旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

それでは酔いお年を 今宵、ほろ酔い酒場で!

2017-12-31 | 日記・エッセイ・コラム

 ローカル線の終着駅から5分も歩くと薄明るい街灯と車のテールランプだけになる。
そんな宵闇にぽっかりと浮かぶ紅い提灯、吸い寄せられるように重い引戸を開ける。
カウンターには焼酎の一升瓶を抱えた常連さんが陣取っている。紫煙が沁みる。
小上がりには信金さん?盛上りながらも周囲のお客さんへの気遣いを忘れない。 

 

 奨められるまま地酒を呑む。普通酒で構わない。肴も土地ならではの一品を抓む。 
注いでくれる思いがけず美しい女(ひと) 、30代半ば?大将の娘さん?詮索は止めよう。
旅先で寅さんが恋に落ちるシーンを思い浮かべながら升酒を迎えにいく。 

 地方の県庁所在地、農山漁村から若者を吸上げて高度経済成長を支えたことだろう。
こうした町の駅近に、早い、安い、旨い、三拍子揃った酔うことに機能的な店がある。
壁一面に貼られた短冊、ハムカツとポテトサラダは外せない、ホッピーが飲める。
相席当然のテーブル、立飲みスペース、コの字カウンターには煮込みの大鍋がある。

 

大抵の場合、給仕してくれるのは割烹着に三角巾姿の "昔のお嬢さん" に違いない。
小母ちゃん!は禁句。注文が後回しになる。下手すりゃ伝票に余計な正の字が付く。

 

 観光地でもある地方都市の平日、炉端焼きの八角カウンターの顔触れは多彩だ。
余所者にも比較的寛容だから、仕事帰りのサラリーマン達が席を詰めてくれた。 
品書きと睨めっこしていると、決して迷惑ではないお節介を焼いてくれたりする。 
ここに女子旅の3人組が席に着くと更に華やぐ。少しずらした夏休みも良いもんだ。

 

 酒は皆で賑やかに飲むのが楽しいに決まっている。でも時に "ひとり酒" も愉しい。
今年も拙い「呑み話し」にお付き合い頂き有難うございます。来年もぶらり出掛けます。 

時代おくれ / 吉田類


旧街道を歩く 日光道中・奥州道中を往こう!

2017-12-30 | 日記・エッセイ・コラム

 正月2日、快晴。東海道を下る21本の「襷」と反対に日本橋から北へと旅立った。
日光道中は東照宮まで二十一次の参詣の道、奥州道中は白河まで二十七次の江戸と陸奥と
を結ぶ人流・物流の道だ。今年は延べ11日を要して230kmを歩き陸奥(みちのく)に至る。

最初のハイライトは何と言っても「雷門」、門前には「浅草一里塚」があったはずなのだ。
参道には初詣に訪れた人でいっぱい。この光景は街道時代から変わらないことだろう。

 日光道中、奥州道中を歩くHOW TO本は少ない。日本橋を北へと旅立つ人は難儀する。
沿道自治体の教育委員会のWebなどを丁寧に下調べをするのが有効だと思われる。
数多あるブログの中には、距離や高低差、所要時間などを丁寧に解説しているものもある
ので参考にされると良い。雰囲気を大掴みするには当ブログもお役に立てると思われる。
HOW TO本がない代わりに「奥の細道」に関するガイド本をご覧になると旅は豊かになる
でしょう。この行程は芭蕉や曾良が辿った道でもあるのだから。

千住は元禄二年(1689年)、深川から舟に乗った芭蕉がここに上陸し矢立ての地とした。
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」と詠んでいる。

 

古の旅人にとって、沿道の茶屋で甘酒やら甘味で一息つくのは愉しみだったことだろう。
幸手宿では粒餡いっぱいの大判焼を、間々田宿では、"かんぴょう" のお菓子を抓んだ。

 

将軍の行列も例幣使の行列も、市の賑わいも見つめてきた酒蔵は宿場の「華」だ。
今市宿には 
"日光誉" の渡邊佐平商店が在る。天保13年(1842年)の創業、日光山麓の
清冽な名水を汲み、吹き下ろす冬の寒気の中で酒を醸している。

 一方、奥州道中に入って白澤宿には井上清吉商店が在る。明治元年創業と新しい蔵だ。
こちらは 
"澤姫" の銘柄で地酒を世に出している。"澤" はもちろん白澤宿から受けている。

今市宿から先の日光道中は杉並木鑑賞道路となる。清流が流れる水路と杉並木が美しい。

日光東照宮「陽明門」に立ったのは7日目。
豪華絢爛な美しさは、40余年ぶりの大修理を終え、本来の輝きを取り戻したかのようだ。
正月2日に日本橋を発ってから140km、延べ7日間の日光道中の旅がここに終わる。

