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旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

あいづわかまつ漫ろ歩記「ソースかつ丼」

2020-12-29 | 旅行記

 快速あいづに揺られて会津若松へ、残念ながらも磐梯山はまたしても雲の中だった。
会津に美味いものは数ほどあれど、今日はB級、ソースかつ丼を食べにきたのだ。
というわけで、会津若松を漫ろ歩き。

一度訪ねたかった「さざえ堂」は寛政8年(1796年)建立の六角三層のお堂。
二重螺旋のスロープは上り下りが連続の一方通行構造になっていて、参拝者がすれ違う
ことなく西国三十三観音像にお参りできたという。日本の建築技術の高さを実感。

 言わずと知れた酒どころ会津だから、市内に幾つかの酒蔵が点在している。
城へ向かう北出丸大通りには "冩樂" の宮泉名醸、白壁の蔵に煉瓦の煙突が誇らしい。

 会津若松のシンボル鶴ヶ城、豊臣秀吉の命で入城した蒲生氏郷が七層の天守を築いた。
慶長16年(1611年)の大地震で被害を受け傾いた天守は改修され五層となったという。
赤瓦に葺き替えられたのは、会津松平藩の藩祖保科正の慶安元年(1648年)だそうだ。
復元とは云え、赤瓦をのせて肥沃な会津盆地に睨みを利かす姿は威風堂々としている。

 数ある酒蔵から末廣酒造嘉永蔵を訪ねた。この時期にも関わらず蔵見学を受けてくれる。
木戸を抜けたエントランスは3階分の高い吹き抜けがあって、その重厚感に目を奪われる。

仕込み蔵、釜場、煉瓦造りの煙突を眺めて古酒蔵を巡ったらショップでちょっぴり試飲。
いつかイベントで飲んだ純米大吟醸 "ゆめのかおり" を求める。これ年越し用だね。

 戦利品をリュックに収めたら、上町の元祖煮込みソースカツ丼の店「なかじま」へ。
注文したのは "キャベツソースカツ丼(ヒレ)"、生ビールを呷って着丼が待ち遠しい。 

 丼の蓋を開けると甘い香りがる。あったか会津米にシャキシャキのキャベツをしき、
揚げたてアツアツに甘辛いソースをたっぷり絡ませたカツをのせて、これぞ会津の丼。
目的の美味いソースかつ丼にありついて至福なのだ。
鶴ヶ城の走長屋を模したような会津若松駅で赤べこに見送られる午後4時過ぎ。
んっ、まだ時間が早いな、仙台にでも足を延ばそうか。それではもう一軒。

さらばシベリア鉄道 / 太田裕美 1980
     


まつもと漫ろ歩記「山賊焼き」

2020-12-17 | 旅行記

 8時ちょうどに新宿を発ったあずさ5号を見送る。ここは松本、信州路。
今回は美味い "山賊焼き" を食べようとここまでやってきた。っでまつもと漫ろ歩き。

夏から秋にかけてアルピニストで賑わう岳都の玄関口も、この季節は落ち着いている。
まずは駅前通りを真東に歩きだす。この大通りが行きつく先は旧制松本高校の跡地、
あがたの森公園の先に見える山塊は、美ヶ原の王ヶ鼻(2,008m)だと思う。

駅前通りがあがたの森通りと名前を変えると、奇想天外なオブジェが見えてくる。
子どもに付き合って遊んだ super mario bros の食人チューリップが生えているのだ。
松本市美術館は当地出身のアーティスト草間彌生氏の作品をメインに収蔵展示している。

駅前通りの300mほど北を並行する中町通りは、なまこ壁の蔵が並ぶモノトーンの世界。
スイーツの店やカフェが多いレトロな町並み、女子旅やカップルならここを目指したい。
男ひとりの吞み人は雰囲気だけ焼き付けたら、早々に町並みを抜けて女鳥羽川を渡る。

女鳥羽川の北側、四柱神社から始まる縄手通りにも昔ながらの店が立ち並んでいる。
この辺りには美味いそば処が多い。がっ寄りたかった「弁天本店」には当面休業の札、
残念。流行り病のせいか?確か老夫婦が営んでおられたから、ちょっと心配。

