かることは、服部勢が熱田を襲った時刻です。「真説・桶狭間の戦い」章から推定しますと、熱田からの兵一千が到着を終るのは午前10時50分ですから、町民らが取って返したとしますと約1時間30分後には帰れますから、服部勢が熱田を襲ったのは正午半頃であったろうということになります。これは、大高河口~熱田湊の海上6kmとしますと、約1時間弱の航行ですから午前11時半頃には大高河口を離れたことになります。せっかく参陣していながら義元にも会わずに、です。
  2. なぜ兵力に優今川勢は中島砦を出ようとする信長の出鼻を叩かず、山際に信長勢が兵の展開を完了するまで待っていたのでしょうか?義元は信長参陣を知って漆山に本陣を進めたという想定なのですから、戦う意欲は十分にあったはずなのです。 ……… 当時の漆山と中島砦の間は、水田が広がっていたのではないのでしょうか?その場合には、水田の中の一本道を信長軍は進撃しており、山際に至って駿河勢の西方に展開するまでは、両軍とも互いに攻撃できないことになりますから、説明は可能ですが、今度は逆に義元の意図が疑われます。それとも原野と看做すのでしょうか。
  3. 漆山山麓から見える沓掛の峠とは何処をさすのでしょうか?
  4. 現在にいたっても所在の知れない「おけはざまやま」にさえ名前をつけた牛一が、なぜ漆山については名前をあげなかったのでしょうか?
  5. 『三河物語』に山上にいた「駿河勢が我先に退いた」とある記述を、桐野氏説では説明できません。これが先備えであったならば、背後の義元は何をしていたというのでしょうか。これは降雨前のことです。
  6. 根強くある信長迂回説を説明することもできません。なぜ、このような説が生まれたのでしょうか?迂回も何も全くできなくなる位置関係になります。
  7. 黒田氏によって唱えられた『甲陽軍鑑』の記載による「どさくさ紛れ」説も説明できません。紛れようもないストーリーの展開だからです。すると、この『三河物語』にも矛盾するような情報を信玄はどこから仕入れたのでしょうか?
  8. その他、多くの軍記物の記事を説明できません。

(2010.05.06 挿入) 『歴史街道2010.06』での桐野氏は、『信長公記』に「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、五月十九日、午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」とあるのを誤読されて、「今川軍は桶狭間山で休息したのち、戌亥の方角に向かって軍勢を進めた」と解釈される。この恣意的操作により、信長と義元との距離はぐっと縮まり、両雄が近世東海道上において東西の位置関係で遭遇する可能性を高くすることができる様にはなる。しかし、原文をどう読んでも、義元は桶狭間山で休息していたのであって、そこから自陣を動かしたと読むことはできない。義元が動かしたのは、当然の軍事行動であるが、休息する本陣を守るために「一手(備)」を敵のいる方角(善照寺・中島砦方面)へ張り出して布陣させたという、極々常識的な行動をしたに過ぎないだろう。これ以外に解釈のしようがないのは、時間の経過を見れば分かりそうなものだ。義元は午の刻には、佐々・千秋らとの前哨戦を観戦したうえに、謡を三番も謡って悠然としていたのである。その義元が64.9mの山から下りて東海道上に出るには一体どれほどの時間がかかるだろうか。信長が義元の旗本を発見して突入するのは未の刻であったのだ。そして、『天理本』には「戌亥に向て段々に人数を備」たとあるのだから、とてつもない時間がかかっただろう。まず、義元は前がつかえていて山を下りられなかっただろうし、信長は東海道に充満する駿河勢に道を塞がれて、義元の許に辿り着くことなどできなかったはずなのである。これらのことから、桐野氏のいわれる方角問題は、問題以前の問題というしかない。  <余談だが、氏は、桶狭間山を「石塚山」と態々記載されている。これは64.9m山頂から200m東にあたる現在の南舘付近のことである。そして、『豊明市史p576』には「石塚山は義元の本陣跡とも墓所とも伝えられている。正確な場所は不明だが、・・・(豊明市)古戦場公園の南約500mの丘陵付近(現在のホシザキ電機付近)に該当すると考えられている。」との説明があるにはあるが、見通しはまるで利かない山中である。同関連史料も資料編補一第六節にあるにはあるが、検証する気にもならない。………因みに、この64.9m山付近の地名は目まぐるしく変転している。1976~80年の地形図では、この山の北が舘北、この山の辺りが舘、その西が舘中、南が舘南と表記されている。それが、1984~89年の地形図では北舘が南舘に変わり、その他の地名は消えている。1968~73年の地形図では南舘が舘と表示されているだけであり、1959~60年以前の地形図(昭和37年発行)には地名表記すらないのである。桐野氏がなぜこのような地名を態々持ち出すのか気が知れない。

       

(3)藤原京氏の桶狭間   (初出 2008.07.13) 

『時代劇のウソ?ホント?』での氏の仮説はかなりユニークです。

その要点は義元軍は陣城を構築中であって、それが完成する前の隙を速攻した信長に衝かれために敗れたというものです。そのために、信長は第一波の攻撃を千秋・佐々ら三百人に行わせ、第二波には前田犬千代が参加しており、自らは第三波となって義元本陣に殺到したというのです。そして、その背後には柴田勝家らの部隊が控えていたとしています。

このような説を唱える理由について、氏は自ら説明して、現在忘れ去られた戦国時代の常識の一つとして、「城は攻めても落ちないもの」というものがあるとされています。そのため、鳴海城・大高城を攻囲し、駿河勢籠城策をとったために必然的に駿河勢による後詰が行われたことにより生起したされており、信長は桶狭間山に着陣した駿河勢が未だ陣城を構築できないでいたその隙をついたのだとされるわけです。そして、反面教師として長篠合戦での信長・家康連合軍による野戦築城を例に出されます。………義元は、本当に桶狭間山に陣城を築こうとしていたのでしょうか?一体、何の目的で?

陣城構築中であったということには否定的な情報が多々あります。

  1. 氏は、桶狭間山が鳴海城に後詰するには、大軍を広く展開できる理想的な陣城構築場所だとされていますが、桶狭間山からは予定戦場になると考えられる中島砦付近が見通せませんし、そこは小規模な丘陵が複雑に入り組んでおり、とても大軍を駐留させる場所ではありません。これは孫呉の兵法を齧った武将ならば絶対にしなかったと思われる陣取りです。そして、今川義元は僧として一生を終えるつもりで京の妙心寺で修行に励んでいたのです。………黒末川の南から攻めたいのならば、二村山辺りを選定するのが常識ではないのでしょうか。沓掛城から鎌倉海道を使って、善照寺砦を落とすのが兵法の常道ではないのでしょうか?それを何故、態々、黒末川が天然の堀をなしている南方から攻めなくてはならないのでしょう。
  2. 最も間近な桶狭間村の村民たちには、陣夫役として築城に駆り出されたという伝承はなさそうです。何故なら、地元住民には戦闘に巻き込まれて死傷したという悲惨な伝承が皆無だからです。死んだのは今川方の将兵ばかりなのです。………地元の郷土史家は、村民たちはセド山の上から恐々として戦いの帰趨を窺っていたしていますし、長福寺の伝承では義元を接待したとしています。
  3. なぜ近場の大高城に行く途中で昼食をとるためだけのために、陣幕と柵・逆茂木程度で済まさずに、しかも前もって用意せずにその場になって慌てて陣城を構築しようとしたのでしょうか?
  4. 桶狭間に構築した陣城は、鳴海城救援のために役立つものなのでしょうか。それに、陣城が構築途中であるならば、その工事を妨害させないために、その前面に敵を迎え撃って戦いが行われたはずです。………小生は、赤塚合戦は信長が天王山に付城を築こうとして、それを阻止しようとした鳴海城の山口九郎次郎との間に起こったとみています。
  5. 最も重要な点は、ほとんど全域にわたって宅地開発された現在に至るまで桶狭間付近で陣城址が発見されていないことです。

それでも、藤原氏の説には魅力的なものがありました。それは、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」という主張です。この説は、『信長公記』の天理本が紹介されるまでは、大高城に兵粮を搬入したことは公記に書いてあるのですが、大高城が包囲されていた事は証明できませんでしたから、すこぶる魅力的な見方の一つで有り得ました。大高城の南に付城が築かれたことを明確には証明できなかったからです。

その場合には、丸根・鷲津砦の戦術的な意味は、藤原氏が言われるように、鳴海城への兵粮や兵力を搬入することを妨害するものであったことになり、織田方が大高城を攻撃することは二義的になりますから、義元がこのニ砦を攻略することは取りも直さず鳴海城の封鎖を解くことを目的にしたものであったことになるわけです。………尤も、それでもまだ中島砦が東海道を封鎖していますから、東海道からの搬入は見込めませんし、沓掛城から鎌倉海道によって善照寺砦を攻略した方が楽なように思えることには変わりはないのですが。

ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか?

これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。


、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」

2011-06-28 22:38:27 | 桶狭間の真実やいかに

それでも、藤原氏の説には魅力的なものがありました。それは、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」という主張です。この説は、『信長公記』の天理本が紹介されるまでは、大高城に兵粮を搬入したことは公記に書いてあるのですが、大高城が包囲されていた事は証明できませんでしたから、すこぶる魅力的な見方の一つで有り得ました。大高城の南に付城が築かれたことを明確には証明できなかったからです。

その場合には、丸根・鷲津砦の戦術的な意味は、藤原氏が言われるように、鳴海城への兵粮や兵力を搬入することを妨害するものであったことになり、織田方が大高城を攻撃することは二義的になりますから、義元がこのニ砦を攻略することは取りも直さず鳴海城の封鎖を解くことを目的にしたものであったことになるわけです。………尤も、それでもまだ中島砦が東海道を封鎖していますから、東海道からの搬入は見込めませんし、沓掛城から鎌倉海道によって善照寺砦を攻略した方が楽なように思えることには変わりはないのですが。

ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか?

これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。

城塞というのは古代に「稲城」といわれたものから戦国時代前期までの「城館」まで、一般には本気で戦争するための城塞というものは唐の侵攻に怯えて大宰府に水城を築いた時期を除いては、日本ではあまり作られませんでした。つまり、防御施設というものは簡単なものでも十分に有効であったという事実があったからです。

「落ちない城」の範疇で最も有名なのは楠木正成の千早城・赤坂城ですし、大きなものでは大宰府の水城、平氏の福原防塞、奥州平泉の藤原泰衝が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれた阿津賀志山防塁、元弘時の防塁がある程度のものでしょう。勿論、帝都は中国の城塞都市を真似て作られていますから、一応城塞であります。

これらのことから気づくことは、日本では古代に国際外交の真っただ中にあったとき以外には、城塞に拠って長期にわたって攻防するということは殆ど考えられていなかったということです。そのため、城塞は簡単な設備であっても十分にその役目を果たしてしたということなのです。しかし、これは逆からみますと、日本国内での紛争は殆どが内乱にまでも至らず、ヤクザ同志のシマ争いの喧嘩程度のものでしかなかったからであることが窺えます。つまり、世界的なレベルで見るならば戦国時代より前の日本の城塞の殆どは世界規格に満たないものばかりだったわけです。なぜなら、戦争当事者自体がヤクザみたいなものですから、敵の城塞を徹底的に攻略しようなどという「意図」も兵力差も持たなかったからです。

応仁の乱においても洛中では、首都の都城の内にあっての市街戦で終始したのです。市街戦が行われるということは、市街が焼き尽くされ破壊し尽くされていないことから起こります。近代以前ならば始めから火攻めをおこなったりはしないということですし、近世以降になりますと事前の制圧砲撃で徹底的に破壊したりしない攻撃になります。ところが、戦国時代も深化してきますと、領国の統一から始まって、領国を拡大して隣国をも支配しようとするように目的が変わってきますと、まず、兵力差が広がってきたうえに、それに裏付けられて敵の城塞を完全に攻略する意志持ち始めます。

するとそれまでの、政治・行政・経営を目的とした城館では目的を果たせなくなり、武士は城館の背後に詰城として山城を築き始め、次第に戦術的な意義を最優先する山城が主流になります。こうなると城塞は落とし難かろうが、落とさねばならないものになってきました。それまでは、多大の犠牲を払ってまで落とす意義を感じなかったのですが、終に多大の犠牲を払っても「落とす必要がある時代」になっていくのです

ところが、戦術的に有利であると思われた山城も、火縄銃の普及により、反って戦術的には不利になるという逆転現象が起き、城塞は広大な城域と高さを合わせもった平山城に移行します。

 鉄炮の普及が山城への籠城を不利にしたのは、その威力と射程にあります。山城の地形的有利さは、急な斜面と狭い尾根によって攻撃軍が接近し難く、攻撃路が限定されるということにあります。ところが、その山城の有利な点は攻撃側にも作用しており、迎撃正面を著しく狭いものにしてもいるのです。これは投射兵器の射程距離が短い間は守備側に有利に働きましたが、鉄砲が現れて射程距離が増大すると一気にそれを減殺してしまいました。三角形を想像してください。守備側は三角形の頂点の狭間から底辺を万遍なく射撃できるのですが、それに使用できる武器は一つに限られてしまいます。それに対して三角形の底辺には数倍の射手を並べて、狭間を制圧射撃できるわけです。そして、鉄炮は弓矢より自由な射撃姿勢を採れますから、体を隠し難い攻撃側を非常に有利にしました。つまり、山城では尾根を切って堀にすることにより、攻撃路を極端に狭く限定できても、突撃を援護射撃する正面を狭めることができないのです。そして、守備側は各々の山頂に分散していますから、相互に連携して援護し合えないのです。…この欠陥を是正したのが、平山城であり、山頂に指揮所を作り、山腹を全面的に郭にすることによって、一元的統一的に防御戦闘を指揮できるようにしたわけです。そして、平山城の山腹曲輪の狭さを克服したのが、石垣に支えられた重層櫓なわけです。これにより、敵の攻撃路を狭くして戦闘正面幅を小さくしながら、守備兵を重層的に配置することができるようになり、守備側を有利にしようとしたわけです。

城館時代の城は、長期に渡る攻囲などは始めから想定して作られてはおりません。専ら不意の攻撃に備えたものですし、攻撃側も端から徹底的に攻略しようというような意図は持っておりませんでした。そのような大義も利害もなかったからです。ですから、刈り働きをしたり水利施設を破壊したり復讐であったりといったところで終わっていました。そのため、簡素な城館でも攻め落とすことは困難でした。それでも攻め落とそうとするならば、仕寄せをしたでしょうし、攻囲することも考えられるでしょうがそのようなことに至ることは殆どありませんでした。楠木正成の千早城の攻防をみれば、寄せては仕寄の準備を全く欠いていたことがわかります。これでは城は落ちません。

ところが、領国統一から広域支配の時代になりますと、端から籠城を覚悟した造りに城塞はなってきます。それは、攻撃側が敵を徹底的に攻略しようという意志を持つようになったからです。そのため、力攻めで短期に落とすことが無理ならば、攻囲して経済封鎖をすることによって攻略する必要が生じたわけです。そのために発達したのが付城です。城が物資の集積基地であるから、攻囲するわけではありません。戦国時代になると大大名たちは城攻めには、付城を築いて攻囲戦を行うようになるのですが、それ以外の国人衆以下のレベルでの戦争では、そのような例はそれほど多くないのです。攻囲する側も兵員を張りつけなければなりませんし、その兵粮その他の軍需物資を攻囲軍に補給するのが大変だからです。全てを苅田狼藉で現地調達しようとしても無理があります。

領国統一から広域支配の時代になって、端から籠城を覚悟した城塞を攻囲するようになったのは、我彼に圧倒的な兵力差があるのに敵が降参しないからです。そして、降参しないその理由は初めから敵を拘束する役目を持つ城であるか、敵に服従するのが嫌だからです。つまり、近隣の紛争や中央政治の代理戦争として互いに同等の兵力で戦う時代は終わり、継続的に領土拡大のための争いがはじまったのです。

ですから、信長が活躍し始める時代の城塞は、既に「城は攻めても落ちないもの」などではなくなっていたのです。そして、戦国時代が終わる頃には「城は必ず落ちるもの」になってしまっています。天下分け目の合戦の時代に落ちなかった城は数えるほどしかないはずです。

 

(4)別動隊説を検証する     (初出2 007.12.18)   

桶狭間の戦いにおける一方的な大勝利を迂回を考えずに可能にする方法には、「別動隊」を考えることで解決することがあります。

但し、この別動隊説には根本的な問題がいくつかあります。

  1. 当時の信長には支隊(別動隊)を預けて時刻を計って分進合撃できるような官僚的指揮官がその配下にはいなかっただろうと思われること。
  2. 信長が別動隊を使って挟撃作戦の類を過去に行ったことがないと思われること。…支隊に分割して多方面作戦を行った例はいくつかあります。天文廿一年(1552)八月の深田・松葉両城奪還作戦では、「稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸け付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介(自らは)、孫三郎殿一手になり、海津ロヘ御かかり侯」とあって、全軍を四手に分かっています。不確実なものですが、永禄二年四月に福谷(ウキガイ)砦の酒井忠次を攻めたときに、自らが岩崎丹羽氏を牽制しておいて、柴田・荒川をして攻めさせたというものが『東照軍鑑』にあるのですが、成功はしていません。
  3. 別動隊を指揮できそうな武将は全て、付城の守将を務めていて出払っていると考えられること。
  4. 『信長公記』に名前の出てこない大物武将を別動隊とした場合には、当該諸家にその事績が伝わらないこと。
  5. 分進合撃や別動隊との共同作戦を実現することは、無線通信手段のなかった時代では極めて困難なこと。…あのナポレオンでさえ、ワーテルローではグルーシーの部隊を間に合わせることができなかったのです。ナポレオン自身が後日、別動隊を呼び寄せるために常と違って一人しか伝令を出さなかったことを後悔しているぐらいです。しかし、全くできなかったわけでもありません。戦国時代に別動隊との共同作戦を得意としたのは島津氏であり、後世「釣り野伏」と言われる待ち伏せ作戦が有名です。
  6. 桶狭間の戦いの後の信長の作戦に、別動隊を用いた作戦は長篠合戦しかなく、この戦いでは長篠城の救援が主目的ですから、敵の鷲巣砦攻略には大軍を派遣しています。そして、敵に優越する兵力があれば、別動隊どころか複数の攻め口から攻撃することは自由であるというよりも、混雑を避けるためにも必然になるに過ぎない現象になります。信長が敵より劣る兵力で別動隊などは使用した実績はありません。 (2008.1.27)
  7. 敵に劣る兵力で二正面に敵を受けて戦った稲生合戦ですら、支隊を設けなかったことからみても、当時の信長には別動隊の指揮を任すことができるような野戦指揮官は未だ育っていなかったと考えるべきであること。 (2008.1.27)
  8. 戦後、別動隊の指揮官が論功行賞に与かっていないこと。

別動隊による可能性を指摘したのは、橋場日月氏の『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』である。

橋場氏の指摘の新しい視点は、これまでの迂回説と異なり、信長自身が迂回したのではなく、配下の武将それも新設して間もない馬廻部隊の武将が迂回挺身を指揮している点である。………それなのに、この後、此の馬廻りの指揮官が支隊を率いて活躍することは伝えられない。馬廻の武将の多くは攻囲戦での周番を担当している。それは馬廻の本来の任務が近衛兵・親衛隊であったからではないかと考える。

橋場氏のこれらの著作では、橋場氏が一般にはこれまで見過ごされてきたか又は触れることを避けられたり、合理的な説明がなされないままできた点に注意を促しているものがある。

  1. 大高城への兵粮搬入日が『信長公記』と『三河物語』で食い違うように見えること。
  2. 前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人は何処で誰と戦ってきたのかという問題。
  3. 古くから指摘されている問題だが、『蓬左文庫・桶狭間之図』に鎌倉往還と扇川が交差するすぐ東側に書き込まれた「今川魁首(先鋒)此道筋を押」が、史実であるとすれば一連の戦いのどこに位置づければよいのかという疑問。
  4. 『信長公記』に紹介されていない重臣連は本当に参陣していなかったのかを問うている。そして天理本では一部の武将の参陣が認められること。
  5. 山際に着いてからの信長勢が、暴風雨が止むまで信長が移動・戦闘を行った記事がないこと。
  6. 鉄炮は本当に使われなかったのかという問題。
  7. 義元が往路に刈谷水野氏を攻撃せず、岡部信元が帰路に刈屋城に信近を襲った理由。
  8. 服部左京助が黒末川河口に参陣した意味。

逆に、氏が触れなかったり説明していない問題もある。

  1. 鷲津丸根を攻めた駿河勢の動向が不明であること。
  2. 今川義元が沓掛城を出立した時刻。
  3. 服部友定が約束の時間に義元が来ないからと言って、勝手に引揚げてしまったうえ、大高城番になった松平元康には異変を知らせなかったこと。そして、元康が義元の到着がなくても心配していないこと。

 