 日光道中と奥州道中の追分になっている宇都宮宿まで戻ったのは10月半ばのこと。
街の中心は二荒山神社、延喜式に名を連ねる歴史ある神社で
下野國一之宮といわれている。

鬼怒川までの道程は白沢街道の名称がついている。左右には近隣の農家が直売する梨や巨
峰が秋を感じさせる。海道新田一里塚あたりでは白い花をつけた蕎麦の畑が広がっている。

 

 決してはファミレスなんかに入ってはならない。ましてコンビニ弁当なんて言語道断だ。
色褪せた暖簾が架かった大衆食堂に入るべし。地元の風土を味わってこそ街道飯と云える。
ときにはご当地B級グルメを。宇都宮宿では餃子を、白坂宿では白河ラーメンを堪能した。

 12月半ば、行程11日目、いよいよ関東平野から陸奥へと抜ける。草地一面に白い霜が
降りて、冬の冷え込みを物語る。道祖神が1体、斜面を滑って助けを請っていた。

 栃木・福島県境を挟んで二つの「境の明神」、玉津島神社と住吉神社を越えると陸奥だ。
戊辰戦争(白河口の戦)の舞台となった白河宿の先、女石追分が奥州道中の終着点となる。

日光道中・奥州道中を歩いた延べ11日、230kmのひとり旅は、季節を感じ、暮らしを感じ、
思索に耽る機会となった。先人たちの歴史・文化に通じる身近な「街道」を歩いては如何か。
ボクはと云えば、年が明けたら東海道を西進しようと思っている。 

 


旧東海道・品川宿でBiz-Lunch「そば処 砂場」

2017-12-29 | Biz-Lunch60分1本勝負

 新馬場に老舗の暖簾が架かっている。北品川二丁目交差点近くの「そば処 砂場」だ。
丼とセットになったランチメニューもあるけれど、折角だから "鴨南せいろ" をいただく。
暖簾に違わぬ香高い美味しい蕎麦でした。鴨汁はやや甘めだけどね。
さて、お腹を満たしたら足早に天王洲まで戻ろう。ここまで出張ると片道20分だからね。 

     
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走ると揺れて 止まると揺れて 山手線を完乗!

2017-12-28 | 呑み鉄放浪記

 『走ると揺れて 止まると揺れて 緑の電車は...』って石川ひとみが歌っていた。
やはり山手線のことかなと思いながら、夕暮れ東京散歩は山手線外回りを乗ってみる。 

港南口には高層ビルが立ち並び、品川はすっかり副都心の様相だね。 
山手線は品川~田端が正式、東京~品川は東海道本線、東京~田端は東北本線なのだ。 

 

発見その1、山手線のホームにも "駅そば" がある。
1・2番ホームの南跨線橋階段下に常盤軒、小母ちゃんの愛想と手際はNG。でも美味い蕎麦なのだ。

品川駅を発った11両編成は、車輪とレールを軋ませ、きつい半円を描いて大崎駅へ。
今度は左手から冬の西日を浴びて新宿方面をめざして走る。 

表参道口に建つ洋風の原宿駅舎は1924年6月竣工の二代目。都内のJR路線では最古の木造駅舎だ。
屋根上に尖塔が載ったその姿は、ヨーロッパの田舎町に迷い込んだような気になる。 

明治神宮参道をゆく。参道を往く外国人観光客には積み上げられた「菰樽」がとっても気になる様だ。 

本殿前で結婚式の列にであった。佳き日ですね。おめでとうございます。 

都会の喧騒が届かない杜の中に明治神宮はある。
真新しい銅版を葺いた屋根が冬の西日を鈍く反射している。夫婦楠が立派だ。
100年そこそこの歴史とは思えない荘厳な雰囲気なのだ。

2つ進めて新宿駅、靖国通りのガードの向こうに歌舞伎町の街並みが広がっている。
新宿駅へと減速する電車の窓から見る街灯りは馴染の情景だ。今では訪れることもない。

発見その2、山手線にも踏切がある。 駒込駅~田端駅間にある「第二中里踏切」だ。
酒場を探して降りた駒込駅、ホームの先端から線路を横切る車が見えた気がして歩いてみた。
踏切は武蔵野台地のピークに在って、幅員の狭い生活道路が山手線を横切っている。
駒込から全速で台地を駆け上がってきた電車は、ここを境に惰性で田端へと下りて行くのだ。

緑の電車は京浜東北線の複線に割り込むように田端駅に滑り込む。あと何周走るのか。
青い電車と乗客の交換を終えた11両編成は終わりのない旅を続ける。 

田端駅から歩いて5分ほど。「初恋屋」って甘酸っぱいネーミングの酒場が在る。
看板には魚河岸料理とある。新鮮な刺身が自慢の店だ。
常連さんで溢れる酒場にひとり暖簾を潜る瞬間はいつでも緊張する。
カウンターの隅にちょこんと座る。予約でいっぱいなので1時間の勝負なのだ。