太鼓門を鉤状に潜って二の丸御殿跡、内濠をまわり込むと五重六階の天守が現れる。
北アルプスの峰々が白く輝くこの頃、城内の松には冬の風物詩「雪吊り」がかかる。

三方に朱色の勾欄を巡らせた月見櫓が美しい。戦時の要塞としての無骨な大天守・乾小天守と、
泰平の世に造られた優雅な辰巳櫓・月見櫓の取り合わせもこの城郭の魅力だと思う。

濠端から北へ500mほど歩くと、擬洋風建築の旧開智学校が見えてくる。
正面の車寄せの上には青竜、そして雲が沸き立ち、八角の太鼓楼が聳えている。
「開智学校」の旗を掲げているのは二人の天使たち。二つ目の国宝も市民の誇りだろう。

正午になると「しづか」に暖簾がかかる。民芸調の店の前には道祖神まである。
創業昭和20年、"おでん" と "やきとり" の老舗居酒屋に "山賊焼き" を求めてやってきた。

山賊焼きは、鶏もも肉をニンニクとタマネギをたっぷり効かせた醤油だれに漬け込み、
片栗粉をまぶして揚げる中信地方(主に松本・塩尻)の郷土料理なのだ。
ちなみに吞み人が育った北信地方(長野など)では食べない。食べた覚えはない。
サクサクでジューシーな食感、ニンニクの香り、これビールに合わない訳ないでしょう。
冷やし過ぎってくらいキンキンの中ジョッキーを2杯、至福のまつもと漫ろ歩きなのでした。

<40年前に街で流れたJ-POP>
恋のハッピー・デート / 石野真子 1980


もりおか漫ろ歩記「じゃじゃ麺」

2020-10-08 | 旅行記

 開運橋で北上川を渡って、若き日の木が暮らした "もりおか漫ろ歩き"。
中ノ橋の「岩手銀行赤レンガ館」は東京駅を手掛けた建築家辰野金吾の設計。
ルネッサンス風の赤煉瓦造りに緑のドームが秋空に映えて威風堂々としている。

 こちら「紺屋町番屋」は、1891年に建てられた盛岡消防よ組番屋。
寄棟屋根に六角形の望楼を持つ木造様風建築、これもまた美しい。
こうした建物が街中に残っているのは住んでいる人の誇りですね。きっと。

 『不来方( こずかた )の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心』
木が詠んだ盛岡城跡公園を訪ねる。

堅牢な石垣が積まれた本丸だが天守閣はない。完成したのが大阪の役の頃であるから、
南部氏が幕府に警戒されるのを避けたとする説が有力だ。

城の東側内堀にあたる鶴ヶ池、夏の夕涼みに訪れたくなるような清涼な雰囲気。

 城の北側には南部氏の開祖や南部藩初代藩主を奉った櫻山神社が鎮座する。
そして、その鳥居前にある盛岡じゃじゃ麺の元祖「白龍(ぱいろん)」が今回の目的地。

もちもちとした食感の平打ち麺と、ひき肉、胡麻、椎茸を混ぜ込んで炒めた味噌を
必死にかき混ぜて、好みで酢・ラー油・にんにくを少量加えて "じゃじゃ麺" 準備完了。
いただきます。

麺を少し残したところで、テーブルの丼に盛られた卵を溶いてカウンターに載せる、
ひと声かけると店員さんがじゃじゃ麺のゆで汁、ねぎ、味噌をかけてくれるのだ。
このスープが "ちいたんたん"、これで〆る。

 腹ごなしに中津川沿いを上流に歩くと、菊の司酒造の白い蔵が見えてくる。
江戸中期から醸す蔵で、"てづくり七福神" の300mlを仕込んだら花輪線を潰します。
開運橋から県のシンボル岩手山(2,038m)の雄姿、これから裾野をぐるり廻るのだ。

