思考の踏み込み

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前田智徳33

2014-08-29 01:29:37 | 
朝、目覚めるということは既に新しい人生を迎えた事とかわらない。

ところが深い眠りに入れないと、睡眠時間ばかりを貪る様になる。
二度寝というのは抗し難い誘惑だが、これは分散の快である。

まだ寝たいところでも目が覚めたらパッと起きる。
目が覚めたということは凝縮が最も高まったからであるから、そこで起きる事が最も理想的なのである。




実際二度寝をすればかえって身体は強張り、腰は弱くなっていくだけだ。

朝起きてむしろ疲れているというのは、睡眠に入る前に深い眠りに至れない状態であったとあう問題もあるが、睡眠自体が本来その状態を回復させる作用がある以上、多くの場合は起きる段階での問題である事が多い。


それほどに貪られた睡眠は、身体を分散的にさせてしまう。
(睡眠が外的な一点を特別に必要としない理由は立姿ではないからだが、このことは「ブッダ15」を参照されたい。)


食も同じである。

もうお腹が満ちているのに食べる。
それはただの分散の行為である。

しかし、食においてさえ、身体が食を要求する凝縮の要素が高まるのを待ってから食べれば、そこには統合感が生まれるものである。



そこに統合感という身体感覚が生まれる以上は、食事における "作法" というものが大切にされてきた理由もわかる。

つまり、作法とは身体の統合を導き出しやすくする "型" であって、けして単なるしきたりや風習であるとは限らない。

なぜ我々は「いただきます。」というとき、両手を合わせるのか。

この "合掌" こそ、統合を導く為の最も有効な身体技法だからである。
それは集中を高める効果を持つ "型" であり、人が "祈る" とき ー はるかな古来から無意識にとってきた "型" でもある。

いつしかそれは順序が逆になり、祈りや信仰のとき合掌を組む様に思われているが、そうではない。

初めにあったのは身体の変化なのである。



そしてその左右の手の統合感覚と、食と身体が触れ合ったときの統合感覚が同じ様に感じるまでになってくれば、食の感性はまったく違う次元で楽しめるようになる。


本当の意味で味わうというのはそういうことである。
そしてそれはやはりある一定の段階で切り上げることをしなければ、凝縮は崩れ分散へと向かう。

腹八分というのはすでに過ぎている。
七分、いや六分で十分だろう。
せっせと時間通りに一日三食も摂る様になった近代人はそれだけですでに過ぎている。

それ以前の人々は一日せいぜい二食、それもはるかに現代人より粗食で、それでいてはるかに激しい労働をこなしていた事を栄養学者はどう説明するのか。