 

まずは生ビール。お通しは枝豆、そして山盛の "ポテサラ"、これがなかなか美味しい。
刺身は、真アジ、スルメイカ、マグロ赤味、真鯛を切ってもらう。下駄の上に大盛で大満足。
酒は二本松「奥の松酒造」の "遊佐 純米吟醸"、爽やかな香りとやや甘の酒は刺身にも合う。 

 

7時を過ぎた頃、予約客が入ってきたので席を空ける。次回はゆっくりと味わいたい。
店を出て暖簾を眺める。どうも雰囲気と屋号がしっくりこない。まあいいか。
そう云えば彼女、『恋を無くして 泣いた日がある』って歌っていたっけ。

山手線 品川~田端 20.6km 完乗

君は輝いて天使にみえた / 石川ひとみ


季節外れの "夏のクラクション" から "クリスマスキャロルの頃には"

2017-12-27 | 日記・エッセイ・コラム

 夏の終わりと、恋の終わりが一度に訪れる。
海沿いのカーブを曲がって見えなくなる、貴女の白いクーペを見送る「僕」。 
別れを告げて、ひとりクルマを降りたのだろうか。胸が痛い。

 

街のランドマークで稲垣潤一のX'masディナーショー。
 "夏のクラクション"
 "ロングバージョン"
 "思い出のビーチクラブ" 
 "バチュラーガール" 
数々のイメージCMを飾った80年代のメロディーがボクにも胸が痛い。 

 

さて今宵はX'mas。
霧笛が聞こえてくるレストラン。乾杯した1年前を思ってひとりで過ごす「僕」。
 "メリークリスマスが言えない" 

"クリスマスキャロルの頃には" ふたりの愛を確認したい「僕」。 
今宵はドラマに溢れる夜なのだ。 


 クリスマスキャロルの頃には / 稲垣潤一&広瀬香美


餃子舗「宇都宮みんみん」にて

2017-12-26 | 日記・エッセイ・コラム

 東山温泉からの帰り道、宇都宮餃子の名店「みんみん」に立ち寄る。
うちの車はスタッドレスを履いてないからって言い訳して、青春18きっぷでゆったり旅。
だからビールを愉しめる。まずは "焼き餃子" から。 

 

サイドメニュー的に "揚げ餃子" と "水餃子" も抓んでみる。
息子は近くの二荒山神社に「お七夜」を詣り、数か月を過ごした「宮っ子」なのだ。
君の生まれた街を見て行こうって誘って、X'masイブはビールと餃子で過ごしている。 


会津・東山温泉「原瀧」にて

2017-12-25 | そうだ温泉にいこう!

 信楽焼の湯舟に浸かる。ライトアップされた雪景色を眺めながら。 

 

ラウンジで湯上りのビールを呷る。今宵は呑むよ、こんな格好になるくらい。 

 

まずは先付を肴に "名倉山" を人肌燗でいただく。もちろん会津若松の酒だ。

 

ダイニング「瀧川」はハーフバイキング。会津の地酒に合う酒肴を小鉢に盛って愉しい。 
鰊切り込み、里芋煮付、どぜう唐揚、海老酒盗、どれも美味い。"鰊の山椒漬け" が絶品だ。

 

「お手前料理」は、先付にお造り、それに "福島牛のしゃぶしゃぶ" だ。
やはり旨い冷酒も飲みたい。っと"末廣 山廃純米" をいただく。

 

朝は早起きして源泉かけ流しの露天風呂を独占する。 
豊かに流れる滝を眺め、水落ちる音を聴いて湯に浸かる。至福のひと時なのだ。 

 

朝食にも会津の郷土料理が小鉢に盛り込まれる。これだけで一杯やれそうだな。
プレX'masイヴにどこまでも和テイストな週末を過ごす。原瀧さん、お世話になりました。 

 

冬の稲妻 / アリス 1977


旧東海道・品川宿でBiz-Lunch「佳佳」

2017-12-23 | Biz-Lunch60分1本勝負

 四川・広東料理「佳佳(よしよし)」は聖蹟公園交差点角だから、品川宿本陣裏になる。
佳佳も含めて、この辺りの中華屋さんはどこも盛が良い。工場なんかもあるからね。
"高菜と豚肉炒め" にお腹一杯だ。味付けも濃いから、本当は生ビールに合うかな。

     
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「海35系統」で岬をめぐる 京急・久里浜線を完乗!