Season / 門あさ美 1980


ロング缶1本の旅

2020-08-29 | 旅行記

 特急は急勾配をものともせず軽快に高度を稼ぐ、やがて車窓に善光寺平のパノラマが広がった。
朝のニュースは、太平洋高気圧の張り出しと、熱中症への注意を繰り返していた。夏の日が射る。
 木曽福島に向かっている。遠回りだけど、僕のところからだと北陸新幹線で長野を経由するのが早い。
朝食代わりに「蕎麦処しなの」で "天玉そば" を掻きこむ。長野駅なら6・7番ホームのこの店がお奨めだ。
木曽福島に向かう車中のお供はロング缶1本、せめて気分だけでもと、Kioskで手が伸びたのは「秋味」なのだ。

 会社の同期入社数名と束の間の夏休みを共有しようと決めたプチGo-To、今回の木曽行きの目的だ。
自分の旅には無頓着な僕が、出がけになって慌てて出力した幹事からのA4の日程表(指令書)を開く。
えっ、滝行体験に日本一の星空ツアー、中山道トレイル約8キロって、旅行会社の社員研修でもなかろうに。
県庁の観光部に出向してインバウンド誘致をしている幹事は、この機会に素材を点検したいのだろう。
いい歳したオヤジたちが、炎天下、この苦行に耐えられるのだろうか?
考える暇を与えず、しなの6号は木曽福島に到着。仲間たちは改札口で待っている筈だ。
もしこの苦行を乗り越え、いいスナップが撮れたら、後日レポートしようと思っている。

Upside Down / Diana Ross 1980
     


ご当地B級グルメ 富良野・オムカレー「まさ屋」

2018-07-10 | 旅行記

 俄かライダーとなってCB750で北海道を彷徨った夏。
麓郷の森を訪ねた後だったかな、富良野駅前に「てっぱんやき・まさ屋」を訪れた。
こちらの一皿、鉄板で炒めたバターライスと上富良野産豚トロに半熟オムレツをのせる。
赤ワインを使ったデミグラスソース×カレーをかけて "富良野オムカレー" の出来上がり。 
熱熱でジューシーで美味い。黄色いのぼりが勇気のしるしなのだ。


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ユーラシア大陸最西端へ / ロカ岬

2013-06-24 | 旅行記

 リスボンから西へ20km。北緯38度47分、西経9度30分がユーラシア大陸最西端ロカ岬。
高さ144mの断崖絶壁、深い青色の大西洋、よろめく程の強風は “最果て感” たっぷりだ。

『 ここに地終わり、海始まる 』
岬の突端に立つ十字架の塔には詩人ルイス・デ・カモンイスの一節が刻まれている。
大航海時代に新大陸を目指した冒険家たちの夢と希望を描写しているかのようだ。

 ロカ岬と山ひとつ隔てて、王侯貴族から夏の避暑地として愛されたシントラの街がある。
イギリスの詩人バイロンが“エデンの園”と称えた街だ。

シントラには7世紀にムーア人が築いた城跡、王家の離宮「ペナ宮」がある。
はずなのだが故あって観光せず、陽光降り注ぐカフェテラスで待機となった。
でも名物のサルディーニャシュ・アサーダシュを肴に白ワインを空けてご機嫌な休日だ。


大航海時代を謳歌した都 / リスボン

2013-06-23 | 旅行記

 海とも河とも束ないテージョ川を4月25日橋で渡る。全長2277m、水面高80m、高い。
右手に旧市街のオレンジの甍が続く、アマリア・ロドリゲスが流れる。リスボン到着だ。
世界遺産「ベレンの塔」は河口を守る要塞であり、また航海を終えた船乗りたちを迎える
故郷のシンボルでもある。抜けるような青空に石灰岩の白壁が眩しい。
司馬遼太郎さんは著書の中で「テージョ川の公女」と賞賛している。

 世界遺産「ジェロニモス修道院」はマヌエル様式の最高傑作と謳われる。
マヌエル様式とはロープや珊瑚、新世界の動植物など航海にちなんだモチーフを指す。
南門上に幼いイエスを抱く聖母マリア像がが見える。