(2009.01.23 追加)  以下は、小生のブログ「読書三昧」に2008.07.10に書いたことに一部手直しして転載したものである。

『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「信長は時速6kmほどで(清洲から熱田までの)12km弱を移動した計算になる。これは旧日本陸軍の標準的行軍速度の時速4kmより若干早い速度だ。信長は、後続の軍勢が追い付いて来られる速度で進んだのであるp173………信長が善照寺砦から分派して鎌倉往還を東進させた部隊は、途中暴風雨が吹きはじめる中、今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至り、さらにこの部隊は大高道を南下して上ノ山に至る。距離はほぼ3km強であり、………旧陸軍が通常行軍を時速4km、「速歩」という強行軍を時速5kmと規定していた事から見ても、それと比較して無理のない移動速度と距離だと言えるp215」と書かれる。

戦国時代の人々の身体能力は本当のところはよく分からない。江戸期の旅行記録をみると昔の日本人は驚異的に強靭な身体を持っていたらしい。昭和の陸軍も同様であったらしいことは知られている。従って、その明治以降の陸軍が定めた作戦要務令が合理的に戦争を継続して遂行するための行軍速度を時速4km、強行軍を時速5km急行軍を時速8kmと定めたことは無視できない。

『作戦要務令・第320』「撃兵団の前進速度は1時間4粁、兵の負担量を軽減せる場合は1時間5粁とす。大隊以下の小部隊にして負担量を軽減せる場合は、急行軍の速度は1時間8粁に達す」とあり、兵の負担量を軽減し大隊以下の小部隊にしなければ、急行軍の速度は達成できないなのである。

通常、歩兵の行軍は一時間で4kmを50分歩いて10分小休止するペースで行軍する。昼食の休憩は1時間大休止し、連日行軍の場合は一日24kmである。『太閤記』高麗陣ニ就イテノ掟條々でも「一、人数おし之事、六里を一日之行程とす。」とあるから戦国時代と旧軍も各国陸軍も概ね変わらない。

強行軍は行軍時間を長くしたり、休憩時間を短くすることで行い、一日に十時間の行軍で40kmの距離を進む。が、実際にはそんな決まりは無いに等しかったらしい。行軍速度を上げることも強行軍と言わないこともないが、急行軍という。急行軍になると駆け足になるが、休息時間も減らす点は強行軍とさして違わない。

『作戦要務令・第321』には、「一般兵団の一日行程は、普通行軍に於いて8時間32粁、強行軍に於いては10乃至12時間以上(大休止の時間を増加す)とす。…」とあり、戦場到着後直ちに戦闘に入れる状況にあるわけではない。現に、賤ケ岳の場合も21時に全軍が着陣したといわれているのだが、秀吉は軍勢に喚声をあげさせはしたが、総攻撃を命じたのは夜明けを期して行うということであった。ところが、それに驚いた佐久間盛正は23時に総退却を始めた。それでも、秀吉が佐久間勢退却中の報を得たのは翌日am2時であり、賤ケ岳にいた既存の秀吉方守備隊は、それぞれ対応して逐次攻撃を開始したらしい。それでも佐久間盛正の部隊は、am3時には総退却を無事に完了しているのである。ですから、大垣から駆け付けて疲労困憊した部隊が戦闘に参加し始めたのは、もっと後になる。


つまり、時速6kmという速度は、若干早いなどという行軍速度ではない。駆け足に近いのですから、時速6kmは完全武装した歩兵が追い付ける速度などではありません。
旧日本陸軍の強行軍は時速5kmなのだ。時速6kmというのは、ほとんど走っている状態だ。


信じられないことなのだが、旧日本軍の兵士たちは通常装備30kgを背負い、そのうえで機関銃隊ならば機関銃を、砲兵隊ならば砲身を担いで、そのような強行軍を実際に行ったといわれている………。

行軍速度というものは部隊の規模が大きくなるにつれて遅くなるし、異兵種と連合する場合は遅い速度の部隊を基準とすることになる。(分進することが効率的ではあるのだが、敵に遭遇する状況では致命的な結果を招来することになる場合もあり、そう簡単に兵力を分散させるわけにもいきません。)歩兵が追い付けないから、信長は熱田でその参集を待つ必要があったのだろうと考えるべきです。もし、信長に常備軍があってそれが清洲に駐屯していたならば、であるのですが………。そうでなければ、余りあてにできない国人衆が熱田に集合するのを待っていたと考えなければならないことになります。

だから、信長が小姓や馬廻など乗馬身分の者だけで挺身したのならば、三里を時速6kmは十分に可能であるでしょうが、歩兵を随伴した場合には強行軍を超えているのですから、到着した戦場で直ちに戦闘に入ったのでは、兵士たちは使い物にならないのではないかと危惧されるわけです。一般に戦国時代の軍勢に占める騎兵の割合は一割程度であるといわれるからです。

戦史を見ても強行軍の例は多く、一日に80~100km以上という行軍速度の例がある。
何れも時速に換算すると2~3kmというのが多い。

時速4kmを超える例は、第二次ポエニ戦争のローマの武将クラウディウス・ネロが、精兵7千を選り抜いて可能な限り軽装にさせ、食料も携帯せずに道筋にある町に食事を用意させ、800kmを一昼夜に100km(時速4km)以上の速度で強行軍させたものぐらいしかない。

橋場氏は、「秀吉の賤ヶ岳合戦の際の移動速度が時速8kmだった事、旧陸軍の早足(時速6km)・駆け足(時速8km以上)を勘案すれば、今川別働隊を風雨に乗じて撃破した地点から沓掛まで4km、さらに沓掛から4kmを移動するのにそれほど無理があるとは思えない。」とされるのだが、背後から吹き飛ばされる場合はまだ良い。嫌でも運ばれるのだから。しかし、沓掛から大脇村曹源寺へ南下するときには横風を受けて吹き飛ばされたであろうし、曹源寺から上ノ山へは向かい風の中を進まなければならないのだ。信長が義元本陣に突撃したのは風雨が止んでからのことであるのだから、それを、楠が吹き倒される強風の中を挺身したというのだからスーパーマンとしか言いようがない設定である。

 

              

(6)鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

(p18)「常識的に考えても、織田家との間で国境の城砦を取ったり取られたりしているような状況では、一気に上洛するなど到底無理である。」

………この指摘は重要である。尾三国境の北部・品野城などでは信長の攻勢にあって防衛一辺倒であり、後詰がされたという話がない。南部の大高城の攻防は早い時期から始まっていて、笠寺台地の駿河勢は駆逐されている可能性があることを考えると、鈴木氏の指摘は看過できないものがある。信長の軍事力は三河・遠江・駿河の辺境に派遣された軍勢とではあるが、互角に戦えるだけの実力を備えつつあったことになる。そして、その信長の軍隊が七~八百の歴々からなる常備軍を中核とした二~三千の兵力であった可能性があるようにも思える。

(p18)「(清須城を)力攻めにすれば膨大な損害を覚悟しなければならない。といって兵糧攻めなどしていたなら、大変な手間と時間が必要となる。義元にそれだけの準備と余裕があったとは考えられないから、尾張一国の制覇でも。まだ目的として大きすぎるだろう。」

………これについては、「天理本信長記」の「(2)軍議があった夜」で詳しく論じたとおりだが、安城も刈谷も落ちているのだから、平城で一重堀の舘城である清須城を攻め落とすのに時間はかからなかったろう。

(p18)「この時代、優勢な敵が迫ってくれば、領民はパニックを起こすのが普通である。…このときの織田領内では、まったくそうした形跡が見当たらない。それどころか熱田の町人たちなどは、今川に与党して海上から攻めてきた一向宗徒と戦って追い返したりしている。本当に今川軍が迫ってくるなら、報復が恐ろしくて、そんなことはできないだろうし、そもそも大勢の町民が街のなかに止まっていたはずがない。」

………この視点も重要である。もし熱田の町人でさえ義元が尾張との国境を踏み越えて熱田にまで侵出することなどあり得ないと考えており、且つ『天理本信長記』のいうように町民らが動員されて、のこのこ善照寺までもついて行ったことが事実ならば、一つ考えねばならないことは、義元の軍勢は牛一が今に伝えるような四万五千もの大軍などではなかったことであり、もう一つは、熱田は湊町であり自由港としての性格を持っており、港町を無暗に攻めて商人・町人を追い散らすことはしないだろうという見込みがたっていたかも知れないということである。熱田は港であるから役に立つのであり、信長ですら堺幕府があった堺衆に対しては交渉(矢銭を課した)から入っているのだ。これが戦国時代も終盤に近くなると見境もまくなり、博多湊などは1580年には竜造寺氏が、1586年には島津氏が焼き討ちを行って灰燼に帰している。

(p20)「そもそも戦闘を始めた時点では、信長は義元が何処に居るのかということも知らなかったと思われる

………鈴木氏が言われる「戦闘を始めた時点」が午後二時頃のことであるならば、具体的な居場所を知らなかったとはいえる。しかし、善照寺に参陣した時点では桶狭間山に本陣を置いていたことも知らなかったとは断定できない。何故なら、山上には総大将の居所を示す旗幟が立っていたものと思われるからである。だから、牛一は「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、」と書いたのだと思うのだ。単に、敵勢が屯していたことを義元に代表させたわけではないと思うのだ。

(p20)「信長の狙いは…とりあえず今川軍に打撃を与えて追い返すことだったろう。…くたびれた敵部隊を自軍の主力で叩くことによって、確実にポイントを稼ごうとしたのである。」

………とりあえず今川軍に打撃を与えることが目的ならば、付城を攻めている背後を攻撃することが常道だろうが、これについての説明は藤本氏も十分になされたとは言えない。

………「自軍の主力」と言われるが、たった二千が信長の主力なのだろうか?

(p20)「本拠を遠く離れてやってきている彼らの半ば以上は、補給要員などを含めた非戦闘員だったと考えるべきである。相手の信長勢は清須から真っ直ぐやってきたのだから、馬丁・槍持などを除けば、大部分が戦闘員だったであろう。」

………彼等駿河・松平同盟軍の根拠地は岡崎城であるのだから、非戦闘員が多かったということはできまい。先鋒を務めた松平勢のことはどう考えるのだろうか?