2017-12-21 | 呑み鉄放浪記 私鉄編

 堀ノ内駅に電車が近づくと、渡辺真知子の "かもめが翔んだ日" が流れてくる。
横浜、横須賀、海岸線を走る京浜急行線はメロディーの題材に事欠かないだろう。 

 

「みさきまぐろきっぷ」を手にして此処まで来たのは、京浜急行線を締めくくるためだ。
最後に残った久里浜線は、浦賀へと向かう本線から分岐して三崎口まで駆け抜ける。

プラットホームの南端に立つと、本線と久里浜線がYの字に分岐するのが見える。
三崎口へと向かう快速特急が本線を斜めに渡って出発して行った。

 

終点のひとつ手前、三浦海岸で途中下車する。気の早い桜が二株ほど花を付けている。
三浦海岸は早咲きで大きなピンクの花を咲かせる河津桜の名所でもある。
2月中旬~3月中旬の「桜まつり」の頃には駅の看板も桜色に染まるのだ。

三浦海岸駅に電車が近付くと、ウイークエンドの "岬めぐり" のメロディーが流れる。 
ここから三崎港まで走る京急バス「海35系統」が、曲の情景であることは良く知られている。 

特産のダイコンを天日干しにしている三浦海岸をあとに「海35系統」は海岸線を走る。
金田漁港辺りからバスが台地に駆け上がると、それこそ一面のダイコン畑が広がる。
空の青、海の蒼、大地の深緑のグラデーションが美しい。写真は撮り損ねてしまった。 

三浦半島の南東端には白亜の「剱埼灯台」、潮風と波の音だけが聴こえる。
眼下に浦賀水道、思いがけず近くに房総半島、貨物船が通り過ぎて行くのを眺める。 

台地を下った「海35系統」は江奈湾岸を巻くように走っていく。
午後3時、ちょうど沖から何隻ものクルーザータイプの釣船が湾へと戻ってくる頃だ。

さて久里浜線はと云うと、三浦海岸からもう1区間で終点の三崎口に到着する。
陽光に溢れる中の複線の車止めは、地方のJR線のそれとは違って哀愁はない。 

久しぶりの三崎口、いつの間にか駅の看板が変わっていた。『三崎マグ駅』 だって。

 

三崎港に着いて、「まぐろまんぷく券」を握りしめて向かったの「くろば亭本店」だ。
多彩なマグロ料理と季節の地魚が自慢の人気店は、土日はもの凄い列ができる。

 

背トロの天ぷらと、秘伝のタレで漬けた赤味がコラボする "まぐろ漬けトロ天丼" をいただく。
漬けは絶品、天ぷらは脂がのって、山葵をのせると美味しい。満足のランチなのである。

手元に残った「三崎・三浦おもひで券」で夕暮れのホテル観潮荘を訪ねる。
この券で油壺の湯に日帰り入浴できるのだ。小網代湾の夕景を眺めながら湯に浸かる。
っと、至福のうちに久里浜線の旅を終える。これにて京浜急行線は全線完乗なのだ。

京浜急行電鉄久里浜線 堀ノ内~三崎口 13.4km 完乗

 

岬めぐり / 山本コウタローとウィークエンド


旧東海道・品川宿でBiz-Lunch「天ぷら すさき」

2017-12-19 | Biz-Lunch60分1本勝負

 目黒川が運んだ砂が堆積して出来た洲が岬状に品川宿に並行して南北に延びていた。
その様は江戸名所図会に見ることができる。土地は「洲崎」と云った。店の名はそれか。
昭和の匂いが充分な、決してキレイな店ではないが、こういった店は味に外れがない。 
焼魚系や唐揚系の定食もあるけど、天ぷら屋なので初回に食すのは "天丼" ですよね。
イカ・キス・えび・穴子・なす・いも・ししとうが並んで800円。濃厚やや甘のタレで美味しい。

     
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奥州道中紀行9 芦野宿~白坂宿~白河宿~女石追分

2017-12-17 | 日光道中・奥州道中紀行

08:40 「芦野宿」
 上野駅05:10発の始発に乗ると黒田原駅から芦野へ行く午前中唯一本のバスに乗れる。
本陣臼井家は隈研吾氏設計の「石の美術館」となって石と水と光の空間を創っている。

 

香ばしい匂いがしてくる。炭火で鰻を焼く匂いだ。すでに昼の仕込みをしている。
旅籠から300年の歴史を持つ「うなぎの丁子屋」は芦野宿のランドマークなのだ。

苔むした石段の先、切妻四脚門は曹洞宗建中寺の山門。芦野氏の菩提寺になる。

白河方入口に座するのは新町地蔵尊、享保2年(1717年)建立、開眼の導師は建中寺住職だ。
国家安全・領主の子々孫々の繁栄、お参りする人々の良縁を願って立てられたものとある。

 