中庭を囲む55m四方の回廊にはその柱やアーチに、ロープや貝、異国の動植物など
大航海時代を象徴するモチーフがびっしりだ。

「サンタ・マリア教会」南面のステンドグラスはマヌエル1世の結婚式を題材としている。
礼拝堂は王家一族の墓になっている。柩の台座にはインド象が支えるように施されて、
インド交易と植民地支配を物語っている。

「発見のモニュメント」は、ジェロニモス修道院と通りを挟んでテージョ河岸にある。
大航海時代を拓いたエンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマ、フランシスコ・ザビエルなど
この時代を牽引した32名の偉人像が彫られている。

 旅程の半ばには大概日本食をアレンジする。この夜はローザ通りの「ボンサイ」で。
和の情緒あふれる店のオーナーは日本人女性、親御さんのお店を継いだ若い女将さん。
日本で修行したポルトガル人の夫君の包丁裁きが素晴らしい。目にも舌にも満足の内容だ。

 

ちなみにリスボンにある日本食レストラン、日本人の経営は2店舗。中国人・韓国人の
経営は100店舗以上とか。日本文化はきちんと伝わるのだろうか、心配になったりする。

 旧市街のアルファマを訪ねる。
1755年の大震災を被害を免れたサン・ジョルジェ城を中心とした最も古い街並みで、
迷路のような路地や急な坂道などが残りどこか郷愁を誘う。

カテドラルからトラムが走るアウグスト・ローザ通りを上ると、息が切れかかるころ
「ポスタル・ド・ソル広場」に至る。
広場からは青きテージョ川とオレンジ色の甍が連なるアルファマを一望できる。


 下町アルファマはファドを聞ける街でもある。
2日目の夜は古く狭い迷路めいた路地裏にあるカーザ・ド・ファド Pateo de Alfama で。
黒衣を纏った歌い手ファディスタ、ヴィオーラ、ギターラの奏でるファド。
その哀愁を駆り立てる切ない音楽が心を揺さぶる。

ボンバル公爵広場からテージョ川に向かって下る並木の美しいリベルターデ大通り。
高級ホテルや大使館などが並ぶ新市街。投宿している5つ星のホテルアルツもこの一角だ。
通りはレスタウラドレス広場で終わり、隣のロシオ広場(ペドロ4世広場)とテージョ川を
見守るコメルシオ広場を結ぶアウグスタ通りとオウロ通りが目抜き通りになる。


 リスボン最後の晩餐はガレット通りの LARGO で。
ノスタルジックな外観、店内はクラゲの漂う水槽をパテーションにした瀟洒なレストラン。
メインの仔牛料理をルビー・ポート・ワインで愉しんで、リスボンの宵は更ける。



天正遣欧少年使節が訪れた街 / エヴォラ

2013-06-22 | 旅行記

 ポルトガルのセビーリャからハイウェイで280km。
国境を越えたアレンテージョ地方の中心都市エヴォラは古代ローマ時代からの城壁都市で
月の女神ディアナに捧ぐローマ神殿を持つ。天正遣欧少年使節団が訪れた町でもある。

 古城や教会、王宮を利用したポルトガルの国営高級ホテルであるポサーダ。
ローマ神殿の広場に面した Pousada dos Loios、オレンジのなる中庭を囲む回廊でランチ。

"ソッパ・カンポネーザ" はジャガイモ、玉ネギ、ニンジンを煮込んだスープ。
メインの "バカリャウ・ア・モステイロ・デ・ティバエス" は青菜のソテー、ほぐした干しダラ、
トウモロコシパンを3層にした一皿。いずれも郷土料理だ。(写真は失敗してしまった)

 60年の年月を費やし1204年に完成したカテドラル、その塔は左右非対称だ。

“神秘のバラ”、“明けの明星” と呼ばれるステンドグラス、伊藤マンショと千々石ミゲルが
演奏したパイプオルガンが残る。

 1510年に建てられたサン・フランシスコ教会はゴシック様式だ。隣接して5000体以上の
人骨が壁や天井を覆い尽くす人骨堂がある。修道僧が瞑想に使った場所だそうだ。