(p20)「信長勢は一団となっていたが、今川の部隊は各所に分散していた。」

………これが、暴風雨のために統率が乱れたというのならば問題は少ないが、移動中であったためとか、布陣が各所にバラバラであったというのであるのならば、それには根拠がないと言わざるを得ない。

(p22)「 (清須城における前夜の)籠城の議論にしても…前線で苦戦している味方を見捨てたまま大将が城に逃げ籠ってしまうことなど考えられない。もしそんなことをしたら、信長はたちまち部下たちから見放されてしまったに違いない。」

………では何故、信長は後詰に出かけないのに部下に見放されなかったのか。それとも、雑兵二百人にしか随伴しなかったのが見放された結果なのか。

………この鈴木氏の著書は『天理本信長記』が公にされる前のものではありますが、籠城しないことが常識であるとしたならば、信長や清洲城にいたと思われる重臣たちの行動は異常であると言わざるを得ません。


<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

2011-06-28 03:21:11 | 桶狭間の真実やいかに

<諸氏百家にみる桶狭間の戦い>

 

(3)藤原京氏の桶狭間   (初出 2008.07.13) 

『時代劇のウソ?ホント?』での氏の仮説はかなりユニークです。

その要点は義元軍は陣城を構築中であって、それが完成する前の隙を速攻した信長に衝かれために敗れたというものです。そのために、信長は第一波の攻撃を千秋・佐々ら三百人に行わせ、第二波には前田犬千代が参加しており、自らは第三波となって義元本陣に殺到したというのです。そして、その背後には柴田勝家らの部隊が控えていたとしています。

このような説を唱える理由について、氏は自ら説明して、現在忘れ去られた戦国時代の常識の一つとして、「城は攻めても落ちないもの」というものがあるとされています。そのため、鳴海城・大高城を攻囲し、駿河勢籠城策をとったために必然的に駿河勢による後詰が行われたことにより生起したされており、信長は桶狭間山に着陣した駿河勢が未だ陣城を構築できないでいたその隙をついたのだとされるわけです。そして、反面教師として長篠合戦での信長・家康連合軍による野戦築城を例に出されます。………義元は、本当に桶狭間山に陣城を築こうとしていたのでしょうか?一体、何の目的で?

陣城構築中であったということには否定的な情報が多々あります。

  1. 氏は、桶狭間山が鳴海城に後詰するには、大軍を広く展開できる理想的な陣城構築場所だとされていますが、桶狭間山からは予定戦場になると考えられる中島砦付近が見通せませんし、そこは小規模な丘陵が複雑に入り組んでおり、とても大軍を駐留させる場所ではありません。これは孫呉の兵法を齧った武将ならば絶対にしなかったと思われる陣取りです。そして、今川義元は僧として一生を終えるつもりで京の妙心寺で修行に励んでいたのです。………黒末川の南から攻めたいのならば、二村山辺りを選定するのが常識ではないのでしょうか。沓掛城から鎌倉海道を使って、善照寺砦を落とすのが兵法の常道ではないのでしょうか?それを何故、態々、黒末川が天然の堀をなしている南方から攻めなくてはならないのでしょう。
  2. 最も間近な桶狭間村の村民たちには、陣夫役として築城に駆り出されたという伝承はなさそうです。何故なら、地元住民には戦闘に巻き込まれて死傷したという悲惨な伝承が皆無だからです。死んだのは今川方の将兵ばかりなのです。………地元の郷土史家は、村民たちはセド山の上から恐々として戦いの帰趨を窺っていたしていますし、長福寺の伝承では義元を接待したとしています。
  3. なぜ近場の大高城に行く途中で昼食をとるためだけのために、陣幕と柵・逆茂木程度で済まさずに、しかも前もって用意せずにその場になって慌てて陣城を構築しようとしたのでしょうか?
  4. 桶狭間に構築した陣城は、鳴海城救援のために役立つものなのでしょうか。それに、陣城が構築途中であるならば、その工事を妨害させないために、その前面に敵を迎え撃って戦いが行われたはずです。………小生は、赤塚合戦は信長が天王山に付城を築こうとして、それを阻止しようとした鳴海城の山口九郎次郎との間に起こったとみています。
  5. 最も重要な点は、ほとんど全域にわたって宅地開発された現在に至るまで桶狭間付近で陣城址が発見されていないことです。

それでも、藤原氏の説には魅力的なものがありました。それは、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」という主張です。この説は、『信長公記』の天理本が紹介されるまでは、大高城に兵粮を搬入したことは公記に書いてあるのですが、大高城が包囲されていた事は証明できませんでしたから、すこぶる魅力的な見方の一つで有り得ました。大高城の南に付城が築かれたことを明確には証明できなかったからです。

その場合には、丸根・鷲津砦の戦術的な意味は、藤原氏が言われるように、鳴海城への兵粮や兵力を搬入することを妨害するものであったことになり、織田方が大高城を攻撃することは二義的になりますから、義元がこのニ砦を攻略することは取りも直さず鳴海城の封鎖を解くことを目的にしたものであったことになるわけです。………尤も、それでもまだ中島砦が東海道を封鎖していますから、東海道からの搬入は見込めませんし、沓掛城から鎌倉海道によって善照寺砦を攻略した方が楽なように思えることには変わりはないのですが。

ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか?

これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。

城塞というのは古代に「稲城」といわれたものから戦国時代前期までの「城館」まで、一般には本気で戦争するための城塞というものは唐の侵攻に怯えて大宰府に水城を築いた時期を除いては、日本ではあまり作られませんでした。つまり、防御施設というものは簡単なものでも十分に有効であったという事実があったからです。

「落ちない城」の範疇で最も有名なのは楠木正成の千早城・赤坂城ですし、大きなものでは大宰府の水城、平氏の福原防塞、奥州平泉の藤原泰衝が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれた阿津賀志山防塁、元弘時の防塁がある程度のものでしょう。勿論、帝都は中国の城塞都市を真似て作られていますから、一応城塞であります。

これらのことから気づくことは、日本では古代に国際外交の真っただ中にあったとき以外には、城塞に拠って長期にわたって攻防するということは殆ど考えられていなかったということです。そのため、城塞は簡単な設備であっても十分にその役目を果たしてしたということなのです。しかし、これは逆からみますと、日本国内での紛争は殆どが内乱にまでも至らず、ヤクザ同志のシマ争いの喧嘩程度のものでしかなかったからであることが窺えます。つまり、世界的なレベルで見るならば戦国時代より前の日本の城塞の殆どは世界規格に満たないものばかりだったわけです。なぜなら、戦争当事者自体がヤクザみたいなものですから、敵の城塞を徹底的に攻略しようなどという「意図」も兵力差も持たなかったからです。

応仁の乱においても洛中では、首都の都城の内にあっての市街戦で終始したのです。市街戦が行われるということは、市街が焼き尽くされ破壊し尽くされていないことから起こります。近代以前ならば始めから火攻めをおこなったりはしないということですし、近世以降になりますと事前の制圧砲撃で徹底的に破壊したりしない攻撃になります。ところが、戦国時代も深化してきますと、領国の統一から始まって、領国を拡大して隣国をも支配しようとするように目的が変わってきますと、まず、兵力差が広がってきたうえに、それに裏付けられて敵の城塞を完全に攻略する意志持ち始めます。

するとそれまでの、政治・行政・経営を目的とした城館では目的を果たせなくなり、武士は城館の背後に詰城として山城を築き始め、次第に戦術的な意義を最優先する山城が主流になります。こうなると城塞は落とし難かろうが、落とさねばならないものになってきました。それまでは、多大の犠牲を払ってまで落とす意義を感じなかったのですが、終に多大の犠牲を払っても「落とす必要がある時代」になっていくのです

ところが、戦術的に有利であると思われた山城も、火縄銃の普及により、反って戦術的には不利になるという逆転現象が起き、城塞は広大な城域と高さを合わせもった平山城に移行します。

 鉄炮の普及が山城への籠城を不利にしたのは、その威力と射程にあります。山城の地形的有利さは、急な斜面と狭い尾根によって攻撃軍が接近し難く、攻撃路が限定されるということにあります。ところが、その山城の有利な点は攻撃側にも作用しており、迎撃正面を著しく狭いものにしてもいるのです。これは投射兵器の射程距離が短い間は守備側に有利に働きましたが、鉄砲が現れて射程距離が増大すると一気にそれを減殺してしまいました。三角形を想像してください。守備側は三角形の頂点の狭間から底辺を万遍なく射撃できるのですが、それに使用できる武器は一つに限られてしまいます。それに対して三角形の底辺には数倍の射手を並べて、狭間を制圧射撃できるわけです。そして、鉄炮は弓矢より自由な射撃姿勢を採れますから、体を隠し難い攻撃側を非常に有利にしました。つまり、山城では尾根を切って堀にすることにより、攻撃路を極端に狭く限定できても、突撃を援護射撃する正面を狭めることができないのです。そして、守備側は各々の山頂に分散していますから、相互に連携して援護し合えないのです。…この欠陥を是正したのが、平山城であり、山頂に指揮所を作り、山腹を全面的に郭にすることによって、一元的統一的に防御戦闘を指揮できるようにしたわけです。そして、平山城の山腹曲輪の狭さを克服したのが、石垣に支えられた重層櫓なわけです。これにより、敵の攻撃路を狭くして戦闘正面幅を小さくしながら、守備兵を重層的に配置することができるようになり、守備側を有利にしようとしたわけです。

城館時代の城は、長期に渡る攻囲などは始めから想定して作られてはおりません。専ら不意の攻撃に備えたものですし、攻撃側も端から徹底的に攻略しようというような意図は持っておりませんでした。そのような大義も利害もなかったからです。ですから、刈り働きをしたり水利施設を破壊したり復讐であったりといったところで終わっていました。そのため、簡素な城館でも攻め落とすことは困難でした。それでも攻め落とそうとするならば、仕寄せをしたでしょうし、攻囲することも考えられるでしょうがそのようなことに至ることは殆どありませんでした。楠木正成の千早城の攻防をみれば、寄せては仕寄の準備を全く欠いていたことがわかります。これでは城は落ちません。

ところが、領国統一から広域支配の時代になりますと、端から籠城を覚悟した造りに城塞はなってきます。それは、攻撃側が敵を徹底的に攻略しようという意志を持つようになったからです。そのため、力攻めで短期に落とすことが無理ならば、攻囲して経済封鎖をすることによって攻略する必要が生じたわけです。そのために発達したのが付城です。城が物資の集積基地であるから、攻囲するわけではありません。戦国時代になると大大名たちは城攻めには、付城を築いて攻囲戦を行うようになるのですが、それ以外の国人衆以下のレベルでの戦争では、そのような例はそれほど多くないのです。攻囲する側も兵員を張りつけなければなりませんし、その兵粮その他の軍需物資を攻囲軍に補給するのが大変だからです。全てを苅田狼藉で現地調達しようとしても無理があります。

領国統一から広域支配の時代になって、端から籠城を覚悟した城塞を攻囲するようになったのは、我彼に圧倒的な兵力差があるのに敵が降参しないからです。そして、降参しないその理由は初めから敵を拘束する役目を持つ城であるか、敵に服従するのが嫌だからです。つまり、近隣の紛争や中央政治の代理戦争として互いに同等の兵力で戦う時代は終わり、継続的に領土拡大のための争いがはじまったのです。

