思考の踏み込み

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過去帳其の二 3

2014-07-05 06:17:38 | 日記
自己の生存の為の自己主張の本能は他の社会的生物においては、生殖活動に関わる事に限ってのみ強く見受けられる。



ところが人間は必ずしもそうではない。
もちろんそれも根底には性エネルギーが認められる以上、同じ事だともいえるが、他動物の様に単純にはいかない事は間違いがない。

ここでいう根底の性エネルギーとは、単に性欲の事を指すわけではない。
根底部分まで行けば "性" は "勢" でもあるし、"精" でもあり、"生" そのものでもある。それは本来質として "聖" として存在する。

それは複雑に昇華し、変化して形を変えて姿を現す。
鹿が角を蓄える如く、孔雀が煌びやかな羽根を拡げるが如く、様々に自己の表現をして見せ華やかでかつまた騒々しい。

その騒がしさや単純にいかない理由を辿るとどうも "立姿" という問題が出てくると思われるが、精神や意識と人体の構造と立姿の関係性はここでは触れるつもりはない。
(この事は「ブッダ」で書いた。)

要は人間とは根本的に矛盾を抱えた生物であるということである。

その矛盾を柔らげ、調整、統合しようとして道徳であったり宗教や哲学というモノが生まれた。

多くの人はそうした人類の知恵によって、それなりに社会性にうまく帰属し、当人がどう感じているかどうかは別にせよ、人生は辛いとかなんとかいいながらも実はけっこう幸せに暮らしているものである。



その一方で世の中には必ずしも社会にうまく帰属出来ない者達がいる。

理由は様々であろうが、本質をついてしまえば全ては当人の弱さに因を為している事が多い。

明らかに自分もこの後者の系譜に入るケースである。

結局は孤独を選択する者は己の弱い部分を必死で護ろうとしているだけなのである。
誰しも他人に自己の弱い部分をつつかれたくはない。
いや、自分自身でさえその部分を見たくない。
それどころかそもそも向き合おうともしない。
意識はその部分を否定し、都合の良い自己像を創り上げる ー 。