 城壁都市のエヴォラには石畳の狭い路地が多く、迷い込んでしまいそうな錯覚に陥る。
広い通りには街路樹の “ジャカランダ” が季節外れに薄紫のキレイな花を付けていた。
この春先は天候不順だったそうだが、幸運にもこの大好きな花を見ることができた。
バスはエヴォラの城壁を潜り、最終目的地のリスボンへと向かう。


大航海時代の華麗なる都 / セビーリャ

2013-06-21 | 旅行記

 「カルメン」や「セビーリャの理髪師」の舞台セビーリャはアンダルシア州の州都。
大航海時代は河川港として栄え、伊達政宗が送った慶長遣欧使節の支倉常長も滞在した。
柱廊のある半円形の建物と水路・噴水からなる「スペイン広場」はセビーリャの象徴で、
1929年の博覧会場として建てられた。
数々の名画のロケ地としても使われ、有名なところでは「カサブランカ」に登場する。

一方、世界遺産「アルカサル」は11世紀までのイスラム時代のカリフの宮殿跡地に
キリスト教王の宮殿を建造したもので、歴代の王たちによって増改築が繰り返された。
写真は1366年建造のペドロ1世宮殿のファザード。

ペドロ1世宮殿の乙女の中庭を取り囲む建物は執務室や私室からなる。
1階は漆喰装飾の14世紀のムデハル様式、2階は16世紀に増築されたルネサンス様式だ。

アルフォンソ10世が建てたゴシック宮殿は、キリスト教王によるゴシック様式であり、
イスラム色は完全に排除されている。

グアダルキビール川畔に建つ12角形の塔、黄金の塔(海洋博物館)は海運で栄えた時代に
検問及び防衛の役割を担っていた。
今回は夕陽に映える黄金の塔をレストラン ABADES TRIANA の席から眺めることになる。

つい先日皇太子殿下が訪れたという(支配人談)川側が総ガラス張りの洒落たレストラン。
メインはリゾットにステーキとイベリコの生ハムを載せた逸品だった。
大切なひととウエイティングバーから楽しみたい素敵なレストランであった。


イスラムとカトリック美の競演 / コルドバ

2013-06-20 | 旅行記

 アトーチャ駅09:00発、AVE2090でアンダルシアへ向かう。
荷物置き場にスーツケースを収め、Preferente の革張りシートに自分の座席を見つる頃、
セビーリャ行きはごく軽い振動を残してプラットフォームを静かに滑り出す。
列車は市街地を抜けるとスピードを上げ、窓の景色が猛烈なスピードで流れはじめる。

Preferente は横3列の座席配置、国際線エコノミークラス程度のミールサービスがある。
中間車両は動力車になっていないので極めて静かで快適な乗り心地だ。
コルドバまでは所要1時間50分、向日葵畑を見ながら果てしない丘陵地帯を往く。

カラオーラの塔をくぐり、グアダルキビル川をローマ橋で渡るとコルドバの町に入る。
8世紀に後ウマイヤ朝(西カリフ帝国)の首都として栄えた古都コルドバでは、
栄華を謳歌したイスラム時代の遺構を見ることができる。

世界遺産メスキータは785年、アブデラマン1世によって建てられた世界最大級のモスク。
キリスト教徒の国土回復後、カルロス5世によって再びカテドラルに改造されるのだが、
モスクの遺構が一部残され、イスラムとカトリックの美が競演している。

     
     

イスラム教徒が祈りを捧げる「ミフラーブ」は、メッカに向けて祭壇が立てられている。
神聖な祈りの空間は、壁を金色のモザイクで飾りイスラム聖典コーランの一部が刻まれ、
天井部分は美しい幾何学模様の装飾が施されている。

     

キリスト教徒によって造られた「マヨール礼拝堂」はミフラーブと向かい合う形になる。
完成に250年を費やした関係で、ルネッサンス様式、ゴシック様式などが混合している。

     