ですから、信長が活躍し始める時代の城塞は、既に「城は攻めても落ちないもの」などではなくなっていたのです。そして、戦国時代が終わる頃には「城は必ず落ちるもの」になってしまっています。天下分け目の合戦の時代に落ちなかった城は数えるほどしかないはずです。

 

(4)別動隊説を検証する     (初出2 007.12.18)   

桶狭間の戦いにおける一方的な大勝利を迂回を考えずに可能にする方法には、「別動隊」を考えることで解決することがあります。

但し、この別動隊説には根本的な問題がいくつかあります。

  1. 当時の信長には支隊(別動隊)を預けて時刻を計って分進合撃できるような官僚的指揮官がその配下にはいなかっただろうと思われること。
  2. 信長が別動隊を使って挟撃作戦の類を過去に行ったことがないと思われること。…支隊に分割して多方面作戦を行った例はいくつかあります。天文廿一年(1552)八月の深田・松葉両城奪還作戦では、「稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸け付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介(自らは)、孫三郎殿一手になり、海津ロヘ御かかり侯」とあって、全軍を四手に分かっています。不確実なものですが、永禄二年四月に福谷(ウキガイ)砦の酒井忠次を攻めたときに、自らが岩崎丹羽氏を牽制しておいて、柴田・荒川をして攻めさせたというものが『東照軍鑑』にあるのですが、成功はしていません。
  3. 別動隊を指揮できそうな武将は全て、付城の守将を務めていて出払っていると考えられること。
  4. 『信長公記』に名前の出てこない大物武将を別動隊とした場合には、当該諸家にその事績が伝わらないこと。
  5. 分進合撃や別動隊との共同作戦を実現することは、無線通信手段のなかった時代では極めて困難なこと。…あのナポレオンでさえ、ワーテルローではグルーシーの部隊を間に合わせることができなかったのです。ナポレオン自身が後日、別動隊を呼び寄せるために常と違って一人しか伝令を出さなかったことを後悔しているぐらいです。しかし、全くできなかったわけでもありません。戦国時代に別動隊との共同作戦を得意としたのは島津氏であり、後世「釣り野伏」と言われる待ち伏せ作戦が有名です。
  6. 桶狭間の戦いの後の信長の作戦に、別動隊を用いた作戦は長篠合戦しかなく、この戦いでは長篠城の救援が主目的ですから、敵の鷲巣砦攻略には大軍を派遣しています。そして、敵に優越する兵力があれば、別動隊どころか複数の攻め口から攻撃することは自由であるというよりも、混雑を避けるためにも必然になるに過ぎない現象になります。信長が敵より劣る兵力で別動隊などは使用した実績はありません。 (2008.1.27)
  7. 敵に劣る兵力で二正面に敵を受けて戦った稲生合戦ですら、支隊を設けなかったことからみても、当時の信長には別動隊の指揮を任すことができるような野戦指揮官は未だ育っていなかったと考えるべきであること。 (2008.1.27)
  8. 戦後、別動隊の指揮官が論功行賞に与かっていないこと。

別動隊による可能性を指摘したのは、橋場日月氏の『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』である。

橋場氏の指摘の新しい視点は、これまでの迂回説と異なり、信長自身が迂回したのではなく、配下の武将それも新設して間もない馬廻部隊の武将が迂回挺身を指揮している点である。………それなのに、この後、此の馬廻りの指揮官が支隊を率いて活躍することは伝えられない。馬廻の武将の多くは攻囲戦での周番を担当している。それは馬廻の本来の任務が近衛兵・親衛隊であったからではないかと考える。

橋場氏のこれらの著作では、橋場氏が一般にはこれまで見過ごされてきたか又は触れることを避けられたり、合理的な説明がなされないままできた点に注意を促しているものがある。

  1. 大高城への兵粮搬入日が『信長公記』と『三河物語』で食い違うように見えること。
  2. 前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人は何処で誰と戦ってきたのかという問題。
  3. 古くから指摘されている問題だが、『蓬左文庫・桶狭間之図』に鎌倉往還と扇川が交差するすぐ東側に書き込まれた「今川魁首(先鋒)此道筋を押」が、史実であるとすれば一連の戦いのどこに位置づければよいのかという疑問。
  4. 『信長公記』に紹介されていない重臣連は本当に参陣していなかったのかを問うている。そして天理本では一部の武将の参陣が認められること。
  5. 山際に着いてからの信長勢が、暴風雨が止むまで信長が移動・戦闘を行った記事がないこと。
  6. 鉄炮は本当に使われなかったのかという問題。
  7. 義元が往路に刈谷水野氏を攻撃せず、岡部信元が帰路に刈屋城に信近を襲った理由。
  8. 服部左京助が黒末川河口に参陣した意味。

逆に、氏が触れなかったり説明していない問題もある。

  1. 鷲津丸根を攻めた駿河勢の動向が不明であること。
  2. 今川義元が沓掛城を出立した時刻。
  3. 服部友定が約束の時間に義元が来ないからと言って、勝手に引揚げてしまったうえ、大高城番になった松平元康には異変を知らせなかったこと。そして、元康が義元の到着がなくても心配していないこと。

 

(2009.01.23 追加)  以下は、小生のブログ「読書三昧」に2008.07.10に書いたことに一部手直しして転載したものである。

『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「信長は時速6kmほどで(清洲から熱田までの)12km弱を移動した計算になる。これは旧日本陸軍の標準的行軍速度の時速4kmより若干早い速度だ。信長は、後続の軍勢が追い付いて来られる速度で進んだのであるp173………信長が善照寺砦から分派して鎌倉往還を東進させた部隊は、途中暴風雨が吹きはじめる中、今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至り、さらにこの部隊は大高道を南下して上ノ山に至る。距離はほぼ3km強であり、………旧陸軍が通常行軍を時速4km、「速歩」という強行軍を時速5kmと規定していた事から見ても、それと比較して無理のない移動速度と距離だと言えるp215」と書かれる。

戦国時代の人々の身体能力は本当のところはよく分からない。江戸期の旅行記録をみると昔の日本人は驚異的に強靭な身体を持っていたらしい。昭和の陸軍も同様であったらしいことは知られている。従って、その明治以降の陸軍が定めた作戦要務令が合理的に戦争を継続して遂行するための行軍速度を時速4km、強行軍を時速5km急行軍を時速8kmと定めたことは無視できない。

『作戦要務令・第320』「撃兵団の前進速度は1時間4粁、兵の負担量を軽減せる場合は1時間5粁とす。大隊以下の小部隊にして負担量を軽減せる場合は、急行軍の速度は1時間8粁に達す」とあり、兵の負担量を軽減し大隊以下の小部隊にしなければ、急行軍の速度は達成できないなのである。

通常、歩兵の行軍は一時間で4kmを50分歩いて10分小休止するペースで行軍する。昼食の休憩は1時間大休止し、連日行軍の場合は一日24kmである。『太閤記』高麗陣ニ就イテノ掟條々でも「一、人数おし之事、六里を一日之行程とす。」とあるから戦国時代と旧軍も各国陸軍も概ね変わらない。

強行軍は行軍時間を長くしたり、休憩時間を短くすることで行い、一日に十時間の行軍で40kmの距離を進む。が、実際にはそんな決まりは無いに等しかったらしい。行軍速度を上げることも強行軍と言わないこともないが、急行軍という。急行軍になると駆け足になるが、休息時間も減らす点は強行軍とさして違わない。

『作戦要務令・第321』には、「一般兵団の一日行程は、普通行軍に於いて8時間32粁、強行軍に於いては10乃至12時間以上(大休止の時間を増加す)とす。…」とあり、戦場到着後直ちに戦闘に入れる状況にあるわけではない。現に、賤ケ岳の場合も21時に全軍が着陣したといわれているのだが、秀吉は軍勢に喚声をあげさせはしたが、総攻撃を命じたのは夜明けを期して行うということであった。ところが、それに驚いた佐久間盛正は23時に総退却を始めた。それでも、秀吉が佐久間勢退却中の報を得たのは翌日am2時であり、賤ケ岳にいた既存の秀吉方守備隊は、それぞれ対応して逐次攻撃を開始したらしい。それでも佐久間盛正の部隊は、am3時には総退却を無事に完了しているのである。ですから、大垣から駆け付けて疲労困憊した部隊が戦闘に参加し始めたのは、もっと後になる。


つまり、時速6kmという速度は、若干早いなどという行軍速度ではない。駆け足に近いのですから、時速6kmは完全武装した歩兵が追い付ける速度などではありません。
旧日本陸軍の強行軍は時速5kmなのだ。時速6kmというのは、ほとんど走っている状態だ。


信じられないことなのだが、旧日本軍の兵士たちは通常装備30kgを背負い、そのうえで機関銃隊ならば機関銃を、砲兵隊ならば砲身を担いで、そのような強行軍を実際に行ったといわれている………。

行軍速度というものは部隊の規模が大きくなるにつれて遅くなるし、異兵種と連合する場合は遅い速度の部隊を基準とすることになる。(分進することが効率的ではあるのだが、敵に遭遇する状況では致命的な結果を招来することになる場合もあり、そう簡単に兵力を分散させるわけにもいきません。)歩兵が追い付けないから、信長は熱田でその参集を待つ必要があったのだろうと考えるべきです。もし、信長に常備軍があってそれが清洲に駐屯していたならば、であるのですが………。そうでなければ、余りあてにできない国人衆が熱田に集合するのを待っていたと考えなければならないことになります。

だから、信長が小姓や馬廻など乗馬身分の者だけで挺身したのならば、三里を時速6kmは十分に可能であるでしょうが、歩兵を随伴した場合には強行軍を超えているのですから、到着した戦場で直ちに戦闘に入ったのでは、兵士たちは使い物にならないのではないかと危惧されるわけです。一般に戦国時代の軍勢に占める騎兵の割合は一割程度であるといわれるからです。

戦史を見ても強行軍の例は多く、一日に80~100km以上という行軍速度の例がある。
何れも時速に換算すると2~3kmというのが多い。

時速4kmを超える例は、第二次ポエニ戦争のローマの武将クラウディウス・ネロが、精兵7千を選り抜いて可能な限り軽装にさせ、食料も携帯せずに道筋にある町に食事を用意させ、800kmを一昼夜に100km(時速4km)以上の速度で強行軍させたものぐらいしかない。

橋場氏は、「秀吉の賤ヶ岳合戦の際の移動速度が時速8kmだった事、旧陸軍の早足(時速6km)・駆け足(時速8km以上)を勘案すれば、今川別働隊を風雨に乗じて撃破した地点から沓掛まで4km、さらに沓掛から4kmを移動するのにそれほど無理があるとは思えない。」とされるのだが、背後から吹き飛ばされる場合はまだ良い。嫌でも運ばれるのだから。しかし、沓掛から大脇村曹源寺へ南下するときには横風を受けて吹き飛ばされたであろうし、曹源寺から上ノ山へは向かい風の中を進まなければならないのだ。信長が義元本陣に突撃したのは風雨が止んでからのことであるのだから、それを、楠が吹き倒される強風の中を挺身したというのだからスーパーマンとしか言いようがない設定である。

