思考の踏み込み

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黄色8

2014-07-22 00:05:48 | 
さて、ゴッホの絵にはやがて黄色の中に暗い未来を暗示させる様な色が混ざりはじめる。

「カラスのいる小麦畑」


ゴーギャンとの関係性の破綻を機に、彼の繊細過ぎる神経は人間社会において "正常" といわれる基準を満たすことができなくなった。

アルルでの美しき日々もつかの間に、彼はこの世で生きる事を止めた ー 。


もし ー "黄色の精" か何かがいたとしたら、きっと嘆いたであろう。



"私の力は及ばなかった。彼を救うコトができなかったー 。"

だがゴッホは答えるはずである。

" そうじゃない。そうじゃないんだ。
たしかに私はあのアルルでの時代、黄色によって確かに生きているコトを実感していた。
生きる喜びを味わっていた。

その証を私は画によってこの世に刻み、遺す事ができた。

ー たしかに私は黄色によって救われたんだ! "



こんなコトはゴッホは語り残してはいないと?

言葉ではなく、彼の絵が、芸術が語っていることである。
人生という一瞬の火花の様な現象を、この不確かな現世に刻みつけ、永遠たらしめる。

ー 普通、それを成し遂げて世を去る事の出来る人間はごく僅かである。
その意味ではゴッホという、不幸の代名詞の様なこの画家は、極めて幸福な男であったとも言えなくもない。


黄色7

2014-07-21 09:20:11 | 
ゴッホについて、軽くふれるだけで進むつもりだったが、彼の魅力が中々そうもさせてくれないのでもう少し続ける。

ローヌ川の「星降る夜」

ゴッホが黄色ばかり描いた理由に、彼がアブサンという幻覚作用を成分に持つお酒を好んだ為だという説がある。

彼はアブサン中毒で、その為に色弱となり世界がそもそも黄色く見えていたというのである。

これはしかし正しくはないだろうと思う。彼の色彩感覚をみる限りにおいて、色弱という要素は当たらない。

ゴッホが黄色を多用した理由は、やはり既に述べてきた様に、彼が黄色の持つ "力" に傾倒していた ー そう見る方が実際に近いであろう。

ただゴッホがアブサン中毒だったのは有名な話だし、事実だとも思う。
多くの人はアブサンという安酒を飲んだくれて、ゴッホは心まで壊していったと思いがちだが、これも実はまったく違う。

私は以前、1920年代のアブサンを飲んだ事がある。
もちろん幻覚作用となる成分を抜いたモノであるが、年代的にゴッホが飲んでいた頃の味に近いと思われるものである。

その美味しさはちょっと言語を絶した比類なきモノであった。
アブサンは蒸留酒であるから、ワインの様に寝かせる事で変質はしない。

従って私が飲んだアブサンオールドは当時の味そのままだったということであり、それは幻覚作用などなくても中毒性を呼び起こしかねないほどのクオリティであったと言える。

ヴィクトル オリヴァ「アブサンを飲む男」

それほどに今でもその味の記憶が鮮明に残っている。
ゴッホだけでなく、ロートレックやドガ、モネ、ピカソまで多くの芸術家がこの酒を好んだという。
美を愛する者たちに相応しい名酒であるが、これが当時の安酒であったとはなんと羨ましい時代であることか。

現代ではペルノやリカールと名を変えて販売されているが、当然比べるべくもない。

まだ世界には当時のモノが多少残っている様だが、そのうちカスクドールのマスターにお願いして仕入れて貰おうと企んでいる。これは余談。




黄色6

2014-07-20 00:24:44 | 
フィンセント ファン ゴッホというこの、まるでロブマイヤーのシャンパングラスの様に薄く繊細で、しかし極めて美しい内面を抱えた男にとっては、俗世間というものはずいぶんと住みずらい世界であっただろう。



彼は絵を描く事以外にそこから逃れ、自らの魂を安らげる手段を持たなかった。
しかしその唯一の拠り所である絵ですら、彼の生前はまったくその "世間" に評価されることはなかった。

やがて彼は自殺という悲しい結末を迎えるのだが、本来現世には在り続ける事すら難しい様なこの男が、死を選択せざるを得ないギリギリの段階まで、絵を描き続けられたということは、ひとえに弟テオの存在による。

