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「赤坂宿」 08:30
初夏の陽気になりそうな朝、赤坂宿本陣跡をスタートする。
赤坂には将軍専用の休泊所お茶屋屋敷が唯一残り、ボタン園として一般公開されている。
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赤坂宿では和宮降嫁の際、幕府の命令により宿内の見苦しい古屋や空地を取り繕うため
突貫工事で60軒余の家が急造されたそうだ。これを姫普請(嫁入普請)という。
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「善光寺」 08:50
赤坂宿をでると間もなく昼飯(ひるい)町なる地区に入る。難波の海で拾われた
善光寺如来を信州に収めるために運ぶ一行が、つつじの咲き乱れる美しい地で
昼飯を取ったことに由来する地名だそうだ。
実際この地に善光寺があり、門前の碑に「當寺本尊、信濃信州善光寺分身如来」とある。
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「蒼野ケ原一里塚」 09:35
集落を抜け田圃が広がると蒼野ケ原一里塚。すでに塚は無く碑と常夜灯が建っている。
東山道の時代にはここに宿駅があって、遊女の宿場として有名だったそうだ。
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「垂井追分」 10:05
垂井追分は中山道と東海道を結ぶ美濃路との分岐点。
自然石の道標には「是れより 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とある。
宝永6年(1709年)に立てられたもので中山道中でもかなり旧いものだ。
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「垂井宿」 10:15
伊吹山中に発し関ヶ原を流れてくる相川を渡ると垂井宿の東の見付(番所)跡、
大きな観光マップが建っている。当時の相川は人足渡しだったそうだ。
旅籠亀丸屋は安永6年(1777年)に建てられた。今なお当時の姿で旅館として営業している。
この辺の辻を入ると往時の面影を偲ぶ町並みを見ることができる。
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垂井は美濃一宮として信仰を集めた南宮大社の門前町でもあった。
参道との辻には懐かしい信号機が点滅している。
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小林家住宅は切妻造瓦葺二階建て平入りの建物で袖卯建が設けられている。
江戸期には油屋を営んでいたそうだ。
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西の見付で垂井宿を振り返る。旧旅籠や商家が残る宿場情緒の道が微妙に左右して続く。
すでに関ヶ原に向けて緩やかな上り勾配になっている。
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垂井宿を出ると濃尾平野に別れを告げ、徐々に両側に山々が迫る。500m程で踏切を渡る。
中山道が東海道本線を渡る?明治期の鉄道建設の経緯を知らないと素朴な疑問となる。
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「垂井一里塚」 10:50
9m四方の塚が南側一基、ほぼ完全な姿で残っている。
国の史跡に指定された塚は、ここ垂井と東京都板橋区の志村一里塚の二か所だけだ。
関ヶ原の戦いでは浅野幸長が陣張をした場所で、南宮山に拠る毛利秀元に備えたという。
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東海道本線と東海道新幹線に挟まれ関ヶ原へと登るこの辺りには松並木が残っている。
となりを走る在来線の電車は苦しげなモーター音を唸らせて行く。
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松並木を抜けると左手の小高い丘が桃配山。関ヶ原開戦時の徳川家康の陣地である。
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「関ヶ原宿」 12:00~13:20
関ヶ原宿は交通の要衝。中山道(現R21)と北国脇往還(現R365長浜方面) 、伊勢海道
(現R365四日市方面)が交差する。さらに西に今須峠を控えて多くの旅人で賑わったという。
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とはいえ、関ヶ原に往時の反映ぶりをしのぶ史跡はまったく無い。
この辺りは先陣を競ったひとり福島正則が陣取った場所。宿場の外れに西の首塚が残る。
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「不破ノ関」 13:40
関ヶ原宿を出て程なく藤古川を渡る。関ヶ原の戦では大谷吉継が陣を張ったところだ。
ここは古代東山道の不破ノ関が置かれたところで関ヶ原の名の起こりでもある。
672年壬申の乱で大友皇子率いる西軍(近江朝廷軍)を大海人皇子(天武天皇)率いる
東軍を撃破している。歴史は二度とも東軍を勝たせている。
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更に1km程先に「常盤御前の墓」がある。
源義朝の側室として牛若丸をもうけた絶世の美女がこの地で亡くなったという説がある。
哀れに思った土地の人がこの塚を築いたという。
山桜の花びらが散る今須峠を越える。わずか標高160mの峠だが急勾配の坂が続き、
特に冬場は積雪があり難儀したそうだ。峠を越えると「今須一里塚」がある。
「今須宿」 14:20
一里塚を過ぎると美濃路最後の今須宿,、本陣・脇本陣は小学校の庭の位置に在った。
美濃16宿の中で二軒の脇本陣を持ったのは今須宿だけだ。
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今須宿を抜けて暫くすると「車返し坂地蔵尊」が見頃を終えた八重桜の花を残している。
南北朝の時代に荒れ果てた不破ノ関屋を歌に詠もうと都をでた貴族が、その来訪を知った
家人によって見苦しい関屋が修理されてしまったことを聞き、大いに落胆して牛車を
引き返してしまったことから「車返し坂」と呼ばれている。
「寝物語の里」 15:00
中山道が国道21号線と東海道本線を相次いで越えると県境(美濃近江国境)になる。
その昔国境を挟んで宿があった。都から奥州へ義経を追う静御前が近江側に宿をとった。
すると偶然にも隣の美濃側の宿に義経の家来が泊まっていることに気付き「義経のもとに
連れて行ってくれ」と懇願したと謂われる。
この国境越しのやり取りをを土地の人々が「寝物語の里」と名を付け語り継いでいる。
第33日目は、赤坂宿を発ち、垂水宿から濃尾平野を後にして関ヶ原宿、美濃近江国境の
今須宿まで14.5km、 6時間30分の行程となった。三条大橋までは残り92kmだ。
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