 

              

(6)鈴木信哉氏『戦国十五大合戦の真相』    (初出 2009.02.01) 

(p18)「常識的に考えても、織田家との間で国境の城砦を取ったり取られたりしているような状況では、一気に上洛するなど到底無理である。」

………この指摘は重要である。尾三国境の北部・品野城などでは信長の攻勢にあって防衛一辺倒であり、後詰がされたという話がない。南部の大高城の攻防は早い時期から始まっていて、笠寺台地の駿河勢は駆逐されている可能性があることを考えると、鈴木氏の指摘は看過できないものがある。信長の軍事力は三河・遠江・駿河の辺境に派遣された軍勢とではあるが、互角に戦えるだけの実力を備えつつあったことになる。そして、その信長の軍隊が七~八百の歴々からなる常備軍を中核とした二~三千の兵力であった可能性があるようにも思える。

(p18)「(清須城を)力攻めにすれば膨大な損害を覚悟しなければならない。といって兵糧攻めなどしていたなら、大変な手間と時間が必要となる。義元にそれだけの準備と余裕があったとは考えられないから、尾張一国の制覇でも。まだ目的として大きすぎるだろう。」

………これについては、「天理本信長記」の「(2)軍議があった夜」で詳しく論じたとおりだが、安城も刈谷も落ちているのだから、平城で一重堀の舘城である清須城を攻め落とすのに時間はかからなかったろう。

(p18)「この時代、優勢な敵が迫ってくれば、領民はパニックを起こすのが普通である。…このときの織田領内では、まったくそうした形跡が見当たらない。それどころか熱田の町人たちなどは、今川に与党して海上から攻めてきた一向宗徒と戦って追い返したりしている。本当に今川軍が迫ってくるなら、報復が恐ろしくて、そんなことはできないだろうし、そもそも大勢の町民が街のなかに止まっていたはずがない。」

………この視点も重要である。もし熱田の町人でさえ義元が尾張との国境を踏み越えて熱田にまで侵出することなどあり得ないと考えており、且つ『天理本信長記』のいうように町民らが動員されて、のこのこ善照寺までもついて行ったことが事実ならば、一つ考えねばならないことは、義元の軍勢は牛一が今に伝えるような四万五千もの大軍などではなかったことであり、もう一つは、熱田は湊町であり自由港としての性格を持っており、港町を無暗に攻めて商人・町人を追い散らすことはしないだろうという見込みがたっていたかも知れないということである。熱田は港であるから役に立つのであり、信長ですら堺幕府があった堺衆に対しては交渉(矢銭を課した)から入っているのだ。これが戦国時代も終盤に近くなると見境もまくなり、博多湊などは1580年には竜造寺氏が、1586年には島津氏が焼き討ちを行って灰燼に帰している。

(p20)「そもそも戦闘を始めた時点では、信長は義元が何処に居るのかということも知らなかったと思われる

………鈴木氏が言われる「戦闘を始めた時点」が午後二時頃のことであるならば、具体的な居場所を知らなかったとはいえる。しかし、善照寺に参陣した時点では桶狭間山に本陣を置いていたことも知らなかったとは断定できない。何故なら、山上には総大将の居所を示す旗幟が立っていたものと思われるからである。だから、牛一は「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、」と書いたのだと思うのだ。単に、敵勢が屯していたことを義元に代表させたわけではないと思うのだ。

(p20)「信長の狙いは…とりあえず今川軍に打撃を与えて追い返すことだったろう。…くたびれた敵部隊を自軍の主力で叩くことによって、確実にポイントを稼ごうとしたのである。」

………とりあえず今川軍に打撃を与えることが目的ならば、付城を攻めている背後を攻撃することが常道だろうが、これについての説明は藤本氏も十分になされたとは言えない。

………「自軍の主力」と言われるが、たった二千が信長の主力なのだろうか?

(p20)「本拠を遠く離れてやってきている彼らの半ば以上は、補給要員などを含めた非戦闘員だったと考えるべきである。相手の信長勢は清須から真っ直ぐやってきたのだから、馬丁・槍持などを除けば、大部分が戦闘員だったであろう。」

………彼等駿河・松平同盟軍の根拠地は岡崎城であるのだから、非戦闘員が多かったということはできまい。先鋒を務めた松平勢のことはどう考えるのだろうか?

(p20)「信長勢は一団となっていたが、今川の部隊は各所に分散していた。」

………これが、暴風雨のために統率が乱れたというのならば問題は少ないが、移動中であったためとか、布陣が各所にバラバラであったというのであるのならば、それには根拠がないと言わざるを得ない。

(p22)「 (清須城における前夜の)籠城の議論にしても…前線で苦戦している味方を見捨てたまま大将が城に逃げ籠ってしまうことなど考えられない。もしそんなことをしたら、信長はたちまち部下たちから見放されてしまったに違いない。」

………では何故、信長は後詰に出かけないのに部下に見放されなかったのか。それとも、雑兵二百人にしか随伴しなかったのが見放された結果なのか。

………この鈴木氏の著書は『天理本信長記』が公にされる前のものではありますが、籠城しないことが常識であるとしたならば、信長や清洲城にいたと思われる重臣たちの行動は異常であると言わざるを得ません。

 

ホームページ制作、ホームページ作成

<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   

2011-06-27 00:50:33 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   (2009.05.0加追加、2010.0816改訂)
 
Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9
 
  1. 信長公記を読む
  2. 三河物語を読む
  3. 信長公記と三河物語の矛盾
  4. 十七日を軍事的に検証すると・・・
  5. なぜ前夜の信長は動かなかったのか
  6. 『新編桶狭間合戦記』   (2009.05.07 追加)
   