Navi90. 遊行庵食堂(右折)→<国道294号>→九番町歯科クリニック 15.8km 200分

Navi90-2. 岩倉右大臣歌碑(斜め左)→<旧道 : 350m / 4分> 

09:05 「べこ石の碑」
 芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠怒が嘉永10年(1848年)に建立した19段、約3500文字の碑文。
孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など儒教的精神で人の道を優しく教えている。
碑は自然石に炎帝神農氏の姿か、石の形がか臥牛に似ているため「べこ」と呼ばれたらしい。

 

Navi90-3. 国道294号合流後160m(斜め左)→<旧道 : 230m /3 分> 

Navi90-4. 国道294号合流後160m(斜め右)→<旧道 : 2.5km / 30分>

国道294号線から板屋の集落へと旧道を入る。板屋は芦谷と白坂の間の宿になる。
草地一面に白い霜が降りて今朝の冷え込みを物語る。道祖神が1体斜面を滑って助けを請っていた。 

09:25 「板屋一里塚」
 板屋の一里塚は、日本橋から44番目となる。両塚が残っている。
坂の傾斜を緩和させるために道路を掘り込んだので、左右見上げる状態で全容はうかがえない。

間の宿・板屋を抜ける2.5kmほどの旧道は街道風情が残っている。

 

次から次へと馬頭観音や道祖神をはじめ石仏群が現れ、目を楽しませてくれる。

 

Navi90-5. 寄居集落センター(斜め左)→<旧道 : 650m / 9分>

 

旧道(県道185号)を左折すると湯殿山常夜燈を見つけた。信仰の誘いにも陸奥(みちのく)の匂いだ。
山桜が有名な與楽寺の参道には大きな地蔵尊が行き来する人を見守っている。 

10:15 「泉田一里塚」
 街道が国道294号に戻ったところに在るのが泉田の一里塚だ。西塚だけが保存されている。
江戸日本橋からは45番目になる。

 

Navi90-6. 平沢石材工業手前(斜め左)→<旧道 : 450m / 6分>

芦野から白坂までの国道294号線の道程は、何度となく長閑な旧道を歩くことができる。
寄居大久保集落に入ると、 地蔵尊や馬頭観音、二十三夜塔などの石仏群を目にする。

 

芝居「箱根権現躄仇討」で、滝口上野に父を殺された初花が使ったとされる清水が流れ出ている。
この「初花清水」に水を汲みに来た小父さんと暫し談笑、これからコーヒーを淹れるのだと云う。
瓢石(ふくべいし)も仇討話に関連している。
兄の敵滝口上野を追った飯沼勝五郎はこの地で躄(いざり)になって仇討を断念する。
その時、手慰みに彫ったのがこの瓢石である。 

 

Navi90-7. 国道294号合流後450m(斜め右)→<旧道 : 550m / 7分>

堂矢場集落へと旧道に入る。下野国最後の集落になる。
旧家の庭先に、「明治天皇山中御小休所」の石碑があったので家人に訊ねてみる。
明治14年、山形・秋田・北海道巡幸の際に、県境の峠を前に休息されたと云う。 

国道294号に戻ると崖上の地蔵尊と観音像に見守られて峠へと進む。 

「境の明神(玉津島神社) 」
 玉津島神社は奥羽側の住吉神社と並立している。
天喜元年(1053年)、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請とされ、峠神として街道とともに発展した。
明治39年、火災により類焼し昔日の面影を失ってしまっている

 

11:00 「下野陸奥国境」
 並立する二社の間が栃木県と福島県の県境の峠になる。ここからが陸奥(みちのく)となる。 

「境の明神(住吉神社) 」 
 文禄4年(1595年)、白河を支配していた蒲生氏が社殿を造営した。
現存するのは弘化元年(1844年)に建てられた祠だ。
並立する二社は、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰で祀られる。
実際、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島」、反対側を「住吉明神」としている。

 

11:20 「白坂宿」
 陸奥に入って最初の白坂宿には、本陣佐藤家をはじめ旧い遺構は残っていない。
秀吉が伊達正宗に命じて開いた集落は、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒の宿場になった。 

宿並みのほぼ中央に在るのが観音寺、戊辰戦争で戦死した大垣藩士の墓がある。

 

12:00 「朝日屋食堂」
 白河はご当地ラーメンが有名だ。白坂宿を過ぎると人気の朝日屋食堂が在る。
開店の11:30を目標にしたのだが適わず、10名程の席待ちの後に並ぶことになる。 

今日の街道めしは白河ラーメン。太めの手打ちのモチモチ縮れ麺にあっさりスープが絡んで美味しい。

Navi90-8. 小丸山の貯水池先(斜め右)→<旧道 : 500m / 6分>

12:50 「戊辰の役古戦場」
 慶応4年(1868年)、薩摩・長州・大垣藩などの兵を会津藩家老西郷頼母が迎え撃った白河口をの戦い。
南側に「長州大垣藩戦死六人之墓」、北側に「会津藩戦死墓」と松平容保公題字の「銷魂碑」がある。
街道はこの地で直角に右に折れる。初代白河藩主丹羽長重が町毎に設けた防御の鉤型だ。