テオが存在してくれて、ゴッホに寄り添い続けてくれた事はゴッホにとってこの世での僅かな幸いの一つだったが、後世の我々にとっても幸いであった。

彼がいなければゴッホは創作を続けられなかったし、その作品も残らなかったであろう。

そのテオに向けてゴッホは多くの手紙を書いているが、その中に黄色の絵の具を送ってくれ、というモノがある。

これはゴッホのその短い生涯におけるささやかな明るい時代、アルルにおける希望の光がさしていた頃の傾向である。

彼はこの時期、ずいぶんと黄色を描いている。

「夜のカフェテラス」アルル時代。黄色を美しく引き立てる為の青の色使いが見事である。



黄色の持つ力には不思議な要素があり、不安を軽減させる効果があるのだという。

黄色い紐とそうでない紐を子供に飛び越えさせると、明確に黄色い方が記録が伸びるという。

しかしこれは不安の軽減というより、意欲の増大とみる方が正確な様に思う。どちらも作用としては同じだが、黄色の本質をつかまえるにはハッキリ区別しておくべきかと思う。

ゴッホの不安定で、純粋過ぎる精神では夜を迎える事さえ時に不安であっただろう。
その事は彼が一日で一枚描いてしまうという作画スピードの速さからも想像できる。

彼の独特のタッチにはそれがよく表れていて作品の魅力になっている。
そのスピードはあるいは黄色の持つ力によって支えられたのかもしれない。

黄色5

2014-07-19 01:21:11 | 
さてさて ー もし私が絵描きであったとして、ルノワールの様に "黄色を描きたい ー " と思ったとしたら何を画題に選ぶだろうか。

黄色は生命力を表す色だという。
このことは意外と知られていない。

人が黄色に対して持つイメージは民族や文化によって変わったりするが、生物界ではどうやら明確な様である。

単純に強い生物や、生命力が旺盛な幼体に黄色がしばしば見られることは、この色と生命力との関係性を示唆している。

黄色を描きたいという画家は ー 畢竟、この生命力と向き合う事になる。

例えば虎。




画題としては使い古されたモノではあるが、黄色を主にして描いた作品はどれだけあるだろうか。

虎の黄は色よりもやはり、虎そのものが主役になりかねない。
それほどに生物としての存在感が強い。

キリンも黄色い動物である。
ライオンさえ、時に蹴り殺される事さえあるほどでやはり "強者" の範疇に入る。
だがキリンを描いた名画とはお目にかかった事がない。

なぜだろう?
きっと構図のバランスが難しいからであろう。
それよりも、幻獣、霊獣として東アジアで描かれた "麒麟" の方が意匠として素晴らしい。



だが霊獣 "麒麟" は五色の体色を持つといわれ、必ずしも黄色は強調されない。


向日葵はどうだろうか。

この、常に太陽に向かって咲く花は明るくイキイキとしていて、やはり力強い。
だが画題として選べば、どうやったってゴッホの二番煎じにならざるを得ない。
なにもゴッホの "ヒマワリ" に挑戦してまでこの画題でもって黄色に取り組む事はあるまい。





黄色4

2014-07-18 07:34:03 | 
アマランスはなぜ青でなく赤だったのかー?

こう考えてみるだけで、近代人が色彩感覚までそれまでの前近代のモノと変質していった可能性を考えてみる必要が見えてくるが、それは単に交感神経と副交感神経の問題であるかもしれず、この疑問はただの思考の遊びに終わるかもしれないが、今回のテーマはほぼ思考上の "踏み込み" までいかない、遊びに近い内容なのでそれもまた可として続ける。

例えばルノワールは語っている。

" ー 私は赤を響かせたい!
うまくいかないのなら、効果の出るまで赤を足し、他の色を補う… "



この言葉にはルノワールが対象と、あるいは "赤" そのものと、完全に溶け合いたいという表現者としての純粋極まりない叫びが良く現れている。

彼は近代人であるが、その枠にとどまらない真の芸術家の一人といえよう。


世に表現者と呼ばれる人は腐るほどいるが、そのほとんどはルノワールの様に表現したい内容を持たない者がほとんどである。

( 彼らはルノワールの言葉に当てはめるとすれば、私は売れたい!目立ちたい!という程度であり、全存在を懸けて表現したい内容など持っていない。
そういう者の作品は絵であれ、音楽であれ、演技やお笑いであってさえ、その中身の薄さはその表現にそのまま表れる。…これは余談。)




さて ー 青い空気感を纏って過ごした日々を少し変えたい、なんとなくそう思ったとき、自然とある色が浮かんだ。

ー 黄色である。


Yellow Diamond。美し過ぎる。

ある色を見つめておいて、真っ白な背景に目を移すと何もないはずなのに違う色が浮かび上がる。

これを補色の原理というが、青の補色は黄色である。
(正確には光の補色が青と黄。色の補色は青とオレンジとなる。)

なぜ補色などという生理現象が起こるのかはよくわからないが、血圧が常に高低の調整をはかる機能がある様に、そこには生命の持つバランス感覚が認められる。

色一つとっても、深く思考を踏み込ませていけば、命の持つ果てしない世界が姿を現しはじめる ー 。

その、黄色について少し触れてみようというのが今回のテーマなのだが、ついついこの "青" という好きな色について深入りし過ぎて、そこからさらに派生して "赤" についてや、色彩論だったり芸術論に飛びかけてしまったのでここから修正。