思考の踏み込み

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黄色3

2014-07-17 06:05:30 | 
アマランサスという花はこの、空想上の "常世の花" から名前をとっているものだが、ふと疑問に思う事は近代人が空想を描き、"非所有" への憧れを託した象徴に "青" を選択した事に対して、古代人はなぜ "赤" だったのか?

アマランサス。

これは単に未開人や子供ほど赤などの原色を好むとかいった統計と同質だとみるのは、やや思考として雑な気がする。

近代とそれ以前では明らかな表現世界における隔絶がある。

それはなにか?

絵画における写実性で考えるとわかりやすい。
写実以前の世界の、一見して子供の様な絵を、技術の稚拙によるものだと思い込んでいるうちは現代芸術はけして力強い作品を生み出せないだろう。



中世の富士山図。

横山大観 富士山図。


上のモノは写実性など皆無である。この写実性という意味で言えば、例えば同じ富士山の表現でいうと、北斎も大観も、富岡鉄斎でさえも近代人であることから抜け出し得てはいない。

北斎は構図の名人。大観は技巧の達人。鉄斎は儒者として境地の到達地点が高い。しかし富士山図に限ってはいずれも対象との完全な一体化はみられない。

葛飾北斎 凱風快晴。

富岡鉄斎 富士山図。



音楽においても、例えばクラシック音楽という同ジャンル内においてさえ、19世紀の後半くらいから明らかに、この写実的な構成になってくる。

ここで言う写実性とは何か?

それは対象と溶け込めきれない、理性が隠しきれない状態である。

例えばマーラーやリストの音にはバッハやモーツァルトの様に、音そのものに溶け込んでいく様な忘我性はない。
常に対象と対立した理性がつきまとう。

芸術において、これが目につくうちは邪魔くさく感じるだけである。少なくとも私はそう思う。
(マーラーの「復活」などは好きだし、リストにも名曲は多いが。)