Navi91. 九番町歯科クリニック(左折)→<国道294号>→セブンイレブン白河天神店 1.1km 13分

谷津田川を渡ると間もなく白河宿の江戸方入口になる。
レトロモダンなボンネットバスを見かけた。白河市内を循環する「こみねっと」だそうだ。

Navi91. セブンイレブン白河天神店(右折)→<国道294号>→常陽銀行白河支店 0.9km 11分

天神神社前で三度直角に折れた街道は、鷹匠町で鉤型に折れる。車列も鉤型に行く。

 

Navi92. 常陽銀行白河支店(右折)→<国道294号>→五十嵐歯科医院 0.4km 5分

 

13:30 「白河宿」
 大手町でも鉤型に折れると宿並みの中心部になる。
幕府が管轄する奥州道中最後の白河宿。その規模は、本陣1、脇本陣2、旅籠35軒と大きい。
旧い遺構はないものの、情緒のある家並みが所々見られる。
本陣芳賀家所在地の向かい側は屋台会館になっている。

 

Navi93. 五十嵐歯科医院(左折)→<国道294号>→女石追分 1.7km 22分

本町で左直角に折れた街道は東北本線のガードを潜って北上する。左手には小峰城だ。
やがて阿武隈川に至る。ここが白河宿の北の外れになる。 

阿武隈川を渡って右手に現れる「姫神社」は、皆鶴姫を祀る古社だ。
皆鶴姫は、平治の乱で敗れた源義朝の遺臣、吉岡家三兄弟の長兄の鬼一法眼の息女だ。

14:00 「女石追分」
 会津街道と仙台街道の分岐点は戊辰戦争の激戦地で戦死供養塔が建てられている。
奥州道中は、ここ女石追分で江戸日本橋から195kmの旅を終える
追分を直進すると会津街道、緩やかに右へ往くと仙台街道。ここから先は各藩の管轄となる街道だ。 

 

 江戸日本橋を発ったのは正月3日。延べ7日をかけて紅葉前の10月、鉢石宿(日光東照宮に)至る。
宇都宮追分に戻って奥州道中は延べ4日で白河関を越えて陸奥(みちのく)に入った。

芦野宿から情緒たっぷりの街道風情を堪能、国境の境の明神を詣でて白坂宿へ。
戊辰戦争の激戦地白河を幾度も桝方、鉤型を曲がって白河宿、そして女石追分に至った。
最後の行程は21.4km、5時間30分。小峰城を見上げて奥州道中の旅を終える。 


旧東海道・品川宿でBiz-Lunch「宝喜家」

2017-12-15 | Biz-Lunch60分1本勝負

 今日も品川橋を渡って南品川まで出張ってきた。北品川はネタ切れ気味だからね。
品川宿問屋場貫目改所跡の向かい側に「宝喜家」を見つけた。
どうも界隈のソールフード的な蕎麦屋の様だ。創業100年を越えるそうだ。
ひっきりなしに客が入り、当然ながら相席となる。 
"親子南ばん" は、そばの美味さは勿論、具たっぷり、ネギたっぷり、ボリュームあり。
マン満足の久しぶりの☆☆☆。距離がなければ週1通って良いなぁ。
ところで相席の大柄なお兄さん、カツカレー大盛に汗だくで奮戦中だ。 


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水曜日は家呑み派 「大吟醸 竹滴」

2017-12-13 | 日記・エッセイ・コラム

 今晩の食卓は純和風な感じですね。しからばこれを肴に今宵は家呑みなど。
小さなセラーの下段から取り出したのは  "大吟醸 竹滴"、福岡県宇美は小林酒造本店の酒。
淡麗、ほんのりと吟醸香、繊細な味わい。やや辛ですね。
ほんとは暑い頃に飲んだら良かったかな。今宵も美味しくいただきました。妻に感謝。


旧東海道・品川宿でBiz-Lunch「テオ」

2017-12-11 | Biz-Lunch60分1本勝負

 今日も北品川商店街を彷徨ってイタリアンの「テオ」。テーブル5卓の小さなお店だ。
今まで気付かずに通り過ぎていたけれど、なかなか美味しいパスタをたべさせてくれる。
シェフが一人で切り盛りするのだけれど、とても丁寧な仕事ぶりとお見受けする。
ランチの "アラビアータ" は、サラダ、コーヒー、デザート(今日はバニラアイス)が付く。
やや量が少なめで若い人には物足りないかな。女性にはお奨めですね。 
本格的なトマトソースに満足。また伺います。

