思考の踏み込み

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前田智徳12

2014-08-08 00:34:37 | 
原爆の惨禍から立ち上がろうともがく広島市民にとって、希望への光であった広島カープだが ー その道のりはけして平坦なモノではなかった。

いかんともし難いのは今も昔も資金不足。市民球団の宿命であろう。
(現在は経営は黒字なのだが…。)


プロ野球加盟の一年目、カープはリーグ加盟金すら払えず、そのしわ寄せは選手の給料へと向かう。

選手達は寮の光熱費すら払えず、遠征となれば満員列車の通路に新聞紙をひいて寝ながらの移動であった。



一年目の戦績は41勝96敗。勝率は三割を切った。

その余りの弱さと、選手にろくに給料すら払えない現状に球団創設二年目にして早くも解散、もしくは合併という話が持ち上がる。

実際に当時の大洋ホエールズとの合併が合意に達していたともいわれる。

その、合併が決まろうとする重役会議の場所に、噂を聞きつけた広島市民が押し寄せ、叫んだー 。

"頼むけぇカープをなくさんでくれ!"

食うのにも困る様な時代に、金を払って野球を観たい、それほどにカープは広島市民にとって心の支えであった。

モノに溢れ、飽食の世を生きる現代人がどこまでこの人々に共感する事ができるだろうか。

彼らの叫びは聞き届けられ、合併は保留されたが、資金不足ばかりはどうしようもない。

そこで考案されたのが有名な "樽募金" である。
戦争によって身も心もズタズタにされた人々が、わずかな金を持ち寄っては樽に入れていった。



それはカープと市民の絆をあらわす象徴であった、と当時を知る者は語る。

お陰でなんとか資金不足はギリギリでクリアし、球団の存続が確定した。

こうして人々の希望の支えとなり、復興のシンボルとして闘い続けた弱小球団はついに栄光の時を迎える。

だがそこに辿り着くまでには20年以上の歳月がかかった。

1975年、広島カープはついに悲願の初優勝を果たしたのである。


ー 原爆という人類がかつて味わったコトのない悲劇から這い上がり、懸命に生きて、生き抜いた人々にとってこの優勝はどれほどの喜びであったであろうか ー 。

私は、想像しただけで涙が溢れてきそうである。

その喜びは優勝を決めた試合でのお立ち台、感涙にむせんだ広島出身、山本浩二の言葉に凝縮されている。



" ー もう何もいらない!もう十分です。"



その夜、広島の繁華街流川は広島中の人間が繰り出したのではないかと思われるほどに、盛り上がったという。

その夜の風景は今や広島の伝説として、語り草となっている ー 。