日時計となるステンドグラスの彩が床に光を落とす。これほどキレイに映るのは珍しい。
イスラムとカトリックの奇妙にも美しい共演を見せてもらったメスキータだ。

メスキータの北側には旧ユダヤ人街、迷路のように道が入り組んで広がっている。
美しい花の小鉢が飾られた白壁の街並みは、路地ごとに様相を変えるステキな散歩道だ。


文化と芸術が花開く首都 / マドリッド

2013-06-18 | 旅行記

 バルセロナからスペイン新幹線AVEで2時間45分、マドリード・アトーチャ駅に到着する。
最高時速300km走行だが、揺れも走行音も気にならない快適な乗り心地だった。

スペイン王宮は1764年、フェリペ5世によって、ハプスブルク王家宮殿跡に再建された。
フランスとイタリアの建築様式を融合させた建物だ。

王宮の向かいに建つ壮麗なカテドラルはアルムデナ大聖堂。

     
緑豊かなスペイン広場、中央にはセルバンテス没後300年記念の彫像が、
ドン・キホーテとサンチョ・パンサの銅像を見下ろすように立っている。


 お馴染みパエリャはバレンシア生まれの伝統的家庭料理。
その名も Casa de Valencia で、 "パエリャ・デ・マリスコス" と "アロス・ネグロ" を食す。

 スペイン王家の300点ものコレクションを誇るプラド美術館は、欧州でも屈指の美術館。
今回はゴヤ、ベラスケス、エル・グレコの作品を中心に鑑賞した。
「着衣のマハ」「裸のマハ」と並んだマハとは、国立西洋美術館以来1年半ぶりの再会。
「カルロス4世の家族」「1803年5月3日の銃殺」「我が子を喰らうサトゥルノ」など、
ゴヤの主な作品は幸運にも全て在館していた。
ベラスケスの「女官たち」エル・グレコの「胸に手を置く騎士」「聖三位一体」とともに
鑑賞を楽しめた。詳細かつ興味深い解説をしていただいたガイドの河田氏に感謝。

 1956年創業の格式あるタブラオ Corral de la Morería のディナーショーに出掛けた。
情熱的な歌声、激しく美しい踊り、繊細なギターの音色、本場フラメンコショーを楽む。
著名人も訪れるこのタブラオ、さすがに主役級の踊り手の迫力たるや圧倒される。
とはいえ先に登場したキャサリン・ゼタ=ジョーンズ似の踊り子に魅了されたのが本音だ。


カタルーニャの都 / バルセロナ

2013-06-17 | 旅行記

 空港から市街にむかう道路が混雑していた。
気温30℃を超えた日曜日、ビーチに繰り出した人々の帰宅の車列だと言う。
バルセロナはガイドブックの謳い文句の通り青い海と輝く太陽の街だった。

バルセロナが生んだ天才芸術家アントニオ・ガウディの代表作サグラダ・ファミリア、
地から這い出たような8本の鐘塔が迫力だ。
生誕のファザードはガウディ自ら指揮をして最初に完成させた部分だそうだ。
「聖母マリアの戴冠」「受胎告知」などキリスト誕生に関わる彫刻で飾られている。
聖堂内部は十字架の形をしている。
天井を支えるのは木が枝分かれしたような36本の柱、全体を森に見立てているそうだ。

ガウディとパトロンのグエルが開発した田園住宅街はグエル公園として開放されている。

カラフルな破砕タイルで飾られた公園のシンボル「ドラゴン」は人気の撮影スポットだ。
高台にある公園からはバルセロナの街と地中海の水平線が一望できる。

カタルーニャ広場から南へ延びるランブランス通りは並木が木陰をつくる素敵な散歩道。

通りが地中海の達するポルタル・デ・ラ・パウ広場にはコロンブスの塔が建っている。

 サン・ジョセップ市場は新鮮な野菜・果物、肉類、魚介類が並ぶ市民の台所。
午後になっても活気のある市場を巡ったら場内のバルでセルベッサを一杯。


 滞在したのはバルセロ・ホテル・サンツ、新幹線の始発であるサンツ駅上に建つ。
旧市街からは離れていて散策には不便だが近代的な設備でビジネスには申し分ない。
ロビーやエレーベーターホールは宇宙船を表現した前衛的なインテリアになっていた。
ここからイベリア半島の旅が始まる。