     
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奥州道中紀行8 佐久山宿~大田原宿~鍋掛宿・越堀宿~芦野宿

2017-12-09 | 日光道中・奥州道中紀行

10:00 「佐久山宿」
 那須塩原から市営バスを2本乗り継いで佐久山宿に戻って来た。歩きだしは10時と遅い。
今朝もずいぶんと冷え込んでいたけれど、冬の澄んだ青空に那須連峰の雄姿が際立つ。

佐久山宿を抜けると直ぐに箒川を岩井橋でわたる。街道当時から橋渡りだったようだ。
川瀬巴水の木版画に「野州佐久山 岩井橋」という作品があると云う。
近々、近代美術館に観に行きたいと思う。 

       

岩井橋から箒川の河岸段丘を上がる途中で馬頭観音をはじめとする石仏群が現れる。
道は新しくなれど、ここが奥州街道であったことを石仏群が教えてくれる。 

      

湧水から続く田谷川は、県の天然記念物である糸魚(いとよ)の生息地とされている。
川の中島には聖徳太子の碑がある。周囲の川はなるほど澄んでいる。 

 
 

大田原市親園(ちかぞの)辺りは、旧くは八木沢と云って間の宿があったところだ。
この辺りには、長屋門や四脚門、大谷石などを用いた蔵を持った立派な屋敷が多い。 

 

10:40 「浦蘆(ほろ)碑」
八木沢間の宿の外れに湯殿神社、その鳥居前に「浦蘆(ほろ)碑」が覆堂に納められている。
文化9年(1812年)のある日、兵士の隊列が刀を持って槍を立て行進する蜃気楼が現れた。
通りがかりの甲州の僧がこれは何かと土地の者に訊ねたところ「浦蘆(ほろ)」だと答えたという。

そんな話を後に石に刻んで建立したのがこの碑である。が説明板を読んでもよく解らない。

 

浦蘆碑の斜向かいに立派な四脚門と2つの蔵を持つお屋敷、その敷地に「町初碑」がある。
碑には「此町初寛永四卯年」と刻まれている。町の起こりの年を石に刻んでいるそうだ。
歴史的価値が高いものとされ、市の記念物に指定されている。

Navi84. 神明町交差点(右折)→<国道400号~国道461号>→アブラヤパン店 0.9km 15分

 

神明町交差点を右に折れると薬師堂が在る。この辺りが大田原宿の江戸方入口だ。
寛政5年(1793年)再建とされる堂内には江戸中期の金剛力士像が2体(彫刻)ある。
境内の貞享元年(1664年)の建立の七重の塔も立派なものだ。

本堂の彫刻も此の通り美しい、其々が大田原市の有形文化財に指定されている。

11:30~12:30 「大田原宿」
 大田原は平家物語で屋島合戦の「扇の的」で著名な那須与一の出生地として知られる。
宿場の規模は本陣2、脇本陣1、旅籠42軒、残念ながら旧い遺構は見当たらない。 
宿並みの中ほどに在る「金灯籠」は文政2年(1819年)に有志により上町十字路に建立。
宿場の防火や町内安全、旅人の夜道の無事を祈願し建てられたものだ。
当時の物は太平洋戦争末期に応召、現在の物は昭和54年に商店街有志により再現された。 

Navi85. アブラヤパン店(左折)→<市道>→カメヤ生活館 0.1km 2分

 

街道は金灯籠交差点の一つ先で、寺町商店街へと左折、その後100mで右折と鉤状に進む。
この間に昭和28年創業の「岡繁」に立ち寄る。今日の街道めしは "オムビーフライス"。
特製オムライスに逸品のビーフシチューをトッピング、2倍おいしいと自画自賛の一皿だ。 

Navi86. カメヤ生活館(右折)→<市道>→斎藤川魚店 0.5km 6分

宿並みの外れに「大田原神社」、大田原藩によって創建されたこの地の総鎮守だ。
神社の参道登り口に大久保の木戸が設けられていた。ここが白河方の入口になる。 

Navi87. 斎藤川魚店(左折)→<国道461号>→河原交差点 0.2km 2分

国道461号に戻って蛇尾川(さびがわ)を渡る。
街道時代は橋渡しで流失時は人足による徒歩渡しだった。1832年からは舟渡しになったと云う。

Navi88. 河原交差点(左折)→<県道72号>→伊豆屋菓子店 19.6km 250分

12:50 「中田原一里塚」
 工事現場の誘導員さんに声を掛けられた。「一里塚はこっちだよ」ってね。
ちょうど工事区間で見逃すところだった。親切に誘導いただき写真を撮らせてもらう。 
格好を見て判るのかな。案外街道歩きの旅人は頻繁に行き過ぎるのかも知れない。 

大田原城下を抜けて、街道は長閑な田園風景の中を北上していく。

 