(1)信長公記を読む
ここでの推理は、前章の到達点である「合戦当日の義元は、沓掛城から出陣してなどはいない」はずだということから、桶狭間の戦いの前日十八日の今川義元の動向を検証する。この問題についても多くの人は、『惣見記』[1]も『三河物語』[2]も『甫庵信長記』[3]も義元は18日の軍議を大高城で行ったと書くのを無視しているのだが、そのことについては何の疑問も持たれないようでして、コメントも見かけない。
『信長公記』の「今川義元討死の事」は、こう書き出している。
「永禄三年(1560)五月十七日、今川義元沓懸へ参陣、十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、(潮)の満ち干を堪が(考)へ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、その夜の御話、軍の行は努々(ユメユメ)これなく、色六(イロイロ)世間のご雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる。家老衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候
これをみると、今川義元も織田信長も桶狭間の戦いの前日十八日の「昼間」は何も行動していないようにも受け取れると前に書いたが、この文章は一般に次のように分解して解釈されているようある。
  1. 永禄三年五月十七日に今川義元が沓懸へ参陣した。
  2. 十八日夜になったら大高の城へ兵糧を運びこむであろう
  3. (それから、)織田軍の後詰を封じるために、十九日朝の潮の干満の状態を考えた上で、丸根・鷲津の取手攻略を開始するだろう
  4. 以上二件の情報があったが、それは確実であろうということが、佐久間大学と織田玄蕃のそれぞれより、十八日の夕方になってから、清須の信長公へ届いた。 
つまり、信長は清洲に、義元は沓掛城に居つづけたということである[4]。………と云う事は、少なくとも当時の織田方では「十八日の晩の義元は、沓掛城に在陣していた」と認識していたと考えることができるわけである。そして「通説」もまた清州城の織田方と同様に考える。これが事実であるかどうかは別にして、飽くまで信長を始めとした織田方に共通の戦況判断としては、十八日の晩の「義元は沓掛城にあり」と認識していたとみなすことができるわけである。しかし、これは飽く迄「清洲城の織田方だけに限定される認識」だと考えるべきである。何故なら、今日の我々が知りうる情報からすると、これまで毎日多ければ日に30kmも行軍してきた義元が、最前線の沓掛城で丸一日鳴りを潜めてしまったからである。この時期の沓掛城は決して安全な後方などではない。北方の岩崎城は、一時は今川方の武将・福島氏が城代を務めたりしていた時期もあったが、当時は丹羽氏がこれを回復して両属の中立を保っており、それより南の福谷(ウキガイ)砦が攻防の対象になっていたからである。では、一体何のために義元は危険のある沓掛城などで「十八日の丸一日」を無為に過ごしたのだろうか?
同じ織田方でも善照寺・中島砦や鷲津・丸根砦のような最前線の将兵たちは違った見解であった。鷲津・丸根の両砦が比較的容易に短時間[5]で落ちたのは、両砦の武将たちの見解が相違したからである。鷲津砦の織田玄蕃は砦を堅固に守って信長の後詰を待つべきであるという見解であったのに対して、丸根の佐久間大学と五騎の寄騎たちは砦を出て迎撃することに決めたのだ。これは問題であった。何故なら、『蓬左文庫桶狭間図』によれば鷲津と丸根は尾根道で結ばれており、相互に助け合える構造になっていましたが、尾根には堀切りがなされていなかったからである。このような構造であると、一方が落ちれば新たな攻め口を敵に与えることになり、好ましいものではない。それなのに、信長は前線の指揮官たちに何の指示も与えていなかったのだ。多くの識者が主張されるように、信長の戦略が、「敵の一部に打撃を与えて面目を保つ」というのであれば、敵を補足して之の攻撃を加えなければならないのだから、当然に両砦は兵力を一つにまとめてでも死守して、駿河勢を拘束すべきだったのである。ところが、それをせずに丸根砦の大学の方は砦から打って出ているのだから、信長の作戦意図は前線に伝わってはいなかったということになる。前線の佐久間大学などから駿河勢が兵粮を大高城に搬入するのは十八日夜であることは確実であり、翌日早朝の満潮時に付城が攻撃される計画があることまでは、清洲の認識と前線の認識は変わらないわけなのだが、鷲津砦の織田玄蕃や清洲の家老衆などは、「義元自身が指揮しての攻撃である」のだろうと思っていたのに対して、清須の信長だけは「駿河勢の一支隊が攻めてくる」のだろうと軽く考えていたようであり、その指揮を義元が執っているかどうかまでは確認できなかったのだろうと考えたい。………現に、現代になっても多くの論者は義元が付城の攻略に義元が参陣していたとは認めていないのだ。
(2010.03.15 挿入) 藤本正行氏[6]は、信長は丸根砦と鷲津砦の陥落をある程度予想していたとされ、「緒戦の小競り合いに巻き込まれて、大勝利を得ることは難しく、むしろ競り負ける確率が高い」から、自らの作戦計画を秘匿したとされる。しかし、この時代の武士は功名が目的なのだから、信長が明瞭に命令しないと織田方の武士たちは、自発的に戦いを求めて丸根・鷲津の砦に入ってしまう恐れも大いにあったはずである。[7]もちろん、信長がこれらの砦の後詰に必ず出てくると踏んでのことなのだろうが。従って、「ある程度予想していた」というような表現は不正確であり、信長にとっては誤算だったというのが実際なのではなかろうか。なぜならば、信長が清州を出陣したのは「本当に丸根・鷲津が攻撃された」からであって、そこに義元がいるのではないかと考えたからであろうし、ましてや所在不明の義元の居所が判明したからでも、義元が沓掛城出陣したからでもない。『信長公記』にはそのようなことは何処にも書いていないからだ。信長は、義元の所在をつきとめずに出陣したというのが事実なのである。だとすれば、信長は丸根砦と鷲津砦の陥落などは「ある程度」どころか、予想だ、にしなかったのではないだろうか。また、藤本正行氏が「信長は主力を温存しておきたかった」とされることは、その後の行動のドタバタ、熱田での兵力の記載がないことなどや、その時点で浜道の通行できないことを確認していることなどからみても不適当だと考える。明らかに、信長にとっては見込み違いのことが進行していたのだと考えるべきなのである。そして、それを認めているのは、「諸大名を寄て、良久敷評定をして、さらば責取、其儀ならば、元康責給えと有ければ、…その上にて、また長評定これ有けり。…次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。 」と書く『三河物語』を始め江戸初期の軍記作者なのだ。……注意すべき重要なことは、江戸初期の軍記作者もその読者も「前夜(十八日)の義元は大高城にいた」と理解しており、何の疑問も持たなかったということである。…十八日の義元が沓掛城にいたと主張して止まないのは、明確に検証出来てはいないのだが、寛保元年(1741)に成立した『武徳編年集成』[8]以降のことで、『東照軍鑑』[9]あたりが言いだしたのではなかろうかと思っている。
ここで信長が計画通りに間に合って駆けつけたのは、松平元康の布陣する所などではないことは明らかであり、義元の許に見参するために出張ったのだ。その為だろうか、信長の戦略意図にそぐわない行動をとった佐久間大学[10]は記録に残らなくなる。討死したとも看做せるが、生き延びても信長の不興をかって重用されなくなっただけなのかも知れない。初期信長政権の許で高級将校として活躍した武将の多くは、信長の親族でなければ他国より新規召抱の者や、重臣であっても柴田権六などのように有力国人領主などではない才覚だけの者が多々みえるから、一旦信長の寵を失うと零落するのも早かったのではないかとも考えられるのだ。『信長公記』は「夕日」というから「日の入る前」に、前線から敵の作戦について確度の高いと思われる情報の報告を信長は受け取っているわけなのだが、それにも関わらず、信長は何も行動を起こしていないのだ。………なぜだろうか。
(2009.12.08 挿入) 公開された天理本によると、前夜軍議が行われて国境で今川軍を迎え撃つことで衆議一決したと伝えるのだが、その後は酒宴に及んだとあり、清州に参集していた重臣達も具体的な手立て打ち合わせることなく、その場になっての信長の指示待ちということになったらしいのだ。天理本の記述は著しく、信長を始めとした彼等清須織田方の行動の矛盾を示す。戦おうと云いながら出陣していないと云うのだから、矛盾でなくてなんであろう。『信長公記』は、十八日の義元の所在については何も触ないのだが、前線からの報告で、「駿河勢が兵粮を大高城に搬入するのは十八日夜であることは確実であり、翌日早朝に潮の具合を考慮して付城が攻撃される計画があることを清須では承知していたと書かれている。だから、信長には、義元もそれに伴って大高城に入城した可能性を否定することはできないはずである。それなのに、『信長公記』では否定はしていないが、その文面から判断すると、少なくとも信長に限っては、「義元が確実に大高に入城した」と把握することはもちろん、考えも及ばなかったものらしく思えるのだ。つまり、信長は義元本隊の所在を大高城にいるとも、翌朝沓掛城から付け城攻撃に出陣するとも、特定できるとは思っていなかったと考えるべきだろう。
信長は、義元主力の所在について、何処に居るか迷っていた。信長は、駿河勢の一支隊が大高城に兵糧を搬入したり、また別の支隊が付け城を攻撃することがあったとしても、義元自身がそれらの攻撃に加わっていることについては、懐疑的であったように思える。何しろ今川軍は四万五千という大軍であるという触れ込みなのだから、信長がそれを信じていたとすれば、大高や丸根・鷲津への行動が主目的だなどとは、信長にはとても思えなかったのだろうと考えるのだ。因みに、この考え方[11]が正しければ、巷で唱えられる信長の諜報戦能力はそれほどのものではなかったことになるし、梁田出羽守や蜂須賀小六の索敵などは後世の創作であったということになる。

<十八日に於ける今川義元の所在の問題> 

2011-06-27 00:40:40 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   (2009.05.0加追加、2010.0816改訂)
 