「ロイヤルストリート」ジャズの故郷 ニューオーリンズへ3 

2011-05-21 | 旅行記

 ロイヤルストリートは、アンティークや有名レストランが並ぶ落ち着いた賑わい。
週末の午後、通りから車が締め出されるとストリートミュージシャンたちが現れる。
この日は黒人の夫婦がサイデコのパフォーマンスをしていた。

通りには、スペイン風のパティオを持った邸宅がたくさんある。
この日でかけたレストラン “Court of the Two Sisters” もそんな邸宅を利用したもの。

日中の熱気が嘘のような爽やかなパティオでクレオール料理をいただく。
クレオール料理とは植民地時代の支配階層の料理。
ルウやスパイスをたっぷり使った都会的な洗練された味を指すそうだ。

 

たっぷりのスパイスソースがかかったシュリンプのサラダ、白ワインが進む。
メインはメキシコ湾のタラのアーモンドソース添え。(食べかけのでごめんなさい)
デザートは、バニラアイスをシューで包みチョコレートソースをかけたプロフィトール。
ジャズの生演奏をBGMにご機嫌なディナーなのだ。

 

 

Imagine / John Lennon 1971


「バーボンストリート」ジャズの故郷 ニューオーリンズへ2 

2011-05-20 | 旅行記

 緑の市電 “セントチャールズ・ストリートカー” は世界最古の路面電車だ。
1835年から走るノスタルジックな市電の乗ってバーボンストリートを訪ねる。
この名前はフランス貴族のブルボン家に由来する。バーボンウイスキーではない。

 バーボンストリートはなんとも猥雑な界隈だ。
レストラン、ライブハウス、キャバレー、ストリップ、スーベニアショップ等が混在する。
なんだか良くわからない混沌が支配する通りは、日が暮れると人々が溢れてくる。
客引きのお兄さんを躱しつつ、踊り子の女の子の脚線美に視線を流しつつ歩くのだ。
聞こえてくるジャズ、ブルース、ロックがごっちゃ混ぜ。なんともハッピーな街だ。

 デキシーランドを聞かせてくれるクラブ “Maison Bourbon” をのぞいた。
開けっ放しの窓からトランペットが溢れてくる。テーブルチャージなしの1ドリンクでOK。
クラブをはしごしてお気に入りの店を探すのも愉しい。

 

Another Day / Paul McCartney 1971

 


「ジャクソンズスクエア」ジャズの故郷 ニューオーリンズへ

2011-05-19 | 旅行記

 ニューオリンズはご存知「ジャズの故郷」だ。
世界屈指のカーニバル「熱狂の祭典マルディグラ」が有名だね。
コーチには “トランペット”、カーニバルの “マスク” と “ビーズネックレス” が描かれる。

 観光の見所はフレンチクオーター。
狭い路地に19世紀の街並みが残る南欧風の旧市街、他の都市とは全く異質な空間だ。
7代大統領の名を冠した「ジャクソン広場」はフレンチクオーターの中心。
後ろにはセントルイス大聖堂がそびえ、観光馬車が並ぶ観光の出発点になる。

広場近くの Cafe du Monde は150年ほど続くカフェオレとベニエが有名。
メニューはこれしかないお店ですが、この日も多くの人が列をつくっていた。

 

もともとは先住民の交易所であった French Market。
200年以上の歴史を持つアメリカでも最も旧いマーケットだと云う。
野菜、果物、チーズ、スパイス、肉、魚を扱ったファーマーズマーケットが楽しい。

 広場の近くから発着する蒸気船 Natchez でミシシッピ川クルーズを楽しむ。
かつてはたくさんの蒸気船が、綿花や穀物を積んで行き交った。
夏のきつい日差しに手をかざして眺めるミシシッピ川は、溢れだしそうな豊かな水量。
ニューオリンズを大きく蛇行しながら、170km先のメキシコ湾をめざす。

Mercy Mercy Me / Marvin Gaye 1971