中田一里塚の先に八溝山地を越えて福島県棚倉地方へ抜ける棚倉街道の追分がある。
道標はすり減って読めないが、「之より左 奥殊道、之より右 たなくら」とあるらしい。
追分は
「紫衣事件」で流された沢庵と玉室が、其々の流刑地へと袂を分かった場所だ。

 

13:40 「練貫一里塚(不明)」
 日本橋から39番目になる練貫一里塚は何の痕跡もない。
所在が推測される辺りには、十九夜塔や永代常夜灯と書かれた道標がある。

 

 那須塩原市に入ると間もなく左手に樋沢神社が現れる。
後三年の役で陸奥平定に向かう源義家は、源氏の氏神である八幡神社を見かけて戦勝祈願したと云う。

 

14:30 「鍋掛一里塚」
 鍋掛愛宕峠の一里塚は片塚だけ残っている。日本橋から40番目の一里塚になる。
一里塚の脇、杉の森を進むと鍋掛神社が鎮座している。
愛宕神社、温泉神社、鶏鳥神社を合祀した旧鍋掛村の総鎮守である。

 

鍋掛宿の江戸方入口には清川地蔵尊がある。建立は延宝7年(1679年)と結構旧い。
清川地蔵は子育て地蔵として地元民の信仰が厚いそうだ。

14:40 「鍋掛宿」
 鍋掛宿は、那珂川を目前にした火の見櫓の在る静かな町並みだ。
その規模は本陣1、脇本陣1、旅籠23軒だ。本陣を担った菊池家は更地になっていた。
芭蕉はここで句を詠んでいる。
元禄2年(1689年)3月のことだ。
「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」、道すがら手綱をとる馬子作り与えた句と云われる。
町並みのほぼ中央に芭蕉句碑が立っている。

那珂川を昭明橋で渡る。谷は深い。江戸初期は徒歩渡り、後期は舟橋・土橋であった。

橋を渡ると直ぐに越堀宿になる。越堀宿は鍋掛宿とニ宿で一宿の役割を果たした。
難所の那珂川が川止めになることも多かっただろうから、両岸に宿場を置いたのだろう。 

      

14:50 「越堀宿」
 越堀宿の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠10軒、本陣藤田家をはじめ、やはり何も残っていない。

 

宿場の白河方入口は桝形になっていて、今でも県道72号は緩やかにクランクしている。
桝形前の浄泉寺境内には、黒羽藩主が自藩と他藩との境界を明確に示した境界石が残る。
文化10年(1813年)に何箇所かに建てたひとつだそうだ。

      

15:20 「寺子一里塚」
 日本橋から41番目の寺子一里塚は、東塚だけが残るが、美しい形状を保っている。

 

寺子橋で余笹川を渡る。街道当時は橋が流失した時は人足による渡しとなったと云う。
穏やかに見える余笹川は平成10年8月の那須水害で大きな被害を出している。
確か寺子橋も流されたはずだ。付近の電信柱には最高水位を示す赤い線が引かれている。 

街道は那須町に入る。栃木県最北の町、関東最後の町でもある。間もなく「みちのく」だ。
深く谷を削る川を渡り、尾根を越えての連続で結構なアップダウンを繰り返し北上する。 

 

黒川橋を渡る。下を流れるのは黒川だ。
街道当時も橋があったが、流失すると人足による渡しをしたそうだ。。

      

16:15 「夫婦石一里塚」
 夫婦石の一里塚は東塚だけが残っている。日本橋から42番目の一里塚になる。

 

芦野宿に向かって尾根を下っていくと、この先白河まで連れ添う国道294号と交差する。

芦野の宿並みが見えてきた。夕闇せまる山際にはスーパームーンが幻想的に美しい。

 

石造りの橋で奈良川を渡ると芦野宿に入る。江戸方の入口で迎えるのは大きな石地蔵尊だ。
街道は左直角に折れ、下野国最北の宿場はこの奈良川に沿って続いている。 

Navi89. 伊豆屋菓子店(直進)→<県道72号>→遊行庵食堂 1.0km 12分

16:30 「芦野宿」
 桝方を抜けて宿並みの中心部に入る。
左右の家の軒先には屋号が書かれた常夜灯が設置され、宿場らしい雰囲気を醸している。
旧くからの屋号を染め抜いた、魚屋さん、酒屋さんの淡い灯りが宿並みに美しい。
 

 

芦野宿の規模は、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒。関東最北の宿駅はすでに夕闇の中だ。
臼井本陣は何ら痕跡を残さず、代わりに武家屋敷平久江家で8日目の行程を終える。
佐久山宿から大田原宿、幾つもの深い川を渡り、鍋掛宿・越堀宿を経て歩いてきた。
関東最北の芦野宿までは28.9km、6時間30分の旅。白河までは約20kmを残すのみだ。