 
(2008.01.10 追加) ここで、『三河物語』が「永禄三年庚申(カノエサル)五月十九日に義元は池リフ(鯉鮒)寄、段々に押て大高え行、棒(某)山之取手をつくつくとジュンケン(巡見)して、諸大名を寄て、良(ヤヤ)久敷評定をして、さらば責(攻)取、其儀ならば、元康責給えと有ければ、元寄足甚(ススム)殿(元康)なれば、即押寄て責給ひければ、…其寄大高之城に兵ラウ(糧)米多く誉(籠)」と書くものを、「義元は十八日に沓掛城へ行き、翌日十九日に丸根・鷲津の砦を排除した後で大高城に兵粮を籠めた」のだと書いていると解釈した場合を考えます。
そこでまず、『信長公記』の当該部分の解釈を再考します。そこには、「(イ)十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩(潮)の満ち干を堪(考)がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、」と書かれています。そこで、これを(1)「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし」という文章と、(2)「大高の城へ兵糧いれ(を計画し) 、 (これを)助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨(が駿河方にあるのは)必定」いう二つの文章からなっているのだと看做す。つまり、「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし(は)、大高の城へ兵糧いれ(について) 助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定とのことなり」とするわけである。こうすれば、一応は大高城への兵糧入れも十九日の砦攻略後という文意にすることはできる。しかし、後半の文章「十八日、夕日に及んで、…御注進申し上げ…」と明らかに矛盾する。そこでは、「十八日、夕日に御注進」があったと云うのだが、「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし」とも云うのだから、清州に注進した後で佐久間大学や織田玄蕃が情報を手に入れたことになるからだ。つまり、前線の武将が情報を入手するよりも早く、前線からの注進の方が信長の許に届いたということになるからである。以上の事から、障害になる怖れのある鷲津・丸根をそのままにして大高城への兵粮入れが行われたなどという訳がないと考えることは、間違いであるということになる。
では、何故それが間違いであるのかと言えば、(イ)大高城へ兵粮を運ぶ道は丸根砦の下を通る大高道だけではないということであり、地元の伝承[20]では木ノ山村を通って大高城に兵糧を入れたとしているからだ。また、松平勢が一千もいれば、丸根砦の兵力では鷲津砦からの応援を得たとしても、手出しなどは出来なかったかも知れないこともある。何しろ織田方は駿河勢が大軍であると信じているはずなのだから、砦の将兵たちは伏兵を恐れて、迂闊に手を出すことはできなかったと考えられるからである。ところで、この氷上砦や正光寺砦[21]は、どの軍記物にも見えないのですが、『張州雑志』と『尾州知多郡大高古城図』にその存在が紹介されています。但し、正光寺砦は『蓬左文庫桶狭間図』にみることができるから、桶狭間合戦に何等かの働きをしたことが考えられる。常識的にみても、大高城の東と南にも付城がなければ、効果的に大高城を封鎖することはできず、伝えられるような城兵が飢えて、兵糧を搬入する必要も生じなかったものと思われるからである。
『豊明市史』によると、豊明市旧間米村で発見された写本に、年記や著者の記載のない『桶狭間合戦名残』なる研究書があり、現在は豊明市史編纂室で保管されているらしいのですが、その著者は『三河物語』の義元大物見の記事を受けて、「桶狭間前書きに、今川義元、五月十八日中島まで攻め来たり、扇川の汐高くして、其の日の軍は止とあり」と書き、義元の大物見は中嶋まで足を伸ばしていたとみています。………因みに、この日の満潮は午前八時廿四分[22]ですから、池鯉鮒を早朝に発って沓掛に着いた義元は、すかさず東海道を中島辺りに出陣したことになります。これが正しければ、今川義元は朝寝坊などではないことにもなります。もう一つ重要なことを『三河物語』は教えてくれます。それは、義元自身が軍勢を陣頭指揮していることです。つまり、飾り物の総大将などではなく。義元自身が物見をしたうえで砦攻略を決定しているのです。それも、偵察したのは善照寺砦などだけではなく、中島砦から丸根・鷲津砦の全てなのです。このことは、二つの事を我々に教えます。一つは、義元の計画には鳴海城の後詰などは最初からなかったこと。もう一つは、義元自身が翌朝の丸根砦の攻城戦を督戦していた可能性があることです。それは、今後の三河経営において松平元康の器量を見極めるためでもあったろう。だから、『惣見記』に「今朝城攻めにも、松平元康朱具足の出で立ちにて真っ先を掛け、比類なき働きなり、義元これを感じ、元康毎日の働き神妙なり、今日は、大高の城に居住し、暫く昨今の疲労を休息せられよとて、元康を大高城へ遣わして、籠め置かる」とあるのも、いかにも元康の勇姿を本陣から実見したようでもあり、元康と直に対面して、城番として大高へ派遣しているようにも受け取れる。従って、もしそうであるならば、駿河勢が大軍をもって大高城に入城したために、丸根・鷲津の織田方は手を出すこともできずに砦に籠っていたとも考えられる。そして、これらのことはみな、義元の実像を「京被れ」の惰弱な政治家などではなく、少なくとも太原雪斎の薫陶を受けて、外交・調略に長けた戦国武将であったことを窺わせることになる。………しかし、彼の経歴をみると、国主として軍勢をあちこちに向わせているが、実際の戦闘を指揮したことなどはなさそうである。おそらく丸根・鷲津砦攻めが義元にとって殆ど始めての実戦なのではないだろうか。
(4)十七日を軍事的に検証すると…
さて、ここで通説のいう十七日と十八日の二日間にも亘って、今川義元が沓掛城に宿営していたということについて、軍事的な妥当性を考えてみる。
確かに、一時は笠寺辺りまでが今川方の支配地域になっていたが、当時は尾張をほぼ統一した信長によってかなり後退させられており、控えめに見ても沓掛辺りは紛争の対象地域だったと考えられる。例えば、『東照軍鑑』は、永禄二年四月廿六日に信長が平針(天白区)に出陣して、三河との国境福谷(三好町)に砦を構えて酒井忠次を配していた松平方と戦ったと伝えている。この時、信長自身は丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえて此れを攻撃し、柴田勝家・荒川新八郎らに福谷(ウキガイ)城攻めをさせたが失敗したというのだ。 また、『武辺咄聞書』ではこの年四月のこととする大高城兵糧入れも伝えている。つまり、大高城や鳴海城を封鎖するほど、信長の勢力は伸張していたわけである。  (2007.07.11 挿入) さらに、最近公表された天理本・『信長公記』に「大高之南、大野・小河衆被置」とあるなかの「大野衆」というものが、大野佐治氏や寺本花井氏[23] を指すものであるならば、知多半島はその付け根にあたる鳴海・大高および最先端の河和戸田氏の領分を除いた全てが信長と同盟し、その勢力圏に入っていたことになる。それも、今川義元が着々と西三河を領国化しつつあるなかでの寝返りになるわけだ。これは重大なことである。佐治氏はそれまで今川氏の親派であったから、それが水野氏や荒尾氏との競合いのなかで、信長の権力の下で和解があったらしいことになるからだ。例えば、荒尾氏は当主の空善の許に娘婿として佐治宗貞の次男・善次が娘婿として養子に入っているし、弘治二年(1556)に空善が今川氏との戦いで戦死すると、信長の同意を得て荒尾家を継いだということ[24]があるからだ。しかし、疑問もある。鯏浦の服部氏が廿艘ほどの兵船で大高河口に来襲しているにもかかわらず、伊勢湾東半に武威を張っていたと思われる大野水軍は、これを阻止していないからだ。さらに、渥美氏などは知多半島の南端・師崎を回って、佐治氏の目の前を通って兵粮を運んで元康に献じたと後世に言い張っているのである。師崎には千賀氏が佐治氏の陣代として見張っていたのにも関わらず、である。 このように見てくると、事は複雑だ。どうも、知多半島の豪族らは半手を切っているように思える。信長とも同盟しているようだが、駿河勢や松平勢との戦争に対しては、自らの領国が危機に晒されない限り、消極的な協力しかしなかったようにも思える。そうでなければ、知多半島には海賊はいても水軍などはなかったのではないかということも考えなければならない。そう考えると、天理本・『信長公記』にみえる「大野衆」も、その実態は荒尾家を継いだ大野善治が率いる荒尾衆のことであったとも考えられる。その場合には、十七日に駿河勢先鋒が桶狭間に進出し、知多郡に働いたという記事もあるのだから、それを機に氷上砦や正光寺砦の荒尾衆・大野衆・水野衆らの将兵も開城して退きあげたものと考えることができる。我が身大事だから………。そうであるならば、松平元康が十八日に阿久比の坂部城で母・於大と面会したという話も、もともと親今川であった大野氏を調略するために、母の嫁ぎ先の久松氏を口説きに行ったと解釈することができる。彼等は、緒川の水野信元に押され放しであったから、あくまで独立して生き残り地位を向上させるためには、三河松平氏と結ぶことは魅力的な選択肢であったはずである。その証拠に、大野佐治氏も緒川水野氏も「当主」が信長の軍に参陣するのは、信長が将軍義昭を得て大義名分を掲げて上洛を果たして以降のことなのだ。 <挿入終り>
さらに、『西尾市史』によると、桶狭間合戦のあった永禄三年の五月五日には、信長が吉良に出兵して付近を放火し、名刹実相寺も兵火で焼失させたということだから、沓掛城は付城こそつけられていないものの、織田方の善照寺砦や丹下砦へ約12kmしかはなれていない最前線であったことになる。だから、沓掛城は決して安全な後方などではないのだ。それに、『三河物語』によると一日先行していた先手諸勢の五月十六日の宿営地が矢作(岡崎市)・宇頭・今村・牛田・八橋そして最先端が池鯉鮒という具合に、東海道に沿って布陣したことわかっている[25]。そしてこれをみると、十七日の駿河勢の先手はほとんど前進していなかったことになるから、先手の諸将は十七日に池鯉鮒に着いたその日の今川義元と会ったことになる。また『武功夜話』[26]では、「佐々党は善光寺道に出て平針村に居陣」とか、「佐々内蔵之助(成政)と隼人(政次)殿は、先発して平針というところまで夜中に進出、前野長兵衛、稲田大八郎らは岩作の砦に止まっていたところ」と書くが、これを信ずるならば、駿河勢は十八日の夜には平針方面には部隊を配備していなかったことになる。つまり、鳴海城は封鎖されているのだから、沓掛城が駿河方の最前線になるわけだ。……で、何を言いたいかというと、沓掛城も大高城と条件は同じだということだ。沓掛城は後方地帯でも安全であったわけでもないのだ。そこから考えると、今川義元は合戦前日までの十七日には進軍を止めた先手に、そして翌日の十八日には全軍に、という具合に駿河軍の諸勢に対して尾張国の愛知・知多の両郡に対して「二日間の乱取り・刈働き」の実行を許可したとも考えることができる。これについては、『天白区の歴史』に、「島田山地蔵寺は永禄三年(1560)桶狭間の合戦の折この寺も焼かれている[27]」と紹介している。但し、最近では黒田日出男氏が乱取説を出しているから、これは十九日のことかもしれない。 
  乱取については一先ず置いておいて、戦術的妥当性を検討してみると、沓掛城に泊まった場合の義元は、最前線のそれも最右翼で織田方に露出した場所に着陣したことになる。これは、ちょっと考え難い行動だ。よほど安全なら別だが、通常は、右翼は最も危険な位置[28]である。桶狭間の戦いでの此の状況は、姉川合戦のときの信長の布陣と似ていると河合秀郎氏はいわれる。氏の『日本戦史・戦国編・死闘七大決戦』には、「この(姉川合戦)ときの織田・徳川勢は、まるで桶狭間での今川勢のように分散し、しかも本陣を最前線に突出させたまま、朝倉・浅井勢に背を向けていた」とある。卓見だと思う。尤も、氏がこれを「信長が意図的に朝倉・浅井連合軍を誘致するために採った囮作戦だ」ということについては、深読みしすぎだと思えるので与しないが。………桶狭間の今川義元も同じような過ちを犯したことになるわけである。[29]
(2008.07.10 挿入) 後小松、後柏原、後奈良三帝の勅願道場として東海中本山として栄えた浄土宗玉松山裕福寺[30]には、今川義元が桶狭間で戦死の前日に陣をとったという伝承があると『東郷町誌』はいうのだが、勅願寺であるから訪れたのであって、最前線に相当する地域でありながら防御には劣るのだから、直近に沓掛城がある以上は、宿営したとまでは断定できないものと思う。また、義元が沓掛に訪れた理由も祐福寺に参詣するのが目的であって、鳴海城を救援する目的などは初めからなかったことを窺わせもする。
(5)なぜ前夜の信長は動かなかったのか
さて、こうして見る[31]と、信長が義元の所在を正確に把握していたならば、義元が沓掛城を出陣して行軍しているところを襲撃することが最も良い作戦であることになる。後年の長久手合戦で徳川家康が中入した三好秀次の総勢二万人を撃破したように、である。しかし、『信長公記』のいう事実は逆のように思える。信長は最前線のはずの丸根・鷲津からの注進を確認しようとさえしていないからである。それなのに実際に攻撃されたという報告があって初めて、主従六騎・雑兵二百ばかりで慌てて飛び出しているのだ。これは、沓掛城へ善照寺砦から物見を出して駿河勢が出陣の支度をしているかどうかを確認した形跡がないことで分かる。そして、兵を動員していないところを見ると、決心を秘匿したのではなく、決心ができなかったために、兵力を予定される戦場に広く分散配置したままであったことを疑うべきなのではないのかと思う。ただそれが何れにせよ東部国境であることは間違いないことであったため、敵の行動が鈍ければ比較的間に合って戦場に駆け付けることができるだろうという期待があったのではないのかとも思われる。その傍証に天理本には「於是非国境にて可被遂(トグ)御一戦候、寄地へ被踏迯(ニゲ)候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也」という信長の思いが紹介されているし、『三河物語』は「引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。」としていることがある。
戦争は、敵も味方も情勢判断の誤りや錯誤の連続であるということを証明しているようでもあり、そうした意味では『信長公記』も『三河物語』も真実を伝えているように思えるのだ。………とすると、家老衆が「各嘲弄して罷り帰られ候」とも、最早時間もない夜分に至って斥候を放ってその事実と義元の所在を確認したうえで、夜分に前線各地へ使者を派遣して動員したのでは、直卒の将校を減じるうえ参集するのに混乱するばかりであり、そこを西三河に義元の残置する駿河方に突かれることを恐れたからとも考えられるから、もし信長が十七日に今川義元の所在を把握しており、十八日の時点で沓掛城にいることを確認できたとしたならば、夜間であろうと沓掛城に向かって進発していたに違いない。これは、後の信長の行動からみても確かなことだと思える。それをしなかった時の信長には、他所に大敵がいて動けず、手元には兵力がなかったことが明らかである。例えば、戦力を集中できなかった岩村城の喪失や三方ケ原や手取川での敗戦がその代表例である。だから、信長が沓掛城へ向けて即座に出陣しなかったのは、信長は駿河勢の侵攻については知っていても、義元本隊の所在については把握できておらず、そのような情報があっても信長はそれを信じていなかったのだと考えるべきだと思うのだ。………このことは、現在もて囃されている「織田信長が情報戦に優れていたことが桶狭間での勝因である」とする説は、全くの誤りであるということを意味する。勿論、信長が情報を軽視したということではない。現に、『信長公記』には信玄が鷹狩での「鳥見の衆」のことを知って、「信長の武者を知られ候事、道理にて候よ」と言ったという噺が載っているから、信長の索敵が疎かであったわけではないと思う。一方、義元にとっての沓掛城は、翌朝に鳴海城を救出するために善照寺砦や丹下砦を攻撃する予定があるのでなければ、極めて不用心な宿営地であったということ先に説明した。義元本隊が大軍であれば問題はないのだが、とかく問題の多い小説・『武功夜話』によると、佐々内蔵之助成政や隼人政次らが義元の右翼である平針や裕福寺辺りで駿河勢と接触していないのだから、義元が沓掛城に宿営していた場合にはその直卒兵力には疑問が残る。
以上のように、沓掛城は敵に暴露されている最前線であり、決して安全な後方などではないのです。